顕宗記に、置目老媼の逸話が載る。真福寺本を底本として校勘した原文には次のとおりである(注1)。
此天皇求其父王市𨕙王之御骨時在淡海國賤老媼參出白王子御骨所埋者専吾能知亦以亭御齒可知御齒者如三枝押齒㘴也尒起民掘圡求其御骨即獲其御骨而於其蚊屋野之東山作御陵葬以韓帒之子䓁令守其御陵然後持上其御骨也故還上㘴而召其老媼譽其不失見貞知其地以賜名号置目老媼仍召入宮内敦廣慈賜故其老媼所住屋者近作宮𨕙毎日必召故鐸懸大殿戸欲召其老媼之時必到鳴其鐸尒作御歌其歌曰阿佐遅波良袁陁尒袁湏疑弖毛々豆多布奴弖由良久母淤岐米久良斯母於是置目老媼白僕甚耆老欲退夲國故随白退時天皇見送歌曰意岐米母夜阿布𫟈能淤岐米阿湏用理波𫟈夜麻賀久理弖𫟈延受加母阿良牟
真福寺本古事記・下巻「此天皇求其~加母阿良牟(─初天)」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1185390/1/30~31をトリミング結合)
これを次のように訓んでいる。
此の天皇、其の父王市辺王の御骨を求ぎたまひし時、淡海国に在る賤しき老媼参ゐ出でて白ししく、「王子の御骨を埋みし所は専ら吾能く知れり。亦以亭御歯可知」とまをしき 御歯は三枝の如く押歯に坐しき。爾くして、民を起して土を掘り、其の御骨を求ぐ。即ち、其の御骨を獲て、其の蚊屋野の東の山に御陵を作りて葬りて、韓帒が子等を以て其の御陵を守らしめき。然くして後に、其の御骨を持ち上りき。
故、還り上り坐して、其の老媼を召して、其の見失はず貞かに其の地を知れるを誉めて、名を賜ひて置目老媼と号けき。仍ち、宮の内に召し入れて、敦く広く慈しび賜ひき。故、其の老媼の住める屋は宮の辺に近く作りて、日毎に必ず召しき。故、鐸を大殿の戸に懸けて、其の老媼を召さむと欲ひし時は、必ず其の鐸を引き鳴しき。爾くして、御歌を作りたまひき。其の歌に曰はく、
浅茅原 小谷を過ぎて 百伝ふ 鐸響くも 置目来らしも(記111)
是に、置目老媼、白さく、「僕甚だ耆老いたり。本国に退らむと欲ふ」とまをす。故、白す随に退る時に、天皇見送りて歌ひて曰はく、
置目もや 淡海の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ(記112)(顕宗記)
置目という老女が、よく市辺王の遺骸を埋めたところを覚えていたので、でかしたということから厚遇したと言っている(注2)。話(咄・噺・譚)は一話完結である。
記の原文中に難訓箇所がある。第一に、「亦以亭御歯可知」とある部分、「亭」は兼永本によって「其」と改められていることが多い。「亦、其の御歯を以て知る可し」と訓んでわかりやすいと思われるからである。話の主題は、顕宗天皇が、虐殺された父親の市辺王の「御骨」を探すことに始まっている。「御骨」の在り処、「所レ埋」を知っていると「老媼」が名乗り出ている。そして、その「御歯」で識別すればいいと語っていることになっている。理解しやすい展開であるが、面白みに欠ける。「老媼」の言うように探し掘ってみて、いろいろ出てきた遺骨のうち、「御歯」が「三枝」状のものを忍歯王のそれと断定したという話になってしまう。遺骨収集団の判定委員のことを語っても仕方があるまい。
この文章は、次の「即獲二其御骨一而、於二其蚊屋野之東山一、作二御陵一、葬以二韓帒之子等一令レ守二其陵一、然後持二‐上其御骨一也」にどのようにつながっているのか。御陵を作って葬ったのに、どうしてその後、「御骨」を「持上」しているのか、今日までの解釈では完全な理解には至らない。「御骨」と「御歯」との関係性は洗い直す必要がある。
割注に「御歯者如二三枝一押歯坐也」とある。「御歯は、三枝の如く押歯なり。」とある。この「三枝」については、ミツマタ、ヤマユリ、チンチョウゲ、フクジュソウなど諸説あるものの、ミツマタが有力視されてきた。忍歯王のオシハという名は、オソハ(齵)に由来するというのである。和名抄に、「齵歯 蒼頡篇に云はく、齵〈五溝反、又、音は隅、齵歯は於曽波〉は歯の重ねて生ずるなりといふ。」とある。名前の由来はそのとおりであろう(注3)が、さほど興味をそそられるものではなく、わざわざ施注した理由は不明である。すでに忍歯王という名は誰にしも認められ知られている。「老媼」が名乗り出なくても、天皇の勢力を使って蚊帳野を隈なく掘り返していけばいずれ発見できる。数ある遺骨の中から乱杭歯を選択すれば、それが忍歯王のものであると断定できる。そんな人海作戦をせずに見つける方法を尋ねたとき、老媼がここです、と言っている。それが話の肝であろう。すなわち、遺骨の在り処が一目でわかるものがあり、ここ、この下です、と言っているのである。その目印が、「三枝」であると言っている。
そう考えると、地上に「三枝」状のものがあったということになる。植物は、それが巨樹名木のようなもの以外見分けがつかない。野のどこかに限られることなく生えている。真福寺本に従うなら、「老媼」が奏上しているのは、「王子御骨所レ埋者、専吾能知。亦以レ亭御歯可レ知」である。これだけですべてが通じている。割注の「御歯者如二三枝一押歯坐也」は、言っている「御歯」にのみかかる説明である。つまり、「亭」があるところ、それが「王子御骨所レ埋」であると言っている。「亭」とはアヅマヤである。
攬翠亭(瀋秀園、株式会社石勝エクステリア「大師公園」HP、http://www.iei-kouen.jp/daishikouen/item_list2.html)
アヅマヤ(亭、東屋、四阿)は庭園などに配される屋根のついた休憩所である。日差しやにわか雨をしのぎ、腰かけられるようになっている。その造りは、隅に柱を建て、屋根はそこから弦をなして中央の真束に互いにもたれかかるようになっていて、真束は互いの力で宙ぶらりんの状態のまま浮いている。四角い造りをしていたとすると、その四角い屋根には隅木が四本あるのが基本である。「四枝」であるから「三枝」に近い形状をしていると言える。八重歯の部分の三本が残り、周囲の歯が虫歯などで欠落していたら、なにゆえそれらばかりが宙に浮くように残っているのか不思議な思いを致したであろう。アヅマヤの屋根の不思議さに通じている(注4)。
そして、我々は「二枝」のものをよく知っている。蚊屋野へ狩りに行った時の獲物から作ることができる鹿杖である。置目老媼が話に絡んでいるのは、姿が枝分かれを暗示しているからである。すなわち、「亭」の「四枝」と「老媼」がつく逆Y字形の杖の「二枝」の間に、「三枝」なる忍歯王の御骨は埋められているらしいとわかる。みごとな修辞である。
四阿(東屋)の天井
鹿杖(左:板橋貫雄模、春日権現験記絵・第9軸、明治3年(1870年)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287494/5)をトリミング、中:一遍聖絵模本・巻十一、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591583/32)をトリミング、右:志貴山縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574278/12をトリミング)
淡海国に在る賤しき老媼参ゐ出でて白ししく、「王子の御骨を埋みし所は専ら吾能く知れり。亦、亭を以て御歯を知るべし」とまをしき。 御歯は三枝の如く押歯に坐しき。
「亭」付近に忍歯王は埋められている。押歯に因んで「亭」が建てられている、と主張している。まことに頓智がきいていて、至極尤もな言い分である。忍歯王は雄略天皇(大長谷王子)に殺害された。その方法は、「矢を抜き其の忍歯王を射落して、乃ち亦、其の身を切り、馬樎に入れて土と等しく埋めき。」(安康記)と淡々と記されている。「馬樎に入れて土と等しく埋めき。」が、屋根を持った厩ばかりか養蚕小屋を導いていたことがわかる(注5)。
「埋」字について、筆者はウムという動詞にとっている。安康記に、馬樎を地面と同じ高さになるようにパカっと嵌めたと解釈している。通訓のウヅムとする訓は、ここからも誤りであることがわかる。真束に隅木をパカっと嵌める感が求められているからである。パカっという音は馬の馳せる音でもある。馬を飼うにも蚕を飼うにも、雨ざらしではどうにもならない。その点で、大長谷王子のとった忍歯王の埋葬方法は、死者を冒涜するものとは言い切れず、それなりの配慮が行なわれていたと考えられなければならない。
結局のところ、そこから改葬して「於其蚊屋野之東山作御陵葬」している。なぜ「東」にしたのか。それは、四阿(東屋)に落ち着いていたものだったからそれにふさわしくアヅマなる方向、「東」に定めている。「御陵」として形にしたいから、「山」を活用している。「以二韓帒之子等一、令レ守二其陵一」と相成ったのは、「韓帒」が「幹袋」の謂いで、ミソサザイの巣のことを示していたからである。ヤマトコトバにサザキ(鷦鷯、陵)と一語なるが故、ミソサザイの巣と前方後円墳とは相似的に考えられているわけである(注6)。
平城宮跡造酒司井戸跡パネル(賃貸のマサキ様「奈良ゴコロ」造酒司井戸跡(平城宮跡)https://www.chinmasa.com/spot/result29201/cate0315/detail3494675/をトリミング)
そんな「亭」式の屋根を必要とした施設としては掘り井戸がある。平城宮址の造酒司の井戸には屋根が付いていたと考えられている。仮に蚊屋野に井戸が掘られていたとする。その時、「亭」の真ん中に井戸枠があったとは考えにくい。なぜなら、野だからである。水がかりが悪いところが野である。地下水は地面から深いところにある。車井戸であったとしても汲み上げにくい。周りに障害物などないとすれば、撥ね釣瓶式の井戸が設けられていたと考えられる(注7)。支柱には、Y字形の棒が立てられ、その股のところに横竿がまたがるように作りつけられる。四枝の「亭」と二枝の撥ね釣瓶の支柱があり、その間に「三枝」なる特徴の「御歯」をした「御骨」は埋められている。とてもわかりやすい構図である。
撥ね釣瓶(左:大蔵永常他・農具便利論、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536574/30、右:東大寺湯屋)
井戸枠にすっぽりパカっと嵌るように「馬樎」が入れ込まれている。そして、「与レ土等埋」としていた。井戸の水があるべきところに「馬樎」のプールがあって、残念ながら忍歯王の身が切られて入っていて、土が平らに均されている。もはや水場ではなくなっている。たとえ退かせたとしても、長らく使わずに井戸浚えもせず、「馬樎」の中から血や腐敗した液が落ちていれば、井戸はもはや役に立たない。廃棄されるべきである。
四角い井戸枠(Saigen Jiro様「雷丘東方遺跡出土 井戸枠 明日香村埋蔵文化財展示室展示。」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/雷丘)
馬模型と四角い飼い葉桶(川崎市立日本民家園旧工藤家住宅内展示物)
そこで、御陵に「亭」の材木や「馬樎」の材木を埋めて記念塚にした。五行思想で木火土金水のうち木は東に当たる。その点でも、蚊屋野の東に御陵は造られていて齟齬はない。そして、「御骨」を「持上」ることになっている。「於二其蚊屋野之東山一、作二御陵一葬」したのに、どうして「御骨」を埋葬しなかったのか。なぜここに、「作二御陵一葬二御骨一」と書いていないのか。御陵に遺骨を葬らないはずはないのであるが、何か思惑があって「持上」ることにしている。それまで「持上」げていたものは何か。撥ね釣瓶の桶、古くは大きな甕が利用されていた。それである。「御骨」に当たるミカ(御甕)+バネ(撥ね)を「持上」げていたから、都へ帰るにあたり、井戸は閉じられたが撥ね釣瓶の御甕は持ち帰ってきたということになる(注8)。話としてとてもよくできている。
被籠式釣瓶(籠付き土器、高26.0cm、滋賀県守山市下之郷遺跡、弥生時代、1世紀、守山市教育委員会蔵、守山市教育委員会「歴史のまち守山」http://moriyama-bunkazai.org/shimonogo/contents02/)
第二の難訓箇所、真福寺本の「必到鳴其鐸」は、兼永本により「必引鳴其鐸」に改められている。この個所については、話の中心部分の訓みにくいところと関連がありそうである。「故還上㘴而召其老媼譽其不失見貞知其地以賜名号置目老媼」を「故、還上坐而、召二其老媼一、誉三其不レ失レ見、貞知二其地一以、賜レ名号二置目老媼一。」と読む際に、「不失見」を「見失はず」は字順がおかしいとされている(注9)。
「不失見」は、「不レ失レ見」の形と思われる。見たことを失わなかった、というのである。見たら誰でも覚えているだろうと考えるのは、「置目」という命名譚と矛盾する。すなわち、その老媼は、目が不自由になってしまっていたのである。そのとき、「鹿杖」の存在が際立ってくる。老いて失明していたが、その場所についてははっきりと記憶していた。だから、「貞知二其地一以、賜レ名号二置目老媼一。」なのである。貞かに、ないしは、貞しく知っていた。失明していなければ今でも何かを見ていて、昔のことは忘れてしまったかもしれないのに、過去の出来事に「目」という機能を「置」いてきたから覚えているということになる。他の「耆宿」(顕宗紀元年二月)たちは、以後もいろいろなことを見てきたから、昔のことはおぼろげになっていて、細かいことは忘れてしまっていた。そういう命名として「置目老媼」という名はある。なぜ「目」を「置」いてきたのか。忍歯王の殺害を目にしてショックだったからである。紀には、「詔畢、与二皇太子億計一、泣哭憤惋、不レ能二自勝一。……臨レ穴哀号、言深更慟。自レ古以来、莫二如斯酷一。」(顕宗紀元年二月~是月)とある。天皇や皇太子と同じ思いをしていたと知れるのである。だから「貞」で正しく、それを「置」とする鼇頭古事記は賢しらごとであるとわかる。
盲目の女性姿(西行物語写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541035/6をトリミング)
目が不自由なのだから、「召二-入宮内一、敦広慈賜」した場合、「其老媼所レ住屋者、近二‐作宮辺一」にしてあげたくなる。そして、「毎レ日必召」ことになったら、「鐸懸二大殿戸一」をしておいて、視覚的な合図ではなく、聴覚的な合図である鈴の音で知らせればいいから、「欲レ召二其老媼一之時、必到二‐鳴其鐸一」としたのである。紀には、「伶俜羸弱、不二‐便行歩一。宜張レ縄引絚、扶而出入。縄端懸レ鐸、無レ労二謁者一。入則鳴レ之。」とある。紀では必ずしも「老嫗置目」を目が不自由であるとはしていないが、ロープ伝いに参内すれば、鐸が鳴るからそれが正しい道であることはわかることになる。同様の表現であると捉えれば、記の字面は、真福寺本どおりに、「必到鳴其鐸」で正しいと再確認される。
その際、「必」をどのように訓むかが問われる。記の「必」字については、会話文では「必ず……む」、「必ず……じ」と推量の助動詞を読み添えて訓まれるはずであると考えられている(注10)。筆者は、この読み添え式の訓み方は、会話文に限られるものではないと考える。地の文でも、必ずそうなるだろうという推量、必ずそうしようという意志を示していると仮説したい。ここでは、いずれも「故」という原因理由を述べる文に「必」が現れている。だから、必ず……になるようになっているのだよ、と語っており、それは地の文だから客観的な立場からの物言いである。客観的にみて、必ずそうなるようになっていると捉えられている。したがって、連語の形の「むとす」がふさわしい(注11)。日本国語大辞典の「むとす」の項に、「すぐに実現しそうな事態の予想・推量、話し手の決意などを、客観的な立場から表わす。…しようとしている。…しようと思う。んとす。」(⑫1007頁)とある。世の中は、一番偉い人を中心に回っていることになっているから、天皇の意向を述べておけばそれが客観的であるということになる。天皇中心の予定調和が地の文に反映している。
仍ち、宮の内に召し入れて、敦く広く慈しび賜ひき。故、其の老媼の住める屋は、近く宮の辺に近く作りて、日毎に必ず召さむとす。故、鐸を大殿の戸に懸けて、其の老媼を召さむと欲ひし時、必ず其の鐸に到り鳴さむとす。
宮殿近くに居所を作ってあげて、毎日のように呼び寄せることができるようにしておいた、という物言いには天皇の意志が感じられる。「毎レ日必召」を「日毎に必ず召す。」と訓む文章があり得ないのは、顕宗天皇は介護事業者ではないからである。毎日のように呼び寄せようとしていたというだけで、実際に毎日呼び寄せるはずはなく、置目老媼としても台風や大雪の日に呼ばれたら、いくら近いとは言ってもたまったものではない。そういう環境を整えておいたということを言っている。阿吽の呼吸の間柄で、天皇が呼び寄せたければ召すことになるし、置目老媼のほうも行きたくなったら参内してかまわないという仲のことである。「鐸懸二大殿戸一」となっていれば、天皇が呼びたければロープを揺すって鳴らせばいいし、置目老媼が行きたくなって近づいたらロープに触れて鳴ることになる。一般民である置目老媼のほうから天皇を訪問することは、奏上事などないのだから本来ならあってはならない。だから、置目老媼が行きたくなって参内したら、それはすなわち、天皇が呼んだことにしておくようとしておいた、ということである。天皇の意志として、必ずそうなるようにしようとしたのである。訓は、「必ず其の鐸に到り鳴さむとす。」である。鳴らす、の意の上代語は、四段活用の「鳴す」である。
…… 竹の い組竹節竹 本辺をば 琴に作り 末辺をば 笛に作り 吹き鳴す ……(紀97)
話の終わりに置かれたニの歌については、当たり前のことをただ伝えているにとどまるもののようである。記111歌謡においては、三句目までは四句目を導く序であり、ほぼ意を成さない。四・五句で、鐸を揺らして置目が来るらしい、と歌っているのは、天皇が呼んだから来たのか、置目が自ら来たのか、不透明にできるからである。この両者の自己が溶解的な関係に至っている点こそ、「敦広慈賜」したことの証である。当初、押歯王の死について、失明するほどに御子らの気持ちとまったく同じで溶解的だったことを表している。記112歌謡は、置目が見えなくなると歌っていて、置目が盲目であったことを掛けて一話を結んでいる。
浅茅原 小谷を過ぎて 百伝ふ 鐸響くも 置目来らしも(記111)
置目もや 淡海の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ(記112)
以上、古事記の置目説話について考察した(注12)。
(注)
(注1)現在の注釈書の校訂と異なるところもある。以下に読解する。
(注2)この話の後に、大長谷王から逃れる際に御粮を奪った猪甘の老人を探し出し、責める記述が載っている。そのため、それら「二つの話の対比に注目したい。」(新編全集本古事記365頁)とする解釈が行なわれている。
(注3)倉塚1986.は、「忍歯王の名が必ずしも特徴的な歯にちなんだものではない」(268~269頁)とし、「口誦言語と文字言語の接点において誕生した説話だった。」、「細註は本文にもとづきつつ、話を、言語音の転換という一般的パターンに還元したということになる。」(269頁)としている。この議論には無理がある。オシハを忍歯と書いたから歯のことに気が向かったというのでは、ヤマトコトバのハという言葉(音)の意(刃・端・歯・葉)について、無文字に暮らした人が鈍感であったということになってしまう。「歯」はヤマトコトバであって、漢字の音読みではない。そして、名は名づけられることによって作られている。オシハと名づけられたその時点で、人々が皆納得して共通認識となったから名として自立し得るのである。名の本性は綽名に宿っている。オシハと呼ばれたということは、オシハ的な性格が人々の間でわかち合えたということであり、それはとりもなおさず、特徴的な歯並びをしていたということに他なるまい。
(注4)DIYヘルパー チャレンジ永井様「とっても気になる四阿(東屋)」http://diyhelper.jp/azuma/azuma1.htm参照。物理的、工学的に何の疑問もないと頭で考えてしまい、ありのままの特徴を見て不思議がる気持ちを忘れてはならない。
(注5)拙稿「忍歯王暗殺事件について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ac09eb7fc267c5788c72d82e8cce9d60参照。
(注6)拙稿「仁徳天皇の名、オホサザキの秘密」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2e714256fd4daffbf3ca09aa1f5c04b4
(注7)古代に、撥ね釣瓶が行なわれていたか、また、なかったか、証明されてはいない。中国では荘子によく知られた話が載る。「子貢、楚に南遊し、晋に反らんとして漢陰を過ぎ、一丈人の方将に圃畦を為らんとするを見るに、隧を鑿ちて井に入り、甕を抱きて灌を出で、搰搰然として力を用ゐること甚だ多くして功を見ること寡なし。子貢曰く、「此に械有り、一日に百畦を浸す。力を用ゐること甚だ寡くして功を見る事多し、夫子欲せざるか」と。圃を為る者、仰ぎて之れを視て曰く、「奈何」と。曰く、「木を鑿ちて機を為り、後は重くして前は軽くし、水を挈ぐること抽るるが若く、数きこと湯の泆るるが如し、其の名を槹と為」と。圃を為る者忿然として色を作して笑ひて曰く、「吾、之れを吾が師に聞けり、機械有る者は必ず機事有り、機事有る者は必ず機心有り、機心胸中に在れば則ち純白備はらず、純白備はらざれば則ち神生定らず。神生定らざる者は道の載せざる所なりと。吾、知らざるに非ず、羞ぢて為らざるなり」と。子貢瞞然として慚ぢ、俯きて対へず。」(荘子・天地篇)。
(注8)甕が釣瓶に使われていたことは確かめられている。鐘方2003.に次のようにある。「最近まで日本で使用されていた釣瓶は、結桶でつくられたものがほとんどである。しかし、中世以前には素焼きの土器(おもに甕や壺)や刳り物容器、曲物が長らく利用されていた。刳り物容器の多くは木製であるが、他に瓢箪などが使用された可能性も十分にある。
(図13)
土器を釣瓶として利用する場合、その頸部に藁縄紐を巻き付けて使用する例(頸部巻き付け式)、蔓などの編物で外面を被いこれに縄紐を付けて使用する例(被籠式)、穿孔または耳を貼り付けて縄紐を通し使用する例(穿孔通紐式・附耳通紐式)、土器内部に入れた棒の中央に縄紐を結び付け、それを内部に引っ掛けて釣り上げる例(内釣り式)の4種の方法が中国で認められている(図13)。またそれら以外に、釣り手を付けて汲み上げる釣り手式の方法が桶などの木製容器において行われた(南京博物院・呉県文管会1985)。日本でも同様の方法が行われていただろう。……弥生時代中期以降に井戸の確認例が増加し、釣瓶の出土例も散見できるようになる。土器釣瓶には、釣瓶縄を直接頸部に巻き付けるもの(頸部巻き付け式)と籠で覆ってそれに釣瓶縄を取り付けるもの(被籠式)の両方が認められる。……土器が釣瓶として使用されたのは、土師器甕がなくなる平安時代頃までではなかろうか。」(25~31頁)。
(注9)新編全集本古事記では、「「見しことを失れず」と読んでおく。」(363頁)としている。倉塚1986.に、「「置」でなければ「置目老媼」と号けたという話柄は生きてこない。」(264頁)、西郷2006.に、「断固として「置」であり、……「記伝」の説に従うべきである。さもなければ、この老女をほめて置目老媼と名づけたゆえんが不明に帰する。」(153頁)とする。
(注10)思想大系本古事記訓読補注に、23例あるなか15例が会話文中で呼応して訓まれるとしている。ほかにも数例、会話文と思われるものがあるので含めて示す。
「我がなせの命の上り来る由は、必ず善き心あらじ。……」(記上)
「……汝が身、本の膚の如く必ず差えむ。」(記上)
「此の八十神は、必ず八上比売を得じ。……」(記上)
「……若し待ち取らずは、必ず汝を殺さむ。」(記上)
「……必ず其の大神、議らむ。」(記上)
「此は、久延毘古、必ず知らむ。」(記上)
「……必ず国つ神の子ならむ。」(記上)
「……故、必ず是を取りつらむ。」(記上)
「……為然ば、吾、水を掌るが故に、三年の間、必ず其の兄、貧窮しくあらむ。……」(記上)
「……必ず是の表に有らむ。」(垂仁記)
「凡そ子の名は、必ず母の名けむを、何にか是の子の御名を称はむ。」(垂仁記)
「我が宮を天皇の御舎の如く修理めば、御子、必ず真事とはむ。」(垂仁記)
「……汝、必ず是の牛を飲食かむ。」(応神記)
「……彼の時に、吾、必ず相言はむ。」(履中記)
「……若し兵を及らば、必ず人咲はむ。……」(允恭記)
「……亦、今は志毘、必ず寝ねたらむ。……」(清寧記)
「父王の仇を報いむと欲はば、必ず悉く其の陵を破壊らむ。……」(顕宗記)
「……是に今単に父の仇の志を取りて、悉く天下を治めし天皇の陵を破らば、後の人、必ず誹謗らむ。……」(顕宗記)
これらの例のなかには、「必ず」の前に、「もし(若)」といった条件句を据えているものがあり注目される。すなわち、「必ず」は、論理包含(implication)にかかる語のようである。そこで筆者は、会話文中に限らず全般にわたって、「必ず……む」、「必ず……じ」と訓むものと考える。白川1995.に、「かならず〔必〕 おろそかのことでなく、その結果が定まって実現することをいう。……例外なくという、否定的な形の語である。活用語の未然形に打消しの「ず」がつづく形で、「かならじ」という述語の形もみえる。」(238頁)とある。漢文訓読文を中心に、さらに強めた「必ずや」という言い方もあるが、その場合も、きっと……するだろう、確実に……するだろう、の意である。カナラズが必然、必定を表わすなら、その言葉は実は要らない。「さあ、仕事しよう。」は、今現在やっていないから発する言葉である。わざわざ「必ず」と付けているのは、P→Qの前件に不確かさを含み、後件に推量や意志が見え隠れしていると言えるのではないか。
(注11)地の文においても「必」は「必ず……む」、「必ず……じ」の意味合いであり、さらなる訓み添えが必要である。記の地の文にある「必」は次のニ例である。
是以、一日必千人死、一日必千五百人生也。(記上)
是以、至今其子孫、上於倭之日必自跛也。(顕宗記)
第一例を「是を以て、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生るるぞ。」、第二例を「是を以て、今に至るまで其の子孫、倭に上る日に必ず自づから跛ぐぞ。」などと訓まれている。「必」が必然、必定の意のままであるなら、前者の例では統計的に500人/日で人口が増えていっているデータがあり、後者の例にある猪甘の子孫はヤマトへ上京することができずに整形外科が繁盛していたということになってしまうが、そういった事実は見られない。いずれの例も、「是以……日必……也。」という総括の形をとっている。推量するに前件に述べたことがらを踏まえて今に当たるとそういうことになる、と言っているにすぎない。だから、「必」には、「む」という推量の助動詞を添えて訓むのが適当なのである。「かなる」という語幹をした仮想語の未然形に、打消しの「ず」がつづいている本義にも合致する。そして、助動詞「む」を強調したいがために「也」と付いていると考えられる。推量、意志の強意した形は、連語の「むとす」に見られる。地の文で「む」が使われる使われ方とは、「むとす」の形をとることで客観的な立場からの物言いであるとわかる。
狭井河よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす(記20)
是を以て、一日に必ず千人死なむとし、一日に必ず千五百人生れむとす。(記上)
是を以て、今に至るまで其の子孫、倭に上る日に必ず自づから跛がむとす。(顕宗記)
なお、思想大系本古事記は、「日毎に必ず召さむトす。」(289頁)と訓んでいる。
(注12)顕宗紀に所載の置目説話は、大枠では違いはないが、細かい点に違いがある。亡き父市辺押磐皇子の遺骨が帳内の佐伯部売輪、別名、仲手子(仲子)のそれと混じっていたこと、彼の歯は上の歯がなかったことで分けようとしたがしきれず、ニつの陵墓を同じように作って同様の葬儀を行ったこと、宮殿の近くに老嫗置目を住まわせたが歩行が難しいと訴えたので点字ロープを張って鐸が鳴るようにしておいた、という話になっている。
ニつ陵墓を作った点については、一人に一つずつ墓を作ることが望まれていた上代の思想を反映している。神功紀元年二月条に「阿豆那比の罪」として明示されている。昼が夜のように暗いことが続き、当時の人が「常夜行く」と呼んだ災禍があった。原因は、小竹祝と天野祝のニ人を合葬していたのは良くないことでだから、別々にしたという話である。拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ceb99a8b6b28f3929182489b7d106226参照。
二月の戊戌の朔壬寅に、詔して曰はく、「先王、多難に遭離ひて、荒郊に殞命りたまへり。朕、幼年に在りて、亡逃げて自ら匿れたり。猥げて求め迎へられて、大業に升纂げり。広く御骨を求むれども、能く知りまつれる者莫し」とのたまふ。詔畢りて、皇太子億計と、泣ち哭き憤惋みて、自ら勝ふること能はず。
是の月に、耆宿を召し聚へて、天皇、親ら歴め問ひたまふ。一の老嫗有りて、進みて曰さく、「置目、御骨の埋める処を知れり。請ふ、以て示せ奉らむ」とまをす。置目は、老嫗の名なり。近江国の狭狭城山君の祖倭帒宿祢の妹、名を置目と曰ふ。下の文に見ゆ。是に、天皇と皇太子億計と、老嫗婦を将て、近江国の来田絮の蚊屋野の中に幸して、掘り出して見たまふに、果して婦の語の如し。穴に臨みて哀号びたまひ、言深に更慟ひます。古より以来、如斯る酷莫し。仲子の尸、御骨に交横りて、能く別く者莫し。爰に磐坂皇子の乳母有り。奏して曰さく、「仲子は、上の歯堕落ちたりき。斯れ)を以て別くべし」とまをす。是に、乳母のまをすに由りて、髑髏を相別くと雖も、竟に四支・諸骨を別くこと難し。是に由りて、仍蚊屋野の中に、双陵を造り起てて、相似せて如一なり。葬儀異なること無し。老嫗置目に詔して、宮の傍の近き処に居らしむ。優崇め賜卹みたまひて、乏少無からしむ。
是の月に、詔して曰はく、「老嫗、伶俜へ羸弱れて、行歩くに不便ず。縄を張りてき引き絚して、扶りて出入づべし。縄の端に鐸を懸けて、謁者に労ること無かれ。入りては鳴せ。朕、汝が到るを知らむ」とのたまふ。是に、老嫗、詔を奉りて、鐸を鳴して進む。天皇、遥に鐸の声を聞しめして、歌して曰はく、
浅茅原 小确を過ぎ 百伝ふ 鐸ゆらくもよ 置目来らしも(紀85)(顕宗紀元年二月)
九月に、置目、老い困びて、還らむと乞して曰さく、「気力衰へ邁ぎて、老い耄れ虚け羸れたり。要仮縄に扶るとも、進み歩くこと能はず。願はくは、桑梓に帰りて、厥の終を送らむ」とまをす。天皇、聞こしめし惋痛みたまひて、物千段賜ふ。逆め路を岐れむことを傷みて、重ねて期ひ難きを感きたまふ。乃ち歌賜ひて曰はく、
置目もよ 淡海の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ(紀86)(顕宗紀二年九月)
(引用・参考文献)
鐘方2003. 鐘方正樹『井戸の考古学』同成社、2003年。
倉塚1986. 倉塚暉子『古代の女─神話と権力の淵から─』平凡社、1986年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第七巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第十二巻』小学館、2001年。
※本稿は、2020年7月稿を2024年8月に手を入れ、ルビ形式にしたものである。
此天皇求其父王市𨕙王之御骨時在淡海國賤老媼參出白王子御骨所埋者専吾能知亦以亭御齒可知御齒者如三枝押齒㘴也尒起民掘圡求其御骨即獲其御骨而於其蚊屋野之東山作御陵葬以韓帒之子䓁令守其御陵然後持上其御骨也故還上㘴而召其老媼譽其不失見貞知其地以賜名号置目老媼仍召入宮内敦廣慈賜故其老媼所住屋者近作宮𨕙毎日必召故鐸懸大殿戸欲召其老媼之時必到鳴其鐸尒作御歌其歌曰阿佐遅波良袁陁尒袁湏疑弖毛々豆多布奴弖由良久母淤岐米久良斯母於是置目老媼白僕甚耆老欲退夲國故随白退時天皇見送歌曰意岐米母夜阿布𫟈能淤岐米阿湏用理波𫟈夜麻賀久理弖𫟈延受加母阿良牟
真福寺本古事記・下巻「此天皇求其~加母阿良牟(─初天)」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1185390/1/30~31をトリミング結合)
これを次のように訓んでいる。
此の天皇、其の父王市辺王の御骨を求ぎたまひし時、淡海国に在る賤しき老媼参ゐ出でて白ししく、「王子の御骨を埋みし所は専ら吾能く知れり。亦以亭御歯可知」とまをしき 御歯は三枝の如く押歯に坐しき。爾くして、民を起して土を掘り、其の御骨を求ぐ。即ち、其の御骨を獲て、其の蚊屋野の東の山に御陵を作りて葬りて、韓帒が子等を以て其の御陵を守らしめき。然くして後に、其の御骨を持ち上りき。
故、還り上り坐して、其の老媼を召して、其の見失はず貞かに其の地を知れるを誉めて、名を賜ひて置目老媼と号けき。仍ち、宮の内に召し入れて、敦く広く慈しび賜ひき。故、其の老媼の住める屋は宮の辺に近く作りて、日毎に必ず召しき。故、鐸を大殿の戸に懸けて、其の老媼を召さむと欲ひし時は、必ず其の鐸を引き鳴しき。爾くして、御歌を作りたまひき。其の歌に曰はく、
浅茅原 小谷を過ぎて 百伝ふ 鐸響くも 置目来らしも(記111)
是に、置目老媼、白さく、「僕甚だ耆老いたり。本国に退らむと欲ふ」とまをす。故、白す随に退る時に、天皇見送りて歌ひて曰はく、
置目もや 淡海の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ(記112)(顕宗記)
置目という老女が、よく市辺王の遺骸を埋めたところを覚えていたので、でかしたということから厚遇したと言っている(注2)。話(咄・噺・譚)は一話完結である。
記の原文中に難訓箇所がある。第一に、「亦以亭御歯可知」とある部分、「亭」は兼永本によって「其」と改められていることが多い。「亦、其の御歯を以て知る可し」と訓んでわかりやすいと思われるからである。話の主題は、顕宗天皇が、虐殺された父親の市辺王の「御骨」を探すことに始まっている。「御骨」の在り処、「所レ埋」を知っていると「老媼」が名乗り出ている。そして、その「御歯」で識別すればいいと語っていることになっている。理解しやすい展開であるが、面白みに欠ける。「老媼」の言うように探し掘ってみて、いろいろ出てきた遺骨のうち、「御歯」が「三枝」状のものを忍歯王のそれと断定したという話になってしまう。遺骨収集団の判定委員のことを語っても仕方があるまい。
この文章は、次の「即獲二其御骨一而、於二其蚊屋野之東山一、作二御陵一、葬以二韓帒之子等一令レ守二其陵一、然後持二‐上其御骨一也」にどのようにつながっているのか。御陵を作って葬ったのに、どうしてその後、「御骨」を「持上」しているのか、今日までの解釈では完全な理解には至らない。「御骨」と「御歯」との関係性は洗い直す必要がある。
割注に「御歯者如二三枝一押歯坐也」とある。「御歯は、三枝の如く押歯なり。」とある。この「三枝」については、ミツマタ、ヤマユリ、チンチョウゲ、フクジュソウなど諸説あるものの、ミツマタが有力視されてきた。忍歯王のオシハという名は、オソハ(齵)に由来するというのである。和名抄に、「齵歯 蒼頡篇に云はく、齵〈五溝反、又、音は隅、齵歯は於曽波〉は歯の重ねて生ずるなりといふ。」とある。名前の由来はそのとおりであろう(注3)が、さほど興味をそそられるものではなく、わざわざ施注した理由は不明である。すでに忍歯王という名は誰にしも認められ知られている。「老媼」が名乗り出なくても、天皇の勢力を使って蚊帳野を隈なく掘り返していけばいずれ発見できる。数ある遺骨の中から乱杭歯を選択すれば、それが忍歯王のものであると断定できる。そんな人海作戦をせずに見つける方法を尋ねたとき、老媼がここです、と言っている。それが話の肝であろう。すなわち、遺骨の在り処が一目でわかるものがあり、ここ、この下です、と言っているのである。その目印が、「三枝」であると言っている。
そう考えると、地上に「三枝」状のものがあったということになる。植物は、それが巨樹名木のようなもの以外見分けがつかない。野のどこかに限られることなく生えている。真福寺本に従うなら、「老媼」が奏上しているのは、「王子御骨所レ埋者、専吾能知。亦以レ亭御歯可レ知」である。これだけですべてが通じている。割注の「御歯者如二三枝一押歯坐也」は、言っている「御歯」にのみかかる説明である。つまり、「亭」があるところ、それが「王子御骨所レ埋」であると言っている。「亭」とはアヅマヤである。
攬翠亭(瀋秀園、株式会社石勝エクステリア「大師公園」HP、http://www.iei-kouen.jp/daishikouen/item_list2.html)
アヅマヤ(亭、東屋、四阿)は庭園などに配される屋根のついた休憩所である。日差しやにわか雨をしのぎ、腰かけられるようになっている。その造りは、隅に柱を建て、屋根はそこから弦をなして中央の真束に互いにもたれかかるようになっていて、真束は互いの力で宙ぶらりんの状態のまま浮いている。四角い造りをしていたとすると、その四角い屋根には隅木が四本あるのが基本である。「四枝」であるから「三枝」に近い形状をしていると言える。八重歯の部分の三本が残り、周囲の歯が虫歯などで欠落していたら、なにゆえそれらばかりが宙に浮くように残っているのか不思議な思いを致したであろう。アヅマヤの屋根の不思議さに通じている(注4)。
そして、我々は「二枝」のものをよく知っている。蚊屋野へ狩りに行った時の獲物から作ることができる鹿杖である。置目老媼が話に絡んでいるのは、姿が枝分かれを暗示しているからである。すなわち、「亭」の「四枝」と「老媼」がつく逆Y字形の杖の「二枝」の間に、「三枝」なる忍歯王の御骨は埋められているらしいとわかる。みごとな修辞である。
四阿(東屋)の天井
鹿杖(左:板橋貫雄模、春日権現験記絵・第9軸、明治3年(1870年)、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287494/5)をトリミング、中:一遍聖絵模本・巻十一、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591583/32)をトリミング、右:志貴山縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574278/12をトリミング)
淡海国に在る賤しき老媼参ゐ出でて白ししく、「王子の御骨を埋みし所は専ら吾能く知れり。亦、亭を以て御歯を知るべし」とまをしき。 御歯は三枝の如く押歯に坐しき。
「亭」付近に忍歯王は埋められている。押歯に因んで「亭」が建てられている、と主張している。まことに頓智がきいていて、至極尤もな言い分である。忍歯王は雄略天皇(大長谷王子)に殺害された。その方法は、「矢を抜き其の忍歯王を射落して、乃ち亦、其の身を切り、馬樎に入れて土と等しく埋めき。」(安康記)と淡々と記されている。「馬樎に入れて土と等しく埋めき。」が、屋根を持った厩ばかりか養蚕小屋を導いていたことがわかる(注5)。
「埋」字について、筆者はウムという動詞にとっている。安康記に、馬樎を地面と同じ高さになるようにパカっと嵌めたと解釈している。通訓のウヅムとする訓は、ここからも誤りであることがわかる。真束に隅木をパカっと嵌める感が求められているからである。パカっという音は馬の馳せる音でもある。馬を飼うにも蚕を飼うにも、雨ざらしではどうにもならない。その点で、大長谷王子のとった忍歯王の埋葬方法は、死者を冒涜するものとは言い切れず、それなりの配慮が行なわれていたと考えられなければならない。
結局のところ、そこから改葬して「於其蚊屋野之東山作御陵葬」している。なぜ「東」にしたのか。それは、四阿(東屋)に落ち着いていたものだったからそれにふさわしくアヅマなる方向、「東」に定めている。「御陵」として形にしたいから、「山」を活用している。「以二韓帒之子等一、令レ守二其陵一」と相成ったのは、「韓帒」が「幹袋」の謂いで、ミソサザイの巣のことを示していたからである。ヤマトコトバにサザキ(鷦鷯、陵)と一語なるが故、ミソサザイの巣と前方後円墳とは相似的に考えられているわけである(注6)。
平城宮跡造酒司井戸跡パネル(賃貸のマサキ様「奈良ゴコロ」造酒司井戸跡(平城宮跡)https://www.chinmasa.com/spot/result29201/cate0315/detail3494675/をトリミング)
そんな「亭」式の屋根を必要とした施設としては掘り井戸がある。平城宮址の造酒司の井戸には屋根が付いていたと考えられている。仮に蚊屋野に井戸が掘られていたとする。その時、「亭」の真ん中に井戸枠があったとは考えにくい。なぜなら、野だからである。水がかりが悪いところが野である。地下水は地面から深いところにある。車井戸であったとしても汲み上げにくい。周りに障害物などないとすれば、撥ね釣瓶式の井戸が設けられていたと考えられる(注7)。支柱には、Y字形の棒が立てられ、その股のところに横竿がまたがるように作りつけられる。四枝の「亭」と二枝の撥ね釣瓶の支柱があり、その間に「三枝」なる特徴の「御歯」をした「御骨」は埋められている。とてもわかりやすい構図である。
撥ね釣瓶(左:大蔵永常他・農具便利論、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536574/30、右:東大寺湯屋)
井戸枠にすっぽりパカっと嵌るように「馬樎」が入れ込まれている。そして、「与レ土等埋」としていた。井戸の水があるべきところに「馬樎」のプールがあって、残念ながら忍歯王の身が切られて入っていて、土が平らに均されている。もはや水場ではなくなっている。たとえ退かせたとしても、長らく使わずに井戸浚えもせず、「馬樎」の中から血や腐敗した液が落ちていれば、井戸はもはや役に立たない。廃棄されるべきである。
四角い井戸枠(Saigen Jiro様「雷丘東方遺跡出土 井戸枠 明日香村埋蔵文化財展示室展示。」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/雷丘)
馬模型と四角い飼い葉桶(川崎市立日本民家園旧工藤家住宅内展示物)
そこで、御陵に「亭」の材木や「馬樎」の材木を埋めて記念塚にした。五行思想で木火土金水のうち木は東に当たる。その点でも、蚊屋野の東に御陵は造られていて齟齬はない。そして、「御骨」を「持上」ることになっている。「於二其蚊屋野之東山一、作二御陵一葬」したのに、どうして「御骨」を埋葬しなかったのか。なぜここに、「作二御陵一葬二御骨一」と書いていないのか。御陵に遺骨を葬らないはずはないのであるが、何か思惑があって「持上」ることにしている。それまで「持上」げていたものは何か。撥ね釣瓶の桶、古くは大きな甕が利用されていた。それである。「御骨」に当たるミカ(御甕)+バネ(撥ね)を「持上」げていたから、都へ帰るにあたり、井戸は閉じられたが撥ね釣瓶の御甕は持ち帰ってきたということになる(注8)。話としてとてもよくできている。
被籠式釣瓶(籠付き土器、高26.0cm、滋賀県守山市下之郷遺跡、弥生時代、1世紀、守山市教育委員会蔵、守山市教育委員会「歴史のまち守山」http://moriyama-bunkazai.org/shimonogo/contents02/)
第二の難訓箇所、真福寺本の「必到鳴其鐸」は、兼永本により「必引鳴其鐸」に改められている。この個所については、話の中心部分の訓みにくいところと関連がありそうである。「故還上㘴而召其老媼譽其不失見貞知其地以賜名号置目老媼」を「故、還上坐而、召二其老媼一、誉三其不レ失レ見、貞知二其地一以、賜レ名号二置目老媼一。」と読む際に、「不失見」を「見失はず」は字順がおかしいとされている(注9)。
「不失見」は、「不レ失レ見」の形と思われる。見たことを失わなかった、というのである。見たら誰でも覚えているだろうと考えるのは、「置目」という命名譚と矛盾する。すなわち、その老媼は、目が不自由になってしまっていたのである。そのとき、「鹿杖」の存在が際立ってくる。老いて失明していたが、その場所についてははっきりと記憶していた。だから、「貞知二其地一以、賜レ名号二置目老媼一。」なのである。貞かに、ないしは、貞しく知っていた。失明していなければ今でも何かを見ていて、昔のことは忘れてしまったかもしれないのに、過去の出来事に「目」という機能を「置」いてきたから覚えているということになる。他の「耆宿」(顕宗紀元年二月)たちは、以後もいろいろなことを見てきたから、昔のことはおぼろげになっていて、細かいことは忘れてしまっていた。そういう命名として「置目老媼」という名はある。なぜ「目」を「置」いてきたのか。忍歯王の殺害を目にしてショックだったからである。紀には、「詔畢、与二皇太子億計一、泣哭憤惋、不レ能二自勝一。……臨レ穴哀号、言深更慟。自レ古以来、莫二如斯酷一。」(顕宗紀元年二月~是月)とある。天皇や皇太子と同じ思いをしていたと知れるのである。だから「貞」で正しく、それを「置」とする鼇頭古事記は賢しらごとであるとわかる。
盲目の女性姿(西行物語写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541035/6をトリミング)
目が不自由なのだから、「召二-入宮内一、敦広慈賜」した場合、「其老媼所レ住屋者、近二‐作宮辺一」にしてあげたくなる。そして、「毎レ日必召」ことになったら、「鐸懸二大殿戸一」をしておいて、視覚的な合図ではなく、聴覚的な合図である鈴の音で知らせればいいから、「欲レ召二其老媼一之時、必到二‐鳴其鐸一」としたのである。紀には、「伶俜羸弱、不二‐便行歩一。宜張レ縄引絚、扶而出入。縄端懸レ鐸、無レ労二謁者一。入則鳴レ之。」とある。紀では必ずしも「老嫗置目」を目が不自由であるとはしていないが、ロープ伝いに参内すれば、鐸が鳴るからそれが正しい道であることはわかることになる。同様の表現であると捉えれば、記の字面は、真福寺本どおりに、「必到鳴其鐸」で正しいと再確認される。
その際、「必」をどのように訓むかが問われる。記の「必」字については、会話文では「必ず……む」、「必ず……じ」と推量の助動詞を読み添えて訓まれるはずであると考えられている(注10)。筆者は、この読み添え式の訓み方は、会話文に限られるものではないと考える。地の文でも、必ずそうなるだろうという推量、必ずそうしようという意志を示していると仮説したい。ここでは、いずれも「故」という原因理由を述べる文に「必」が現れている。だから、必ず……になるようになっているのだよ、と語っており、それは地の文だから客観的な立場からの物言いである。客観的にみて、必ずそうなるようになっていると捉えられている。したがって、連語の形の「むとす」がふさわしい(注11)。日本国語大辞典の「むとす」の項に、「すぐに実現しそうな事態の予想・推量、話し手の決意などを、客観的な立場から表わす。…しようとしている。…しようと思う。んとす。」(⑫1007頁)とある。世の中は、一番偉い人を中心に回っていることになっているから、天皇の意向を述べておけばそれが客観的であるということになる。天皇中心の予定調和が地の文に反映している。
仍ち、宮の内に召し入れて、敦く広く慈しび賜ひき。故、其の老媼の住める屋は、近く宮の辺に近く作りて、日毎に必ず召さむとす。故、鐸を大殿の戸に懸けて、其の老媼を召さむと欲ひし時、必ず其の鐸に到り鳴さむとす。
宮殿近くに居所を作ってあげて、毎日のように呼び寄せることができるようにしておいた、という物言いには天皇の意志が感じられる。「毎レ日必召」を「日毎に必ず召す。」と訓む文章があり得ないのは、顕宗天皇は介護事業者ではないからである。毎日のように呼び寄せようとしていたというだけで、実際に毎日呼び寄せるはずはなく、置目老媼としても台風や大雪の日に呼ばれたら、いくら近いとは言ってもたまったものではない。そういう環境を整えておいたということを言っている。阿吽の呼吸の間柄で、天皇が呼び寄せたければ召すことになるし、置目老媼のほうも行きたくなったら参内してかまわないという仲のことである。「鐸懸二大殿戸一」となっていれば、天皇が呼びたければロープを揺すって鳴らせばいいし、置目老媼が行きたくなって近づいたらロープに触れて鳴ることになる。一般民である置目老媼のほうから天皇を訪問することは、奏上事などないのだから本来ならあってはならない。だから、置目老媼が行きたくなって参内したら、それはすなわち、天皇が呼んだことにしておくようとしておいた、ということである。天皇の意志として、必ずそうなるようにしようとしたのである。訓は、「必ず其の鐸に到り鳴さむとす。」である。鳴らす、の意の上代語は、四段活用の「鳴す」である。
…… 竹の い組竹節竹 本辺をば 琴に作り 末辺をば 笛に作り 吹き鳴す ……(紀97)
話の終わりに置かれたニの歌については、当たり前のことをただ伝えているにとどまるもののようである。記111歌謡においては、三句目までは四句目を導く序であり、ほぼ意を成さない。四・五句で、鐸を揺らして置目が来るらしい、と歌っているのは、天皇が呼んだから来たのか、置目が自ら来たのか、不透明にできるからである。この両者の自己が溶解的な関係に至っている点こそ、「敦広慈賜」したことの証である。当初、押歯王の死について、失明するほどに御子らの気持ちとまったく同じで溶解的だったことを表している。記112歌謡は、置目が見えなくなると歌っていて、置目が盲目であったことを掛けて一話を結んでいる。
浅茅原 小谷を過ぎて 百伝ふ 鐸響くも 置目来らしも(記111)
置目もや 淡海の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ(記112)
以上、古事記の置目説話について考察した(注12)。
(注)
(注1)現在の注釈書の校訂と異なるところもある。以下に読解する。
(注2)この話の後に、大長谷王から逃れる際に御粮を奪った猪甘の老人を探し出し、責める記述が載っている。そのため、それら「二つの話の対比に注目したい。」(新編全集本古事記365頁)とする解釈が行なわれている。
(注3)倉塚1986.は、「忍歯王の名が必ずしも特徴的な歯にちなんだものではない」(268~269頁)とし、「口誦言語と文字言語の接点において誕生した説話だった。」、「細註は本文にもとづきつつ、話を、言語音の転換という一般的パターンに還元したということになる。」(269頁)としている。この議論には無理がある。オシハを忍歯と書いたから歯のことに気が向かったというのでは、ヤマトコトバのハという言葉(音)の意(刃・端・歯・葉)について、無文字に暮らした人が鈍感であったということになってしまう。「歯」はヤマトコトバであって、漢字の音読みではない。そして、名は名づけられることによって作られている。オシハと名づけられたその時点で、人々が皆納得して共通認識となったから名として自立し得るのである。名の本性は綽名に宿っている。オシハと呼ばれたということは、オシハ的な性格が人々の間でわかち合えたということであり、それはとりもなおさず、特徴的な歯並びをしていたということに他なるまい。
(注4)DIYヘルパー チャレンジ永井様「とっても気になる四阿(東屋)」http://diyhelper.jp/azuma/azuma1.htm参照。物理的、工学的に何の疑問もないと頭で考えてしまい、ありのままの特徴を見て不思議がる気持ちを忘れてはならない。
(注5)拙稿「忍歯王暗殺事件について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ac09eb7fc267c5788c72d82e8cce9d60参照。
(注6)拙稿「仁徳天皇の名、オホサザキの秘密」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2e714256fd4daffbf3ca09aa1f5c04b4
(注7)古代に、撥ね釣瓶が行なわれていたか、また、なかったか、証明されてはいない。中国では荘子によく知られた話が載る。「子貢、楚に南遊し、晋に反らんとして漢陰を過ぎ、一丈人の方将に圃畦を為らんとするを見るに、隧を鑿ちて井に入り、甕を抱きて灌を出で、搰搰然として力を用ゐること甚だ多くして功を見ること寡なし。子貢曰く、「此に械有り、一日に百畦を浸す。力を用ゐること甚だ寡くして功を見る事多し、夫子欲せざるか」と。圃を為る者、仰ぎて之れを視て曰く、「奈何」と。曰く、「木を鑿ちて機を為り、後は重くして前は軽くし、水を挈ぐること抽るるが若く、数きこと湯の泆るるが如し、其の名を槹と為」と。圃を為る者忿然として色を作して笑ひて曰く、「吾、之れを吾が師に聞けり、機械有る者は必ず機事有り、機事有る者は必ず機心有り、機心胸中に在れば則ち純白備はらず、純白備はらざれば則ち神生定らず。神生定らざる者は道の載せざる所なりと。吾、知らざるに非ず、羞ぢて為らざるなり」と。子貢瞞然として慚ぢ、俯きて対へず。」(荘子・天地篇)。
(注8)甕が釣瓶に使われていたことは確かめられている。鐘方2003.に次のようにある。「最近まで日本で使用されていた釣瓶は、結桶でつくられたものがほとんどである。しかし、中世以前には素焼きの土器(おもに甕や壺)や刳り物容器、曲物が長らく利用されていた。刳り物容器の多くは木製であるが、他に瓢箪などが使用された可能性も十分にある。
(図13)
土器を釣瓶として利用する場合、その頸部に藁縄紐を巻き付けて使用する例(頸部巻き付け式)、蔓などの編物で外面を被いこれに縄紐を付けて使用する例(被籠式)、穿孔または耳を貼り付けて縄紐を通し使用する例(穿孔通紐式・附耳通紐式)、土器内部に入れた棒の中央に縄紐を結び付け、それを内部に引っ掛けて釣り上げる例(内釣り式)の4種の方法が中国で認められている(図13)。またそれら以外に、釣り手を付けて汲み上げる釣り手式の方法が桶などの木製容器において行われた(南京博物院・呉県文管会1985)。日本でも同様の方法が行われていただろう。……弥生時代中期以降に井戸の確認例が増加し、釣瓶の出土例も散見できるようになる。土器釣瓶には、釣瓶縄を直接頸部に巻き付けるもの(頸部巻き付け式)と籠で覆ってそれに釣瓶縄を取り付けるもの(被籠式)の両方が認められる。……土器が釣瓶として使用されたのは、土師器甕がなくなる平安時代頃までではなかろうか。」(25~31頁)。
(注9)新編全集本古事記では、「「見しことを失れず」と読んでおく。」(363頁)としている。倉塚1986.に、「「置」でなければ「置目老媼」と号けたという話柄は生きてこない。」(264頁)、西郷2006.に、「断固として「置」であり、……「記伝」の説に従うべきである。さもなければ、この老女をほめて置目老媼と名づけたゆえんが不明に帰する。」(153頁)とする。
(注10)思想大系本古事記訓読補注に、23例あるなか15例が会話文中で呼応して訓まれるとしている。ほかにも数例、会話文と思われるものがあるので含めて示す。
「我がなせの命の上り来る由は、必ず善き心あらじ。……」(記上)
「……汝が身、本の膚の如く必ず差えむ。」(記上)
「此の八十神は、必ず八上比売を得じ。……」(記上)
「……若し待ち取らずは、必ず汝を殺さむ。」(記上)
「……必ず其の大神、議らむ。」(記上)
「此は、久延毘古、必ず知らむ。」(記上)
「……必ず国つ神の子ならむ。」(記上)
「……故、必ず是を取りつらむ。」(記上)
「……為然ば、吾、水を掌るが故に、三年の間、必ず其の兄、貧窮しくあらむ。……」(記上)
「……必ず是の表に有らむ。」(垂仁記)
「凡そ子の名は、必ず母の名けむを、何にか是の子の御名を称はむ。」(垂仁記)
「我が宮を天皇の御舎の如く修理めば、御子、必ず真事とはむ。」(垂仁記)
「……汝、必ず是の牛を飲食かむ。」(応神記)
「……彼の時に、吾、必ず相言はむ。」(履中記)
「……若し兵を及らば、必ず人咲はむ。……」(允恭記)
「……亦、今は志毘、必ず寝ねたらむ。……」(清寧記)
「父王の仇を報いむと欲はば、必ず悉く其の陵を破壊らむ。……」(顕宗記)
「……是に今単に父の仇の志を取りて、悉く天下を治めし天皇の陵を破らば、後の人、必ず誹謗らむ。……」(顕宗記)
これらの例のなかには、「必ず」の前に、「もし(若)」といった条件句を据えているものがあり注目される。すなわち、「必ず」は、論理包含(implication)にかかる語のようである。そこで筆者は、会話文中に限らず全般にわたって、「必ず……む」、「必ず……じ」と訓むものと考える。白川1995.に、「かならず〔必〕 おろそかのことでなく、その結果が定まって実現することをいう。……例外なくという、否定的な形の語である。活用語の未然形に打消しの「ず」がつづく形で、「かならじ」という述語の形もみえる。」(238頁)とある。漢文訓読文を中心に、さらに強めた「必ずや」という言い方もあるが、その場合も、きっと……するだろう、確実に……するだろう、の意である。カナラズが必然、必定を表わすなら、その言葉は実は要らない。「さあ、仕事しよう。」は、今現在やっていないから発する言葉である。わざわざ「必ず」と付けているのは、P→Qの前件に不確かさを含み、後件に推量や意志が見え隠れしていると言えるのではないか。
(注11)地の文においても「必」は「必ず……む」、「必ず……じ」の意味合いであり、さらなる訓み添えが必要である。記の地の文にある「必」は次のニ例である。
是以、一日必千人死、一日必千五百人生也。(記上)
是以、至今其子孫、上於倭之日必自跛也。(顕宗記)
第一例を「是を以て、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生るるぞ。」、第二例を「是を以て、今に至るまで其の子孫、倭に上る日に必ず自づから跛ぐぞ。」などと訓まれている。「必」が必然、必定の意のままであるなら、前者の例では統計的に500人/日で人口が増えていっているデータがあり、後者の例にある猪甘の子孫はヤマトへ上京することができずに整形外科が繁盛していたということになってしまうが、そういった事実は見られない。いずれの例も、「是以……日必……也。」という総括の形をとっている。推量するに前件に述べたことがらを踏まえて今に当たるとそういうことになる、と言っているにすぎない。だから、「必」には、「む」という推量の助動詞を添えて訓むのが適当なのである。「かなる」という語幹をした仮想語の未然形に、打消しの「ず」がつづいている本義にも合致する。そして、助動詞「む」を強調したいがために「也」と付いていると考えられる。推量、意志の強意した形は、連語の「むとす」に見られる。地の文で「む」が使われる使われ方とは、「むとす」の形をとることで客観的な立場からの物言いであるとわかる。
狭井河よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす(記20)
是を以て、一日に必ず千人死なむとし、一日に必ず千五百人生れむとす。(記上)
是を以て、今に至るまで其の子孫、倭に上る日に必ず自づから跛がむとす。(顕宗記)
なお、思想大系本古事記は、「日毎に必ず召さむトす。」(289頁)と訓んでいる。
(注12)顕宗紀に所載の置目説話は、大枠では違いはないが、細かい点に違いがある。亡き父市辺押磐皇子の遺骨が帳内の佐伯部売輪、別名、仲手子(仲子)のそれと混じっていたこと、彼の歯は上の歯がなかったことで分けようとしたがしきれず、ニつの陵墓を同じように作って同様の葬儀を行ったこと、宮殿の近くに老嫗置目を住まわせたが歩行が難しいと訴えたので点字ロープを張って鐸が鳴るようにしておいた、という話になっている。
ニつ陵墓を作った点については、一人に一つずつ墓を作ることが望まれていた上代の思想を反映している。神功紀元年二月条に「阿豆那比の罪」として明示されている。昼が夜のように暗いことが続き、当時の人が「常夜行く」と呼んだ災禍があった。原因は、小竹祝と天野祝のニ人を合葬していたのは良くないことでだから、別々にしたという話である。拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ceb99a8b6b28f3929182489b7d106226参照。
二月の戊戌の朔壬寅に、詔して曰はく、「先王、多難に遭離ひて、荒郊に殞命りたまへり。朕、幼年に在りて、亡逃げて自ら匿れたり。猥げて求め迎へられて、大業に升纂げり。広く御骨を求むれども、能く知りまつれる者莫し」とのたまふ。詔畢りて、皇太子億計と、泣ち哭き憤惋みて、自ら勝ふること能はず。
是の月に、耆宿を召し聚へて、天皇、親ら歴め問ひたまふ。一の老嫗有りて、進みて曰さく、「置目、御骨の埋める処を知れり。請ふ、以て示せ奉らむ」とまをす。置目は、老嫗の名なり。近江国の狭狭城山君の祖倭帒宿祢の妹、名を置目と曰ふ。下の文に見ゆ。是に、天皇と皇太子億計と、老嫗婦を将て、近江国の来田絮の蚊屋野の中に幸して、掘り出して見たまふに、果して婦の語の如し。穴に臨みて哀号びたまひ、言深に更慟ひます。古より以来、如斯る酷莫し。仲子の尸、御骨に交横りて、能く別く者莫し。爰に磐坂皇子の乳母有り。奏して曰さく、「仲子は、上の歯堕落ちたりき。斯れ)を以て別くべし」とまをす。是に、乳母のまをすに由りて、髑髏を相別くと雖も、竟に四支・諸骨を別くこと難し。是に由りて、仍蚊屋野の中に、双陵を造り起てて、相似せて如一なり。葬儀異なること無し。老嫗置目に詔して、宮の傍の近き処に居らしむ。優崇め賜卹みたまひて、乏少無からしむ。
是の月に、詔して曰はく、「老嫗、伶俜へ羸弱れて、行歩くに不便ず。縄を張りてき引き絚して、扶りて出入づべし。縄の端に鐸を懸けて、謁者に労ること無かれ。入りては鳴せ。朕、汝が到るを知らむ」とのたまふ。是に、老嫗、詔を奉りて、鐸を鳴して進む。天皇、遥に鐸の声を聞しめして、歌して曰はく、
浅茅原 小确を過ぎ 百伝ふ 鐸ゆらくもよ 置目来らしも(紀85)(顕宗紀元年二月)
九月に、置目、老い困びて、還らむと乞して曰さく、「気力衰へ邁ぎて、老い耄れ虚け羸れたり。要仮縄に扶るとも、進み歩くこと能はず。願はくは、桑梓に帰りて、厥の終を送らむ」とまをす。天皇、聞こしめし惋痛みたまひて、物千段賜ふ。逆め路を岐れむことを傷みて、重ねて期ひ難きを感きたまふ。乃ち歌賜ひて曰はく、
置目もよ 淡海の置目 明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ(紀86)(顕宗紀二年九月)
(引用・参考文献)
鐘方2003. 鐘方正樹『井戸の考古学』同成社、2003年。
倉塚1986. 倉塚暉子『古代の女─神話と権力の淵から─』平凡社、1986年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第七巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第十二巻』小学館、2001年。
※本稿は、2020年7月稿を2024年8月に手を入れ、ルビ形式にしたものである。