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古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

日本書紀における「数」の訓について─履中紀・允恭紀・敏達紀の「数」はセム(責)と訓まずにカゾフと訓むこと─

2021年03月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集


 小島1994.に次のようにある。

 履中紀五年[十月]に、帝が車持君の罪に対して、それをなじる条に、古訓「数之」(カゾヘテ)とあり、允恭紀二年[二月]にも、皇后が昔の無礼者の罪をあげる条に、「カゾヘ昔日之罪」(図書寮本)とみえる。しかしこの「数」は、『漢書』高帝紀、巻一下に、「漢王数羽」(師古曰、数 其罪也)とみえ、罪を責める意。古訓のカゾフは訂正すべきである。(542頁)

 碩学のこのような伝で新編全集本日本書紀は付訓されている。大系本日本書紀にも同じ指摘があり、やはりセメテと改めている。当該箇所を示す。

 冬十月の甲寅の朔にして甲子に皇妃(みめ)を葬(はふ)りまつる。既にして天皇、神の祟(たたり)を治めたまはずして、皇妃を亡(ほろぼ)せることを悔いたまひて、更に其の咎(とが)を求めたまふ。或者(あるひと)の曰(まを)さく、「車持君(くるまもちのきみ)、筑紫国に行(まか)りて、悉(ふつく)に車持部(くるまもちべ)を校(かと)り、兼ねて充神者(かむべらのたみ)を取れり。必ず是の罪ならむ」とまをす。天皇、則ち車持君を喚(め)して、推(かむが)へ問ひたまふ。事既に実(まこと)なり。因以数之曰、「爾(いまし)、車持君なりと雖も、縦(ほしきまま)に天子(みかど)の百姓(おほみたから)を検校(かと)れり。罪一(ひとつ)なり。既に神に分(くば)り寄せまつる車持部を、兼ねて奪ひ取れり。罪二(ふたつ)なり」とのたまふ。則ち悪解除(あしはらへ)・善解除(よしはらへ)を負(おほ)せて、長渚崎(ながすのさき)に出して、祓へ禊がしむ。既にして詔して曰はく、「今より以後(のち)、筑紫の車持部を掌ること得ざれ」とのたまふ。乃ち悉に収めて更に分りて、三(みはしら)の神に奉りたまふ。(履中紀五年十月)

 履中天皇は、皇妃が亡くなったのは神の祟りにきちんと対処しなかったからだったと後悔している。その記事はその前に述べられている。

 五年の春三月の戊午の朔に、筑紫に居(ま)します三神(みはしらのかみ)、宮(おほみや)の中(うち)に見(あらは)れて言(のたま)はく、「何ぞ我が民を奪ふ。吾、今し汝(なむぢ)に慚(はぢ)みせむ」とのたまふ。是に禱(いの)りて祠(まつ)らず。(履中紀五年三月)

 祭祀しなかったのがいけなかったのであるが、おおもとの原因が何かを調査した。すると、車持君が筑紫国へ行って、神のための部民まで自分のものとしたことが神の怒りの原因であろうとの報告を得た。召喚して尋問したところ罪を認めた。認めたことについて、「因以数之曰」している。罪を認めている相手に対して、罪の内容を事細かに言及する必要はないはずであるが、「罪一」、「罪二」と「数」えあげている。そのうえで祓禊をさせ、さらに、車持君の扱いを決定し、充神者ばかりか車持部をも筑紫の三神の所管になるように奉っている。罪の数を数えている。だから、カソヘテ(カゾヘテ)という北野本の古訓は正しいと言える。「因りて数へて曰はく、」と訓むべきである。
 同様の記述は敏達紀にも見える(注1)

 秋七月の己未の朔にして戊寅に高麗使人、京に入りて奏して曰さく、「臣等、去年に送使(おくるつかひ)に相(あひ)逐(したが)ひて国に罷り帰る。臣等、先に臣が蕃(くに)に至る。臣が蕃、即ち使の礼に准(なぞら)へて、大嶋首磐日等を礼び饗へたまふ。高麗国王、別(こと)に厚き礼を以て礼ふ。既にして送使の船、今に至るまでに到らず。故、更(また)謹みて使人并せて磐日等を遣(まだ)して、臣が使の来らざる意(こころ)を請問(うけたまは)らしむ」とまをす。天皇聞しめて、即数難波罪曰、「朝廷(みかど)を欺誑(あざむ)きまつれる、一なり。隣使(となりのつかひ)を溺(おぼほ)らし殺せる、二なり。玆の大罪(おほきなるつみ)を以ては、放還(ゆるしつかは)すべからず」とのたまひ、以て其の罪を断(さだ)む。(敏達紀三年七月)

 「……一也。……二也。」と数えている。罪を明らかにするときは「数」えあげる形式をとっていたとわかる。数えあげた後、断罪している。「数ふ」こととは拍子をとって口述することであったから、聞いてわかりやすく“箇条読み(itemed recite)”がされていたとわかる。頭の中で整理して一つ、二つとあげて行っている。書いたものを読みあげているわけではない。したがって、「即ち難波が罪を数へて曰はく、」と訓むのが正解である。



 日本書紀には允恭紀にもう一か所、数という字をセメテ(責)と訓むのではないかとされている。

 初め皇后(きさき)、母(いろは)に随ひたまひて家に在(ま)しますときに、独(ひとり)苑(その)の中(うち)に遊びたまふ。時に闘雞国造(つげのくにのみやつこ)、傍(ほとり)の径(みち)より行(あり)く。馬に乗りて籬(まがき)に莅(のぞ)みて、皇后に謂(かた)りて、嘲(あざけ)りて曰く、「能く◆(草冠に圃)(その)を作るや、汝(なびと)」といふ。汝、此には那鼻苔(なびと)と云ふ。且(また)曰く、「圧乞(いで)、戸母(とじ)、其の蘭(あららぎ)一茎(ひともと)」といふ。圧乞、此には異提(いで)と云ふ。戸母、此には覩自(とじ)と云ふ。皇后、則ち一根(ひともと)の蘭を採りて、馬に乗れる者(ひと)に与ふ。因りて、問ひて曰はく、「何に用(せ)むとか蘭を求むるや」とのたまふ。馬に乗れる者、対へて曰く、「山に行(ゆ)かむときに蠛(まぐなき)を撥(はら)はむ」といふ。蠛、此には摩愚那岐(まぐなき)と云ふ。時に皇后、意(みこころ)の裏(うち)に、馬に乗れる者の辞(ことば)の礼(ゐや)无(な)きを結(おもひむす)びたまひて、即ち謂りて曰はく、「首(おびと)や、余(あれ)、忘れじ」とのたまふ。是の後に、皇后、登祚(なりいで)の年に、馬に乗りて蘭乞ひし者を覓(もと)めて、昔日之罪以欲殺。爰(ここ)に蘭乞ひし者、顙(ひたひ)を地(つち)に搶(つ)きて叩頭(の)みて曰(まを)さく、「臣(やつこ)が罪、実(まこと)に死(しぬる)に当れり。然れども其の日に当りては、貴(かしこ)き者にましまさむといふことを知りたてまつらず」とまをす。是に、皇后、死刑(ころすつみ)を赦(ゆる)したまひて、其の姓(かばね)を貶(おと)して稲置(いなき)と謂ふ。(允恭紀二年二月)

 「昔日(むかしのひ)の罪(つみ)を数(せ)めて殺(ころ)さむとす。」(大系本312頁)、「昔日(むかし)の罪(つみ)を数(せ)めて、殺(ころ)さむと欲(おもほ)す。」(新編全集本109頁)と訓じられている。書陵部本の古訓にカソヘとあるのを改めている。顔師古注にあるように、意味合いとして「数」は「責」なのだから、セメテと訓むべきであるというのである。
 日本書紀の筆録者は、そのような単純な記号変換的な理解から記しているのではないと筆者は考えている。ヤマトコトバにセメテという意味を書きたいのなら、「責」という字を使えばよいのであり、その字を知らなかったわけではない。

 ……是に由りて、先(さき)の皇(みかど)、責めて曰はく、『汝、病患(やまひ)と雖も、縦(ほしきまま)に身を破れり。……』……(允恭前紀)
 時に、皇太后(おほきさき)・誉田別尊(ほむたわけのみこと)、新羅の使者(つかひ)を責めて、因りて、天神(あまつかみ)に祈(の)みて曰さく、「当(まさ)に誰人(たれ)を百済に遣してか、事の虚実(いつはりまこと)を検(かむが)へしめむ。当に誰人を新羅に遣してか、其の罪を推(かむが)へ問はしむべけむ」とまをす。(神功紀四十七年四月)

 これらの「責」の字の例から、罪を憎んで人を憎まずの精神はなく、人を責めることにセムという語が使われているとの印象を受ける。時代別国語大辞典に、「せむ[責・迫](動・下二段)相手を追いつめて身動きのとれないようにする意。セマル(四段)に対する他動詞。①責める。督促する。叱責する。……②追いたてる。攻めつける。……」(397~398頁)、白川1995.に、「せむ〔責・譴・譲(讓)〕 下二段。「む」「む」「む」の意で、狭いところへ追いつめていく。身動きのとれないような状態にすることで、人をめ叱ることをいう。」(430頁)、「せむ〔攻〕 下二段。戦って敵を攻める。「む」「む」と同系の語。また「む」とも同源の語である。追い狭めて、敵を一方に窮迫することをいう。」(431頁)とある。「罪」自体はセム対象ではない。また、わざわざ訓み方に誤解を招きかねない「数」という字を使うことも考え難い。



 皇后と闘雞国造のやりとりのなかでは、履中紀の例のように、罪を一つ、二つと数えあげているとの確たる証拠はない。しかし、逆に考えるなら、闘雞国造の罪とは何かが問われなければならない。「辞无礼」、すなわち、侮辱罪である。言葉の端々に礼を欠いている、だから「罪」であるとしている。ただしそれは、聞いた皇后の受け取り方次第である。今日でも、セクハラ発言に当たるか、ラブラブ関係になるか、微妙なところがある。「皇后結之意裏、……辞无礼、」と、聞いた皇后の受け取り方を記している。闘雞国造の発言は三回行われている。

 能作◆乎、汝者也。
 圧乞、戸母、其蘭一茎焉。
 行山撥蠛也。

 この三回の発言のどこが「辞无礼」に当たるのか、今日まで必ずしも見極められていない。新編全集本日本書紀には、「[蠛をマグナキと]訓むとマ(目)クナキ(婚)で婚(くな)グを連想させ、女性には無礼に聞えた。」(107頁)(注2)と注されているが、それだけで無礼な発言であると断定はできない。「嘲之曰」の態度で発せられた一連の三文すべてが通底して無礼であったと感じられた(「結之意裏、……辞无礼」)ということではないか。第一文に対しては、同じく「ナ(汝)ビト(人)で、お前。ナムチ(汝貴)に対して、敬意が全くない二人称。」(同頁)とある。言葉遣いの点ばかりでなく、「能作◆乎」が無礼である。彼女は農民、農奴ではなく、由緒ある家柄の少女が庭で遊んでいたばかりである(注3)。第二文では、「戸母」などと呼びかけているが、刀自(とじ)とも記される呼称は、一家をつかさどる主婦の意である。家事全般をつかさどり差配した。そんな農家のおばさん(注4)だと設定しているから、アララギを一本くれないかと言っている。身分の低い人物だと卑しめていたことが、第一の罪に当たると考えられる。謝る時に、「不貴者」という弁明をしている。
 蘭(あららぎ)という言葉は、斎宮忌詞に仏塔のことを言う。「塔を阿良良岐(あららぎ)と称(まを)す。」(延喜式・斎宮式)とある。塔は仏塔のことで、もともとは仏舎利、お釈迦さまの遺骨を安置した仏教建築であった。また、俚諺集覧に、「園 斎宮忌詞穴称園。この穴は塚穴なり。園も園陵の義也といへり。」とある。延喜式に載らない忌詞であるが、囁かれていたということであろう。すると、園(苑)に蘭を求めているのは、火葬場で死者の遺体を荼毘に付す役を担った下級僧侶などのことを念頭に置いての発言ではないかと推測される。その人たちのことを(、御坊、煙亡、陰坊、熅坊、汚坊、薗坊)(おんぼう、おんぼ)と言っていた。中村1981.に、「死者の遺骸を火葬することを業とする人をいう。一説に火葬を行なう僧をよぶ名から転じたものといい、また、死屍を隠没焼亡することによりと称するという。また墓を守る者。」(141頁)としている(注5)。当然のことながら、土葬においてもその役の人はいたであろうから、それを指していると思われる。
 薗坊(注6)という用字が示唆的である。 薗という字は園と同義と考えられる。 日本書紀では闘雞国造の発言部分にのソノに、「◆(草冠に圃)」(書陵部本、北野本、穂久邇文庫本)のほか、 「圃」(熱田本 )、「園」(兼右本、内閣文庫本)と使われている 。そんな園(苑)に臨んでアララギをくれと言うことは、これら埋葬に携わる人々を相手にした物言いに擬してのことであったと考えられる。
 は、 江戸時代に、に位置づけられている(注7)。それが上代に遡って身分の卑しい人と考えられていたらしいことがこの記事からわかる。その名称がヤマトコトバに何であったかはわからない。それでも闘雞国造が、「圧乞、戸母、其蘭一茎焉。」 と呼びかけているのは、亡骸を後始末する尼僧風の人のことを思っての発言であろう。「戸母」(刀自)が「圧乞(いで)」、つまり、出家しているおばさんの謂いである。身分の低い農家のおばさんからさらに貶め、遺骨を扱う尼さんだとまでしてしまっている。第二の罪にあたる。「不貴者」という弁明で謝っているのはやはり当を得ている。



 蠛をマグナキと言っているのは、マグ(求)+ナキ(無)の意ととるとわかりやすいのではないか。允恭紀の北野本に、「何用求蘭耶」の「求」に、マクと傍訓がある。必要のないものをあえて求めているという意味である。蠛はヌカガのことで、2 mm ほどの小さな虫で、目の周りをチラチラ飛び回って鬱陶しく、刺して吸血する厄介な虫である。人ばかりでなく馬にも着くから、馬に乗っている闘雞国造としては、追い払いたいのだと言う建前で言っている。山に行くときにその欲しくないものが近づいてくるから振り払うために使うと言っている。しかるに、彼がこれから山へ出かけるかといえば行かない。山へ行かないのになぜこのような発言をしているのか。それはつまり、求めていないものを求めているということだからである。マグ(求)+ナキ(無)という言葉を体現している。からかうことが目的でマグナキを登場させている。
 身分ある人に対してそのようなからかいをすることは失礼なことである。そして、言葉に内実を含めずして語ることは、言葉を軽んずることである。無文字時代の上代、一つ一つの言葉に敬意を払って使っていた。それは筆者が呼ぶところの言霊信仰のあり方であるが、それと相容れないことである。言葉と事柄とを合致させようと志向しなければ、音声言語でしか認識できない世界は、秩序がなく訳のわからないものになってしまう。そうならないように、人々は言葉と事柄を一致させようと努め、一つ一つの言葉を丁寧に扱っていたのである。
 そして、社会において位が高くなればなるほど、言葉の重要性は増していたに違いない。何か発言した際、公的なものとして人々に広く聞かれ、受け取られる可能性があり、必然的に言葉を確かにして述べる必要が出てくる。世界の秩序と関係し、発言の重みが違ってくる。そんな相手にタメ口を聞き、茶化してくる輩は、今日でも失礼だと感じられている。第三の罪に当たる。その詳細を分ければ、言葉の使用において論理哲学的な誤謬を突いていた点が一、からかってはいけない身分である人を相手に発語していたことが二、ということになる。いずれも謝る時には、「不貴者」という弁明がふさわしい。結果、罪は数えあげられるものであり、それによって人は裁かれるものであったと理解される。
 皇后の地位についたとき昔日の無礼者を求めている。その箇所に、「覓馬乞蘭者、」とあり、「覓」部分の書陵部本傍訓に、モトメとある。「覓」はマグとも訓めるが、皇后は言葉を正したいのだから、マグナキに使われたマグではなくモトムとするのがよい。闘雞国造の謝罪の仕草に、「顙搶地叩頭曰、」とある点、「顙」は古語にヒタヒ、ヌカと両用される。蠛がマグナキともヌカガとも呼ばれたことを思えば、前言の否定を表すためには、ぬかづく様もヌカの訓は捨てられなければならず、ヒタヒと訓まれるのがよい。書陵部本傍訓にヒタヒツイテとあるのは音便的な違いは定め切れないものの正しいといえる。
 最終的に皇后は、死刑に当たる罪を許して、姓を「国造」から「稲置」へと落とし、位を下げることをした。侮辱罪が死刑にあたるほどのものであることは、相手を愚弄するばかりでなく言葉を愚弄することであり、世界の秩序を乱す騒乱罪に等しいからに他ならない。そして、そんな輩に対してふさわしい罪科とは、発する言葉が影響力を持たないようにすることであり、闘雞国造は今後代々、闘雞稲置と呼ばれる大したことのない家柄として扱われることにし、その人たちが何か発言したとしても話半分にしか聞かれないように定めたということになる。言語能力が家庭環境によって育まれることまで示している。学校教育がなかった時代の話である。



 「数」という字を使って罪を数えあげる行為が行われていた。その理由は、罪という言葉が自ら負っている音にある。ツミ(ミは甲類)とは罪でもあり、積みでもある(注8)。ツミ(ミは甲類)という一つの音によって表されているのだから、罪とは積み重なっているものと考えられて然るべきである。言葉に音声言語しかないから、そう考えられてその言葉は納得できる。実際のところ、ただ一度の出来心による過ちを罪とは呼ばない。対して、計画的犯行は罪である。悪気を持ち、意地悪をし、さらに手痛いことをしてのけるのが罪である。再犯に及ぶことが多いのも罪の性格としてある。その傾向は嘘をつくこととよく似ている。一度嘘をつくとその嘘のために嘘の上塗りをしなければならなくなり、やがて平気で嘘をつくような人間になっていく。同様に、最初にささやかな罪をひとつ犯す。その時点でばれなければ罪として周囲から認知されることはない。けれども、その罪に味を占めたり、その罪を正当化して覆い隠すようにさらに罪を犯すことがある。罪は積んでいくのが本来的なあり方なのである。上代の人に、現代の自転車泥棒が泥棒癖の始まりであるとの認識のようなものがあったらしい。だから、その罪に問うときには、罪は数える対象となっている。積みあげられた罪の全体像を知るために、一枚一枚はがしては数えあげていくことが求められる。そこに、上代音声言語ツミ(ミは甲類)は、一つのカテゴリーとして概念を構成している。ひぃ、ふぅ、みぃと声を出して数えあげ、罪は明らかにされるものと考えられていた。
 数えあげられて、罪は白日の下に晒されることになる。「数(かぞ)ふ」というヤマトコトバが当時の日常生活においてもっとも一般的だった事象は、数え唄を歌いながらする作業、すなわち、脱穀や精米のために竪臼を持ち出して杵で搗く際に発せられる声であったろう。一つの臼を囲んで複数の人で搗くから声を掛け合って作業が進む。脱穀・精米で現れるのは精白米、銀舎利である。糠(ぬか)が取れる。顙の音に等しく、蠛はヌカガとも呼ばれていた。糠を目的に搗いているのではなく、精白米のほうを求めている。闘雞国造の嘲り、からかいが誤ったものであることを、上位カテゴリーから誰でもわかるように工夫されている。罪を重ねたものが数えあげられて曝し者になることの語学的根拠はそこにある。よって、これらの箇所の「数」はすべてセムではなく、カゾフと訓まれなければならない。上代人の思想を反映した訓こそが求められる。
 仏教思想の伝来は、罪という概念、罪の気持ちに新しい考え方をもたらしたと思われるが、人々に素直に受け入れられている。その点を鑑みると、「数(かず)」「数(かぞ)ふ」という概念も同時に乗っかって区切りのない受容に与したのではないかと考えられる。顔師古注に示されている意味を知っていたかどうかはこの際問題とならない。罪は竪臼に杵搗くものとして、具体的にダイレクトに受け止められてこそ腑に落ちる。
 中世に描かれている地獄絵図に、罪に対する責め苦として、臼に搗かれている光景が描かれている。春日権現験記絵には竪臼が、地獄草紙には磨臼(すりうす)が描かれている。和名抄・木器類に、「磑 兼名苑に云はく、磑〈五対反〉は一名に䃀〈音は砌〉、磨礱也といふ。唐韻に云はく、磨礱〈麻籠の二音、又、並びに去声、須利宇須(すりうす)〉といふ。」とある。実際に石製の「碾磑(みづうす)」(推古十八年三月)が伝来し、大宰府の観世音寺に伝世しているが、汎用されていたとは考えられていない。その大きさ、重さから、恐ろしいものであるとは感じられていたであろう。
 罪を犯した人は、地獄で臼に砕かれ細かな骨となるという謂いを表している。当初の絵に、踏臼(横臼、唐臼、碓)は登場しない。踏臼は一人で足踏み操作するもので、数え唄が歌われることがない。罪は数えることが要件となっていたことが中世まで引き続いて行っていると推論される。臼に搗かれたり、挽かれたりしてできるのは、精白米の銀舎利か、罪人の骨の断片である舎利であるか、というなぞらえが成り立っている。允恭紀に見られた闘雞国造の蔑視発言は、ここへと続いている。「数(かず)」「数(かぞ)ふ」という概念についての文化史が展開している(注9)
地獄の竪臼図(春日権現験記、板橋貫雄模、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286816/11~12をトリミング接合)
地獄の磨臼図(地獄草紙、奈良博本、鉄磑所、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/地獄草紙)



 日本書紀に古訓を施した人々が、どの程度上代のヤマトコトバに通じていたか、資料がなくて不明である。それでも再考してみれば、日本書紀の筆録者たちが知恵を絞って記した痕跡を正しく伝えている例が多く見られており、かなりの確度でよく理解していたと考えられる。現代の研究者との違いは、出典となる漢籍を繙いて得た知識のレベルではなく、伝えられている知恵の表現を再現しようと試みていた点にあるようである。 日本書紀の実筆録者から見れば、「数」という字をセム(責)と意改して訓むことなど、ヤマトコトバのセムの原義も知らないままに、まったくの賢しらごとであると思うであろう。本稿に、日本書紀古訓の重要性と、現代の出典論に偏った研究に警鐘を鳴らしておく。思想は言葉の上に成っている。

(注)
(注1)敏達紀の該当箇所の「数」字には、前田本右傍訓にセメ、左傍訓にカソ、北野本にはカソヘとある。
(注2)時代別国語大辞典にも、「この返事が無礼と考えられたのはマグナキに婚(クナ)ギという連想があったためであろう。」(670頁)とある。
(注3)現代社会の農業従事者とは関係がない。
(注4)現代社会におけるジェンダーや年齢による差別とは関係がない 。
(注5)オンボウという語については、由来は不明である。鵜飼信興・和漢雑笈或問に、「信答曰、此ヲンホウノ名号、日本ニテ近コロヨリノ詞也。昔ハ触穢ゾクエト云、又ハ収者ナトヽ云ル事、大 ノ カ拾塵抄、又ハ喜 カ宇治随筆ナトニ見エタリ、イツ頃ヨリカヲンホウト云ル、時代慥ニ不知、」(国文学資料館・新日本古典籍データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200006681/viewer/12~13。漢字の旧字体等は改め、句読点を施した。)、柳田1970.に、「雍州府志には京ではオンバウ薬と名づけて、今ならば警察が禁止するやうないやな黒焼を、此輩が売つて居たことが記してある。此通り朝夕の暮しには些しも僧らしい処も無く、頭といへば所謂有髪がちなり女房は有ると云ふので、世人は殆とオンバウの名の起りを認むる能はず、或は熅坊と書き又は陰房、などゝも字を当てゝ、其に相応したこじつけ理窟やら由来やらを説いて居た……。……又他の一方に於ては、オンバウと人焼きが、単に俗人であつたばかりで無く、どう見ても、佛教の徒とは認められぬ場合もあった。」(266頁、漢字の旧字体は改めた。)とある。
(注6)用例に、「ヲンハウニ布施少遣了。」(言継卿記・天正十七(1589)年正月十九日、『大日本古記録』東京大学史料編纂所https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/000/_000ki_43/1/11/00000016?m=all&n=20)、「服部村西株薗坊宗旨改帳佐太役所あて」(摂津国島上郡 服部村 高槻市農協清水支店旧蔵服部区文書目録、文化九(1812)・文政5(1822)年ほか、『高槻市史史料目録 第19号』平成9年)と見える。
(注7)「御伝馬宿六尺給御蔵前入用街道筋ニより免許おんほうハ諸懸物可除旨書付」に「おんほう持高之分ハ、書面之品々役懸可相除候。」(享保七年(1722)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1877073/165)などとある。喜田貞吉・概説に、「例えばかの御坊(俗に、穏亡、熅坊などとも書く)の一類、すなわち上方地方の宿(夙)、山陰道筋の鉢屋はちや、山陽道筋の茶筅ちゃせん、北陸道筋のトウナイなどと呼ばれた人々の如きは、もと葬儀にあずかり、屍体の穢れに触れるので、やはりその身が穢れていると思われてはいたが、普通には皮太すなわちエタ程には世間からは忌避されず、さりとていわゆるとも違っていた。」(青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/card54855.html)としている。俚言集覧にばかり伝えられる「園」という忌詞は、その言葉までも忌みされていたことを静かに語っているようである。
 なお、今日の人権意識とは無関係に、日本書紀古訓への検討のため引用している。
(注8)ツミ(ミは甲類)にはまた、柘(つみ)もあり、罪との洒落として考えられていたことは、拙稿「阿曇連について」参照。
(注9)地獄絵に臼に搗かれる図は「衆合(しゅごう)地獄」に描かれている。罪状は、殺生、偸盗、邪淫を積み重ねたものであるとされている。正法念処経に、「鉢頭摩処」に堕ちて、「若置鉄函、鉄杵搗之。」の責め苦を受けるとし、源信・往生要集(寛和元(985)年)には、「或入鉄臼鉄杵擣。」などとあって、中世の六道絵に、竪臼と杵が描かれるのが一般的であるが、踏臼が追加されているものが一例あるという(タンティスック2015.参照)。地獄草紙の磨臼は、起世経に「鉄磑地獄」と呼ばれ、地蔵菩薩十斎日に「二十九日四天王下念薬師上菩薩不堕磑摩地獄持斎除罪七千劫。」などとあるのにしたがっている。中尊寺経(大般若経第六十三)の見返絵にも磨臼の一種である鉄磑(?)が描かれている。
 竪臼に杵で搗くもの、磨臼にロープを使って挽かれるものは、臼を使うのに一人でせずに声を掛け合いながら作業する。数え唄を歌っていたとの想定が可能である。積み重ねた罪業を数えあげてその分搗いたり挽いたりしていると思うなら、民衆は衆合地獄について容易に受け容れることができたと考えられる。後に踏臼の図が多数見られるようになるのは、民衆が字を読めるようになったかして賢くなり、粉砕の観念が独り歩きするようになったとともに、語感のほうは鈍くなったということであろうか。
 触れておかなければならない点は、このような地獄の考え方が允恭朝に遡りうるものであるか、そうでなくてもはたして紀の編纂時の飛鳥時代にあったものか、という点である。石田2013.に、「東大寺の二月堂観音像の光背毛彫図のなかに地獄画があるという事実は、記録とは異なる存在感を抱かせるに十分である。」(225頁)とし、厩戸皇子が四天王像を造ったことは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道で世界を表した仏教の基本教理が理解されていたであろうとし、また、維摩経義疏・弟子品に、「無沢地獄」という語が出てくる点にも注目している(32~34頁)。
 仏教史についてこれ以上深追いしない。思想がどうであったかは、実は文字の読み書きをしない民衆にとって関係がないことである。本稿で、話し言葉と一目でわかる美術品についてしか触れずにいるのは、案外かえって正しい汲みとり方なのではないかと考える。そしてまた、これ以上のものを見出すこともかなり難しい。録音機も24時間防犯カメラもないから、当たり前の日常生活の様子はわかろうはずがない。ましてやの歴史を繙くことは、社会から消し去ろうとする圧力がかかっていた事柄で史料に乏しく、困難極まりないことであろう。とはいえ、死者を葬ることは仏教公伝以前から行われていたことに相違あるまい。オンボウ、オンボという語の発生地点が允恭紀記事に求められるとするならば、園圃(薗◆)の呉音読み、ヲンボに由来するのではないかとする説を提出しておく。

(引用・参考文献)
石田2013. 石田瑞麿『日本人と地獄』講談社(講談社学術文庫)、2013年。
喜田1982. 喜田貞吉「概説」『喜田貞吉著作集10 問題と社会史』平凡社、1982年。(青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/card54855.html)
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
小島1994. 小島憲之「『日本書紀』の訓読について」小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。(小島憲之『上代日本文学と中国文学 補篇』(塙書房、令和元年)所収。)
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
賤者考 本居内遠・賤者考(弘化 4 (1847)年)、谷川健一編修代表『日本庶民生活史料集成 第十四巻 』(三一書房、1971年)所収。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
タンティスック2015. タンティスック ナムサイ(Tantisuk, Namsai)「近世の往生要集絵の図様と構成 : 冥界のイメージ論」大阪大学言語文化研究科博士論文。大阪大学リポジトリhttps://doi.org/10.18910/55716
中村1981. 中村元『佛教語大辞典 縮刷版』東京書籍、昭和56年。
日本の美術271 『日本の美術 第271号 六道絵』至文堂、昭和63年。
細川2001. 細川涼一「三昧聖研究の成果と課題」同編『三昧聖の研究』碩文社、2001年。
堀1953. 堀一郎『我が国民間信仰史の研究(二) 宗教史編』東京創元社、昭和28年。
三好1943. 三好伊平次『同和問題の歴史的研究』奉公会、昭和18年。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1439630/125)
柳田1970. 柳田国男「俗聖沿革史」『底本柳田国男集 第二十七巻』筑摩書房、1970年。
雍州府志 黒川道祐・雍州府志(貞享元(1684)年)の「歯芽薬」項(国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200000660/viewer/232)
渡辺1963. 渡辺広『未解放の史的研究』吉川弘文館、1963年。

(English summary)
Today, We are actively researching Nihon Shoki by the Chinese books that are the source. As a result, it is believed that the word "数" is often used as to blame (セム) in it. In this paper, I show that the thinking is wrong and clarify that ancient Japanese had thought that sin and crime should be counted. To count is the original meaning of "数". We must understand that the old interpretations of Nihon Shoki suggest Japanese thought.

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