古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

雄略紀の吉備反乱譚―女相撲と闘鶏をめぐって―(2020年9月改稿)

2017年07月28日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 雄略紀に、吉備勢力へのヤマト朝廷からの一連の弾圧と見られている記事がある。特徴的な話で、何を伝えたくてそのような記述がなされているのか不思議なものである。

 八月に、官者(とねり)吉備弓削部虚空(きびのゆげべのおほぞら)、取急(あからさま)に家に帰る。吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)或本に云はく、国造(くにのみやつこ)吉備臣山(きびのおみやま)といふ。虚空を留め使ふ。月を経るまで京都(みやこ)に聴(ゆる)し上(まうのぼ)らせ肯(か)へにす(注1)。天皇、身毛君大夫(むけつきみますらを)を遣(つかは)して召さしむ。虚空、召されて来(まうき)て言(まを)さく、「前津屋、小女(をとめ)を以ては天皇の人(みひと)にし、大女(おほめのこ)を以ては己が人にし、競(きほ)ひて相(あひ)闘(たたか)はしむ。幼女の勝つを見ては、即ち刀(たち)を抜きて殺す。復(また)、小(すこしき)なる雄鶏(みにはとり)を以て、呼びて天皇の鶏(みにはとり)とし、毛を抜きて翼(はね)を剪(き)りて、大(おほき)なる雄鶏(にはとり)を以て、呼びて己が鶏(とり)として、鈴・金の距(あこえ)を著(は)けて、競ひて闘はしむ。禿なる鶏の勝つを見ては、亦刀を抜きて殺す」とまをす。天皇、是の語(こと)を聞しめして、物部の兵士(いくさびと)卅人(みそたり)を遣(つかは)して、前津屋幷(あは)せて族(やから)七十人(ななそたり)を誅殺(ころ)さしむ。(雄略紀七年八月)

 弓矢を削り作る人がお里の吉備に帰ったところ、領主に留め置かれて使役し続けられた。天皇は不審に思って人を遣わして召還したら、事情説明がとんでもないものであった。小女を天皇の人、大女を自分の人と決めてけしかけて相撲をさせ、小女のほうが勝ったら刀を抜いて殺してしまう。また、小さい雄鶏を天皇の鶏として毛を抜き、翼を剪り、大きい雄鶏を自分の鶏として鈴や蹴爪に金属を被せて蹴り闘わせ、小さい方が勝ったらまた殺しているというのである。それを聞いて天皇は、物部の兵士を派遣して一族郎党を誅殺したという話になっている。
 この逸話についてはほとんど研究が行われていない。本稿では、これを話(咄・噺・譚)としてきちんと把握することに努める。
 内容にわずかに歩を踏み入れた考察として、吉田1995.がある(注2)

 この伝承の史実性についてはもとより問題があるが、この伝承の構造にはいくつかの問題を指摘することができる。第一に虚空が吉備弓削部を称しかつ官者=トネリと記されていること。第二に虚空を召還するために、身毛君大夫という氏名をもつ美濃地域に本拠をもったと考えられる豪族をわざわざ派遣したと記されていること。第三に反乱そのものは、すこぶる咒術的な祭祀性のつよいもので、前津屋に反乱の意志があったにせよ現実の反乱にまではいたらないと記載されていること。第四に書紀の記載する人数はもとより論外であるが、それにしてもすこぶる小規模な雄略側の先制攻撃によって前津屋が打倒されたと記載していること。以上の四点はこの反乱伝承のもっている特徴といえるだろう。(34頁)

 虚空は本拠地を吉備とした弓削部で、弓矢などの武器を製作する品部であり、久米郡と賀夜郡に分布していたと知られ、吉備一族が大王主導の内征、外征に参加した際には、武器製作者集団を隷属させていたと予想されるけれど、前津屋に留使されたとき、虚空はトネリとして大王家に上番勤務する者として描かれているから、もはやトモとして、部民制支配に組みこまれていたことを物語る、とされている。吉備一族と中小首長層の対立に大王家が介入したとするのである。そして、事件の発端が、吉備弓削部虚空を大王家と吉備一族のどちらが把握するかをめぐる紛争であると記述されているのも、その背景を象徴的に物語っているとされている。そして、吉備一族には、吉備地域を組織して大規模な内乱に発展させる力を持っていなかった点が、前津屋の咒術的な古さとして表現されているとされている(注3)
 書かれている文章の内容についての“史実性”はないものとしながら、文章の構造から“史実”を読み取ろうとしている。際限なく印象論が罷り通ってしまう。近代の歴史学の考え方からすれば呪術は古いものとされもし、吉備弓削部は吉備一族に以前は隷属していたとまとめられてしまっている。けれども、話を書き記したのは日本書紀の編者である。紀が編纂された681年から720年の人たちにとって、女相撲や闘鶏で小さいものをいじめるのが古い呪術とされ、吉備弓削部虚空と吉備下道臣前津屋との社会的な人間関係についてパワハラであると認識されていたとするに足る根拠は知られない(注4)
 どうして「小女」と「大女」とを競わせ闘わすことをしたり、「小女」が勝ったら殺したりするのか。どうして「小雄鶏」の「抜毛剪翼」したのと、「大雄鶏」に「著鈴・金距」けたのとを競わせて闘わせ、「禿鶏」が勝ったら殺しているのか。「抜刀而殺」したのは「小女」か「大女」か、また「小雄鶏」か「大雄鶏」か。そしてこの話はどういう種類の“呪術”でどのような作法で行われたものなのか。それが話(咄・噺・譚)の核心であり、明らかにしたい点である。雄略朝当時、あるいは下って日本書紀の編まれた天武(~持統・文武・元明・元正)朝に、話(咄・噺・譚)として十分に理解されたからそのように記されていると考えられる。
 雄略紀に、トネリは「舎人」(五年二月)、「川瀬舎人」(十一年五月)とある。その点をとらえ、中山1999.に、「「官者」を必ずしも舎人と読む必要はないのではなかろうか。……官者吉備弓削部虚空は、大和朝廷の中央政府に仕える官人と解釈するのが妥当である。」(166頁)とする。では、「官者」をトネリとは読まず、ツカサなどと読(呼)んだかといえば、定められることではない。大和朝廷の中央政府に使える官人と解釈して差し支えないが、国家公務員の場合、「取急(あからさま)に」、すなわち、ちょっと帰ってまたすぐ戻るつもりで、といった休暇形容で合致するのか検討が必要である。
 養老令・假寧令に、「凡そ在京の諸司には、……五月、八月には田假(でんけ)給へ。分ちて両番為(つく)れ。各十五日。……」とあるから、本条は稲刈りのために実家へ帰ったことを表していると考えられる。「取急(あからさま)」と断り書きされている。効率的な集約農業が行われていたことが窺える。訓としては、「取假(あからしま)」(雄略紀八年二月)ともある。新編全集本日本書紀では雄略七年八月条の当該部分、「急(いとま)を取りて」とあり、「急」は「休」の通用とする説を立てている(注5)。ただし、伝本にそのような古訓は見られない。アカラサマという訓の正しさは、神武前紀戊午年六月条、「海の中にして、卒(にはか)に暴風に遇(あ)ひぬ。」箇所の日本書紀私記に、「暴風 安加良之末加世(あからしまかぜ)」とある点にも求められる。はやてのことをいう。虚空も、吉備国の実家に、はやてのように現れて稲刈りし、はやてのように去って行くつもりでいたのであろう。ところが、在地のお偉いさんに留め置かれてしまった。
 そのように捉えてみると、「官人」という表記はなかなかに叡智があるとわかる。ヤマト朝廷側としては、正規雇用の公務員として労働規約に基づいて働かせ、決められたとおりに休暇を与えている。対して吉備下道臣前津屋は、吉備弓削部虚空という人間を使用人としての分際、低位のカーストであると認知している。誰に使われようが同じであるという発想から、自分のところへ留め置いてこき使っている。名称として、弓削司(ゆげのつかさ)なる言い方は見られない。雑戸扱いである(注6)。だから、専門技術を持った熟練工であるのに、呼び名はトネリである。トネリというのだから奴隷扱いしてかまわないだろうと誤解してしまった。図書寮本に、「官者」の右に「舎人也」と傍書され、左に「トネリ」とあるのは、深い理解に基づいていると納得できる(注7)。つまり、弓削の仕事人をツカサとは呼ばないが、労働条件はツカサに準ずるということである。他にふさわしい呼び名がなかったからトネリと呼んでいた。だからこそ、吉備下道臣前津屋は勘違いした。
 假寧令には、「凡そ假請はむことは、……以外、及び畿外に出でむと欲(ねが)はば奏聞せよ。……及び六位以下は、皆本司判りて給へ。」とあり、続紀・文武天皇・大宝元年五月条に、「勅(みことのり)したまはく、『一位已下に休暇(くげ)を賜ふこと、十五日に遇ぐること得ず。……』」とあって、15日が限度と定められていたようである。それなのに、ひと月経っても帰って来なかったから変だということになった。シナリオの導入部、事の発端部である。
 話の主人公は官者吉備弓削部虚空である。弓削部は、弓矢をつくる人たちで、特に弓を削るのが得意な人である。天皇に対しているのは吉備下道臣前津屋である。○○ヤという名だから、こちらは矢を作っていたと思われる。音声言語にのみ生きた上代人の感性ならではの想念である。矢を作りつつ、弓を作る人を留め置いたら、要らぬ疑いをかけられても仕方あるまい。そして、弓矢を実戦に用いる際、兵士は矢をケースに入れて背負う。靫(ゆき、キは甲類)と呼ばれる。靫に緒を通して負ったから、弓使いの武人のことを靫負(ゆげひ)と呼んでいる。

 山陵(みさざき)の事畢るに至りて、乃ち弓部稚彦(ゆげのわかひこ)をして弓を造らしめ、倭鍛部天津真浦(やまとのかぬちあまつまら)をして真麛(まかご)の鏃(やさき)を造らしめ、矢部(やはぎべ)をして箭(や)を作(は)がしむ。弓矢既に成りぬるに及(いた)りて、神渟名川耳尊(かむぬなかはみみのみこと)、以て手研耳命(たぎしみみのみこと)を射殺さむと欲(おもほ)す。(綏靖前紀神武七十七年十一月)
 靫 釈名に云はく、歩人の帯する所を靫〈初牙反、由岐(ゆき)〉と曰ひ、箭を以て其の中に叉す也といふ。(和名抄)
弓作り(狩野晴川・狩野勝川、七十一番職人歌合模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttp://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017463をトリミング)
左:靫形埴輪(横浜市保土ヶ谷区瀬戸ヶ谷古墳出土、古墳時代、6世紀、東博展示品)、中:靫出土品(雪野山古墳、古墳時代、4世紀、「鈴鹿からびわ湖まで―東近江市の博物館の情報サイト―」https://e-omi-muse.com/maibun/yukinoyama/yukinoyama3.html)、右:靫復元品(奈良県鴨都波遺跡出土、福島県文化財センター白河館共同研究、工芸文化研究所http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1870)
 靫に矢を収納する際、鏃の金属部分を上にして入れていた。きらきらさせて敵に見せつけて威圧する役目を果していたとも考えられている。形象埴輪にそのように作られた例が見られる。ただし、靫に蓋のあったことも出土状況から見えてきた。鏃が上だと取り出すときに自分の手を傷めるのではないかと心配されている。しかし、射手は、弽(弓懸、ゆがけ)と呼ばれる革製の手袋をはめている。手袋していて手傷を負うようでは、そもそも手に神経が集中しておらず、とても的に命中させることはできない。適当にしか射ることができない靫負は、むしろ射ないでいてほしいものである。射殺すことができずに敵の近くへ矢が届くと、それはそのまま敵の武器となって射返されてしまう。記紀には、天若日子(天稚彦)の話として、「還矢(かへりや)」(記上)、「返矢(かへしや)畏(い)むべし」(神代紀第九段本文)といった話で伝わっている。今でも警察官がいちばん気を付けなければならないのは、携行した際にピストルを奪われないことである。靫は、刑吏の看督長(かどのをさ)の所用へと特殊化していく。歴史的にみて靫から胡籙(やなぐひ)へ移行したのは、両方使われていたもののうち、鏃をおさめるだけの胡籙が実用的で、靫が儀礼的、顕示的、あるいは、調度的性格の強いものであったとも考えられる。矢の長さが長くなるにつれ、靫のように全体をおさめたケースを背負うと、肩ごしには取り出しにくくて廃れた可能性もある(注8)
 その吉備弓削部虚空は、すぐ帰ってくるはずのところ、1か月経っても帰京せず、行きっぱなしになっている。吉備下道臣前津屋(国造吉備臣山)に留め置かれて使役されていた。農繁期を過ぎれば、弓削部という専門職だから、何かほかに仕事をしたわけではなく、弓を作らされていたに違いない。制裁せずに放置しておけば、やがては核、ミサイル、ICBMまで作られてしまう。なにしろ、弓削部と(サキツ)ヤ(矢)とが、行(ゆ)きっぱなし状態で合わさっている。「行き(キは甲類)」は「靫(ゆき)」に同音である。1つの靫には50本の矢を装填できたという。矢の数をかぞえるのに用いる助数詞は、箭(のり、ノは乙類)である。

 ……又背(そびら)に千箭(ちのり)の靫(ゆき)千箭、此には知能梨(ちのり)と云ふ。と五百箭(いほのり)の靫を負ひ、……(神代紀第六段本文)
 そびらには千入(ちのり)の靫を負ひ入を訓みて能理(のり)と云ふ。下は此れに倣へ。、(記上)

 天皇方は、身毛君大夫を使って召還している。そして、つぶさにその状況を報告させている。
 オホゾラ(虚空)という名は、曰くありげである。広大な空のことは、時として、いい加減で、あてどないことを言う。オホ(凡)にもソラ(空)にもいい加減さ、不確実さの意がつきまとう。だから、召還されての報告が、具体的な軍備増強をあらわすのではなく、呪術めいた女相撲と闘鶏の話である。かといって、吉備弓削部虚空がスパイの真似事を専らとして語っているかといえばそうではない。何しろ、弓削部にできることは弓を削ることだけである。工作機械のロボットなのだから、弓を削ることしか出来ない。なのに、女相撲や闘鶏の話をし、そのロボットの話を天皇は確かなこととして聞いている。工作機械の機械音を人の言葉として聞くには、それなりのヤマトコトバの頓智があるものと考えられる。
 彼が話すべきことは軍備増強の実態である。
 つまり、「○○箭(のり)」としか話せないはずである。ところが、吉備下道臣前津屋が天皇のことをノリ(詈・罵、ノは乙類)していると語っている。

 馬柵(ませ)越しに 麦咋(は)む駒の 詈(の)らゆれど 猶ほし恋しく 思ひかねつつ(万3096)

 そのやり方は、小女を天皇に見立て、大女を自分に見立てたり、小雄鶏を天皇と見立て、大雄鶏を自分に見立てている。天皇と自分とを対比させ、それぞれに相似するものとして小さいものと大きいものとをとりあげている。似ているというのである。古語に、ノリ(似、ノは乙類)である。そして、想定外に小が大を制することがあったら、すぐに刀を抜いて殺している。当然、血が噴き出る。血のことは古語にノリ(生血、ノは乙類)で、糊と同根の言葉である。今に血糊と言っている。どうして両者を対比させるのにノリ(似)の事柄を持ち出しているのか。それは、相手の氏姓が「下道臣」で、天皇の名は、「大泊瀬稚武(おほはつせわかたける)」だからである。「下道」とわざわざ名づけられてある。シモツミチとは新たに作られた幹線道路である。そのハイウェイに馬を走らせた。馬はノリ(乗、ノは乙類)物である。かたやオホハツセと聞けば、ものすごく馳せる様子、また水運の船が思い浮かぶ。ノル(乗)という語は、馬にも船にも関係する語である。

 是に大泊瀬天皇、弓を彎(ひきまかな)ひ馬を驟(は)せて、……(雄略前紀安康三年十月)
 隠国(こもりく)の 泊瀬の山は 出で立ちの よろしき山 走(わし)り出の よろしき山 隠国の 泊瀬の山は あやにうら麗(ぐは)し あやにうら麗し(雄略紀六年二月、紀77)
 君に恋ひ 寝(い)ねぬ朝明(あさけ)に 誰(た)が乗れる 馬の足音(あのと)そ 吾(われ)に聞かする(万2654)
 海原(うなはら)の 路(みち)に乗りてや 吾恋ひ居らむ 大船の ゆたにあるらむ 人の児ゆゑに(万2367)

 オホハツセという川の瀬に停泊する名に対する形で、或本に、「吉備臣(注9)という名が掲げられている。サキツヤ(前津屋)という名は、サキ(前・先)+ツ(助詞)+ヤ(矢)の意に聞こえ、鏑矢(かぶらや)が思い浮かぶ。先端に蕪(かぶら)のような形をした、木や骨角に穴を穿って中空に作ったホイッスルのついた矢である。両者とも騎射の名手であったらしいと聞こえる。鏑矢は、戦闘の開始の合図として放たれた。まず先(さき)に、放(さき)たれた矢ということである。いずれもキは甲類である。前津屋は、特に反乱を起こそうとして軍備増強を図ったのではなく、流鏑馬のような芸の道へ進もうとしていたのかもしれない。
左:内裏塚古墳鳴鏑(鹿角製、5世紀、富津市HPhttp://www.city.futtsu.lg.jp/0000000782.html)、右:鏑矢の利用(男衾三郎絵巻、紙本着色、鎌倉時代、13世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttp://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0021046をトリミング)
 鏑 丁狄反、入、箭鏃、矢佐支(さき)、又、奈利加夫良(なりかぶら)。(新撰字鏡)
 鳴箭 漢書音義に云はく、鳴鏑〈日本紀私記に八目鏑は夜豆女加布良(やつめかぶら)と云ふ〉は今の鳴箭の如き也といふ。(和名抄)
 ……手には天梔弓(あまのはじゆみ)・天羽羽矢(あまのははや)を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を副持(ちりそ)へ、又頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯(は)きて、……(神代紀第九段第四)
 亦、鳴鏑(かぶら)を大き野の中に射入りて、其の矢を採らしめき。(記上)
 故、其の鳴鏑(かぶら)の所落(お)ちし地(ところ)を訶夫羅前(かぶらさき)と謂ふ。(神武記)

 鳴鏑は中国に哮(こう)ともいう。哮は嚆に同義で開戦布告の嚆矢のこと、つまり、時間的に戦の初っ端、先に放つので、場所的にもサキ(崎)でなければ辻褄が合わない。よって神武記に、鳴鏑の落ちた所をカブラサキと呼んでいる。そして、先に生まれた子の方が大きく、後から生れた子は小さいという対比ができる。それが、サキツヤとワカタケルの対比である。幼子のことは、髪型のおかっぱ頭から、カブロ(禿・童)という語で言い表す。カブラ v.s. カブロである。
禿(かぶろ)(左:岩瀬百樹・歴世女装考 秋、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879500/9をトリミング、法然上人絵伝第一巻によるか、右:鈴木空如・松浦翠苑模、慕帰絵々詞、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2590848/37をトリミング)
 禿 吐木反、无髪、加夫呂奈利(かぶろなり)。(新撰字鏡)
 瘍〈禿附〉 説文に云はく、瘍〈音は楊、賀之良加佐(かしらかさ)〉は頭瘡也といふ。周礼注に云はく、禿〈土木反、加不路(かぶろ)〉は頭瘡也といふ。野王案に、髪無き也とす。(和名抄)
 天皇、岐嶷(かぶろ)にましますより総角(あげまき)に至るまでに、……壮(をとこざかり)に及(いた)りて……(允恭前紀)

 カブラ(蕪)という語にはアブラナ科の植物の意のほかに、その形を連想してからか婦人が釵子をつけるときに頭頂部に添え加えた髢(かもじ)のこともいう。カブロ(禿)に髪は少なく、カブラ(蕪・鏑)に髪の多いことを強意している。ここに、前津屋が女の子や雄鶏を引き合いに出していた理由が確かとなる。釵子や鶏冠を簪(髪挿)と見たのである。新撰字鏡に、「簮簪 二同、則含反、平、加美佐志(かみさし)」、和名抄に、「簮 四声字苑に云はく、簮〈作含反、又則岑反、加无佐之(かむさし)〉は冠を挿(さしはさ)む釘也といふ。蒼頡篇に云はく、簮は笄也といふ。釈名に云はく、笄〈音は雞、此の間に笄子と云ふ〉は係り也、冠を抅(か)けて墜ちざらしむる所以也といふ。」とある。髪(かみ、ミは甲類)は、上(かみ、ミは甲類)と同音で、同根の語かとされている。身体の上部に生えている毛だからカミ(髪)と呼んだという。吉備下道臣前津屋と大泊瀬稚武とで、どちらが上(かみ)なのか、それを確かめてみる行為、その占いに及んだということであろう。
 「禿鶏」は、「小雄鶏」の「抜毛剪翼」りしたものである。「禿」字は、伝本の諸本に、ツブレナル、アカハダナル(濁点は筆者)とある。日本書紀私記には、カブロナル(濁点は筆者)とある。文脈全体をノリ(罵・詈)のことと考え、言葉としても前津屋と稚武にそれぞれノリ(似)の状態にある「女」や「雄鶏」の個体を選び出している。一語一語について、対比の対象として対照させている。噺家の力量として、洒落を用いて人々の耳目を引くことは大事である。すると、前津屋が「鏑(かぶら)」に言葉の写像とされるのであれば、稚武は「禿(かぶろ)」と想定されたとするのが妥当である(注10)。「小女(をとめ)」とあるのは、頭髪が薄くなっているのではなく、髪が短くて結いあげるに至らないおかっぱ頭、すなわち、カブロ(童)なるカブリ(頭)の女の子、幼童女であると明示されている。この話の設定時期は、八月、稲刈りの休暇であった。稲穂が頭を垂れる。「頭(かぶ)」を動詞化した語が、「傾(かぶ)す」である。

 栗太郡(くるもとのこほり)の人……、一夜(ひとよ)の間(ほど)に、稲生(お)ひて穂いでたり。其の旦(あした)に垂穎(かぶ)して熟(あからか)なり。(天智紀三年十二月)
蕪(家庭菜園とバラと犬とおっさん(http://kitchen-garden-rose.blog.so-net.ne.jp/2010-11-23-2))
 稲刈り休暇で吉備の実家に戻っている。ひたすら稲を刈った。古墳時代に鉄の鎌は登場し、穂首刈りと併用であったとされている。カブラ(蕪)の葉のように伸びた稲が垂穎(かぶ)していたのを刈り取り、カブロ(禿)なるごとく短髪のおかっぱとなった。
 イネ(稲)のことをシネ(稲)とも言う。「十握(とつか)の稲(しね)」(顕宗前紀)、「種稲(たなしね)三十斛(みちぢさか)」(天智紀元年正月)、「和稲(にきしね)・荒稲(あらしね)」(延喜式・神祇式・祝詞・広瀬大忌祭)、「味稲(うましね)」(万385)、「秥 唐韻に云はく、秥〈音は活、漢語抄に乃古利之禰(のこりしね)と云ふ〉は穀を舂きて潰れざる物也といふ。」(廿巻本和名抄)など、みな籾の結実し稔りとなった状態のイネを示す例である(注11)。斎宮忌詞に、「死ぬを奈保留(なほる)と称(い)ふ」(延喜式・神祇式・斎宮)とあるのは、病が治ることを比喩に使っているとされている。イネが熟してきて穂が垂れて立てなくなっているにすぎないから、翌年の命の源を断ってしまえば真っ直ぐに起き上れる。すなわち、「死ぬ」の命令形、シネと言いつつ穂首刈りしていっては稲が立ち上がることから連想された忌詞かとも思われる(注12)
 ここでの議論として、前津屋は小と大とを闘わせて、小が勝つと「抜刀而殺」している(注13)。その場合、小と大のどちらを殺しているのか。両方とも殺しているのか。文章に特に明示はない。この話は、前津屋の呪詛が暴かれて滅ぼされた話と信じられている。しかし、言霊信仰のもとにあった上代の人に、確かなこととして認められたから伝えられた話である。そうでなければ無文字に伝わることはない。呪詛かウケヒ(誓・祈)か占いのようなことをしているらしいから、何か作法があったと考えて然るべきである。従来の読み方では、前津屋が天皇をのろって、それが露呈したために天皇に誅殺されたとの筋書きで捉えられている。前津屋が女相撲や闘鶏に勝ってしまった小の方、天皇に見立てた方を殺したから、それが都へ聞こえて天皇の怒りを買い、滅ぼされたとされている。
 けれども、この話では見立てて競わせることをしている。ノリ(詈・罵)の話とする限りにおいて、作法にノリ(則・法・規・矩)となるものに従わなければお話にならない。言霊信仰のもとにおいては、言=事となることを前提として、それを活用して自分の意図に従うように、相手にダメージとなるべく、ノロヒ、トゴヒ、カシリをする(注14)。また、ウケヒ(誓・祈)も、眼前でAということが起るとするなら将来A´ということも起こると前言しておいて占いとした。そんな演繹的思考が確かと考えられたのは、無文字文化の観念体系、すなわち、言=事とする言霊信仰が基底にあってのことである。いま、前津屋は、自分に見立てた「大女」や「大雄鶏」が負けたからといって、勝つはずがなさそうであった「小女」、「小雄鶏(禿鶏)」に制裁を加えて殺したとは考えにくい。ノリ、ノロヒ、トゴヒ、カシリ、ウケヒに見られる言=事であるとする大前提を否定することになり、許される振る舞いではない。カード占いが思うように行かないからとやり直したり、手相が悪いからとペンで財運線や結婚線を書き伸ばして良しとするのは、占いの前提自体を否定することである(注15)
 したがって、前津屋が腹いせに殺したのは、負けてしまった自分の見立てである「大女」や「大雄鶏」の方であると考えられる。前津屋が女相撲や闘鶏の勝敗が思うように行かなかったとき、話の展開として前津屋は滅ぼされて然りなのである。前津屋がした呪詛的ウケヒ的占いの結果に同じく、現実でも前津屋側は負けている。既に表出していたことが実際に現出していて、ウケヒの論理構成に等しい。ウケヒガリ(祈狩・宇気比獦)の例を見る。

 時に麛坂王(かごさかのみこ)・忍熊王(おしくまのみこ)、共に菟餓野(とがの)に出でて祈狩(うけひがり)して曰く、〈祈狩、此には于気比餓利(うけひがり)と云ふ。〉「若し事を成すこと有らば、必ず良き獣(しし)を獲む」といふ。二の王、各(おのおの)假庪(さずき)に居(ま)します。赤き猪忽(たちまち)に出でて假庪に登りて、麛坂王を咋(く)ひて殺しつ。軍士(いくさびと)悉(ふつく)に慄(お)づ。忍熊王、倉見別(くらみわけ)に謂(かた)りて曰く、「是の事大きなる怪(しるまし)なり。此(ここ)にしては敵(あた)を待つべからず」といふ。(神功紀元年二月)
 如此(かく)上り幸(いでま)しし時に、香坂王(かぐさかのみこ)・忍熊王、聞きて、待ち取らむと思ひて、斗賀野(とがの)に進み出でて、宇気比獦(うけひがり)を為(し)き。爾に香坂王、歴木(くぬぎ)に騰り坐して見るに、大きなる怒猪(いかりゐ)出でて、其の歴木を掘りて、即ち其の香坂王を咋ひ食(は)みき。其の弟(おと)、忍熊王、其の態(わざ)に畏(かしこ)まらずして、軍(いくさ)を興して待ち向へし時に、……(仲哀記)

 この「祈狩(うけひがり)」の結果は、戦ったら負けるであろうという悪い兆候に認識されている。そして、実際にも負けている。占ってみてその結果が良くなかったら、「是事大怪也。」と行動を慎むのが上代人である。将来予測の占いをして負けが見えていたら、実際においても負ける。言=事が貫徹されるのである。もしその前提が覆るのであれば、無文字文化は無秩序状態のアノミーに陥る。現代のように他に頼りとするもの、文書も科学も宗教もなかった。
 前津屋は占ってみてうまくいかず、実際にも天皇方に滅ぼされている。話(咄・噺・譚)のレベルとして、「天皇聞是語」いてそのとおりにしている。「遣物部卅人、誅殺前津屋幷族七十人。」である。ここで、30人(注16)が70人を誅殺しているから、話が完結しているとわかる。前津屋の占いに、大が小を制するように仕向けているのに、小が大を制するしるしがあらわれていた。そのとおりに、少ない人数で大勢を攻めて殺している。占いに導かれるように現実の結果が出来している。こういった理路整然とした話に対して、「史実はもとより問題がある」とする吉田1995.の議論の次元に疑問を感じる。史実性があるかどうか、すなわち、話が史実を語るものであるかどうかという設問自体、およそナンセンスであると言わざるを得ない。近代の歴史学が唱える“史実”なる薄っぺらな概念を、紀の記述は裏側から透かし通して笑っているように思われる。
 前津屋の考えに、長幼の序の思想があったり、三略の、「柔能く剛を制し、弱能く強を制す」のような、小よく大を制すという考えがあったかわからない。少なくともこの短編噺からは読み取れない。特にないから特記されず、何かを匂わせる印象も与えていないのであろう。
 では、この占い話は、雄略紀全体、日本書紀全体の中でどのように位置づけたらよいのか。そしてそこから、古代吉備地方の政治状況、在地の勢力とヤマト朝廷との関係について何がわかるのか。ここでそれらをすぐに考えることは、みな、近代の視点、ものの見方の枠組から見ようとする試みとなり、記紀に所載の話(咄・噺・譚)を生々しく読むことと相容れるものではない。雄略紀を読み返してみれば、よくわからない、味の定めがたい逸話が数珠つなぎに列挙されている。それら一つ一つをすべて検討し、上代の人がどのような考えでそれぞれの話を組み立てていったのか解読するところから始めなければ、空理暴論のそしりは免れまい。そのためには、書かれている文章の一つ一つのヤマトコトバを丹念に見極めていく必要がある。記紀の話とは、大きな斧で荒削りされたものではなく、小さな彫刻刀で丹念に刻まれたものが多数陳列されている状態にある。素材の質、つまり、ヤマトコトバの領域も多岐にわたり、当時の日常語がふんだんに盛り込まれている。求められているのは抽象的な“構造”の理解ではなく、ヤマトコトバ一語一語についての深“読み”である。問いのたて方からやり直さなければならないと考える。
 
(注)
(注1)別訓に、「京都(みやこ)に聴上(たてまつりあげ)ず」ともある。「不肯」をカヘニスと訓む例は日本書紀にいくつか見られる。白川1995.に、「「かへ」を「交(か)へ」「變へ」と解する説もあるが、その意を含むとはみえない。「かへにす」の「に」は、否定の助動詞「ず」の連用形。」(247頁)とある。「不肯」で、カヘニス、カヘズ、カヘニセム、ガヘンゼズの形ばかり登場する語である。名義抄に、「不肯 ガヘス、イナフ、ウケカヘニセス」とある。イナフは、「辞(いな)ぶ」、承知しない、辞退するの意である。このイナブという音に、上代の人がイナ(稲)+ブ(接尾語)という語感を得ていたなら、稲が頭を垂れるように平身低頭してことわる雰囲気を読み取っていたのかもしれない。本稿の雄略紀七年八月条を、稲刈り休暇と想定したことと重なり、また、それが蕪の葉の株立ちしなる様に見えることから、この個所をカヘニスと訓んで正しいと理解される。
(注2)その後を襲い、中山1999.は、雄略政権が各豪族支配下の人々を朝廷のもとへと切り離して組織化していったという政治の流れが、吉備下道臣前津屋の不満、呪詛になったと解している。
(注3)前川1988.は、「伝承にみえる相撲や闘鶏は、呪術的な行為ともうけとれて事実かどうか疑わしいが、五世紀前半にすでに造山・作山の両巨大古墳を築造した下道連合勢力(下道臣氏)は、しだいに雄略の王権と対決する姿勢をとるようになったのであろう。しかし王権の攻撃に出鼻をくじかれ屈服したというのが実情ではなかろうか。」(160頁)と推測する。大橋1996.は、「[この吉備弓削部虚空]の物語は、成立事情は、その内容からいって、吉備氏の関与するところとは考えられず、やや不明確である」(23頁)とし、「この物語は、吉備国造の不敬行為を朝廷に知らせ、乱を未然にふせいだ、国造一族弓削部の功業譚として構成されていることが想定されるのである。」(24頁)と捻った解釈をしている。
(注4)筆者は、歴史学がするように、定まった構図を当てはめて読み解こうとはしない。ヤマトコトバに書いてあることを、ヤマトコトバに考えて、ちょうどジグゾーパズルを組み立てるようにヤマトコトバのなかに調和点を見出そうとしている。見出せたらそれが正しい読みで、見出せなければ未詳のこととして扱わざるを得ない。文化人類学のフィールドワークと同じ手法である。無文字文化とでは“文化”が違うのだから、他にアプローチの方法はないと考える。
(注5)169頁。河村秀根・益根の書紀集解の説を承けて唱えられている。
(注6)養老令・職員令の「兵部省(ひゃうぶしゃう)」の「造兵司(つはものつくりのつかさ)」の「雑工戸(ざふくこ)」とある内訳に、「古記及釈云、別記云、鍛戸二百十七戸・甲作六十二戸・靫作五十八戸・弓削三十二戸・矢作廿二戸・鞆張廿四戸、羽結廿戸・桙刊卅戸。右八色人等、自十月三月、毎戸役一丁、為雑戸調役也。」(集解)とある。専業体制が敷かれていたらしいが、後の時代には、雍州府志・巻七・土産門下に、「凡そ弓を造る者を弓打と謂ひ、矢を造る者を矢師と謂ふ。凡そ弓を造る者の多くは又矢を作り、矢矯(やはぎ)と称す。」などとあって、弓具製造業者は弓具全般を扱うようになっていたようである。
(注7)書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430004/3945aff6b628401fb9b609e5baac266a(15/38)参照。
(注8)靫と矢の関係については、鈴木1954.、斎藤1982.、西岡2006.、杉井2014.を参照した。
(注9)湊2005.に、「吉備臣山」という大氏(おおうじ)的表記法が本来で、吉備下道臣前津屋という小氏(こうじ)的表記法は、6世紀後半ないし7世紀初頭以降に分氏したことを後で整理する際に改めた結果として表記されているとする推測が起こされている。反乱伝承の述作時期も同様であろうとする。
(注10)ツブレという訓もあり、あながち間違っているとは言えない。和名抄に、「奴 唐韻に云はく、奴〈乃都反、和名は豆不祢(つぶね)〉は人の下也といふ。」とある。舎人は「人之下」なるツブネに相当するから、ツブレナル鶏と訓んで虚空を挑発したとも捉え得る。その場合、天皇と官者とを一体的に捉えていることとなる。現段階で歴史学がこの話から読み取れるのは、ヤマト朝廷の支配形態が、豪族の子飼い的なそれとは一線を画すものであったという点に限られよう。
(注11)時代別国語大辞典には、「シネがイネにs音の添加されたものとみるか、あるいは別に、もともとひろくいね科植物をさした名称とみるかは、検討を要する。」(361頁)とあるが、熟して稔っている稲を指すのではないか。
(注12)スーパー青果コーナーに売られている蕪の葉で、束ねられて先っぽだけを切り落とされたものがある。大根に比べてかなり長く残されている。漬物でも蕪の葉は長く残されている。食べられるからであるが、この点がこの逸話にヤマトコトバ的に反映されているのか、それが穂首刈りされたように見て取っていたか不明である。
(注13)「殺」はコロスと訓まれている。依るべき古訓があるわけではないが、筆者はシニスという訓に惹かれるものがある。「死ぬ」という語は、しばしば「死にす」という形でサ変動詞化している。

 思ふにし 死にするものに あらませば 先遍(ちたび)そ吾は 死に返らまし(万603)
 かやうの万物の品々を、よくしにせたらんは、幽玄の物まねは幽玄になり、……(風姿花伝(1044~1402頃))

 同音のシニスという語には、上代に文献例はないが、為似す、仕似す、の意で、巧みに物真似することを言うことがある。ノリ(似)のことを語ってきているので、さらに駄目を押して口説いているのではないかと思う。為似す、の名詞化が老舗(しにせ)である。弓削は技術の伝承が必要で、老舗の匠によって成り立っている。
(注14)拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」参照。
(注15)占いという概念を超越して悪いことではないから、カード占いのやり直しや手相の書き足しをして問題はない。
(注16)令義解に、「衛門府……物部卅人。〈謂、此名為内物部。為罪人.特置此府。当決罸時、皆帯刀剱。〉」とある。

(引用・参考文献)
大橋1996. 大橋信弥『日本古代の王権と氏族』吉川弘文館、平成8年。
斎藤1972. 斎藤直芳「弓具の歴史」『現代弓道講座 第四巻―弓具施設編―』雄山閣出版、昭和57年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀②』小学館、1996年。
杉井2014. 杉井健「靫(矢入れ)から見た雪野山古墳」竜王町教育委員会編『古墳時代前期の王墓―雪野山古墳から見えてくるもの―』同発行、2014年。
鈴木1954. 鈴木敬三「靫と胡簶」国学院大学編『古典の新研究』明治書院、昭和29年。
中山1999. 中山薫「下道臣前津屋事件の解釈」横田健一編『日本書紀研究 第二十二冊』塙書房、平成11年。
西岡2006. 西岡千絵「古墳時代の矢入れ具―靫―」『七隈史学』第七号、2006年3月。
前川1988. 前川明久「吉備の反乱」『古代を考える 雄略天皇とその時代』吉川弘文館、昭和63年。
湊2005. 湊哲夫「吉備の首長の「反乱」」門脇禎二・狩野久・葛原克人編『古代を考える 吉備』吉川弘文館、2005年。
吉田1995. 吉田晶『吉備古代史の展開』塙書房、1995年。(『歴史学研究』384号、1972年初出。『日本古代国家成立史論』東京大学出版会、1973年にも改稿して所収。)

※本稿は、2017年7・8月稿を2020年9月に整理したものである。

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