古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「かがなべて」考 其の一

2020年07月08日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 倭健命(日本武尊)(やまとたけるのみこと)は東国征伐からの帰還の途において、筑波問答として名高い歌のやりとりをしている。

 其(そこ)[走水海]より入り幸し、悉く荒ぶる蝦夷(えみし)等(ども)を言向け、亦、山河の荒ぶる神等(かみたち)を平げ和(やは)して、還り上り幸しし時に、足柄の坂本に到りて、御粮(みかれひ)食す処に、其の坂の神、白き鹿と化(な)りて来立ちき。爾くして、即ち其の咋(く)ひ遺しし蒜(ひる)の片端を以て、待ち打ちたまへば、其の目に中(あた)りて乃ち打ち殺しき。故、其の坂に登り立ちて、三たび歎きて、「阿豆麻波夜(あづまはや)」と詔云(の)りたまひき。故、其の国を号けて阿豆麻(あづま)と謂ふ。
 即ち、其の国より甲斐に越え出でて、酒折宮(さかをりのみや)に坐(いま)しし時に、歌曰(うた)ひたまはく、
 新治(にひばり) 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる(記25)
とうたひたまふ。爾くして、其の御火焼(みひたき)の老人(おきな)、御歌に続ぎて、歌曰ひしく、
 かがなべて 夜(よ)には九夜(ここのよ) 日(ひ)には十日(とをか)を(記26)
とうたふ。是を以て、其の老人を誉めて、即ち東国造(あづまのくにのみやつこ)を給ひき。(景行記)
 蝦夷(えみし)既に平ぎ、日高見国(ひだかみのくに)より還りて、西南(ひつじさるのかた)常陸を歴(へ)て、甲斐国に至りたまひ、酒折宮に居(おは)します。時に、挙燭(ひとも)して進食(みをし)したまふ。是の夜に、歌を以て侍者(さぶらひひと)に問ひて曰はく、
 新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる(紀25)
とのたまふ。諸の侍者、え答へ言(まを)さず。時に秉燭者(ひともせるもの)有り。王(みこ)の歌の末を続ぎて歌(うたよみ)して曰さく、
 かがなべて 夜には九夜 日には十日を(紀26)
とまをす。即ち秉燭人(ひともし)の聡(さとり)を美(ほ)めたまひて、敦く賞(たまひもの)す。則ち是の宮に居しまして、靫部(ゆけひのとものを)を以て大伴連が遠祖(とほつおや)武日(たけひ)に賜ふ。(景行紀四十年是歳)

 この片歌形式の問答の、上句に下句をつぐことは、連歌のはじまりと顕彰されている(注1)。連歌の歌集に、筑波の名を含めるものが多い。これまでのところ、一般に、「かがなべて(ベは乙類)」は「日々並べて」の意味で、歌問答の背景は、現在の茨城県から山梨県まで9泊10日の弾丸ツアーであったと解釈されている。けれども、記で、御火焼の老人は東国造の称号を賜り、紀で、秉燭人は厚く褒賞を受けている。相当に頓知のきいた返しをしたと前提したからであろう。その頓智がわからなければ、この説話や歌謡について、上代の人が理解したのと同じレベルに達していないことになる。東国造という行政官名は、景行朝には実在しなかったであろうが、記を録した太安万侶は、聞く人にわかりやすいようそれに匹敵する名称をつけたに違いあるまい。
 大系本日本書紀の補注に、「カガナベテは、日数を並べてと解するのが普通。カは、二日(フツカ)・五日(イツカ)のカ。日の複数だけを表す語(日本語では単複対立させうる語で、複数だけをいう語は他に例がない)。従って、カの転のケを用いて、ケ並べてという例はあるが、カカと重ねて使うのはおかしい。そこで、カガは、日日の意ではなく、「屈める」の語根カガであるとする説がある。それによると「屈並べて」の意であるとする。しかし指を屈め並べる意を「屈並べて」というか否か、確実には分らない。」(376頁)とある。万葉集には類句がある。以下の歌から、並べるのはケ(日)やヒ(日)と訓む語らしいことが窺われる。

 馬いたく 打ちてな行きそ 日(け)並(なら)べて 見てもわが行く 志賀にあらなくに(万263)
 わが背子が 屋戸のなでしこ 日(ひ)並べて 雨は降れども 色も変らず(万4442)

 また、「幾夜か寝つる」と尋ねられたから、まず、「夜には」と答えたものであるとされている。
 しかるに、酒折宮で問いは投げかけられているが、出発地点をどこに設定した設問なのであろうか。はっきりとは定めかねるが、歌中に、「新治 筑波を過ぎて」とあり、紀の本文に、「日高見国より還りて」とあるから、日高見国から酒折宮までの行程について、How many days have passed since we left Tukuba? ないし、How long have we been traveling so far? などと聞いているのであろう。記では、「自其国-出甲斐」とあって、「其国」がどの国を指すのかについてはっきりしていない。新編全集本古事記の頭注は、「「其の国を号けて阿豆麻と謂ふ」を受けて「即ち、其の国より甲斐に越え出でて」というのだから、アヅマから甲斐に出るわけである。足柄の位置から、相模から甲斐に出るとするのが通説だが、それでは文脈に合わない。」(228頁)ことになると疑義を唱えている。ところが、同頭注では、「号其国阿豆麻也」部分の「其国」について、「走水海を渡って進み、足柄に帰るまでに平定してきた所を全体として指す。」(同頁)としている。問題を How many days? の出発地がどこかに絞るなら、走水海の箇所に、「自其入幸」と重ねて記され、酒折宮の箇所に、「自其国-出甲斐」とあるから、その入出の間が征服の対象となっている。そして、征服した後に、「還り上り幸し」てからが経過日数として問われていると受け取ることができる。
 山路、1994.に次のように指摘される。

 酒折宮の名義はおそらくヤシホヲリの酒のヲリに関係を持つのではないか。此処を東方十二道からエゾ地へかけての討伐の大団円に際して、酒宴の行われた場所であるとすれば、ここで「道行」を回顧させるのは処を得たもので、それが全般の構成の上であまりに辻褄のあいすぎるその位置と表現の仕方とが、これ亦この歌が上でのべた[「十」は極限の数を意味するもので、この定数を用いていることは、とりも直さずこれが机上の作品であることを物語るものである]とおり、却って机上の作品であることを思わせるのである。(329頁)

 机上の作品かどうかはともかく、酒折宮の名が酒宴を連想させるものであることは検討に値しよう。そうなると、夜の宴会の可能性が高くなり、だからこそ「御火焼之老人」、「秉燭者」がしゃしゃり出ている。そうなると、「夜には九夜、日には十日」という勘定は当たらなくなる。日中に出発して日中に到着して何日かというのでないと、夜の数が日=昼の数よりもひとつ少なくなることはない。そのように厳密に考えていくと、問いと答えの間に齟齬がありながらも、それを機智として面白がられたから、「誉其老、即給東国造也。」、「即美秉燭人之聡而敦賞。」という次第になったと推測されてくる。そして、それがこの歌謡の眼目と思われるが、その点は後述に回す。
 まず、カガナベテという難語についての先行研究を紹介する。大系本日本書紀補注にあるとおり、カガナベテには、日日並べて、屈並べて、の二様の解釈が行われている。山口2005.に、カガ、ナベテ、それぞれの語についての詳しい考証があり、「日々並べて」と捉えることには難があると指摘されている。長くなるのを厭わず、要点をおさえるべく引用する。

 「かがなべて」のカガを〈日々〉の意と見ることの問題点は、[大系本補注にいうようにカが日の複数のみをいう語であるからということではなく]別にある。……カ(日)とケ(日)とは交替形の関係にあると見られる[が、]……両者は単に交替形というのではなくて、有坂秀世[一九三一]の言う[母音交替の法則の]「被覆形」と「露出形」の関係にあると見なされる。ケが露出形であることは、比較的認めやすい。……〈気〉長くなりぬ……(記・歌謡八七)……長き〈気〉を……(万葉四・四八四)……〈気〉並べて……(万葉三・二六三)……この旅の〈気〉に……(万葉一三・三三四八)……朝に〈食〉に……(万葉三・三七七)……このケ(日)はケ乙類であるが、一般に被覆形のア列と交替する露出形のエ列は乙類であるから、この点でも問題がない。一方、……カ(日)が現れるのは、いずれも日数詞における助数詞としてである。……今二日〈布都可〉だみ 遠くあらば 七日〈奈奴可〉のをちは……(万葉一七・四〇一一)……日には十日〈登乎加〉を(記・歌謡二六)……百日〈毛々可〉しも……(万葉五・八七〇)……このカ(日)は語末に現れるから、一見露出形のようであるが、実はそうではない。有坂秀世[一九三四]は、同一語根が独立の名詞として現れる場合と、助数詞として現れる場合とによって、その末尾の音節に母音の交替が見られることがあるとして、次のような例を挙げている。①トシ(年)―チトセ(千年)②フネ(船)―ヤソフナ(八十艘)③ツメ(爪)―ムツマ(六爪)④ケ(日)―トヲカ(十日)……さらに、蜂矢真郷[一九九七]は、類例として次を追加した。⑤カヂ(梶)―ヤソカ(八十梶)……(万葉二〇・四四〇八)⑥フシ(節)―ヤフ(八節)……(書紀・歌謡九一)[。また、]蜂矢真郷[一九九八](二三ページ)には、上代における名詞の反復例が、サキザキ(埼々)・トキドキ(時々)など、26例ほど挙げられている。このうち、被覆形―露出形の対立をもつ名詞は、少数にとどまる。……サチサチ(幸々)……クニグニ(国々)は露出形の反復[で、]……カガ(日々)は、被覆形を反復していることになる。……『源氏物語』における名詞の反復例の中から、被覆形―露出形の対立をもつ名詞の例を抜き出してみる[と、]……ウチウチ(内々)……キギ(木々)……コヱゴヱ(声々)……ツキヅキ(月々)……ミミ(身々)……[とある。]これらを見ると、いずれも露出形が反復されており、被覆形の反復と見られる例はない。……平安時代に[見られる]……カミガミ(神々)……クチグチ(口々)……も、同様に露出形の反復である。カガが〈日々〉の意であるとすれば、これだけが被覆形の反復ということになり、全く例外的と言うほかない。(258~261頁。改行を改めた。)

 反証として正しいのであろう。カガが一義的に日々のことであるという考え方は間違っている。しかし、だからといって、カガは日々のことではないとは断言しきれない。世の中には、醤油~こと、こうでぃねえと、など、下手な駄洒落というものがあるからである。
 次に、山口2005.は、ナベテを「並べて」ととる説にも問題があるという。

 これは、動詞ナブ(並)の連用形に接続助詞テがついた形と解されているが、上代にはナム(並)はあっても、ナブ(並)の語形はなかなか見出だせないからである。上代におけるナム(並)の用例は、次のようなものである。……後れ並み〈奈美〉居て……(万葉九・一七八〇)……並み〈奈美〉たる見れば……(万葉二〇・四三七五・防人歌)……楯(たた)並め〈那米〉て……(記・歌謡一四)……友並め〈名目〉て 遊ばむものを 馬並め〈名目〉て……(万葉六・九四八)……馬並め〈奈米〉て……(万葉一七・三九九一)[。]自動詞(四段)・他動詞(下二段)ともに、ナムの形である。ナブ(並)の例は、次の「なべ」がそれであると一般に言われている。
 ○かなし妹を 弓束(ゆづか)なべ〈奈倍〉巻き もころ男の 事とし言はば いやかたましに(万葉一四・三四八六・東歌)
 しかし、新編日本古典文学全集『万葉集』には、第二句について、次のように記されている。
  ユヅカはユミツカの約。弓を射る時に左手で握る部分。弓束巻クはその部分に革や桜の樹皮などを巻き付けることをいう。マクに娶クがかけてあるか。ナベは未詳。あるいは並メの意で割竹の類を補強の材に並べて縛ることをいうか。(③四九六ページ・頭注)
 すなわち、「なべ」を〈並べ〉の意であると見ると、何を並べるのか、一向に要領を得ないことになる。この「なべ」はナブ(靡)の連用形で、「靡べ巻き」は、弓束の部分に革や樹皮などを押し付けるようにして巻くことをいうのではないか。全体に歌意の解しにくい歌であるが、少なくともナブ(並)の確例にはならない。したがって、次のような訓字表記の例は、ナム(並)と訓んでおくのが無難である。……船並弖(フネナメテ)……(万葉一・三六)……馬数而(ウマナメテ)……(万葉一・四)[。]……上代にも存したマ行音―バ行音間の交替の現象[については、]……ナム(並)がナブ(靡)に転じてしまうと、語形上ナブ(靡)と区別が付きにくくなる。平安時代になって、ナブ(並)の形が現れたのは、ナブ(靡)の方が使われなくなって、競合する相手がなくなったことと関係があろう。逆に言えば、上代にナブ(靡)が存在したために、ナム(並)はナブ(並)に転じることが困難であったと考えられる。以上のように見てくると、『古事記』における「かがなべて」の「なべて」を〈並べて〉の意と解することには、かなりの無理があると考えられる。すなわち、ナブ(並)の形が上代にまで遡るという蓋然性は低く、解釈として危険であると言わざるを得ない。(262~266頁。改行を改めた。)

 上代に、ナム(並)とナブ(靡)とは別語であり、峻別されていたとする考えであろう。しかし、時代別国語大辞典の「なぶ【靡】(動下二)」の項には、「【考】靡(ナ)ム(四段)という自動詞の形も推定されている。……もっとも、並(ナ)ブ・靡(ナ)ブは源を遡れば同じ一つの語であろう。」(530頁)という見解を下している。ナブ(ナム)(靡)は、靡かせる、押し伏せる、の意である。「浅茅押し靡べ」(万940)、「尾花押し靡べ」(万2172)、「すすき押しなべ」(万4016)、「沖つ藻の 靡みたる波に」(万162)と、植物にいうことのほか、「鹿取り靡べし」(万1678)、「やまとの国は 押しなべて 我こそ居れ」(万1)ともある。並ブ・靡ブが同源とすると、押し伏せた様態は、浅茅や尾花、すすき、藻が一本ではなく、何本もが軒並み倒れたことを表しているのであろう。万1678番歌も、鹿が複数頭捕獲されたこと、万1番歌も、雄略朝の諸国征服時代にあって、ヤマトノクニとは奈良盆地の大和一国を表すのではなく、関東から九州まで広げた版図全体の諸国(武蔵国、尾張国、播磨国、出雲国……)のことを指すのであろう。横に並んでいることと、並んで倒れていることをそれぞれ表す語について、はっきり別語であると言い切れるものではないと考える。

 愛(かな)し妹(いも)を 弓束(ゆづか)並(な)べ巻き もころ男の 事とし言はば いや偏(かた)益しに(万3486)

 また、山口2005.の論中に採りあげられている、万3486番歌の恋歌については、ルネ・ジラールのいう欲望の模倣理論を説いた歌と解釈できる。「もころ男(如己男)」とは、相似た状態、同様の状態、類似の二つのものをいうモコロなる男のことで、どんぐりの背比べをしている。だから「並」という表現が出てくる。中西1981.は、「私と並んで求婚する、弓束を同じ程度に巻く同格の男」(271頁)と訳している。ここで、ナブ(並)は、自動詞(下二段)である。おそらくは防人として同じく徴兵された兵卒である「もころ男」たちは、「弓束」を並んで巻いている。愛しい彼女よ、彼女には気になる人がいるという。その恋敵の男がすごい奴なら月とすっぽんと思って諦めもするが、自分と同じぐらいで亀とすっぽん程度のこと、弓束を上手には巻けない輩である。あいつよりは固く巻いて恋にも勝とうものを、そして彼女をしっかり娶(ま)こうものを、といった歌意である。次の例でも確認できる。

 松の木(け)の 並み〈奈美〉たる見れば 家人(いはびと)の 我を見送ると 立たりし如(もころ)(万4375)

 この歌の眼目は、最後のモコロという語を導いた点にある。複数本の松の木が並び立つ様子が、見送ってくれた複数人の家人の立っていた様子と似通っているから、モコロと表現している。それは、ただ並んでいるというだけでなく、立ち姿が、みな松の木のように呆然とうなだれてしまっていて、誰一人動きも取れず、家人同士が抱き合って慰め合うことさえなかったことも表している。
 山口2005.では、カガナべテが「日日並べて」ではないらしいから、「屈(かが)靡(な)べて」の義ではないかとする。その場合も、何日経ったかを指折り数えてという意味に解している。「指」という目的語がないのが弱点ではあるが、他に例があるからかまわないとしている。しかし、数えることを表現した万葉集に次のような例がある。

 秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り 掻き数ふれば 七種(ななくさ)の花(万1537)
 掻き数ふ 二上山に 神さびて ……(万4006)
 水の上に 数書く如き 吾が命 妹に逢はむと 誓(うけ)ひするかも(万2433)

 万1537・4006番歌のカキカゾフについて、後者は枕詞とされているが、カキは動詞掻クの連用語が接頭語化されたもので、いくらか原義を残しているものと捉えられている。また、万2433番歌は、儚いことの譬えとなっている。万葉集には双六を歌った漢数字表現(万3827)もあるが、ここは漢数字の六、七、八などと水面上に文字を書こうとしたのではない。地面に刻むように線を掻こうとすることであろう。線を掻き刻む行為が数を数える方法であった。今でも正の字を書くことによって、数を数えることが行われている。したがって、指を折ることでさえ数を数えることかどうかはっきりしないのに、それよりも持って回った表現の「屈靡べ」るという言葉では、指折り数えることを想起させるのは難しいであろう。不適切で不十分な表現である。
 筆者は、カガナベテについて、「日々並べて」、「屈靡べて」などの意を含まないとは言えないものの、それらは明らかに副意であり、「蚊が隠(な)べて(ベは乙類)」を主意としながら、ほかにもたくさんのカガなる語を併せ持った駄洒落の組み合わせで生まれた語であると考える。上代文学の用語で枕詞と呼ばれるものである。
 この説話の問題点は、カガネベテという語にばかりあるのではない。記に、「東国造」という名を与えたとあるが、国造(くにのみやつこ)は出雲国、信濃国といった国単位のはずである。記の地方区分が、行政区分ではなく、おおまかな高志(越)国、吉備国、肥国といった地名表現であったにせよ、アヅマノクニなどというものはない。紀には、「敦賞。」とある。彼は何をもらったのであろうか。東国造というものと同等のものと考えられるが、これをどう解釈するか。また、紀では、酒折宮において、「則居是宮、以靫部大伴連之遠祖武日也。」という追加記事が登場している。「則」とあるからには、この歌のやり取りに関連して行われた部民の整理であろう。なぜ、靫という矢を入れる武具が取り沙汰されているのか。さらに、記紀それぞれ26番歌謡の最後、「十日を」のヲについて、間投助詞とする説と格助詞とする説がある。前者の方が有力視されているが、問いに対する答えの形、問答の歌なのだから、ヲの後には省略が行われていると捉えるべきで、格助詞と思われる。次のような形である。

 問:新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる?
 答:かがなべて 夜には九夜 日には十日を(オ眠リニナラレマシタ!)

 古語では、「寝(ぬ)」の尊敬語は四段活用の動詞、「寝(な)す」である。したがって、「寝(な)し給へり」、「寝(な)し給ひぬ」といった言葉が省略されていると考えられる。これについては後述する。
 倭建命(日本武尊)の一行は、蝦夷地から新治、筑波経由で関東平野を横断して来た。歩き回ってくたびれている。カガナベテを「屈靡べて」の意ととれば、屈まって軒並み倒れ伏し、動くことができないことを表す。全員の気持ちを代弁しているから、皆の賛同が得られて名歌と認められる。すなわち、皆、蹲(つくば)った状態になっている。筑波(つくば)の音に似ている。上代に、ツクバフの語は確かめられないが、よつんばいになる、うずくまる、しゃがむ、かがまる、の意である。新撰字鏡に、「僂 力主力矩二反、上、傴、加々万留(かがまる)、又世々也、曲也、低頭、久豆世(くづせ)、々皮志之(せひしし)」、新訳華厳経音義私記に、「曲身低影 上、可可末利(かがまり)、低、可多夫久(かたぶく)」とある。大方広仏華厳経・離世間品の「菩薩摩訶薩。坐道場時。一切世界。草木叢林。諸無情物。皆曲身低影。帰向道場。是為第四未曾有事。」の注釈で、恐れ謹んで身を屈めて低い姿勢をとることをいう。低い姿勢は低い姿勢でも、仰向けや横向きに寝るのではなく、五体投地しようとして、前にかがみこんで膝をついて頭を垂れる姿勢である。足首を直角に立てたままにすると、横からその姿を見たとき、臀部と踵とが2つの嶺になる。筑波山に相似形というわけである。
 播磨風土記・加古郡条に鏡(かがみ)の借字として見られる「勾」から、時代別国語大辞典は、動詞カガムの形も存在していたと認められてよいとする。そのカガムはクグムと母音交替する。新訳華厳経音義私記に、「機関〈木𤯔、久々都(くぐつ)〉」、和名抄に、「傀儡子 唐韻に云はく、傀儡子〈賄礧二音、久々豆(くぐつ)〉は楽人の弄ぶ所也といふ。顔氏家訓に云はく、俗に傀儡子と名づくは、郭禿為りといふ。」とあるのも同根の言葉であろう。この傀儡子については後に触れる。いずれにせよカガなる音が現れている。
 身動きがとれない状態とは、蛇に睨まれた蛙のようである。話は、筑波から帰る時のことである。筑波の蛙は、蝦蟇の油売りとして名高い。その口上は江戸時代に定型化されたようであるが、由緒はわからない。光田2009.では、伊吹山との関連が指摘されている。倭建命(日本武尊)に因縁の地である。科白に、「……山中深く分け入って捕りいましたるこのガマを、四面鏡ばりの箱に入れるときは、ガマは己が姿の鏡に映るを見て驚き、タラーリタラーリと油汗を流す、これをすきとり柳の小枝にて三七二十一日間、トローリトローリと煮つめましたるがこのガマの油……」とある。鏡(かがみ)とあって、カガなる音が含まれている。
 経由の最初の地は新治である。ニヒハリの意味は、新墾、新しくひらいた田畑や道のことをいう。新墾道については、万葉集に例がある。

 新墾(にひはり)の 今作る路(みち) さやけくも 聞きてけるかも 妹が上(うへ)のことを(万2855)
 信濃路は 今の墾道(はりみち) 刈株(かりばね)に 足踏ましなむ 沓(くつ)履けわが背(万3399)
 草陰の 安努(あの)な行かむと 墾りし道 安努は行かずて 荒草立ちぬ(万3447)

 新墾道は、おおむね平らなのであるが、すぐ草が生えてしまって歩くのに草臥れる。墾かれていて良いことは良いのだが、まだ難がある。万2855番歌は、道が通じて噂が聞こえるようになっているけれど、彼女には逢えていないらしい。五句目の原文に「妹於事矣」とあり、彼女の身上調査に留まっている。彼女と十分に通じていない凸凹感を表現するのに、新墾道を比喩にしている。万3399番歌は、墾かれたばかりの道には、切り株が残っているから踏み抜かないように気を付けろと忠告している。刈株があって凸凹なのである。万3447番歌、「草陰の」は、地名、「安努」にかかる枕詞である。かかり方はよくわかっていない。ただし、「安努」の「努(の、ノは甲類)」は野の意であろう。草ぼうぼうの荒れた野である。ところどころ穴ぼこが空いているか、まるで畔(あぜ)でもあるかのように隆起している個所もある。草陰には危険が潜んでいるという印象である。言葉の約束としてそう決まっているのに、公共事業でハイウェイを造成した。利用者はいなかった。それで元の木阿弥、枕詞どおりに戻ってしまった。政策の凸凹感までよく表れている。
 筑波問答の歌は辺境の地の行軍の際に作られている。新墾道の特徴が計算されていると思われる。すなわち、いまだ多少の凸凹が所々に残っていて歩くのに疲れるのである。その大きくはないが凸凹のしている地形から、平坦に思われる関東平野に唐突に現れる小さな群山、男体山と女体山からなる筑波の嶺が想起される。倭建命(日本武尊)の一行の順路は、相模の走水から浦賀水道を渡り、そこから北上した後、帰路、新治、筑波から甲斐の酒折宮へと進んでいる。関東平野のなかでも、東京都や神奈川県など、海岸に近いところは丘陵を河川が浸食してアップダウンが急である。紀ではそういったところは回避して、茨城県から平坦なところを進んでいる。常磐線→武蔵野線→中央線と乗り継ぐような経路である。そんななかでは筑波山は唯一凸凹している。記では、足柄の坂本を経由して甲斐国の酒折宮に至っている。足柄の坂本でアヅマの地名譚が繰り広げられている。アップダウンのあることを示したいための挿入であろう。坂に足が絡むと想起させたいのである。
 新治のハリ(墾)と同音の針は、裁縫用具である。刈株同様、危ないし、小さいから、針山に刺しておく。使うときにもしまうときにも便利である。その針山の中わたには、唐綿(とうわた)が使われた。綿状の毛で、蘿摩子(らまし)ともいう。ガガイモの実のなかにある。ガガイモは、蔓性の多年草で、日本では日当たりのいい山野に生えている。全体に軟毛に覆われ、葉はハート形、長い柄があって茎や葉を切ると白い汁がにじみ出てくる。夏に葉腋から総状花序を出す。果実は長さ10cmほどの広披針形、なかの種子には絹糸のような白くて長い毛がついており、風に乗って飛ぶ。この毛を棉の代用とすることがあり、ツルワタ、トウパンヤとも呼ばれ、印肉保持のために使われていた。その古名を羅摩(白蘞)(かがみ)という。記紀の大国主神(大己貴神)の話のなかで、とても小さな少名毘古那神(すくなびこなのかみ)(少彦名命(すくなびこなのみこと))が国作りにともに協力した。その小さな神が乗ってきた船の形容に用いられている。

 故、大国主神、出雲の御大(みほ)の御前(みさき)に坐すときに、波の穂より、天の羅摩(かがみ)の船に乗りて、鵝(かり)の皮を内剥ぎに剥ぎて衣服(ころも)と為て、帰(よ)り来る神有り。(記上)
 初め大己貴神(おほあなむちのかみ)の、国平(む)けしときに、出雲国の五十狭狭(いささ)の小汀(をはま)に行到(ゆきま)して、飲食(みをし)せむとす。是の時に、海上(わたつみのうへ)に忽に人の声有り。乃ち驚きて求むるに、都(ふつ)に見ゆる所無し。頃時(しばらく)ありて、一箇(ひとり)の小男(をぐな)有りて、白蘞(かがみ)の皮を以て舟に為(つく)り、鷦鷯(さざき)の羽を以て衣に為て、潮水(しほ)の随(まにま)に浮き到る。(神代紀第八段一書第六)

 ヤマト朝廷の成り立ちは、諸国の縫い合わせであるという前提の上で物語られているのであろう。ガガイモが古くカガイモと言っていた可能性はあり、やはりカガなる音が入っている。裁縫の必要は、いかに機織り技術が進もうと衰えることはない。織りあがった反物を、寸法にあわせて布に裁つ。その布どうしを縫い合わさなければ、前身頃も袖もばらばらなままである。そして、布の端がほつれないようにするためには、糸を絡げて縫わねばならない。綴(縢)(かが)るのである。再びカガという音が現れている。
「かとりくさ」(ガガイモ。狩野常信「草花魚貝虫類写生図巻 巻18」江戸時代、17~18世紀、東博展示品)
 高麗(こま)の王(こきし)、我が国[新羅]を征伐(う)つ。此の時に当りて、綴(かが)れる旒(はたあし)の若く然なり。国の危殆(あやふ)きこと、卵(かひ)を累(かさ)ぬるに過ぎたり。(雄略紀八年二月)

 白川1995.の「かがる〔綴〕」の項に、「糸や紐(ひも)を交互に編んで、縫い合せることをいう。「かがり」はその名詞形。……文様を編むときにも用いる。……〔戦国策、秦(しん)策〕に「甲を綴る」とあり、いわゆる「をどし」をいう。とばりを綴衣(てつい)、吹流しを綴旒(てつりゆう)という。」(208頁)とある。小札を綴り続けてつなげていったものが、縅の鎧である。そして、言い伝えの説話においては、出雲国、丹波国、播磨国、大和国、紀伊国、伊勢国などの国々を綴っていって鎧が身を覆うように連ねられた時、国作りは完成したという構想になっている。
白糸縅鎧(鎌倉時代、14世紀、日御碕神社藏、東博展示品)
 筑波山は、嬥歌(かがひ)のメッカとして知られる。ここにもカガなる音があらわれている。嬥歌は、男女の歌の掛け合いのこと、今、合コンで男女一緒にカラオケをしているようなものである。

 月を経、日を累(かさ)ねて、嬥歌(うたがき)の会(つどひ)、俗(くにひと)、宇多我岐(うたがき)といひ、又、加我毗(かがひ)といふに、邂逅(たまさか)に相逢へり。(常陸風土記・香島郡)
 其の筑波の岳(やま)は、往き集ひて歌ひ舞ひ飲(さけの)み喫(ものくら)ふこと、今に至るまで絶えざるなり。(常陸風土記・筑波郡)
釣篝(法隆寺献納宝物、奈良時代、8世紀、鉄製、東博展示品)
 そんな歌を歌った「御火焼之老人」、「秉燭人」は、酒折宮において、「篝火(かがりび)」を焚いている。カガなる音があらわれている。篝火を入れるかごのこともカガリといい、新撰字鏡に、「爐鑪 同、魯都反、炎を盛る器也。鑪字、火呂(くわろ)、又加々利(かがり)」とある。万葉集にも夜の鵜飼の情景が詠まれている(注2)

 婦負川(めひがは)の 早き瀬ごとに 篝(可我里)さし 八十伴(やそとも)の緒(を)は 鵜川立ちけり(万4023)

夜の鵜飼の様子が歌われている。
 篝火は、第一に、野営地で害獣から身を護るために焚く「鹿驚(かがし)」のことが考えられる。やはりカガなる音が現れている。日葡辞書に、「Cagaxi. カガシ(案山子)猪とか鹿とかをおどすために,耕作地に立てるおどし.」(78頁)とある。綴(縢)(かが)る鎧の縅と同じ意味のことをカガシが表している。鹿驚(案山子)は、近世になってカカシと清音化する。もともとは獣肉を焼き焦がして悪臭を出し、鳥獣を田畑に近づけないようにした。嗅(か)がし、が語源とされる。それは、鹿火(かひ、ヒは乙類)とも呼ばれる。弓を引く姿に作るのは、案山子の威力を物語るものである。
案山子(左:一遍聖絵写・巻一、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591573?tocOpened=1(20/38)をトリミング、右:寺島良安・和漢三才図会、同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569720(18/29)をトリミング)
 あしひきの 山田守(も)る翁(をぢ)が 置く蚊火(かひ)の 下こがれのみ わが恋ひ居らく(万2649)
 朝霞 鹿火屋(かひや)が下に 鳴くかはづ 声だに聞かば 吾恋ひめやも(万2265)
 朝霞 香火屋(かひや)が下の 鳴くかはづ しのひつつありと 告げむ児(こ)もがも(万3818)

 カヒ(ヒは乙類)については、蚊除けと鹿除けの二様があるとされながら、害虫、害獣を寄せ付けないために火を熾して煙で追い払う点は同じである。二十巻本和名抄に、「蚊火 新撰萬葉集歌に云はく、蚊遣火〈加夜利比(かやりひ)、今案ずるに、一に云はく、蚊火、出る所未だ詳らかならず、但し、俗説に、蚊煙に遇ひて即ち去る、仍て夏の日庭中に火を熏べて煙を放つ、故に以て之を名づくといふ。蚊は虫豸部に見ゆ〉といふ。」とある。
 時代別国語大辞典の「かひ〔蚊火〕」、ならびに、「かひや〔鹿火屋〕」の項に、次のようにある。

【考】万葉[2649]の例は「蚊火」の表記をもつことから、背後に蚊やり火が意識されていたことは否定できない。しかし、ここでは、鹿や猪が畑を荒らすのを追うために山畑に焚く火、すなわち鹿火を意味すると解する説もあり、これならば「山田守る翁」と関連がつく。一方この語は「下こがれ」を引き出しているが、鹿火であれば、獣は火を恐れるので効果があるから炎を見せる必要があるのに対し、蚊火は煙を立てることが目的である。「下こがれ」に対しては蚊火が適当なことが知られよう。したがって上からは鹿火の意で、下に向かっては蚊火の意で続くものともみられる。
【考】[万2265と]同じ例が万葉三八一八にもう一例見える。諸説があるが、その中でとり上げるにたるのは、㋑蚊火をたく家とする説と、㋺鹿火を焚くために山畑の中に設けられた小屋とする説である。鹿火の習俗は現在でも僻地に残り、奈良県吉野山中にはカビの名も残るという。㋺がより妥当であると思われるが、それにしても枕詞アサガスミおよびカハヅとの関係など、この歌の意味はわかりにくい。(211頁)

 同じ音カヒ(ヒは乙類)を持つ語において、鹿火と蚊火とを峻別すべきと考えるのは、基本的に無文字文化に暮らしていた上代人の観念に逆らうものである。似たような概念だからひとつの言葉としておさまっていると考えられる。記紀の倭建命(日本武尊)のいわゆる筑波問答は、酒折宮にて歌われている。サカヲリという名称は、ヲリ(檻)が逆さであるという含意を持つ。鳥獣虫魚を入れるのが檻であるが、逆に人が入っていて外に鳥獣虫魚がいる。そのような状態の檻とは、第一に宮といえるような木造建築の建物(竪穴住居ではなく)のことであり、第二に蚊帳である。人が檻の中に入っていれば、鹿や猪は襲って来れないし、蚊は蚊帳の細かな網目によって入れない。新治、筑波からの行軍中、野宿ばかりしてきた。毎晩、「御火焼之老人」、「秉燭人」は、鹿火=蚊火(かひ、ヒは乙類)を焚いて番をしていた。ようやく甲斐国(かひのくに、ヒは乙類)の酒折宮に着いて、寝ずの番から解放されたということである。鹿火=蚊火と甲斐とは掛かっている。彼は、夜は火の番、昼は行軍で、ほとんど寝ていなかった。「幾夜か寝つる」などと聞かれたら、他の「侍者」がまごついているなか、黙っていられなかったに相違ない。「寝(な)し給ふ」ことができたのは誰のおかげか。鹿(か)も蚊(か)も無しだったから、「寝し給」えたのではないか。相当に頭にきているようである。養老令・軍防令に、「凡そ防人防に在らば、十日に一日の休暇(きうけ)を放(ゆる)せ。」とある。休ませてくれと訴えている。
蚊帳(春日権現験記・第七軸、板橋貫雄模写、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287492?tocOpened=1(10/19)をトリミング)
 寺島良安編・和漢三才図会には次のようにある。
蚊(加(か)、ウヱン) 音文、暑蟁、白鳥、和名は加(か)、蟁・蛾・蚊・蚉、皆同字なり。
本綱に、蚊は冬は蟄(あなごも)り、夏に出づ。昼伏し夜飛ぶ。細き身利き喙、人の膚の血を咂(す)ひ大きに人の害を為す。木の葉及び爛灰の中に化生して子を水中に産む。 孑孒虫(ほうふりむし)と為る。仍りて変じて蚊と為る也。亀・鼈之れを畏る。蛍火・蝙蝠之れを食ふ。故に鼈を煮るに数枚を入るれば、即ち爛れ易き也といふ。三才図会に云はく、長き喙は針の如くして性は烟を悪む。艾(よもぎ)を以て之れを燻(くゆ)るらば則ち潰(つひ)ゆ。其の草中に生ふる者、尤も利くして足に文彩有り。豹脚と号く。蚊の字亦文有るを以てす也といふ。〔堀川百首 蚊遣火の煙うるさき夏の夜はしづのふせやに仮り寝をばせし 師頼〕 按ずるに、蟁は昏時を以て出入し、故に字昏の省くに从ふ。蓋し子を水中に産みて孑孑と為る。冬蟄りし、夏出づるの説、竝びに非ざる也。其の孑孒は湿生にして、汚水熱の為に感じ生まるる所の者也。羽化して蚊と為る。四月始めて生じ、九月尽く終る也。昼は隠れ昏に出でて羣れ飛び上り下り舂(うすづ)くが如し。翅を以て鳴き、人の血を咂ふ。痕(あと)脹れて甚だ痒し。其の毒蚤より烈し。
豹脚〈俗に藪蚊と云ふ〉竹木の葉、湿熱に蒸し生ずる所、小虫を生ず。亦、羽化して蚊と為る。大きさ常の蚊に倍す。足に斑文有り。又一種に小にして黒き者有り。此の二種は寺院・藪林に多く之れ有り。昼も亦出で鳴かず。人を噛み最も猛し。 凡そ蚊を避くるに、榧の鋸屑(をがくず)を燻(ふす)べる可し。然れども蜈蚣(むかで)は榧の香を喜びて来る。爾雅に所謂、菖蒲は蚤・虱を去れども蛉窮(げぢげぢ)の類を来(まね)く也。五月五日午の時、儀方の二字を書きて屋柱に粘(は)れば、則ち蚊を避く。又、酒を篠(ささ)の葉に灌ぎて傍隅(かたすみ)に挿せば、則ち蚊は皆其の篠に集まる。凡そ蚊は深秋に至りて喙拆(くじ)く。瑯琊代酔(ろうやだいすい)に曰く、古諺に云はく、霧滃(こまや)かにして蠏(かに)の螯(はさみ)は枯れ、露下りて蚊の嘴拆け、月虚にして魚脳減ずるといふといふ。(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898161/239(277~278/787)、漢字の旧字体は改め、漢文訓読を施した。)

 艾や榧の鋸屑の煙がいいらしい。カヤ(榧・栢)の木の古名はカヘ(ヘの甲乙不明)ともいう。蚊帳と同じ効果があるから、カヤと称するのであろう。蚊除けに艾やおがくずが使われている。艾(よもぎ)は灸の材料として艾(もぐさ)にする。綿状になっているのでガガイモ同様印肉にも用いた。また、年老いて髪の毛が艾色となることから老人の意がある。年をとると肩こりや腰痛などいろいろお灸を据えたくなるから、艾の字に年寄りの意があるのは納得できる。記に、「御火焼之老人」と火元責任者が老人であるのは、語義からは自明のことなのである。ヒタキの他義については、後述する。清寧記に、「火焼の少子(わらは)二口(ふたり)、竈(かま)の傍(かたへ)に居り。」、延喜式・主殿寮式に、「火炬(ひたき)の小子(わらは)四人〈中宮は此の限りに在らず〉は、山城国葛野郡、秦氏の子孫にして事へるに堪へる者を取り、之と為。歯(よはひ)冠婚(かうふりしめまく)に及び、省を申さば請替せよ。」とあるのは、料理に使う竈の火の番をする者で、篝火とは別の役目である。二条良基・筑波問答に、「火をともす稚(をさな)き童(わらは)」とあるが、他に見えない伝承である。両者を混同したものか。
蚊帳(左:歌川国貞・星の霜当世風俗(蚊やき)、足立区HP、https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/shiryo-3-toyokuni.html、中:礒田湖龍斎(1735~?)・夏、江戸時代、18世紀、東博展示品、右:鈴木春信(1725?~70)・蚊帳から出る美人、江戸時代、18世紀、中判錦絵、東博展示品)
 江戸時代の俳句に、「蚊を焼くや 褒姒(ほうじ)が閨の さざめごと」(其角)、「蚊を焼くや 紙燭(ししょく)にうつる 妹がかお」(一茶)などとある。栗原1995.に、「蚊帳(かや)の中の蚊(か)をなぜ手でたたかなかったのだろうかと思う。あるいは子どものセミとり網(あみ)でも使って蚊(か)をつかまえてしまえばよい。火をつかうなど、危険(きけん)なことだ、」(192頁)とある。確かにその通りではあるが、電灯のない時代、寝屋は薄暗く、蚊のいる確かな場所を見出すことができない。明かりを灯したついでに退治してしまおうとしている。あるいは蚊遣火のように、蚊は火を以て制するものであると、人々の観念に染みついていたことにもよるのかもしれない。
 艾の字は、説文に、「艾 冰台也、艸に从ひ乂声」とある。氷を凸レンズとして太陽光を集めて焦点を作り、艾に火種を取ることをいう。晋・張華・博物志巻四に、「戯術に、冰を削り円なら令め、挙げて以て日に向け、艾を以て後へに其の影を承けば則ち火を得。火を取る法、珠を用ゐて火を取るが如く、多く説有るも、此れ未だ試さず。(戯術、削冰令円、挙以向日、以艾於後承其影則得火。取火法、如用珠取火、多有説者、此未試。)」とある。紀の「秉燭者」、「秉燭人」にある秉の字は、爾雅・釈詁に、「秉・拱、執る也〈両手にて持つを拱と為(す)〉。」とある。古代には、火を熾すのに火鑽、火打石といった方法もあったが、凸レンズによって火を取ることも多かったようである。和名抄・玉石類に、「火精 兼名苑に云はく、火珠、一名に瑒璲〈陽燧二音、比止流太万(ひとるたま)〉は火精也といふ。」とある。新訳華厳経音義私記に、「鑽燧 〈上は則官反、木の中に火を取るを謂ふ也、倭に比岐(ひき)と云ふ。下は徐酔反、鏡の中に火を取るを謂ふ也、燧は正しくは鐆字と為(す)、辞酔反、火母を云ふ也、倭に火打(ひうち)と云ふ也〉」とある燧のことである。水晶のような自然石のほか、透明なガラスのような人造石、そして氷が用いられたのである。冰台の艾を以て艾(もぐさ)に火を取った。
火取水取玉(法隆寺献納宝物、奈良時代、8世紀、東博展示品)
 艾は和名抄に、「艾 本草に云はく、𦬄艾は一名に医草〈与毛岐(よもぎ)〉といふ。兼名苑に云はく、蓬〈音逢〉は一名に蓽〈音畢〉、𦬄艾也といふ。」とあり、養老令・軍防令に、「凡そ烟(えん)放たむに貯(まう)け備へむ者は、艾、藁(わらほどろ)、生(なま)しき柴等を収(と)り、相ひ和(か)てて烟放つべし。」とある。ヨモギは烽(とぶひ)の着火剤として用いられた。軍防令の規定は、それまでの、話としては景行朝にまで遡る長い経験を踏まえつつ、唐令を採り入れたと解釈すべき事柄と言える。なお、ガマの油売り同様、ヨモギの産地としては伊吹山がよく知られている。倭建命(日本武尊)に因縁の地である。
 休暇について考えると、官人の休暇願いが思い起こされる。蚊遣火に使われていた艾をお灸に使うとき、治療と称して休暇願いを出している。12世紀、中山忠親の日記、山槐記に、「天晴れ、申の刻、束帯を着し、関白殿に参じ、実長朝臣の灸治暇(きうちいとま)の事を申す。」(仁平二年(1152)九月六日)とある。また、腫物などの治療として、蛭に悪血を吸わせることも行われた。正倉院文書、大友路万呂請暇解に、「路万呂、身の内股に瘡出づる在り、蛭食ふ治せむが為に、暇を請ふこと件の如し。」(宝亀二年(771)閏三月二十二日)とある。これら治療のための休暇願は、筑波問答の歌と関係があるようである。蛭については後に詳述する。
 筑波問答歌は、倭建命(日本武尊)の歌に「御火焼之老人」、「秉燭人」が歌を返したものである。何がかえっているか。第一に、倭建命(日本武尊)の一行は、蝦夷征服から「帰(かへ)る(ヘは甲類)」さなかにある。白川1995.の「かへる〔帰(歸)〕)」の項に、「「變(かへ)る」という表記がしばしば見られるのは、表裏をかえす、変更するという語源意識があったからであろう。古点には「轉(かへ)る」のような例もみえる。」(249頁)とある。帰り路に卓抜な歌を返し、頓智において、主従の立場が逆転するほどのものが筑波問答歌である。蛙(かへる、ヘは甲類)で名高い筑波から帰ってきている。
 第二に、「帰る」という語に、「替(買・交・代)(か)ふ」の派生形としての意識があったとすると、名詞形のカヒ(ヒは甲類)という語との連関が想像される。東国(あづまのくに)から峠を越えている。その際は、わざわざ高みを目指すことはなく、峰のうち最も低いところを選んでいるはずである。そこは峡(かひ、ヒは甲類)である。

 日下部(くさかべ)の 此方(こち)の山と 畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の 此方此方(こちごち)の 山の峡(賀比)に ……(記90番歌謡)

 そして、卵(かひ、ヒは甲類)とも関係する。先述の雄略紀八年二月条に、「国の危殆(あやう)きこと、卵(かひ)を累(かさ)ぬるに過ぎたり。」(前田本訓)とあった。カヒゴと訓む例もあるが、もともとはカヒが通例であったと考えられている。

 法(のり)を聞か未(ぬ)以前(さき)は▲(日の下に卵)(かひ)に囚(こも)れるが如し。(東大寺諷誦文)
 卵(かひ)のうちに昨日(きのふ)は見えし靏(つる)の子の 今日(けふ)はうへにもならびゐる哉(宇津保物語・藤原の君)
 卵(かひ)のうちに命こめたる雁のこは 君がやどにてかへさざるらん(同上)

 時代別国語大辞典の「かひ[貝]」の項の【考】に、諷誦文稿とともに、名義抄の「殻 カヒ」をあげ、「殻をカヒと称するのがもとで、貝の意に特殊化されたのか、もと貝の意の語であったのが殻の意に一般化したのか、卵をカヒゴと称するところからは前者かと思われるが、決定はできない。」(210頁)としている。しかし、この設問は語の本義に肉薄するものではない。卵をタマゴと呼ぶのは、玉のような形をしたなかに必ず子が入っているからであろう。卵をカヒゴと称するのは、殻(かひ)の形態のなかに必ず子が入っているからであろう。自然界において、鳥の卵であれ、貝であれ、なかに生命体を宿していないものについては、カヒではなく、カラという。からっぽなのが貝殻である。なかに生命体が宿っていれば、時間をかけて観察していると、かすかに揺れたり、殻(から)に隙間ができて動いているのがわかる。その生命体を殻(から)が包むものをカヒと称したと考えるのが自然ではなかろうか。それは、本稿に照らして言うなら、上述の綴(縢)(かが)れる鎧の縅に相同する。武人が殻(から)に覆われているのと似ている。卵をカヒというのは、仏典にいう卵生・胎生・湿生・化生のなかの、殻(から)のある卵生の特徴をうまく物語っている。殻のなかに新しい命がくぐもっている。紀の冒頭は次の文章で始められている。

 古に天地(あめつち)未だ剖(わか)れず、陰陽(めを)分れざりしとき、渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如くして、溟涬(ほのか)にして牙(きざし)を含(ふふ)めり。(神代紀第一段本文)

 「溟涬」は別訓に、ククモリテとあり、カガマルの音転クグモルをいう。卵の殻のなかに籠もっていることをいう言葉である。くぐもり、かがまっていながら、孵ることが予定、期待されている。和名抄に、「卵 陸詞に曰く、卵〈音嬾、加比古(かひご)〉は鳥の胎也といふ。呂氏春秋に云はく、鶏卵は▼(卵偏に叚)〈音叚、須毛利(すもり)〉多しといふ。野王案に曰く、▼卵は孵らざる也、孵〈音孚、俗に賀閇流(かへる)と云ふ〉は卵の化す也といふ。」とある。卵(かひ)と殻(から)との関係について、きちんと説明されている。卵(かひ)について同様、宇津保物語に例が載る。カヘルかカヘラナイかが問題とされている。

 浜千鳥 ふみこし浦に 巣もりごの かへらぬ跡は 尋ねざらなん(宇津保物語・藤原の君)

 倭建命(日本武尊)の一行は、酒折宮に蚊帳を吊るして卵のように籠っている。孵る(帰る)途中である。けっして▼(巣守(すも)り)ではないだろう、と皮肉に諭し返したのが「御火焼之老人」、「秉燭人」である。
 また、代(かひ、ヒは甲類)とも関係する。代という語は、ある行為の結果として望ましい事態が起こること、効果が得られること、そしてその代償として支払うべき対価のことをいう。買(交・替)(かひ、ヒは甲類)という語と通じていると考えられる。新撰字鏡に、「債 七経在差七敗側売四反、徴也、求也、動也、毛乃乃加比(もののかひ)、又於保須(おほす)」とある。

 味飯(うまいひ)を 水に醸(か)みなし 吾が待ちし 代(かひ)はさね無し 直(ただ)にし有らねば(万3810)

 したがって、上手な歌を「御火焼之老人」、「秉燭人」に返されたからには、「敦賞」(紀)、すなわち、十分なご褒美をもって代とせねばならなかったのである。利益、すなわち、利(かが)が得られた。やはりカガなる音が現れている。
 山路1994.に、「酒折宮の名義はおそらくヤシホヲリの酒のヲリに関係を持つのではないか。」(329頁)としていた。興味深い指摘である。ヤシホヲリとは、須佐之男命(素戔嗚尊)が八俣遠呂知(八岐大蛇)を退治するために作らせた酒の醸造法である。八俣遠呂知(八岐大蛇)の形容に、「彼(そ)の目は赤かがちの如くして」(記上)、「眼(まなこ)は赤酸漿赤酸漿、此には阿箇箇鵝知(あかかがち)と云ふ。の如し」(神代紀第八段本文)とある。アカカガチは、今いうホオズキである。先に酒との関連を述べれば、蝦夷地からの行軍中の野営地で、酒は飲めなかった。落語の「大山詣り」では、酒を飲んで酔っ払って暴れて髪を切られ、酒を吹きかけられて頭が蚊に食われて膨れ上がる姿が活写されている。つまり、久しぶりに酒が飲めるのは、檻である蚊帳のなかに入って安全だからである。サカヲリという名義には、安心して酒の飲める檻という含意もあるとわかる。そしてまた、和漢三才図会の豹脚の小項には、「又、酒を篠(ささ)の葉に灌ぎて傍隅に挿せば、則ち蚊は皆其の篠に集まる。」とも記される。
 そういった状況下で、カガナベテという語が出てくる。すなわち、カ(蚊)+ガ(助詞)+ナベ(隠)+テ(助詞)の意である。ナブ(隠)という動詞は、播磨風土記に見える。

 遂に度(わた)りて相遇(あ)ひたまひ、勅(みことのり)して「此の嶋の隠愛妻(なびはしづま)」とのりたまひき。仍りて南毗都麻(なびつま)と号く。(賀古郡)
 別嬢(わきいらつめ)聞きて、即ち、件(くだり)の嶋に遁(に)げ度りて隠(な)び居りき。故(かれ)、南毗都麻(なびつま)と曰(い)ふ。(印南郡)

 野営地で群がっていた蚊は、酒折宮では人々のまわりから隠れている。蚊帳を吊ったおかげである。それまでは、東の国で野営を繰り返し、蚊に悩まされていた。周りが全部庭であるような野営と、寝殿造りのように中庭をもったものとの違いにも表れている。和名抄に、「屋舎 陸詞韻に云はく、屋〈烏谷反、夜(や)〉は舎也といふ。周礼註に云はく、舎〈音は謝、和名は上に同じ〉は休沐する処也といふ。」とあり、廿巻本和名抄には、照陽舎、淑景舎、飛香舎、凝華舎、襲芳舎が列挙されている。中古に、桐壺、梨壺といった称呼が行われていた。大野2011.の「つぼ【壺・坪】」の項には、次のように解説されている。

胴が丸くふくらんでいて口のつぼんだ容器。土器・陶磁器・漆器・金属器など、材質はさまざまある。『日本書紀』で「都保(つほ)」「都府(つふ)」などと書かれ、上代はツホと清音であったと思われる。酒壺・茶壺・薬壺など、物の貯蔵に用いることが多い。滝壺・石壺(いわつぼ)などのように、周りが囲まれて深い窪みや穴になっているものもツボという。錠の掛け金を差し込む金具は壺金(つぼがね)である。物事のねらい所や急所などを指すときもツボで表す。
また、屋敷内で、周りを建物や垣根で囲まれた小さな中庭をツボといい、「坪」とも書く。そのような庭に植えられた草木が坪前栽(つぼせんざい)で、ここに植えられた木の名前がその前の殿舎の呼び名となり、そこに住む女性の名称となった。中古の後宮では、桐壺(淑景舎)・藤壺(飛香舎)・梨壺(昭陽舎)・梅壺(凝花舎)など、六舎が坪庭をもっていた。(802頁、この項、石井千鶴子)

 中庭が壺である。一方、東の地において、倭建命(日本武尊)は輿に乗って蓋(きぬがさ)に覆われて行進していたであろうから、野営においても同様の形態であったと思われる。それは、東の地なのだから、移動式のアヅマヤと呼ぶに相当する。新撰字鏡に、「四阿 阿豆万屋(あづまや)」、和名抄に、「四阿 唐令に云はく、宮殿は皆四阿〈弁色立成に云はく、四阿は安都末夜(あづまや)といふ〉といふ。」とある。アヅマヤという言葉は、建築上は四方に葺き下ろした屋根の形、その形の家のことを指すが、庭園内の休憩所のこともいう。同じく屋根が葺き下ろした方形の小さな建物で、壁を持たずに風が吹き通る。庭に配すると一点景となって趣きがある。すなわち、壺は建物に四囲を囲まれた庭であったが、アヅマヤでは庭に四囲を囲まれている。この好対照が、東の国を通過して宮のある地に辿りついたことの意味合いである。そして、壺には酒が入っていて、宮建築の酒折宮では酒が飲めるのである。
アヅマヤ(小石川後楽園)
 「御火焼之老人」、「秉燭人」は、東の国の野営地において、蚊遣り火を焚いていた。そうすることによって、蚊は隠れて倭建命(日本武尊)は安眠できた。今、酒折宮では蚊帳のおかげで蚊は隠れている。どこへ隠れたかといえば、飲み干してあけてしまった酒壺の中、すなわち、宮の坪庭である。つまり、カガナベテという言葉は、ニハ(庭)に掛かる枕詞なのである。「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」。巧妙な仕掛けの洒落に、圧倒、蹂躙されまくっている。
(つづく)

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