允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと))は、仁徳天皇と、嫉妬深い皇后、磐之媛命(いはのひめのみこと)との間に生まれた第四子である。同母の兄には、去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)(履中天皇)、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)、瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと)(反正天皇)がいる。異母兄弟に、大草香皇子(おほくさかのみこ)と幡梭皇女(はたびのひめみこ)がいる。住吉仲皇子は、去来穂別天皇が皇妃(みめ)黒媛(くろひめ)を娶るとき、結婚式の日取りを伝える使者として赴いた折、まぎれて姦通している。「太子(ひつぎのみこ)」、去来穂別皇子の知るところとなり、太子を殺そうと反乱を起こしたが逆に殺されている。
この反乱を平定して「皇太子(ひつぎのみこ)」の去来穂別皇子は晴れて即位して天皇となった。履中天皇である。そして、二年正月に、その次の弟の瑞歯別皇子を「儲君(ひつぎのみこ)」としている。六年三月に天皇は亡くなり、「皇太子(ひつぎのみこ)」の瑞歯別皇子が、次の年の正月に即位している。反正天皇である。ところが、五年正月に崩御している。
短命の天皇が2代続いている。その前の仁徳天皇は仁徳八十七年に亡くなっている。去来穂別皇子が「皇太子(ひつぎのみこ)」になったのは仁徳三十一年正月、「年十五」であった。履中天皇が崩御した履中六年に、「年七十」と記されている。年齢の記述は日本書紀のなかでも計算違いがあり、古事記とあわせても相違がある。ざっくり言って、年を重ねてから即位し、短い在世となったということであろう。兄弟で継嗣しているので、短い在世が2代重なった。その後をうけて、允恭天皇が即位するわけであるが、雄朝津間稚子宿禰皇子は、群卿の薦めに従わず、なかなか即位しなかった。
爰に群卿(まちきみたち)、議りて曰(いは)まく、方(まさ)に今、大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)の子(みこ)、雄朝津間稚子宿禰皇子と大草香皇子とまします。然るに雄朝津間稚子宿禰皇子、長(このかみ)にして仁孝(ひとをめぐみおやにしたがふみち)にまします」といふ。即ち吉き日を選びて、跪(ひざまつ)きて天皇の璽(みしるし)を上(たてまつ)る。雄朝津間稚子宿禰皇子、謝(さ)りて曰はく、「我が不天(さきはひなきこと)、久しく篤(おも)き疾(やまひ)に離(かか)りて、歩行(ある)くこと能はず。且(また)我(やつかれ)既に病を除(や)めむとして独(ひとり)奏言(まを)さずして、而(しか)も密(ひそか)に身を破(やぶ)りて病を治むれども、猶ほ差(い)ゆること勿し。是に由りて、先(さき)の皇(みかど)、責めて曰はく、『汝、病患(やまひ)と雖も、縦(ほしきまま)に身を破れり。不孝(おやにもたばぬこと)、孰(いづれ)か茲(これ)より甚しからむ。其れ長(このかみ)に生(い)けりとも、遂に継業(あまつひつぎしら)すこと得じ』とのたまふ。亦我が兄(いろえ)の二(ふたりはしら)の天皇、我を愚(おろか)なりとして軽(かろみ)したまふ。群卿、共に知れり。夫れ天下(あめのした)は、大きなる器(うつはもの)なり。帝位(みかどのくらゐ)は鴻業(おほきなること)なり。且民(おほみたから)の父母(かぞいろは)は、斯れ則ち賢聖(さかしきひと)の職(つかさ)なり。豈(あに)下愚(をさなきひと)任(た)へむや。更に賢(さか)しき王(きみ)を選びて立てまつるべし。寡人(おのれ)、敢へて当らじ」とのたまふ。群臣(まへつきみたち)、再拝(をが)みて言(まを)さく、夫れ帝位(みかどのくらゐ)は、以て久(ひさ)に曠(むな)しくあるべからず。天命(あまつよさし)は、以て謙(ゆず)り距(ふせ)くべからず。今、大王(きみ)、時を留め衆(もろもろ)に逆(さか)ひて、号位(なくらゐ)を正しくしたまはずは、臣等(やつかれら)、恐るらくは、百姓(おほみたから)の望(のぞみ)絶えなむことを。願はくは、大王、労(いたは)しと雖(いふと)も、猶ほ天皇位(あまつひつぎ)即(しろしめ)せ」とまをす。雄朝津間稚子宿禰皇子の曰はく、「宗廟社稷(くにいへ)を奉(う)くるは、重き事なり。寡人(おのれ)、篤(おも)き疾(やまひ)して、以て称(かな)ふに足らず」とのたまふ。猶ほ辞(いな)びて聴(ゆる)したまはず。是に、群臣、皆固く請(まを)して曰(まを)さく、「臣(やつかれ)、伏して計(はかりみ)るに、大王、皇祖(みおや)の宗廟(くにいへ)を奉けたまふこと、最(もと)も宜称(かな)へり。天下の万民(おほみたから)と雖も、皆宜(よろ)しと以為(おも)へり。願はくは、大王(きみ)、聴(ゆる)したまへ」とまをす。
元年冬十有二月(しはす)に、妃(みめ)忍坂大中姫命(おしさかのおほなかつひめのみこと)、群臣の憂へ吟(さまよ)ふに苦(たしな)みて、親(みづか)ら洗手水(おほみてみづ)を執(まゐ)りて、皇子の前に進む。仍りて啓(まを)して曰(まを)さく、「大王(きみ)、辞(いさ)ひたまひて位に即(つ)きたまはず。位空しくして、既に年月を経ぬ。群臣(まちきみたち)百寮(つかさつかさ)、愁へて所為(せむすべ)知らず。願はくは、大王、群(もろ)の望(おせり)に従ひたまひて、強(なまじひ)に帝(みかど)の位(みくらゐ)に即(つ)きたまへ」とまをす。然るに皇子、聴(ゆる)したまはく欲(ほり)せずして、背(そむ)き居(ま)して言(ものものたま)はず。是に、大中姫命、惶(かしこま)りて、退かむことを知らずして侍(さぶら)ひたまふこと、四五剋(よときいつとき)を経たり。此の時に当りて、季冬(しはす)の節(をり)にして、風亦烈(はげ)しく寒し。大中姫の捧げたる鋺(まり)の水、溢れて腕(たぶさ)に凝(こ)れり。寒きに堪へずして死(みう)せむとす。皇子、顧みて驚きたまふ。則ち扶(たす)け起して謂(かた)りて曰はく、嗣位(ひつぎのくらゐ)は重き事なり。輙(たはやす)く就くこと得ず。是を以て、今までに従はず。然るに今群臣の請ふこと、事理(ことわり)灼然(いやちこ)なり。何ぞ遂に謝(いな)びむや。爰に大中姫命、仰ぎ歓びて、則ち群卿に謂(かた)りて曰く、「皇子、群臣の請(まを)すことを聴さむとしたまふ。今天皇の璽符(みしるし)を上(たてまつ)るべし」といふ。是に、群臣、大きに喜びて、即(そ)の日に、天皇の璽符(みしるし)を捧げて、再拝みて上る。皇子の曰はく、「群卿、共に天下の為に寡人(おのれ)を請ふ。寡人、何ぞ敢へて遂に辞(いな)びむ」とのたまひて、乃ち帝位(みかどのくらゐ)に即(つ)きたまふ。(允恭前紀~允恭紀元年正月)(注1)
筆者は、日本書紀は、漢籍をアンチョコにして日本人が書いたものと考えている。ヤマトコトバの頓智や洒落が乱発されるものを、中国人が書こうはずはない。したがって、漢文風に書いてあるものは、いわゆる読み下し文で記されてはじめて理解されるものとなる。読み方ひとつでどの程度の理解なのか、研究者の資質、技量がばれてしまう。原漢文を引いていきなり解釈へ進もうとする姿勢は、およそ“読む”ことに当たらない。
ここで、群卿たちはみなで議ったうえで、候補者2名のうち、総意として雄朝津間稚子宿禰皇子に天皇に即位してもらおうとしている。誰を天皇に選ぶかについては、時として、その当時の豪族間の勢力争いが反映される。逆にいえば、争い合う場として、お世継ぎ事情が存在する。多少血生臭いだけで、現代の民主政に衆議院の解散、総選挙と同じことである。ところがここでは、「群卿、議之曰、」とだけあって、どの豪族に勢いがあるのかさえ不明である。異議があるわけではなく、闘争に巻き込まれる可能性もまったくない。けれども雄朝津間稚子宿禰皇子は断っている。群卿は拝み倒してでも天皇になってもらおうとしている。さらにぐだぐだ自分は病気だからなどと言って嫌がっている。対して群卿は、ほかに選択肢はないと言って就任要請を受諾するよう迫っている。
天皇になりたがる人がいて困ることが多いなか、天皇になりたがらなくて困る事例である。群卿たちは礼節ある振る舞いでお願いしている。「即選二吉曰一、跪上二天皇之璽一」。それでも応じない。問答を見てみる。
群卿:方今、大鷦鷯天皇之子、雄朝津間稚子宿禰皇子、与二大草香皇子一。然雄朝津間稚子宿禰皇子、長之仁孝。
雄朝:我之不天、久離二篤疾一、不レ能二歩行一。且我既欲レ除レ病、独非二奏言一、而密破レ身治レ病、猶勿レ差。由レ是、先皇責之曰、汝雖レ患レ病、縦破レ身。不孝孰甚二於茲一矣。其長生之、遂不レ得二継業一。亦我兄二天皇、愚レ我而軽之。群卿共所レ知。夫天下者大器也。帝位者鴻業也。且民之父母、斯則賢聖之職。豈下愚之任乎。更選二賢王一宜レ立矣。寡人弗二敢当一。
群臣:夫帝位不レ可二以久曠一。天命不レ可二以謙距一。今大王留レ時逆レ衆、不レ正二号位一、臣等恐、百姓望絶也。願大王雖レ労、猶即二天皇位一。
雄朝:奉二宗廟社稷一重事也。寡人篤疾、不レ足二以称一。
群臣:臣伏計之、大王奉二皇祖宗廟一、最宜称。雖二天下万民一、皆以二為宜一。願大王聴之。
押し問答の繰り返しである。最後の頼みの綱は、奥さんに口説いてもらうことである。先帝が亡くなってから1年11か月後のことである。
大中:大王辞而不レ即レ位。々空之、既経二年月一。群臣百寮、愁之不レ知二所為一。願大王従二群望一、強即二帝位一。
雄朝:……(然皇子不レ欲レ聴、而背居不レ言。)
旧暦の冬12月に、おそらくは浄めの手洗いの水を金鋺に盛って進み、天皇に即位してほしいと言っている。皇子は背を向けて答えず、奥さんも退かないでそのまま1時間経過した。寒風が吹いて、彼女の持っていた鋺の水が手にかかって手が凍った。そのまま凍死しそうになったのを、皇子は振り返って見て驚いた。救命救急行為に及び、今、群卿の言っていることのまったくもって明らかであることに気づいた、と言っている。すると、すぐさま、彼女は指示を出し、その日のうちに即位の運びとなった。
皇子はどうして突然、これまで度重ねて要請されては断り続けてきた群卿の言い分を、急転直下、尤もなことだ、歴然としている、明らかなことである、と考えを改めるようになったのか。それがこの話の主題、焦点、眼目である(注2)。
皇子(允恭天皇)は、何らかの呪縛に囚われていた。自分が病弱であって、前に天皇の位に就いた兄2人が、動物的事情で短命政権に終わっている。自分が就いてもすぐ死ぬであろうと考えていたらしい。群卿たちに迷惑がかかる。そんなに強く推薦してくるのは、何か大きな誤解、勘違いがあるのではないかと思っている。
第一義的、表面的にはそうかもしれない。ただし、それは、一定の年齢に達した中高年には当たり前のことである。群卿は承知のうえで推薦している。仁徳天皇にはもうひとり、妃腹の大草香皇子がいるが、長幼の序、「仁孝」の道からして、ふさわしいのはあなたですと迫っている。
雄朝津間稚子宿禰皇子は、そんなことはなかろうと思っている。若い時、その病弱について、父親の仁徳天皇から、「不孝」者であると言われた。また、兄の履中・反正天皇から「愚」か者と「軽」んじられてきた。皆も知っていることではないか。他の「賢聖」な人を選んだらどうかというのである。
対する群卿は、空位が続くのは良くないことだし、並び順を守らないことがあると、周りに示しがつかないだろうと説いている。天皇位というのは、行列をまもるべきお店屋さんのようなものであったらしい。以下、上に記した押し問答が繰り広げられている。どうにも決まらないので、切り札として登場しているのが、妃(みめ)の忍坂大中姫命である。手を清めて儀式に臨んでほしいと鋺を持ち出している。女に迫られると弱いから、そっぽを向いてだんまりを決め込んだ。クライマックスは次の一文である。
大中姫の捧げたる鋺(まり)の水、溢れて腕(たぶさ)に凝(こ)れり。寒きに堪へずして死(みう)せむとす。
そこで、皇子は、「今、群臣の請ふこと、事理(ことわり)灼然(いやちこ)なり。」となっている。今までは気づかなかったが、水が凍って死にそうになるのを目の当たりにして、目が覚めたと言っている。群臣の言っていることの意味が明らかであることがわかったというのである。彼の呪縛は根が深かったようである。
履中天皇時代に、神意が語られ悪いことが起こる前兆とされる記事がある。
五年の春三月の戊午の朔に、筑紫に居(ま)します三(みはしら)の神、宮中(おほみやのうち)に見えて、言(のたま)はく、「何ぞ我が民を奪ひたまふ。吾、今、汝(いまし)に慚(はぢ)みせむ」とのたまふ。是に、禱(いの)みして祠(まつ)らず。秋九月の乙酉の朔壬寅に、天皇、淡路嶋(あはぢのしま)に狩したまふ。是の日に、河内飼部(かふちのうまかひべ)等、駕(おほみとも)に従(つか)へまつりて轡(おほみまのくち)に執(つ)けり。是より先に、飼部の黥(めさきのきず)、皆差(い)えず。時に、嶋に居します伊奘諾神(いざなきのかみ)、祝(はふり)に託(かか)りて曰はく、「血の臰(くさ)きに堪へず」とのたまふ。因りて、卜(うらな)ふ。兆(うらはひ)に云はく、「飼部等の黥の気(か)を悪(にく)む」といふ。故、是より以後(のち)、頓(ひたぶる)に絶えて飼部を黥(めさき)せずして止(や)む。癸卯に、風の有如(あまひ)に声(おと)大虚(おほぞら)に呼(よば)ひて曰く、「剣刀(つるぎたち)太子王(ひつぎのみこ)」といふ。亦、呼ひて曰く、「鳥往来(かよ)ふ羽田(はた)の汝妹(なにも)は、羽狭(はさ)に葬(はぶ)り立往(た)ちぬ」といふ。汝妹、此には儺邇毛(なにも)と云ふ。亦曰く、「狭名来田蔣津之命(さなきたのこもつのみこと)、羽狭(はさ)に葬(はぶ)り立往(た)ちぬ」といふ。俄にして使者(つかひ)、忽に来りて曰(まを)さく、「皇妃(みめ)、薨(かむさ)りましぬ」とまをす。天皇、大きに驚きて、便ち駕(おほみま)命(たてまつ)りて帰りたまふ。丙午に、淡路より至ります。
冬十月の甲寅の朔甲子に、皇妃を葬りまつる。既にして天皇、神の祟(たたり)を治めたまはずして、皇妃を亡(ほろぼ)せることを悔いたまひて、更に其の咎(とが)を求めたまふ。或者(あるひと)の曰さく、「車持君(くるまもちのきみ)、筑紫国に行(まか)りて悉(ふつく)に車持部(くるまもちべ)を校(かと)り、兼ねて充神者(かむべらのたみ)を取れり。必ず是の罪ならむ」とまをす。天皇、則ち車持君を喚(め)して、推(かむが)へ問ひたまふ。事既に実(まこと)なり。因りて、数(せ)めて曰はく、「爾(いまし)、車持君なりと雖も、縦(ほしきまま)に天子(みかど)の百姓を検校(かと)れり。罪一(ひとつ)なり。既に神に分(くば)り寄(あ)てまつる車持部を、兼ねて奪ひ取れり。罪二(ふたつ)なり」とのたまふ。則ち悪解除(あしはらへ)・善解除(よしはらへ)を負(おほ)せて、長渚崎(ながすのさき)に出(いだ)して、秡へ禊がしむ。既にして詔して曰はく、「今より以後、筑紫の車持部を掌ること得じ」とのたまふ。乃ち悉に収めて更に分りて、三(みはしら)の神に奉りたまふ。(履中紀五年三月~五月)(注3)
神意はひとつひとつ表明され、ひとつひとつ現実のこととなっている。筑紫の三神を祈禱だけして祭祀をしなかったことは、すべての凶事を引き起こす通奏低音となって響いている。黥面の血の臭いのを嫌うことは、飼部の入れ墨をやめることで解決される(注4)。大虚にうなりをあげる音の、「剣刀(つるぎたち)太子王(ひつぎのみこ)」は不明である。「鳥往来ふ羽田の汝妹は、羽狭に葬り立往ちぬ」、「狭名来田蔣津之命、羽狭に葬り立往ちぬ」(注5)は、皇妃の薨去のことであった。そして、天皇は、神の祟りを治めなかったことを悔い、神の怒りの原因究明にのり出した。すると、筑紫国での車持君の充神者(神戸)への圧力が原因と認められ、車持君に処分を下し、祓え(悪解除・善解除)をして浄め、車持部を三神に再び配分して奉っている。
それですべて解決したかと言えば、結局、履中天皇は翌年亡くなっている。さらに、継いだ反正天皇も5年後に亡くなっている。神の祟りは残っていると見るべきであろう。それは何か。収拾していない「剣刀太子王也。」である。
「剣大刀(つるぎたち)」は枕詞である(注6)。万葉集中では、それがかかる語は、「身に添(副)ふ」(万194・217・2637・3485)、「磨(と)ぐ」(万3326・4467)、「斎(いは)ふ」(万3227)、「名(な)」(万616・2499・2984)、「己(汝)(な)」(万1741)である。剣や大刀は、身に添えて佩くもので、砥石を使って磨いでおくもので、大切にして斎うものであり、また、刀(かたな)の刃(な)に通じるものだから、ナ(名、己、汝)にかかるとされている。
枕詞とされてはいない例には、万478・604・804・2498・2635・2636・3240・3833・4094・4164の例がある。そんななか、神の声のように記されている「剣刀太子王」というかかり方は不自然である。何を表そうとしているのか。その答えこそ、大中姫命の凍った腕を介抱しているときに、雄朝津間稚子宿禰皇子がアハ体験してわかったことである。文字通り氷解している。
剣大刀は、諸刃(両刃)の剣のことである。うまく使えば利用できるが、身自らも傷つけてしまうこともある。気をつけなければならない。だから、実用とするよりも、脅しのために見せつけることが一番有効な用い方である。そして、剣の特徴の両刃については、刀(かたな)の特徴の表現が通用しない。刀の場合、刃は片側に付き、反対側は嶺になっている。先端は切っ先である。両刃の剣では、先端は切っ先であるが、嶺に当たる部分が真ん中へ入り込んでいる。嶺が左右両刃の中心線になってその形を見せない。刃の後ろが見えないのである。顔のある前を向こうへ向かせれば、ふつうは背中が見える。ところが、向こうを向かせてもまた顔のある前、刃が出てくる。「剣大刀太子也」との祟りを示唆する宣告では、ただこのことだけが話頭に登っている。現在の多くの論者が説くような、霊性、神秘性が、十掬剣に備わっていると認められているとは考えられない。霊性をもっていて力があるのなら、地方豪族はそれを持っていたら中央政権に勝てるはずであるのに、神功皇后へ奉納してしまっている。
古事記で、大国主神の国譲りの話のなかで、事代主神に「十掬剣(とつかのつるぎ)」を見せつけて応諾させた後、建御名方神(たけみなかたのかみ)というもうひとりの子にも聞くことになっている。
故、其[建御雷神]の御手を取らしむれば、即ち立氷(たつひ)に取り成し、亦、剣の刃に取り成しき。故、爾くして、懼(を)じて退き居りき。(記上)
建御名方神が建御雷神の手を取る場面で、建御雷神あるいは十掬剣は「立氷」や「剣刃」になっている。「立氷」はつらら、古語に「垂氷(たるひ)」、の上下を逆にしたものである。腕相撲をしようとして相手の手を取ったら、つららが逆を向いたのや、剣の刃に成り代わっていたというのである。手を放すのは、そこに刃があるからである。真剣白刃取りを両刃剣で行うことは、想定することさえ許されない。おもしろいジョークとなっている。質の高い表現が行われている。
左:鉄剣を並べる(熊本県和水町、江田船山古墳出土、古墳時代、5~6世紀、東博展示品)、右:つらら
きらきら光る剣の刃が下へと下へと下垂れている様は、水が滴って凍っている様、つららと同等であると見立てている。
今日、軒先から雫(しづく)が垂れて氷柱となるつらら、古語に垂氷(たるひ)の氷(ひ、ヒは甲類)は日(ひ、ヒは甲類)と同音である。垂氷とは、ヒ(甲類)がどんどん下へ下へと垂れて行ってできている。だから、天皇の位、日嗣(ひつぎ)というのも、ヒ(甲類)をどんどん下へ下へと垂れて継いで行かなければならない。兄から弟へと継いできたら、もう一人の弟、雄朝津間稚子宿禰皇子自身が継がなければならない。「事理灼然」である。
さらに、彼は、生前の父親や兄たちから疎んじられていた。そのため、彼自身は、「太子(皇太子)(ひつぎのみこ)」に認定されていない。そんなことを根に持っていてはいけない。以前、認められていなかったからと言って、では、ヒツギをしなくていいかといえば、そんなことはない。実際、大中姫はふとした拍子に鋺の水が溢れかかって、「腕(たぶさ)」が凍っている。「氷(ひ)」に当たっている。タブサは手房の意で腕のことであるが、髪を結い上げたときの髻(たぶさ)のこともいう。髪の毛を頂に集めて束ねた総のところで、モトドリとも呼ばれる。本取りの意である。もともとの根本のことという言い方である。腕のことをタブサというのも、5本の指を束ねることを表現した言葉であろう。
大中姫は、根本がヒ(甲類)と化している。そして、死にそうになっている。死にそうになっても、群臣の憂愁に堪えずに、夫に天皇になって欲しいと訴えている。介抱したら助かっている。根本的にヒ(甲類)ならば逃げないでヒ(甲類)になればいい。自分は命が惜しいからと言って、「剣刀皇太子」の迷信からヒツギになることを断ろうと意地を張っていた。恥ずかしいことではないか。そう気づいた。
筑紫の三神は、「吾今慚レ汝」と言っていた。履中天皇は、ハヂを見せられている。場所は、アハヂ(淡路)嶋である。ハヂを狩ろうとしたら、アフ(合)+ハヂ(慚)=アハヂ(淡路)となってしまった。神のお告げに飲み込まれてしまった。これほど、恥ずかしいことはない。言葉として捉え返せば何とか道は開ける。よくよく考えてみよう。「剣刀」によって斬られるのは、左右どちら側にいても同じことである。「剣刀」のモトドリ、束(つか)ねる柄という本取りになってしまえば、斬られることはない。群臣たちがさかんに薦めるのは、「事理灼然」であると知れた。「何遂謝耶」、「何敢遂辞」である。
允恭天皇の治世に、盟神探湯(くかたち)を行って氏姓を正しくしたことがよく知られている。四年九月条に見える。すなわち、本取りを正しくした。群臣の推挙する言葉にも、「不レ正二号位一」ことの良くないことへの言及があった。
以上からわかることは、第一に、言葉で生きていく、より正確には、言葉に生きていっていた点である。筆者が一貫して説いているとおり、無文字文化の上代人は、言=事とする言霊信仰のもとで生きていた。第二に、神の祟りに関しては、それを解消しない限り、時間的に長期にわたって祟ると信じられていたことである(注7)。今日的な解釈では、允恭天皇は、父親や兄たちから見下され、蔑まれたことがトラウマになって即位を固辞しているだけと考えている。しかし、物語の文脈に位置づけ戻せば、天皇の位を嗣ぐということは、天皇位という連綿として続いていく日嗣(ひつぎ)の歴史を受け継ぐことである。すべてはヒ(甲類)に基づく話(咄・噺・譚)である。他方、同音のヒ(甲類)に、「霊(ひ、ヒは甲類)」という霊力、超自然的な力のこと、高皇産霊尊(たかみむふひのみこと)などという語がある。古典基礎語辞典は、「自然物の生成や種々の作用をおこす活力、神秘的な力。霊力。ヒ(日)とは語源は別であるが、表記上、ヒという音を表す仮名として「日」の字を当てることがあるので、「日」と意味的な関連があると認める学者もいる。」(1011頁、この項、白井清子。)とし、白川1995.は、「すべての活力の源泉となる超自然的な力。すぐれた威力をもつものをいう。日(ひ)と同源の語で、太陽のもつすぐれた力に対する信仰から生れた観念とみることができる。「ひつぎ」とは、その霊力を継承することを意味する。」(636頁)とする。おそらく、ヒ(甲類)という言葉に霊性の含意が生れたのは、上のような話(咄・噺・譚)という言語活動の結果、ヒ(甲類)の一語にすべてを込めてしまおうとしたからと考えられる。
雄朝津間稚子宿禰皇子の固辞する言辞に、天皇位の重責について述べているが、むしろ、継嗣すること自体が時間的継続性の重みを担うこと、そのことへの躊躇いがあるようである。それは、観念的には歴史的な継続性ということになるが、卑近な言い方をすれば、毎日が繰り返されて続いていくことである。お日さまは朝に出て夕に入る。曇や雨の日もあるが、出ているであろうことはわかる。この日(ひ、ヒは甲類)のくり返しほど妙なることはない。それを自分が背負うのか、担うのかと大仰に考えれば、なんだか疲れてきてしまう。そして、時間の継続は、時代的な連続性を持った話となり、日本書紀の巻を跨いで引き続いて祟りという形で述べられている。万世一系の天皇という観念は、今日の捉え方とは少し違うニュアンスで、允恭天皇時代にすでに成立していた(注8)。祟りという概念は、末代まで祟ってやるという決まり文句からもわかるように、歴史性を有するのである。
幸いなことに、允恭天皇は、父親や兄たちから駄目人間扱いされ、立太子されていなかった。ヒツギノミコではなかった。「剣刀皇太子」として降りかかる存在、ヒツギノミコに成ったことがない。つららが折れて地面にぶすっと刺さるように立つことがない、それが既に現実の事として顕在化している。「剣刀太子王也」という災厄からそもそも逃れていると保証されている。虐げられてきたことは、今かえって好都合となっている。履中五年の「筑紫に居(ま)します三(みはしら)の神」(注9)の祟りは、意味が逆転して、即位しないことが「慚」に当たり、即位することによって「慚」とならずに済み、紀の記述では在位期間が42年にわたっている。「事理灼然」とはこのことであった。
(注)
(注1)日本書紀の訓は、ヤマトコトバで物事を考えていた上代の人の心を知るうえで、必須事項である。そのために、諸伝本にぽつぽつと訓が付されている。允恭紀の“読み”は、多くの場合、図書寮本のそれが正解のように見受けられる。
「不孝孰甚二於茲一矣」の「不幸」部分、一般にはオヤニシタガハヌコト(親に従わぬ事)とする。図書寮本に、オヤニモタハヌとある。親にも束(把)(たば)ぬ、の意で、親と心一つになろうとせず、悩みを打ち明けないで、自分流の治療に走ったことがよろしくないとしている。親に従わないというのは、親の言うことを聞かないことであるが、その場合、内情は知れている。それはまだいい。ところが、年端も行かぬ子が、隠れてこそこそ、親に見つからないようにして独自の方法で病気を治そうとしたのはけしからぬことである。子どもの浅知恵ではまともな判断などできないから、親に打ち明けてアドバイスを貰わなければ、親から授かった命を失い、親を悲しませることにつながる。親より先に死ぬことほど親不孝なことはない。オヤニモタバヌ(「把ぬ」は四段活用の自動詞か)という訓には味わい深いものがある。
允恭天皇は、在世中に病が治っている。
医(くすし)、新羅より至(まう)でたり。則ち天皇の病(みやまひ)を治めしむ。幾時(いくばく)も経ずして、病已に差(い)えぬ。天皇、歓びたまひて、厚く医に賞(たまひもの)して国に帰したまふ。(允恭紀三年八月)
爾くして、[新良(しらき)の]御調(みつき)の大使(おほきつかひ)、名は金波鎮漢紀武(こむはちにかにきむ)と云ふ人、此の人、深く薬方(くすりのみち)を知れり。故、帝皇(すめらみこと)の御病(みやまひ)を治め差(いや)しき。(允恭記)
筆者の推測であるが、骨折したままにしていたということであろうか。きちんと添え木をして治そうとせず、悪化させていたのではないか。「把ぬ」ことをしていないからである。植物の接ぎ木をする時、台となる木を親木という。骨折部分でも今日のギブスに当たる添え木は有効である。ニワトコ(接骨木)と何か関係があるのかもしれない。別名をヤマタズ、ミヤツコギとも呼ぶ。和名抄に、「女貞 拾遺本草に云はく、女貞は一名、冬青〈太豆乃岐(たづのき)、楊氏抄に比女都波岐(ひめつばき)と云ふ。〉は冬月青翠にして、故に以て之れを名づくといふ。」、「接骨木 本草に云はく、接骨木〈和名、美於都古岐(みやつこぎ)〉といふ。」とある。加工しやすいから、造木(みやつこぎ)と呼ぶらしい。枝を煎じ詰めたものが湿布薬にもなるとされている。クスシ、クスリノミチの人が新羅から来て治しているので、湿布とともに添え木か上手な形の義足に作ったらしい。新羅から来たと断っている。新羅(しらき、キは乙類)で、白木(しらき)と同音である。ニワトコは白木で、削りかけにすると白くてきれいである。「立氷」や「剣刃」とは似つかない代物である。
左:ニワトコ(神代植物公園)、中:人体解剖模型(江戸時代、19世紀、木造、東博「養生と医学」展展示品)、右:削り掛け(日本民家園製作品)
「其長生之、遂不レ得二継業一」の「長生」部分、一般にはナガクイクトモとする。允恭は長子ではないから改めるとされている。図書寮本に、コノカミニウマレタルトモ、兼右本に、コノカミ イケリトモとある。古訓の義は、仮に長子として生れたとしても、お前のような性根の輩は、天皇の位を継嗣してはならない。それほど、天皇の位に就くには人格が求められると言っている。現代の改訓は誤りである。允恭の固辞は、彼自身の自己評価の低さに由来している。自分は「賢聖」ではない、その器ではないというネガティブな考えに凝り固まっている。命を長らえるかどうかが問題なのではない。「氷(ひ)」に「凝」るところで納得している。
「豈下愚之任乎」の「下愚」部分、一般には兼右本のオロカヒトをとっている。図書寮本に、ヲサナイヒトとある。「不賢」にヲサナシと訓む例は、仁徳前紀、允恭紀四年九月条、推古紀三十二年十月条、舒明前紀、舒明紀元年正月条に謙遜する意味で使われている。意味としては、オロカヒトもヲサナキヒトも大差ない。政権上層部の天皇や大臣の任に堪えるかどうかの話である。人の長(をさ)のことが直接イメージされる語の方がいい。よって、ここはヲサナキヒトが訓としてすぐれてかなっている。
「今大王留レ時逆レ衆」の「逆」部分、一般にはサカヒテとする。時代別国語大辞典に、「さかふ【逆・忤】(動下二)逆らう。従順でない。サカルとも。」とあり、「【考】サカフに四段動詞の形も認めようとする考えがあるが、確証はない。……下二段以外の活用は、[上代には]認めにくいであろう。」(320頁)とする。北野本に、サカヘテとあり、それに従いたい。
「強即二帝位一」の「強」は、古訓に、アナガチニ、シヒテが見られ、一般にはアナガチニとする。無理にも、むりやりに、の意と解している。しかし、アナガチニは、アナ(己)+カチ(勝)+ニ(助詞)の形で構成されたと考えられており、自分勝手に、が原義であろう。筆者は、ナマジヒニの訓を提唱する。名義抄に、「強 ナマジヒ」という訓があり、また次のような例も見られる。
物思ふ 人に見えじと なまじひに(奈麻強尓) 常に思へり ありそかねつる(万613)
天(あめ)何ぞ淑(よ)からずして、憖(なまじひ)に耆(おきな)を遺さざる。(天智紀八年十月)
ナマジヒニは、ナマ(生)+シヒ(強)+ニ〈助詞〉の形で構成され、気持ちとは裏腹に逆らう力を加える意、自分の気持ちに無理に反することを進める意、気が進まないのにつとめてする意として捉える。
「群卿」、「群臣」については、マヘツキミでかまわないが、マウチキミ、マチキミとも訛る傾向があった。上代に縮まったマチキミという言い方が行われていたか不明ながら、筆者は、允恭前紀においては、マチキミという古訓に魅力をおぼえる。この話で群卿、群臣のしていることは、天皇になって欲しいとの推挙であり、固辞されるものだから繰り返し要請している。天皇がまだ不在なのだから、天皇の前にいるわけではない。マヘ(前)+ツ(助詞)+キミ(君)になっていない。即位を待っているから、マチ(待)+キミ(君)である。「不レ知二所為一」であったと記されている。
(注2)管見であるが、この話の要である急転直下の心変わりはなぜなのか、これまで検討の対象とされたことがない。まことに遺憾なことに提題さえ行われていない。平安時代の講莚で誰も質問しなかったであろうか。
(注3)訓読において、筆者のオリジナルによる点があることをお断りしておく。原文に、「有如風之声呼於大虚曰、……」の部分は、一般に、「風の声(おと)の如(ごと)くに、大虚(おほぞら)に呼(よば)ふこと有りて曰く、……」と訓まれている。かなりまどろっこしい返り方が行われている。神代紀第九段一書第二に、「……、仮使天孫、不斥妾而御者、生児永寿、有如磐石之常存。」とある箇所、記の対応部分の「木花之阿摩比能微坐。」に応じて、「……、仮使(たとひ)天孫(あめみま)、妾(やつこ)を斥けたまはずして御(め)さましかは、生めらむ児は寿(みいのち)永くして、磐石(ときはかちは)の有如(あまひ)に常(とば)に存(またか)らまし。」と訓んでいる。「有如○○之……」という用法なので、「風の有如(あまひ)に声(おと)大虚(おほぞら)に呼(よば)ひて曰く、……」としておく。
(注4)伊奘諾神が、「不レ堪二血臰一矣」と言わしめたことについて、何のために出た言葉か不詳である。飼部の黥面習慣廃止譚にすぎないのであろうか。筑紫三神の話のパターンに引きずられているだけなのか。癒えないで彫ったところの傷がパカッと開いて血が出ているから、アハヂ(淡路)はアバク(発)+チ(血)という洒落なのか。新撰字鏡に、「臰臭𦤁 三同作、尺又反、去、久佐志(くさし)」とある。
(注5)「狭名来田蔣津之命」部分は、一般に未詳とされている。兼右本訓に従えば、サナキタノコモツノミコトと訓む。サナキは鐸(ぬて、ぬりて)のことである。鐸については、銅鐸かなにかと考えられている。その読み方が問題である。ヌテ、ヌリテと言ったらしい。すなわち、サナキタノコモツノミコトとは、田を塗って水が籠もるようにしたところのもの、つまり、畦(畔)である。アゼ、または、クロという。皇妃の名は、黒媛であった。色黒の方であったのかもしれない。釈日本紀に、「羽田之汝妹者。兼方案レ之。皇妃者。葦田宿祢女黒媛也。羽田者。謂二葦田一之義歟。」(国会図書館デジタルコレクション(348/484))とある。
(注6)拙稿「剣大刀(つるぎたち)について」参照。飯田武郷・日本書紀通釈第三に、「また或説に刀の身は。鞘を隔てゝ体に著くるか故に。隔着(ヘツ)くと云て。日嗣に云かけたるなり。萬葉四。絶常云者(タユトイハヽ)。 和備染責跡(ワヒシミセムト)。焼太刀乃(ヤキタチノ)。隔付経事者(ヘツカフコトハ)。幸也吾君。また 二鞘之(フタサヤノ)。家乎隔而(イヘヲヘタテヽ)。恋乍将座(コヒツヽヲラム)。なとある」(漢字の旧字体は改めた。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933890(403/413))とある。
(注7)「祟」については、次の用例がある。
時に皇后、天皇の神の教(みこと)に従はずして早く崩(かむあが)りたまひしことを傷みたまひて、以為(おもほ)さく、祟れる神を知りて、財宝(たから)の国を求めむと欲(おもほ)す。(神功前紀仲哀九年二月)
時に、麋鹿(おほしか)・猨(さる)・猪(ゐ)、莫々紛々(ありのまがひ)に、山谷に盈(み)てり。焱(ほのほ)のごと起ち蠅(はへ)のごと散(さわ)ぐ。然れども終日(ひねもす)に一の獣(しし)をだも獲たまはず。是に、猟(かり)止めて更に卜ふ。嶋の神、祟りて曰はく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石(あかし)の海の底に真珠(しらたま)有り。其の珠を我に祠(まつ)らば、悉(ふつく)に獣を得しめむ」とのたまふ。(允恭紀十四年九月)
河神(かはのかみ)、祟りて、吾(やつかれ)を以て幣(まひ)とせり。(仁徳紀十一年十月)
辛亥に、蘇我大臣、患疾(やまひ)す。卜者(うらべ)に問ふ。卜者対へて言はく、「父の時に祭りし仏神(ほとけ)の心に祟れり」といふ。大臣、即ち子弟(やから)を遣(まだ)して、其の占状(うらかた)を奏(まを)す。詔して曰はく、「卜者の言に依りて、父の神を祭(いは)ひ祠れ」とのたまふ。大臣、詔を奏(うけたまは)りて、石像(いしのみかた)を礼(ゐや)び拝みて、寿命(いのち)を延べたまへと乞ふ。是の時に、国に疫疾(えやみ)行(おこ)りて、民(おほみたから)死ぬる者衆(おほ)し。(敏達紀十四年二月)
戊寅に、天皇の病を卜ふに、草薙剣(くさなぎのつるぎ)に祟れり。即日(そのひ)に、尾張国の熱田社(あつたのやしろ)に送り置く。(天武朱鳥元年六月)
……ふとまにに占相(うらな)ひて何(いづ)れの神の心ぞと求めしに、爾の祟りは出雲大神の御心なりき。(垂仁記)
祟っている神は、「所祟之神」≒墨江大神、「嶋神」≒伊奘諾神、「河神」、「仏神」、「草薙剣」、「出雲大神」である。時代がかった神さまが登場している。解除するには「禱(いの)む」だけではなく、祓をして幣を以て「祠(まつ)る」ことが必要とされている。気持ちだけでは不十分で、何かを神に捧げて代償しなければ収まらないということである。代償が支払われない限り、祟りは続く。
(注8)今日論じ述べられる「万世一系の天皇」という言い方には、天皇というものは、ずっと続いて来た尊いものであるという考え方が底辺にあるように感じられる。雄朝津間稚子宿禰皇子の思いには、そのつらら的なつらなりの両刃の剣の輝きに怖れをなしている。自分の骨はつながっていないとも悩んでいた。着眼点に具体性がある。つららのような両刃の剣が、まことに形容にいう両刃の剣であって、厄介だと思っている。天皇という位は、神の怒りを受ければその祟りに苦しめられる存在として、末代まで続くものと捉えられている。しかし、何人であれ、続いて来たから生を受けている。何が違うか。ヒ(甲類)のなぞなぞを思いつめたかどうかの違いである。
(注9)筑紫の三神がわざわざとりあげられている。その理由の検討は別に譲るが、ここでは、「白縫(しらぬひ) 筑紫の綿」(万336)の枕詞、シラヌヒ(ヒは甲類)について触れておく。ヒ(甲類)のため、不知火(しらぬひ、ヒは乙類)ではない。かかり方については、「ヒを霊力の意として、領(シ)ラヌ霊が憑(つ)くの意で成立したものとする説がある。」(時代別国語大辞典603頁)とされている。筑紫のツクの音へとかかるという指摘である。新大系本萬葉集に、「「筑紫」はここでは九州の総称。「綿」は繭より取った「絁綿」(九〇〇)、即ち真綿。衣に入れ(八九二)、フスマに入れ(三三五四)、あるいは衣の上に重ねて寒を防いだ。続日本紀・神護景雲三年(七六九)三月に、大宰府の綿二十万屯を都に納めたという記事が見えるように、綿は九州の名産品であった。「寒時に曳(ひき)蒙(かづく)綿端は西国所レ出」(東大寺誦文稿)。」(233~234頁)と解説されている。允恭天皇の即位話に関連があると思われる履中紀五年の筑紫三神の祟りの原因が、車持君によるものであるとの逸話が広く知られていたならば、ヒ(甲類)のことが上代の人の念頭にあったと考えられて理解できる。
なぜ筑紫と車持君、車持部が関係しているのかについては、車が車軸から輻(や、スポーク)を放射状に広げた様が、ツクシの根につづくスギナの糸状の葉の放射する様に見立てられているからであろう。拙稿「三輪で杉の木を「斎(いは)ふ」のは、甑(こしき)による」参照。筑紫三神は、宗像(胸形)の神、奥津宮、中津宮、辺津宮のことを指すと思われる。記上に、「此の三柱の神は、胸形君等が以ちいつく三前(みまへ)の大神ぞ。」とある。その点については、別に論じる。
(引用・参考文献)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新大系本萬葉集 佐竹昭弘・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『萬葉集 一』岩波書店、1999年。
※本稿は、2017年8月稿を2020年8月に整理したものである。
この反乱を平定して「皇太子(ひつぎのみこ)」の去来穂別皇子は晴れて即位して天皇となった。履中天皇である。そして、二年正月に、その次の弟の瑞歯別皇子を「儲君(ひつぎのみこ)」としている。六年三月に天皇は亡くなり、「皇太子(ひつぎのみこ)」の瑞歯別皇子が、次の年の正月に即位している。反正天皇である。ところが、五年正月に崩御している。
短命の天皇が2代続いている。その前の仁徳天皇は仁徳八十七年に亡くなっている。去来穂別皇子が「皇太子(ひつぎのみこ)」になったのは仁徳三十一年正月、「年十五」であった。履中天皇が崩御した履中六年に、「年七十」と記されている。年齢の記述は日本書紀のなかでも計算違いがあり、古事記とあわせても相違がある。ざっくり言って、年を重ねてから即位し、短い在世となったということであろう。兄弟で継嗣しているので、短い在世が2代重なった。その後をうけて、允恭天皇が即位するわけであるが、雄朝津間稚子宿禰皇子は、群卿の薦めに従わず、なかなか即位しなかった。
爰に群卿(まちきみたち)、議りて曰(いは)まく、方(まさ)に今、大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)の子(みこ)、雄朝津間稚子宿禰皇子と大草香皇子とまします。然るに雄朝津間稚子宿禰皇子、長(このかみ)にして仁孝(ひとをめぐみおやにしたがふみち)にまします」といふ。即ち吉き日を選びて、跪(ひざまつ)きて天皇の璽(みしるし)を上(たてまつ)る。雄朝津間稚子宿禰皇子、謝(さ)りて曰はく、「我が不天(さきはひなきこと)、久しく篤(おも)き疾(やまひ)に離(かか)りて、歩行(ある)くこと能はず。且(また)我(やつかれ)既に病を除(や)めむとして独(ひとり)奏言(まを)さずして、而(しか)も密(ひそか)に身を破(やぶ)りて病を治むれども、猶ほ差(い)ゆること勿し。是に由りて、先(さき)の皇(みかど)、責めて曰はく、『汝、病患(やまひ)と雖も、縦(ほしきまま)に身を破れり。不孝(おやにもたばぬこと)、孰(いづれ)か茲(これ)より甚しからむ。其れ長(このかみ)に生(い)けりとも、遂に継業(あまつひつぎしら)すこと得じ』とのたまふ。亦我が兄(いろえ)の二(ふたりはしら)の天皇、我を愚(おろか)なりとして軽(かろみ)したまふ。群卿、共に知れり。夫れ天下(あめのした)は、大きなる器(うつはもの)なり。帝位(みかどのくらゐ)は鴻業(おほきなること)なり。且民(おほみたから)の父母(かぞいろは)は、斯れ則ち賢聖(さかしきひと)の職(つかさ)なり。豈(あに)下愚(をさなきひと)任(た)へむや。更に賢(さか)しき王(きみ)を選びて立てまつるべし。寡人(おのれ)、敢へて当らじ」とのたまふ。群臣(まへつきみたち)、再拝(をが)みて言(まを)さく、夫れ帝位(みかどのくらゐ)は、以て久(ひさ)に曠(むな)しくあるべからず。天命(あまつよさし)は、以て謙(ゆず)り距(ふせ)くべからず。今、大王(きみ)、時を留め衆(もろもろ)に逆(さか)ひて、号位(なくらゐ)を正しくしたまはずは、臣等(やつかれら)、恐るらくは、百姓(おほみたから)の望(のぞみ)絶えなむことを。願はくは、大王、労(いたは)しと雖(いふと)も、猶ほ天皇位(あまつひつぎ)即(しろしめ)せ」とまをす。雄朝津間稚子宿禰皇子の曰はく、「宗廟社稷(くにいへ)を奉(う)くるは、重き事なり。寡人(おのれ)、篤(おも)き疾(やまひ)して、以て称(かな)ふに足らず」とのたまふ。猶ほ辞(いな)びて聴(ゆる)したまはず。是に、群臣、皆固く請(まを)して曰(まを)さく、「臣(やつかれ)、伏して計(はかりみ)るに、大王、皇祖(みおや)の宗廟(くにいへ)を奉けたまふこと、最(もと)も宜称(かな)へり。天下の万民(おほみたから)と雖も、皆宜(よろ)しと以為(おも)へり。願はくは、大王(きみ)、聴(ゆる)したまへ」とまをす。
元年冬十有二月(しはす)に、妃(みめ)忍坂大中姫命(おしさかのおほなかつひめのみこと)、群臣の憂へ吟(さまよ)ふに苦(たしな)みて、親(みづか)ら洗手水(おほみてみづ)を執(まゐ)りて、皇子の前に進む。仍りて啓(まを)して曰(まを)さく、「大王(きみ)、辞(いさ)ひたまひて位に即(つ)きたまはず。位空しくして、既に年月を経ぬ。群臣(まちきみたち)百寮(つかさつかさ)、愁へて所為(せむすべ)知らず。願はくは、大王、群(もろ)の望(おせり)に従ひたまひて、強(なまじひ)に帝(みかど)の位(みくらゐ)に即(つ)きたまへ」とまをす。然るに皇子、聴(ゆる)したまはく欲(ほり)せずして、背(そむ)き居(ま)して言(ものものたま)はず。是に、大中姫命、惶(かしこま)りて、退かむことを知らずして侍(さぶら)ひたまふこと、四五剋(よときいつとき)を経たり。此の時に当りて、季冬(しはす)の節(をり)にして、風亦烈(はげ)しく寒し。大中姫の捧げたる鋺(まり)の水、溢れて腕(たぶさ)に凝(こ)れり。寒きに堪へずして死(みう)せむとす。皇子、顧みて驚きたまふ。則ち扶(たす)け起して謂(かた)りて曰はく、嗣位(ひつぎのくらゐ)は重き事なり。輙(たはやす)く就くこと得ず。是を以て、今までに従はず。然るに今群臣の請ふこと、事理(ことわり)灼然(いやちこ)なり。何ぞ遂に謝(いな)びむや。爰に大中姫命、仰ぎ歓びて、則ち群卿に謂(かた)りて曰く、「皇子、群臣の請(まを)すことを聴さむとしたまふ。今天皇の璽符(みしるし)を上(たてまつ)るべし」といふ。是に、群臣、大きに喜びて、即(そ)の日に、天皇の璽符(みしるし)を捧げて、再拝みて上る。皇子の曰はく、「群卿、共に天下の為に寡人(おのれ)を請ふ。寡人、何ぞ敢へて遂に辞(いな)びむ」とのたまひて、乃ち帝位(みかどのくらゐ)に即(つ)きたまふ。(允恭前紀~允恭紀元年正月)(注1)
筆者は、日本書紀は、漢籍をアンチョコにして日本人が書いたものと考えている。ヤマトコトバの頓智や洒落が乱発されるものを、中国人が書こうはずはない。したがって、漢文風に書いてあるものは、いわゆる読み下し文で記されてはじめて理解されるものとなる。読み方ひとつでどの程度の理解なのか、研究者の資質、技量がばれてしまう。原漢文を引いていきなり解釈へ進もうとする姿勢は、およそ“読む”ことに当たらない。
ここで、群卿たちはみなで議ったうえで、候補者2名のうち、総意として雄朝津間稚子宿禰皇子に天皇に即位してもらおうとしている。誰を天皇に選ぶかについては、時として、その当時の豪族間の勢力争いが反映される。逆にいえば、争い合う場として、お世継ぎ事情が存在する。多少血生臭いだけで、現代の民主政に衆議院の解散、総選挙と同じことである。ところがここでは、「群卿、議之曰、」とだけあって、どの豪族に勢いがあるのかさえ不明である。異議があるわけではなく、闘争に巻き込まれる可能性もまったくない。けれども雄朝津間稚子宿禰皇子は断っている。群卿は拝み倒してでも天皇になってもらおうとしている。さらにぐだぐだ自分は病気だからなどと言って嫌がっている。対して群卿は、ほかに選択肢はないと言って就任要請を受諾するよう迫っている。
天皇になりたがる人がいて困ることが多いなか、天皇になりたがらなくて困る事例である。群卿たちは礼節ある振る舞いでお願いしている。「即選二吉曰一、跪上二天皇之璽一」。それでも応じない。問答を見てみる。
群卿:方今、大鷦鷯天皇之子、雄朝津間稚子宿禰皇子、与二大草香皇子一。然雄朝津間稚子宿禰皇子、長之仁孝。
雄朝:我之不天、久離二篤疾一、不レ能二歩行一。且我既欲レ除レ病、独非二奏言一、而密破レ身治レ病、猶勿レ差。由レ是、先皇責之曰、汝雖レ患レ病、縦破レ身。不孝孰甚二於茲一矣。其長生之、遂不レ得二継業一。亦我兄二天皇、愚レ我而軽之。群卿共所レ知。夫天下者大器也。帝位者鴻業也。且民之父母、斯則賢聖之職。豈下愚之任乎。更選二賢王一宜レ立矣。寡人弗二敢当一。
群臣:夫帝位不レ可二以久曠一。天命不レ可二以謙距一。今大王留レ時逆レ衆、不レ正二号位一、臣等恐、百姓望絶也。願大王雖レ労、猶即二天皇位一。
雄朝:奉二宗廟社稷一重事也。寡人篤疾、不レ足二以称一。
群臣:臣伏計之、大王奉二皇祖宗廟一、最宜称。雖二天下万民一、皆以二為宜一。願大王聴之。
押し問答の繰り返しである。最後の頼みの綱は、奥さんに口説いてもらうことである。先帝が亡くなってから1年11か月後のことである。
大中:大王辞而不レ即レ位。々空之、既経二年月一。群臣百寮、愁之不レ知二所為一。願大王従二群望一、強即二帝位一。
雄朝:……(然皇子不レ欲レ聴、而背居不レ言。)
旧暦の冬12月に、おそらくは浄めの手洗いの水を金鋺に盛って進み、天皇に即位してほしいと言っている。皇子は背を向けて答えず、奥さんも退かないでそのまま1時間経過した。寒風が吹いて、彼女の持っていた鋺の水が手にかかって手が凍った。そのまま凍死しそうになったのを、皇子は振り返って見て驚いた。救命救急行為に及び、今、群卿の言っていることのまったくもって明らかであることに気づいた、と言っている。すると、すぐさま、彼女は指示を出し、その日のうちに即位の運びとなった。
皇子はどうして突然、これまで度重ねて要請されては断り続けてきた群卿の言い分を、急転直下、尤もなことだ、歴然としている、明らかなことである、と考えを改めるようになったのか。それがこの話の主題、焦点、眼目である(注2)。
皇子(允恭天皇)は、何らかの呪縛に囚われていた。自分が病弱であって、前に天皇の位に就いた兄2人が、動物的事情で短命政権に終わっている。自分が就いてもすぐ死ぬであろうと考えていたらしい。群卿たちに迷惑がかかる。そんなに強く推薦してくるのは、何か大きな誤解、勘違いがあるのではないかと思っている。
第一義的、表面的にはそうかもしれない。ただし、それは、一定の年齢に達した中高年には当たり前のことである。群卿は承知のうえで推薦している。仁徳天皇にはもうひとり、妃腹の大草香皇子がいるが、長幼の序、「仁孝」の道からして、ふさわしいのはあなたですと迫っている。
雄朝津間稚子宿禰皇子は、そんなことはなかろうと思っている。若い時、その病弱について、父親の仁徳天皇から、「不孝」者であると言われた。また、兄の履中・反正天皇から「愚」か者と「軽」んじられてきた。皆も知っていることではないか。他の「賢聖」な人を選んだらどうかというのである。
対する群卿は、空位が続くのは良くないことだし、並び順を守らないことがあると、周りに示しがつかないだろうと説いている。天皇位というのは、行列をまもるべきお店屋さんのようなものであったらしい。以下、上に記した押し問答が繰り広げられている。どうにも決まらないので、切り札として登場しているのが、妃(みめ)の忍坂大中姫命である。手を清めて儀式に臨んでほしいと鋺を持ち出している。女に迫られると弱いから、そっぽを向いてだんまりを決め込んだ。クライマックスは次の一文である。
大中姫の捧げたる鋺(まり)の水、溢れて腕(たぶさ)に凝(こ)れり。寒きに堪へずして死(みう)せむとす。
そこで、皇子は、「今、群臣の請ふこと、事理(ことわり)灼然(いやちこ)なり。」となっている。今までは気づかなかったが、水が凍って死にそうになるのを目の当たりにして、目が覚めたと言っている。群臣の言っていることの意味が明らかであることがわかったというのである。彼の呪縛は根が深かったようである。
履中天皇時代に、神意が語られ悪いことが起こる前兆とされる記事がある。
五年の春三月の戊午の朔に、筑紫に居(ま)します三(みはしら)の神、宮中(おほみやのうち)に見えて、言(のたま)はく、「何ぞ我が民を奪ひたまふ。吾、今、汝(いまし)に慚(はぢ)みせむ」とのたまふ。是に、禱(いの)みして祠(まつ)らず。秋九月の乙酉の朔壬寅に、天皇、淡路嶋(あはぢのしま)に狩したまふ。是の日に、河内飼部(かふちのうまかひべ)等、駕(おほみとも)に従(つか)へまつりて轡(おほみまのくち)に執(つ)けり。是より先に、飼部の黥(めさきのきず)、皆差(い)えず。時に、嶋に居します伊奘諾神(いざなきのかみ)、祝(はふり)に託(かか)りて曰はく、「血の臰(くさ)きに堪へず」とのたまふ。因りて、卜(うらな)ふ。兆(うらはひ)に云はく、「飼部等の黥の気(か)を悪(にく)む」といふ。故、是より以後(のち)、頓(ひたぶる)に絶えて飼部を黥(めさき)せずして止(や)む。癸卯に、風の有如(あまひ)に声(おと)大虚(おほぞら)に呼(よば)ひて曰く、「剣刀(つるぎたち)太子王(ひつぎのみこ)」といふ。亦、呼ひて曰く、「鳥往来(かよ)ふ羽田(はた)の汝妹(なにも)は、羽狭(はさ)に葬(はぶ)り立往(た)ちぬ」といふ。汝妹、此には儺邇毛(なにも)と云ふ。亦曰く、「狭名来田蔣津之命(さなきたのこもつのみこと)、羽狭(はさ)に葬(はぶ)り立往(た)ちぬ」といふ。俄にして使者(つかひ)、忽に来りて曰(まを)さく、「皇妃(みめ)、薨(かむさ)りましぬ」とまをす。天皇、大きに驚きて、便ち駕(おほみま)命(たてまつ)りて帰りたまふ。丙午に、淡路より至ります。
冬十月の甲寅の朔甲子に、皇妃を葬りまつる。既にして天皇、神の祟(たたり)を治めたまはずして、皇妃を亡(ほろぼ)せることを悔いたまひて、更に其の咎(とが)を求めたまふ。或者(あるひと)の曰さく、「車持君(くるまもちのきみ)、筑紫国に行(まか)りて悉(ふつく)に車持部(くるまもちべ)を校(かと)り、兼ねて充神者(かむべらのたみ)を取れり。必ず是の罪ならむ」とまをす。天皇、則ち車持君を喚(め)して、推(かむが)へ問ひたまふ。事既に実(まこと)なり。因りて、数(せ)めて曰はく、「爾(いまし)、車持君なりと雖も、縦(ほしきまま)に天子(みかど)の百姓を検校(かと)れり。罪一(ひとつ)なり。既に神に分(くば)り寄(あ)てまつる車持部を、兼ねて奪ひ取れり。罪二(ふたつ)なり」とのたまふ。則ち悪解除(あしはらへ)・善解除(よしはらへ)を負(おほ)せて、長渚崎(ながすのさき)に出(いだ)して、秡へ禊がしむ。既にして詔して曰はく、「今より以後、筑紫の車持部を掌ること得じ」とのたまふ。乃ち悉に収めて更に分りて、三(みはしら)の神に奉りたまふ。(履中紀五年三月~五月)(注3)
神意はひとつひとつ表明され、ひとつひとつ現実のこととなっている。筑紫の三神を祈禱だけして祭祀をしなかったことは、すべての凶事を引き起こす通奏低音となって響いている。黥面の血の臭いのを嫌うことは、飼部の入れ墨をやめることで解決される(注4)。大虚にうなりをあげる音の、「剣刀(つるぎたち)太子王(ひつぎのみこ)」は不明である。「鳥往来ふ羽田の汝妹は、羽狭に葬り立往ちぬ」、「狭名来田蔣津之命、羽狭に葬り立往ちぬ」(注5)は、皇妃の薨去のことであった。そして、天皇は、神の祟りを治めなかったことを悔い、神の怒りの原因究明にのり出した。すると、筑紫国での車持君の充神者(神戸)への圧力が原因と認められ、車持君に処分を下し、祓え(悪解除・善解除)をして浄め、車持部を三神に再び配分して奉っている。
それですべて解決したかと言えば、結局、履中天皇は翌年亡くなっている。さらに、継いだ反正天皇も5年後に亡くなっている。神の祟りは残っていると見るべきであろう。それは何か。収拾していない「剣刀太子王也。」である。
「剣大刀(つるぎたち)」は枕詞である(注6)。万葉集中では、それがかかる語は、「身に添(副)ふ」(万194・217・2637・3485)、「磨(と)ぐ」(万3326・4467)、「斎(いは)ふ」(万3227)、「名(な)」(万616・2499・2984)、「己(汝)(な)」(万1741)である。剣や大刀は、身に添えて佩くもので、砥石を使って磨いでおくもので、大切にして斎うものであり、また、刀(かたな)の刃(な)に通じるものだから、ナ(名、己、汝)にかかるとされている。
枕詞とされてはいない例には、万478・604・804・2498・2635・2636・3240・3833・4094・4164の例がある。そんななか、神の声のように記されている「剣刀太子王」というかかり方は不自然である。何を表そうとしているのか。その答えこそ、大中姫命の凍った腕を介抱しているときに、雄朝津間稚子宿禰皇子がアハ体験してわかったことである。文字通り氷解している。
剣大刀は、諸刃(両刃)の剣のことである。うまく使えば利用できるが、身自らも傷つけてしまうこともある。気をつけなければならない。だから、実用とするよりも、脅しのために見せつけることが一番有効な用い方である。そして、剣の特徴の両刃については、刀(かたな)の特徴の表現が通用しない。刀の場合、刃は片側に付き、反対側は嶺になっている。先端は切っ先である。両刃の剣では、先端は切っ先であるが、嶺に当たる部分が真ん中へ入り込んでいる。嶺が左右両刃の中心線になってその形を見せない。刃の後ろが見えないのである。顔のある前を向こうへ向かせれば、ふつうは背中が見える。ところが、向こうを向かせてもまた顔のある前、刃が出てくる。「剣大刀太子也」との祟りを示唆する宣告では、ただこのことだけが話頭に登っている。現在の多くの論者が説くような、霊性、神秘性が、十掬剣に備わっていると認められているとは考えられない。霊性をもっていて力があるのなら、地方豪族はそれを持っていたら中央政権に勝てるはずであるのに、神功皇后へ奉納してしまっている。
古事記で、大国主神の国譲りの話のなかで、事代主神に「十掬剣(とつかのつるぎ)」を見せつけて応諾させた後、建御名方神(たけみなかたのかみ)というもうひとりの子にも聞くことになっている。
故、其[建御雷神]の御手を取らしむれば、即ち立氷(たつひ)に取り成し、亦、剣の刃に取り成しき。故、爾くして、懼(を)じて退き居りき。(記上)
建御名方神が建御雷神の手を取る場面で、建御雷神あるいは十掬剣は「立氷」や「剣刃」になっている。「立氷」はつらら、古語に「垂氷(たるひ)」、の上下を逆にしたものである。腕相撲をしようとして相手の手を取ったら、つららが逆を向いたのや、剣の刃に成り代わっていたというのである。手を放すのは、そこに刃があるからである。真剣白刃取りを両刃剣で行うことは、想定することさえ許されない。おもしろいジョークとなっている。質の高い表現が行われている。
左:鉄剣を並べる(熊本県和水町、江田船山古墳出土、古墳時代、5~6世紀、東博展示品)、右:つらら
きらきら光る剣の刃が下へと下へと下垂れている様は、水が滴って凍っている様、つららと同等であると見立てている。
今日、軒先から雫(しづく)が垂れて氷柱となるつらら、古語に垂氷(たるひ)の氷(ひ、ヒは甲類)は日(ひ、ヒは甲類)と同音である。垂氷とは、ヒ(甲類)がどんどん下へ下へと垂れて行ってできている。だから、天皇の位、日嗣(ひつぎ)というのも、ヒ(甲類)をどんどん下へ下へと垂れて継いで行かなければならない。兄から弟へと継いできたら、もう一人の弟、雄朝津間稚子宿禰皇子自身が継がなければならない。「事理灼然」である。
さらに、彼は、生前の父親や兄たちから疎んじられていた。そのため、彼自身は、「太子(皇太子)(ひつぎのみこ)」に認定されていない。そんなことを根に持っていてはいけない。以前、認められていなかったからと言って、では、ヒツギをしなくていいかといえば、そんなことはない。実際、大中姫はふとした拍子に鋺の水が溢れかかって、「腕(たぶさ)」が凍っている。「氷(ひ)」に当たっている。タブサは手房の意で腕のことであるが、髪を結い上げたときの髻(たぶさ)のこともいう。髪の毛を頂に集めて束ねた総のところで、モトドリとも呼ばれる。本取りの意である。もともとの根本のことという言い方である。腕のことをタブサというのも、5本の指を束ねることを表現した言葉であろう。
大中姫は、根本がヒ(甲類)と化している。そして、死にそうになっている。死にそうになっても、群臣の憂愁に堪えずに、夫に天皇になって欲しいと訴えている。介抱したら助かっている。根本的にヒ(甲類)ならば逃げないでヒ(甲類)になればいい。自分は命が惜しいからと言って、「剣刀皇太子」の迷信からヒツギになることを断ろうと意地を張っていた。恥ずかしいことではないか。そう気づいた。
筑紫の三神は、「吾今慚レ汝」と言っていた。履中天皇は、ハヂを見せられている。場所は、アハヂ(淡路)嶋である。ハヂを狩ろうとしたら、アフ(合)+ハヂ(慚)=アハヂ(淡路)となってしまった。神のお告げに飲み込まれてしまった。これほど、恥ずかしいことはない。言葉として捉え返せば何とか道は開ける。よくよく考えてみよう。「剣刀」によって斬られるのは、左右どちら側にいても同じことである。「剣刀」のモトドリ、束(つか)ねる柄という本取りになってしまえば、斬られることはない。群臣たちがさかんに薦めるのは、「事理灼然」であると知れた。「何遂謝耶」、「何敢遂辞」である。
允恭天皇の治世に、盟神探湯(くかたち)を行って氏姓を正しくしたことがよく知られている。四年九月条に見える。すなわち、本取りを正しくした。群臣の推挙する言葉にも、「不レ正二号位一」ことの良くないことへの言及があった。
以上からわかることは、第一に、言葉で生きていく、より正確には、言葉に生きていっていた点である。筆者が一貫して説いているとおり、無文字文化の上代人は、言=事とする言霊信仰のもとで生きていた。第二に、神の祟りに関しては、それを解消しない限り、時間的に長期にわたって祟ると信じられていたことである(注7)。今日的な解釈では、允恭天皇は、父親や兄たちから見下され、蔑まれたことがトラウマになって即位を固辞しているだけと考えている。しかし、物語の文脈に位置づけ戻せば、天皇の位を嗣ぐということは、天皇位という連綿として続いていく日嗣(ひつぎ)の歴史を受け継ぐことである。すべてはヒ(甲類)に基づく話(咄・噺・譚)である。他方、同音のヒ(甲類)に、「霊(ひ、ヒは甲類)」という霊力、超自然的な力のこと、高皇産霊尊(たかみむふひのみこと)などという語がある。古典基礎語辞典は、「自然物の生成や種々の作用をおこす活力、神秘的な力。霊力。ヒ(日)とは語源は別であるが、表記上、ヒという音を表す仮名として「日」の字を当てることがあるので、「日」と意味的な関連があると認める学者もいる。」(1011頁、この項、白井清子。)とし、白川1995.は、「すべての活力の源泉となる超自然的な力。すぐれた威力をもつものをいう。日(ひ)と同源の語で、太陽のもつすぐれた力に対する信仰から生れた観念とみることができる。「ひつぎ」とは、その霊力を継承することを意味する。」(636頁)とする。おそらく、ヒ(甲類)という言葉に霊性の含意が生れたのは、上のような話(咄・噺・譚)という言語活動の結果、ヒ(甲類)の一語にすべてを込めてしまおうとしたからと考えられる。
雄朝津間稚子宿禰皇子の固辞する言辞に、天皇位の重責について述べているが、むしろ、継嗣すること自体が時間的継続性の重みを担うこと、そのことへの躊躇いがあるようである。それは、観念的には歴史的な継続性ということになるが、卑近な言い方をすれば、毎日が繰り返されて続いていくことである。お日さまは朝に出て夕に入る。曇や雨の日もあるが、出ているであろうことはわかる。この日(ひ、ヒは甲類)のくり返しほど妙なることはない。それを自分が背負うのか、担うのかと大仰に考えれば、なんだか疲れてきてしまう。そして、時間の継続は、時代的な連続性を持った話となり、日本書紀の巻を跨いで引き続いて祟りという形で述べられている。万世一系の天皇という観念は、今日の捉え方とは少し違うニュアンスで、允恭天皇時代にすでに成立していた(注8)。祟りという概念は、末代まで祟ってやるという決まり文句からもわかるように、歴史性を有するのである。
幸いなことに、允恭天皇は、父親や兄たちから駄目人間扱いされ、立太子されていなかった。ヒツギノミコではなかった。「剣刀皇太子」として降りかかる存在、ヒツギノミコに成ったことがない。つららが折れて地面にぶすっと刺さるように立つことがない、それが既に現実の事として顕在化している。「剣刀太子王也」という災厄からそもそも逃れていると保証されている。虐げられてきたことは、今かえって好都合となっている。履中五年の「筑紫に居(ま)します三(みはしら)の神」(注9)の祟りは、意味が逆転して、即位しないことが「慚」に当たり、即位することによって「慚」とならずに済み、紀の記述では在位期間が42年にわたっている。「事理灼然」とはこのことであった。
(注)
(注1)日本書紀の訓は、ヤマトコトバで物事を考えていた上代の人の心を知るうえで、必須事項である。そのために、諸伝本にぽつぽつと訓が付されている。允恭紀の“読み”は、多くの場合、図書寮本のそれが正解のように見受けられる。
「不孝孰甚二於茲一矣」の「不幸」部分、一般にはオヤニシタガハヌコト(親に従わぬ事)とする。図書寮本に、オヤニモタハヌとある。親にも束(把)(たば)ぬ、の意で、親と心一つになろうとせず、悩みを打ち明けないで、自分流の治療に走ったことがよろしくないとしている。親に従わないというのは、親の言うことを聞かないことであるが、その場合、内情は知れている。それはまだいい。ところが、年端も行かぬ子が、隠れてこそこそ、親に見つからないようにして独自の方法で病気を治そうとしたのはけしからぬことである。子どもの浅知恵ではまともな判断などできないから、親に打ち明けてアドバイスを貰わなければ、親から授かった命を失い、親を悲しませることにつながる。親より先に死ぬことほど親不孝なことはない。オヤニモタバヌ(「把ぬ」は四段活用の自動詞か)という訓には味わい深いものがある。
允恭天皇は、在世中に病が治っている。
医(くすし)、新羅より至(まう)でたり。則ち天皇の病(みやまひ)を治めしむ。幾時(いくばく)も経ずして、病已に差(い)えぬ。天皇、歓びたまひて、厚く医に賞(たまひもの)して国に帰したまふ。(允恭紀三年八月)
爾くして、[新良(しらき)の]御調(みつき)の大使(おほきつかひ)、名は金波鎮漢紀武(こむはちにかにきむ)と云ふ人、此の人、深く薬方(くすりのみち)を知れり。故、帝皇(すめらみこと)の御病(みやまひ)を治め差(いや)しき。(允恭記)
筆者の推測であるが、骨折したままにしていたということであろうか。きちんと添え木をして治そうとせず、悪化させていたのではないか。「把ぬ」ことをしていないからである。植物の接ぎ木をする時、台となる木を親木という。骨折部分でも今日のギブスに当たる添え木は有効である。ニワトコ(接骨木)と何か関係があるのかもしれない。別名をヤマタズ、ミヤツコギとも呼ぶ。和名抄に、「女貞 拾遺本草に云はく、女貞は一名、冬青〈太豆乃岐(たづのき)、楊氏抄に比女都波岐(ひめつばき)と云ふ。〉は冬月青翠にして、故に以て之れを名づくといふ。」、「接骨木 本草に云はく、接骨木〈和名、美於都古岐(みやつこぎ)〉といふ。」とある。加工しやすいから、造木(みやつこぎ)と呼ぶらしい。枝を煎じ詰めたものが湿布薬にもなるとされている。クスシ、クスリノミチの人が新羅から来て治しているので、湿布とともに添え木か上手な形の義足に作ったらしい。新羅から来たと断っている。新羅(しらき、キは乙類)で、白木(しらき)と同音である。ニワトコは白木で、削りかけにすると白くてきれいである。「立氷」や「剣刃」とは似つかない代物である。
左:ニワトコ(神代植物公園)、中:人体解剖模型(江戸時代、19世紀、木造、東博「養生と医学」展展示品)、右:削り掛け(日本民家園製作品)
「其長生之、遂不レ得二継業一」の「長生」部分、一般にはナガクイクトモとする。允恭は長子ではないから改めるとされている。図書寮本に、コノカミニウマレタルトモ、兼右本に、コノカミ イケリトモとある。古訓の義は、仮に長子として生れたとしても、お前のような性根の輩は、天皇の位を継嗣してはならない。それほど、天皇の位に就くには人格が求められると言っている。現代の改訓は誤りである。允恭の固辞は、彼自身の自己評価の低さに由来している。自分は「賢聖」ではない、その器ではないというネガティブな考えに凝り固まっている。命を長らえるかどうかが問題なのではない。「氷(ひ)」に「凝」るところで納得している。
「豈下愚之任乎」の「下愚」部分、一般には兼右本のオロカヒトをとっている。図書寮本に、ヲサナイヒトとある。「不賢」にヲサナシと訓む例は、仁徳前紀、允恭紀四年九月条、推古紀三十二年十月条、舒明前紀、舒明紀元年正月条に謙遜する意味で使われている。意味としては、オロカヒトもヲサナキヒトも大差ない。政権上層部の天皇や大臣の任に堪えるかどうかの話である。人の長(をさ)のことが直接イメージされる語の方がいい。よって、ここはヲサナキヒトが訓としてすぐれてかなっている。
「今大王留レ時逆レ衆」の「逆」部分、一般にはサカヒテとする。時代別国語大辞典に、「さかふ【逆・忤】(動下二)逆らう。従順でない。サカルとも。」とあり、「【考】サカフに四段動詞の形も認めようとする考えがあるが、確証はない。……下二段以外の活用は、[上代には]認めにくいであろう。」(320頁)とする。北野本に、サカヘテとあり、それに従いたい。
「強即二帝位一」の「強」は、古訓に、アナガチニ、シヒテが見られ、一般にはアナガチニとする。無理にも、むりやりに、の意と解している。しかし、アナガチニは、アナ(己)+カチ(勝)+ニ(助詞)の形で構成されたと考えられており、自分勝手に、が原義であろう。筆者は、ナマジヒニの訓を提唱する。名義抄に、「強 ナマジヒ」という訓があり、また次のような例も見られる。
物思ふ 人に見えじと なまじひに(奈麻強尓) 常に思へり ありそかねつる(万613)
天(あめ)何ぞ淑(よ)からずして、憖(なまじひ)に耆(おきな)を遺さざる。(天智紀八年十月)
ナマジヒニは、ナマ(生)+シヒ(強)+ニ〈助詞〉の形で構成され、気持ちとは裏腹に逆らう力を加える意、自分の気持ちに無理に反することを進める意、気が進まないのにつとめてする意として捉える。
「群卿」、「群臣」については、マヘツキミでかまわないが、マウチキミ、マチキミとも訛る傾向があった。上代に縮まったマチキミという言い方が行われていたか不明ながら、筆者は、允恭前紀においては、マチキミという古訓に魅力をおぼえる。この話で群卿、群臣のしていることは、天皇になって欲しいとの推挙であり、固辞されるものだから繰り返し要請している。天皇がまだ不在なのだから、天皇の前にいるわけではない。マヘ(前)+ツ(助詞)+キミ(君)になっていない。即位を待っているから、マチ(待)+キミ(君)である。「不レ知二所為一」であったと記されている。
(注2)管見であるが、この話の要である急転直下の心変わりはなぜなのか、これまで検討の対象とされたことがない。まことに遺憾なことに提題さえ行われていない。平安時代の講莚で誰も質問しなかったであろうか。
(注3)訓読において、筆者のオリジナルによる点があることをお断りしておく。原文に、「有如風之声呼於大虚曰、……」の部分は、一般に、「風の声(おと)の如(ごと)くに、大虚(おほぞら)に呼(よば)ふこと有りて曰く、……」と訓まれている。かなりまどろっこしい返り方が行われている。神代紀第九段一書第二に、「……、仮使天孫、不斥妾而御者、生児永寿、有如磐石之常存。」とある箇所、記の対応部分の「木花之阿摩比能微坐。」に応じて、「……、仮使(たとひ)天孫(あめみま)、妾(やつこ)を斥けたまはずして御(め)さましかは、生めらむ児は寿(みいのち)永くして、磐石(ときはかちは)の有如(あまひ)に常(とば)に存(またか)らまし。」と訓んでいる。「有如○○之……」という用法なので、「風の有如(あまひ)に声(おと)大虚(おほぞら)に呼(よば)ひて曰く、……」としておく。
(注4)伊奘諾神が、「不レ堪二血臰一矣」と言わしめたことについて、何のために出た言葉か不詳である。飼部の黥面習慣廃止譚にすぎないのであろうか。筑紫三神の話のパターンに引きずられているだけなのか。癒えないで彫ったところの傷がパカッと開いて血が出ているから、アハヂ(淡路)はアバク(発)+チ(血)という洒落なのか。新撰字鏡に、「臰臭𦤁 三同作、尺又反、去、久佐志(くさし)」とある。
(注5)「狭名来田蔣津之命」部分は、一般に未詳とされている。兼右本訓に従えば、サナキタノコモツノミコトと訓む。サナキは鐸(ぬて、ぬりて)のことである。鐸については、銅鐸かなにかと考えられている。その読み方が問題である。ヌテ、ヌリテと言ったらしい。すなわち、サナキタノコモツノミコトとは、田を塗って水が籠もるようにしたところのもの、つまり、畦(畔)である。アゼ、または、クロという。皇妃の名は、黒媛であった。色黒の方であったのかもしれない。釈日本紀に、「羽田之汝妹者。兼方案レ之。皇妃者。葦田宿祢女黒媛也。羽田者。謂二葦田一之義歟。」(国会図書館デジタルコレクション(348/484))とある。
(注6)拙稿「剣大刀(つるぎたち)について」参照。飯田武郷・日本書紀通釈第三に、「また或説に刀の身は。鞘を隔てゝ体に著くるか故に。隔着(ヘツ)くと云て。日嗣に云かけたるなり。萬葉四。絶常云者(タユトイハヽ)。 和備染責跡(ワヒシミセムト)。焼太刀乃(ヤキタチノ)。隔付経事者(ヘツカフコトハ)。幸也吾君。また 二鞘之(フタサヤノ)。家乎隔而(イヘヲヘタテヽ)。恋乍将座(コヒツヽヲラム)。なとある」(漢字の旧字体は改めた。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933890(403/413))とある。
(注7)「祟」については、次の用例がある。
時に皇后、天皇の神の教(みこと)に従はずして早く崩(かむあが)りたまひしことを傷みたまひて、以為(おもほ)さく、祟れる神を知りて、財宝(たから)の国を求めむと欲(おもほ)す。(神功前紀仲哀九年二月)
時に、麋鹿(おほしか)・猨(さる)・猪(ゐ)、莫々紛々(ありのまがひ)に、山谷に盈(み)てり。焱(ほのほ)のごと起ち蠅(はへ)のごと散(さわ)ぐ。然れども終日(ひねもす)に一の獣(しし)をだも獲たまはず。是に、猟(かり)止めて更に卜ふ。嶋の神、祟りて曰はく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石(あかし)の海の底に真珠(しらたま)有り。其の珠を我に祠(まつ)らば、悉(ふつく)に獣を得しめむ」とのたまふ。(允恭紀十四年九月)
河神(かはのかみ)、祟りて、吾(やつかれ)を以て幣(まひ)とせり。(仁徳紀十一年十月)
辛亥に、蘇我大臣、患疾(やまひ)す。卜者(うらべ)に問ふ。卜者対へて言はく、「父の時に祭りし仏神(ほとけ)の心に祟れり」といふ。大臣、即ち子弟(やから)を遣(まだ)して、其の占状(うらかた)を奏(まを)す。詔して曰はく、「卜者の言に依りて、父の神を祭(いは)ひ祠れ」とのたまふ。大臣、詔を奏(うけたまは)りて、石像(いしのみかた)を礼(ゐや)び拝みて、寿命(いのち)を延べたまへと乞ふ。是の時に、国に疫疾(えやみ)行(おこ)りて、民(おほみたから)死ぬる者衆(おほ)し。(敏達紀十四年二月)
戊寅に、天皇の病を卜ふに、草薙剣(くさなぎのつるぎ)に祟れり。即日(そのひ)に、尾張国の熱田社(あつたのやしろ)に送り置く。(天武朱鳥元年六月)
……ふとまにに占相(うらな)ひて何(いづ)れの神の心ぞと求めしに、爾の祟りは出雲大神の御心なりき。(垂仁記)
祟っている神は、「所祟之神」≒墨江大神、「嶋神」≒伊奘諾神、「河神」、「仏神」、「草薙剣」、「出雲大神」である。時代がかった神さまが登場している。解除するには「禱(いの)む」だけではなく、祓をして幣を以て「祠(まつ)る」ことが必要とされている。気持ちだけでは不十分で、何かを神に捧げて代償しなければ収まらないということである。代償が支払われない限り、祟りは続く。
(注8)今日論じ述べられる「万世一系の天皇」という言い方には、天皇というものは、ずっと続いて来た尊いものであるという考え方が底辺にあるように感じられる。雄朝津間稚子宿禰皇子の思いには、そのつらら的なつらなりの両刃の剣の輝きに怖れをなしている。自分の骨はつながっていないとも悩んでいた。着眼点に具体性がある。つららのような両刃の剣が、まことに形容にいう両刃の剣であって、厄介だと思っている。天皇という位は、神の怒りを受ければその祟りに苦しめられる存在として、末代まで続くものと捉えられている。しかし、何人であれ、続いて来たから生を受けている。何が違うか。ヒ(甲類)のなぞなぞを思いつめたかどうかの違いである。
(注9)筑紫の三神がわざわざとりあげられている。その理由の検討は別に譲るが、ここでは、「白縫(しらぬひ) 筑紫の綿」(万336)の枕詞、シラヌヒ(ヒは甲類)について触れておく。ヒ(甲類)のため、不知火(しらぬひ、ヒは乙類)ではない。かかり方については、「ヒを霊力の意として、領(シ)ラヌ霊が憑(つ)くの意で成立したものとする説がある。」(時代別国語大辞典603頁)とされている。筑紫のツクの音へとかかるという指摘である。新大系本萬葉集に、「「筑紫」はここでは九州の総称。「綿」は繭より取った「絁綿」(九〇〇)、即ち真綿。衣に入れ(八九二)、フスマに入れ(三三五四)、あるいは衣の上に重ねて寒を防いだ。続日本紀・神護景雲三年(七六九)三月に、大宰府の綿二十万屯を都に納めたという記事が見えるように、綿は九州の名産品であった。「寒時に曳(ひき)蒙(かづく)綿端は西国所レ出」(東大寺誦文稿)。」(233~234頁)と解説されている。允恭天皇の即位話に関連があると思われる履中紀五年の筑紫三神の祟りの原因が、車持君によるものであるとの逸話が広く知られていたならば、ヒ(甲類)のことが上代の人の念頭にあったと考えられて理解できる。
なぜ筑紫と車持君、車持部が関係しているのかについては、車が車軸から輻(や、スポーク)を放射状に広げた様が、ツクシの根につづくスギナの糸状の葉の放射する様に見立てられているからであろう。拙稿「三輪で杉の木を「斎(いは)ふ」のは、甑(こしき)による」参照。筑紫三神は、宗像(胸形)の神、奥津宮、中津宮、辺津宮のことを指すと思われる。記上に、「此の三柱の神は、胸形君等が以ちいつく三前(みまへ)の大神ぞ。」とある。その点については、別に論じる。
(引用・参考文献)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新大系本萬葉集 佐竹昭弘・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『萬葉集 一』岩波書店、1999年。
※本稿は、2017年8月稿を2020年8月に整理したものである。