本稿では、応神紀、仁徳記に載る「枯野」という船にまつわる説話について検討する。カラノと特別に命名されていることは、それなりの古代的観念の反映であって、それを解き明かすことが最重要課題である。上代の人たちはものごとをヤマトコトバで考えていたから、ヤマトコトバの系のなかで理解が完結するものとして解明されなければならないのである。文化人類学のフィールドワークにも似た、異世界への探求心が求められる。
枯野説話の本旨
「枯野」の船の逸話は、応神紀と仁徳記に載っている。話の持ち味に相違があるが、「枯野」と名づけられた高速船が老朽化し、その廃材を使って塩を焼いたところ燃え残りがあり、それで琴を作ったら遠くまで響く音がしたという点が共通する。疑問点としては、(1)「枯野」という船の名称の由来、(2)船を焼いて琴が出現している点、(3)紀では応神朝、記では仁徳朝のこととされて若干内容も相違する点、(4)歌謡の解釈、などが挙げられる(注1)。
冬十月に、伊豆国に科せて船を造らしむ。長さ十丈なり。船既に成りぬ。試に海に浮くるに、便ち軽く泛びて疾く行くこと馳るが如し。故、其の船を名けて枯野と曰ふ。船の軽く疾きに由りて枯野と名くるは、是義違へり。若しは軽野と謂へるを、後人訛れるか。(応神紀五年十月)
三十一年の秋八月に、群卿に詔して曰はく、「官船の枯野と名くるは、伊豆国より貢れる船なり。是朽ちて用ゐるに堪へず。然れども久に官用と為りて、功忘るべからず。何でか其の船の名を絶たずして、後葉に伝ふること得む」とのたまふ。群卿、便ち詔を被けて、有司に令して、其の船の材を取りて薪として塩を焼かしむ。是に五百籠の塩を得たり。則ち施して周く諸国に賜ひ、因りて船を造らしむ。是を以て、諸国、一時に五百船を貢上る。悉に武庫水門に集ふ。是の時に当りて新羅の調使、共に武庫に宿す。爰に新羅の停に、忽に失火せぬ。即ち引きて聚へる船に及びぬ。而くして多の船焚かれぬ。是に由りて新羅人を責む。新羅の王聞きて、讋然ぢて大きに驚きて、乃ち能き匠者を貢る。是猪名部等が始祖なり。初め枯野船を塩の薪にして焼きし日に、余燼有り。則ち其の燃えざることを奇びて献る。天皇、異びて琴に作らしめたまふ。其の音鏗鏘にして遠く聆ゆ。是の時に天皇、歌して曰はく、
枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に ふれ立つ なづの木の さやさや(紀41)
とのたまふ。(応神紀三十一年八月)
此の御世に、菟寸河(注2)の西に、一つの高き樹有りき。其の樹の影、旦日に当れば淡道島に逮び、夕日に当れば高安山を越ゆ。故、是の樹を切りて船を作るに、甚捷く行く船なり。時に、其の船を号けて枯野と謂ふ。故、是の船を以て、旦夕に淡道島の寒泉を酌みて、大御水を献る。玆の船、破れ壊れて塩を焼き、其の焼け遺れる木を取りて琴を作るに、其の音七里に響む。爾くして歌ひて曰はく、
枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に ふれ立つ なづの木の さやさや(記74)
といふ。此は志都歌の歌返ぞ。(仁徳記)
「枯野」伝承の記紀間の違いは、もとは1つであった逸話の素材を、異なる方法でまとめたからであろう。記では巨木伝承から説き起こされる。菟寸河の西に大木があり、その影は朝は淡道島(淡路島)、夕方は高安山を越えるものであった。その木から船を造ったら高速船ができた。朝廷は、朝夕に淡道島から名水を宅配させていた。しかし、船が老朽化したので塩作りのために焼いたら焼け残りがあり、それで琴を作ったとする。一方、紀には巨木伝承や名水宅配の記述はなく、その代わり、一度老朽化した高速船を焼いて塩を作ってそれを諸国に頒布し、それによって再度造船されたものを武庫水門に集結させたが、新羅の調使の宿から出火し、船に延焼してたくさん焼けてしまった。新羅王はお詫びにすぐれた船大工を送ってよこした。ところで、最初の高速船を薪に塩を作った際、燃え残りが残ったので不思議に思い、天皇は琴を作らせたとしている(注3)。
話の中心は記紀ともに所載の話素である「枯野」という船のこと、また、塩に焼いたら焼け残りができたこと、それで琴を作ったら音が大きかったこと、そしてまったく同じ歌謡が歌われていることにある。応神紀三十一年条の詔で、「何其船名勿レ絶、而得レ伝二後葉一焉。」と諮問している。紀の船と記の船は構造的には同じかもしれないが、造られた所が違う。それが同じく「枯野」という名を負っている。違う船なのに同じ名で呼ばれて然るべきと当時の人々に了解されていて、疑問が抱かれていない。だから伝承されている。「枯野」という名こそが重要である。
「枯野」という名
大系本日本書紀の補注に、「枯野は宛字で、カラは軽を意味するものであろう。カルのルは後舌母音で ro としばしば交替する音であり、 ra とも交替しうる音である。ノは去(ヌ)の転。速く走る意。或いは地名による名かともいう。延喜神名式に伊豆国田方郡軽野神社、和名抄に同郡狩野郷(今、静岡県田方郡修善寺町・天城湯ヶ島町)がみえる。しかし、以下の注を書いた人は、枯野を宛字と思わず、文字通りに、枯れた野の意と認めたので、船の軽く疾きに由りて「枯野」と名づけるのは、おかしいと判断したのである。そして「軽野」といったのを後人が訛ってカラノ(枯野)というに至ったものかと注記を加えたのである。」(432頁)とある。
この宛字説を超えた解釈は、佐佐木1995.に見られる。応神紀三十一年条の記事は、船の廃材を焼いて塩を採ったという話が、塩の代償として諸国から献上された船が焼けたという話になって逆転反復されていると指摘する。そして、万葉歌に、「…… 焼く塩の 辛き恋をも ……」(万2742・3652・3932)などとあることを勘案すれば、船の廃材で塩を焼いたとある点に着目すべきで、この説話は、「 [ 塩─焼く─辛 ] という経験的・意味的な結び付きと、[ 辛─韓(=新羅)─枯 ] という音韻的結び付きによって成立しているのではないかと解釈されるのである。」(191頁)とする。そして、「枯野」の「枯」は、船が軽く泛ぶものであっただけでなく、それが朽ちてしまったから選ばれた用字であると捉える。全体に、口承時代の説話に特徴的な性格を持つものであると指摘している。応神紀のほうだけに政治的意図を反映して「新羅」が登場しているとし、意味的関係と音韻的関係は相互関係として縦横の関係になっているとして図示している。
塩ー焼く(ー辛)
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韓(新羅)
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軽←泛びて…
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枯←朽ちて…(193頁)
しかし、「枯野」と名づけられたのは応神紀五年である。朽ちる前から「枯野」である。新羅の火の不始末以前から「枯野」である。形あるものは皆滅びるもので、他の木造船もみな朽ちる。むろん、すべての船が「枯野」と呼ばれたのではなく、応神紀か仁徳記に載る高速船のみが「枯野」である。佐佐木1995.の注記に、「野」について、「燃え残った廃材で作った琴の出すすばらしい音が遠くまで響きわたったということからすれば、「枯野」の「野」の部分は「音」の意のネがノに転じたものとも見られる。」(198~199頁)としている。「枯野」という字に意味的な対応をもっているとの当初の主張は崩れてしまい、音韻的結び付きから「カラノ」と呼んだというに止まっている。
「枯野」と称することについて、応神紀五年条の分注に「是義違焉」とある。そして「軽野」案を提示している。軽く速く走るから、「枯」ではなく「軽」ではないかとは誰でも気づく。紀の編纂者はわざわざそんな指摘を口にしている。何も断る必要もないようなことを殊更に注記している。そのくせ、水に浮かぶ船の名が「野」であるという「義違」としか考えられない点については口を緘している。「野」については「義違」ではないと認められていたとも受け取れる。かえって考えれば、この注は、「枯野」という名はなぞなぞ、ないし、頓智クイズの在り処を示すしるしとして仕組まれているとの推測に至る。ヤマトコトバの奥義を伝えるべくして創作された、紀に独特な巧妙な修辞法なのであろう(注4)。
野は、山の麓のように水がかりが悪く、耕作には適さない一帯をいう。和名抄に、「野〈曠野附〉 四声字苑に云はく、野〈以者反、字は亦、墅に作る。和名は能〉は郊牧の外地なりといふ。日本紀私記に曠野〈阿良能良〉と云ふ。」とあり、馬の飼育場、「牧」の周縁地で、狩りが行われたところである。その野に一面に草が枯れ広がっていると、それはすべて干し草、馬の飼葉に利用できる。ふつう、干し草は刈り取った草を乾燥させて利用する。そして飼葉桶に入れて馬に与える。野が一面に枯れている情景は、飼葉桶に入れるような干し草がたくさんできあがっている状態ということになる。それほど食べれば馬はよく育ち、「疾行如レ馳」と呼ぶに値して速く走ることであろう。古代の高速陸上交通手段はとりもなおさず馬であった。そして、飼葉桶は「槽」である。フネとは、船の形をしたもののことである。
「枯野」をカレノではなく、カラノとわざわざ訓じている。佐佐木1995.のとおり、音韻的な結び付きはおもしろがられたに違いない。ただし、それは、説話の構成上の次元においてである。道具に接頭するカラは、唐紙、唐耒などのように、大陸から伝来したもので、しかも特殊な機巧のほどこされたものをいう。この船がカラノと称される所以は、従来のヤマトの船にはないメカニズムによって高速船が成っていたことを表したかったためであろう。廃船後、薪として塩を焼いたが燃え残りができたといい、燃え残りで琴を作ったら大きな音が響いたとしている。説話の最後に歌がついていて、「さやさや」と擬音語めかして締めくくられている。話にオチが付いているものと考えられる。後述する。
応神紀に「余燼」が残って、どうして燃え尽きないのか不思議がっている。それまでの船であれば燃え残ることがなかったことを表している。そのニュアンスを汲みとることこそ“読む”目的である。船を焼いて何が燃え残ったのか。モエクヒが塊となっている。燃える前はログヒ(櫓(艪)杭)だったのであろう。
左:継櫓(ワキロ、トモロ、川崎市立日本民家園展示品)、中:櫓杭(熊ヶ峰さんのマイページ様サイト・高瀬舟の出べそhttp://www.freeml.com/bl/350347/105163)、右:櫓杭と櫓(外した状態。歌舞伎座ギャラリー展示品)
櫓杭は、船の櫓床の端に設けられた小さな突起をいい、櫓臍などとも呼ばれる。櫓腹に作られた穴の部分をいう入れ子に嵌めて、櫓を漕ぐときの支点とした。櫓は船を漕ぎ進めるための推進具で、櫂とならび広く用いられた(注5)。和船の櫓の漕ぎ方は、正面を向いて櫓を握り、揚力原理によって推進力を得て進んでいく(注6)。櫓材には樫などの堅い木が使われ、それに対する櫓杭部分も堅く塊になっていて、実際にも船の他の部分と比べて燃え残る可能性は高いと言える。
歌謡に、「海石に ふれ立つ なづの木の さやさや」とある。この個所には曖昧な解釈が横行している。「海石」の上に「なづの木」が「ふれ立つ」ていて、「さやさや」と音がするのか、「海石」と「なづの木」が「ふれ立つ」て「さやさや」と音がするのか、よくわからない(注7)。
「なづの木」を水辺の植物とすると、水に漬かっているところが波に揺られて水面上の葉がさやさやと鳴っていることになる。波だけが動いて風がない状態を言っていることになり、海底地震のような不気味さである。「なづの木」を海藻とすると、水中の海藻に音を感じ取らなければならない。水中の音はふつう、波の音、潮の音である。海藻は引き上げた時にバシャバシャと音を立てることがあるかもしれないが、水中で「さやさや」とはしない。いかに比喩であれ、擬態語ととろうにも、海藻の意に解するには不自然な形容である(注8)。ここは、木製の櫓を使ったら海中の石に触れた。音かどうかはさておき、そのことを「さやさや」と表していると考えるべきである。
また、「枯野」のモエクヒには、春になる直前、冬の終わりに野焼きをすることも含意されているのであろう。牧草地においては、枯れた草を焼いて春の新芽を促した。燃えて萌えたのである。牧には周囲に杭が打たれ、ロープを張って家畜が逃げ出せないように、また、害獣に襲われないようにしていた。野焼きで杭に火が付き、焼け棒杭の「余燼」となったり、跡に新たに杭をめぐらせることもあったであろう。燃え杭と萌え杭のある光景である。なぜ杭ばかり立てているかと問われれば、そこに馬を繋ぐから、または船を繋ぐからであり、両者が等価なのは、フネとは飼葉を入れる槽でもあるからである。「枯野」という船の名の「野」の、「疾行如レ馳」フネのイメージにかなっている。以上のとおり、動力源として櫓を伴った高速船は、音韻的、意味的に、重層的な結び付きをもつことから「枯野」と命名されたと考えられる。応神紀五年条の注記、「由二船軽疾一名二枯野一、是義違焉。若謂二軽野一、後人訛歟。」は、愚かなふりをして読者に謎掛けをしているのである。
左:杭につながれた馬(歌川広重・東海道五十三次 池鯉鮒 首夏馬市、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/東海道五十三次_(浮世絵)をトリミング)、右:杭につながれた船(慕帰絵々詞摸、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2590853/1/27をトリミング)
船と琴、トビの尾と櫓
次に、琴と船の関連について考える。
登場する琴については、後漢書・蔡邕列伝の焦尾琴の逸話が引かれることが多い。「呉人に桐を焼きて以て爨ぐ者有り。邕、火の烈く声を聞きて、其の良木たるを知る。因りて請ひて裁りて琴と為るに果して美音有り。而るに其の尾猶ほ焦げたり。故に時の人、名けて焦尾琴と曰ふ。(呉人有焼桐以爨者、邕聞火烈之声、知其良木、因請而裁為琴、果有美音、而其尾猶焦、故時人名曰焦尾琴焉。)」とあり、捜神記にも同様の記載がある(注9)。
本邦においては、琴を弾く埴輪像が見られるように古くから琴は存在した。当たり前にあったようで焦尾琴を引くには及ばない。そして、塩を作るのに船を焼いたら焼き残るところがあったのでそれで琴を作ったとしている。そんな特別な琴のことを話題にしている。
西郷2005.は、根の国の話にある「天の詔琴」(天の沼琴)のコトを「木の音」とする語源説と同様との説を唱えている。しかし、琴は木を叩いて音を出す楽器ではなく、弦を弾いて鳴らすものである。また、船材に楠が多く、正倉院以降の琴に桐材が多いことからして、枯野伝承の琴の材料については「説話上の構成に他なるまい。」(125頁)としている。「枯野」の船材が桐であろうはずはない。桐を焼いて燃え切らなくて不思議がるような部分は、ひょっとしたら根っ子の部分にあるかもしれないが、そんな部分は船材にも琴材にもすることは想定できず、仮にあったなら説話に明示されているはずである。また、出土品のうち共鳴槽をもった琴の大半は、スギやヒノキといった針葉樹製である(注10)。そして枯野説話は、「話(咄・噺・譚)」として作り上げられ、当時のヤマトの人に必然性を感じさせるものであったと考えられる。話の内容、筋道が違う蔡邕の焦尾琴伝説とは無関係である。
当時の琴は和琴(倭琴)である(注11)。二十巻本和名抄には、「日本琴 万葉集に云はく、梧桐の日本琴一面〈天平元年十月七日、大伴淡等、使の監に附けて中将衛督房前卿に贈りし書に記せるなり、体は箏に似て短く小くして六弦有り、俗に倭琴の二字を用う。夜万止古止。大歌所に鴟尾琴有り。止比乃乎古止。倭琴の首を鴟の尾の形に造ればなり〉といふ。」とあり、万810・811番歌の題詞に対応している(注12)。
また、延喜式・伊勢大神宮式に、「鴟尾琴一面 〈長さ八尺八寸、頭広さ一尺、末広さ一尺七寸、頭鴟尾広さ一尺八寸〉。」とある。和琴の一つの鴟尾琴は後に廃れてしまったが、鳥のトビの尾のような、曲がり出た形の装飾がほどこされていたもののようである。谷川士清・倭訓栞に、「とびの越ごと ……神武紀に、金色の鵄、天皇の弓弭に止りしこと見えたり、琴の起りハ弓を並へたるといふことあれは、是其義に据りしなるへし」(早稲田大学図書館古典籍データベースhttp://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko01/bunko01_01604/bunko01_01604_0017/bunko01_01604_0017_p0031.jpg、読点を補った)とある。ヤマトコトバにトビノヲノコトとあるからには、本邦の人のあいだに琴の概念は定まっているのである。
発掘される琴としては、共鳴槽を持たない板作りのもの、共鳴槽を持つもの、ミニチュア、の三種に大別される。共鳴槽を持つものが和琴と通称されたもので、六突起、六弦、琴軋と呼ばれる鼈甲製のピックで演奏され、現在の雅楽では神楽歌、東遊、久米歌、大歌、誄歌といった日本古来の「歌もの」の伴奏楽器とされる。出土品では、その作りから、槽作りのもの、甲作りのもの、箱作りのものに分けられている(注13)。古墳時代のものとして槽作りの大ぶりの琴が出土している。島根県松江市石田遺跡のものは、幅13.5cm×全長192cm、滋賀県野洲町市三宅東遺跡のものは全長161.3cmという。その共鳴槽の作りは槽作り、すなわち、フネを作って蓋をする形であった。「枯野」のフネの焼け残りから、琴のフネが作られたという話は、言葉の洒落となっていて適っている。
左:箏(槽作りの琴、古墳時代、守山市服部遺跡出土、公益財団法人滋賀県文化財保護協会サイト、中川治美「調査員のおすすめの逸品 No.51 日本の伝統楽器「こと」─ひとの心を奏でる逸品─」http://shiga-bunkazai.jp/調査員のおすすめの逸品%E3%80%80no-51/)、右:トビの尾
その和琴の形にトビの尾を見ている。トビはタカ科の鳥で、海辺に多く見られる。上空から狙いをつけ、死んだ小動物や観光客の食べ物を急降下してさらっていく。空高く輪を描くように飛び、ピイヒョロロと鳴いてその声は遠くまで聆こえる。よく上昇気流をとらえてグライダーのように両翼を広げて動かさず、尾羽を使って方向転換している。李自珍・本草綱目に、「時珍曰く、鴟、鷹に似て稍小さし。其の尾、舵の如く、極めて善く高く翔りて、専ら鶏雀を捉ふ。(時珍曰、鴟似鷹而稍小、其尾如舵、極善高翔、専捉鶏雀。)」と評されている。船において羽ばたくことがないように見立てられるものとは、櫂を使わずに船尾の櫓のみで進むものと言える。その軽やかな航行を見て、トビが空を翔るようにあると譬えられた。
トビは、紀に鵄、新撰字鏡に鳶、蔦、鵄、殦、鵈、和名抄に、◆(弖偏に鳥)、鴟、鳶、▲(缶の下に鳥)、𪀝、鵟と書かれる。鵄の字の至は矢が到達することを表し、鴟の字の氐は底に低くなるように薄く這いつくばる形、ないしは抵る意、鳶の字にある弋はいぐるみの形とされている。木鳶、紙鳶、風鳶とは凧のこと、古くはいかのぼりと呼ばれたものである。トビが羽ばたかずして飛んでいる様を、糸をつけた薄っぺらな足つきの凧に似たものと捉えていたらしい。英語の kite はトビのことである。
イグルミは射て包む意、すなわち、弋の字の字形にあるY字形の矢の股に糸をつけ、それを鳥に向けて射って糸を絡ませ、飛べなくして落ちたところを捕まえるというものである。和名抄に、「弋射 唐韻に云はく、弋〈与職反、以豆留〉は射なりといふ。四声字苑に云はく、矰〈音は曽〉は射る矢なり、繳〈之若反〉は矰繳して飛ぶ鳥に加する所以なりといふ(矰繳所以加飛鳥也)。」とある。イヅルは射蔓の意とされ、また、糸弓とも呼ばれる。和琴はぐるぐると六重巻きに糸を巻くもののようである。ここにある「加」と同じ用法は、詩経・鄭風・女曰鶏鳴の「将た翶し将た翔し 鳧と雁とを弋す 弋して言に之に加つ 子と之を宜とせむ(将翶将翔 弋鳧与雁 弋言加之 与子宜之)」に見える。詩経の「加」については、鄭箋に、料理にするとき豆を加えること、集伝に、射て鳥に中てること、また、嘉に通じて「嘉き御供え」(赤塚1986.147頁)のこととする説があげられている。集伝説が日中とも有力視されているが、弋射において肝要なのは矢が命中することではなく、矢についている糸が鳥の翼に絡まって羽ばたけなくすることである。よって鳥は落ち、捕まえることができる。
古語に、「加ふ」は「銜ふ」に同根で、食ひ+合ふ、の約とされ、上下の歯でしっかり物をはさみ支えて外れないことを指す。その「加」の意味は枷に通じ、手枷、足枷で動けなくするのと同じことである。名義抄に「桎 音質、ホダシ、テガシ、アジカシ、手杻也、足械也」とあり、字鏡集に「枷 鉫同、𩊏同、ネリ、クヒカシ、クサリ、キツナ」とある。したがって、和名抄と詩経の「加」の訓としては、絆などとも書かれるホダスがふさわしい。新撰字鏡に「琑鏁 思果・思招二反、鏁同字、久佐利、又止良布、又保太須」とある。紀にあった「余燃」と同じ燼は、新撰字鏡に「𤏖熸燼藎▼(𤒯の从部分が十)㶳 六形同、子廉反、燼は似進・如云二反、去、火の滅して𤏖燼と為るを謂ふ。火余木也。火介知乎佐牟、又保太久比」とあり、榾柮のことで、音ホダを同じくする。絆すとは繋ぎとめ束縛することだから、拘束のために縄紐を絡ませることである。音韻的結び付きは、〔枯─辛─韓─絡〕と続くものであった。
弋の字は杭の意にも使われ、杙とも書く。紀の「余燃」のクヒである。もともとの意味のY字形の矢は、鏃になると雁股とも呼ばれる矪のことである。和名抄に「矪 唐韻に云はく、矪〈張留反、漢語抄に久流利と云ふ〉は鳥を射る矢の名なりといふ。」とある。トンビがクルリと輪を描いた、である。鏃が金属製となり、刃のように磨がれて鳥の脚を傷つけるかと後に誤解されたが、元来はいぐるみのことであったに相違ない。矪の字にある舟は、特段、字書に説明されているわけではないが、「枯野」の船のことを思い起こさせる。速く飛ぶトビのような船だと思い、船尾につけた艫櫓ひとつで漕ぎ進むのを、翼を羽ばたかせないままに進むと見立てている。
トビノヲは鴟尾の訓読語であるとされる。鴟尾は、(1)古代の瓦葺建築の大棟の両端に取り付ける装飾物の沓形、後に鬼瓦や鯱へと発展するもののこと、(2)牛車の轅の後方に伸びる小轅のことをいう。和名抄では、居処部に「鴟尾 唐令に云はく、宮殿は皆、四阿に鴟尾〈弁色立成に久都賀太と云ふ〉を施せといふ。」、舟車部に「轅 唐韻に云はく、輈〈張流反〉は車の轅なり、轅〈音は園、奈加江、俗に前に在るを轅と謂ひ、後に在るは之れを鴟尾と謂ふ。或に小轅と云ふ〉は車のなりといふ。」とある。同じく牛に牽かれる唐耒(犂)において、それに相当する部分を耒轅という。字鏡集の枷の説明にあるネリはこれを指すのであろう。轅は長い柄のことであるが、船の櫓も同じく長く、また、少しく湾曲していて力を伝えるのに効果的である。そして、「矪」字は、本邦に農具の唐竿、連枷、いわゆるくるり棒のことも指す。よって、枷はモエクヒでもあり、トビノヲでもあることになっている。
また、鳶の者、鳶の衆といえば、建築・土木工事の人足で、鳶職、鳶口とも呼ばれる。鳶口は、棒の端にトビの嘴のような鉤をつけた道具である。物を引っかけて動かし、運んだり壊したりするのに用い、消防用でも活躍し、単にトビともいう。鳶の者(衆)のことは、また、手子(梃子)の者(衆)、単にテコともいう。大工、土木、石工など、下まわりの仕事をする者のことであり、かなりの力を要する。手子(梃子)は支点のまわりに回転しうる棒のこと、力のモーメントを利用して小さな力を大きな力に変えるものである。櫓杭に櫓の入れ子を嵌めることで、櫓は梃子の原理で力強く推進力を生む。何梃もの櫂に代わるほど、力強いものと考えられたのであろう。
「枯野」と櫓と塩、カヂ(楫(檝))、伊豆手船という語
紀で、天皇は群卿に、長らく官船として活躍してきた功績から、その名を忘れられないように後世に伝える方法を問うている。群卿の出したアイデアは、船材を薪にして塩に焼かせることであった。そして、五百籠の塩を得てそれを諸国に配り、それを糧としてそれぞれに船を造らせた。その五百艘の船を武庫港に集めたところ火事に遭い、その責任を取る形で新羅は大工職人の「猪名部等之始祖」を献上している。猪名部は雄略紀にも載る大工職である。話の展開に飛躍が見られるものの、本筋は高速船やその造船技術ばかりでなく、「枯野」という名を後世に伝える方法として、塩に焼くことがふさわしいと考えられていたことがわかる。
すでに述べたとおり、「枯野」という船の名は、牧とした野が枯れて大量の干し草が得られ、早く走る馬がよく成長することを譬えとしたものであった。「軽泛疾行如レ馳」(応神紀)、「甚捷行之船也」(仁徳記)とある。トビの尾を思わせる櫓を推進具とした船である。
万葉集に、「伊豆手船」、「伊豆手の船」なる語がある。
防人の 堀江漕ぎ出る 伊豆手船 楫取る間なく〔可治登流間奈久〕 恋は繁けむ(万4336)
堀江漕ぐ 伊豆手の船の 楫つくめ〔可治都久米〕 音しば立ちぬ 水脈速みかも(万4460)
「伊豆手船」の意については、伊豆の地に造船技術があったからとする説が根強い。「枯野」号についても、応神紀に「伊豆」の地名が示されている。そして、「手」は、一般に、方式、種類の意とされている。けれども、他に「真熊野之船」(万944)、「松浦舟」(万1143・3173)、「足柄小舟」(万3367)といった例はあっても、~風の、という意味で地名に「手」と付けられた言い方が見られない。そもそも伊豆が造船技術の特化した国であったかわからない。イヅについては、第一に、弋と関係しそうである。すなわち、「伊豆手船」とは、鴟尾、轅のような櫓をもって進ませる船である。また、第二に、イヅク(何処)のイヅの可能性もある。
多由比潟 潮満ちわたる 何処ゆかも 愛しき背ろが 吾許通はむ(万3549)
「何処」が単独で使われたのは上1例であるが、不定の場所・方向・方角を示す語根で、どこ(where)、の意である。イヅという語に含意されるどこかわからないという意に「伊豆手船」を解すれば、どこに「手」があるかわからない船、すなわち、櫂がなくて櫓で進む船ということになる。また、どちらの方向を向いているのかわからないという意と解すれば、船尾の艫にあって方向舵のようなふりをしておきながら実は推進具として十分に働いている櫓によって進む船ということになる。
古代の船の推進具としては、櫂(パドル)、楫(オール)、櫓、帆、棹があげられる。銅鐸の線刻としては、福井県春江町出土の井ノ向1号鐸に、船首尾を高く反り上げた船が鋳出されている。その船上と舷側に棒状のものが多数刻まれており、漕ぎ手と櫂とを表しているとされている。また、船形埴輪としては、宮崎県西都原古墳群出土の埴輪に舷側にカギ状の出っ張りがついており、そこを櫂の支点として船の進行方向に背を向けて座って漕ぐものであると見られている。
左:船形埴輪(古墳時代、5世紀、宮崎県西都市西都原古墳群出土、東博展示品)、右:櫓を漕ぐ舟(近江八幡)
櫓については、石井1995.に、「日本では縄文・弥生・古墳時代の数千年間に及ぶ長い時代を通じて櫂を使い、櫓が実用化したのは七世紀頃に遣唐使船として中国のジャンク技術を導入した際に、一緒に入ってきたのではないかと思われるふしがある。それは承和五年(八三八)の遣唐使船に乗った入唐僧円仁の『入唐求法巡礼行記』の中に「帆を上げ、艫(櫓)を揺してゆく」といった一節があるからである。しかも『万葉集』には、櫂、楫はあっても櫓なる言葉はでてこないので、おそらくこれが史料面での櫓の初出ということになるかもしれない。」(253~254頁)とある。ただし、和名抄に、「艣 唐韻に云はく、艣〈郎古反、魯と同じ〉は船を進むる所以なりといふ。」とある。櫓は漢語で音読みであるから、歌語を重んじる傾向の万葉集には現れにくいであろう。仁徳前紀には「取二檝櫓一」とあり、「檝櫓」をカヂと訓んでいる。
楫(梶、檝)という言葉は、櫓や櫂といった船を漕ぐための推進具の総称とされており、また、楫と櫂の意味の違いは未詳、ないし、混乱が見られるという。操舵のための舵との間の紛れも影響しているのであろう。田村1990.に、ロ、カイ、カヂなどの「語義はそれぞれ交錯しており、類別しにくいものであるのは、これらの機能が、古くさかのぼるほど、近似のものであったことからくるものであろうと推察する以外にない。」(173頁)と解説されている。妥当な判断である。和名抄に「檝 釈名に云はく、檝〈音は椄、一音に集、賀遅〉は舟をして捷疾ならしむといふ。兼名苑に云はく、檝は一名に橈〈奴効反、一音に饒〉といふ。」、「棹 釈名に云はく、旁に在りて水を撥ぬるを櫂〈直教反、字は亦、棹に作る。楊氏漢語抄に加伊と云ふ〉と曰ひ、水中に櫂し、且た櫂を進むなりといふ。」、新撰字鏡に「棹櫂 同、直孝・徒角二反、檝類也。木の枝柯无きを謂ふ。櫂は長くして殺る者也。船の加伊〉」、「柂 船乃加地」、一切経音義に「舟艥 又檝楫に作る、子獵反、櫂は之れを艥と謂ふ。艥は槤也。水を撥きて舟を槤せしむ疾き者也。倭に加伊と言ふ。櫂は馳教反、檝也。倭に加地と言ふ」とある。したがって、カヂという語は、櫂のことも言えば、櫓のことも言っていたと考えられる。
万葉集にカヂの語は、「真梶」、「小梶」、「梶棹」、「八十梶」など含めて70例ほどある。用字としては、「梶」(万220・257・260・366・368・509・930・934・935・936・942・1143・1152(2例)・1185・1205・1221・1235・1254・1386・1453・1455・1664・1780・2015・2029・2072・2089・2223・2746・3211(「八十梶」)・3212(「八十梶」)・3232・3333(2例)・4025・4240・4461)の38例、「檝」(万1138・2044・2067・2088・2494・3173・3174・3299)の8例、「櫂合」(万1062)、また、音仮名としては「可治」(万3611・3624・3627・3630・3641・3664・3679・3894・3961・3993・4027・4048・4065・4336・4360・4368・4459・4460)の18例、「加治」(万3555)、「加遅」(万4006)、「可知」(万4331)、「加(夜蘇加)」(万4363・4408)となっている。「梶」の字は中国では梢の意である。本邦で、船のかじや車のかじ棒、和紙の原料のカジノキの意味に使われるようになった。字形が木の尾とあることから、鴟尾との関連が想起されて好まれたのであろう。
石井1995.に、櫓の推進理論が解説されている。櫓を漕ぐことによって水中のブレードが一定の迎角をもって往復運動すると、櫓下の下面に揚力を生じて推進力を得る。その推進力は櫓下の揚力係数と面積に比例し、水を掻く速度の二乗に比例するといい、漕ぐのに同調させて船体をローリングさせると櫓下の速度が増して推進力が大きくなる。仮に櫓を45°に深く入れても、揚力の70%程度しか推進力にならないものの、櫓下が薄ければ撓わせて入射角を増して効率を上げることができる。櫓下が細長いのは、例えば櫓下の水中部分の縦横比が20であれば、櫓下の迎角は11°が最適、抵抗力は抵抗係数にして0.03ときわめて小さく、効率が良いからであるという。これは、飛行機やグライダーの主翼、プロペラ、高性能ヨットの帆の縦横比を大きくするのと同じ理論であるとされている(254~256頁)。
櫓という字は、大きな楯のことも表し、説文に「櫓 大盾也。木に从ひ魯声、樐 或は鹵に从ふ」とある。和名抄に載る艣は、集韻に「艣 船を進むる所以なり。通じて樐、櫓に作る」とある。鹵は塩(鹽)のことである。説文に「鹽 鹹也。鹵に从ひ監声。古者、宿沙、初めて煮海鹽を作る、凡そ鹽の属、皆鹽に从ふ」、広韻に「天生を鹵と曰ひ、人生を鹽と曰ふ」とある。「枯野」の船を塩に焼いたとあるのは、類推思考の著しい無文字社会の考え方からは、その船に塩的なるものが内含していたことを示すものであろう。櫓の船であるから、櫓=樐=塩ということになる(注14)。船具の櫓と防具の盾は、ともに手首を返すようにして動かして操作する。そして、塩に焼くという焼の旧字、「燒」に旁の同じ「橈」は、撓うカヂのこと、すなわち、櫓である。櫓を形容していた鳶、轅、また、塩の音はいずれもエンである。
「枯野」は、牧における馬の飼育を比喩としていた。塩の重要性を指摘しているのであろう。厩牧令の厩細馬条に、「日ごとに、細馬に、粟一升、稲三升、豆二升、塩二夕給へ。中馬に、稲若しくは豆二升、塩一夕。」とあって、上馬、中馬には塩を与える規定が記されている。「駑馬」なる下馬には規定がない。貴重な塩はのろまな馬には適当にしておけということらしい。「五百籠(コは甲類)の塩」とある。塩の助数詞は「籠」である。廣山2003.は、砂粒状の塩は、計量単位として、斛・斗・升によって数えられているが、同時に、籠で数えられる場合も多かったことを検証している。しかるに、イホコなる言葉の音からは、塩の盛られた形が、野において枯草を材料にして建てられた仮小屋、「廬(庵)」のようであるとの謂いかもしれない。廬は「伏廬」、「廬屋」、「田廬」などと、伏せることを暗示する言葉である。
「籠」とあるのも、火桶の上に被せて衣類を乾かしたり、薫香を衣類にたきしめるのに用いる伏籠を連想させる。伏籠は、また、鳥を捕らえるための罠ともなるものや、鶏を入れておくゲージのこともいう。よって、薪で塩に焼くという面からも、弋で鳥を捕まえるという面からも、船尾の櫓のことであると導かれるのである。そして、廬の音は、櫓、鹵と同じくロである(注15)。廬を葺くのに使うのは「真草」であり、馬を養うのも「秣」である。「枯野」が早馬を譬えにした船の名であったことの語学的証左である。
(つづく)
枯野説話の本旨
「枯野」の船の逸話は、応神紀と仁徳記に載っている。話の持ち味に相違があるが、「枯野」と名づけられた高速船が老朽化し、その廃材を使って塩を焼いたところ燃え残りがあり、それで琴を作ったら遠くまで響く音がしたという点が共通する。疑問点としては、(1)「枯野」という船の名称の由来、(2)船を焼いて琴が出現している点、(3)紀では応神朝、記では仁徳朝のこととされて若干内容も相違する点、(4)歌謡の解釈、などが挙げられる(注1)。
冬十月に、伊豆国に科せて船を造らしむ。長さ十丈なり。船既に成りぬ。試に海に浮くるに、便ち軽く泛びて疾く行くこと馳るが如し。故、其の船を名けて枯野と曰ふ。船の軽く疾きに由りて枯野と名くるは、是義違へり。若しは軽野と謂へるを、後人訛れるか。(応神紀五年十月)
三十一年の秋八月に、群卿に詔して曰はく、「官船の枯野と名くるは、伊豆国より貢れる船なり。是朽ちて用ゐるに堪へず。然れども久に官用と為りて、功忘るべからず。何でか其の船の名を絶たずして、後葉に伝ふること得む」とのたまふ。群卿、便ち詔を被けて、有司に令して、其の船の材を取りて薪として塩を焼かしむ。是に五百籠の塩を得たり。則ち施して周く諸国に賜ひ、因りて船を造らしむ。是を以て、諸国、一時に五百船を貢上る。悉に武庫水門に集ふ。是の時に当りて新羅の調使、共に武庫に宿す。爰に新羅の停に、忽に失火せぬ。即ち引きて聚へる船に及びぬ。而くして多の船焚かれぬ。是に由りて新羅人を責む。新羅の王聞きて、讋然ぢて大きに驚きて、乃ち能き匠者を貢る。是猪名部等が始祖なり。初め枯野船を塩の薪にして焼きし日に、余燼有り。則ち其の燃えざることを奇びて献る。天皇、異びて琴に作らしめたまふ。其の音鏗鏘にして遠く聆ゆ。是の時に天皇、歌して曰はく、
枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に ふれ立つ なづの木の さやさや(紀41)
とのたまふ。(応神紀三十一年八月)
此の御世に、菟寸河(注2)の西に、一つの高き樹有りき。其の樹の影、旦日に当れば淡道島に逮び、夕日に当れば高安山を越ゆ。故、是の樹を切りて船を作るに、甚捷く行く船なり。時に、其の船を号けて枯野と謂ふ。故、是の船を以て、旦夕に淡道島の寒泉を酌みて、大御水を献る。玆の船、破れ壊れて塩を焼き、其の焼け遺れる木を取りて琴を作るに、其の音七里に響む。爾くして歌ひて曰はく、
枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り 掻き弾くや 由良の門の 門中の海石に ふれ立つ なづの木の さやさや(記74)
といふ。此は志都歌の歌返ぞ。(仁徳記)
「枯野」伝承の記紀間の違いは、もとは1つであった逸話の素材を、異なる方法でまとめたからであろう。記では巨木伝承から説き起こされる。菟寸河の西に大木があり、その影は朝は淡道島(淡路島)、夕方は高安山を越えるものであった。その木から船を造ったら高速船ができた。朝廷は、朝夕に淡道島から名水を宅配させていた。しかし、船が老朽化したので塩作りのために焼いたら焼け残りがあり、それで琴を作ったとする。一方、紀には巨木伝承や名水宅配の記述はなく、その代わり、一度老朽化した高速船を焼いて塩を作ってそれを諸国に頒布し、それによって再度造船されたものを武庫水門に集結させたが、新羅の調使の宿から出火し、船に延焼してたくさん焼けてしまった。新羅王はお詫びにすぐれた船大工を送ってよこした。ところで、最初の高速船を薪に塩を作った際、燃え残りが残ったので不思議に思い、天皇は琴を作らせたとしている(注3)。
話の中心は記紀ともに所載の話素である「枯野」という船のこと、また、塩に焼いたら焼け残りができたこと、それで琴を作ったら音が大きかったこと、そしてまったく同じ歌謡が歌われていることにある。応神紀三十一年条の詔で、「何其船名勿レ絶、而得レ伝二後葉一焉。」と諮問している。紀の船と記の船は構造的には同じかもしれないが、造られた所が違う。それが同じく「枯野」という名を負っている。違う船なのに同じ名で呼ばれて然るべきと当時の人々に了解されていて、疑問が抱かれていない。だから伝承されている。「枯野」という名こそが重要である。
「枯野」という名
大系本日本書紀の補注に、「枯野は宛字で、カラは軽を意味するものであろう。カルのルは後舌母音で ro としばしば交替する音であり、 ra とも交替しうる音である。ノは去(ヌ)の転。速く走る意。或いは地名による名かともいう。延喜神名式に伊豆国田方郡軽野神社、和名抄に同郡狩野郷(今、静岡県田方郡修善寺町・天城湯ヶ島町)がみえる。しかし、以下の注を書いた人は、枯野を宛字と思わず、文字通りに、枯れた野の意と認めたので、船の軽く疾きに由りて「枯野」と名づけるのは、おかしいと判断したのである。そして「軽野」といったのを後人が訛ってカラノ(枯野)というに至ったものかと注記を加えたのである。」(432頁)とある。
この宛字説を超えた解釈は、佐佐木1995.に見られる。応神紀三十一年条の記事は、船の廃材を焼いて塩を採ったという話が、塩の代償として諸国から献上された船が焼けたという話になって逆転反復されていると指摘する。そして、万葉歌に、「…… 焼く塩の 辛き恋をも ……」(万2742・3652・3932)などとあることを勘案すれば、船の廃材で塩を焼いたとある点に着目すべきで、この説話は、「 [ 塩─焼く─辛 ] という経験的・意味的な結び付きと、[ 辛─韓(=新羅)─枯 ] という音韻的結び付きによって成立しているのではないかと解釈されるのである。」(191頁)とする。そして、「枯野」の「枯」は、船が軽く泛ぶものであっただけでなく、それが朽ちてしまったから選ばれた用字であると捉える。全体に、口承時代の説話に特徴的な性格を持つものであると指摘している。応神紀のほうだけに政治的意図を反映して「新羅」が登場しているとし、意味的関係と音韻的関係は相互関係として縦横の関係になっているとして図示している。
塩ー焼く(ー辛)
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韓(新羅)
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軽←泛びて…
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枯←朽ちて…(193頁)
しかし、「枯野」と名づけられたのは応神紀五年である。朽ちる前から「枯野」である。新羅の火の不始末以前から「枯野」である。形あるものは皆滅びるもので、他の木造船もみな朽ちる。むろん、すべての船が「枯野」と呼ばれたのではなく、応神紀か仁徳記に載る高速船のみが「枯野」である。佐佐木1995.の注記に、「野」について、「燃え残った廃材で作った琴の出すすばらしい音が遠くまで響きわたったということからすれば、「枯野」の「野」の部分は「音」の意のネがノに転じたものとも見られる。」(198~199頁)としている。「枯野」という字に意味的な対応をもっているとの当初の主張は崩れてしまい、音韻的結び付きから「カラノ」と呼んだというに止まっている。
「枯野」と称することについて、応神紀五年条の分注に「是義違焉」とある。そして「軽野」案を提示している。軽く速く走るから、「枯」ではなく「軽」ではないかとは誰でも気づく。紀の編纂者はわざわざそんな指摘を口にしている。何も断る必要もないようなことを殊更に注記している。そのくせ、水に浮かぶ船の名が「野」であるという「義違」としか考えられない点については口を緘している。「野」については「義違」ではないと認められていたとも受け取れる。かえって考えれば、この注は、「枯野」という名はなぞなぞ、ないし、頓智クイズの在り処を示すしるしとして仕組まれているとの推測に至る。ヤマトコトバの奥義を伝えるべくして創作された、紀に独特な巧妙な修辞法なのであろう(注4)。
野は、山の麓のように水がかりが悪く、耕作には適さない一帯をいう。和名抄に、「野〈曠野附〉 四声字苑に云はく、野〈以者反、字は亦、墅に作る。和名は能〉は郊牧の外地なりといふ。日本紀私記に曠野〈阿良能良〉と云ふ。」とあり、馬の飼育場、「牧」の周縁地で、狩りが行われたところである。その野に一面に草が枯れ広がっていると、それはすべて干し草、馬の飼葉に利用できる。ふつう、干し草は刈り取った草を乾燥させて利用する。そして飼葉桶に入れて馬に与える。野が一面に枯れている情景は、飼葉桶に入れるような干し草がたくさんできあがっている状態ということになる。それほど食べれば馬はよく育ち、「疾行如レ馳」と呼ぶに値して速く走ることであろう。古代の高速陸上交通手段はとりもなおさず馬であった。そして、飼葉桶は「槽」である。フネとは、船の形をしたもののことである。
「枯野」をカレノではなく、カラノとわざわざ訓じている。佐佐木1995.のとおり、音韻的な結び付きはおもしろがられたに違いない。ただし、それは、説話の構成上の次元においてである。道具に接頭するカラは、唐紙、唐耒などのように、大陸から伝来したもので、しかも特殊な機巧のほどこされたものをいう。この船がカラノと称される所以は、従来のヤマトの船にはないメカニズムによって高速船が成っていたことを表したかったためであろう。廃船後、薪として塩を焼いたが燃え残りができたといい、燃え残りで琴を作ったら大きな音が響いたとしている。説話の最後に歌がついていて、「さやさや」と擬音語めかして締めくくられている。話にオチが付いているものと考えられる。後述する。
応神紀に「余燼」が残って、どうして燃え尽きないのか不思議がっている。それまでの船であれば燃え残ることがなかったことを表している。そのニュアンスを汲みとることこそ“読む”目的である。船を焼いて何が燃え残ったのか。モエクヒが塊となっている。燃える前はログヒ(櫓(艪)杭)だったのであろう。
左:継櫓(ワキロ、トモロ、川崎市立日本民家園展示品)、中:櫓杭(熊ヶ峰さんのマイページ様サイト・高瀬舟の出べそhttp://www.freeml.com/bl/350347/105163)、右:櫓杭と櫓(外した状態。歌舞伎座ギャラリー展示品)
櫓杭は、船の櫓床の端に設けられた小さな突起をいい、櫓臍などとも呼ばれる。櫓腹に作られた穴の部分をいう入れ子に嵌めて、櫓を漕ぐときの支点とした。櫓は船を漕ぎ進めるための推進具で、櫂とならび広く用いられた(注5)。和船の櫓の漕ぎ方は、正面を向いて櫓を握り、揚力原理によって推進力を得て進んでいく(注6)。櫓材には樫などの堅い木が使われ、それに対する櫓杭部分も堅く塊になっていて、実際にも船の他の部分と比べて燃え残る可能性は高いと言える。
歌謡に、「海石に ふれ立つ なづの木の さやさや」とある。この個所には曖昧な解釈が横行している。「海石」の上に「なづの木」が「ふれ立つ」ていて、「さやさや」と音がするのか、「海石」と「なづの木」が「ふれ立つ」て「さやさや」と音がするのか、よくわからない(注7)。
「なづの木」を水辺の植物とすると、水に漬かっているところが波に揺られて水面上の葉がさやさやと鳴っていることになる。波だけが動いて風がない状態を言っていることになり、海底地震のような不気味さである。「なづの木」を海藻とすると、水中の海藻に音を感じ取らなければならない。水中の音はふつう、波の音、潮の音である。海藻は引き上げた時にバシャバシャと音を立てることがあるかもしれないが、水中で「さやさや」とはしない。いかに比喩であれ、擬態語ととろうにも、海藻の意に解するには不自然な形容である(注8)。ここは、木製の櫓を使ったら海中の石に触れた。音かどうかはさておき、そのことを「さやさや」と表していると考えるべきである。
また、「枯野」のモエクヒには、春になる直前、冬の終わりに野焼きをすることも含意されているのであろう。牧草地においては、枯れた草を焼いて春の新芽を促した。燃えて萌えたのである。牧には周囲に杭が打たれ、ロープを張って家畜が逃げ出せないように、また、害獣に襲われないようにしていた。野焼きで杭に火が付き、焼け棒杭の「余燼」となったり、跡に新たに杭をめぐらせることもあったであろう。燃え杭と萌え杭のある光景である。なぜ杭ばかり立てているかと問われれば、そこに馬を繋ぐから、または船を繋ぐからであり、両者が等価なのは、フネとは飼葉を入れる槽でもあるからである。「枯野」という船の名の「野」の、「疾行如レ馳」フネのイメージにかなっている。以上のとおり、動力源として櫓を伴った高速船は、音韻的、意味的に、重層的な結び付きをもつことから「枯野」と命名されたと考えられる。応神紀五年条の注記、「由二船軽疾一名二枯野一、是義違焉。若謂二軽野一、後人訛歟。」は、愚かなふりをして読者に謎掛けをしているのである。
左:杭につながれた馬(歌川広重・東海道五十三次 池鯉鮒 首夏馬市、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/東海道五十三次_(浮世絵)をトリミング)、右:杭につながれた船(慕帰絵々詞摸、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2590853/1/27をトリミング)
船と琴、トビの尾と櫓
次に、琴と船の関連について考える。
登場する琴については、後漢書・蔡邕列伝の焦尾琴の逸話が引かれることが多い。「呉人に桐を焼きて以て爨ぐ者有り。邕、火の烈く声を聞きて、其の良木たるを知る。因りて請ひて裁りて琴と為るに果して美音有り。而るに其の尾猶ほ焦げたり。故に時の人、名けて焦尾琴と曰ふ。(呉人有焼桐以爨者、邕聞火烈之声、知其良木、因請而裁為琴、果有美音、而其尾猶焦、故時人名曰焦尾琴焉。)」とあり、捜神記にも同様の記載がある(注9)。
本邦においては、琴を弾く埴輪像が見られるように古くから琴は存在した。当たり前にあったようで焦尾琴を引くには及ばない。そして、塩を作るのに船を焼いたら焼き残るところがあったのでそれで琴を作ったとしている。そんな特別な琴のことを話題にしている。
西郷2005.は、根の国の話にある「天の詔琴」(天の沼琴)のコトを「木の音」とする語源説と同様との説を唱えている。しかし、琴は木を叩いて音を出す楽器ではなく、弦を弾いて鳴らすものである。また、船材に楠が多く、正倉院以降の琴に桐材が多いことからして、枯野伝承の琴の材料については「説話上の構成に他なるまい。」(125頁)としている。「枯野」の船材が桐であろうはずはない。桐を焼いて燃え切らなくて不思議がるような部分は、ひょっとしたら根っ子の部分にあるかもしれないが、そんな部分は船材にも琴材にもすることは想定できず、仮にあったなら説話に明示されているはずである。また、出土品のうち共鳴槽をもった琴の大半は、スギやヒノキといった針葉樹製である(注10)。そして枯野説話は、「話(咄・噺・譚)」として作り上げられ、当時のヤマトの人に必然性を感じさせるものであったと考えられる。話の内容、筋道が違う蔡邕の焦尾琴伝説とは無関係である。
当時の琴は和琴(倭琴)である(注11)。二十巻本和名抄には、「日本琴 万葉集に云はく、梧桐の日本琴一面〈天平元年十月七日、大伴淡等、使の監に附けて中将衛督房前卿に贈りし書に記せるなり、体は箏に似て短く小くして六弦有り、俗に倭琴の二字を用う。夜万止古止。大歌所に鴟尾琴有り。止比乃乎古止。倭琴の首を鴟の尾の形に造ればなり〉といふ。」とあり、万810・811番歌の題詞に対応している(注12)。
また、延喜式・伊勢大神宮式に、「鴟尾琴一面 〈長さ八尺八寸、頭広さ一尺、末広さ一尺七寸、頭鴟尾広さ一尺八寸〉。」とある。和琴の一つの鴟尾琴は後に廃れてしまったが、鳥のトビの尾のような、曲がり出た形の装飾がほどこされていたもののようである。谷川士清・倭訓栞に、「とびの越ごと ……神武紀に、金色の鵄、天皇の弓弭に止りしこと見えたり、琴の起りハ弓を並へたるといふことあれは、是其義に据りしなるへし」(早稲田大学図書館古典籍データベースhttp://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko01/bunko01_01604/bunko01_01604_0017/bunko01_01604_0017_p0031.jpg、読点を補った)とある。ヤマトコトバにトビノヲノコトとあるからには、本邦の人のあいだに琴の概念は定まっているのである。
発掘される琴としては、共鳴槽を持たない板作りのもの、共鳴槽を持つもの、ミニチュア、の三種に大別される。共鳴槽を持つものが和琴と通称されたもので、六突起、六弦、琴軋と呼ばれる鼈甲製のピックで演奏され、現在の雅楽では神楽歌、東遊、久米歌、大歌、誄歌といった日本古来の「歌もの」の伴奏楽器とされる。出土品では、その作りから、槽作りのもの、甲作りのもの、箱作りのものに分けられている(注13)。古墳時代のものとして槽作りの大ぶりの琴が出土している。島根県松江市石田遺跡のものは、幅13.5cm×全長192cm、滋賀県野洲町市三宅東遺跡のものは全長161.3cmという。その共鳴槽の作りは槽作り、すなわち、フネを作って蓋をする形であった。「枯野」のフネの焼け残りから、琴のフネが作られたという話は、言葉の洒落となっていて適っている。
左:箏(槽作りの琴、古墳時代、守山市服部遺跡出土、公益財団法人滋賀県文化財保護協会サイト、中川治美「調査員のおすすめの逸品 No.51 日本の伝統楽器「こと」─ひとの心を奏でる逸品─」http://shiga-bunkazai.jp/調査員のおすすめの逸品%E3%80%80no-51/)、右:トビの尾
その和琴の形にトビの尾を見ている。トビはタカ科の鳥で、海辺に多く見られる。上空から狙いをつけ、死んだ小動物や観光客の食べ物を急降下してさらっていく。空高く輪を描くように飛び、ピイヒョロロと鳴いてその声は遠くまで聆こえる。よく上昇気流をとらえてグライダーのように両翼を広げて動かさず、尾羽を使って方向転換している。李自珍・本草綱目に、「時珍曰く、鴟、鷹に似て稍小さし。其の尾、舵の如く、極めて善く高く翔りて、専ら鶏雀を捉ふ。(時珍曰、鴟似鷹而稍小、其尾如舵、極善高翔、専捉鶏雀。)」と評されている。船において羽ばたくことがないように見立てられるものとは、櫂を使わずに船尾の櫓のみで進むものと言える。その軽やかな航行を見て、トビが空を翔るようにあると譬えられた。
トビは、紀に鵄、新撰字鏡に鳶、蔦、鵄、殦、鵈、和名抄に、◆(弖偏に鳥)、鴟、鳶、▲(缶の下に鳥)、𪀝、鵟と書かれる。鵄の字の至は矢が到達することを表し、鴟の字の氐は底に低くなるように薄く這いつくばる形、ないしは抵る意、鳶の字にある弋はいぐるみの形とされている。木鳶、紙鳶、風鳶とは凧のこと、古くはいかのぼりと呼ばれたものである。トビが羽ばたかずして飛んでいる様を、糸をつけた薄っぺらな足つきの凧に似たものと捉えていたらしい。英語の kite はトビのことである。
イグルミは射て包む意、すなわち、弋の字の字形にあるY字形の矢の股に糸をつけ、それを鳥に向けて射って糸を絡ませ、飛べなくして落ちたところを捕まえるというものである。和名抄に、「弋射 唐韻に云はく、弋〈与職反、以豆留〉は射なりといふ。四声字苑に云はく、矰〈音は曽〉は射る矢なり、繳〈之若反〉は矰繳して飛ぶ鳥に加する所以なりといふ(矰繳所以加飛鳥也)。」とある。イヅルは射蔓の意とされ、また、糸弓とも呼ばれる。和琴はぐるぐると六重巻きに糸を巻くもののようである。ここにある「加」と同じ用法は、詩経・鄭風・女曰鶏鳴の「将た翶し将た翔し 鳧と雁とを弋す 弋して言に之に加つ 子と之を宜とせむ(将翶将翔 弋鳧与雁 弋言加之 与子宜之)」に見える。詩経の「加」については、鄭箋に、料理にするとき豆を加えること、集伝に、射て鳥に中てること、また、嘉に通じて「嘉き御供え」(赤塚1986.147頁)のこととする説があげられている。集伝説が日中とも有力視されているが、弋射において肝要なのは矢が命中することではなく、矢についている糸が鳥の翼に絡まって羽ばたけなくすることである。よって鳥は落ち、捕まえることができる。
古語に、「加ふ」は「銜ふ」に同根で、食ひ+合ふ、の約とされ、上下の歯でしっかり物をはさみ支えて外れないことを指す。その「加」の意味は枷に通じ、手枷、足枷で動けなくするのと同じことである。名義抄に「桎 音質、ホダシ、テガシ、アジカシ、手杻也、足械也」とあり、字鏡集に「枷 鉫同、𩊏同、ネリ、クヒカシ、クサリ、キツナ」とある。したがって、和名抄と詩経の「加」の訓としては、絆などとも書かれるホダスがふさわしい。新撰字鏡に「琑鏁 思果・思招二反、鏁同字、久佐利、又止良布、又保太須」とある。紀にあった「余燃」と同じ燼は、新撰字鏡に「𤏖熸燼藎▼(𤒯の从部分が十)㶳 六形同、子廉反、燼は似進・如云二反、去、火の滅して𤏖燼と為るを謂ふ。火余木也。火介知乎佐牟、又保太久比」とあり、榾柮のことで、音ホダを同じくする。絆すとは繋ぎとめ束縛することだから、拘束のために縄紐を絡ませることである。音韻的結び付きは、〔枯─辛─韓─絡〕と続くものであった。
弋の字は杭の意にも使われ、杙とも書く。紀の「余燃」のクヒである。もともとの意味のY字形の矢は、鏃になると雁股とも呼ばれる矪のことである。和名抄に「矪 唐韻に云はく、矪〈張留反、漢語抄に久流利と云ふ〉は鳥を射る矢の名なりといふ。」とある。トンビがクルリと輪を描いた、である。鏃が金属製となり、刃のように磨がれて鳥の脚を傷つけるかと後に誤解されたが、元来はいぐるみのことであったに相違ない。矪の字にある舟は、特段、字書に説明されているわけではないが、「枯野」の船のことを思い起こさせる。速く飛ぶトビのような船だと思い、船尾につけた艫櫓ひとつで漕ぎ進むのを、翼を羽ばたかせないままに進むと見立てている。
トビノヲは鴟尾の訓読語であるとされる。鴟尾は、(1)古代の瓦葺建築の大棟の両端に取り付ける装飾物の沓形、後に鬼瓦や鯱へと発展するもののこと、(2)牛車の轅の後方に伸びる小轅のことをいう。和名抄では、居処部に「鴟尾 唐令に云はく、宮殿は皆、四阿に鴟尾〈弁色立成に久都賀太と云ふ〉を施せといふ。」、舟車部に「轅 唐韻に云はく、輈〈張流反〉は車の轅なり、轅〈音は園、奈加江、俗に前に在るを轅と謂ひ、後に在るは之れを鴟尾と謂ふ。或に小轅と云ふ〉は車のなりといふ。」とある。同じく牛に牽かれる唐耒(犂)において、それに相当する部分を耒轅という。字鏡集の枷の説明にあるネリはこれを指すのであろう。轅は長い柄のことであるが、船の櫓も同じく長く、また、少しく湾曲していて力を伝えるのに効果的である。そして、「矪」字は、本邦に農具の唐竿、連枷、いわゆるくるり棒のことも指す。よって、枷はモエクヒでもあり、トビノヲでもあることになっている。
また、鳶の者、鳶の衆といえば、建築・土木工事の人足で、鳶職、鳶口とも呼ばれる。鳶口は、棒の端にトビの嘴のような鉤をつけた道具である。物を引っかけて動かし、運んだり壊したりするのに用い、消防用でも活躍し、単にトビともいう。鳶の者(衆)のことは、また、手子(梃子)の者(衆)、単にテコともいう。大工、土木、石工など、下まわりの仕事をする者のことであり、かなりの力を要する。手子(梃子)は支点のまわりに回転しうる棒のこと、力のモーメントを利用して小さな力を大きな力に変えるものである。櫓杭に櫓の入れ子を嵌めることで、櫓は梃子の原理で力強く推進力を生む。何梃もの櫂に代わるほど、力強いものと考えられたのであろう。
「枯野」と櫓と塩、カヂ(楫(檝))、伊豆手船という語
紀で、天皇は群卿に、長らく官船として活躍してきた功績から、その名を忘れられないように後世に伝える方法を問うている。群卿の出したアイデアは、船材を薪にして塩に焼かせることであった。そして、五百籠の塩を得てそれを諸国に配り、それを糧としてそれぞれに船を造らせた。その五百艘の船を武庫港に集めたところ火事に遭い、その責任を取る形で新羅は大工職人の「猪名部等之始祖」を献上している。猪名部は雄略紀にも載る大工職である。話の展開に飛躍が見られるものの、本筋は高速船やその造船技術ばかりでなく、「枯野」という名を後世に伝える方法として、塩に焼くことがふさわしいと考えられていたことがわかる。
すでに述べたとおり、「枯野」という船の名は、牧とした野が枯れて大量の干し草が得られ、早く走る馬がよく成長することを譬えとしたものであった。「軽泛疾行如レ馳」(応神紀)、「甚捷行之船也」(仁徳記)とある。トビの尾を思わせる櫓を推進具とした船である。
万葉集に、「伊豆手船」、「伊豆手の船」なる語がある。
防人の 堀江漕ぎ出る 伊豆手船 楫取る間なく〔可治登流間奈久〕 恋は繁けむ(万4336)
堀江漕ぐ 伊豆手の船の 楫つくめ〔可治都久米〕 音しば立ちぬ 水脈速みかも(万4460)
「伊豆手船」の意については、伊豆の地に造船技術があったからとする説が根強い。「枯野」号についても、応神紀に「伊豆」の地名が示されている。そして、「手」は、一般に、方式、種類の意とされている。けれども、他に「真熊野之船」(万944)、「松浦舟」(万1143・3173)、「足柄小舟」(万3367)といった例はあっても、~風の、という意味で地名に「手」と付けられた言い方が見られない。そもそも伊豆が造船技術の特化した国であったかわからない。イヅについては、第一に、弋と関係しそうである。すなわち、「伊豆手船」とは、鴟尾、轅のような櫓をもって進ませる船である。また、第二に、イヅク(何処)のイヅの可能性もある。
多由比潟 潮満ちわたる 何処ゆかも 愛しき背ろが 吾許通はむ(万3549)
「何処」が単独で使われたのは上1例であるが、不定の場所・方向・方角を示す語根で、どこ(where)、の意である。イヅという語に含意されるどこかわからないという意に「伊豆手船」を解すれば、どこに「手」があるかわからない船、すなわち、櫂がなくて櫓で進む船ということになる。また、どちらの方向を向いているのかわからないという意と解すれば、船尾の艫にあって方向舵のようなふりをしておきながら実は推進具として十分に働いている櫓によって進む船ということになる。
古代の船の推進具としては、櫂(パドル)、楫(オール)、櫓、帆、棹があげられる。銅鐸の線刻としては、福井県春江町出土の井ノ向1号鐸に、船首尾を高く反り上げた船が鋳出されている。その船上と舷側に棒状のものが多数刻まれており、漕ぎ手と櫂とを表しているとされている。また、船形埴輪としては、宮崎県西都原古墳群出土の埴輪に舷側にカギ状の出っ張りがついており、そこを櫂の支点として船の進行方向に背を向けて座って漕ぐものであると見られている。
左:船形埴輪(古墳時代、5世紀、宮崎県西都市西都原古墳群出土、東博展示品)、右:櫓を漕ぐ舟(近江八幡)
櫓については、石井1995.に、「日本では縄文・弥生・古墳時代の数千年間に及ぶ長い時代を通じて櫂を使い、櫓が実用化したのは七世紀頃に遣唐使船として中国のジャンク技術を導入した際に、一緒に入ってきたのではないかと思われるふしがある。それは承和五年(八三八)の遣唐使船に乗った入唐僧円仁の『入唐求法巡礼行記』の中に「帆を上げ、艫(櫓)を揺してゆく」といった一節があるからである。しかも『万葉集』には、櫂、楫はあっても櫓なる言葉はでてこないので、おそらくこれが史料面での櫓の初出ということになるかもしれない。」(253~254頁)とある。ただし、和名抄に、「艣 唐韻に云はく、艣〈郎古反、魯と同じ〉は船を進むる所以なりといふ。」とある。櫓は漢語で音読みであるから、歌語を重んじる傾向の万葉集には現れにくいであろう。仁徳前紀には「取二檝櫓一」とあり、「檝櫓」をカヂと訓んでいる。
楫(梶、檝)という言葉は、櫓や櫂といった船を漕ぐための推進具の総称とされており、また、楫と櫂の意味の違いは未詳、ないし、混乱が見られるという。操舵のための舵との間の紛れも影響しているのであろう。田村1990.に、ロ、カイ、カヂなどの「語義はそれぞれ交錯しており、類別しにくいものであるのは、これらの機能が、古くさかのぼるほど、近似のものであったことからくるものであろうと推察する以外にない。」(173頁)と解説されている。妥当な判断である。和名抄に「檝 釈名に云はく、檝〈音は椄、一音に集、賀遅〉は舟をして捷疾ならしむといふ。兼名苑に云はく、檝は一名に橈〈奴効反、一音に饒〉といふ。」、「棹 釈名に云はく、旁に在りて水を撥ぬるを櫂〈直教反、字は亦、棹に作る。楊氏漢語抄に加伊と云ふ〉と曰ひ、水中に櫂し、且た櫂を進むなりといふ。」、新撰字鏡に「棹櫂 同、直孝・徒角二反、檝類也。木の枝柯无きを謂ふ。櫂は長くして殺る者也。船の加伊〉」、「柂 船乃加地」、一切経音義に「舟艥 又檝楫に作る、子獵反、櫂は之れを艥と謂ふ。艥は槤也。水を撥きて舟を槤せしむ疾き者也。倭に加伊と言ふ。櫂は馳教反、檝也。倭に加地と言ふ」とある。したがって、カヂという語は、櫂のことも言えば、櫓のことも言っていたと考えられる。
万葉集にカヂの語は、「真梶」、「小梶」、「梶棹」、「八十梶」など含めて70例ほどある。用字としては、「梶」(万220・257・260・366・368・509・930・934・935・936・942・1143・1152(2例)・1185・1205・1221・1235・1254・1386・1453・1455・1664・1780・2015・2029・2072・2089・2223・2746・3211(「八十梶」)・3212(「八十梶」)・3232・3333(2例)・4025・4240・4461)の38例、「檝」(万1138・2044・2067・2088・2494・3173・3174・3299)の8例、「櫂合」(万1062)、また、音仮名としては「可治」(万3611・3624・3627・3630・3641・3664・3679・3894・3961・3993・4027・4048・4065・4336・4360・4368・4459・4460)の18例、「加治」(万3555)、「加遅」(万4006)、「可知」(万4331)、「加(夜蘇加)」(万4363・4408)となっている。「梶」の字は中国では梢の意である。本邦で、船のかじや車のかじ棒、和紙の原料のカジノキの意味に使われるようになった。字形が木の尾とあることから、鴟尾との関連が想起されて好まれたのであろう。
石井1995.に、櫓の推進理論が解説されている。櫓を漕ぐことによって水中のブレードが一定の迎角をもって往復運動すると、櫓下の下面に揚力を生じて推進力を得る。その推進力は櫓下の揚力係数と面積に比例し、水を掻く速度の二乗に比例するといい、漕ぐのに同調させて船体をローリングさせると櫓下の速度が増して推進力が大きくなる。仮に櫓を45°に深く入れても、揚力の70%程度しか推進力にならないものの、櫓下が薄ければ撓わせて入射角を増して効率を上げることができる。櫓下が細長いのは、例えば櫓下の水中部分の縦横比が20であれば、櫓下の迎角は11°が最適、抵抗力は抵抗係数にして0.03ときわめて小さく、効率が良いからであるという。これは、飛行機やグライダーの主翼、プロペラ、高性能ヨットの帆の縦横比を大きくするのと同じ理論であるとされている(254~256頁)。
櫓という字は、大きな楯のことも表し、説文に「櫓 大盾也。木に从ひ魯声、樐 或は鹵に从ふ」とある。和名抄に載る艣は、集韻に「艣 船を進むる所以なり。通じて樐、櫓に作る」とある。鹵は塩(鹽)のことである。説文に「鹽 鹹也。鹵に从ひ監声。古者、宿沙、初めて煮海鹽を作る、凡そ鹽の属、皆鹽に从ふ」、広韻に「天生を鹵と曰ひ、人生を鹽と曰ふ」とある。「枯野」の船を塩に焼いたとあるのは、類推思考の著しい無文字社会の考え方からは、その船に塩的なるものが内含していたことを示すものであろう。櫓の船であるから、櫓=樐=塩ということになる(注14)。船具の櫓と防具の盾は、ともに手首を返すようにして動かして操作する。そして、塩に焼くという焼の旧字、「燒」に旁の同じ「橈」は、撓うカヂのこと、すなわち、櫓である。櫓を形容していた鳶、轅、また、塩の音はいずれもエンである。
「枯野」は、牧における馬の飼育を比喩としていた。塩の重要性を指摘しているのであろう。厩牧令の厩細馬条に、「日ごとに、細馬に、粟一升、稲三升、豆二升、塩二夕給へ。中馬に、稲若しくは豆二升、塩一夕。」とあって、上馬、中馬には塩を与える規定が記されている。「駑馬」なる下馬には規定がない。貴重な塩はのろまな馬には適当にしておけということらしい。「五百籠(コは甲類)の塩」とある。塩の助数詞は「籠」である。廣山2003.は、砂粒状の塩は、計量単位として、斛・斗・升によって数えられているが、同時に、籠で数えられる場合も多かったことを検証している。しかるに、イホコなる言葉の音からは、塩の盛られた形が、野において枯草を材料にして建てられた仮小屋、「廬(庵)」のようであるとの謂いかもしれない。廬は「伏廬」、「廬屋」、「田廬」などと、伏せることを暗示する言葉である。
「籠」とあるのも、火桶の上に被せて衣類を乾かしたり、薫香を衣類にたきしめるのに用いる伏籠を連想させる。伏籠は、また、鳥を捕らえるための罠ともなるものや、鶏を入れておくゲージのこともいう。よって、薪で塩に焼くという面からも、弋で鳥を捕まえるという面からも、船尾の櫓のことであると導かれるのである。そして、廬の音は、櫓、鹵と同じくロである(注15)。廬を葺くのに使うのは「真草」であり、馬を養うのも「秣」である。「枯野」が早馬を譬えにした船の名であったことの語学的証左である。
(つづく)