古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

仁徳天皇は「聖帝」か?

2021年03月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 仁徳天皇には、「高き屋に のぼりて見れば 煙(けぶり)立つ 民の竃は 賑ひにけり」(新古今707)なる伝承歌があり、あたかも本当に「聖帝」であったかのように語られることがある。

 是に天皇、高き山に登りて四方(よも)の国を見て詔りたまはく、「国の中(うち)に烟(けぶり)発たず。国皆貧窮(まづ)し。故、今より三年に至るまで、悉く人民(おほみたから)の課伇(えつき)を除(ゆる)せ」とのたまふ。是を以て、大殿破れ壊れて、悉く雨漏れども、都(かつ)て脩理(つくろ)ふこと勿(な)し。◆(礻+咸)を以て其の漏る雨を受け、漏らざる処に遷り避(さ)けましき。後に国の中を見るに、国に烟満つ。故、人民富めりと為(おも)ひて、今はと課伇を科(おほ)しき。是を以て百姓(おほみたから)の栄えて、伇使(えたち)に苦しびず。故、其の御世を称へて聖帝(ひじりのみかど)の世(みよ)と謂ふぞ。(仁徳記)
 四年の春二月の己未の朔甲子に、群臣に詔して曰はく、「朕(われ)、高台(たかどの)に登りて、遠(はるか)に望むに、烟気(けぶり)域(くに)の中(うち)に起たず。以為(おも)ふに百姓(おほみたから)既に貧しくして家に炊(いひかし)く者無きか。朕聞けり、古は聖王(ひじりのきみ)の世には、人人、詠徳之音(ほむるこゑ)を誦(あ)げて、家毎に康哉之歌(やすらかなりといふうた)有り。今朕、億兆(おほみたから)に臨みて、茲(ここ)に三年(みとせ)になりぬ。頌音(ほむるこゑ)聆(きこ)えず。炊烟(いひかしくけぶり)転(いよいよ)疎(おろそか)なり。即ち知りぬ、五穀(いつつのたなつもの)登(みの)らずして、百姓窮乏(せまりとも)しからむと。邦畿之内(うちつくに)すら、尚給(つ)がざる者有り。況(いはむ)や畿外諸国(とつくにぐに)をや」とのたまふ。三月の己丑の朔己酉に、詔して曰はく、「今より以後(のち)三年に至るまでに、悉(ことごとく)に課役(えつき)を除(や)めて、百姓の苦(たしなみ)を息(いこ)へよ」とのたまふ。是の日より始めて、黼衣(おほみそ)絓履(おほみくつ)、弊(や)れ尽きずは更に為(つく)らず。温飯(おほみもの)煖羹(おほあつもの)、酸(すゆ)り餧(くさ)らずは易へず。心を削(と)くし志を約(せ)めて、従事乎無為(しづかにおはしま)す。是を以て、宮垣(みかき)崩(やぶ)るれども造らず、茅茨(かやしり)壊(くづ)るれども葺かず。風雨隙に入りて、衣(おほみそ)被(おほみふすま)を沾(うるほ)す。星辰(ほしのひかり)壊(やれま)より漏れて、床(みゆか)蓐(みましき)を露(つゆにしほ)る。是の後、風雨時に順ひて、五穀(いつつのたなつもの)豊穣(ゆたか)なり。三稔(みとせ)の間(ころ)、百姓富寛(ゆたか)なり。頌徳(ほむるこゑ)既に満ちて、炊烟亦繁し。七年の夏四月の辛未朔に、天皇、台の上に居(ま)しまして、遠に望みたまふに、烟気多に起つ。是の日に、皇后に語りて曰はく、「朕、既に富めり。更に愁(うれへ)無し」とのたまふ。皇后対へ諮(まを)したまはく、「何をか富めりと謂ふ」とまをしたまふ。天皇の曰はく、「烟気、国に満てり。百姓、自づからに富めるか」とのたまふ。皇后、且言したまはく、「宮垣壊れて脩むること得ず。殿屋(おほとの)破れて、衣被露る。何をか富めりと謂(のたま)ふや」とまをしたまふ。天皇の曰はく、「其れ天の君を立つるは、是百姓の為になり。然れば君は百姓を以て本とす。是を以て、古の聖王(ひじりのきみ)は、一人(ひとりのひと)も飢ゑ寒(こ)ゆるときには、顧みて身を責む。今百姓貧しきは、朕が貧しきなり。百姓富めるは、朕が富めるなり。未だ有らじ、百姓富みて君貧しといふことは」とのたまふ。秋八月の己巳の朔丁丑に、大兄去来穂別皇子の為に、壬生部を定む。亦皇后の為に葛城部を定む。九月、諸国(くにぐに)、悉に請(まを)して曰さく、「課役(おほせつかふこと)並びに免されて既に三年に経(な)りぬ。此に因りて、宮殿(おほとの)朽ち壊れて府庫(みくら)已に空し。今黔首(おほみたから)富み饒(ゆたか)にして、遺(おちもの)拾はず。是を以て、里に鰥(やもを)寡(やもめ)無く、家に余儲(あまりのたくはへ)有り。若し此の時に当りて、税(おほみちから)調(みつき)貢(たてまつ)りて宮室(おほみや)を脩理(つくろ)ふに非ずは、懼(おそ)るらくは、其れ罪を天に獲むか」とまをす。然れども猶忍びて聴(ゆる)したまはず。十年の冬十月、甫(はじ)めて課役(えつき)を科(おほ)せて、宮室を構造(つく)る。是に、百姓、領(うなが)されずして老(おいたる)を扶(たす)け幼(わかき)を携へて、材(き)を運び簣(こ)を負ふ。日(ひる)夜を問(い)はずして力を竭(つく)して競(きほ)ひ作る。是を以て、未だ幾時(いくばくのとき)を経ずして宮室悉(ふつく)に成りぬ。故、今までに聖帝(ひじりのみかど)を称(ほ)めまをす。(仁徳紀四年二月~七年九月)

 この話は、民の竃の話としてよく知られている(注1)。そして、仁徳天皇は、諡どおり聖帝であった、有徳の人であった、聖人君子であったと後講釈されている。仁徳天皇の条には、長々しい皇后の嫉妬話や、義兄弟姉妹を殺したり、巨大な寿陵を作らせた記事が載る。紀では質素倹約の話の途中で「壬生部」や「葛城部」が設けられており、政策の一貫性も疑われる。なのに、どういうわけか聖帝ということで通っている。理想的な天皇像が造形されて、そのように述作されたのであると論じられている(注2)
 記は、仁徳天皇(大雀命)のことを直接「聖帝」であるとは述べていない。「称其御世、謂聖帝世也。」とあり、その時代のことを聖帝時代と言っている。このわざとらしい婉曲表現は注意を要する。紀でも話の締め括りに、「故於今称聖帝也。」とあり、「於今」、つまり、その当時「聖帝」の「称」があったのではなくて、紀が編纂されている今現在、または、今までのある時に、あるいは、そのある時から今に至るまで、といった断り書きが付されている。「『聖帝』?!」という考えが貫かれている。ヒジリノミカドって何だろうね、と聞く側に問いかけられている。
 聖(ひじり)という語は、白川1995.に、「神秘な霊力をもつ人。「ひ」は日また霊、「しり」は知る、またるの意。わが国ではもと天皇の意に用い、のち仙・仏の行者をいう語となった。ついには高野聖こうやひじりにまで下落するのは、古代の巫祝ふしゆく者の一般的な運命である。ヒは甲類。」(641頁)とある。

 聖の聖を知れること、其れ実(まこと)なるかな。(推古紀二十一年十一月)
 玉襷(たまだすき) 畝火の山の 橿原の 日知(ひじり)の御世(みよ)ゆ 生(あ)れ座(ま)しし 神の尽(ことごと) ……(万29)
 酒の名を 聖(ひじり)と負ほせし 古昔(いにしへ)の 大き聖の 言(こと)の宜しさ(万339)

 お酒の銘柄に用いられるほど「聖(ひじり)」という言い方は俗っぽいものとして用いられている。仁徳天皇の場合、記紀の記述に本当に聖なのか否か不分明な形で、「聖帝」とされている。民の竈の話にしても、どうもしっくりこないところがある。今上天皇皇后両陛下は、政治行為はなさらないが、震災の被災地を訪問され、避難所のひとりひとりを慰められ、励まされている。大雀命(大鷦鷯尊)(仁徳天皇の名)が本当に人民の生活状況を知ろうとするなら、一軒一軒訪ねればいい。あるいは、目黒のさんまといった故事も生れよう。そういうことはしないで、「登高山四方之国。」(記)、「登高台以遠望之。」(紀)というように、白川郷のきれいな写真を撮りたいがために高いところへ登って行って、茅葺屋根から煙がもわっとあがっていないから生活は苦しいのだろうと考えた。この統計的ともいえる推量手法が何を物語っているのか、よくよく検討されなくてはならない。
 記紀の間に課役の免除期間が微妙に違っている。年数が問題なのではないようである。記では特に宮殿の雨漏りの話に焦点を絞っている。三年間、人民に労働徴発しなかったら、宮殿が壊れてひどく雨漏りしたけれど、いっこうに修理しなかった。雨漏りするままに任せ、◆で雨水の漏るのを受け、漏っていないところへ移り去った、ということになっている。この雨漏り放置状況を以て、「聖帝の御世」話(咄・噺・譚)は成り立っている。
 これは奇異なことである。当該個所の紀ではさらに詳細が記されているが、それによると、宮殿の屋根は茅葺屋根である。「茅茨壊以不葺。」とある。「茅茨(かやしり)」とあって、その末端がカラスにでもつつき抜かれたか、壊れてしまっている。部分的に抜けて薄くなっている。それを放置して葺き直さなかった。茅葺が薄くなればその部分を葺き足していけば良い。カヤシリと訓むからといって、茅葺屋根の切り揃えることととるのは誤りであろう。きれいに切り揃えるかどうかは見た目の違いだけであり、雨が漏るか漏らないかという実用面とは関係ばない。屋根は何のためにあるか。雨露をしのぐためである。デザインは後に付いてくる(注3)
切り揃えない茅葺屋根(日本民家園)
さしガヤの様子(日本民家園)
 茅葺屋根の耐久性は、最近まで残っている工法のものでは、全体の葺き替えを要するまで30~50年程度もつようである。その間、大規模な補修は10年ごとぐらいに行われている。また、折りに触れてメンテナンスを行う。民俗用語に「さしガヤ」などと呼ぶが、服に穴が開いたらそこへ当て布をして繕っていっているのと同じことである。カビたり腐ったりしている(注4)ところを部分的にとり、新しいカヤ(屋根材とする草)をさし入れて縫い止める。直すには、梯子をかけて外側から作業する。漏ってきたらすぐ直すのはもちろんのこと、いつもよく見ていて、危ないなと思ったら手入れする。梯子はどこの家にも常備され、いつでも屋根を点検できるようにしていた。各家から屋根に登る梯子が姿を消して行ったのは高度経済成長期である。雨漏りに即応して屋根にさしガヤしたのは、その家のお父さんやお兄さん、隣近所の人であった。板葺やトタン葺きでも同じことをしていた。些細なことを職人さんに頼んだりはしない。服の繕いをお母さんやお姉さんにしてもらっていたのと同じことである(注5)。それを宮殿では業者任せにしていたらしい。三年手入れしないでいたら、雨漏りがひどかったということである。三年で劣化する屋根となると、カヤ(屋根材の草)に不向きな素材を使ったということか。長期間耐えるススキやアシやオガラではなく、中期間耐える麦わらでもなく、短期間しか耐えない稲わらを使っていたことを表すのであろうか。稲わらが使われていたのなら、稲は豊作であったことのほうがふさわしく、煙が起こらないことと矛盾するのでこの仮説は否定されよう(注6)
 建築技術、というほどではなく、住まいの知恵レベルのことである。仁徳天皇の都、難波の高津宮は河内平野にある。低湿地帯に稲作を展開し、その近くに都があると考えればよいのであろう。低湿地帯にはアシが群生する。「豊葦原瑞穂国」、「葦原中国」と悦ばれて呼んでいるのは、稲作水田へすぐ転化可能な場所だからであろう。つまり、いくらでも屋根材になるアシが得られる(注7)。煙があがっていなかったのは、アシが繁茂しイネが負けていたとも解釈できる。冷害の年だったのかもしれない。イネが育たなければアシも育たないとは考えにくい。アシは丈夫な植物である。耕作地の湿地帯に大火災があり、イネもアシも全部焼けてしまったという想定もできるかもしれないが、水田で夏場に野焼きして燃え広がるのか、寡聞にして知らない。旱魃があったとも記されていない。イネは今日の品種とは違うと思うが、広大な湿地が近くにあるところで屋根材にするアシが不足することはないであろう。何か禁忌があったとも知られない。
田植後まもなく(アイガモ、クワイ、アシもある光景)
 アシで屋根を葺いて三年で駄目になっている。紀では、「風雨入隙、而沾衣被、星辰漏壊、而露床蓐。」とある。星空が見えるように穴が開いている。当然ながら昼間は日の光が入り込む。「日知り」=「聖」と揶揄されるに当たっている。やることが遅く、空が見えるまで放っておく愚か者としか言えない。屋根の補修には、梯子をかけて外側からカヤをさしていけばいいだけである。なのに後手後手に回って雨漏りしている。記では後段に、梯子に登れない天皇をバカにする歌が歌われている。天皇は逆上して異母の兄弟姉妹を粛清している(注8)

 雲雀(ひばり)は 天に翔る 高行くや 速総別(はやぶさわけ) 雀取らさね(記68)
 隼(はやぶさ)は 天に上(のぼ)り 飛び翔り 斎(いつき)が上の 鷦鷯(さざき)取らさね(紀60)
 梯立(はしだて)の 倉椅山(くらはしやま)を 嶮(さが)しみと 岩懸きかねて 我が手取らすも(記69)
 梯立の 倉椅山は 嶮しけど 妹と登れば 嶮しくもあらず(記70)
 梯立の 嶮しき山も 我妹子と 二人越ゆれば 安蓆(やすむしろ)かも(紀61)
「以◆受其漏雨避」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184140/4)
 本稿の問題を解くヒントは、古事記でもっとも信頼の置ける伝本の真福寺本の、「◆(礻+咸)」という珍しい字にある。誤写であろうとする考えが有力で、他の本に「椷」とあることから、木のハコの意と取る説が有力視されている(注9)。しかし、ハコと呼ばれるものは、蓋の付いた容器をいう。大切なものをしまっておくために使われる。鍵をかけることもあった。身も蓋も両方使えるから同時に2つ用意できる。秘密文書などを入れておくものだから、情報の漏洩がないような、つまり、漏れないためのものとして、ないしは、その考えを裏返して、漏れてしまったための受け皿として、ジョークとしてハコがチョイスされているとも考えられないことはない。
 家の内側で雨漏りを受ける場合、雨漏りを受けていたらその場所はバケツ、盥類を置いたままで避けるより仕方がない。記には、「◆を以て其の漏る雨を受け、漏らざる処に遷り避けましき。」とある。不思議な点は、「以◆受其漏雨」という文の必要性である。バケツで受けようが受けまいが、雨漏りしていないところへ移動したことは、「遷-避于不漏処。」ばかりで意が通じる。対策を講じたことによって解消された場所の一部に「不漏処」とできつつ、必ずしもすべてが解消されているわけではないことを言うために、このような念を押す表現になっているものと考えられる。
 真福寺本に、示偏と衣偏はどちらも「礻」と書かれている。すると、◆は𧛡であり、受け流すシートのようなものと考えるべきであろう。
臨時漏水対策(左:外苑前駅、右:白金台駅)
 今日でも、地震や台風などの大災害にあっては、臨時的に屋根をブルーシートで覆うことがある。それは上から、外側からかける。記の記述は、内側からあてがっているとしか読めない。地下鉄の臨時漏水対策の方式が、河内の高津宮に繰り広げられていたと考えられる(注10)。そのシートが𧛡である。
 「𧛡」は、康煕字典に、「𧛡 ……【類篇】旌旗ハタアシ也。」とある。幡足(ばんそく)のことである。
幡の説明(相模2018.74頁をトリミング。)
幡足残欠(飛鳥~奈良時代、幅約15cm、法隆寺献納宝物、東博展示品)
 和名抄に見える「旒」に当たる。

 幡〈旒附〉 考工記に云はく、幡〈音翻、波太(はた)〉は旌旗〈精期の二音〉の惣名也といふ。唐韻に云はく、旒〈音は流、波太阿之(はたあし)〉は旌旗の末の垂物也といふ。
 此の時に当りて、綴(かが)れる旒(はたあし)の若く然なり。(雄略紀八年二月)
 
 縦長の幡(はた)の下部に、小さな布製の垂を幾条かに下げているのを足(あし)と言っている(注11)。「𧛡」=ハタノアシがアシと呼んで正しいのは、河内の高津宮の屋根の素材がアシ(葦)であったから、葦が破れたところを幡のアシ(足)、𧛡をもってあたがおうという魂胆だからである。ヤマトコトバにアクセントは違えど同音であり、洒落となっていて、無文字文化の人々によくわかる仕掛けが整っている。そして、仁徳天皇はアシ(足)が不自由だったから梯子に登れなかったことを暗示している。上にあげた速総別王(隼別皇子)との確執の末に、それら歌謡は定立している(注8)、(注12)
 天皇は、祭式典礼用の幡を犠牲にして、雨漏り対策をしている。それが観念の上であり得るのは、すなわち、お話を聞かされている側としてもよくわかるのは、皆が幡の特別形態の灌頂幡の存在を知っていたからであろう。灌頂幡は、天蓋の中に幡が吊るされている不思議なものである。幡を保護するために、パラソル、アンブレラに覆われている。その守られている幡はおシャカにして(無用にして)、人にさし懸けるようにしたという意味合いになる。すなわち、宮のなかでテントを張ったことと同じことになっている。法隆寺金堂に釈迦三尊像が天蓋に覆われているかの如く、仁徳天皇は破れ屋根の高津宮内に天蓋に守られていると強弁しているようである。釈迦像と同じことなのだから、仁徳天皇は生きながらにしてホトケ様と同じお姿ということになる。足が不自由で動けないのも、結跏趺坐しているところと見てとれる。諷刺に、「聖帝(ひじりのみかど)」と呼びならわされるに値する(注13)
金銅灌頂幡(飛鳥時代、7世紀、法隆寺献納宝物、東博展示品、手前はレプリカ)
法隆寺金堂釈迦三尊像(高岡市観光ポータルサイト『たかおか道しるべ』様https://www.takaoka.or.jp/news/archives/7188)
帳台(春日権現験記模、前田氏実・永井幾麻、紙本着色、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0015624をトリミング)
蓋高座(春日権現験記模、前田氏実・永井幾麻、紙本着色、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0015698をトリミング)
高御座(「《京都》御所と離宮の栞 其の十四」(1/8)をトリミング、宮内庁ホームページhttps://www.kunaicho.go.jp/event/kyotogosho/pdf/shiori14.pdf)
 人が天蓋の下に入って奉られている様子は、帳台に同じである(注14)。帳台の起源はわからないが、建築物の中にさらにテントがあってそのなかに御座りますその姿は、防災シェルターに暮らしているようなものである。話の初めに、「登高山」(記)や「登高台」(紀)とあるのは、輿に乗って運んで行ってもらったか、人目に付かないように舎人におんぶされたか、エレベーター状のものがあったのかもしれない。
 以上の考察から、仁徳天皇の「聖帝」の話は、仁徳天皇のアシ(足、葦、𧛡)の揶揄話であったことが理解できた。「帝」はミカドであるから、角立って四角い蓋(きぬがさ)であることと対応する。どうやら仁徳天皇という人は、四角四面で冗談の通じないお人柄だったようである。雨漏(あまも)りの君だから、天降(あまも)りの君、降臨した天孫の末裔として奉っておけばいい。この「烟」、「烟気」の話においても、紀には、「以従事乎無為。」(四年三月)とある。それをもって読み返せば、ほとんど無策の政治家像に描かれているふしがある(注15)。単にほめ殺ししておけばいいのだから、人民にとっては楽な為政者であり、巡察に来ないのだから昼間は烟が立たぬようにして夜間に炊事をしておけば税金逃れができた。ありがたい話ではあるが、それでは困ることもある。富の再分配が起こらず、世の中全体の経済が回りきらなくなる。紀に「甫科課役、以構-造宮室。於是、百姓之不領、而扶老携幼、運材負簣。不日夜、竭力競作。是以、未幾時、而宮室悉成。故、於今称聖帝也。」(十年十月)とあるのは、社会全体の豊かさのためには、税や公共事業が必要であることを示すものでもある。寿陵として巨大古墳を造った(注16)ことも、その観点から捉えなおす必要があろう。富の再配分をしたから「老」「幼」は暮らしが潤った。課税免除したから「聖帝(ひじりのみかど)」であったわけではない。皮肉の言であることを理解しなければならない。

(注)
(注1)和歌は、 日本紀竟宴和歌のひとつで、藤原時平の作という。記紀の逸話は、一概に民の竃の話とされている。しかし、仁徳記紀にいずれも「竃」とは記されておらず、「烟」、「烟気」とある。歴史学は、いつからこの話が「竃」と直結させられたか探らなければならない。仁徳天皇時代に、どのように家屋内で火を焚いていたのか、火処(ほど)の歴史については合田2013.参照。いわゆる「竃」がどのような形式のものとしてあったのか、渡来人による竃技術の伝播の歴史と併せて考慮する必要がある。本稿は、火処(ほど)の場所がどこにあるのか、煙突によって煙はどのように排出されていたか、焚き木に代えて炭を使うことで煙は少なくなっていたのではないか、といった考古上の知見を必ずしも要しないと考えるので多くは述べない。あるいは、囲炉裏式の煙がもうもうと出るのと、燃焼効率が良い竈に煙が少ないのと、燻煙によって茅葺き屋根が長持ちすることとを天秤にかけて試行錯誤していた過程が背景にあったのかもしれない。いずれにせよ、民の家の内部構造を知る由のない記述であり、人民の生活実態から遊離して話が進められていることにこそ、この話の面白味があると言える。
(注2)仁徳記のこの話を、いわゆる聖帝記として徳政を語る話であるとするのが定説化している。子ども向けのお話に多く逸話化されている。大人向けでは、中国の儒教思想に基づいて虚構されたものであると言われている。議論は、津田1963.に、「仁徳天皇が民の課役を除かれたといふ話について……これは政治的意義を有する物語の唯一の例であるが、「登高山見四方之国」とあつて、其の高山がどこであるかを説かず、「於国中烟不発」とか「於国満烟」とかいつてゐる「国」が、どこをさしてゐるかもわからぬやうに、すべてが抽象的ないひ方であるから、実は具体的な物語ではない。さうして、此の物語の精神が儒教式仁君の観念にあることは、物語そのものが明かに語つてゐるところであるのみならず、「聖帝」といふ用語が用ゐてあることによつても、それは確かめられるし、課役を除いた期間を三年とした点にも、シナ[中国]思想が現はれてゐる。」(38~39頁、漢字の旧字体は改めた。)とするのに則っている。具体的ではない物語はいつ創作されたのか、どのように伝えられたものなのか、不明である。話として伝わることは、当時の人が互いに理解し合い、ひとつの話(咄・噺・譚)として受ることではじめて可能である。この民の竃の話は巷間に定説とされているためか、議論の対象として論じられることさえ少ない。山崎1993.、長野1998.参照。筆者は、課役免除三年という期間がどうして中国の思想なのか、不勉強でわからない。
 日本書紀の研究に、「黼衣絓履……以従事乎無為」とあるのは、六韜・文韜・盈虚にある文章に類似するとされる。大系本日本書紀に、「殊に北堂書鈔所引の古本六韜に……よく似ているから、六韜に拠って作った文であろう。」(237頁)とある。文を作るのに漢籍に拠ることは、手紙を書くのに例文集に倣うのと同じである。単なる文例集に過ぎない漢籍が負っている中国思想に、作文に籠める意図、話(咄・噺・譚)の内容、中身まで従う必要はない。形式ばかり、字面ばかりを踏襲している。課役三年免除の「聖帝」の話が、民の竃の煙の話の形で漢籍になかったら、中国思想に基づいて虚構されたと言えるものではない。
 また、「其天之生民……」が荀子・大略篇などに依っているとも指摘されている。仁徳天皇が頓珍漢なものの考え方をしていることを示したいために、わざわざ詔を述べた形にして落し込んでいる。本文ならびに(注15)参照。
(注3)日本の建築に屋根を葺いて軒を出すことは一般的である。雨が多く夏暑いこの国に最も適っている。見て珍しい家屋が耳目を集めてしまうが、平凡なものほど先人の知恵の収斂した結果である。語られないものほど知恵が凝縮しているということであるが、記紀に残る話には、そんな基本的な知恵の発祥について、驚きをもって伝えているところがある。
(注4)科学的現象については、福田2012.参照。
(注5)そういう時代であったということを言っているまでであり、男女同権に関して何か物申しているわけではない。
(注6)天然素材であり、条件によっても耐用年数は変わる。比較的長持ちするもの、中程度のもの、短期間で劣化するものがあるということである。話として通行するとは、多くの人があたりまえのこととしてそのとおりだと思えたからであろうことから、素材の想定を考えたまでである。
(注7)宮の地が、例えば雄略天皇の、長谷(泊瀬)朝倉宮のような丘陵地とおぼしき場所であれば、屋根材のカヤは、ススキが身近にあるからそれによって葺かれたと考えられる。江戸に茅場町があるのは、都市の屋根材供給業者が住んでいたからその名がある。江戸川、荒川、中川、墨田川流域の低湿地地帯の周縁に当たる。江戸の町の茅葺屋根は、もっぱらアシで作られていたのではないかと推測される。
(注8)拙稿「女鳥王物語―「機」の誕生をめぐって―」参照。
(注9)真福寺本に「◆(礻+咸)」とある箇所、兼永筆本・寛永版本に「𥠆」、延佳本(鼈頭古事記)に「椷」とあり、本居宣長は「楲」としている。古事記伝に、「楲は、本どもに或は𥠆とカキ、或は椷とカケるを、今は一本に依れり。【𥠆は誤なり、】椷【字書に篋也とも函ノ属也とも木篋也とも注して、波許ハコなり、】もることなれども漏雨モルアメを受るにはハコの類はスコし物遠きこゝちするを、楲は、玉篇に、決 ヲ木也と注して書紀武 ノ巻にも塘楲イケノヒとあり、は必しもホソく長きならずとも、水を受る物を云べければ、ハコよりは、今少し似つかはしく聞ゆ、【 ノ字又虎子也とも注せり、虎子は、大小便を受る器にて、今云麻流マルなり。ココは、大小便には非れども、水のタグヒを受るなれば、由なきにあらず、】と訓べし、和名抄には、 ハ和名以比イヒとあり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/331)とある。消去法で考えている。部屋中におまるを置いてまわっているとの憶測には弱ってしまう。現代の諸解説書にみな「椷」を採り、木の箱のこととしている。
(注10)臨時的な漏水対策としたが、完成された完全な雨除け(屋根)というものはそもそも存在しない。点検補修を繰り返すのが必定である。比較的永続的な方法として、屋根瓦やガルバリウム鋼板などが開発されている。地下鉄の場合、地下水の滲出は宿命であるが、見えないようにすることは不可能ではないため、保守点検が行われている。例えば、メトロレールファシリティーズの「保守管理」(http://www.metrorailfa.co.jp/earthwork/02.html)参照。キレイ化という見えない化によって、地下空間に漏水があって当たり前であることに気づかなくなるであろう。今日のふつうの生活者は、屋根とは何か、雨樋とは何かを忘れている。
(注11)本邦に、足の付いた幡がいつからあるのか、あるいは認知されていたかについて、大いに議論されるべきであろう。仏教公伝記事の欽明紀十三年十月条に、「幡蓋(はたきぬがさ)若干(そこら)」とあり、蓋(きぬがさ)に覆われた幡が伝わっている。また、幡の用途についても議論されなくてはならない。法隆寺に伝わった金銅製の大灌頂幡という不思議なものがあり、仁王会、追善供養、葬儀などとの関係から造られたものではないかと考えられている。三田2010.参照。五来2009.では、葬送天蓋の機能は灌頂にあるとしている。
 筆者は、いま、幡足について、いつからあって何に使われどのように思われていたのかについてはひとまず措き、それが仁徳天皇の故事に当てはめられてどのような頓智となっているかについてのみ考察している。雄略紀の例は、かがって垂らした幡足のように新羅が高句麗の思いのままに振り回されているという例えとして、魏志などの文例に従い書かれている。幡と幡足(旒)では言葉の扱いが異なる。幡本体ではなく、幡の足について、かがって付けるものだから、ちぎって他に用いて何ら問題がないという思いがあったことを例えている。仁徳天皇時代、本邦に、幡、幡足があったか不明である。その検討には、おそらく凧揚げ(烏賊幟、紙鳶(いかのぼり))の歴史についても検討を要する。なお、美術史学に、幡頭、幡身、幡足といった名をつけて“作品”を見ているが、ヤマトコトバの上では、ハタ(幡)とハタアシ(旒、幡足)の区別しか見られない。
(注12)仁徳天皇は即位前、宇遅能和紀郎子(菟道別郎子)(うぢのわきいらつこ)との間で皇位を譲り合っている。これもひょっとすると、仁徳天皇が足が不自由で、高御座(壇)(たかみくら)の階を登ることを躊躇ったことを暗示しているものかもしれない。
(注13)仁徳朝期には、仏教はまだ伝わっていないとされている。それとへ別次元の課題として、話がいつ作られたものか、また、ヒジリ(聖、日知り)なる言葉がいつから使われるようになったのか、探るすべを持ち合わせていない。それでも、生きながらにホトケと思われたことが、話のうえで、寿陵建設の推進に一役買っていると思われる。いずれにせよ、飛鳥時代の人には「聖帝」はセイテイではなく、ヒジリノミカドであり、中国思想そのままの受け売りではない。
(注14)帳台のようなものに貴人が鎮座ましましている様子は、他にも描かれている。

 亦、其の山の上に、絁垣(きぬがき)を張り帷幕(あげはり)を立て、許りて舎人を以て王(みこ)と為て、露(あらは)に呉床(あぐら)に坐(いま)せ、百官(もものつかさ)が恭敬(ゐやま)ひ往来(かよ)ふ状(さま)、既に王子(みこ)の坐す所の如くして、更に其の兄王(えみこ)の河を渡らむ時の為に具へ餝(かざ)りき。(応神記)
 妾(やつこ)、性(ひととなり)交接(とつぎ)の道を欲はず。今皇命(おほみこと)の威(かしこ)きに勝(た)へずして、暫く帷幕(おほとの)の中に納(め)されたり。然るに意(こころ)に快(よろこ)ばざるなり。(景行紀四年二月)

 その帳台の究極の形態が高御座に当たる。高御座は八角形、寺院の蓋高座は六角形、帳台や御輿(神輿)は四角形が一般的に見受けられる。何か軌があったのか、不勉強で確かなことはわからない。養老令・儀制令に、「凡そ蓋(きぬがさ)は、皇太子は、紫の表(うへ)、蘇方(すは)の裏(うら)、頂(いただき)及び四角(しかく)に、錦を覆ひて総垂れよ。」とあり、四角いきぬがさが定められている。
 また、蓋高座かどうかはわからないが、斉明紀に「高座」の記述がある。

 是の月に、有司(つかさ)、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて、一百(もも)の高座(かうざ)・一百の納袈裟(なふのけさ)を造りて、仁王般若之会(にんわうはんにや)の会(をがみ)を設(ま)く。(斉明紀六年五月是月)

(注15)何もしない政治家は、失点が少ないために善政であったかのように誤解されることがある。仁徳紀六十七年是歳条に、「於是天皇、夙興夜寐、軽賦薄斂、以寛民萌、布徳施恵、以振困窮。弔死問疾、以養孤孀。是以、政令流行、天下太平、廿餘年無事矣。」とあって、天下太平を謳っている。淮南子・脩務訓の「湯夙興夜寐、以致聰明、軽賦薄斂、以寬民氓、布徳施恵、以振困窮、吊死問疾、以養孤孀。百姓親附、政令流行。」とほぼ同じ記述がある。人名の「湯」が「天皇」に、「民氓」が「民萌」に、また、「百姓親附」を省いて「天下太平」を補っている。日本書紀編纂者は、潤色は潤色でも脱色という方法も用いたらしく、仁徳天皇に対して「百姓親附」ではなかったことを暗示する。
(注16)拙稿「仁徳天皇の名、オホサザキの秘密」参照。

(引用・参考文献)
白川1995. 白川静『字訓 新装普及版』平凡社、1995年。
合田2013. 合田幸美「火処」一瀬和夫・福永伸哉・北條芳隆編『古墳時代の考古学 第六巻』同成社、2013年。
五来2009. 五来重『五来重著作集第11巻 葬と供養(上)』法蔵館、2009年。
相模2018. 相模𣳾造「西域出土の唐代の幡について」『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇 』第46号、2018年3月。https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_DB004600008949
大系本日本書紀 大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
津田1963. 津田左右吉『津田左右吉全集 第二巻』岩波書店、昭和38年。
長野1998. 長野一雄『古事記説話の表現と構想の研究』おうふう、1998年。
福田2012. 福田清春「茅葺き屋根の生劣化」『しろあり』№158、2012年7月。
三田2010. 三田覚之「法隆寺献納宝物 金銅灌頂幡の再検討―造立典拠を中心として―」『MUSEUM』第625号、2010年4月。
山崎1993. 山崎正之『記紀伝承説話の研究』高科書店、1993年。

※本稿は、2017年6月稿を2021年3月に改稿したものである。

(English Summary)
Emperor Nintoku is regarded as the Holy Emperor(聖帝ひじりのみかど). However, if you read the descriptions in Kojiki and Nihon Shoki carefully, you will find that it is kind of ironic. In this paper, we will reconsider it using the "𧛡" character written in Kojiki as a clue. Then, we will be able to prove that it is composed as a witty story of ancient Japanese, “asi” (葦 ; reed, 足 ; leg, 𧛡 ; tail of banner), and to determine the true meaning of the description as the Holy Emperor.

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