雄略紀に、井戸を呪詛する話が載る。
是の月、御馬皇子、曾より三輪君身狭に善しかりしを以ての故に、慮遣らむと思欲して往でます。不意に、道に邀軍に逢ひて、三輪の磐井の側にして逆戦ふ。久にあらずして捉はる。刑せらるるに臨みて井を指して詛ひて曰はく、「此の水は百姓のみ唯飲むこと得む。王者は、独り飲むこと能はじ」といふ。(雄略前紀安康十月是月)(注)
この話が何を表しているのか、昨日まで明らかにされていなかった。今日、本稿によって明らかとなる。
この記事は、雄略天皇が他の皇位継承資格者たちを滅ぼしていった記述の最後に当たる。附け足り的で何のことやら意味不明になっている。御馬皇子は以前から三輪君身狭と親交があった。雄略天皇が暴れているので、身を守ろうとして頼ろうと出掛けてみると、予想外に道に敵軍が待ち構えていて、三輪の磐井の側で戦う羽目となった。じきに捕らえられて刑に処せられることとなり、その井を指差して呪詛したというのである。タミ(百姓)は飲めるが、キミ(王者)だけは飲めないからな、と言ったのである。
何のことやらわからないのは、何より文字として見ているからである。当時は無文字時代である。人は声としてしか言葉を知らない。ならば、声に出して読みあげてみればいい。漢文訓読調のお堅い文章で、イムサキ(曾)などと聞くと面食らうが、いちばん不思議な言葉は、タフルイクサ(邀軍)である。この「邀軍」は、他に考えられる候補がないから、即位前の雄略天皇の軍勢であろう。軍隊は、軍事作戦が展開されてはじめて出動する。なにゆえすでに進軍して「道」にいるのか。御馬皇子も想定外のことで、お供している護衛兵程度の軍勢で戦わざるを得ない。すると、ヒサニアラズテ(不レ久)身柄を拘束されてしまう。卑怯ではないか。処刑されるに至って呪詛の言葉を吐くしかなかった。
「道」に「邀軍」がいた。だいたい、三輪の磐井のところと思っていいであろう。三輪の磐井のところに、軍勢が集結して待ち構えていた。そのような軍勢のあり方は、「聚居」という。水分補給休憩がてらに集まっている。イハムという語は、軍隊の集結の意に限らないが、圧倒的に軍隊の集結、駐屯の意味に用いられている。
復、兄磯城の軍有りて、磐余邑に布き満めり。……賊虜の拠る所は、皆是れ要害の地なり。(神武前紀戊午年九月)
我が皇師の虜を破るに逮りて、大軍集ひて其の地に満めり。因りて改めて号けて磐余とす。(神武前紀己未年二月)
是の時に、磯城の八十梟帥、彼処に屯聚み居たり。〈屯聚居、此には怡波瀰萎と云ふ。〉……故、名けて磐余邑と曰ふ。(神武前紀己未年二月)
時に官軍屯聚みて、草木を蹢跙す。因りて其の山を号けて那羅山と曰ふ。……埴安彦と河を挟みて屯みて各相挑む。故、時の人、改めて其の河を号けて挑河と曰ふ。今、泉河と謂ふは訛れるなり。(崇神紀十年九月)
一を鼻垂と曰ふ。妄に名号を仮りて、山谷に響ひ聚りて、菟狭の川上に屯結めり。(景行紀十二年九月)
蝦夷の賊首、嶋津神・国津神等、竹水門に屯みて距かむとす。(景行紀四十年是歳)
則ち軍を引きて更に返りて、住吉に屯む。(神功紀元年二月)
爰に武内宿禰等、精兵を選びて山背より出づ。菟道に至りて河の北に屯む。(神功紀元年三月)
乃ち諸の虬の族、淵の底の岫穴に満めり。(仁徳紀六十七年是歳)
兵を執れる者、多に山中に満めり。(履中紀仁徳八十七年正月)
天皇、産れまして、神しき光、殿に満めり。(雄略前紀)
高麗の王、即ち軍兵を発して、筑足流城……に屯聚む。(雄略紀八年二月)
爰に小許の遺衆有りて、倉下に聚み居り。(雄略紀二十年冬)
百済国、属既に亡びて、倉下に聚み憂ふと雖も、実に天皇の頼に、更其の国を造せり。(雄略紀二十一年三月)
乃ち相聚結みて、傍の郡を侵冦ふ。(雄略紀二十三年八月)
凌晨に起きて曠野の中を見れば、覆へること青山の如くして、旌旗充満めり。(欽明紀十四年十月)
是の時に大雨ふる。河の水漂蕩ひて、宮庭に満めり。(推古紀九年五月)
是に、船師、海に満みて多に至る。(推古紀三十一年是歳)
五つの色の大きなる雲、天に満み覆ひて、寅に闕けたり。(皇極紀二年正月)
是に、渡嶋の蝦夷一千余、海の畔に屯聚みて、河に向ひて営す。(斉明紀六年三月)
各一所に営みて、散けたる卒を誘り聚む。(斉明紀六年九月)
然して後に、別に多臣品治に命して、三千の衆を率て、莿萩野に屯ましむ。(天武紀元年七月)
将軍吹負、乃楽山の上に屯む。(天武紀元年七月)
復佐味君少麻呂を遣して、数百人を率て、大坂に屯ましむ。(天武紀元年七月)
更に還りて金綱井に屯みて、散れる卒を招き聚む。(天武紀元年七月)
則ち軍を分りて、各上中下の道に当てて屯む。(天武紀元年七月)
以余の別将等、各三つの道より進みて、山前に至りて、河の南に屯む。(天武紀元年七月)
軍勢は井のあるところに集まる。ふだんより重い衣(甲冑)を着ているので喉が渇く。喉が渇いたら人は井のあるところへ行く。一度戦って敗走した兵を再編成するには、将軍は井のところで待って居ればいい。つまり、戦において、井は、軍をイハム(屯・聚・満)むための根拠なのである。天皇軍がイハムむのだったら、呼び名として、イハミヰ(屯井、ミは甲類)でなければならないと想定される。そうすれば、イハ(磐)+ミヰ(御井、ミは甲類)と聞こえて納得できる地名である。
日本書紀の表記に、イハムに「屯」字を当てている。この字は、「屯倉」に用いられる。「屯田」(御田)とも使う。
……将に倭の屯田及び屯倉を掌るらむとして、……(仁徳前紀応神四十一年二月)
「屯田」はただの田ではない。イハミタほどにたてまつられてふさわしいということらしい。
ところが、通称される「三輪の磐井」は、イハヰであってイハミヰではない。ミヰ(御井)ではないのだから、敬称がつかないのだから、丁寧語にならないのだから、(ひとの)キミ(たるひと)(「王者」)、天皇になりそうな人は飲むに当たらない井であると呪詛している。御馬皇子の主張は筋が通っている。軍隊を出動させているなんて、聞いてないよ、卑怯ではないか、というのである。そうならそうと、最初から、「三輪の磐御井」と言っておいてもらわないと困る。無文字文化なのだから、音声言葉を頼りに生きている。地名も地名譚が裏にあると思って暮らしている。そんな世の掟を無視するかのような振る舞いが罷り通っては困る。最後の手段だ、のろってやる。
これは、話(咄・噺・譚)である。地名という名前は、譚を持っていると思っている。名は体を成すはずである。言=事であるとする考え方に従って、イハヰは(ひとの)キミ(たるひと)は飲めないはずだと主張している。その主張は、主張としては筋が通っているよね、と当時の人たちに認められた。それどころか当たり前のことと思われて何ら注釈めいた解説が施されていない。どこまでが本当でどこからが嘘か、史実かどうか、といったことには関知しない。話の次元が違う。今日言う史実という概念は発想として違うから、雄略朝時代にも日本書紀の編纂者の頭の中にも焦点を結んでいない。霞んでいる。「天照大神」はいたのか。知らないとしか言えない。神武天皇とされる人は、127歳まで生きたのか。知らないとしか言えない。知らないけれど、その存在は人々の頭の中にあり、不都合なこともない。今日の人とは、頭の使い方、ものの考え方が異なるだけである。
すべてはお話なのである。昔語りが先んじている。昔語りはカタリだから、騙られているかもしれない。そこをよくよく検討してみると、あまり大きな嘘偽りはないとわかる。語りは音声言語にすべてを委ねている。誰でもが納得する事柄だけが伝えられる。一人が一生懸命に伝えても、次の人が伝えなければその話は継がれない。無に帰す。大きな嘘偽りは、言が事でなくなるからそもそも行われない。嘘で塗り固めた人生は、その一代限りで破綻する。人生は一代限りであると考えるのは、今日の人のものの考え方である。上代の人のものの考え方では、イハミヰ(磐御井)でないからお偉いさんは飲めません、と呪詛が行われ、なるほどと周りに納得されて伝え継がれた。だから記事として残っている。音声言語として話を聞いた時、当たり前だと思われている。呪詛の効果のほどは不明である。当時の(ひとの)キミ(たるひと)が飲まなかったかわからない。話(咄・噺・譚)が先行して了解事項とされている。言葉がなければ人ではないからであった。それ以上でもそれ以下でもない。
(注)「磐井」は、岩で囲った掘り井戸ではなく、山の裾のようなところで、岩から水が浸みだして来ているような場所と考えられている。井戸の桁が岩石で組まれたものは、イシヰと呼ばれたと考えられている。
※本稿は、2017年8月稿を2023年9月にルビ化したものである。
是の月、御馬皇子、曾より三輪君身狭に善しかりしを以ての故に、慮遣らむと思欲して往でます。不意に、道に邀軍に逢ひて、三輪の磐井の側にして逆戦ふ。久にあらずして捉はる。刑せらるるに臨みて井を指して詛ひて曰はく、「此の水は百姓のみ唯飲むこと得む。王者は、独り飲むこと能はじ」といふ。(雄略前紀安康十月是月)(注)
この話が何を表しているのか、昨日まで明らかにされていなかった。今日、本稿によって明らかとなる。
この記事は、雄略天皇が他の皇位継承資格者たちを滅ぼしていった記述の最後に当たる。附け足り的で何のことやら意味不明になっている。御馬皇子は以前から三輪君身狭と親交があった。雄略天皇が暴れているので、身を守ろうとして頼ろうと出掛けてみると、予想外に道に敵軍が待ち構えていて、三輪の磐井の側で戦う羽目となった。じきに捕らえられて刑に処せられることとなり、その井を指差して呪詛したというのである。タミ(百姓)は飲めるが、キミ(王者)だけは飲めないからな、と言ったのである。
何のことやらわからないのは、何より文字として見ているからである。当時は無文字時代である。人は声としてしか言葉を知らない。ならば、声に出して読みあげてみればいい。漢文訓読調のお堅い文章で、イムサキ(曾)などと聞くと面食らうが、いちばん不思議な言葉は、タフルイクサ(邀軍)である。この「邀軍」は、他に考えられる候補がないから、即位前の雄略天皇の軍勢であろう。軍隊は、軍事作戦が展開されてはじめて出動する。なにゆえすでに進軍して「道」にいるのか。御馬皇子も想定外のことで、お供している護衛兵程度の軍勢で戦わざるを得ない。すると、ヒサニアラズテ(不レ久)身柄を拘束されてしまう。卑怯ではないか。処刑されるに至って呪詛の言葉を吐くしかなかった。
「道」に「邀軍」がいた。だいたい、三輪の磐井のところと思っていいであろう。三輪の磐井のところに、軍勢が集結して待ち構えていた。そのような軍勢のあり方は、「聚居」という。水分補給休憩がてらに集まっている。イハムという語は、軍隊の集結の意に限らないが、圧倒的に軍隊の集結、駐屯の意味に用いられている。
復、兄磯城の軍有りて、磐余邑に布き満めり。……賊虜の拠る所は、皆是れ要害の地なり。(神武前紀戊午年九月)
我が皇師の虜を破るに逮りて、大軍集ひて其の地に満めり。因りて改めて号けて磐余とす。(神武前紀己未年二月)
是の時に、磯城の八十梟帥、彼処に屯聚み居たり。〈屯聚居、此には怡波瀰萎と云ふ。〉……故、名けて磐余邑と曰ふ。(神武前紀己未年二月)
時に官軍屯聚みて、草木を蹢跙す。因りて其の山を号けて那羅山と曰ふ。……埴安彦と河を挟みて屯みて各相挑む。故、時の人、改めて其の河を号けて挑河と曰ふ。今、泉河と謂ふは訛れるなり。(崇神紀十年九月)
一を鼻垂と曰ふ。妄に名号を仮りて、山谷に響ひ聚りて、菟狭の川上に屯結めり。(景行紀十二年九月)
蝦夷の賊首、嶋津神・国津神等、竹水門に屯みて距かむとす。(景行紀四十年是歳)
則ち軍を引きて更に返りて、住吉に屯む。(神功紀元年二月)
爰に武内宿禰等、精兵を選びて山背より出づ。菟道に至りて河の北に屯む。(神功紀元年三月)
乃ち諸の虬の族、淵の底の岫穴に満めり。(仁徳紀六十七年是歳)
兵を執れる者、多に山中に満めり。(履中紀仁徳八十七年正月)
天皇、産れまして、神しき光、殿に満めり。(雄略前紀)
高麗の王、即ち軍兵を発して、筑足流城……に屯聚む。(雄略紀八年二月)
爰に小許の遺衆有りて、倉下に聚み居り。(雄略紀二十年冬)
百済国、属既に亡びて、倉下に聚み憂ふと雖も、実に天皇の頼に、更其の国を造せり。(雄略紀二十一年三月)
乃ち相聚結みて、傍の郡を侵冦ふ。(雄略紀二十三年八月)
凌晨に起きて曠野の中を見れば、覆へること青山の如くして、旌旗充満めり。(欽明紀十四年十月)
是の時に大雨ふる。河の水漂蕩ひて、宮庭に満めり。(推古紀九年五月)
是に、船師、海に満みて多に至る。(推古紀三十一年是歳)
五つの色の大きなる雲、天に満み覆ひて、寅に闕けたり。(皇極紀二年正月)
是に、渡嶋の蝦夷一千余、海の畔に屯聚みて、河に向ひて営す。(斉明紀六年三月)
各一所に営みて、散けたる卒を誘り聚む。(斉明紀六年九月)
然して後に、別に多臣品治に命して、三千の衆を率て、莿萩野に屯ましむ。(天武紀元年七月)
将軍吹負、乃楽山の上に屯む。(天武紀元年七月)
復佐味君少麻呂を遣して、数百人を率て、大坂に屯ましむ。(天武紀元年七月)
更に還りて金綱井に屯みて、散れる卒を招き聚む。(天武紀元年七月)
則ち軍を分りて、各上中下の道に当てて屯む。(天武紀元年七月)
以余の別将等、各三つの道より進みて、山前に至りて、河の南に屯む。(天武紀元年七月)
軍勢は井のあるところに集まる。ふだんより重い衣(甲冑)を着ているので喉が渇く。喉が渇いたら人は井のあるところへ行く。一度戦って敗走した兵を再編成するには、将軍は井のところで待って居ればいい。つまり、戦において、井は、軍をイハム(屯・聚・満)むための根拠なのである。天皇軍がイハムむのだったら、呼び名として、イハミヰ(屯井、ミは甲類)でなければならないと想定される。そうすれば、イハ(磐)+ミヰ(御井、ミは甲類)と聞こえて納得できる地名である。
日本書紀の表記に、イハムに「屯」字を当てている。この字は、「屯倉」に用いられる。「屯田」(御田)とも使う。
……将に倭の屯田及び屯倉を掌るらむとして、……(仁徳前紀応神四十一年二月)
「屯田」はただの田ではない。イハミタほどにたてまつられてふさわしいということらしい。
ところが、通称される「三輪の磐井」は、イハヰであってイハミヰではない。ミヰ(御井)ではないのだから、敬称がつかないのだから、丁寧語にならないのだから、(ひとの)キミ(たるひと)(「王者」)、天皇になりそうな人は飲むに当たらない井であると呪詛している。御馬皇子の主張は筋が通っている。軍隊を出動させているなんて、聞いてないよ、卑怯ではないか、というのである。そうならそうと、最初から、「三輪の磐御井」と言っておいてもらわないと困る。無文字文化なのだから、音声言葉を頼りに生きている。地名も地名譚が裏にあると思って暮らしている。そんな世の掟を無視するかのような振る舞いが罷り通っては困る。最後の手段だ、のろってやる。
これは、話(咄・噺・譚)である。地名という名前は、譚を持っていると思っている。名は体を成すはずである。言=事であるとする考え方に従って、イハヰは(ひとの)キミ(たるひと)は飲めないはずだと主張している。その主張は、主張としては筋が通っているよね、と当時の人たちに認められた。それどころか当たり前のことと思われて何ら注釈めいた解説が施されていない。どこまでが本当でどこからが嘘か、史実かどうか、といったことには関知しない。話の次元が違う。今日言う史実という概念は発想として違うから、雄略朝時代にも日本書紀の編纂者の頭の中にも焦点を結んでいない。霞んでいる。「天照大神」はいたのか。知らないとしか言えない。神武天皇とされる人は、127歳まで生きたのか。知らないとしか言えない。知らないけれど、その存在は人々の頭の中にあり、不都合なこともない。今日の人とは、頭の使い方、ものの考え方が異なるだけである。
すべてはお話なのである。昔語りが先んじている。昔語りはカタリだから、騙られているかもしれない。そこをよくよく検討してみると、あまり大きな嘘偽りはないとわかる。語りは音声言語にすべてを委ねている。誰でもが納得する事柄だけが伝えられる。一人が一生懸命に伝えても、次の人が伝えなければその話は継がれない。無に帰す。大きな嘘偽りは、言が事でなくなるからそもそも行われない。嘘で塗り固めた人生は、その一代限りで破綻する。人生は一代限りであると考えるのは、今日の人のものの考え方である。上代の人のものの考え方では、イハミヰ(磐御井)でないからお偉いさんは飲めません、と呪詛が行われ、なるほどと周りに納得されて伝え継がれた。だから記事として残っている。音声言語として話を聞いた時、当たり前だと思われている。呪詛の効果のほどは不明である。当時の(ひとの)キミ(たるひと)が飲まなかったかわからない。話(咄・噺・譚)が先行して了解事項とされている。言葉がなければ人ではないからであった。それ以上でもそれ以下でもない。
(注)「磐井」は、岩で囲った掘り井戸ではなく、山の裾のようなところで、岩から水が浸みだして来ているような場所と考えられている。井戸の桁が岩石で組まれたものは、イシヰと呼ばれたと考えられている。
※本稿は、2017年8月稿を2023年9月にルビ化したものである。