古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

崇神記紀の、謀反を告げる少女の歌を含む説話について 其の一

2022年06月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
一、問題の所在

 記紀の崇神天皇条に、坂で出会った娘が内容のよくわからない歌を歌っていたので問い質したところ、何も言ってはいない、ただ歌っているだけだと答え、その場から消えていなくなったという話が載っている。その意味するところを探ってみると、タケハニヤス(武波邇安王たけはにやすのみこ武埴安彦たけはにやすびこ)の謀反を示唆していたとわかり、歌のおかげで早めに察知されたので無事に鎮圧している。

 又、此の御世みよに、大毘古命おほびこのみことは、高志道こしのみちつかはし、其の子建沼河別命たけぬなかはわけのみことは、東方十二道ひむかしのかたのとをあまりふたつのみちに遣して、其のまつろはぬ人どもやはし平げしめき。又、日子坐王ひこいますのみこは、旦波国たにはのくにに遣して、玖賀耳之御笠くがみみのみかさ 此は人の名ぞ。を殺さしめき。かれ、大毘古命、高志国こしのくにまかく時に、腰裳こしも少女をとめ山代やましろ幣羅坂へらさかに立ちて、うたひていはく、
 御真木入日子みまきいりびこはや 御真木入日子はや おのを ぬすせむと しりよ いたがひ まへつ戸よ い行き違ひ うかかはく 知らにと 御真木入日子はや(記22)
 ここに大毘古命、あやしと思ひ、馬を返し、其の少女に問ひて曰く、「が謂へること何言なにことぞ」といふ。しかくして、少女答へて曰く、「は言ふことし。ただ歌をまむとつらくのみ」といふ。即ち其の所如ゆくへも見えずしてたちまちに失せぬ。(崇神記)
 十年の秋七月の丙戌の朔己酉に、群卿まへつきみたちみことのりしてのたまはく、「おほみたからを導くもとは、教化をしへおもぶくるに在り。今、既に神祇あまつかみくにつかみゐやまひて、災害わざはひきぬ。然れども遠荒とほきくにの人等、猶正朔のりを受けず。是未だ王化きみのおもぶけに習はざればか。其れ群卿を選びて、四方よもに遣して、のりを知らしめよ」とのたまふ。九月の丙戌の朔甲午に、大彦命おほびこのみこと北陸くぬがのみちに遣す。武渟川別たけぬなかはわけをもて東海うみつみちに遣す。吉備津彦きびつひこをもて西道にしのみちに遣す。丹波道主命たにはのちぬしのみことをもて丹波たにはに遣す。因りて詔して曰はく、「若しのりを受けざる者有らば、乃ちいくさを挙げて伐て」とのたまふ。既にして共に印綬しるしたまひて将軍いくさのきみとす。壬子に、大彦命、和珥坂わにのさかうへに到る。時に少女をとめ有りて、うたよみして曰く、あるに云はく、大彦命、山背やましろ平坂ひらさかに到る。時に、道のほとり童女わらはめ有りてうたよみして曰く、
 御間城入彦みまきいりびこはや 己がを せむと ぬすまく知らに 姫遊ひめなそびすも 一に云はく、大き戸より うかかひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊すも(紀18)
 是に、大彦命あやしびて、童女に問ひて曰く、「いましいひつること何辞なにことぞ」といふ。対へて曰く、「ものもいはず。ただ歌ひつらくのみ」といふ。乃ち重ねて先の歌をうたひて、たちまちに見えずなりぬ。(崇神紀十年九月)(注1)

 坂の上に少女(童女)がいて歌を歌い、不審に思ったオオビコが問うたところ、ただ歌を歌っているだけだと答えている。この記述に続き、歌の内容について、タケハニヤスの反逆の兆候を表わすものであると知れ、天皇は討伐したという展開に至っている。そういう流れになっているから、それをもとに歌謡について解説されてきた。
 記22歌謡の解説には次のようなものがある。本居宣長・古事記伝に、「一首ヒトウタスベての意は、己命オノレミコト大御命オホミイノチを、ひそかにシセ奉むとて、大殿をカクウカヾひ奉る者のあるを、所知看シロシメさぬこととて、御真木入日子命ミマキイリビコノミコトはよ、ナニの御心もなくて シますことよと、アヤぶみ歎きて、よそながらオドロかしサトし奉れるさまにて、大御名を二たび三たび打返し申して、トヂめたるに、 リもなく深き歎きの聞ゆるなり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/29、漢字の旧字体は改めた)、西宮1979.に、「この歌は、神が少女の口を借りて歌わせているもので、だから「御真木入彦」と呼び捨てにしている。」(138頁)、次田1980.に、「腰裳をつけた少女が、なぞめいた歌を歌って姿を消したというのは、この少女が神意を告げる巫女みこであって、風刺の歌は、神の下した神託の一種と考えられたのである。『日本書紀』に「童謡わざうた」と呼んでいる歌にも、このように事件を風刺予告した歌とされるものが少なくない。」(97~98頁)、新編全集本古事記に、「乙女の歌は神の意思を伝えるもので、……天皇に神の加護が働いている。」(189頁)、西郷2005.に、「たんにものいうことと歌をうたうこととの間に、あまり大きな差がなかった消息を語っているといえよう。」(266頁)、居駒2019.に、「この歌は建波邇安王の反乱を少女が予言したものである。少女に神が憑いて歌によって託宣したというのが予言の実体である。」(42(5)頁)などである。しかし、これらは状況証拠による推測に過ぎず、オオビコと少女(童女)との間のやりとりをきちんと読んでいるとはいえない。
 記紀ともに、歌のあとで、歌を聞いたオオビコと、歌を歌った少女(童女)との問答が載せられている。

 記:「が謂へること何言なにことぞ」→「は言ふことし。ただ歌をまむとつらくのみ」
 紀:「いましいひつること何辞なにことぞ」→「ものもいはず。ただ歌ひつらくのみ」

 ここに明示されているのは、基本的には発声において、コト(言)とウタ(歌)とは異なるという点である。その詳細については以下に検討する。少女(童女)が、「ミマキイリビコハヤ……」と歌に詠んでいたことについて、ナニコト(ナニノコト)(何言、何辞)を言っているのかと聞いたら、コトではなくてウタなのだ、という返事になっている。これは奇妙なことである(注2)。歌は節をつけ、拍子にあわせて発声することであるが、そのとき、言葉でないということはない。ホーホケキョやコケコッコーではないからである(注3)。清濁甲乙あわせて90音弱の音からなるヤマトコトバを用いて歌っているはずである。それなのに、少女(童女)は言葉ではないと言っている。そして、何かの暗号であるかのように扱われ、その「しるし」(記)や「しるまし」(崇神紀十年九月)を調べるに及んでいる。土橋1972.は、「この歌[記22]は神が小童の口を借りて未来に起こるべき事件を予告するという思想、または信仰が古代にあったことを物語るものであるが、それはあくまでも思想・・信仰・・であって、そういう事実・・があったのではない。」(106頁)、新編全集本古事記は、「乙女の歌は、いわゆる「謡歌うたわざ」の一種で、神が人の口を借りて自らの意思を伝えるもの。乙女自身には、はっきりとした意識がない。」(189頁)、中村2009.は、「神託の暗示。」(118頁)としている(注4)がみな曲解であろう。
 難しく考える必要はない。少女によってウタが歌われている。万葉歌同様にウタである。歌われる限りにおいて「コト」葉が発せられている。ナニコトか当人が理解していない場合には、わからない、知らないと答えるものであり、言っていないとは言わない。オホビコと少女(童女)との間に認識の差があり、把握の仕方が咬み合わない事態に陥っていることを表すために珍問答に仕立てている。
 歌謡のなかの言葉に注目してみると、記紀のいずれにも、「ミマキイリビコハヤ」という言葉が入っている。このハヤは助詞である。体言につき、特別に極限的な状況であると思い、その対象について強い感動、詠嘆をあらわすものである。当然ながら口語文にあらわれる。

 あづまはや〔阿豆麻波夜〕(景行記)
 その大刀はや〔曽能多知波夜〕(景行記、記33)
 うねめはや、みみはや〔宇泥咩巴椰、弥弥巴椰〕(允恭紀四十二年十一月)
 言ひし工匠はや あたら工匠はや〔伊比志拕倶弥皤夜 阿拕羅陀倶弥皤夜〕(雄略紀十二年十月、紀78)

 時代別国語大辞典では、文中か文末かの違いとして項立てしてある。同時に、連用の文節についている場合かどうかの違いとして見極めるべきものでもあろう。この個所では、「ミマキイリビコハヤ」で始まっている。文頭近くのハヤの例になり珍しいものである。倒置形と捉えられなくもないが、意図的な配置なのであろう。ハヤは詠嘆の嘆息で、最初から、ああ、と言っている。ふつうならそこで言葉は完了するはずである。ああ、どうしたらいいんだ、と溜め息をついている。どうしようもない、それでおしまいである。それが人の口の常である。にもかかわらず、続けて言葉が発せられている。だからオホビコは「言(辞)」だと思い、対して少女(童女)は、それは言葉ではなく、ただ拍子をつけた「詠歌(歌)」なのだと主張している。珍問答の解釈が求められる。

二、古事記の表現と用字について

 記には、「唯為詠歌耳。」と記されている(注5)
 歌の提示箇所においては、記22歌謡を含めて記ではほとんどの場合、前に何が付こうが「歌曰」の形である。「歌曰」なら「歌ひて曰く」、「其歌曰」なら「其の歌に曰く」、「御歌曰」なら「御歌に曰はく」、「答歌曰」なら「答ふる歌に曰く」である。それら訓みの小差はあれ、形式を踏んで歌謡部分は示されている。
 そんななか、例外的に、「為歌曰」(記34)を「うたよみて曰く」、「献御歌曰」(記55)を「御歌を献りて曰はく」、「送御歌曰」(記59)を「御歌を送りて曰く」、「為詠曰」(記104)を「うたよみ為て曰く」と通訓している。記55・59歌謡は、面前で歌ったのではなくて遠隔地で代理人を使い歌わせている。記34・104歌謡の例がウタヨミという形に訓まれている。記34の「歌」をウタヨミと訓むのには疑問が残る(注6)
 また、「詠」字は、記では次の4例に限られる。

 はたを巻きほこをさめ、うたひて都邑みやことどまりましき。(記序)
 しかくして、少女答へて曰く、「は言ふことし。ただ歌をまむとつらくのみ」といふ。(崇神記、記22の後)
 此の歌は、国主くにす大贄おほにへを献る時々に、つねに今に至るまでうたふ歌ぞ。(応神記、記48の後)
 爾くして、遂に儛ひをはりて、次におと儛はむとする時に、うたよみて曰く、……(清寧記、記104の前)

 これらの例から、記の「詠」字は、その時に作られて歌われた歌ではなく、舞いの伴奏にきまって歌われたり、毎年の式典において恒常的に歌われていたりする、拍子をつけて決まり文句のように歌われる歌について使われているとわかる。言葉を峻別するためには、「詠」、「詠歌」字にはウタヨミスという訓をつけるのがふさわしかろう。なぜなら、ヨムというヤマトコトバは、数えあげるときに声を発するところに始まっており、数え歌にその典型を成すからである(注7)

 旌を巻き戈を戢め、まひうたよみして都邑に停まりましき。(記序)
 爾くして、少女答へて曰く、「吾は言ふこと勿し。唯詠歌うたよみらくのみ」といふ。(崇神記、記22の後)
 此の歌は、国主等が大贄を献る時々に、恒に今に至るまでうたよみする歌ぞ。(応神記、記48の後)
 爾くして、遂に兄儛ひ訖りて、次に弟儛はむとする時に、うたよみて曰く、……(清寧記、記104の前)

 記序の例は、壬申の乱がおさまって、飛鳥の宮に落ち着いたことを言っている。「儛詠」が自由創作ダンスで遠くへ行ってしまうようでは形容としてふさわしくない。いつもながらの落ち着いたものである必要がある。そろっと行ってはそろっと帰る舞いを舞うのである。記22歌謡についての「唯為詠歌耳」は、「唯為歌耳」ではなく、「唯為詠歌耳」と捉えるべきであろう。単に引き継がれている歌をくり返しているだけである、という意味である。
 ここまで理解したことをふまえて、途中経過として、問題の記22歌謡の問答部分を再掲しておく。

 ここに大毘古命、あやしと思ひ、馬を返し、其の少女に問ひて曰く、「が謂へること何言なにことぞ」といふ。しかくして、少女答へて曰く、「は言ふことし。ただ歌詠うたよみらくのみ」といふ。即ち其の所如ゆくへも見えずしてたちまちに失せぬ。(崇神記)

三、問答の構造的解釈─その自己循環的表明─

 問答表現は実に的確である。オホビコは、おや、変だな? と思っている。特殊、特異なことと感じている。何に不自然さを感じたか。第一に、記では腰裳(注8)を着用した少女が立っていたことになっている。ミニスカートの少女が寒風吹きすさぶ坂道に立っていて元気である。
裳を着けた女子(高松塚古墳壁画西壁女子群像、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/高松塚古墳、Mehdan氏撮影)
 うずくまっていて寒がっていたのではない。「山代の幣羅へら坂」という、ウタヨミなどするはずがないところで歌っている。それが第二である。山代の幣羅坂とわざわざ断っている。山のシロ(代)とは、山の代用になるもの、人造の山、すなわち、古墳のことであろう。古墳を作るには、周囲にある土砂を掘削して運び、盛りあげてつき固める。土を掘るためにはシャベルが必要で、ヘラ(箆)のように持ち上げ返すことができなければならない。地面は軟らかい時もあれば硬い時もあるから、リズミカルに掘り進められるものではない。当然ながら男の仕事である。着物の裾を端折り、あるいは股引などで防御しながら作業する。ミニスカートで素足を露出している少女の出る幕ではない。山代の幣羅坂で、作業を進めるための数え唄が聞こえるというのは異様なことである。言葉に撞着が起きている。
下部:井戸掘り、上部:楔を打って材を割る(光明寺蔵 田中訥言筆 当麻曼荼羅縁起絵巻模本、鎌倉市ホームページhttps://www.city.kamakura.kanagawa.jp/rekibun/kiyou.html、『鎌倉市教育委員会文化財調査研究紀要』第4号(令和4年(2022)3月刊行)口絵(2/4)をトリミング)
 紀の本文の語り口では、舞台は「和珥坂わにのさかうへ」に設定されている。ワニというところにされているのには意味があるのだろう(注9)。ワニノサカノウヘのワニは、話に聞く動物のワニのことを思い浮かべさせる。稲羽の素菟の説話が物語るように、ワニは大陸から伝えられた踏み臼(唐臼)を表した。それは竪臼、竪杵のように、数人が一緒になって声を掛け合いながら搗くものではなく、一人で黙々と作業するものであった。フミ(踏)はフミ(文)と同音で、黙読できるほどに記録化されるものである。すなわち、「和珥坂上」と指定することは、数え唄を歌わないことを示している。少女が「乃重詠歌」しながら「忽不見」という表現は、再び、おや、変だな? と思わせる仕掛けとして働いている。「異」様さの本質は論理展開の自己撞着にあることを伝えるべく仕組まれているわけである。ふつうの歌にない「異」様さは、歌の内容だけではなく、歌の歌い方、歌の歌い手、歌が歌われた状況の多面にわたり、論理のカテゴリーを超えて、歌そのものが実在したものかどうかということからさえわからないほど「異」様だと訴えている。
 紀の「一云」にある「山背の平坂ひらさか」については、記の表現に近いが主旨は違うようである。山のウシロ(背)に回るのだから坂を越えるはずである。そのとき平らな坂ということはあり得ない。架空の場所であると言葉自体が白状している。
 そして、第三に、なんだか意味不明の歌が聞こえた。鼻歌を歌っていたのではなく、きちんと言葉として成り立った歌詞を歌っている。ミマキイリビコという天皇の固有名が耳に入れば、伝えるべき内容を伴った、意味のある言葉であることは必定であろう。場違いで、人選にも疑問があり、天皇を呼び捨てにもしていてふさわしくなく、すべての面で不思議だと思ったのであった。「思怪」(記)、「異之」(紀)としている。
 そこで問答が行なわれた。記では次のように記される。

 「汝所謂之言、何言。」→「吾勿言、唯為詠歌耳。」

 「が謂へること何言なにことぞ」という問いに対し、少女はまずその問い自体、発想からして誤っていることを指摘している。訓みとして、「は言ふことし」よりも正確にして直截なのは、「ことし」である。何も言っておらず、言葉ではないから事柄を表わすものでもない。記22歌謡は、「ただ為詠歌うたよみするのみ」ものなのである。以前から伝統的に受け継がれてきた歌をそのとおりに詠む、ウタヨミをしているだけであると言っている。「述べて作らず」(孔子)である。したがって、そこにコト性は皆無なのである。「唯為詠歌耳。」について、「ただ歌詠うたよみつらくのみ」、「ただ詠歌うたよみらくのみ」とク語法を使って訓むのは、したコト、するコト、の義になってコトがあることになるからふさわしくないといえる(注10)
 紀では次のように記される。

 「汝言何辞。」→「勿言也、唯歌耳。」

 「いましいひつること何辞なにことぞ」という問いに対して、「ものもいはず。ただ歌ひつらくのみ」と答えている。もっと簡単に、「いましこと何辞なにことぞ」「ことし。ただ歌のみ」のほうがわかりやすいであろう。童女は歌を歌うときは饒舌であるが、受け答えは片言しか話すことができなかった。そういうことにすれば、「童女」の答えとして信憑性が増す。そう訓んでわかるのは、動詞を発していないことである。動詞を伴わない存在とは動かない存在である。「忽不見。」とはその場から消えていなくなったことであるが、どこかへ歩いて行ったのではなく、影が薄くなって消滅したことを指している。幻を見ていたということである。
 人間の言葉はすべて音声言語の時代であった。空間に発せられては消えていく。少女(童女)は、歌も受け答えの言葉も、その姿も、現れては消えていったということである。それはコトという言葉に絶妙に体現されている。コトには、言、事、のほかに、殊(異・別)の意がある(注11)。「思怪」、「異之」におけるナニコト? は、何が異なっているのか、What’s different? とも取れる。それに対して、何も違わないよ、変なところなんてないよ、という意味で、コトナシと答えていることにもなる。殊無し、Nothing different. である。

 つるばみの 解き洗ひ衣の あやしくも ことに着欲しき このゆふへかも(万1314)
 橡の きぬは人皆 こと無しと 言ひし時より 着欲しく思ほゆ(万1311)
 くれなゐの 深染こぞめの衣 下に着て 上に取り着ば ことなさむかも(万1313)

 これら万葉歌の例では、ファッションの関連語としてコトという言葉が用いられている。少女が腰裳スタイルで立っていた点に通じるものがある。奇抜なファッションをすると人目につき、他の人からとやかく騒がれる。ふだんとは異なるから事件なのである(注12)

 ここに大毘古命、あやしと思ひ、馬を返し、其の少女をとめに問ひて曰く、「が謂へること何言なにことぞ」といふ。しかくして、少女答へて曰く、「ことし。ただ為詠歌うたよみするのみ」といふ。即ち其の所如ゆくへも見えずしてたちまちに失せぬ。(崇神記)
 是に、大彦命あやしびて、童女に問ひて曰く、「いましこと何辞なにことぞ」といふ。対へて曰く、「ことし。ただ歌のみ」といふ。乃ち重ねて先の歌をうたひて、たちまちに見えずなりぬ。(崇神紀)

 少女は答えてどこへともなく消えている。「唯為詠歌耳」、「唯歌耳」はいつもながらの伝承を伝えたにすぎず、そこに「個」などそもそもない。すなわち、「少女(童女)」は実存しない。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(ボーヴォワール)ではなく、何でもないと記されている。何でもないから名前も付けられず、したがって、巫女であると認めることもできないわけである。
 ここまで、崇神記紀の歌謡の設定とそれにまつわる問答に関して検討し、従来説の訓み方の不明と誤謬を正した。

四、紀18歌謡の「ひめなそび」について

 記紀で説話の仕立て方が若干異なっている。その違いのうち最大と目されているのが「姫遊ひめなそびすも〔比売那素寐殊望〕」という句の存在である。本居宣長・古事記伝に、「媛遊ヒメノアソビとは、天皇の、美女カホヨキヲトメツドへて、ウタゲなどし給ふを云るなるべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/29、漢字の旧字体は改めた)と解する説が有力視されている(注13)。漢籍に例のある傾城の女遊びを思わせるからであろう。ただ、話の流れとなかなか整合しない。御間城入彦(崇神天皇)に妻問い婚は記されていない。飯田武郷・日本書紀通釈に、「媛之遊とは。女等の戯遊ひて。何の心もなきを。四遣将軍の帝京を離れて。四方の国々へ立行かむとするに喩へたるなり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1115817/363、漢字の旧字体は改めた)とする説に近いのではないかと考えられているが異論も多い(注14)
 「比売那素寐ひめなそび」はヒメのアソビの約であろう。これまでヒメは姫(媛)(メは乙類)のこと、女のことと思われてきた。しかし、ヒメにはほかに、ヒメヤ(ひめ矢)、ヒメカブラ(ひめ鏑)の意のヒメ(メは乙類)の義がある。ヒメは割れ目の意であり、ひめ矢とは木や石を割るときに割れ目に挟むくさびのこと、ひめ鏑とは、割れ目をつくる先のするどい鏑矢のことをいう。

 是に八十神見、また、欺きて山に入りて、大き樹を切り伏せ、茹矢ひめやを其の木に打ち立て、其の中に入らしめ、即ち其の氷目矢ひめやを打ち離ちてち殺しき。(記上)
 梓弓 八つ手挟たばさみ ひめ鏑〔比米加夫良〕 八つ手挟み 鹿しし待つと 吾が居る時に(万3885)

 紀18歌謡にいう「比売那素寐ひめなそび」は、割れ目遊びのことを言っている。四人の皇族を各地の平定のために赴かせている。「既而共授印綬将軍。」と将軍であることを確かめる「印綬しるし」を授けている。「印綬」と書かれているから「漢委奴国王」の金印のようなものを思い浮かべるかもしれないが、そうではない。将軍に任じたという証になるものを与えている。中国では銅製の虎符が用いられていた。虎の形を二つに割り、片方を将軍に渡し、片方は朝廷に置いた。最終的に真偽を確かめることができるシルシであった。軍事以外では竹製、ないし竹を象った竹符も用いられた。通行手形や為替などでも二つを合わせることで真であることの証明にし、勘合符などにつづいている。
左:銅虎符(杜虎符、西安南郊山門口出土、ウィキペディアhttps://zh.wikipedia.org/wiki/虎符、Antolavoasio様撮影)、右:虎符陰(王圻・三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574378/93をトリミング)
割符イメージ(木製、杉材、筆ペン墨書、ひめ矢の代りに鉈を使用)
 つまり、四道将軍に与えられた「印綬しるし」とは、割符のことなのである。ヤマト朝廷が用いたものとして考えられるものとしては、木製の木契(注15)が卑近であろうと思われる。割符を合わせて確認するとき、その割れ目がぴったりと合うことが何よりの証拠となる。竹符が竹の節の間隔、形状の一致に見るのと同じで、節理に従って合わさるのである。鋸で挽いて二つに取ったものではなく、楔を噛まして割り取るから両者はよく符合し、他のものでは代えがたいものに仕上がる(注16)。そんな楔のなかでも鋭利なものを「ひめ矢」と呼んでいる。すなわち、「ひめなそび」とは、「ひめ矢」で割符を作っては合わせてみて遊んでいるようなものだと諷喩した言葉なのである。姫君がする貝合わせ同様のおままごとだというので、「ひめなそび」という言葉は当を得た言い方といえる。四道将軍に任命された四人は崇神天皇の親戚筋にあたる「群卿」であり、お正月に寄り集まって神経衰弱のゲームに興じているようなものだと皮肉っている。
貝合せ図(喜田川歌麿(?~1806)・潮干のつと、彩色摺狂歌絵本、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288344/10)

 御間城入彦みまきいりびこはや 己がを せむと ぬすまく知らに 姫遊ひめなそびすも(紀18)

 御間城入彦、ああ。自分の命を殺そうと時をうかがっているのも知らないで、割符ごっこなんかに興じていて。

 外征に力を入れているが内政にクーデターの危機が迫っていることを案じる声であったと理解することができる(注17)

五、まとめ

 記22・紀18歌謡ともども、物語の地の文と齟齬なく成り立っている。論理学的に自己矛盾をはらんだ言葉づかいの話が展開されていると理解されたうえでのことである。そして、謀反について諷刺的に暗示するものではないことが理解される。紀ではこの歌の後、天皇の姑のヤマトトトビモモソヒメが「乃知其歌怪」って天皇に意見を言う件がある。タケハニヤスの謀反であるというのである。彼女は「聡明叡智、能識未然」ということになっているが、その根拠は、「吾聞、武埴安彦之妻吾田媛、密来之、取倭香山土、裹領巾頭而祈曰、「是倭国之物実、乃反之。物実、此云望能志呂」であり、結論は、「是以、知事焉。」であり、対処法は「非早図、必後之。」と言っているだけである。伝聞に聞いたことと今また少女の歌のことを聞いて、両者を割符のように重ねてみて合わさったところを開陳しているばかりである。まだ謀反が起きているわけではないから「能識未然」であるが、どこに「聡明叡智」なところがあるのか。二つの情報を併せ考えて「印綬しるし」が「しるし」、「しるまし」の現れだと歌っているのだと見抜いた点であろう。神の声が“憑依”して口走っているわけではない。記22・紀18歌謡に託宣的な要素は見られない。現代的な解釈において、古代的な特徴としてアプリオリに“巫女”や祭祀の“呪術性”を据えることがあるが、古代の人とは相容れないところがある。紀の話は一貫して割符のシルシの話になっている。言葉ですべてを伝えた時代には、言葉がすべてだったのである。 
(つづく)

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