(承前)
新羅を導く枕詞に、「𣑥衾(たくふすま)」、「𣑥綱(たくづの)の」など、𣑥(たく)が関係する言葉がある。𣑥は楮の古名で、樹皮から繊維を取り、後には紙の原料ともされる。丈夫なため、綱や領布、衾の材料に用いられた。色が白いので、同音の新羅にかかるとされている(注19)。
栲衾 白山風(しらやまかぜ)の 寝(ね)なへども 子ろが襲着(おそき)の 有(あ)ろこそ良(え)しも(万3509)
𣑥衾 新羅へいます 君が目を 今日か明日かと 斎(いは)ひて待たむ(万3587)
𣑥綱の 新羅の国ゆ 人言(ひとごと)を よしと聞かして 問ひ放(さ)くる ……(万460)
「高皇産霊尊、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降りまさしむ」(紀第九段本文)とある。この真床追衾については、紀第十段一書第四には、「内床(うちつゆか)に真床覆衾の上に寛(あぐみ)に坐(ゐ)たまふ」、「真床覆衾と草(かや)とを以て、其の児(みこ)を裹(つつ)みて浪瀲(なぎさ)に置き、即ち海に入りて去(い)ぬ」とあるところから「覆」うものとの考え方が出てくる。前者は、天孫が海神の宮、すなわち、豊玉姫の家に入ってのしぐさ、後者は、豊玉姫が皇孫との子を産むときのことである。他に、延喜式に、「衾・単(ひとへ)を大嘗宮の愈紀殿に置き奉り」とある。座布団に代用されているおくるみについて、大嘗祭に用いられるかとされる象徴的な意味合いばかりが検討の対象になっている(注20)。具体的に解釈し直さなければ、当時の人が納得していた次元に到達できたとはいえない。
紀の一書の「真床覆衾」の字面をもって、真床追(覆)衾は、一段高くなった床を覆う敷布団のことかとされている。大嘗祭に用いる衾は、フス(伏)+マ(裳)を表すとされ、袖や襟のない、つまり、掻巻(かいまき)ではない大きなダブルサイズの掛布団、ないし敷布団というのである(注21)。けれども、今に伝わる近世の夜着には、掻巻を多く目にする。上代の掛布団が掻巻であったかなかったか不明である。いま、紀の記述を考えており、大嘗祭からは離れて考えなければならない。「遂に真床覆衾と草(かや)とを以て、其の児(みこ)を裹(つつ)みて波瀲(なぎさ)に置き、即ち海に入りて去(い)ぬ」(紀第十段一書第四)という表現からは、イズメ(嬰児籠)の不在を思わせる。置き去りにするのだから、寝返りが打てないようにしておかないと窒息してしまう。うまくくるまなければならない。
左:いずめこの幼児(狩野永徳筆、上杉本洛中洛外図屏風左隻二扇部分、「伝国の杜だより」Vol.30.https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/pdf/dayori/dayori30.pdf)、右:ふすまの袋を使って藁がくるまれている(板橋区立郷土資料館展示品)
建具のフスマには襖の字を当てる。襖障子のことで、なかに木の骨を格子に設けて下張し、上からきれいな紙を張ったものである。別名を唐紙という。麸(ふすま)は、小麦などを挽いて粉にしたときにできる皮の屑、小麦の糠をいい、家畜の飼料や洗粉にし、また、食べるものがないときに混ぜ物にし、容量を多く見せることもある。別名を、からこ、もみじという。以上から、フスマという言葉には、なにかしら膨らませたもののことを指すとわかる。米を玄米で食べるとは、米と米糠の両方を食べることで、栄養価が高くなってかえって良いとされる。米の場合、稃(ふすま)と書く。そういった言葉の使い方に従うなら、衾とは、わた入れの夜着である。わたが入って膨らんでいるものとなると、おくるみに裹み使うのはなかなか難しい。しかし、フスマ(衾)と言っている。皇孫が被せられているところを考えると、掻巻になっていて赤ん坊が寝ることに使うもの、それは、ねんねこ半纏であろう(注22)。ねんねこのぶかぶかに「其の児」を入れ、隙間に「草」を詰め込んで帯を回せば、赤ちゃんは寝返りを打とうにも動けない。お漏らししてもすべて「草」が吸ってくれる。やがては田んぼの肥やしになる。姿は奴凧に緊縛されたような感じである。「覆ふ」という語には、形のピッタリ感が備わるようである。カイツブリが子どもをおんぶしていたことが思い出されよう。
ねんねこ姿(左:志貴山縁起巻1模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574276(6/26)をトリミング、中:紀伊國名所圖會二編六之巻上、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563489?tocOpened=1(20/49)をトリミング、右:大蔵永常・除蝗録後編、University of Cambridge, Cambridge Digital Library、https://cudl.lib.cam.ac.uk/view/PR-FJ-00231-00011-00002/14)
それが本当に「真床追(覆)衾」なのか。マドコオフフスマのマドコオフは、フスマ(衾)にかかる枕詞なのかもしれない。床(とこ、ト・コは乙類)とは、一段高くしたところのことをいう。オフは、「追」という用字からは先払いのことが思い出され、「覆」という字からは被せておおうことが惹起される。「覆ふ」は「負ふ」と同根の語である。背中におんぶすることである。きちんと「覆」ひながら「負」うためには、二人羽織式にするのがいちばんである。それこそがねんねこ姿である。一段高くしながらおんぶするとは、何のことはない、おしめをあてがって高くしているのである。古代の大人は、ふだん下着を着けなかったらしいが、赤ん坊は別である。この状態は、湿田に一段高くしている台(=トコ)を作ったうえにニホに積んでいくのと相同である。穂を内側に、藁部分を外側にしている。稲積みのニホの内に通気孔とすべく穴を開けることがあった。それは、新生児の頭蓋骨にはひよめき部分の穴があって、いまだに接合しておらずひよひよと脈打つことに相同である。カイツブリのニホの子もひよひよ鳴くひよこである。ねんねこで背負われている子どもの姿こそ、皇孫とされる番能邇邇芸命を示していると言える。
ねんねこがねんねこと呼ばれる故は、ねんねこで子どもをおぶったとき、姿形が猫背になっているように映ることによるのであろう。ネコ(猫)という言葉は、和名抄に、「猫 野王案ずるに〈音苗、祢古麻(ねこま)〉、虎に似て小さく能く鼠を捕らへて粮と為る。」とあるものの、上代に用例が乏しい。記紀万葉に用例がなく、ネコを飼っていたのか、家の周辺にいたのかさえ確かめられない。骨の発掘事例としては、弥生時代の壱岐のカラカミ遺跡、奈良時代の観音寺遺跡の例が知られる(注23)。それでも、猫背のことは、背の曲がったお年寄りの姿として卑近なものと思われる。古語に、クグセ(傴)という。新撰字鏡に、「傴 僂也、◆(人偏に弖)頭也、久豆世(くぐせ)也」、霊異記・下・二十に、「背傴〈世奈加久々世尓(せなかくぐせに)〉」といった用例がある。時代別国語大辞典に、「クグは、クグマル・カガムなどの語幹と関係ある語であろう。セは背の意。」(253頁)とある。ククムは「褁(くく)む」でおくるみに赤ん坊を包むことである。また、ククルには、屈(くぐ)むことと潜(くぐ)ることの二つの意味がある。水が漏れ出て流れたり、狭いところを通り抜けること、また、水のなかを潜り行くことを表す。
敷栲(しきたへ)の 枕ゆくくる 涙にそ 浮宿(うきね)をしける 恋の繁きに(万507)
妹が寝る 床のあたりに 岩ぐくる 水にもがもよ 入りて寝まくも(万3554)
水泳(くく)る 玉にまじれる 磯貝の 片恋のみに 年は経につつ(万2796)
山吹の 繁み飛びくく 鶯の 声を聞くらむ 君はい羨(とも)しも(万3971)
子の中に、我(あ)が手股(たなまた)よりくきし子ぞ。(記上)
泳宮(くくりのみや)、此には区玖利能弥揶(くくりのみや)と云ふ。(景行紀四年二月)
お年寄りとは、長く久しい間ご存命の方である。枕詞、ミヅカキノ(瑞垣)がヒサシ(久)にかかっていたことが思い出される。そんな久しい人であるお年寄りの背中は曲がっている。ヒサシが廂・庇と同音の言葉であったことを面白がっていた。廂・庇のもともとの発義は日差しのことであった。つまり、日が差すこととは日が向かうことである。方角としてできた言葉は東(ひむかし)であり、それと似た地名に日向(ひむか)がある。「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」とあるヒムカ(日向)とは、日差しのことである。音声言語でしかなかったヤマトコトバにとって、話として“わかる”ためには、ヒサシ(日差・廂・久)はお年寄りの猫背のこととイコールでなければならない。お年寄りの猫背とは、お年寄りが立っているのだか寝ているのだかわからない姿勢をとっていることである。そんな枯れた人たちと同じ状態にあるのが、刈り取った稲穂をある程度乾かした上で積んだニホの形に同じである。いちばん上は廂(庇)となる蓋で覆われた。もう少しすると、脱穀されて舎利になる。とても失礼な考え方であると思うが、現実に人は動物なのだから、命あるものとして避けることのできない当然の事実である。そんなお年寄りに与えられている仕事は、孫の子守をしながら落穂拾いをすることである。中心的な農作業の稲刈りは、スピード仕事で忙しいから、動作の遅くなってしまった老人には与えられない。ねんねこで赤ん坊を背負いながら、邪魔にならないところで拾ってもらうしかない。そのような補助的な仕事であっても、集めれば案外量は多い。
ヒサシなのは、日当たりのいい場所に設けられた稲積みのニホに覆蓋を被せて雨除けにすることと悟ることができる。形が猫背と形容して正しいのは、鼠の害を防ぎたいとの願いゆえでもあろう。むろん、完全に防ぐことはできない。それでも猫がいたり、また、鼠落としを設置しておけば効果的である。鼠落としはネズミをぺしゃんこに圧死させる。警蹕がオシオシと言いながら先払いをしていたのと同じことである。老人がねんねこを羽織って孫をおんぶしながら散歩をするのは、家の周りである。すなわち、ニホの周りである。孫を猫かわいがりするというのは、猫背でかわいがることでありつつ、ネズミを捕るネコと同じ役割の先払い役を担っているからである。加齢臭に赤子のおしめが加わって、とてもよくニホう。ニホフ(臭・匂)という語は、色が赤く発色することを指すのが古代には第一の用法である。いま、赤子をおんぶしている。第二の用法は、嗅覚を刺激する香り、臭みが感じられることを表す。本稿の始めのほうで「卆茸(くじふるたけ)」なるキノコは、何ともいえない匂いを伴っていると仮説した。
橘の にほへる香かも ほととぎす 鳴く夜(よ)の雨の 移ろひぬらむ(万3916)
万に物の香臭くにほひたるがわびしければ、……(落窪物語・巻一)
記に「韓国(からくに)」とある伽羅(から)の地を占領したのは新羅である。米をシラグことが想起されていた。新撰字鏡に、「精 米志良久(しらぐ)」、和名抄に、「粺米 楊氏漢語抄に云はく、粺米〈之良介与祢(しらげよね)、上傍卦反、去声の軽、把と同じ〉は精米也といふ。」、「𥽿米 唐韻に云はく、𥽿米〈上臧洛反、作と同じ。漢語抄に末之良介乃与祢(ましらげのよね)〉は精細米也といふ。」、「糲米 崔禹食経に云はく、烏米、一名、糲米〈上音剌、比良之良介乃与祢(ひらしらげのよね)〉といふ。烏米は一斛を舂きて八斗の米と成るを謂ふ也。」とあって、精白することが記されている。お米を精ぐ際には杵で搗き、食べる方は銀舎利で、食べない残骸は糠、つまり、麩(ふすま)である。飼料や肥料にした。「真床追衾」に戻る仕掛けとなって話が完結しそうである。シラク(白)というと、髪が白くなることである。
ぬばたまの 黒髪かはり 白髪(しらけ)ても いたき恋には あふ時ありけり(万573)
若かりし 肌も皺みぬ 黒かりし 髪も白斑(しら)けぬ ……(万1740)
黒髪の 白髪(しらく)るまでと (万2602)
いずれも加齢の話である。お年寄りと精米の関係は、ヒサシにしてニホなるものであると検証することができた。
伝本の信憑性が最も高い真福寺本古事記では、つづけて「真米」とある。米の脱穀、脱稃、精白作業のことを言い表わしていると考えられる。芒(のぎ)のついた籾状態の米粒は、羽根突きの羽子と似て固い実に二つの翼がある姿をしている。「通」字は、トホル、トホスのほか、カヨフの意にも用いられる。カヨフの義に、行き来する、他方へとどく、出入りする、物事に通じる、のほか、意味が通じて似通う、の意がある。説文に、「通は達也。辵に从ひ、甬声」とある。
夫婦(をふとめ)の道は、古も今も達(かよ)へる則(のり)なり。(景行紀四年二月)
本稿の端緒として、「真米通笠沙之御前而」を「真(まこと)米(よね)、笠沙(かささ)の御前(みさき)に通(かよ)ひて」と訓めるか、と提題をした。「真(まこと)」とは、誠尤もなことということである。真偽を問うなら真であるという意味ではなく、よくよく知恵をめぐらせてみたところ、まさに本当に間違いなくそうであったと気づくこと、それを強調するためにマコトという副詞を使っている。
聞くが如(ごと) まこと貴(たふと)く 奇(くす)しくも 神さび居(を)るか これの水島(万245)
たらちねの 母を別れて まこと我(われ) 旅の仮廬(かりほ)に やすく寝むかも(万4348)
譡 丁蕩帝当二反、貞実の辞也。太々志支己止(ただしきこと)、又、万佐之支己止(まさしきこと)、又万己止(まこと)なり。(新撰字鏡)
同じ稲作とは言っても、熟した稲穂を穂首刈りしていた採集生活の延長にある様相とは異なり、株ごと鋸鎌で刈り取っていく先端的な稲作が一部で始められていた。品種が均一化されており、田植えして育てている。株刈りができて収穫が一気に進められる。食用の米ばかりでなく、藁までも生活資材に活用していく術を身につけた。藁とは製品名である。稲の茎、稲柄(いながら)を水に浸して叩くなどして柔らかくしたものである。藁化することで莚などに加工することができる。その結果、稲作は産業化しえた。生活全般が田んぼの稲作に絡めとられていくことで、“農耕生活”という新時代が始まった。貯蔵法も、地面に貯蔵穴を掘って埋めておくリスのようなやり方から、ニホという大量の稲束の山積みへと変化した。何より、年間を通じて安定してまずくないお米を食べることができるようになった。そして、田んぼが藁や籾殻を鋤きこんだり、株を踏みにじったりすることで元肥としつつ、田んぼを運営するのに重要な代掻きが可能となる。田んぼが工場となって、循環可能社会という魔法を手に入れた。食べるためには、年間作業のルーチンワークをこなせばよくなった。余剰米も生れて、租税としてさえ先払い可能になるほどの技術革新であった。稲作法の大転換を示す言葉が、ニホとオシである。
天孫降臨の説話に、猿田毘古神や猿女君の話が絡んでいた第一の所以は、拙稿「猿田毘古神と猿女君」に詳述したように、轡と猿轡のもじりであった。猿と関連する語にサル(戯)があった。周辺の音を見てみると、ジャル(戯)はザレル(戯)の変化形で、方言に、「じらける」といえば、ジャレル(戯)ことを意味する。また、シャル(曝・晒)とは、サレル(曝・晒)の変化形で、長い間風雨にさらされて色褪せること、特に白っぽくなることをいう。つまり、白くことで、白髪混じりになることも含まれる。ニホンザルの毛は、背側は暗褐色であるものの、腹側、特に顔の周りには灰褐色で白っぽいものが多い。子どものことを砂利といい、米粒のことを舎利という。精米のために臼で搗いていると、米粒は杵にまとわりつきながらじゃれ回っている。天孫降臨の話に猿田毘古神や猿女君の話がまとわりつく第二の所以である。
番能邇々芸命の降臨は、稲穂がニホに積まれることを物語ったものと理解できた。すると、紀本文に、「槵日の二上の天浮橋」(注24)とあるのは、刈り取った稲をハザ(稲架)懸けしている様子を表しているように想定できる。稲架は、ハサ、ハセ、ハデ、ホギ、ハッテ、イナグヒ、イナキ、イネカ、イネカケ、ウシとも呼ばれている。刈り取った稲を天日干しにして乾燥させるために、間隔をあけて斜めに組んだ竹竿の足場を建て、上にもう一本の竹竿を横架させて結びつけ、そこに稲束を渡し懸ける装置である。掘っ立て柱に何段も竿を渡した高いものや、脚をいくつも建てて横に長いもの、畔に並べて植えたトネリコなどの木を利用するものなど、いろいろなバリエーションがある(注25)。そのやぐらのようなハザに懸けるときや外すとき、まるで猿のように高いところを行き来して稲束を操っている。天孫降臨と猿との関わりの第三の所以である。
はざ木に稲束をかける(「新潟文化物語 新潟・文化体験リポート 第6回 新潟平野の風物詩・はざかけを夏井で体験」https://n-story.jp/exp-report/06/)
「槵日」とは、クシブ(奇)の連用形に、「日」を当てて乾燥させることを加えて固有名詞にした語のようである。天日干しは今でもおいしいと評判である。「稜威の道別に道別きて」というのも、稲束を半分に分けるようにして跨らせることの謂いと推察される。記に、「此地は、……朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ。故、此地は、甚吉き地」とあるのも、天日の下での乾燥・保存に良い場所ということであろう。収穫された稲はハザ懸けしてある程度乾燥させてからニホに積んでおき、食べる分だけ稲穂から脱穀し、脱稃し、精米し、調理する。その一連の工程を「槵触之峯」と譬えたようである。
記では、「天の石位を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天浮橋に、うきじまりそりたたして」、紀の本文では、「皇孫、乃ち天磐座を離(おしはな)ち、且、天八重雲を排分(おしわ)けて、稜威の道別に道別きて」とあった。「天の石位」、「天磐座」のイハは堅牢な、の意である。天上世界に堅固な場所を求めようとすると、論理矛盾が生じる。それでも高いところのクラ(座)である。稲穂を高い座に懸けさせることと想定すると、ハザ(稲架)のことと捉えられる。そこから、オシはなち、オシわけて来る。オシオシと警蹕の声が聞こえる。「いつのちわきちわきて」、「稜威の道別に道別きて」とあるのは、段重ねのハザがやぐらのように組まれているところを鳶職のように行き交うことの謂いではなかろうか。
「天の八重たな雲」、「天八重雲(あめのやへたなぐも)」とある。棚になっているとは、稲を段々に干し懸けているところを形容しているようにも受け取ることができる。雲海が棚になっているように見える。「水田種子(たなつもの)」という語は、「陸田種子(はたつもの)」の対義語である。
乃ち粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稲を以ては水田種子とす。(神代紀第五段一書第十一)
水稲がタナツモノと呼ばれていたかについて、大系本日本書紀に、「タナは種。ツは助詞ノにあたる。種のものの意。稲についていう。」(①61頁)とあるが、イモ類以外、粟稗麦豆も他の植物も多くは“種のもの”であろう。タナの意は、段重ねにしたハザ(稲架)のことをタナ(棚)と言っているのではないか。粟・稗・麦・豆類も乾かすが、本邦において、やぐらのような段重ねの架に懸けて干したことがあるのかわからない。大根などではよく見かける。収量がどれほど多いかにかかっているように思われる。
稲作に新時代が到来した。それまでとの違いは、弥生時代は穂首刈りをしていたから、稲の茎部分、藁のところが田に残されたままであった。古墳時代、株ごと稲刈りをすることが始まった。積極的に生活資材として藁を活用するようになった。鎌による刈取りと、貯蔵方法の転換により、同時に藁を利用するすべも身についた。藁を編んだり織ったりして使うのである。莚機も伝わったのかもしれない。藁の保温効果は抜群である。莚は藁のストローで保温性が高く、さらに莚と莚を袷にしてなかに藁屑を詰めれば、現代のダウンジャケット、羽毛布団に匹敵する断熱効果が得られる。空気の層ができるから暖かいのである。ニホによる保管に略奪の危険が少なくなったからという点については、生産力の向上や人口動態、ならびに政治的安定といった歴史学の課題であろう。古墳の副葬品に鉄の武具が多数納められているのは、実際の戦闘が少なくて平和な時代であったからとする説がある。ニホが積まれるに足る条件は揃っていたようである。
5世紀、大陸から新技術がまとまってやってきた。それぞれの要素は相互に絡み合いながら、倭の人、すなわち、ヤマトコトバを母語とする人たちに受け入れられていった。ただし、それは、読み書きすることなく話し聞く能力に長けた人たちでほぼ満たされていた。若干、リテラシーのある人がいたが、それも文字という記号に絡め捕られずになぞなぞを十分に駆使できるメタ言語的な頭脳を持っていたと考えられる。そうでなければ周囲の無文字人をコミュニケーションができない。そんな限られた人が中心となって、記紀の基となる話を構想、構成していったと考えられる。筆者は、朝廷のほぼ中心にいた聖徳太子や蘇我馬子であったと考える。話をまとめるに当たって天皇代ごとに寄せ集めて行ったため、表面上、あたかも天皇制の正統性を主張するかに見える形態になっているということらしい。ただし、事の本質は、技術革新をお話として伝えたものである。文字を持たない人たちが、技術革新の意味するところを共有するには、話として楽しめる仕掛けが必要とされたのである。けれども、文字を持ってしまって以降今日に至るまで、長い間、意味がわからないまま“お蔵入り”することとなってしまった。そして“神話”として片付けられて粗雑に扱われるほどに貶められているのが記紀の説話の現状なのである。
(注)
(注1)いわゆる「天孫降臨」という言い方は、黒板勝美編による国史大系本・日本書紀の章句立てとして便宜的につけられたものかと思われる。「天孫降臨」という熟語をもって何事かを語るようになったのは、かなり最近のことである。また、「神話」という語も、明治以降に造られた漢語である。ギリシャ神話のことをいうMythos(ドイツ語綴り)の訳語として造られたとされる。①神々についての物語、②民衆間に信仰をもって語り伝えられた物語、③宗教性・呪術性を存し、社会を規制する力をもった物語、という要件を満たしているものという。すなわち、記紀神話という言い方はとても最近の用語である。
(注2)紀に記される「襲(そ)」、「膂宍の空国を頓丘から国覓ぎ行去る」といった表現については別に論じることとする。
(注3)記の「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命」については、「高」字をタカと訓む説とコと訓む説がある。「日高」はヒコと訓むのが正解である。拙稿「古事記の「天津日高日子」・「虚空津日高」の「日高」はヒコと訓むべき論」参照。
(注4)西郷2005.に、「この「此地は韓国」にかんしても、同じこと[本文のコラプション]がいえよう。いっそう悪いのは、ここでは本文の乱れと、伝承の間におのずと生じた崩れとがかさなっているらしいことだ。これは記紀時代すでに意味不明の、だがおろそかならぬ聖句として伝えられていた部分であり、そしてその故に本文の乱れをも誘ったのに相違ない。」(78頁)とある。
(注5)尾崎2016.に、「「真来」については三字を二字として、……「直来」として「直(タダ)に来通りて(通ひて)」と訓じてはどうかと思う。「真」と「直」との異同は多く例のあるところである。」(38頁)とある。当該個所は意味不明として、本文に脱落や竄入があるとする説は多い。以下に示す伊藤2010.にまとめられている。
(注6)新編全集本古事記に、「現実[の地名]との厳密な対応を求めることは問題」(118頁)とある。
(注7)西郷2005.は、「賛成」(57頁)されている。先払い役の存在は、紀本文に、「先遣二我二神一駆除平定」、一書第一に、「先往平之」、「先行駈除」、「先駆者」、一書第四に、「立二天孫之前一」とあることからも意識されていることがわかる。
(注8)高木2008.には、「[神道儀式における]「警蹕」とは、現況からの一例として現代日本語の「オ」の音を同音高で長く引いて「オー」と、平伏または馨折して唱える音声のことで、「ミサキオイ」とも称す声のマジックである。神霊や尊い方の入御、出御の際等に唱えて、声を出すことによって、まわりをいましめ先払いをするのである。神道の祭儀中で最も神秘の行事の折に発声され、現在の神社祭式では普通一声または三声唱えるとされる。……又、現況においても、歴史的にも「警蹕」には「オーシー」、「ケーヒー」等、既述以外にも異なる発声音が存在する。」(53頁)とある。
(注9)拙稿「「かがなべて」考」参照。
(注10)拙稿「三輪山伝説」参照。
(注11)紀一書第六に、「竹島」とある個所、傍訓にタカシマとあるが、筆者はタケシマではないかと考える。キノコはタケである。シイタケ、マツタケ、ヒラテケ、ワライタケ、エノキダケ、などなどである。和名抄に、「菌 尓雅注に云はく、菌〈音窘、太介(たけ)、今案ずるに数種有り。木菌、土菌、石菌、並びに兼名苑に見ゆ〉は形、盖に似る者也といふ。」とある。なお、塔には五重塔のように層を重ねるものがある。ツクシに見えることがあって、それが「竺紫(筑紫)の日向」という設定を読んでいるのであろう。ツクシは土手の日の当たる斜面などによく生える。養分の少ない酸性土壌に顔を出す。
ツクシ
(注12)そこに稲の霊が降りて来て宿り籠もると指摘されているが、筆者は、時代が下ってから行われた後付けの信仰のように感じている。筆者は一貫して、無文字文化にはヤマトコトバが先にあったと主張している。稲ニホについては、会津歌農書(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1065840(136/234))に、「稲似宇(ニウ)積所 いなにうは居家をはなれてつむがよし 地なりせばしかたなけれど いつとても居屋をつゞきに稲似宇を火事用心のために積まざれ」と注意されている。
(注13)土屋又三郎・耕稼春秋(『日本農書全集4』)に、農作業が解説されている。
……稲干〈ほすとハ、稲一把宛四方へ株を上にしてひろけて、堅田ハ其田に干、野川原これ有所ハ田より持出て干なり〉。……稲刈六把宛立置也……。是を束立と云也。雨天に見ゆれハ、其間に穂を外へなして算に積、則三束程有により三束にうと云、堅田ハ其田に積、泥田ハ疇の上に積、四五日過れハ雨降晴の時分風にて干る。後はそうけにうにする〈そうけとハ、二ツを一ツに積、穂を内へするを云、是穂をぬらすましき為也〉、天気続て能れハ三日四日にて能干る。惣して稲ハから能干れハ、おのつから干る。からぬれて、穂ぬれすといへとも籾やわらかに成物也、是稲のから穂にかへる故也。皆泥田にて野河原なき所ハ、稲をはさに懸る〈はさとハ二品有、地はさ、作はさ、かけ木、立用品々あり〉。はさの稲天気能時分は七日程にて能干る。雨天の時分ハ十二三日にて大方よく、但作りはさ多ならさる故、積替とて稲六七束のにうを疇にして、からを能風にふかせ、二三日立て積直す、又風にふかせ七八日程にて能干る。但川原近辺惣して嵐(ママ)つよき所ハ猶能干る。稲にう大豆小豆にうする。大豆ハ所により木の枝なとに懸置所も有。けらバをする時ハ大ににうを所々にひろけ、風に吹せ取入てけらバとする物也。下旬晩稲稲刈。中稲にうにする、稲数、にう一ツに五百束より千六七百束迄、又ハ弐千束迄もする、比にうをけらバと云。小百姓ハ百四五十束より弐三百束にうとする也〈蓋にハ藁のま大唐藁又ハ常のわらにてする也〉。……(28~31頁、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838302(34~35/118)参照。)
(注14)おいしくないという感想も聞かれる。
(注15)古い記録として、古今著聞集・巻二七に、「各々相議して、かの水鳥とらんとて、もち縄の具など用意して行き向はんとするを、……」とある。また、農商務省編『狩猟図説』(明治25年)に、「[下総手賀沼]……黐縄ハ方言「ボタ」縄ト唱ヘ秋分ノ頃葦穂ヲ苅リ採リ花ノ実子ヲ脱シ其ノ袴ヲ日光ニ曝シ竹箆ヲ以テ細裂シ之ヲ沸湯中ニ入レテ一煎シ再ヒ之ヲ乾燥シテ綯ヒタルモノニシテ径一分ニ充タズ長サ一千尋ヲ以テ一縄ト唱ヘ之ニ煎黐ヲ塗リ「ヲダ」巻ト名クル滑車ニ絡ヒ置クナリ」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993625(48/111))とある。
(注16)本居宣長・古事記伝に、「○水垣(ミヅガキ)ノ宮、凡て水垣と云は、みづみづしき垣と、美称(ホメタタヘ)たる称(ナ)なるを、【水は借字なり、書紀に瑞ノ字を書れたるは、さらに当(アタ)らぬことなるを、美豆(ミヅ)に用ふる字なき故に、普(アマネ)く此ノ瑞ノ字を書キならへり、】宮号(ミヤノナ)とせられたるなり、【必しも此ノ宮の御垣の、水垣なりし由の号(ナ)には非ず、なほ水垣の事、師の冠辞考に委し、さて歌に、水垣の久(ヒサ)しとつゞけよむは、は、此ノ宮ノ号につきてのことと、昔より心得来(キ)つれども、よく思ふに、然には非ず、抑如此(カク)つゞけよむことは、萬葉十一に、処女等乎袖振山水垣久時由念来吾等者(ヲトメラヲソデフルヤマノヒサシトキユモヒキツアレハ)、これ始メなり、此歌を四ノ巻には、人麻呂の歌とて載たれど、人麻呂よりは古く聞ゆ、此(コ)は石上(イソノカミ)ノ振(フル)ノ社は、いと上代よりの神社にて、其ノ水垣は、久(ヒサ)しき世々を経(ヘ)たる故に、久(ヒサ)しの枕詞にせしなり、かくて後は、振山(フルヤマ)といはで、たゞ水垣の久しとのみもよむは、右の歌に委(ユダネ)て、省(ハブ)けるなり、若シ此ノ宮ノ号に就(ツキ)ていはば、水垣ノ宮のとはいはでは、言たらず、水垣とのみにては、宮ノ号にはなりがたかるべし、】」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933885(57/375))とある。
(注17)弥生時代の穂首刈りについては、均質でない穂ごと、また、熟す時期に合わせた採取法であったという説や、イネは多年草だから湿地にそのままにしておいて、二期作ないし翌年にひこばえから収穫を得たとする説(「多禰島(たねのしま)……粳稲(いね)常に豊かにして、一たび殖(う)ゑ両(ふた)たび収(をさ)む。」(天武紀十年八月))、田植えではなく種を蒔いていたからとする説など、理由づけはいくつか可能である。
他方、株もとで刈る方法(根刈り法)は、古墳時代から見られはするが、鎌の出現によって一斉に行われたわけではなく、11世紀になってようやく定着するもので、それまでは穂刈りと共存状態であったとされている(寺沢1991.50~69頁)。そこに、「穂首を竪臼に入れて舂く作業は、脱穀から脱稃までを一度に行えるといった作業の簡略化以上に、根刈りでは収穫に引き続いて集中して行わねばならない乾燥・結束→脱穀・脱稃の多大な労働力を一気に日常的な消費レベルでの家内労働に分散することができる。また、逆にいえばそうした労働力を集中しなければならないはずの脱穀・調整作業が技術的にみて非能率的な段階であったからこそ頴稲としての収穫・貯蔵も意味をなしえたとみることができよう。」(62~63頁)とある。生育の度合いが一定でないから根刈りが困難であること、種稲にする際の品種管理に困るから穎(頴)納が求められたり、湿田の直播のために雑草との共存から穂首刈り以外方法がないこと、藁の大量使用の時代を迎えていなかったことなどを理由としてあげている。しかし、稲積みのニホが乾燥・貯蔵方法として優れていること、なにより選別作業が煩わしいこと、竪臼で舂くことことはとても時間のかかることから考えると、穎稲での収穫の事情について一概に言えないと考える。
安藤1951.は、「穎稲(束)の制度が平安時代まで及んでゐることは何故であるか。……穂首刈と根刈とその刈取る稲茎の上部であるか下部土ぎはであるかの相違に過ぎないけれども、収穫後の作業に可なりの開きがあることがその主因であると思はれる。即ち根刈では穂首刈に比べて貯蔵上遥かに多くの倉を要することであり、臼で脱穀を行ふことも困難であるから穎稲を臼で舂くより便利な脱穀方法が現れぬ限り旧慣が維持せられることは当然であるまいか。」(79~80頁)、「根刈に進むべき機会は早くからあつたのであるが、脱穀の方法としての籾扱が現れなかつたからその実行が著しく遅れたのであらうと想像せられるのである。」(90頁、漢字の旧字体は改めた。)とする。また、古島1975.は、「『枕草子』に始めて「扱く」という作業を見るのである。」(167頁)として、「……稲と云ふ物多く取り出でて、若き下衆女どもの汚なげならぬ、其の辺の家の娘、をんななどひきゐて来て、五六人して扱(コ)がせ、見も知らぬくるべき物、二人して引かせて、歌謡はせなどするを、珍らしくて笑ふに、……」(枕草子・第104段)といった記事を紹介している。
比良野貞彦・奥民図彙に、「コキ竹 長サ三寸計 太サ如図 是ハ稲ノ穂ヲコク具ナリ」とある。「奥民図彙・解説」に、「古代においては、稲は穂首刈をしたので、稲の穂は木製の臼に入れ、木製の杵で搗いて脱穀と籾摺りとを同時に行った。……その後根刈りになってから、「扱(こき)箸」「扱竹」などと呼ばれる脱穀専用の農具が現われて、籾摺りとは別個の作業になった。これは二本の竹の一方の端に節をつけて結び合わせ、これを直立させ、稲株を棒の間に挟んで扱くものである。ふつう棒の長さは四五センチ程度のものである。この図の扱竹は長さが一〇センチていどのものであるから、ふつうの扱竹にくらべて、著しく低能率で実用性にとぼしい。たぶん、農家の片隅に置いてあったものを、見つけ出して紹介したものであろう。」(235~236頁)とある。
「扱き箸(こきはし)2本の竹棒の一端を藁などで結び、その間に穂先を挟んで籾を扱き落とします。扱き竹とも言いました。割り竹を用いる場合と丸竹のままの場合があったようです。もう少し長いものを二人で用いる方法があって、大コハシと呼ばれていました。能率は高いがやや荒っぽい方法だったようです。長さ484mm・高さ36mm・奥行き35mm」(株式会社クボタHP「時代とともに変化した「脱穀(だっこく)」するための道具」https://www.kubota.co.jp/kubotatanbo/history/tools/threshing.html)
枕草子の「見も知らぬくるべき物」は籾摺臼のことかとされている。そのような先端技術を見るまで、稲扱き具が残っていないからといって、脱穀は竪臼で行った、だから穂首刈り指向にあったとは考えにくい。民俗に、千歯扱きに先んじて扱き箸があるのだから、道具を使ったとするなら永らくそれを使っていたと考えるのが妥当であろう。和漢三才図会の「稲扱」の項に、「扱竹」と千歯扱きが図示され、千歯扱きは、「其の捷(ちかみち)扱竹の十倍にして、故、孀婆(ごけばば)は業(なりはひ)を失ふ。因りて後家倒しと名づく。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569720(8/29))とある。
飛鳥、奈良、平安時代に根刈りが進まなかった理由は、深い常湛田の場合どうすることもできなかったし、品種が混在して稔りの時期が異なっていたことに大きな理由が求められよう。穂首刈りといっても当然のことながら穂に茎はついていて、そのままに竪臼に入れていては杵を振り下ろす人にとって酷というものである。臼は杵の重さをもって圧としている。ひどい肩こり、腰痛に悩まされる。扱いてから舂くほうがよほど楽であろう。また、扱き箸をどのくらいの長さにするかや、竹を2本使うヌンチャクタイプにするか、それとも割り竹にするかについて、生産効率から一定の寸法に収斂されると考えるのは誤りである。穂首刈りしたものや落穂拾いをした束ねにくいものには小さな扱き箸が使いやすいし、まとまって大株束になっているものには大きな扱き箸が使いやすい。機械ではなく道具について、標準化されるとは考えにくい。例えば、鑿や台鉋の大きさや形状は、バラエティに富んでいる。使う人が使う場所によって使い勝手の良いものに細工する。扱き箸の場合、相手が竹なのだからものの半時でできてしまう。そして、サルもしているように手でじかに扱くこともあろうし、手袋を嵌める方法も考えられる。脱穀の全行程(稲穂から籾粒を外すこと、籾粒から籾殻を外すこと、玄米から糠層を外す精米)を一緒くたにして、すべて竪臼・竪杵で行ったとなど言えない。
穂束(『田原本町埋蔵文化財調査概要11―昭和62・ 63年度唐古・鍵遣跡第32・33次発掘調査概報―』田原本町教育委員会、平成元年。file:///C:/Users/Owner/Downloads/467_2_%E6%98%AD%E5%92%8C62%E3%83%BB63%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E5%94%90%E5%8F%A4%E3%83%BB%E9%8D%B5%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%AC%AC32%E3%83%BB33%E6%AC%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E6%A6%82%E5%A0%B1.pdf(24/27))
万葉集などには、「扱(こ)く」(コは甲類)、「扱入(こき)る」(コ・キは甲類)の例がある。
引き攀(ち)ぢて 折らば散るべみ 梅の花 袖に扱入(こき)れ 染(し)まば染むとも(万1644)
秋風の 吹き扱(こ)き敷ける 花の庭 清き月夜(つくよ)に 見れど飽かぬかも(万4453)
椾稲 伊祢古久(いねこく)(新撰字鏡)
稲舂けば 皹(かか)る吾(あ)が手を 今夜(こよひ)かも 殿の若子(わくご)が 取りて嘆かむ(万3459)
字書の新撰字鏡(昌泰年間(898~901年))に載るから、古くから行われていたと考えられる。この稲扱きは脱粒である。稲を刈り取り、乾かし、もっぱら家の近くまで運んでから、必要な分だけ米にしてご飯やお酒の原料にする。その最初に行う手順である。作業として、先払いを担っている。動作としても、はらう姿に見える。後代に遺物が残っていない理由は、手でじかに扱いたり、道具としてなら割竹のままの姿であったため認識されないからとも思われる。手で直接するとあかぎれができるが、それを詠みこんだ歌が万3459番歌ではないかと考える。「稲舂けば」は「稲[ヲ扱キテ]舂けば」という一連の作業を言うから、手が荒れるのである。竹をつかった扱き箸の場合、論理学的に言い表すなら挟み竹のこととなる。挟み箱の前身の名称に同じである。オシオシと警蹕の声が聞こえてくる。理屈が循環しており、文字を持たない上代の人の考え方に合致している。言霊信仰にもとづく語学的証明になる。
稲を扱く(たはらかさね耕作絵巻、東京大学史料編纂所https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/conference-seminar/science/ez02.htmlをトリミング。町田市2000.の解説文に、「絵師は単純に手で稲扱きしている場面として描いたのであろう。第一一段の詞書の「稲莚、敷き広げて扱き開き」という部分に相当するが、この文章にもとくに農具の記述はない。……天正年間の近江湖東の様子を描いたとみられる堀家本『四季耕作図巻』でも手扱きらしく描かれている。」(41頁)とある。)
稲を扱く(左:宮崎安貞・農業全書・巻1、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558568?tocOpened=1(27/84)をトリミング)、中:渓斎英泉・岐阻街道・桶川宿 曠原之景、大判錦絵、天保6~8年(1835~1837)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0007228をトリミング。石臼の挽木(ハンドル)部分を扱き箸に代えて固定させて利用しているものか、右:橘守国・絵本通宝志、享保14年(1729)刊、国文学資料館電子資料館、http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-059503&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E7%B5%B5%E6%9C%AC%E9%80%9A%E5%AE%9D%E5%BF%97%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=23をトリミング)
なお、“挟み竹”が先払いを果たしそうなモノであることは、法隆寺に残っていた麈尾(しゅび)が物語る。麈尾はオオジカの尾の毛を挟んで団扇のような形にしたもので、オオジカが先導役を務めることから仏法を先導するものとして高僧が手にしていた。もともとは払子同様、ハエやカを払うための道具であったろう。それが威儀を整えるものとなり、大型のものは翳(さしば)、当人が持つのはハンディタイプの麈尾ということになったのではないか。羽子板は羽子を突くものであったが、羽子板に羽が生えた形に見えてくる。オオジカ(麈)はシフゾウ(四不像)に当たるともされている。
麈尾(左:法隆寺献納宝物、木製漆塗、奈良時代、8世紀、伝聖徳太子勝鬘経講讃時使用、東博展示品、本品は毛がすべて抜け落ちている。柄を竹のように細工してある。右::維摩詰変相図、敦煌莫高窟第二二〇窟、中国、唐時代、642年、「3分鐘入門中國美術史」http://www.ifuun.com/a2016930398023/)
出土した翳の柄部分(弥生末~古墳前期の精製品、「扇の「長さ」、古代の団扇や翳について(https://togetter.com/li/662186)」。樋上2016.215頁参照。羽を差し挟んでいたからサシバというのであろうか。)
(注18)稲作の伝播について、江南からの直接か、朝鮮半島経由かといった議論がある。それは第一次稲作伝来の話である。筆者は、その稲作のやり方の新方式、いわば第二次稲作伝来に、新羅由来の技術があずかっているのではないかと考えている。
(注19)拙稿「神功皇后の新羅親征譚について―新羅(しらき)・百済(くだら)の名義を含めて―」参照。
(注20)折口信夫に、大嘗祭と真床追(覆)衾との関連が論じられている。『折口信夫全集3』に、「日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、真床襲([ママ])衾(マドコオフフスマ)と申して居る。彼のににぎの尊が天降りせられる時には、此を被つて居られた。此真床襲衾(マドコオフフスマ)こそ、大嘗祭の褥裳を考へるよすがともなり、皇太子(ヒツギノミコ)の物忌みの生活を考へるよすがともなる。物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが、真床襲衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである。」(188頁)とある。大嘗祭の祭式は日本書紀の記述を参考に作られたものかもしれないが、神代紀第九段の記述は、大嘗祭そのものを描いたものではないであろう。紀の解釈としては、早い時期のものとしては、釈日本紀、巻八、述義四に、「真床追衾 私記曰。問。此衾之名、其義如何。答。衾者、臥レ床之時覆レ之物也。真者、褒美之辞也。故謂二真床追衾一。一書文、追字作レ覆也。訓読相通之故、並用。今世、太神宮以下、諸社神体、奉レ覆二御衾一。是其縁耳。」(国文学研究資料館http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0257-003101&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E9%87%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=145)とある。大嘗祭との関わりについては、岡田1990.やそれに対する反論として、榎村1991.がある。筆者は、大嘗祭について議論するものではない。日本書紀に登場する「真床追(覆)衾」とはどのようなものを指していっているのか、具体物のありさまについて考えている。無文字文化においては、具体的思考しか起こり得ないことは、発達心理学における知見から敷衍されるところである。
(注21)田沼善一・筆の御霊前編巻之六(『新訂増補故実叢書第九』)に、「中右記、台記などにも、夜るの物を、直垂と云ふ事見え、兵範記、保元三年二月九日の条に、聟取の事を記して、男女相伴テ被レ入二帳中一ニ、下官覆レ衾、〈直垂也、〉ともみゆ、直垂也とことわり注るは、袖なきふすまとまぎれざらむ為なり 江家次第、新甞祭の条には、内侍率二縫司一ヲ、供二メ寝具ヲ於神座ノ上一ニ、退出、〈御衾也、〉とあり、そは直垂ならで、打まかせたる衾なるよしを断れる者なり、」(158頁)とある。
(注22)喜田川守貞・守貞漫稿に、「又小児を負ふ者冬月は半身の掻巻を用ふ者左図の如くす 江戸に有レ之京阪不レ用レ之 江俗号レ之てねんねこ半天と云江俗嬰児赤子をねんねこと云により号レ之也」とある。
掻巻(喜田川季荘・守貞謾稿、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592405?tocOpened=1(12/66)をトリミング)
(注23)岡田1979.に、「わが国で猫を飼うようになったのは奈良朝のころからといわれている。野生の山猫は古くから棲息していたようだが、飼猫はもともと朝鮮や中国から渡来したもので、仏教の伝来に伴い、貴重な経典などを鼠の害から防ぐために移入されたのだという説もある。」(32頁)とある。
(注24)「天浮橋」の浮橋とは何かについて、諸説行われている。寺川2009.にまとめられている。
Ⅰ 道にあって渡る橋ながら、天地の間なので形態は梯子とする説
1 天地の間を神たちが昇降する道に架かる橋で、天に通う橋なので梯子状であり、神代にはあちこちにあった。〔本居宣長・西宮一民〕
Ⅱ 基本的には天から地上に降る橋とみる説
2 天から地上に降る橋であった。〔倉野憲司〕
3 高天原から天降る橋であるが、常に「立たして」と表現されているのは、降臨の祭式に由来することを暗示する。〔西郷信綱・荻原浅男〕
4 聖なる世界の辺境には、聖なる世界の一部として俗なる世界に向かってさし出された接点としての構築物で、地上に支える場所がないので浮橋という。〔金井清一〕
5 天に浮く橋で、『古事記』では高天原から地の側に特別な神が天降る、いわば世界関係において、意味をつ特別の場。〔神野志隆光〕
Ⅲ 天地を結ぶ梯子説
6 天への梯(橋)と観想された大きな岩石。〔松村武雄〕
7 天へ向けてかかる梯子。〔井出至・石母田正他・益田勝実〕
8 古くは二つのものを繋ぐものはすべてハシであるが、ここでは梯子。〔中西進〕
Ⅳ その他の説
9 戦艦をいう。〔新井白石〕
10 磐船をいう。〔平田篤胤〕
11 虹をいう。〔アストン〕(324~325頁、出典については略した。)
(注25)稲野、前掲書や浅野2005.参照。ハザ(稲架)がいつから行われていたか、不明である。記録としては、類聚三代格第八・承和八年(841)閏九月二日太政官符「稲を乾す器を設くべき事」に、「大和国宇陀郡人、田中に木を構へ種穀を懸曝(かけほ)せり。其の穀の𤍜(かは)くこと火炎に当るに似たり。俗名、之れを稲機(いなばた)と謂ふ。今、諸国往々有る所在り。宜しく諸国に仰せて広く此の器を備はすべし。専ら人を利する縁なり。疎略なるを得ず。(原漢文)」とあるのが早い記事ではないかとされている。しているところではしているが、していないところではしていないから、するようにと勧められている。
立てた木のはざまに、稲の束を挟み懸けるからハザなどと言うのかもしれないが、語源は不詳である。
(引用・参考文献)
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新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
高木2008. 高木英理子「警蹕(警蹕)音楽―数千人による江戸中期春日若宮おん祭神事のチャント―」三田芸術学会編『芸術学』12号、同発行、2008年。
寺川2009. 寺川眞知夫『古事記神話の研究』塙書房、2009年。
『日本農書全集4』 堀尾尚志・岡光夫校注・執筆『日本農書全集4』農山漁村文化協会、昭和55年。
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柳田1978. 柳田国男『海上の道』岩波書店(岩波文庫)、1978年。
(English Summary)
About so-called “天孫降臨神話”
In this paper, I will clarify that the Heavenly deities descendant myth “天孫降臨神話” is a tale of a series of paddy rice cultivation technique, which is a new technology brought about by migrants.
※本稿は、2017年3月「天孫降臨」稿を2018年5月に加筆したものを2020年7月にさらに整理したものである。
新羅を導く枕詞に、「𣑥衾(たくふすま)」、「𣑥綱(たくづの)の」など、𣑥(たく)が関係する言葉がある。𣑥は楮の古名で、樹皮から繊維を取り、後には紙の原料ともされる。丈夫なため、綱や領布、衾の材料に用いられた。色が白いので、同音の新羅にかかるとされている(注19)。
栲衾 白山風(しらやまかぜ)の 寝(ね)なへども 子ろが襲着(おそき)の 有(あ)ろこそ良(え)しも(万3509)
𣑥衾 新羅へいます 君が目を 今日か明日かと 斎(いは)ひて待たむ(万3587)
𣑥綱の 新羅の国ゆ 人言(ひとごと)を よしと聞かして 問ひ放(さ)くる ……(万460)
「高皇産霊尊、真床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降りまさしむ」(紀第九段本文)とある。この真床追衾については、紀第十段一書第四には、「内床(うちつゆか)に真床覆衾の上に寛(あぐみ)に坐(ゐ)たまふ」、「真床覆衾と草(かや)とを以て、其の児(みこ)を裹(つつ)みて浪瀲(なぎさ)に置き、即ち海に入りて去(い)ぬ」とあるところから「覆」うものとの考え方が出てくる。前者は、天孫が海神の宮、すなわち、豊玉姫の家に入ってのしぐさ、後者は、豊玉姫が皇孫との子を産むときのことである。他に、延喜式に、「衾・単(ひとへ)を大嘗宮の愈紀殿に置き奉り」とある。座布団に代用されているおくるみについて、大嘗祭に用いられるかとされる象徴的な意味合いばかりが検討の対象になっている(注20)。具体的に解釈し直さなければ、当時の人が納得していた次元に到達できたとはいえない。
紀の一書の「真床覆衾」の字面をもって、真床追(覆)衾は、一段高くなった床を覆う敷布団のことかとされている。大嘗祭に用いる衾は、フス(伏)+マ(裳)を表すとされ、袖や襟のない、つまり、掻巻(かいまき)ではない大きなダブルサイズの掛布団、ないし敷布団というのである(注21)。けれども、今に伝わる近世の夜着には、掻巻を多く目にする。上代の掛布団が掻巻であったかなかったか不明である。いま、紀の記述を考えており、大嘗祭からは離れて考えなければならない。「遂に真床覆衾と草(かや)とを以て、其の児(みこ)を裹(つつ)みて波瀲(なぎさ)に置き、即ち海に入りて去(い)ぬ」(紀第十段一書第四)という表現からは、イズメ(嬰児籠)の不在を思わせる。置き去りにするのだから、寝返りが打てないようにしておかないと窒息してしまう。うまくくるまなければならない。
左:いずめこの幼児(狩野永徳筆、上杉本洛中洛外図屏風左隻二扇部分、「伝国の杜だより」Vol.30.https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/pdf/dayori/dayori30.pdf)、右:ふすまの袋を使って藁がくるまれている(板橋区立郷土資料館展示品)
建具のフスマには襖の字を当てる。襖障子のことで、なかに木の骨を格子に設けて下張し、上からきれいな紙を張ったものである。別名を唐紙という。麸(ふすま)は、小麦などを挽いて粉にしたときにできる皮の屑、小麦の糠をいい、家畜の飼料や洗粉にし、また、食べるものがないときに混ぜ物にし、容量を多く見せることもある。別名を、からこ、もみじという。以上から、フスマという言葉には、なにかしら膨らませたもののことを指すとわかる。米を玄米で食べるとは、米と米糠の両方を食べることで、栄養価が高くなってかえって良いとされる。米の場合、稃(ふすま)と書く。そういった言葉の使い方に従うなら、衾とは、わた入れの夜着である。わたが入って膨らんでいるものとなると、おくるみに裹み使うのはなかなか難しい。しかし、フスマ(衾)と言っている。皇孫が被せられているところを考えると、掻巻になっていて赤ん坊が寝ることに使うもの、それは、ねんねこ半纏であろう(注22)。ねんねこのぶかぶかに「其の児」を入れ、隙間に「草」を詰め込んで帯を回せば、赤ちゃんは寝返りを打とうにも動けない。お漏らししてもすべて「草」が吸ってくれる。やがては田んぼの肥やしになる。姿は奴凧に緊縛されたような感じである。「覆ふ」という語には、形のピッタリ感が備わるようである。カイツブリが子どもをおんぶしていたことが思い出されよう。
ねんねこ姿(左:志貴山縁起巻1模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574276(6/26)をトリミング、中:紀伊國名所圖會二編六之巻上、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563489?tocOpened=1(20/49)をトリミング、右:大蔵永常・除蝗録後編、University of Cambridge, Cambridge Digital Library、https://cudl.lib.cam.ac.uk/view/PR-FJ-00231-00011-00002/14)
それが本当に「真床追(覆)衾」なのか。マドコオフフスマのマドコオフは、フスマ(衾)にかかる枕詞なのかもしれない。床(とこ、ト・コは乙類)とは、一段高くしたところのことをいう。オフは、「追」という用字からは先払いのことが思い出され、「覆」という字からは被せておおうことが惹起される。「覆ふ」は「負ふ」と同根の語である。背中におんぶすることである。きちんと「覆」ひながら「負」うためには、二人羽織式にするのがいちばんである。それこそがねんねこ姿である。一段高くしながらおんぶするとは、何のことはない、おしめをあてがって高くしているのである。古代の大人は、ふだん下着を着けなかったらしいが、赤ん坊は別である。この状態は、湿田に一段高くしている台(=トコ)を作ったうえにニホに積んでいくのと相同である。穂を内側に、藁部分を外側にしている。稲積みのニホの内に通気孔とすべく穴を開けることがあった。それは、新生児の頭蓋骨にはひよめき部分の穴があって、いまだに接合しておらずひよひよと脈打つことに相同である。カイツブリのニホの子もひよひよ鳴くひよこである。ねんねこで背負われている子どもの姿こそ、皇孫とされる番能邇邇芸命を示していると言える。
ねんねこがねんねこと呼ばれる故は、ねんねこで子どもをおぶったとき、姿形が猫背になっているように映ることによるのであろう。ネコ(猫)という言葉は、和名抄に、「猫 野王案ずるに〈音苗、祢古麻(ねこま)〉、虎に似て小さく能く鼠を捕らへて粮と為る。」とあるものの、上代に用例が乏しい。記紀万葉に用例がなく、ネコを飼っていたのか、家の周辺にいたのかさえ確かめられない。骨の発掘事例としては、弥生時代の壱岐のカラカミ遺跡、奈良時代の観音寺遺跡の例が知られる(注23)。それでも、猫背のことは、背の曲がったお年寄りの姿として卑近なものと思われる。古語に、クグセ(傴)という。新撰字鏡に、「傴 僂也、◆(人偏に弖)頭也、久豆世(くぐせ)也」、霊異記・下・二十に、「背傴〈世奈加久々世尓(せなかくぐせに)〉」といった用例がある。時代別国語大辞典に、「クグは、クグマル・カガムなどの語幹と関係ある語であろう。セは背の意。」(253頁)とある。ククムは「褁(くく)む」でおくるみに赤ん坊を包むことである。また、ククルには、屈(くぐ)むことと潜(くぐ)ることの二つの意味がある。水が漏れ出て流れたり、狭いところを通り抜けること、また、水のなかを潜り行くことを表す。
敷栲(しきたへ)の 枕ゆくくる 涙にそ 浮宿(うきね)をしける 恋の繁きに(万507)
妹が寝る 床のあたりに 岩ぐくる 水にもがもよ 入りて寝まくも(万3554)
水泳(くく)る 玉にまじれる 磯貝の 片恋のみに 年は経につつ(万2796)
山吹の 繁み飛びくく 鶯の 声を聞くらむ 君はい羨(とも)しも(万3971)
子の中に、我(あ)が手股(たなまた)よりくきし子ぞ。(記上)
泳宮(くくりのみや)、此には区玖利能弥揶(くくりのみや)と云ふ。(景行紀四年二月)
お年寄りとは、長く久しい間ご存命の方である。枕詞、ミヅカキノ(瑞垣)がヒサシ(久)にかかっていたことが思い出される。そんな久しい人であるお年寄りの背中は曲がっている。ヒサシが廂・庇と同音の言葉であったことを面白がっていた。廂・庇のもともとの発義は日差しのことであった。つまり、日が差すこととは日が向かうことである。方角としてできた言葉は東(ひむかし)であり、それと似た地名に日向(ひむか)がある。「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」とあるヒムカ(日向)とは、日差しのことである。音声言語でしかなかったヤマトコトバにとって、話として“わかる”ためには、ヒサシ(日差・廂・久)はお年寄りの猫背のこととイコールでなければならない。お年寄りの猫背とは、お年寄りが立っているのだか寝ているのだかわからない姿勢をとっていることである。そんな枯れた人たちと同じ状態にあるのが、刈り取った稲穂をある程度乾かした上で積んだニホの形に同じである。いちばん上は廂(庇)となる蓋で覆われた。もう少しすると、脱穀されて舎利になる。とても失礼な考え方であると思うが、現実に人は動物なのだから、命あるものとして避けることのできない当然の事実である。そんなお年寄りに与えられている仕事は、孫の子守をしながら落穂拾いをすることである。中心的な農作業の稲刈りは、スピード仕事で忙しいから、動作の遅くなってしまった老人には与えられない。ねんねこで赤ん坊を背負いながら、邪魔にならないところで拾ってもらうしかない。そのような補助的な仕事であっても、集めれば案外量は多い。
ヒサシなのは、日当たりのいい場所に設けられた稲積みのニホに覆蓋を被せて雨除けにすることと悟ることができる。形が猫背と形容して正しいのは、鼠の害を防ぎたいとの願いゆえでもあろう。むろん、完全に防ぐことはできない。それでも猫がいたり、また、鼠落としを設置しておけば効果的である。鼠落としはネズミをぺしゃんこに圧死させる。警蹕がオシオシと言いながら先払いをしていたのと同じことである。老人がねんねこを羽織って孫をおんぶしながら散歩をするのは、家の周りである。すなわち、ニホの周りである。孫を猫かわいがりするというのは、猫背でかわいがることでありつつ、ネズミを捕るネコと同じ役割の先払い役を担っているからである。加齢臭に赤子のおしめが加わって、とてもよくニホう。ニホフ(臭・匂)という語は、色が赤く発色することを指すのが古代には第一の用法である。いま、赤子をおんぶしている。第二の用法は、嗅覚を刺激する香り、臭みが感じられることを表す。本稿の始めのほうで「卆茸(くじふるたけ)」なるキノコは、何ともいえない匂いを伴っていると仮説した。
橘の にほへる香かも ほととぎす 鳴く夜(よ)の雨の 移ろひぬらむ(万3916)
万に物の香臭くにほひたるがわびしければ、……(落窪物語・巻一)
記に「韓国(からくに)」とある伽羅(から)の地を占領したのは新羅である。米をシラグことが想起されていた。新撰字鏡に、「精 米志良久(しらぐ)」、和名抄に、「粺米 楊氏漢語抄に云はく、粺米〈之良介与祢(しらげよね)、上傍卦反、去声の軽、把と同じ〉は精米也といふ。」、「𥽿米 唐韻に云はく、𥽿米〈上臧洛反、作と同じ。漢語抄に末之良介乃与祢(ましらげのよね)〉は精細米也といふ。」、「糲米 崔禹食経に云はく、烏米、一名、糲米〈上音剌、比良之良介乃与祢(ひらしらげのよね)〉といふ。烏米は一斛を舂きて八斗の米と成るを謂ふ也。」とあって、精白することが記されている。お米を精ぐ際には杵で搗き、食べる方は銀舎利で、食べない残骸は糠、つまり、麩(ふすま)である。飼料や肥料にした。「真床追衾」に戻る仕掛けとなって話が完結しそうである。シラク(白)というと、髪が白くなることである。
ぬばたまの 黒髪かはり 白髪(しらけ)ても いたき恋には あふ時ありけり(万573)
若かりし 肌も皺みぬ 黒かりし 髪も白斑(しら)けぬ ……(万1740)
黒髪の 白髪(しらく)るまでと (万2602)
いずれも加齢の話である。お年寄りと精米の関係は、ヒサシにしてニホなるものであると検証することができた。
伝本の信憑性が最も高い真福寺本古事記では、つづけて「真米」とある。米の脱穀、脱稃、精白作業のことを言い表わしていると考えられる。芒(のぎ)のついた籾状態の米粒は、羽根突きの羽子と似て固い実に二つの翼がある姿をしている。「通」字は、トホル、トホスのほか、カヨフの意にも用いられる。カヨフの義に、行き来する、他方へとどく、出入りする、物事に通じる、のほか、意味が通じて似通う、の意がある。説文に、「通は達也。辵に从ひ、甬声」とある。
夫婦(をふとめ)の道は、古も今も達(かよ)へる則(のり)なり。(景行紀四年二月)
本稿の端緒として、「真米通笠沙之御前而」を「真(まこと)米(よね)、笠沙(かささ)の御前(みさき)に通(かよ)ひて」と訓めるか、と提題をした。「真(まこと)」とは、誠尤もなことということである。真偽を問うなら真であるという意味ではなく、よくよく知恵をめぐらせてみたところ、まさに本当に間違いなくそうであったと気づくこと、それを強調するためにマコトという副詞を使っている。
聞くが如(ごと) まこと貴(たふと)く 奇(くす)しくも 神さび居(を)るか これの水島(万245)
たらちねの 母を別れて まこと我(われ) 旅の仮廬(かりほ)に やすく寝むかも(万4348)
譡 丁蕩帝当二反、貞実の辞也。太々志支己止(ただしきこと)、又、万佐之支己止(まさしきこと)、又万己止(まこと)なり。(新撰字鏡)
同じ稲作とは言っても、熟した稲穂を穂首刈りしていた採集生活の延長にある様相とは異なり、株ごと鋸鎌で刈り取っていく先端的な稲作が一部で始められていた。品種が均一化されており、田植えして育てている。株刈りができて収穫が一気に進められる。食用の米ばかりでなく、藁までも生活資材に活用していく術を身につけた。藁とは製品名である。稲の茎、稲柄(いながら)を水に浸して叩くなどして柔らかくしたものである。藁化することで莚などに加工することができる。その結果、稲作は産業化しえた。生活全般が田んぼの稲作に絡めとられていくことで、“農耕生活”という新時代が始まった。貯蔵法も、地面に貯蔵穴を掘って埋めておくリスのようなやり方から、ニホという大量の稲束の山積みへと変化した。何より、年間を通じて安定してまずくないお米を食べることができるようになった。そして、田んぼが藁や籾殻を鋤きこんだり、株を踏みにじったりすることで元肥としつつ、田んぼを運営するのに重要な代掻きが可能となる。田んぼが工場となって、循環可能社会という魔法を手に入れた。食べるためには、年間作業のルーチンワークをこなせばよくなった。余剰米も生れて、租税としてさえ先払い可能になるほどの技術革新であった。稲作法の大転換を示す言葉が、ニホとオシである。
天孫降臨の説話に、猿田毘古神や猿女君の話が絡んでいた第一の所以は、拙稿「猿田毘古神と猿女君」に詳述したように、轡と猿轡のもじりであった。猿と関連する語にサル(戯)があった。周辺の音を見てみると、ジャル(戯)はザレル(戯)の変化形で、方言に、「じらける」といえば、ジャレル(戯)ことを意味する。また、シャル(曝・晒)とは、サレル(曝・晒)の変化形で、長い間風雨にさらされて色褪せること、特に白っぽくなることをいう。つまり、白くことで、白髪混じりになることも含まれる。ニホンザルの毛は、背側は暗褐色であるものの、腹側、特に顔の周りには灰褐色で白っぽいものが多い。子どものことを砂利といい、米粒のことを舎利という。精米のために臼で搗いていると、米粒は杵にまとわりつきながらじゃれ回っている。天孫降臨の話に猿田毘古神や猿女君の話がまとわりつく第二の所以である。
番能邇々芸命の降臨は、稲穂がニホに積まれることを物語ったものと理解できた。すると、紀本文に、「槵日の二上の天浮橋」(注24)とあるのは、刈り取った稲をハザ(稲架)懸けしている様子を表しているように想定できる。稲架は、ハサ、ハセ、ハデ、ホギ、ハッテ、イナグヒ、イナキ、イネカ、イネカケ、ウシとも呼ばれている。刈り取った稲を天日干しにして乾燥させるために、間隔をあけて斜めに組んだ竹竿の足場を建て、上にもう一本の竹竿を横架させて結びつけ、そこに稲束を渡し懸ける装置である。掘っ立て柱に何段も竿を渡した高いものや、脚をいくつも建てて横に長いもの、畔に並べて植えたトネリコなどの木を利用するものなど、いろいろなバリエーションがある(注25)。そのやぐらのようなハザに懸けるときや外すとき、まるで猿のように高いところを行き来して稲束を操っている。天孫降臨と猿との関わりの第三の所以である。
はざ木に稲束をかける(「新潟文化物語 新潟・文化体験リポート 第6回 新潟平野の風物詩・はざかけを夏井で体験」https://n-story.jp/exp-report/06/)
「槵日」とは、クシブ(奇)の連用形に、「日」を当てて乾燥させることを加えて固有名詞にした語のようである。天日干しは今でもおいしいと評判である。「稜威の道別に道別きて」というのも、稲束を半分に分けるようにして跨らせることの謂いと推察される。記に、「此地は、……朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ。故、此地は、甚吉き地」とあるのも、天日の下での乾燥・保存に良い場所ということであろう。収穫された稲はハザ懸けしてある程度乾燥させてからニホに積んでおき、食べる分だけ稲穂から脱穀し、脱稃し、精米し、調理する。その一連の工程を「槵触之峯」と譬えたようである。
記では、「天の石位を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天浮橋に、うきじまりそりたたして」、紀の本文では、「皇孫、乃ち天磐座を離(おしはな)ち、且、天八重雲を排分(おしわ)けて、稜威の道別に道別きて」とあった。「天の石位」、「天磐座」のイハは堅牢な、の意である。天上世界に堅固な場所を求めようとすると、論理矛盾が生じる。それでも高いところのクラ(座)である。稲穂を高い座に懸けさせることと想定すると、ハザ(稲架)のことと捉えられる。そこから、オシはなち、オシわけて来る。オシオシと警蹕の声が聞こえる。「いつのちわきちわきて」、「稜威の道別に道別きて」とあるのは、段重ねのハザがやぐらのように組まれているところを鳶職のように行き交うことの謂いではなかろうか。
「天の八重たな雲」、「天八重雲(あめのやへたなぐも)」とある。棚になっているとは、稲を段々に干し懸けているところを形容しているようにも受け取ることができる。雲海が棚になっているように見える。「水田種子(たなつもの)」という語は、「陸田種子(はたつもの)」の対義語である。
乃ち粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稲を以ては水田種子とす。(神代紀第五段一書第十一)
水稲がタナツモノと呼ばれていたかについて、大系本日本書紀に、「タナは種。ツは助詞ノにあたる。種のものの意。稲についていう。」(①61頁)とあるが、イモ類以外、粟稗麦豆も他の植物も多くは“種のもの”であろう。タナの意は、段重ねにしたハザ(稲架)のことをタナ(棚)と言っているのではないか。粟・稗・麦・豆類も乾かすが、本邦において、やぐらのような段重ねの架に懸けて干したことがあるのかわからない。大根などではよく見かける。収量がどれほど多いかにかかっているように思われる。
稲作に新時代が到来した。それまでとの違いは、弥生時代は穂首刈りをしていたから、稲の茎部分、藁のところが田に残されたままであった。古墳時代、株ごと稲刈りをすることが始まった。積極的に生活資材として藁を活用するようになった。鎌による刈取りと、貯蔵方法の転換により、同時に藁を利用するすべも身についた。藁を編んだり織ったりして使うのである。莚機も伝わったのかもしれない。藁の保温効果は抜群である。莚は藁のストローで保温性が高く、さらに莚と莚を袷にしてなかに藁屑を詰めれば、現代のダウンジャケット、羽毛布団に匹敵する断熱効果が得られる。空気の層ができるから暖かいのである。ニホによる保管に略奪の危険が少なくなったからという点については、生産力の向上や人口動態、ならびに政治的安定といった歴史学の課題であろう。古墳の副葬品に鉄の武具が多数納められているのは、実際の戦闘が少なくて平和な時代であったからとする説がある。ニホが積まれるに足る条件は揃っていたようである。
5世紀、大陸から新技術がまとまってやってきた。それぞれの要素は相互に絡み合いながら、倭の人、すなわち、ヤマトコトバを母語とする人たちに受け入れられていった。ただし、それは、読み書きすることなく話し聞く能力に長けた人たちでほぼ満たされていた。若干、リテラシーのある人がいたが、それも文字という記号に絡め捕られずになぞなぞを十分に駆使できるメタ言語的な頭脳を持っていたと考えられる。そうでなければ周囲の無文字人をコミュニケーションができない。そんな限られた人が中心となって、記紀の基となる話を構想、構成していったと考えられる。筆者は、朝廷のほぼ中心にいた聖徳太子や蘇我馬子であったと考える。話をまとめるに当たって天皇代ごとに寄せ集めて行ったため、表面上、あたかも天皇制の正統性を主張するかに見える形態になっているということらしい。ただし、事の本質は、技術革新をお話として伝えたものである。文字を持たない人たちが、技術革新の意味するところを共有するには、話として楽しめる仕掛けが必要とされたのである。けれども、文字を持ってしまって以降今日に至るまで、長い間、意味がわからないまま“お蔵入り”することとなってしまった。そして“神話”として片付けられて粗雑に扱われるほどに貶められているのが記紀の説話の現状なのである。
(注)
(注1)いわゆる「天孫降臨」という言い方は、黒板勝美編による国史大系本・日本書紀の章句立てとして便宜的につけられたものかと思われる。「天孫降臨」という熟語をもって何事かを語るようになったのは、かなり最近のことである。また、「神話」という語も、明治以降に造られた漢語である。ギリシャ神話のことをいうMythos(ドイツ語綴り)の訳語として造られたとされる。①神々についての物語、②民衆間に信仰をもって語り伝えられた物語、③宗教性・呪術性を存し、社会を規制する力をもった物語、という要件を満たしているものという。すなわち、記紀神話という言い方はとても最近の用語である。
(注2)紀に記される「襲(そ)」、「膂宍の空国を頓丘から国覓ぎ行去る」といった表現については別に論じることとする。
(注3)記の「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命」については、「高」字をタカと訓む説とコと訓む説がある。「日高」はヒコと訓むのが正解である。拙稿「古事記の「天津日高日子」・「虚空津日高」の「日高」はヒコと訓むべき論」参照。
(注4)西郷2005.に、「この「此地は韓国」にかんしても、同じこと[本文のコラプション]がいえよう。いっそう悪いのは、ここでは本文の乱れと、伝承の間におのずと生じた崩れとがかさなっているらしいことだ。これは記紀時代すでに意味不明の、だがおろそかならぬ聖句として伝えられていた部分であり、そしてその故に本文の乱れをも誘ったのに相違ない。」(78頁)とある。
(注5)尾崎2016.に、「「真来」については三字を二字として、……「直来」として「直(タダ)に来通りて(通ひて)」と訓じてはどうかと思う。「真」と「直」との異同は多く例のあるところである。」(38頁)とある。当該個所は意味不明として、本文に脱落や竄入があるとする説は多い。以下に示す伊藤2010.にまとめられている。
(注6)新編全集本古事記に、「現実[の地名]との厳密な対応を求めることは問題」(118頁)とある。
(注7)西郷2005.は、「賛成」(57頁)されている。先払い役の存在は、紀本文に、「先遣二我二神一駆除平定」、一書第一に、「先往平之」、「先行駈除」、「先駆者」、一書第四に、「立二天孫之前一」とあることからも意識されていることがわかる。
(注8)高木2008.には、「[神道儀式における]「警蹕」とは、現況からの一例として現代日本語の「オ」の音を同音高で長く引いて「オー」と、平伏または馨折して唱える音声のことで、「ミサキオイ」とも称す声のマジックである。神霊や尊い方の入御、出御の際等に唱えて、声を出すことによって、まわりをいましめ先払いをするのである。神道の祭儀中で最も神秘の行事の折に発声され、現在の神社祭式では普通一声または三声唱えるとされる。……又、現況においても、歴史的にも「警蹕」には「オーシー」、「ケーヒー」等、既述以外にも異なる発声音が存在する。」(53頁)とある。
(注9)拙稿「「かがなべて」考」参照。
(注10)拙稿「三輪山伝説」参照。
(注11)紀一書第六に、「竹島」とある個所、傍訓にタカシマとあるが、筆者はタケシマではないかと考える。キノコはタケである。シイタケ、マツタケ、ヒラテケ、ワライタケ、エノキダケ、などなどである。和名抄に、「菌 尓雅注に云はく、菌〈音窘、太介(たけ)、今案ずるに数種有り。木菌、土菌、石菌、並びに兼名苑に見ゆ〉は形、盖に似る者也といふ。」とある。なお、塔には五重塔のように層を重ねるものがある。ツクシに見えることがあって、それが「竺紫(筑紫)の日向」という設定を読んでいるのであろう。ツクシは土手の日の当たる斜面などによく生える。養分の少ない酸性土壌に顔を出す。
ツクシ
(注12)そこに稲の霊が降りて来て宿り籠もると指摘されているが、筆者は、時代が下ってから行われた後付けの信仰のように感じている。筆者は一貫して、無文字文化にはヤマトコトバが先にあったと主張している。稲ニホについては、会津歌農書(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1065840(136/234))に、「稲似宇(ニウ)積所 いなにうは居家をはなれてつむがよし 地なりせばしかたなけれど いつとても居屋をつゞきに稲似宇を火事用心のために積まざれ」と注意されている。
(注13)土屋又三郎・耕稼春秋(『日本農書全集4』)に、農作業が解説されている。
……稲干〈ほすとハ、稲一把宛四方へ株を上にしてひろけて、堅田ハ其田に干、野川原これ有所ハ田より持出て干なり〉。……稲刈六把宛立置也……。是を束立と云也。雨天に見ゆれハ、其間に穂を外へなして算に積、則三束程有により三束にうと云、堅田ハ其田に積、泥田ハ疇の上に積、四五日過れハ雨降晴の時分風にて干る。後はそうけにうにする〈そうけとハ、二ツを一ツに積、穂を内へするを云、是穂をぬらすましき為也〉、天気続て能れハ三日四日にて能干る。惣して稲ハから能干れハ、おのつから干る。からぬれて、穂ぬれすといへとも籾やわらかに成物也、是稲のから穂にかへる故也。皆泥田にて野河原なき所ハ、稲をはさに懸る〈はさとハ二品有、地はさ、作はさ、かけ木、立用品々あり〉。はさの稲天気能時分は七日程にて能干る。雨天の時分ハ十二三日にて大方よく、但作りはさ多ならさる故、積替とて稲六七束のにうを疇にして、からを能風にふかせ、二三日立て積直す、又風にふかせ七八日程にて能干る。但川原近辺惣して嵐(ママ)つよき所ハ猶能干る。稲にう大豆小豆にうする。大豆ハ所により木の枝なとに懸置所も有。けらバをする時ハ大ににうを所々にひろけ、風に吹せ取入てけらバとする物也。下旬晩稲稲刈。中稲にうにする、稲数、にう一ツに五百束より千六七百束迄、又ハ弐千束迄もする、比にうをけらバと云。小百姓ハ百四五十束より弐三百束にうとする也〈蓋にハ藁のま大唐藁又ハ常のわらにてする也〉。……(28~31頁、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/838302(34~35/118)参照。)
(注14)おいしくないという感想も聞かれる。
(注15)古い記録として、古今著聞集・巻二七に、「各々相議して、かの水鳥とらんとて、もち縄の具など用意して行き向はんとするを、……」とある。また、農商務省編『狩猟図説』(明治25年)に、「[下総手賀沼]……黐縄ハ方言「ボタ」縄ト唱ヘ秋分ノ頃葦穂ヲ苅リ採リ花ノ実子ヲ脱シ其ノ袴ヲ日光ニ曝シ竹箆ヲ以テ細裂シ之ヲ沸湯中ニ入レテ一煎シ再ヒ之ヲ乾燥シテ綯ヒタルモノニシテ径一分ニ充タズ長サ一千尋ヲ以テ一縄ト唱ヘ之ニ煎黐ヲ塗リ「ヲダ」巻ト名クル滑車ニ絡ヒ置クナリ」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993625(48/111))とある。
(注16)本居宣長・古事記伝に、「○水垣(ミヅガキ)ノ宮、凡て水垣と云は、みづみづしき垣と、美称(ホメタタヘ)たる称(ナ)なるを、【水は借字なり、書紀に瑞ノ字を書れたるは、さらに当(アタ)らぬことなるを、美豆(ミヅ)に用ふる字なき故に、普(アマネ)く此ノ瑞ノ字を書キならへり、】宮号(ミヤノナ)とせられたるなり、【必しも此ノ宮の御垣の、水垣なりし由の号(ナ)には非ず、なほ水垣の事、師の冠辞考に委し、さて歌に、水垣の久(ヒサ)しとつゞけよむは、は、此ノ宮ノ号につきてのことと、昔より心得来(キ)つれども、よく思ふに、然には非ず、抑如此(カク)つゞけよむことは、萬葉十一に、処女等乎袖振山水垣久時由念来吾等者(ヲトメラヲソデフルヤマノヒサシトキユモヒキツアレハ)、これ始メなり、此歌を四ノ巻には、人麻呂の歌とて載たれど、人麻呂よりは古く聞ゆ、此(コ)は石上(イソノカミ)ノ振(フル)ノ社は、いと上代よりの神社にて、其ノ水垣は、久(ヒサ)しき世々を経(ヘ)たる故に、久(ヒサ)しの枕詞にせしなり、かくて後は、振山(フルヤマ)といはで、たゞ水垣の久しとのみもよむは、右の歌に委(ユダネ)て、省(ハブ)けるなり、若シ此ノ宮ノ号に就(ツキ)ていはば、水垣ノ宮のとはいはでは、言たらず、水垣とのみにては、宮ノ号にはなりがたかるべし、】」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933885(57/375))とある。
(注17)弥生時代の穂首刈りについては、均質でない穂ごと、また、熟す時期に合わせた採取法であったという説や、イネは多年草だから湿地にそのままにしておいて、二期作ないし翌年にひこばえから収穫を得たとする説(「多禰島(たねのしま)……粳稲(いね)常に豊かにして、一たび殖(う)ゑ両(ふた)たび収(をさ)む。」(天武紀十年八月))、田植えではなく種を蒔いていたからとする説など、理由づけはいくつか可能である。
他方、株もとで刈る方法(根刈り法)は、古墳時代から見られはするが、鎌の出現によって一斉に行われたわけではなく、11世紀になってようやく定着するもので、それまでは穂刈りと共存状態であったとされている(寺沢1991.50~69頁)。そこに、「穂首を竪臼に入れて舂く作業は、脱穀から脱稃までを一度に行えるといった作業の簡略化以上に、根刈りでは収穫に引き続いて集中して行わねばならない乾燥・結束→脱穀・脱稃の多大な労働力を一気に日常的な消費レベルでの家内労働に分散することができる。また、逆にいえばそうした労働力を集中しなければならないはずの脱穀・調整作業が技術的にみて非能率的な段階であったからこそ頴稲としての収穫・貯蔵も意味をなしえたとみることができよう。」(62~63頁)とある。生育の度合いが一定でないから根刈りが困難であること、種稲にする際の品種管理に困るから穎(頴)納が求められたり、湿田の直播のために雑草との共存から穂首刈り以外方法がないこと、藁の大量使用の時代を迎えていなかったことなどを理由としてあげている。しかし、稲積みのニホが乾燥・貯蔵方法として優れていること、なにより選別作業が煩わしいこと、竪臼で舂くことことはとても時間のかかることから考えると、穎稲での収穫の事情について一概に言えないと考える。
安藤1951.は、「穎稲(束)の制度が平安時代まで及んでゐることは何故であるか。……穂首刈と根刈とその刈取る稲茎の上部であるか下部土ぎはであるかの相違に過ぎないけれども、収穫後の作業に可なりの開きがあることがその主因であると思はれる。即ち根刈では穂首刈に比べて貯蔵上遥かに多くの倉を要することであり、臼で脱穀を行ふことも困難であるから穎稲を臼で舂くより便利な脱穀方法が現れぬ限り旧慣が維持せられることは当然であるまいか。」(79~80頁)、「根刈に進むべき機会は早くからあつたのであるが、脱穀の方法としての籾扱が現れなかつたからその実行が著しく遅れたのであらうと想像せられるのである。」(90頁、漢字の旧字体は改めた。)とする。また、古島1975.は、「『枕草子』に始めて「扱く」という作業を見るのである。」(167頁)として、「……稲と云ふ物多く取り出でて、若き下衆女どもの汚なげならぬ、其の辺の家の娘、をんななどひきゐて来て、五六人して扱(コ)がせ、見も知らぬくるべき物、二人して引かせて、歌謡はせなどするを、珍らしくて笑ふに、……」(枕草子・第104段)といった記事を紹介している。
比良野貞彦・奥民図彙に、「コキ竹 長サ三寸計 太サ如図 是ハ稲ノ穂ヲコク具ナリ」とある。「奥民図彙・解説」に、「古代においては、稲は穂首刈をしたので、稲の穂は木製の臼に入れ、木製の杵で搗いて脱穀と籾摺りとを同時に行った。……その後根刈りになってから、「扱(こき)箸」「扱竹」などと呼ばれる脱穀専用の農具が現われて、籾摺りとは別個の作業になった。これは二本の竹の一方の端に節をつけて結び合わせ、これを直立させ、稲株を棒の間に挟んで扱くものである。ふつう棒の長さは四五センチ程度のものである。この図の扱竹は長さが一〇センチていどのものであるから、ふつうの扱竹にくらべて、著しく低能率で実用性にとぼしい。たぶん、農家の片隅に置いてあったものを、見つけ出して紹介したものであろう。」(235~236頁)とある。
「扱き箸(こきはし)2本の竹棒の一端を藁などで結び、その間に穂先を挟んで籾を扱き落とします。扱き竹とも言いました。割り竹を用いる場合と丸竹のままの場合があったようです。もう少し長いものを二人で用いる方法があって、大コハシと呼ばれていました。能率は高いがやや荒っぽい方法だったようです。長さ484mm・高さ36mm・奥行き35mm」(株式会社クボタHP「時代とともに変化した「脱穀(だっこく)」するための道具」https://www.kubota.co.jp/kubotatanbo/history/tools/threshing.html)
枕草子の「見も知らぬくるべき物」は籾摺臼のことかとされている。そのような先端技術を見るまで、稲扱き具が残っていないからといって、脱穀は竪臼で行った、だから穂首刈り指向にあったとは考えにくい。民俗に、千歯扱きに先んじて扱き箸があるのだから、道具を使ったとするなら永らくそれを使っていたと考えるのが妥当であろう。和漢三才図会の「稲扱」の項に、「扱竹」と千歯扱きが図示され、千歯扱きは、「其の捷(ちかみち)扱竹の十倍にして、故、孀婆(ごけばば)は業(なりはひ)を失ふ。因りて後家倒しと名づく。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569720(8/29))とある。
飛鳥、奈良、平安時代に根刈りが進まなかった理由は、深い常湛田の場合どうすることもできなかったし、品種が混在して稔りの時期が異なっていたことに大きな理由が求められよう。穂首刈りといっても当然のことながら穂に茎はついていて、そのままに竪臼に入れていては杵を振り下ろす人にとって酷というものである。臼は杵の重さをもって圧としている。ひどい肩こり、腰痛に悩まされる。扱いてから舂くほうがよほど楽であろう。また、扱き箸をどのくらいの長さにするかや、竹を2本使うヌンチャクタイプにするか、それとも割り竹にするかについて、生産効率から一定の寸法に収斂されると考えるのは誤りである。穂首刈りしたものや落穂拾いをした束ねにくいものには小さな扱き箸が使いやすいし、まとまって大株束になっているものには大きな扱き箸が使いやすい。機械ではなく道具について、標準化されるとは考えにくい。例えば、鑿や台鉋の大きさや形状は、バラエティに富んでいる。使う人が使う場所によって使い勝手の良いものに細工する。扱き箸の場合、相手が竹なのだからものの半時でできてしまう。そして、サルもしているように手でじかに扱くこともあろうし、手袋を嵌める方法も考えられる。脱穀の全行程(稲穂から籾粒を外すこと、籾粒から籾殻を外すこと、玄米から糠層を外す精米)を一緒くたにして、すべて竪臼・竪杵で行ったとなど言えない。
穂束(『田原本町埋蔵文化財調査概要11―昭和62・ 63年度唐古・鍵遣跡第32・33次発掘調査概報―』田原本町教育委員会、平成元年。file:///C:/Users/Owner/Downloads/467_2_%E6%98%AD%E5%92%8C62%E3%83%BB63%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E5%94%90%E5%8F%A4%E3%83%BB%E9%8D%B5%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%AC%AC32%E3%83%BB33%E6%AC%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E6%A6%82%E5%A0%B1.pdf(24/27))
万葉集などには、「扱(こ)く」(コは甲類)、「扱入(こき)る」(コ・キは甲類)の例がある。
引き攀(ち)ぢて 折らば散るべみ 梅の花 袖に扱入(こき)れ 染(し)まば染むとも(万1644)
秋風の 吹き扱(こ)き敷ける 花の庭 清き月夜(つくよ)に 見れど飽かぬかも(万4453)
椾稲 伊祢古久(いねこく)(新撰字鏡)
稲舂けば 皹(かか)る吾(あ)が手を 今夜(こよひ)かも 殿の若子(わくご)が 取りて嘆かむ(万3459)
字書の新撰字鏡(昌泰年間(898~901年))に載るから、古くから行われていたと考えられる。この稲扱きは脱粒である。稲を刈り取り、乾かし、もっぱら家の近くまで運んでから、必要な分だけ米にしてご飯やお酒の原料にする。その最初に行う手順である。作業として、先払いを担っている。動作としても、はらう姿に見える。後代に遺物が残っていない理由は、手でじかに扱いたり、道具としてなら割竹のままの姿であったため認識されないからとも思われる。手で直接するとあかぎれができるが、それを詠みこんだ歌が万3459番歌ではないかと考える。「稲舂けば」は「稲[ヲ扱キテ]舂けば」という一連の作業を言うから、手が荒れるのである。竹をつかった扱き箸の場合、論理学的に言い表すなら挟み竹のこととなる。挟み箱の前身の名称に同じである。オシオシと警蹕の声が聞こえてくる。理屈が循環しており、文字を持たない上代の人の考え方に合致している。言霊信仰にもとづく語学的証明になる。
稲を扱く(たはらかさね耕作絵巻、東京大学史料編纂所https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/conference-seminar/science/ez02.htmlをトリミング。町田市2000.の解説文に、「絵師は単純に手で稲扱きしている場面として描いたのであろう。第一一段の詞書の「稲莚、敷き広げて扱き開き」という部分に相当するが、この文章にもとくに農具の記述はない。……天正年間の近江湖東の様子を描いたとみられる堀家本『四季耕作図巻』でも手扱きらしく描かれている。」(41頁)とある。)
稲を扱く(左:宮崎安貞・農業全書・巻1、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558568?tocOpened=1(27/84)をトリミング)、中:渓斎英泉・岐阻街道・桶川宿 曠原之景、大判錦絵、天保6~8年(1835~1837)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0007228をトリミング。石臼の挽木(ハンドル)部分を扱き箸に代えて固定させて利用しているものか、右:橘守国・絵本通宝志、享保14年(1729)刊、国文学資料館電子資料館、http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-059503&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E7%B5%B5%E6%9C%AC%E9%80%9A%E5%AE%9D%E5%BF%97%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=23をトリミング)
なお、“挟み竹”が先払いを果たしそうなモノであることは、法隆寺に残っていた麈尾(しゅび)が物語る。麈尾はオオジカの尾の毛を挟んで団扇のような形にしたもので、オオジカが先導役を務めることから仏法を先導するものとして高僧が手にしていた。もともとは払子同様、ハエやカを払うための道具であったろう。それが威儀を整えるものとなり、大型のものは翳(さしば)、当人が持つのはハンディタイプの麈尾ということになったのではないか。羽子板は羽子を突くものであったが、羽子板に羽が生えた形に見えてくる。オオジカ(麈)はシフゾウ(四不像)に当たるともされている。
麈尾(左:法隆寺献納宝物、木製漆塗、奈良時代、8世紀、伝聖徳太子勝鬘経講讃時使用、東博展示品、本品は毛がすべて抜け落ちている。柄を竹のように細工してある。右::維摩詰変相図、敦煌莫高窟第二二〇窟、中国、唐時代、642年、「3分鐘入門中國美術史」http://www.ifuun.com/a2016930398023/)
出土した翳の柄部分(弥生末~古墳前期の精製品、「扇の「長さ」、古代の団扇や翳について(https://togetter.com/li/662186)」。樋上2016.215頁参照。羽を差し挟んでいたからサシバというのであろうか。)
(注18)稲作の伝播について、江南からの直接か、朝鮮半島経由かといった議論がある。それは第一次稲作伝来の話である。筆者は、その稲作のやり方の新方式、いわば第二次稲作伝来に、新羅由来の技術があずかっているのではないかと考えている。
(注19)拙稿「神功皇后の新羅親征譚について―新羅(しらき)・百済(くだら)の名義を含めて―」参照。
(注20)折口信夫に、大嘗祭と真床追(覆)衾との関連が論じられている。『折口信夫全集3』に、「日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、真床襲([ママ])衾(マドコオフフスマ)と申して居る。彼のににぎの尊が天降りせられる時には、此を被つて居られた。此真床襲衾(マドコオフフスマ)こそ、大嘗祭の褥裳を考へるよすがともなり、皇太子(ヒツギノミコ)の物忌みの生活を考へるよすがともなる。物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが、真床襲衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである。」(188頁)とある。大嘗祭の祭式は日本書紀の記述を参考に作られたものかもしれないが、神代紀第九段の記述は、大嘗祭そのものを描いたものではないであろう。紀の解釈としては、早い時期のものとしては、釈日本紀、巻八、述義四に、「真床追衾 私記曰。問。此衾之名、其義如何。答。衾者、臥レ床之時覆レ之物也。真者、褒美之辞也。故謂二真床追衾一。一書文、追字作レ覆也。訓読相通之故、並用。今世、太神宮以下、諸社神体、奉レ覆二御衾一。是其縁耳。」(国文学研究資料館http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0257-003101&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E9%87%88%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=145)とある。大嘗祭との関わりについては、岡田1990.やそれに対する反論として、榎村1991.がある。筆者は、大嘗祭について議論するものではない。日本書紀に登場する「真床追(覆)衾」とはどのようなものを指していっているのか、具体物のありさまについて考えている。無文字文化においては、具体的思考しか起こり得ないことは、発達心理学における知見から敷衍されるところである。
(注21)田沼善一・筆の御霊前編巻之六(『新訂増補故実叢書第九』)に、「中右記、台記などにも、夜るの物を、直垂と云ふ事見え、兵範記、保元三年二月九日の条に、聟取の事を記して、男女相伴テ被レ入二帳中一ニ、下官覆レ衾、〈直垂也、〉ともみゆ、直垂也とことわり注るは、袖なきふすまとまぎれざらむ為なり 江家次第、新甞祭の条には、内侍率二縫司一ヲ、供二メ寝具ヲ於神座ノ上一ニ、退出、〈御衾也、〉とあり、そは直垂ならで、打まかせたる衾なるよしを断れる者なり、」(158頁)とある。
(注22)喜田川守貞・守貞漫稿に、「又小児を負ふ者冬月は半身の掻巻を用ふ者左図の如くす 江戸に有レ之京阪不レ用レ之 江俗号レ之てねんねこ半天と云江俗嬰児赤子をねんねこと云により号レ之也」とある。
掻巻(喜田川季荘・守貞謾稿、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592405?tocOpened=1(12/66)をトリミング)
(注23)岡田1979.に、「わが国で猫を飼うようになったのは奈良朝のころからといわれている。野生の山猫は古くから棲息していたようだが、飼猫はもともと朝鮮や中国から渡来したもので、仏教の伝来に伴い、貴重な経典などを鼠の害から防ぐために移入されたのだという説もある。」(32頁)とある。
(注24)「天浮橋」の浮橋とは何かについて、諸説行われている。寺川2009.にまとめられている。
Ⅰ 道にあって渡る橋ながら、天地の間なので形態は梯子とする説
1 天地の間を神たちが昇降する道に架かる橋で、天に通う橋なので梯子状であり、神代にはあちこちにあった。〔本居宣長・西宮一民〕
Ⅱ 基本的には天から地上に降る橋とみる説
2 天から地上に降る橋であった。〔倉野憲司〕
3 高天原から天降る橋であるが、常に「立たして」と表現されているのは、降臨の祭式に由来することを暗示する。〔西郷信綱・荻原浅男〕
4 聖なる世界の辺境には、聖なる世界の一部として俗なる世界に向かってさし出された接点としての構築物で、地上に支える場所がないので浮橋という。〔金井清一〕
5 天に浮く橋で、『古事記』では高天原から地の側に特別な神が天降る、いわば世界関係において、意味をつ特別の場。〔神野志隆光〕
Ⅲ 天地を結ぶ梯子説
6 天への梯(橋)と観想された大きな岩石。〔松村武雄〕
7 天へ向けてかかる梯子。〔井出至・石母田正他・益田勝実〕
8 古くは二つのものを繋ぐものはすべてハシであるが、ここでは梯子。〔中西進〕
Ⅳ その他の説
9 戦艦をいう。〔新井白石〕
10 磐船をいう。〔平田篤胤〕
11 虹をいう。〔アストン〕(324~325頁、出典については略した。)
(注25)稲野、前掲書や浅野2005.参照。ハザ(稲架)がいつから行われていたか、不明である。記録としては、類聚三代格第八・承和八年(841)閏九月二日太政官符「稲を乾す器を設くべき事」に、「大和国宇陀郡人、田中に木を構へ種穀を懸曝(かけほ)せり。其の穀の𤍜(かは)くこと火炎に当るに似たり。俗名、之れを稲機(いなばた)と謂ふ。今、諸国往々有る所在り。宜しく諸国に仰せて広く此の器を備はすべし。専ら人を利する縁なり。疎略なるを得ず。(原漢文)」とあるのが早い記事ではないかとされている。しているところではしているが、していないところではしていないから、するようにと勧められている。
立てた木のはざまに、稲の束を挟み懸けるからハザなどと言うのかもしれないが、語源は不詳である。
(引用・参考文献)
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新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
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『日本農書全集4』 堀尾尚志・岡光夫校注・執筆『日本農書全集4』農山漁村文化協会、昭和55年。
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柳田1978. 柳田国男『海上の道』岩波書店(岩波文庫)、1978年。
(English Summary)
About so-called “天孫降臨神話”
In this paper, I will clarify that the Heavenly deities descendant myth “天孫降臨神話” is a tale of a series of paddy rice cultivation technique, which is a new technology brought about by migrants.
※本稿は、2017年3月「天孫降臨」稿を2018年5月に加筆したものを2020年7月にさらに整理したものである。