いわゆる天孫降臨神話(注1)は、(1)天神の命令で平定された葦原中国(あしはらのなかつくに)に天津日子番能邇々芸命(あまつひこほのににぎのみこと)(天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと))がお伴の諸神とともに行くこと、(2)天(あめ)の八衢(やちまた)に立っていた猿田毘古神(さるたびこのかみ)(猨田彦大神(さるたひこのおおかみ))が先導して降り立つこと、(3)天宇受売命(あめのうずめのみこと)(天鈿女命(あまのうずめのみこと))の子孫が名をもらって猿女君(さるめきみ)と称したこと、(4)海鼠(こ)の口が裂かれることなどが一連の話になっている。
(2)・(3)については、拙稿「猿田毘古神と猿女君」で詳述した。(4)のナマコの口の話は、古事記にしかなく、ナマコの口の起源譚をされている。それが何を意味しているのか、何の話なのか了解されることなく、放置されて今日に至っている。いわゆる“大人”になると、ナマコの口の話は、寓話か童話の類としか捉えられず、相手にされない。しかし、(1)~(4)の話は一連の経過として編まれているのだから、同列に扱われなければならない話(咄・噺・譚)であろう。今回は、(1)のいわゆる天孫降臨の主話について、古事記を中心に考察する(注2)。該当する記紀の主な部分を次に記す。
故、爾に、天津日子番能邇々芸命に詔(のりたま)ひて、天の石位(いはくら)を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天浮橋(あめのうきはし)に、うきじまりそりたたして、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くじふるたけ)に天降り坐しき。故、爾に、天忍日命(あめのおしひのみこと)・天津久米命(あまつくめのみこと)の二人、天の石靫(いはゆき)を取り負ひ、頭椎(かぶつち)の大刀(たち)を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の真鹿児矢(まかごや)を手挟(たばさ)み、御前(みさき)に立ちて仕へ奉る。故、其の天忍日命、〈此は大伴連等が祖(おや)ぞ〉。天津久米命、〈此は久米直等が祖ぞ〉。是に詔はく、「此地者向韓国真米通笠沙之御前、朝日の直(ただ)刺す国、夕日の日照る国ぞ。故、此地は、甚(いと)吉(よ)き地(ところ)」と詔ひて、底津石根(そこついはね)に宮柱ふとしり、高天原に氷椽(ひぎ)たかしりて坐(いま)しき。(記上)
時に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、真床追衾(まとこおふふすま)を以て、皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降(あまくだ)りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座(あまのいはくわ)天磐座、此には阿麻能以簸矩羅(あまのいはくら)と云ふ。を離(おしはな)ち、且(また)天八重雲(あめのやへたなぐも)を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、日向の襲(そ)の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行(いでま)す状(かたち)は、槵日(くしひ)の二上(ふたがみ)の天浮橋(あまのうきはし)より、浮渚在平処(うきじまりたひら)に立たして、立於浮渚在平処、此には羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志(うきじまりたひらにたたし)と云ふ。膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から国覓(ま)ぎ行去(とほ)る。頓丘、此には毗陀烏(ひたを)と云ふ。覓国、此には矩貳磨儀(くにまぎ)と云ふ。行去、此には騰褒屢(とほる)と云ふ。吾田(あた)の長屋の笠狭之碕(かささのみさき)に到ります。(神代紀第九段本文)
[猨田彦大神]対へて曰はく、「天神(あまつかみ)の子は、当に筑紫の日向の高千穂の槵触之峰(くしふるのたけ)に到りますべし。吾は伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上(かはのへ)に到るべし」といふ。……皇孫、是(ここ)に、天磐座を脱離(おしはな)ち、天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、天降ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)の如く、皇孫をば筑紫の日向の高千穂の槵触之峰(くしふるのたけ)に到します。(第九段一書第一)
故、天津彦火瓊瓊杵尊、日向の槵日の高千穂之峯(たかちほのたけ)に降到(あまくだ)りまして、膂宍の胸副国(むなそふくに)を、頓丘から国覓ぎ行去る。浮渚在平地(うきじまりたひら)に立たして、乃ち国主事勝国勝長狭(くにぬしことかつながさ)を召して訪(と)ひたまふ。対へて曰さく、「是に国有り、取捨(ともかくも)勅(おほみこと)の随(まにま)に」とまをす。(第九段一書第二)
一書に曰く、高皇産霊尊、真床覆衾(まとこおふふすま)を以て、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊(あまつひこくにてるひこほのににぎのみこと)に裹(き)せまつりて、則ち天磐戸を引き開け、天八重雲を排分けて、降り奉る。時に、大伴連の遠祖(とほつおや)天忍日命(あまのおしひのみこと)、来目部(くめべ)の遠祖天槵津大来目(あまくしつのおほくめ)を帥ゐて、背(そびら)には天磐靫を負ひ、臂(ただむき)には稜威の高鞆を著(は)き、手には天梔弓(あまのはじゆみ)・天羽羽矢(あまのははや)を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を副持(とりそ)へ、又頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯(は)きて、天孫(あめみま)の前(みさき)に立ちて、遊行(ゆ)き降来(くだ)りて、日向の襲の高千穂の槵日の二上峯の天浮橋に到りて、浮渚在之平地に立たして、膂宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去る。吾田の長屋の笠狭の御碕に到ります。(第九段一書第四)
是の時に、高皇産霊尊、乃ち真床覆衾を用て、皇孫天津彦根火瓊瓊杵根尊(あまつひこくねほのににぎねのみこと)に裹せまつりて、天八重雲を排披(おしひら)きて降り奉らしむ。故、此の神を称(たた)へて、天国饒石彦火瓊瓊杵尊(あめくににぎしひこほのににぎのみこと)と曰す。時に、降到りましし処をば、呼びて日向の襲の高千穂の添山峰(そへやまのたけ)と曰ふ。其の遊行(いでま)す時に及(いた)り、云々(しかしか)いふ。吾田の笠狭の御碕に到ります。遂に長屋の竹島(たけしま)に登ります。乃ち其の地を巡り覧(み)ませば、彼(そこ)に人有り。(第九段一書第六)
古事記の話の概要は、次のようなものである。天照大御神(あまてらすおおみかみ)と高木神(たかぎのかみ)は、太子(おほみこ)の正勝吾勝々速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)に対して、今や葦原中国は平定し終わったから、委任に従って天降りして統治するようにと詔した。すると、彼は、自分が降りようと準備していたら子どもが生まれた、名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命(あめにきしくににきしあまつひたかひこほのににぎのみこと)(注3)といい、この子を降ろすのが良いでしょうと言った。この御子は、高木神の娘の万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)と結婚して生んだ子で、長男は天火明命(あめのほあかりのみこと)で次男に当たる。奏上したとおりに、天照大御神と高木神は日子番能邇々芸命に命じ、豊葦原水穂国(とよあしはらみずほのくに)は、お前が統治する国であると委任する、命令どおりに天降りしなさいと詔が下った。
日子番能邇々芸命が天降りしようとした時、天の八衢に、上は高天原を、下は葦原中国を照らす神がいた。天照大御神と高木神は天宇受売命(あめのうずめのみこと)に、お前はか弱い女だが、眼力の強い神と面と向かってもにらみ勝つ神である、ちょっと出かけて行って、我が御子が天降りしようとする道で、通せん坊をしているのは誰かと問いなさいと仰った。そのとおりすると、自分は国つ神で名は猿田毘古神だ、天つ神の御子が天降られると聞いたので、先導しようと出迎えたのだと答えた。
そこで、天児屋命(あめのこやのみこと)・布刀玉命(ふとたまのみこと)・天宇受売命・伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)・玉祖命(たまのおやのみこと)の計五人の部族長を分け添えて天降りした。そして、例の天の石屋戸の話で招き出した八尺の勾玉・鏡・草薙剣と、また、常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)・手力男神(たぢからおのかみ)・天石門別神(あめのいわとわけのかみ)を副えた。この鏡は私の御魂として、私を祭るように祭り仕えるようにと言い聞かせ、また、思金神は、今言ったことを弁えて祭事をしなさいと仰った。以下、神の鎮座所と祖先伝承へと続く。
日子番能邇々芸命は仰せを受け、天の堅固な神座を離れて、天の幾重にもたなびく雲を押し分け、威風堂々と道を選んで、天の浮橋に「宇岐士麻理蘇理多多斯弖(うきじまり、そりたたして)」、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りした。天忍日命・天津久米命の二人が、天の堅固な靫を背負い、柄頭が握り拳のように膨らんだ太刀を腰につけ、天の黄櫨(はじ)の木で作った弓を手に持ち、天の光り輝く矢を挟んで、天孫の御前に立ってお仕えした。
日子番能邇々芸命は、ここは韓(から)の国に相対し、笠沙の岬に通じていて、しかも朝日のまっすぐにさしこむ国、夕日のよく照らす国である。だからとてもいいところだと仰って、岩盤の上に宮柱を揺るぎなく太く立て、高天原に届くほど千木を高くそびえさせ、お入りになった。以上が、今日まで解釈されているところの話のあらすじである。気宇壮大なお話が構成されている。
記紀の諸書の間で表現が微細に違っている。焦点を絞ると次の4点である。
1.クジフルタケ(クシフルノタケ、クシヒ)
竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)(記)
槵日(くしひ)の二上の天浮橋(紀本文)
筑紫の日向の高千穂の槵触之峯(くしふるのたけ)(紀一書第一)
日向の槵日の高千穂之峯(紀一書第二)
日向の襲の高千穂の槵日の二上峯の天浮橋(一書第四)
日向の襲の高千穂の添山峰(一書第六)
2.カラクニ(ソシシノムナクニ)+国覓ぎ
韓国に向ひ、真米通笠沙之御前(記)
膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から国覓(まぎ)行去(とほ)る(紀本文)
膂宍の胸副国(むなそふくに)を、頓丘から国覓ぎ行去る(紀一書第二)
膂宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去る(一書第四)
3.カササノミサキ(アタノナガヤノカササノミサキ)
笠沙(かささ)の御前(みさき)(記)
吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狭(かささ)の碕(みさき)(紀本文)
吾田の長屋の笠狭の碕(紀一書第四)
吾田の笠狭の御碕……長屋の竹島(たけしま)(紀一書第六)
4.ウキジマリソリタタシテ(ウキジマリタヒラニタタシテ)
うきじまり、そりたたして(記)
浮渚在平処(うきじまりたひら)に立たして(紀本文)
浮渚在平地(うきじまりたひら)に立たして(紀一書第二)
浮渚在之平地(うきじまりたひら)に立たして(紀一書第四)
どこでどう混線しているのかわからなくなっている。天孫降臨の経路は一つの詞章になっており、暗記して語られたものと考えられている。行程の順序さえ異なるところもある。バイアスがそのままに載っている。けれども、どのお話でもそれぞれの話で辻褄が合うのであれば、それぞれに意味のある筋立てということになる。表現として不思議な言葉が登場している。その形容語について、それぞれの詞章をまたいで意味の一貫性を求めるのは、必ずしも賢明とは言えない。どれが正しい、どれが間違っていると一概に決め難い(注4)。
天孫降臨の話において、記と紀本文に共通する話しぶりがある。記には、「是に詔はく、……」、紀本文には、「既にして皇孫の遊行す状は、……」とある。先に話した様子について、もう一度解説している。後講釈が行われている。これが本来の形であるとすると、天降りしたところは、上にあげた1.クジフルタケ(クシフルノタケ)であるが、そこを説明し直すと、2.カラクニ(ソシシノムナクニ)、3.カササノミサキ(アタノナガヤノカササノミサキ)、4.ウキジマリソリタタシテ(ウキジマリタヒラニタタシテ)といった言葉で表すことができると言っているようである。そこで、本稿では、1.クジフルタケ(クシフルノタケ)が何を示しているのかを主題にして、その登攀に挑戦したい。
今日まで、天孫とされるホノニニギのことは、稲穂と関わりのある神さまであると想定されている。大系本日本書紀の補注に、「タカチホのタカは、高、チは数量の多い意。ホは稲の穂。従って稲を高くつみあげた所の意が、最も古い意味であろう。」((一)372頁)、新編全集本古事記には、「高く積み上がられた稲穂の意。現在のどこに比定するか、説が分れるが、現実の地名である必要はない。」(117頁)とある。また、倉野1977.に、「「高千穂」は、本来高く積み上げた稲穂(稲積(ニフ))で、神降臨の目標と農民の間に信ぜられてゐたものであらう。」(175頁)とある。これは、柳田国男らが主張していたことを踏まえて、民俗信仰のレベルから述べられた言説である。それを割り引いて考えたとしても、稲穂説についてほとんど異論が出ておらず、既定事実化している。そのとおりに解釈できるか、一語一語調べ、それぞれの筋立てで上の1.~4.について諸本で意味が通るなら、検証できたことになる。お話は言葉でできている。
天孫降臨の設定は、記で、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りしたことになっている。紀の、「槵触之峯」(紀一書第一)の槵の字は国字である。新撰字鏡に、「槵 胡慣反、無槵」とあり、いまも無患子と書かれるムクロジをいう。記の「久士(くじ)」は紀にクシと清音である。新編全集本日本書紀に、「「無レ患」だからクシ(奇)で、それに霊性を表わす「日」をつけて「奇霊(くしひ)の二上山[ママ]」としたもの。」(①120頁)と、頭注にて短絡化されている。
ムクロジの硬い核は、羽根突きの羽根の玉にする。穴を穿って2枚の鳥の羽をつけたものが羽子(胡鬼の子)で、それを突き合った。江戸時代にはお正月の女の子の遊びとされたり、押絵を貼った飾り羽子板を作って浅草寺の羽子板市で売られるようになった。上杉本洛中洛外図屏風には、羽根突きをしている様子が描かれている。その起源は、文献上では室町時代までしか遡れないとされる。下学集(1444年頃)では、「羽木板 コギイタ ハゴイタ〈正月ニ之ヲ用ユ〉」、黒本本節用集(室町末期)には、「胡鬼板 コギイタ〈小児正月之を翫ぶ〉」とある。貞成親王・看聞御記に、「女中近衛・春日以下、男長資・隆富等朝臣以下、こきの子勝負分方、男方勝、女中負態(まけわざ)則ち張行、殿上に於て酒宴深更に及び、……」(永享四年(1433)正月五日)、「……宮御方ヘ球杖三枝、玉五〈色々綵色〉、こき板二〈蒔絵置物、絵等風流〉、こきの子五、進められえし言語道断殊勝、目を驚かし了んぬ、御自愛極み無く、若宮まで入られ思し食し、此の如き物進められし条、殊く喜悦珍重也」(永享六年(1435)正月五日)などとあるのが古い例とされる。羽子板については、中世の出土例が見られる。
万葉集に、筑波山にかけてツクバネということばが出てくるから、古くから行われていたものと推測される。筑波山は男体山、女体山の二峰から成り、男女の歌のかけ合い、嬥歌(かがい)の行われるところとも知られる。紀に、「二上」、「二上峯」と出てくるのは、羽根突きからも連想される事柄と考えられる。そして、意図的に「槵」という文字で表記することにこだわっているから、「槵触之峯」とはどこかという設問よりも、「槵触之峯」とは何かを問う方が有意義であろう。天孫降臨の話は、羽根突きと何らかの関係がありそうである。
左:羽根突き(月次祭礼図屏風、紙本着色、室町時代、16世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0022475をトリミング)、中:ムクロジの実(神代植物公園)、右:羽子板(今小路西遺跡出土、鎌倉時代、鎌倉歴史文化交流館展示品)
記には、番能邇々芸命がその地のことを次のように言っている。
此地者向韓国真米通笠沙之御前而
この部分、「此地(ここ)は、韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前を真来(まき)通りて」と訓む説が有力視されている。真福寺本古事記の「米」字は、「来」の誤写としている。紀の該当部分に、「国覓(ま)ぎ通りて」とあるところから、清音ではあるもののマキトホリテと訓じたがってそうしている。道祥本・春瑜本に「真来通」とあるのに従っている。本文が仮にそうなら、「此地は韓に向ひ、笠沙の御前に国真来(まき)通りて(此地者、向レ韓、国二-真-来-通笠沙之御前一)」といった訓法もありそうである(注5)。
「韓國真米通」(真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184132(37/46))
伊藤2010.は、本文校訂をしながら、記の記述は、紀の「国覓ぎ」にあたるのではなく、「国見」なのであるとする。次の木花之佐久夜毗売との結婚の話へと続ける際の「天皇による統治の正当性を説く神話の目的の達成度を高めるため」(211頁)に、記紀の間で脚色上の差異が生じているとしている。後にあげる万4254番歌に、「国見し為(せ)して 天降(あまも)り坐し」とある。しかし、当該個所に当てはめたとき、降りたところから「国見」しているのか、「国見」してから降りていくのか不明である。また、高いところに「宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて坐しき」とは居住しないであろう。山のてっぺんに展望台を作ることはあっても、今日のタワーマンションのようには窓硝子もない時代、長く滞在することはない。
伊藤2010.は、真福寺本にある「米」について、「訓字として処理しなければならなくなるのだが、その際に適当な意味を見出すことはできそうもない。」(192頁)とし、澤瀉1940.を引き合いに出している。「米」字を訓字として考える場合、稲の粒、ヨネと訓むのがふさわしい。新撰字鏡に、「稞 胡買反、穀実也、粳米也、精米也、又莫代反、禾の死也、志良与祢(しらよね)」、和名抄に、「米 陸詞切韻に云はく、米〈莫礼反、与祢(よね)〉は穀実也といふ。」、「粺米 楊氏漢語抄に云はく、粺米〈之良介与祢(しらげよね)、上傍卦反、去声の軽、把と同じ〉は精米也といふ。」、「糙米 唐韻に云はく、糙米〈上音造、漢語抄に糙米は毛美与祢(もみよね)と云ふ。一に加知之祢(かちしね)と云ふ〉は米穀雑也といふ。」とある。「真米通笠沙之御前而」を「真(まこと)米(よね)、笠沙(かささ)の御前(みさき)に通(かよ)ひて」などと訓んで意味が通じるなら、「真」をマコトと訓む例は記には他に見られないものの万葉集には見られ、それが正解に近いということになる。
今日まで、「笠沙之御前」を地名のこと、九州南部の笠沙岬のこととする考えに囚われている(注6)。記は、ヤマトの人が、特に奈良盆地の人が作ったお話である。夷の地名を持ち出して何が面白いのかといえば、単に、語の音が洒落につながるからにすぎないであろう。「御前」とある言葉は、当該個所近くに、先払い役のいることを示すために用いられている。記では、「猿田毘古神……御前に仕へ奉らむ。」、「天忍日命、天津久米命の二人、……御前に立ちて仕へ奉りき。」などとある。紀では、「先」という字で表わされている。海岸の突き出たところの意を装いながら、先払いにして賊をはらう役の謂いなのではないか。だから夷の地名を出して喜んでいる。
カササ(笠沙)という音はわざとらしいと気づかなければならない。笠を被った先払いの姿は、江戸時代には参勤交代でよく目にする。陣の先頭を行く者が、挟み箱という衣裳ケースをかついでいる。先箱ともいう。どうして衣裳ケースが先頭を進むのか、筆者には“合理的な”理解はできないが、“歴史的な”理解は可能である。大胆にも飛鳥時代にまで遡り、警蹕(けいひつ)のことを指すと考えられるからである。紀には次のような例がある。
兵仗(つはもの)夾み衛り、容儀(よそひ)粛(いつく)しく整へて、前駈(みさき)警蹕(お)ひて、奄然(にはか)にして至る。(継体紀元年正月)
仍りて平旦(とら)の時を取りて、警蹕(みさきおひ)既に動きぬ。百寮(つかさつかさ)列(つら)を成し、乗輿(きみ)蓋(おほみかさ)命(め)して、以て未だ出行(おは)しますに及(いた)らざるに、……(天武紀七年正月)
参勤交代と先箱(歌川広重、保永堂版東海道五拾三次・日本橋 朝之景、天保4~7年(1833~37)、木版刷、町田市立国際版画美術館、http://hanga-museum.jp/exhibition/past/2011-6))
警蹕とは、先払い、先追いのことである。名義抄に、「先駈 オホムサキオヒ、サキバラヒ」とある。先頭に立ってそこのけそこのけと邪魔者を散らしていく。「稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて」部分についての解説に、鈴木重胤・日本書紀伝は、次のように述べている(注7)。
[忌部正通・日本書紀]口訣に、稜威道別道別者警蹕払二御前一謂也と注され、[一条兼良・日本書紀]纂疏に、稜威可畏之意、天孫行幸、警蹕前導、行叱且呵、故曰二道別道別一と注させ給へる、共に甚奇らしき説なるに就て思ふに大に其謂有り、……唯に雲路を排分させ給ふのみならむには稜威云々とは云ふべからざるを、此は警蹕の所なるが故に実に其語は有るなりけり、(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1047562(166/374)、漢字の旧字体は改めた。)
その先駆の者が、江戸時代に衣裳ケースを担っている。その挟み箱の前身は、ズボンプレッサーのように2枚の板で衣類や袴を覆ったものを竹で挟みつけ、持ち運んでいたとされている。挟み竹という。寺島良安・和漢三才図会に次のようにある。
挟箱(波左美波古(はさみばこ)、二つ折り・大二つ折り・一寸高・二寸高・三寸高等の数品有り。)
按ずるに挟箱は近代の制なり。古は板二枚を用ゐ衣服の上下を覆ひ、竹を以て之れを挟み、僕をして之れを擔(にな)はしむ。挟竹と名づく。慶長年中より始めて箱を以て棒を挿し、之れを擔はしむ。挟箱と名づく。平士及び庶人は一箇を用ゐ、高官は一人を双び行かしめ、一対の挟箱と謂ふ〈慶長中、秀吉公の僕、布施久内と名づくる者、始めて之れを作り出すと相伝す。〉。(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569718(51/52)、漢字の旧字体は改めた。)
挟み竹(?)(狭衣物語絵巻、紙本着色、江戸時代、17世紀、東博展示品)
挟み竹は、オールのような形状をしていたと推定される。江戸時代の挟み箱の箱(はこ、コは甲類)の上代音は、羽子(はこ、コは甲類)と同じである。つまり、羽子板形をしているのが、挟み竹、挟み箱である。羽根突きは厄払いの意味があるとされており、よって同形の挟み竹、挟み箱は、先払い役の者が担うことになっていたのであろう。行列を見ていると、先頭が通過してだいぶ経ってから陛下(将軍、殿様)がお通りになる。時間軸へ置き換えることができるのが、先払いの「先」の意味である。挟み竹は板に挟んでなかの衣類を押して平らにする。平らげて平定してしまう。「葦原中国を言(こと)向け和(やは)し平(たひら)げつる状(かたち)」(記上)といった言い方が常套的に用いられている。先陣が、戦う前に相手を服従させてしまっている。
警蹕が先払いをする時にかける掛け声は、オシ、オシオシなどという(注8)。枕草子に、「警蹕など「おし」といふ声聞ゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきなど、いみじうをかしきに、……」(『三巻本枕草子』27頁)とある。挟み竹が、衣類を押しているのと同じである。その謂いにふさわしいように、先払い役は妙なものを担がされているのであろう。オシという声を発する理由は、「おし」というものに由来する。押機(おし)である。クマなどの獣を捕まえるのに上から押さえつける罠や、踏むと圧死させられる鼠取り(鼠落し)も圧機(おし)と呼ばれる。寺島良安・和漢三才図会の「棝斗」の項に、別名として「鼠弩 和名於之(おし)」とある。人間に対しても、戦で相手方が罠を仕掛けておくと、先頭を行く先払い役は、押機によってぺしゃんこにされてしまう。逆に先払い役がオシ、オシと声をかけながら行けば、賊の顔色が変わって押機を仕掛けていると知れ、ならば先にご自身で殿中へ入られよという問答(ネゴシエーション)が行われる。「其の殿の内に押機(おし)を作りて待ちし時に、」・「乃ち己が作れる押(おし)に打たえて死にき。」(神武記)、「殿(おほとの)の内に機(おし)を施(お)きて、」・「乃ち自(おのれ)機を蹈みて圧(おそ)はれ死ぬ。」(神武前紀戊午年八月)などとあるのはその例である。羽子板に押絵を貼ることの淵源である。
左:圧機(おし)(木村孔恭・日本山海名産図会の「陸弩捕熊」(寬政11 (1799)年刊、国文研データセットhttp://www2.dhii.jp/nijl_opendata/NIJL0224/049-0189/61をトリミング接合)、右:鼠落とし(寺島良安・和漢三才図会の「棝斗」、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569715?tocOpened=1(54/56)をトリミング)
カササ(笠沙)について考えている。ほかに、カササと聞けば、蚊を笹(篠)で除けることが思い起こされたであろう。蚊の忌避法である。和漢三才図会に、「酒を篠(ささ)の葉に灌ぎて傍隅(かたすみ)に挿さば、則ち蚊は皆其の篠に集まる。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569733(23/40))とある。お酒を呑むととりわけ蚊が寄ってくることからの発想であろうか。あるいは、発酵過程で生ずる二酸化炭素に蚊が反応するということであろうか。本当に効果があるか知れないが、お呪い程度の効果としてそういうことが行われていた(注9)。無患だからクシとの考えにあわすように、酒のことをクシとも言う。百薬の長である。世にも珍しいことを表す「奇し」から来ているともいわれる。新撰字鏡に「槵 胡慣反、無槵」と自己矛盾する説明があるのは、酒はクシであるが、酒の臭いに蚊が寄ってくるから洗い流したい、その際、石鹸成分のサポニンをムクロジ(槵)の実は含んでおり、奇しくもそれを使って臭いを洗い流すことができるから、いずれの場合もクシであるといっている。自己撞着を冒しながらすべてを定義してかかるように、ムクロジの実は「槵」に相応している。
蚊除けのお呪いとしてはほかに、羽根突きがある。蚊が出る夏に行うのではなく、予め先立ってのお祓いの意味合いがあった。やはり先払いの意である。紀の「槵触之峯」にあった「槵」はムクロジだから羽根突きの羽子の材料である。節用集の「胡鬼」(こぎ、コ・ギの甲乙不明)の字は後の当て字であろうが、蚊を食う蜻蛉の姿に似せて作られているとされている。一条兼良・世諺問答(室町後期)に、羽根を蚊を食うトンボに見立て、夏に蚊に食われないおまじないとしてつかせたとする説がある。「[問]曰、おさなきわらはのこきのこといひてつき侍るは、いかなることぞや、答、是はおさなきものの、蚊にくはれぬまじなひ事也、秋の始に、蜻蛉と云虫出きては、蚊を取くふ物也、こきのこと云は、木連子などを、とんばうがしらにして、はねをつけたり、是をいたにてつきあぐれば、おつる時蜻蛉返りのやうなり、さて蚊をおそれしめんために、こきのことてつき侍る也、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539229(6/32))とある。世諺問答の説は、にわかに謬説とし難い。第一に、追い羽の姿が蜻蛉の頭と羽によく似ている。第二に、列島と韓国(からくに)との間のやりとりに譬えるのに意味深長である。第三に、羽子板の形と挟み竹の形が似通っている。
記の、「韓国」は朝鮮半島の、列島からみて対岸のことを指すと考えられる。海外の国のことを指すカラ(韓・唐)という言葉について、古典基礎語辞典に、「もとは三~六世紀ごろ、朝鮮半島南部にあった小国「伽羅」を指したが、のちに朝鮮半島全部、やがて隋・唐と国交を開くようになると中国、そして中世以降は南蛮などの外国のことをも指していうようになった。」(388頁、この項、我妻多賀子。)とある。ならば、対馬海峡のこちら側に「槵触之峯」があることになる。両者の間で羽根突きをしている姿が思い浮かぶ。当時の人の発想として、そのような観念が生じていたか、それが問題である。海峡を挟んだ海外のことを指す「韓国」に向って別れを惜しんだ例としては、松浦佐用比売(まつらさよひめ)の逸話が名高い。彼女は、大伴佐提比古(おおとものさでひこ)が朝命により朝鮮半島へ出帆するとき、領布(ひれ)を振った。
遠つ人 松浦佐用比売 夫(つま)恋に 領布振りしより 負へる山の名(万871)
山の名と 言ひ継げとかも 佐用比売が この山の上(へ)に 領布を振りけむ(万872)
万代(よろづよ)に 語り継げとし この岳(たけ)に 領布振りけらし 松浦佐用比売(万873)
領布はひらひらする細長く薄い布で、女子が首から肩にかけた。羽衣、長いスカーフの類である。万871番歌の題詞に、「これに因りてこの山を号(なづ)けて領巾麾(ひれふり)の嶺と曰ふ」とある。今の唐津市の鏡山に比定されている。欽明紀二十三年七月条に歌謡が載る。
韓国の 城(き)の上(へ)に立ちて 大葉子(おほばこ)は 領布振らすも 日本(やまと)へ向きて(紀100)
韓国の 城の上に立たし 大葉子は 領布振らす見ゆ 難波(なには)へ向きて(紀101)
新羅が任那、もと伽羅(から)と呼ばれたところを滅ぼしたので倭は参戦したが、戦いに敗れて捕虜になったときに歌った歌とされる。ほかに、「蜻蛉領布(あきづひれ)」(万3314)、「あきづ羽の袖」(万376)といった表現もある。蜻蛉の羽のような薄い領布を振ることで、蜻蛉が海峡を渡るように、自分も海峡を渡りたいという願いを叶えてほしいと祈ったのであろう。
天孫降臨の話では、領布振る峯ではなく、「槵触之峯」となっている。世諺問答で、羽子が蚊を食う蜻蛉の姿に似せて作られているとあった。ヤマトは、「蜻蛉島(あきづしま)」である。看聞御記に、「こきの子勝負」と言っている。遊びの名前がコギノコ、道具名がコギイタという呼び方について、漢字の「胡鬼」という当て字以外に求め、コギという語の由来がかなり古くに遡る言葉であるとするなら、動詞のコグ(漕、コは乙類、ギは甲類)と関係して、船を漕ぎ板、オールのことと理解される。船を漕ぐことには、たいへんな勝負事がつきまとう。「韓国(からくに)」を目指して対馬海峡を渡るとき、みな一心に漕いだことであろう。帆船であったとしても、当時の帆はマストに向きは固定されているから、順風ならともかく逆風では話にならず、横風には斜め斜めに少しずつしか風を利用できない。だから、漕ぐことが何よりも大事である。まさに、「漕ぎの子勝負」で海峡を渡った。
上に述べたとおり、「槵触之峯」はどこかではなく、何なのかが問題である。お酒のことを「奇(く)し」と言ったように、霊妙であるという動詞からクシフル(クシブル)という。紀の訓み方はその点で合っている。記では、「久士布流多気(くじふるたけ)」と清濁が入れ替わっている。記のクジフルという語は、上代になかなか素直ではない音である。音的に馴染みにくい。筆者は、太安万侶の洒落、音読みを使った造語ではないかと推測する。たとえば、「くじふるたけ」のクジフルについては、クジ(籤)+フル(振)という洒落も考えられる。振る籤については、算木や筮竹も考えられるが、紀に「短籍(ひねりぶみ)」という方法が記されている。
短籍(ひねりぶみ)を取りて謀反(みかどかたぶ)けむ事を卜(うらな)ふといふ。(斉明紀四年十一月或本)
細い紙片に別のことを書いて捻っておき、探り取って占いとしたものとされる。捻文の語義には、立て文のことも言った。包紙の上下を捻るので呼ばれた。タテブミと聞けば、立って踏むことであると聞こえる。立って踏むには、足首から下をぎゅっとねじり捻って踏みつける所作が必要となる。どこを利かせるか。クルブシ(踝)である。紀にあるクシブル(タケ)に音がよく似ている。太安万侶の洒落のきつさが伝わってくる。謂わんとしていることは、踏みにじるところのことであるらしい。
「圧伏」(山田清慶・服部雪斎ほか筆・薏苡仁図解飢饉予備、紙本着色、明治5~18年(1872~85)、東博展示品、これはハトムギの耕作法で株を踏みにじっている。)
稲作において踏みにじることは、前年の収穫残の株を泥田に踏みこみ入れて肥料とすることである。いなしびおし(稲株圧)とも呼ばれている。イネという栽培植物は、連作障害が少なく、水田をずっと維持管理しておくことが翌年の稔りにつながる。植え付けの前に、代掻きをして田を整えておく。前もって先払いをしておくわけである。
埼玉(さきたま)の 小埼(をさき)の沼に 鴨そ翼(はね)きる 己(おの)が尾に 降り置ける霜を 掃(はら)ふとにあらし(万1744)
…… 石(いそ)に生(お)ふる 菅(すが)の根取りて しのふ草 祓へてましを 往く水に 禊ぎてましを ……(万948)
…… い漕ぎつつ 国見し為(せ)して 天降(あまも)り坐し 掃ひ言向け 千代累(かさ)ね ……(万4254)
そして、音読みのクジフとは、「九十(くじふ)」のこと、「九十」は続けて書いて「卆(卒)」、亡くなることである。「卆」字は法華義疏や文祢麻呂墓誌銘に残る(注10)。
亡くなって残るものは骨、仏教にいう舎利である。仏舎利を納める場所は塔である。塔の形は茸(きのこ)に同じである。クジフルタケとは「卆茸」のことと洒落ているのであろう。とてもいい臭いがするキノコだけれど毒キノコなのかも知れず、実態はわからない。傘のあるキノコの形であることは明らかである(注11)。
左:舎利塔(銅製鍍金(塔身部)、木製(木壇部)、平安時代、保延4年(1138)、東博展示品)、右:池上本門寺宝塔
同じく舎利と呼ばれる米粒を納める場所も、塔のような形をした稲積みである。稲積みのことは民俗に、ニオ、ニュウ、ニョウ、ノウなどといい、沖縄ではイナマズン、シラと呼ぶところもある。柳田1978.に、「……この稲の堆積には一つの様式の共通があることで、すべて稲の束(たば)を、穂を内側にして円錐形(えんすいけい)に積む以外に、最後の一束のみは笠(かさ)のように、穂先を外に向けて蔽(おお)い掛ける者が今も多く、さらにその上になお一つ、特殊な形をした藁の工作物を載せておく風(ふう)が今もまだ見られる。」(256頁)とある(注12)。バリエーションはあるが、刈り取って少しく乾燥させた稲束を、籾を扱き落とすまでの間、台を設けて穂のほうを内側、株もとのほうを外側にして塚のように積み上げる。そして、一番上には藁で雨避けの笠を作って被せている。それが標準的なやり方である。このニオは、古語ではニホである。新種の巨大なキノコに見える(注13)。
ニホ(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591577(23/34)をトリミング)
ニホという言葉には、2つの意味がある。円筒形の稲積みのことと、水鳥のカイツブリの古名である。両者の相同性は、第一にカイツブリが浮巣、いわゆる「鳰(にほ)の浮巣」を作る点にある。水面の浮遊物を集めて厚い山のような巣を作っている。葦ばかりであれば下図のようなものができあがり、今日のような環境下では、浮かんでいれば何でも、木の枝葉であれ、水草であれ、ビニール袋や布類などのごみであれ、それを利用する。そして、産座に卵を産む。卵の大きさは、約3.7×2.5cm、白からクリーム色、茶褐色で、籾粒よりは大きい。雌雄ともども抱卵するが、巣を離れるときには卵の上に巣材で覆いをかける。稲積みに笠がかけられているのによく似ている。
左:カイツブリ(ニホ)とその浮巣のようなもの(井の頭自然文化園、2015.6.10)、右:子乗せカイツブリ(@shaftinaction様「Little Grebes Family Day Out」https://www.youtube.com/watch?v=TqggHMnOtac)
カイツブリは、淡水の湖沼、河川にごくふつうに生息する。巧みに潜水して小魚を捕食する。足についている水掻きは、カモ類に見られるような指の間に膜のついた蹼ではなく、弁足と呼ばれるものである。前方にある3つの指と後ろにつく小さな指にも船の櫂のようなものがついている。漕ぐときはそれを広げて後ろへ掻き、戻すときは畳んで捻るようにする。人間でいえば平泳ぎに譬えられるという。この弁足のために、地上の歩行はうまくできない。櫂があり、小さな鳥でツブ(粒・頭)と言えるほどに丸まっている姿のため、カイツブリと呼ばれるのかもしれない。浮巣の様子から、記に「宇岐士麻理(うきじまり)」、紀に「浮渚在り」とあるのではないか。田は古く常湛であったから、まるで湖沼のなかに稲積みのニホが浮かんでいるように見える。その後ろにつづく、記の「蘇理多多斯(そりたたし)」は、隆起している、すっくと高くなること、紀の「平地(たひら)に立たし」は、田の平のなかに立っていることを示すのであろう。
現代人と異なり、ニホドリが身近な存在として感じられ、よく観察されている。食べたからであろう(注14)。小さな水鳥である。竹棒や小枝などに鳥黐を塗っておき、捕まえた。それを擌(黐擌、(はが、はこ))という。和名抄に、「黐〈擌附〉 唐韻に云はく、黐〈丑知反、和名毛知(もち)〉は鳥を黏らす所以也、擌〈所責反、漢語抄に波加(はが)と云ふ〉は鳥を捕ふる所以也といふ。」、和漢三才図会に、「擌〈山責切〉 擌、黐擌、和名波加(はが)、今に波古(はこ)と云ふ。黐(とりもち)は灌木類に出づ。囮(をとり)は鳥類下に出づ。黐擌は鳥を捕ふる所以の者也。按ずるに、黐を用ゐ蘆竹及び縄に伝ふ。之れを擌と謂ひ、囮の傍に置けば、鳥、囮に誘はれ、頡頑(とびあがりとびさがり)往き来して、終に擌に罹る。水禽の如きは、稗(しべ)を以て擌と為(し)、之れを田沢に設け、名けて流れ擌と曰ふ。」とある。ベタベタするものを縄に結んで流しおいて再び見に行くと、獲物がくっついているという仕掛けである(注15)。
ニホドリは羽子板、漕ぎ板のような、船の櫂のような水掻きを持っている。それが擌によって絡めとられてしまう。黐にくっついて離れないのをはずすには、シャボンで洗うしかない。サポニンは、ムクロジの実の外皮に含まれていて、擦れば泡立つ。すなわち、ニホドリ自体が羽根突きの事柄のすべてを物語っている。そして、多くの水鳥が冬に渡ってくるなか、河川湖沼において留鳥にして先払い役を担っている。
カイツブリの最大の特徴は、弁足の水掻きである。「水掻きの」という枕詞は、「久(ひさ)し」にかかる。時代別国語大辞典に、「神社の玉垣の久しく栄えつづく意で、久シにかかる。」(708頁)とする(注16)。
処女(をとめ)らを 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけり吾は(万2415)
楉垣(みづかき)の 久しき時ゆ 恋すれば 吾が帯緩(ゆる)む 朝夕(あさよひ)ごとに(万3262)
そして、「瑞垣(みづかき)」については、「玉垣。神社の周囲にある垣を讃めていう。」(同707頁)とされている。和名抄には、「瑞籬 日本紀私記に云はく、瑞籬〈俗に美豆加岐(みづかき)と云ふ、一に以賀岐(いがき)と云ふ〉といふ。」とある。家々で使われる垣根にはいろいろあり、神社の垣根にもいろいろある。伊勢神宮の場合、門が5つも続いており、それぞれに垣をめぐらせている。内側から、瑞垣の御門(みかど)、蕃垣(ばんがき)の御門、内玉垣(玉串)の御門、外玉垣(中重)の御門、板垣の御門と呼んでいる。いちばん内側の最後の砦的な垣根が、瑞垣ということになる。伊勢神宮や春日大社では板で、石上神宮では石で、びっしりと隙間を開けずに張られている。一方、出雲大社では、隙間が空いている代わりに屋根がついており、屋根つきの垣根を瑞垣と呼んでいるようである。
左から、伊勢神宮内宮の瑞垣(いちばん内側をいう。遷宮時の情景。「伊勢神宮サイト」http://www.isejingu.or.jp/sengu/index.html)、春日大社本殿裏手の瑞垣、仁和寺境内九所明神社瑞垣、石上神宮瑞垣(白井1991.表紙、森好央氏撮影。https://www.amazon.co.jp/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E3%83%BB%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E3%81%AE%E7%A5%AD%E7%A5%80%E3%81%A8%E4%BF%A1%E4%BB%B0-%E7%99%BD%E4%BA%95-%E4%BC%8A%E4%BD%90%E7%89%9F/dp/4336032475)、出雲大社瑞垣(ウィキペディア「100 paysages du Japon (ère Heisei)」https://fr.wikipedia.org/wiki/100_paysages_du_Japon_(%C3%A8re_Heisei))
瑞垣が音でミヅカキである以上、水掻きにふさわしい形態でなければ、ヤマトコトバの言霊信仰(言=事)上、適切ではない。カイツブリの持つような船の櫂の形をした、先の三角形に尖った板を並べているのが伊勢神宮や春日大社、石上神宮である。確かにびっしりと並べてあるから、一見、漏れなく垣根でめぐらされているように思われる。けれども、重なりを持たせているわけではないから、若干スリットが入ったように向こう側が透けて見える。屋根のことを考えてみれば、家の母屋を杮(こけら)葺きで葺いたときには、重なりを持たせているから雨漏りは起こらない。しかし、そこから張り出して作った廂・庇(ひさし)の部分は、屋根もぞんざいに作ってあるから、一応は雨を防げても完全とは言えない。雨を防ぐ目的よりも、日差しを防ぐために設けられていたようである。日差しが眼目だからヒサシ(廂・庇)というのであろう。よって、ミヅカキノはヒサシにかかる枕詞となっている。出雲大社は、瑞垣に屋根を付けるということをしている。発想の転換である。
石包丁で稲刈り(えんがわオフィス様「弥生人、稲を刈る」http://engawa-office.com/archives/2278)
ニホという稲積みについては、技術革新の象徴であったのではないか。弥生時代、石包丁で穂首刈りされていた。穂首刈りした稲穂(穎稲)は、縄文時代以来、クリなどを貯蔵していたフラスコ状の土坑に納められていたとされている。古墳時代、鋸歯のついた鉄鎌が伝来して株ごと刈り取ることが始まった(注17)。その全体を結束し、地干しやハザ(稲架)などで乾燥させたあと稲積みにした。稲野1981.は、ニホという「稲干方式は他の方式で乾燥させた後に、一定の方法で集積し、乾湿の繰り返しを防ぎながら徐々に乾燥する方法である。」(99頁)とする。安定的な乾燥と貯蔵とに適っているのだから、有効な方式である。そして、必要な分だけ脱穀し、自給用に食べていった。租税分や商売分は、稲刈り後すぐに大忙しで脱粒し、俵(叺)に詰めて出荷してしまっている。その残りを積んでいる。なにしろ、脱粒、脱穀に手間ひまがかかる。千歯扱きはないから扱き箸や横槌やくるり棒を使い、唐箕がないから箕に大うちわなどを使って飛ばして選別した。摺り臼もないからもっぱら竪杵を使ってひたすら搗いた。現在も良く知られていることであるが、精米してから時間がたつと味は落ちる。乾燥しすぎるのは良くなく、かといって湿るとカビが生える。食べるときに食べる分だけ精米するのが、効率的にも実質的にも賢いといえる。よって、生産者である農家は、戦国時代のように刈り取ってまで持って行くような略奪の恐れがない限り、大量の米のすべてを一気に籾にして米倉に鍵をかけて仕舞う必要はなかった。ニホに積んでおいていいのならそうしておく。効率的である。
稲積みのニホの諸相をみると、さまざまな工夫が施されていることが知れる。地域により、時代により、さまざまな形態が行われていた。基本的には、真ん中に風通しをよくする空洞を設けながら稲束を上へ上へと円筒形に盛り積んで行く。最後に雨除けの笠を被せている。古語に、カヅク(被)である。カイツブリのニホがカヅク(潜)のと同じである。白川1995.に、「かづく〔潜(潛)〕」は、「「被(かづ)く」と同根の語で、もと頭上に物を載(の)せる意。」(234頁)とある。
枕詞のニホドリノ(鳰鳥)は、その性質から、「潜(かづ)く」や同音の「葛飾(かづしか)」にかかる。
鳰鳥の 潜く池水 情(こころ)有らば 君に吾が恋ふる 情示さね(万725)
鳰鳥の 葛飾早稲(わせ)を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも(万3386)
万3386番歌は、新嘗祭を示す歌として有名である。稲積み、水鳥、どちらのニホも、頭が水を突き抜ける事柄となっている。
稲積みのニホは稲束を盛ったものである。カイツブリのニホも、水鳥の先払い的な意味合いから、やはりモル(守)と感じられたかもしれない。子育てで卵を巣に置いたまま出掛けるときには、蓋(笠・傘・覆)を被せていた。また、雛が孵ってから羽が生えてきてもまだ小さいうちは、我が子を自分の身の上に乗せて運ぶようにして守っている。羽毛にくるまれて背負われている様は、ねんねこにくるまれ背負われた子守の姿に相同である。カイツブリはカモ類より小さく、さらに小さな子をおんぶしている。子どもの“おしん”が、赤ん坊をおんぶしながら教室をのぞき見ている風が思い出される。小さいからツム(粒)のようであり、赤子を積む「船舶(つむ)」(皇極紀元年八月)のようでもある。大型船に救命ボートが備えられているようにも見える。そして、櫂のような水掻きで掻いて進んでいる。
垣根のことをいうカクという語は、「懸(か)く」の名詞形とされている。白川1995.に、「かく〔掻〕」は、「「懸(か)く」「書く」「畫(か)く」など、みな同根の語である。」(210頁)とある。
大君の 八重の組垣 懸かめども 汝(な)を編ましじみ 懸かぬ組垣(紀90)
恋ひつつも 稲葉掻き別け 家居れば 乏(とも)しくあらず 秋の夕風(万2230)
カイツブリに見られたように、水掻きをもってオール(漕ぎ板)とすることは、先払いの役を担うことになる。侵入者を防ぐ垣根も、先払いと同じ役目を果たしている。そして、瑞垣で囲まれたなかにニホと同形の塔が建てられているところは、寺の伽藍内のことに同じという謂いらしい。出雲大社の瑞垣と寺の回廊とはよく似ている。稲積みのニホは、仏教とともに入ってきた新技術であったようである。
旧山田寺回廊復元連子窓の様子(飛鳥資料館)
また、秦造(はだのみやつこ)が祖(おや)・漢直(あやのあたひ)が祖と、酒を醸(か)むことを知れる人、名は仁番(にほ)、亦の名は須々許理(すすこり)等と、参ゐ渡り来たり。故、是の須々許理、大御酒(おほみき)を醸みて献りき。是に、天皇、是の献れる大御酒をうらげて、御歌に曰はく、
須々許理が 醸みし御酒に 我酔(ゑ)ひにけり 事無酒(ことなぐし) 笑酒(ゑぐし)に 我酔ひにけり(記49)(応神記)
応神記の「仁番(にほ)」という名は、稲積みのニホを意識している。新醸造技術の伝来は、稲の品種、栽培、収穫、保存、精米法においても新しかったということであろう。また、記のこの記事は、その前に、百済の国王が文物と人を「貢上(たてまつ)りき」とあり、さらに前に、「新羅の人、参(ま)ゐ渡り来たり」となっている。仁番は「参ゐ渡り来たり」となっている。すなわち、新羅から、自発的に、渡来したということを言っているのであろう(注18)。
臼で舂くことをして籾をとった。古代において、米は、常食する時には玄米で食べたと考えられている。ただし、酒に醸造する時はきちんと精米しようとする傾向があったと思われる。今日でも、精白歩合によって味に違いがあると知られている。うまい酒が飲みたければ、上手に精白しようとする。その精米作業のことをシラグ(精)という。銀舎利は白くしていくものだから、シラグといわれるのであろう。詳しくは後述するが、それを新羅からの渡来人が伝えている。米を白米として食べるようになったのは、それだけ生産力がついて余剰が生れたことを表すものでもあろう。精白することでお米の酒もおいしくなる。
(つづく)
(2)・(3)については、拙稿「猿田毘古神と猿女君」で詳述した。(4)のナマコの口の話は、古事記にしかなく、ナマコの口の起源譚をされている。それが何を意味しているのか、何の話なのか了解されることなく、放置されて今日に至っている。いわゆる“大人”になると、ナマコの口の話は、寓話か童話の類としか捉えられず、相手にされない。しかし、(1)~(4)の話は一連の経過として編まれているのだから、同列に扱われなければならない話(咄・噺・譚)であろう。今回は、(1)のいわゆる天孫降臨の主話について、古事記を中心に考察する(注2)。該当する記紀の主な部分を次に記す。
故、爾に、天津日子番能邇々芸命に詔(のりたま)ひて、天の石位(いはくら)を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、いつのちわきちわきて、天浮橋(あめのうきはし)に、うきじまりそりたたして、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の久士布流多気(くじふるたけ)に天降り坐しき。故、爾に、天忍日命(あめのおしひのみこと)・天津久米命(あまつくめのみこと)の二人、天の石靫(いはゆき)を取り負ひ、頭椎(かぶつち)の大刀(たち)を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の真鹿児矢(まかごや)を手挟(たばさ)み、御前(みさき)に立ちて仕へ奉る。故、其の天忍日命、〈此は大伴連等が祖(おや)ぞ〉。天津久米命、〈此は久米直等が祖ぞ〉。是に詔はく、「此地者向韓国真米通笠沙之御前、朝日の直(ただ)刺す国、夕日の日照る国ぞ。故、此地は、甚(いと)吉(よ)き地(ところ)」と詔ひて、底津石根(そこついはね)に宮柱ふとしり、高天原に氷椽(ひぎ)たかしりて坐(いま)しき。(記上)
時に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、真床追衾(まとこおふふすま)を以て、皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降(あまくだ)りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座(あまのいはくわ)天磐座、此には阿麻能以簸矩羅(あまのいはくら)と云ふ。を離(おしはな)ち、且(また)天八重雲(あめのやへたなぐも)を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、日向の襲(そ)の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行(いでま)す状(かたち)は、槵日(くしひ)の二上(ふたがみ)の天浮橋(あまのうきはし)より、浮渚在平処(うきじまりたひら)に立たして、立於浮渚在平処、此には羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志(うきじまりたひらにたたし)と云ふ。膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から国覓(ま)ぎ行去(とほ)る。頓丘、此には毗陀烏(ひたを)と云ふ。覓国、此には矩貳磨儀(くにまぎ)と云ふ。行去、此には騰褒屢(とほる)と云ふ。吾田(あた)の長屋の笠狭之碕(かささのみさき)に到ります。(神代紀第九段本文)
[猨田彦大神]対へて曰はく、「天神(あまつかみ)の子は、当に筑紫の日向の高千穂の槵触之峰(くしふるのたけ)に到りますべし。吾は伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上(かはのへ)に到るべし」といふ。……皇孫、是(ここ)に、天磐座を脱離(おしはな)ち、天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、天降ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)の如く、皇孫をば筑紫の日向の高千穂の槵触之峰(くしふるのたけ)に到します。(第九段一書第一)
故、天津彦火瓊瓊杵尊、日向の槵日の高千穂之峯(たかちほのたけ)に降到(あまくだ)りまして、膂宍の胸副国(むなそふくに)を、頓丘から国覓ぎ行去る。浮渚在平地(うきじまりたひら)に立たして、乃ち国主事勝国勝長狭(くにぬしことかつながさ)を召して訪(と)ひたまふ。対へて曰さく、「是に国有り、取捨(ともかくも)勅(おほみこと)の随(まにま)に」とまをす。(第九段一書第二)
一書に曰く、高皇産霊尊、真床覆衾(まとこおふふすま)を以て、天津彦国光彦火瓊瓊杵尊(あまつひこくにてるひこほのににぎのみこと)に裹(き)せまつりて、則ち天磐戸を引き開け、天八重雲を排分けて、降り奉る。時に、大伴連の遠祖(とほつおや)天忍日命(あまのおしひのみこと)、来目部(くめべ)の遠祖天槵津大来目(あまくしつのおほくめ)を帥ゐて、背(そびら)には天磐靫を負ひ、臂(ただむき)には稜威の高鞆を著(は)き、手には天梔弓(あまのはじゆみ)・天羽羽矢(あまのははや)を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を副持(とりそ)へ、又頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯(は)きて、天孫(あめみま)の前(みさき)に立ちて、遊行(ゆ)き降来(くだ)りて、日向の襲の高千穂の槵日の二上峯の天浮橋に到りて、浮渚在之平地に立たして、膂宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去る。吾田の長屋の笠狭の御碕に到ります。(第九段一書第四)
是の時に、高皇産霊尊、乃ち真床覆衾を用て、皇孫天津彦根火瓊瓊杵根尊(あまつひこくねほのににぎねのみこと)に裹せまつりて、天八重雲を排披(おしひら)きて降り奉らしむ。故、此の神を称(たた)へて、天国饒石彦火瓊瓊杵尊(あめくににぎしひこほのににぎのみこと)と曰す。時に、降到りましし処をば、呼びて日向の襲の高千穂の添山峰(そへやまのたけ)と曰ふ。其の遊行(いでま)す時に及(いた)り、云々(しかしか)いふ。吾田の笠狭の御碕に到ります。遂に長屋の竹島(たけしま)に登ります。乃ち其の地を巡り覧(み)ませば、彼(そこ)に人有り。(第九段一書第六)
古事記の話の概要は、次のようなものである。天照大御神(あまてらすおおみかみ)と高木神(たかぎのかみ)は、太子(おほみこ)の正勝吾勝々速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)に対して、今や葦原中国は平定し終わったから、委任に従って天降りして統治するようにと詔した。すると、彼は、自分が降りようと準備していたら子どもが生まれた、名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命(あめにきしくににきしあまつひたかひこほのににぎのみこと)(注3)といい、この子を降ろすのが良いでしょうと言った。この御子は、高木神の娘の万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)と結婚して生んだ子で、長男は天火明命(あめのほあかりのみこと)で次男に当たる。奏上したとおりに、天照大御神と高木神は日子番能邇々芸命に命じ、豊葦原水穂国(とよあしはらみずほのくに)は、お前が統治する国であると委任する、命令どおりに天降りしなさいと詔が下った。
日子番能邇々芸命が天降りしようとした時、天の八衢に、上は高天原を、下は葦原中国を照らす神がいた。天照大御神と高木神は天宇受売命(あめのうずめのみこと)に、お前はか弱い女だが、眼力の強い神と面と向かってもにらみ勝つ神である、ちょっと出かけて行って、我が御子が天降りしようとする道で、通せん坊をしているのは誰かと問いなさいと仰った。そのとおりすると、自分は国つ神で名は猿田毘古神だ、天つ神の御子が天降られると聞いたので、先導しようと出迎えたのだと答えた。
そこで、天児屋命(あめのこやのみこと)・布刀玉命(ふとたまのみこと)・天宇受売命・伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)・玉祖命(たまのおやのみこと)の計五人の部族長を分け添えて天降りした。そして、例の天の石屋戸の話で招き出した八尺の勾玉・鏡・草薙剣と、また、常世思金神(とこよのおもいかねのかみ)・手力男神(たぢからおのかみ)・天石門別神(あめのいわとわけのかみ)を副えた。この鏡は私の御魂として、私を祭るように祭り仕えるようにと言い聞かせ、また、思金神は、今言ったことを弁えて祭事をしなさいと仰った。以下、神の鎮座所と祖先伝承へと続く。
日子番能邇々芸命は仰せを受け、天の堅固な神座を離れて、天の幾重にもたなびく雲を押し分け、威風堂々と道を選んで、天の浮橋に「宇岐士麻理蘇理多多斯弖(うきじまり、そりたたして)」、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りした。天忍日命・天津久米命の二人が、天の堅固な靫を背負い、柄頭が握り拳のように膨らんだ太刀を腰につけ、天の黄櫨(はじ)の木で作った弓を手に持ち、天の光り輝く矢を挟んで、天孫の御前に立ってお仕えした。
日子番能邇々芸命は、ここは韓(から)の国に相対し、笠沙の岬に通じていて、しかも朝日のまっすぐにさしこむ国、夕日のよく照らす国である。だからとてもいいところだと仰って、岩盤の上に宮柱を揺るぎなく太く立て、高天原に届くほど千木を高くそびえさせ、お入りになった。以上が、今日まで解釈されているところの話のあらすじである。気宇壮大なお話が構成されている。
記紀の諸書の間で表現が微細に違っている。焦点を絞ると次の4点である。
1.クジフルタケ(クシフルノタケ、クシヒ)
竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)(記)
槵日(くしひ)の二上の天浮橋(紀本文)
筑紫の日向の高千穂の槵触之峯(くしふるのたけ)(紀一書第一)
日向の槵日の高千穂之峯(紀一書第二)
日向の襲の高千穂の槵日の二上峯の天浮橋(一書第四)
日向の襲の高千穂の添山峰(一書第六)
2.カラクニ(ソシシノムナクニ)+国覓ぎ
韓国に向ひ、真米通笠沙之御前(記)
膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から国覓(まぎ)行去(とほ)る(紀本文)
膂宍の胸副国(むなそふくに)を、頓丘から国覓ぎ行去る(紀一書第二)
膂宍の空国を、頓丘から国覓ぎ行去る(一書第四)
3.カササノミサキ(アタノナガヤノカササノミサキ)
笠沙(かささ)の御前(みさき)(記)
吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狭(かささ)の碕(みさき)(紀本文)
吾田の長屋の笠狭の碕(紀一書第四)
吾田の笠狭の御碕……長屋の竹島(たけしま)(紀一書第六)
4.ウキジマリソリタタシテ(ウキジマリタヒラニタタシテ)
うきじまり、そりたたして(記)
浮渚在平処(うきじまりたひら)に立たして(紀本文)
浮渚在平地(うきじまりたひら)に立たして(紀一書第二)
浮渚在之平地(うきじまりたひら)に立たして(紀一書第四)
どこでどう混線しているのかわからなくなっている。天孫降臨の経路は一つの詞章になっており、暗記して語られたものと考えられている。行程の順序さえ異なるところもある。バイアスがそのままに載っている。けれども、どのお話でもそれぞれの話で辻褄が合うのであれば、それぞれに意味のある筋立てということになる。表現として不思議な言葉が登場している。その形容語について、それぞれの詞章をまたいで意味の一貫性を求めるのは、必ずしも賢明とは言えない。どれが正しい、どれが間違っていると一概に決め難い(注4)。
天孫降臨の話において、記と紀本文に共通する話しぶりがある。記には、「是に詔はく、……」、紀本文には、「既にして皇孫の遊行す状は、……」とある。先に話した様子について、もう一度解説している。後講釈が行われている。これが本来の形であるとすると、天降りしたところは、上にあげた1.クジフルタケ(クシフルノタケ)であるが、そこを説明し直すと、2.カラクニ(ソシシノムナクニ)、3.カササノミサキ(アタノナガヤノカササノミサキ)、4.ウキジマリソリタタシテ(ウキジマリタヒラニタタシテ)といった言葉で表すことができると言っているようである。そこで、本稿では、1.クジフルタケ(クシフルノタケ)が何を示しているのかを主題にして、その登攀に挑戦したい。
今日まで、天孫とされるホノニニギのことは、稲穂と関わりのある神さまであると想定されている。大系本日本書紀の補注に、「タカチホのタカは、高、チは数量の多い意。ホは稲の穂。従って稲を高くつみあげた所の意が、最も古い意味であろう。」((一)372頁)、新編全集本古事記には、「高く積み上がられた稲穂の意。現在のどこに比定するか、説が分れるが、現実の地名である必要はない。」(117頁)とある。また、倉野1977.に、「「高千穂」は、本来高く積み上げた稲穂(稲積(ニフ))で、神降臨の目標と農民の間に信ぜられてゐたものであらう。」(175頁)とある。これは、柳田国男らが主張していたことを踏まえて、民俗信仰のレベルから述べられた言説である。それを割り引いて考えたとしても、稲穂説についてほとんど異論が出ておらず、既定事実化している。そのとおりに解釈できるか、一語一語調べ、それぞれの筋立てで上の1.~4.について諸本で意味が通るなら、検証できたことになる。お話は言葉でできている。
天孫降臨の設定は、記で、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りしたことになっている。紀の、「槵触之峯」(紀一書第一)の槵の字は国字である。新撰字鏡に、「槵 胡慣反、無槵」とあり、いまも無患子と書かれるムクロジをいう。記の「久士(くじ)」は紀にクシと清音である。新編全集本日本書紀に、「「無レ患」だからクシ(奇)で、それに霊性を表わす「日」をつけて「奇霊(くしひ)の二上山[ママ]」としたもの。」(①120頁)と、頭注にて短絡化されている。
ムクロジの硬い核は、羽根突きの羽根の玉にする。穴を穿って2枚の鳥の羽をつけたものが羽子(胡鬼の子)で、それを突き合った。江戸時代にはお正月の女の子の遊びとされたり、押絵を貼った飾り羽子板を作って浅草寺の羽子板市で売られるようになった。上杉本洛中洛外図屏風には、羽根突きをしている様子が描かれている。その起源は、文献上では室町時代までしか遡れないとされる。下学集(1444年頃)では、「羽木板 コギイタ ハゴイタ〈正月ニ之ヲ用ユ〉」、黒本本節用集(室町末期)には、「胡鬼板 コギイタ〈小児正月之を翫ぶ〉」とある。貞成親王・看聞御記に、「女中近衛・春日以下、男長資・隆富等朝臣以下、こきの子勝負分方、男方勝、女中負態(まけわざ)則ち張行、殿上に於て酒宴深更に及び、……」(永享四年(1433)正月五日)、「……宮御方ヘ球杖三枝、玉五〈色々綵色〉、こき板二〈蒔絵置物、絵等風流〉、こきの子五、進められえし言語道断殊勝、目を驚かし了んぬ、御自愛極み無く、若宮まで入られ思し食し、此の如き物進められし条、殊く喜悦珍重也」(永享六年(1435)正月五日)などとあるのが古い例とされる。羽子板については、中世の出土例が見られる。
万葉集に、筑波山にかけてツクバネということばが出てくるから、古くから行われていたものと推測される。筑波山は男体山、女体山の二峰から成り、男女の歌のかけ合い、嬥歌(かがい)の行われるところとも知られる。紀に、「二上」、「二上峯」と出てくるのは、羽根突きからも連想される事柄と考えられる。そして、意図的に「槵」という文字で表記することにこだわっているから、「槵触之峯」とはどこかという設問よりも、「槵触之峯」とは何かを問う方が有意義であろう。天孫降臨の話は、羽根突きと何らかの関係がありそうである。
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記には、番能邇々芸命がその地のことを次のように言っている。
此地者向韓国真米通笠沙之御前而
この部分、「此地(ここ)は、韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前を真来(まき)通りて」と訓む説が有力視されている。真福寺本古事記の「米」字は、「来」の誤写としている。紀の該当部分に、「国覓(ま)ぎ通りて」とあるところから、清音ではあるもののマキトホリテと訓じたがってそうしている。道祥本・春瑜本に「真来通」とあるのに従っている。本文が仮にそうなら、「此地は韓に向ひ、笠沙の御前に国真来(まき)通りて(此地者、向レ韓、国二-真-来-通笠沙之御前一)」といった訓法もありそうである(注5)。
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伊藤2010.は、本文校訂をしながら、記の記述は、紀の「国覓ぎ」にあたるのではなく、「国見」なのであるとする。次の木花之佐久夜毗売との結婚の話へと続ける際の「天皇による統治の正当性を説く神話の目的の達成度を高めるため」(211頁)に、記紀の間で脚色上の差異が生じているとしている。後にあげる万4254番歌に、「国見し為(せ)して 天降(あまも)り坐し」とある。しかし、当該個所に当てはめたとき、降りたところから「国見」しているのか、「国見」してから降りていくのか不明である。また、高いところに「宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて坐しき」とは居住しないであろう。山のてっぺんに展望台を作ることはあっても、今日のタワーマンションのようには窓硝子もない時代、長く滞在することはない。
伊藤2010.は、真福寺本にある「米」について、「訓字として処理しなければならなくなるのだが、その際に適当な意味を見出すことはできそうもない。」(192頁)とし、澤瀉1940.を引き合いに出している。「米」字を訓字として考える場合、稲の粒、ヨネと訓むのがふさわしい。新撰字鏡に、「稞 胡買反、穀実也、粳米也、精米也、又莫代反、禾の死也、志良与祢(しらよね)」、和名抄に、「米 陸詞切韻に云はく、米〈莫礼反、与祢(よね)〉は穀実也といふ。」、「粺米 楊氏漢語抄に云はく、粺米〈之良介与祢(しらげよね)、上傍卦反、去声の軽、把と同じ〉は精米也といふ。」、「糙米 唐韻に云はく、糙米〈上音造、漢語抄に糙米は毛美与祢(もみよね)と云ふ。一に加知之祢(かちしね)と云ふ〉は米穀雑也といふ。」とある。「真米通笠沙之御前而」を「真(まこと)米(よね)、笠沙(かささ)の御前(みさき)に通(かよ)ひて」などと訓んで意味が通じるなら、「真」をマコトと訓む例は記には他に見られないものの万葉集には見られ、それが正解に近いということになる。
今日まで、「笠沙之御前」を地名のこと、九州南部の笠沙岬のこととする考えに囚われている(注6)。記は、ヤマトの人が、特に奈良盆地の人が作ったお話である。夷の地名を持ち出して何が面白いのかといえば、単に、語の音が洒落につながるからにすぎないであろう。「御前」とある言葉は、当該個所近くに、先払い役のいることを示すために用いられている。記では、「猿田毘古神……御前に仕へ奉らむ。」、「天忍日命、天津久米命の二人、……御前に立ちて仕へ奉りき。」などとある。紀では、「先」という字で表わされている。海岸の突き出たところの意を装いながら、先払いにして賊をはらう役の謂いなのではないか。だから夷の地名を出して喜んでいる。
カササ(笠沙)という音はわざとらしいと気づかなければならない。笠を被った先払いの姿は、江戸時代には参勤交代でよく目にする。陣の先頭を行く者が、挟み箱という衣裳ケースをかついでいる。先箱ともいう。どうして衣裳ケースが先頭を進むのか、筆者には“合理的な”理解はできないが、“歴史的な”理解は可能である。大胆にも飛鳥時代にまで遡り、警蹕(けいひつ)のことを指すと考えられるからである。紀には次のような例がある。
兵仗(つはもの)夾み衛り、容儀(よそひ)粛(いつく)しく整へて、前駈(みさき)警蹕(お)ひて、奄然(にはか)にして至る。(継体紀元年正月)
仍りて平旦(とら)の時を取りて、警蹕(みさきおひ)既に動きぬ。百寮(つかさつかさ)列(つら)を成し、乗輿(きみ)蓋(おほみかさ)命(め)して、以て未だ出行(おは)しますに及(いた)らざるに、……(天武紀七年正月)
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警蹕とは、先払い、先追いのことである。名義抄に、「先駈 オホムサキオヒ、サキバラヒ」とある。先頭に立ってそこのけそこのけと邪魔者を散らしていく。「稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて」部分についての解説に、鈴木重胤・日本書紀伝は、次のように述べている(注7)。
[忌部正通・日本書紀]口訣に、稜威道別道別者警蹕払二御前一謂也と注され、[一条兼良・日本書紀]纂疏に、稜威可畏之意、天孫行幸、警蹕前導、行叱且呵、故曰二道別道別一と注させ給へる、共に甚奇らしき説なるに就て思ふに大に其謂有り、……唯に雲路を排分させ給ふのみならむには稜威云々とは云ふべからざるを、此は警蹕の所なるが故に実に其語は有るなりけり、(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1047562(166/374)、漢字の旧字体は改めた。)
その先駆の者が、江戸時代に衣裳ケースを担っている。その挟み箱の前身は、ズボンプレッサーのように2枚の板で衣類や袴を覆ったものを竹で挟みつけ、持ち運んでいたとされている。挟み竹という。寺島良安・和漢三才図会に次のようにある。
挟箱(波左美波古(はさみばこ)、二つ折り・大二つ折り・一寸高・二寸高・三寸高等の数品有り。)
按ずるに挟箱は近代の制なり。古は板二枚を用ゐ衣服の上下を覆ひ、竹を以て之れを挟み、僕をして之れを擔(にな)はしむ。挟竹と名づく。慶長年中より始めて箱を以て棒を挿し、之れを擔はしむ。挟箱と名づく。平士及び庶人は一箇を用ゐ、高官は一人を双び行かしめ、一対の挟箱と謂ふ〈慶長中、秀吉公の僕、布施久内と名づくる者、始めて之れを作り出すと相伝す。〉。(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569718(51/52)、漢字の旧字体は改めた。)
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挟み竹は、オールのような形状をしていたと推定される。江戸時代の挟み箱の箱(はこ、コは甲類)の上代音は、羽子(はこ、コは甲類)と同じである。つまり、羽子板形をしているのが、挟み竹、挟み箱である。羽根突きは厄払いの意味があるとされており、よって同形の挟み竹、挟み箱は、先払い役の者が担うことになっていたのであろう。行列を見ていると、先頭が通過してだいぶ経ってから陛下(将軍、殿様)がお通りになる。時間軸へ置き換えることができるのが、先払いの「先」の意味である。挟み竹は板に挟んでなかの衣類を押して平らにする。平らげて平定してしまう。「葦原中国を言(こと)向け和(やは)し平(たひら)げつる状(かたち)」(記上)といった言い方が常套的に用いられている。先陣が、戦う前に相手を服従させてしまっている。
警蹕が先払いをする時にかける掛け声は、オシ、オシオシなどという(注8)。枕草子に、「警蹕など「おし」といふ声聞ゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきなど、いみじうをかしきに、……」(『三巻本枕草子』27頁)とある。挟み竹が、衣類を押しているのと同じである。その謂いにふさわしいように、先払い役は妙なものを担がされているのであろう。オシという声を発する理由は、「おし」というものに由来する。押機(おし)である。クマなどの獣を捕まえるのに上から押さえつける罠や、踏むと圧死させられる鼠取り(鼠落し)も圧機(おし)と呼ばれる。寺島良安・和漢三才図会の「棝斗」の項に、別名として「鼠弩 和名於之(おし)」とある。人間に対しても、戦で相手方が罠を仕掛けておくと、先頭を行く先払い役は、押機によってぺしゃんこにされてしまう。逆に先払い役がオシ、オシと声をかけながら行けば、賊の顔色が変わって押機を仕掛けていると知れ、ならば先にご自身で殿中へ入られよという問答(ネゴシエーション)が行われる。「其の殿の内に押機(おし)を作りて待ちし時に、」・「乃ち己が作れる押(おし)に打たえて死にき。」(神武記)、「殿(おほとの)の内に機(おし)を施(お)きて、」・「乃ち自(おのれ)機を蹈みて圧(おそ)はれ死ぬ。」(神武前紀戊午年八月)などとあるのはその例である。羽子板に押絵を貼ることの淵源である。
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カササ(笠沙)について考えている。ほかに、カササと聞けば、蚊を笹(篠)で除けることが思い起こされたであろう。蚊の忌避法である。和漢三才図会に、「酒を篠(ささ)の葉に灌ぎて傍隅(かたすみ)に挿さば、則ち蚊は皆其の篠に集まる。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569733(23/40))とある。お酒を呑むととりわけ蚊が寄ってくることからの発想であろうか。あるいは、発酵過程で生ずる二酸化炭素に蚊が反応するということであろうか。本当に効果があるか知れないが、お呪い程度の効果としてそういうことが行われていた(注9)。無患だからクシとの考えにあわすように、酒のことをクシとも言う。百薬の長である。世にも珍しいことを表す「奇し」から来ているともいわれる。新撰字鏡に「槵 胡慣反、無槵」と自己矛盾する説明があるのは、酒はクシであるが、酒の臭いに蚊が寄ってくるから洗い流したい、その際、石鹸成分のサポニンをムクロジ(槵)の実は含んでおり、奇しくもそれを使って臭いを洗い流すことができるから、いずれの場合もクシであるといっている。自己撞着を冒しながらすべてを定義してかかるように、ムクロジの実は「槵」に相応している。
蚊除けのお呪いとしてはほかに、羽根突きがある。蚊が出る夏に行うのではなく、予め先立ってのお祓いの意味合いがあった。やはり先払いの意である。紀の「槵触之峯」にあった「槵」はムクロジだから羽根突きの羽子の材料である。節用集の「胡鬼」(こぎ、コ・ギの甲乙不明)の字は後の当て字であろうが、蚊を食う蜻蛉の姿に似せて作られているとされている。一条兼良・世諺問答(室町後期)に、羽根を蚊を食うトンボに見立て、夏に蚊に食われないおまじないとしてつかせたとする説がある。「[問]曰、おさなきわらはのこきのこといひてつき侍るは、いかなることぞや、答、是はおさなきものの、蚊にくはれぬまじなひ事也、秋の始に、蜻蛉と云虫出きては、蚊を取くふ物也、こきのこと云は、木連子などを、とんばうがしらにして、はねをつけたり、是をいたにてつきあぐれば、おつる時蜻蛉返りのやうなり、さて蚊をおそれしめんために、こきのことてつき侍る也、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539229(6/32))とある。世諺問答の説は、にわかに謬説とし難い。第一に、追い羽の姿が蜻蛉の頭と羽によく似ている。第二に、列島と韓国(からくに)との間のやりとりに譬えるのに意味深長である。第三に、羽子板の形と挟み竹の形が似通っている。
記の、「韓国」は朝鮮半島の、列島からみて対岸のことを指すと考えられる。海外の国のことを指すカラ(韓・唐)という言葉について、古典基礎語辞典に、「もとは三~六世紀ごろ、朝鮮半島南部にあった小国「伽羅」を指したが、のちに朝鮮半島全部、やがて隋・唐と国交を開くようになると中国、そして中世以降は南蛮などの外国のことをも指していうようになった。」(388頁、この項、我妻多賀子。)とある。ならば、対馬海峡のこちら側に「槵触之峯」があることになる。両者の間で羽根突きをしている姿が思い浮かぶ。当時の人の発想として、そのような観念が生じていたか、それが問題である。海峡を挟んだ海外のことを指す「韓国」に向って別れを惜しんだ例としては、松浦佐用比売(まつらさよひめ)の逸話が名高い。彼女は、大伴佐提比古(おおとものさでひこ)が朝命により朝鮮半島へ出帆するとき、領布(ひれ)を振った。
遠つ人 松浦佐用比売 夫(つま)恋に 領布振りしより 負へる山の名(万871)
山の名と 言ひ継げとかも 佐用比売が この山の上(へ)に 領布を振りけむ(万872)
万代(よろづよ)に 語り継げとし この岳(たけ)に 領布振りけらし 松浦佐用比売(万873)
領布はひらひらする細長く薄い布で、女子が首から肩にかけた。羽衣、長いスカーフの類である。万871番歌の題詞に、「これに因りてこの山を号(なづ)けて領巾麾(ひれふり)の嶺と曰ふ」とある。今の唐津市の鏡山に比定されている。欽明紀二十三年七月条に歌謡が載る。
韓国の 城(き)の上(へ)に立ちて 大葉子(おほばこ)は 領布振らすも 日本(やまと)へ向きて(紀100)
韓国の 城の上に立たし 大葉子は 領布振らす見ゆ 難波(なには)へ向きて(紀101)
新羅が任那、もと伽羅(から)と呼ばれたところを滅ぼしたので倭は参戦したが、戦いに敗れて捕虜になったときに歌った歌とされる。ほかに、「蜻蛉領布(あきづひれ)」(万3314)、「あきづ羽の袖」(万376)といった表現もある。蜻蛉の羽のような薄い領布を振ることで、蜻蛉が海峡を渡るように、自分も海峡を渡りたいという願いを叶えてほしいと祈ったのであろう。
天孫降臨の話では、領布振る峯ではなく、「槵触之峯」となっている。世諺問答で、羽子が蚊を食う蜻蛉の姿に似せて作られているとあった。ヤマトは、「蜻蛉島(あきづしま)」である。看聞御記に、「こきの子勝負」と言っている。遊びの名前がコギノコ、道具名がコギイタという呼び方について、漢字の「胡鬼」という当て字以外に求め、コギという語の由来がかなり古くに遡る言葉であるとするなら、動詞のコグ(漕、コは乙類、ギは甲類)と関係して、船を漕ぎ板、オールのことと理解される。船を漕ぐことには、たいへんな勝負事がつきまとう。「韓国(からくに)」を目指して対馬海峡を渡るとき、みな一心に漕いだことであろう。帆船であったとしても、当時の帆はマストに向きは固定されているから、順風ならともかく逆風では話にならず、横風には斜め斜めに少しずつしか風を利用できない。だから、漕ぐことが何よりも大事である。まさに、「漕ぎの子勝負」で海峡を渡った。
上に述べたとおり、「槵触之峯」はどこかではなく、何なのかが問題である。お酒のことを「奇(く)し」と言ったように、霊妙であるという動詞からクシフル(クシブル)という。紀の訓み方はその点で合っている。記では、「久士布流多気(くじふるたけ)」と清濁が入れ替わっている。記のクジフルという語は、上代になかなか素直ではない音である。音的に馴染みにくい。筆者は、太安万侶の洒落、音読みを使った造語ではないかと推測する。たとえば、「くじふるたけ」のクジフルについては、クジ(籤)+フル(振)という洒落も考えられる。振る籤については、算木や筮竹も考えられるが、紀に「短籍(ひねりぶみ)」という方法が記されている。
短籍(ひねりぶみ)を取りて謀反(みかどかたぶ)けむ事を卜(うらな)ふといふ。(斉明紀四年十一月或本)
細い紙片に別のことを書いて捻っておき、探り取って占いとしたものとされる。捻文の語義には、立て文のことも言った。包紙の上下を捻るので呼ばれた。タテブミと聞けば、立って踏むことであると聞こえる。立って踏むには、足首から下をぎゅっとねじり捻って踏みつける所作が必要となる。どこを利かせるか。クルブシ(踝)である。紀にあるクシブル(タケ)に音がよく似ている。太安万侶の洒落のきつさが伝わってくる。謂わんとしていることは、踏みにじるところのことであるらしい。
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稲作において踏みにじることは、前年の収穫残の株を泥田に踏みこみ入れて肥料とすることである。いなしびおし(稲株圧)とも呼ばれている。イネという栽培植物は、連作障害が少なく、水田をずっと維持管理しておくことが翌年の稔りにつながる。植え付けの前に、代掻きをして田を整えておく。前もって先払いをしておくわけである。
埼玉(さきたま)の 小埼(をさき)の沼に 鴨そ翼(はね)きる 己(おの)が尾に 降り置ける霜を 掃(はら)ふとにあらし(万1744)
…… 石(いそ)に生(お)ふる 菅(すが)の根取りて しのふ草 祓へてましを 往く水に 禊ぎてましを ……(万948)
…… い漕ぎつつ 国見し為(せ)して 天降(あまも)り坐し 掃ひ言向け 千代累(かさ)ね ……(万4254)
そして、音読みのクジフとは、「九十(くじふ)」のこと、「九十」は続けて書いて「卆(卒)」、亡くなることである。「卆」字は法華義疏や文祢麻呂墓誌銘に残る(注10)。
亡くなって残るものは骨、仏教にいう舎利である。仏舎利を納める場所は塔である。塔の形は茸(きのこ)に同じである。クジフルタケとは「卆茸」のことと洒落ているのであろう。とてもいい臭いがするキノコだけれど毒キノコなのかも知れず、実態はわからない。傘のあるキノコの形であることは明らかである(注11)。
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同じく舎利と呼ばれる米粒を納める場所も、塔のような形をした稲積みである。稲積みのことは民俗に、ニオ、ニュウ、ニョウ、ノウなどといい、沖縄ではイナマズン、シラと呼ぶところもある。柳田1978.に、「……この稲の堆積には一つの様式の共通があることで、すべて稲の束(たば)を、穂を内側にして円錐形(えんすいけい)に積む以外に、最後の一束のみは笠(かさ)のように、穂先を外に向けて蔽(おお)い掛ける者が今も多く、さらにその上になお一つ、特殊な形をした藁の工作物を載せておく風(ふう)が今もまだ見られる。」(256頁)とある(注12)。バリエーションはあるが、刈り取って少しく乾燥させた稲束を、籾を扱き落とすまでの間、台を設けて穂のほうを内側、株もとのほうを外側にして塚のように積み上げる。そして、一番上には藁で雨避けの笠を作って被せている。それが標準的なやり方である。このニオは、古語ではニホである。新種の巨大なキノコに見える(注13)。
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ニホという言葉には、2つの意味がある。円筒形の稲積みのことと、水鳥のカイツブリの古名である。両者の相同性は、第一にカイツブリが浮巣、いわゆる「鳰(にほ)の浮巣」を作る点にある。水面の浮遊物を集めて厚い山のような巣を作っている。葦ばかりであれば下図のようなものができあがり、今日のような環境下では、浮かんでいれば何でも、木の枝葉であれ、水草であれ、ビニール袋や布類などのごみであれ、それを利用する。そして、産座に卵を産む。卵の大きさは、約3.7×2.5cm、白からクリーム色、茶褐色で、籾粒よりは大きい。雌雄ともども抱卵するが、巣を離れるときには卵の上に巣材で覆いをかける。稲積みに笠がかけられているのによく似ている。
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カイツブリは、淡水の湖沼、河川にごくふつうに生息する。巧みに潜水して小魚を捕食する。足についている水掻きは、カモ類に見られるような指の間に膜のついた蹼ではなく、弁足と呼ばれるものである。前方にある3つの指と後ろにつく小さな指にも船の櫂のようなものがついている。漕ぐときはそれを広げて後ろへ掻き、戻すときは畳んで捻るようにする。人間でいえば平泳ぎに譬えられるという。この弁足のために、地上の歩行はうまくできない。櫂があり、小さな鳥でツブ(粒・頭)と言えるほどに丸まっている姿のため、カイツブリと呼ばれるのかもしれない。浮巣の様子から、記に「宇岐士麻理(うきじまり)」、紀に「浮渚在り」とあるのではないか。田は古く常湛であったから、まるで湖沼のなかに稲積みのニホが浮かんでいるように見える。その後ろにつづく、記の「蘇理多多斯(そりたたし)」は、隆起している、すっくと高くなること、紀の「平地(たひら)に立たし」は、田の平のなかに立っていることを示すのであろう。
現代人と異なり、ニホドリが身近な存在として感じられ、よく観察されている。食べたからであろう(注14)。小さな水鳥である。竹棒や小枝などに鳥黐を塗っておき、捕まえた。それを擌(黐擌、(はが、はこ))という。和名抄に、「黐〈擌附〉 唐韻に云はく、黐〈丑知反、和名毛知(もち)〉は鳥を黏らす所以也、擌〈所責反、漢語抄に波加(はが)と云ふ〉は鳥を捕ふる所以也といふ。」、和漢三才図会に、「擌〈山責切〉 擌、黐擌、和名波加(はが)、今に波古(はこ)と云ふ。黐(とりもち)は灌木類に出づ。囮(をとり)は鳥類下に出づ。黐擌は鳥を捕ふる所以の者也。按ずるに、黐を用ゐ蘆竹及び縄に伝ふ。之れを擌と謂ひ、囮の傍に置けば、鳥、囮に誘はれ、頡頑(とびあがりとびさがり)往き来して、終に擌に罹る。水禽の如きは、稗(しべ)を以て擌と為(し)、之れを田沢に設け、名けて流れ擌と曰ふ。」とある。ベタベタするものを縄に結んで流しおいて再び見に行くと、獲物がくっついているという仕掛けである(注15)。
ニホドリは羽子板、漕ぎ板のような、船の櫂のような水掻きを持っている。それが擌によって絡めとられてしまう。黐にくっついて離れないのをはずすには、シャボンで洗うしかない。サポニンは、ムクロジの実の外皮に含まれていて、擦れば泡立つ。すなわち、ニホドリ自体が羽根突きの事柄のすべてを物語っている。そして、多くの水鳥が冬に渡ってくるなか、河川湖沼において留鳥にして先払い役を担っている。
カイツブリの最大の特徴は、弁足の水掻きである。「水掻きの」という枕詞は、「久(ひさ)し」にかかる。時代別国語大辞典に、「神社の玉垣の久しく栄えつづく意で、久シにかかる。」(708頁)とする(注16)。
処女(をとめ)らを 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけり吾は(万2415)
楉垣(みづかき)の 久しき時ゆ 恋すれば 吾が帯緩(ゆる)む 朝夕(あさよひ)ごとに(万3262)
そして、「瑞垣(みづかき)」については、「玉垣。神社の周囲にある垣を讃めていう。」(同707頁)とされている。和名抄には、「瑞籬 日本紀私記に云はく、瑞籬〈俗に美豆加岐(みづかき)と云ふ、一に以賀岐(いがき)と云ふ〉といふ。」とある。家々で使われる垣根にはいろいろあり、神社の垣根にもいろいろある。伊勢神宮の場合、門が5つも続いており、それぞれに垣をめぐらせている。内側から、瑞垣の御門(みかど)、蕃垣(ばんがき)の御門、内玉垣(玉串)の御門、外玉垣(中重)の御門、板垣の御門と呼んでいる。いちばん内側の最後の砦的な垣根が、瑞垣ということになる。伊勢神宮や春日大社では板で、石上神宮では石で、びっしりと隙間を開けずに張られている。一方、出雲大社では、隙間が空いている代わりに屋根がついており、屋根つきの垣根を瑞垣と呼んでいるようである。
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瑞垣が音でミヅカキである以上、水掻きにふさわしい形態でなければ、ヤマトコトバの言霊信仰(言=事)上、適切ではない。カイツブリの持つような船の櫂の形をした、先の三角形に尖った板を並べているのが伊勢神宮や春日大社、石上神宮である。確かにびっしりと並べてあるから、一見、漏れなく垣根でめぐらされているように思われる。けれども、重なりを持たせているわけではないから、若干スリットが入ったように向こう側が透けて見える。屋根のことを考えてみれば、家の母屋を杮(こけら)葺きで葺いたときには、重なりを持たせているから雨漏りは起こらない。しかし、そこから張り出して作った廂・庇(ひさし)の部分は、屋根もぞんざいに作ってあるから、一応は雨を防げても完全とは言えない。雨を防ぐ目的よりも、日差しを防ぐために設けられていたようである。日差しが眼目だからヒサシ(廂・庇)というのであろう。よって、ミヅカキノはヒサシにかかる枕詞となっている。出雲大社は、瑞垣に屋根を付けるということをしている。発想の転換である。
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ニホという稲積みについては、技術革新の象徴であったのではないか。弥生時代、石包丁で穂首刈りされていた。穂首刈りした稲穂(穎稲)は、縄文時代以来、クリなどを貯蔵していたフラスコ状の土坑に納められていたとされている。古墳時代、鋸歯のついた鉄鎌が伝来して株ごと刈り取ることが始まった(注17)。その全体を結束し、地干しやハザ(稲架)などで乾燥させたあと稲積みにした。稲野1981.は、ニホという「稲干方式は他の方式で乾燥させた後に、一定の方法で集積し、乾湿の繰り返しを防ぎながら徐々に乾燥する方法である。」(99頁)とする。安定的な乾燥と貯蔵とに適っているのだから、有効な方式である。そして、必要な分だけ脱穀し、自給用に食べていった。租税分や商売分は、稲刈り後すぐに大忙しで脱粒し、俵(叺)に詰めて出荷してしまっている。その残りを積んでいる。なにしろ、脱粒、脱穀に手間ひまがかかる。千歯扱きはないから扱き箸や横槌やくるり棒を使い、唐箕がないから箕に大うちわなどを使って飛ばして選別した。摺り臼もないからもっぱら竪杵を使ってひたすら搗いた。現在も良く知られていることであるが、精米してから時間がたつと味は落ちる。乾燥しすぎるのは良くなく、かといって湿るとカビが生える。食べるときに食べる分だけ精米するのが、効率的にも実質的にも賢いといえる。よって、生産者である農家は、戦国時代のように刈り取ってまで持って行くような略奪の恐れがない限り、大量の米のすべてを一気に籾にして米倉に鍵をかけて仕舞う必要はなかった。ニホに積んでおいていいのならそうしておく。効率的である。
稲積みのニホの諸相をみると、さまざまな工夫が施されていることが知れる。地域により、時代により、さまざまな形態が行われていた。基本的には、真ん中に風通しをよくする空洞を設けながら稲束を上へ上へと円筒形に盛り積んで行く。最後に雨除けの笠を被せている。古語に、カヅク(被)である。カイツブリのニホがカヅク(潜)のと同じである。白川1995.に、「かづく〔潜(潛)〕」は、「「被(かづ)く」と同根の語で、もと頭上に物を載(の)せる意。」(234頁)とある。
枕詞のニホドリノ(鳰鳥)は、その性質から、「潜(かづ)く」や同音の「葛飾(かづしか)」にかかる。
鳰鳥の 潜く池水 情(こころ)有らば 君に吾が恋ふる 情示さね(万725)
鳰鳥の 葛飾早稲(わせ)を 饗(にへ)すとも その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも(万3386)
万3386番歌は、新嘗祭を示す歌として有名である。稲積み、水鳥、どちらのニホも、頭が水を突き抜ける事柄となっている。
稲積みのニホは稲束を盛ったものである。カイツブリのニホも、水鳥の先払い的な意味合いから、やはりモル(守)と感じられたかもしれない。子育てで卵を巣に置いたまま出掛けるときには、蓋(笠・傘・覆)を被せていた。また、雛が孵ってから羽が生えてきてもまだ小さいうちは、我が子を自分の身の上に乗せて運ぶようにして守っている。羽毛にくるまれて背負われている様は、ねんねこにくるまれ背負われた子守の姿に相同である。カイツブリはカモ類より小さく、さらに小さな子をおんぶしている。子どもの“おしん”が、赤ん坊をおんぶしながら教室をのぞき見ている風が思い出される。小さいからツム(粒)のようであり、赤子を積む「船舶(つむ)」(皇極紀元年八月)のようでもある。大型船に救命ボートが備えられているようにも見える。そして、櫂のような水掻きで掻いて進んでいる。
垣根のことをいうカクという語は、「懸(か)く」の名詞形とされている。白川1995.に、「かく〔掻〕」は、「「懸(か)く」「書く」「畫(か)く」など、みな同根の語である。」(210頁)とある。
大君の 八重の組垣 懸かめども 汝(な)を編ましじみ 懸かぬ組垣(紀90)
恋ひつつも 稲葉掻き別け 家居れば 乏(とも)しくあらず 秋の夕風(万2230)
カイツブリに見られたように、水掻きをもってオール(漕ぎ板)とすることは、先払いの役を担うことになる。侵入者を防ぐ垣根も、先払いと同じ役目を果たしている。そして、瑞垣で囲まれたなかにニホと同形の塔が建てられているところは、寺の伽藍内のことに同じという謂いらしい。出雲大社の瑞垣と寺の回廊とはよく似ている。稲積みのニホは、仏教とともに入ってきた新技術であったようである。
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また、秦造(はだのみやつこ)が祖(おや)・漢直(あやのあたひ)が祖と、酒を醸(か)むことを知れる人、名は仁番(にほ)、亦の名は須々許理(すすこり)等と、参ゐ渡り来たり。故、是の須々許理、大御酒(おほみき)を醸みて献りき。是に、天皇、是の献れる大御酒をうらげて、御歌に曰はく、
須々許理が 醸みし御酒に 我酔(ゑ)ひにけり 事無酒(ことなぐし) 笑酒(ゑぐし)に 我酔ひにけり(記49)(応神記)
応神記の「仁番(にほ)」という名は、稲積みのニホを意識している。新醸造技術の伝来は、稲の品種、栽培、収穫、保存、精米法においても新しかったということであろう。また、記のこの記事は、その前に、百済の国王が文物と人を「貢上(たてまつ)りき」とあり、さらに前に、「新羅の人、参(ま)ゐ渡り来たり」となっている。仁番は「参ゐ渡り来たり」となっている。すなわち、新羅から、自発的に、渡来したということを言っているのであろう(注18)。
臼で舂くことをして籾をとった。古代において、米は、常食する時には玄米で食べたと考えられている。ただし、酒に醸造する時はきちんと精米しようとする傾向があったと思われる。今日でも、精白歩合によって味に違いがあると知られている。うまい酒が飲みたければ、上手に精白しようとする。その精米作業のことをシラグ(精)という。銀舎利は白くしていくものだから、シラグといわれるのであろう。詳しくは後述するが、それを新羅からの渡来人が伝えている。米を白米として食べるようになったのは、それだけ生産力がついて余剰が生れたことを表すものでもあろう。精白することでお米の酒もおいしくなる。
(つづく)