古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

笠金村の三香原離宮での歌(万546~548)について─「言寄す」の語義から見えてくるもの─

2022年06月06日 | 古事記・日本書紀・万葉集
笠金村の三香原離宮での歌

 笠金村の三香原離宮行幸時の歌は、万葉集の巻四の相聞の部立に載る。

  二年乙丑の春三月、三香原離宮みかのはらのとつみやいでましし時に娘子をとめを得て作る歌一首并せて短歌
                               笠朝臣金村
 三香みかの原 旅の宿りに 玉桙たまほこの 道のき逢ひに 天雲の よそのみ見つつ こと問はむ よしの無ければ こころのみ せつつあるに 天地あめつちの かみこと寄せて 敷栲しきたへの 衣手ころもでへて 自妻おのづまと 頼める今夜こよひ 秋の夜の 百夜ももよの長さ ありこせぬかも(万546)
  反歌
 天雲の 外に見しより 吾妹子わぎもこに 心も身さへ 寄りにしものを(万547)
 今夜こよひの 早く明けなば すべを無み 秋の百夜を 願ひつるかも(万548)(注1)
  二年乙丑春三月幸三香原離宮之時得娘子作謌一首并短歌
                     笠朝臣金村
 三香乃原客之屋取尓珠桙乃道能去相尓天雲之外耳見管言将問縁乃無者情耳咽乍有尓天地神祇辞因而敷細乃衣手易而自妻跡憑有今夜秋夜之百夜乃長有与宿鴨
  反歌
 天雲之外従見吾妹兒尓心毛身副縁西鬼尾
 今夜之早開者為便乎無三秋百夜乎願鶴鴨

 神亀二年(七二五)春三月、三香原の離宮に行幸のあった時、娘子を得て作った歌一首と短歌
  笠朝臣金村
 三香の原の旅宿で、(玉桙の)道でめぐり逢って、(雨雲の)よそながら見るだけで言葉をかけるすべもないので、心ばかり苦しく塞()がっていたが、天地の神の御はからいによって、(しきたへの)袖をさし交わし、我が妻として頼りきっている今夜は、秋の長夜の百夜分の長さがあってくれないものか。
 (雨雲の)遠くに見た時から、あの子に心も身もすべて寄り添ってしまったよ。
 今夜が早く明けてしまったら、やりきれないので、秋の百夜分の長さをひたすらに願った。(新大系文庫本361~363頁)

 この歌群は、通説に、娘子を得て喜んで作ったものとみられている(注2)。ただ、それが「妻」として受け入れられたものかについて疑問が呈されている。新大系文庫本では、題詞に「娶」となく「得」とあるので、「いわゆる一夜妻か。」(363頁)とし、古くは橘千蔭・万葉集略解に、「此娘子ハ紀路の遊女ならん」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001731/viewer/283)とある。
 さらに、曽倉2009.は「娘子を妻としていない」(12頁)と解釈するのが妥当で、「宴席歌」であって、「作歌主体を戯画化し、その恋の失敗、挫折を歌った、一種の笑わせ歌を意図したのであろう。」(13頁)、「娘子を得られると期待したが(長歌)、結局思いを果たさない内に夜明けを迎えそうだ(反歌)という歌であると考えるべきである。」(曽倉2020.428頁)と捉えている。この指摘は見当外れである。長歌のなかで状況を展開させている要の部分、「天地の 神の言寄せ」という表現について正しい理解が求められる。以下に述べていく。

「言寄す」

 上代語「言寄す(事寄す)」とその派生形「言寄さす(事寄さす)」は、①人々が噂する、噂に立てる、言い立てる、②「天地の神」を冠して神慮を寄せて助ける、神意によってはからう、③ご委任になる、といった意を表すとされている。語義はそのとおりであるが、意味として分散してまとまりがない。もともとの語の組み立てを理解しないままそれぞれの例に訳を当てはめて理解しても、用例の理解にはなっても語の理解にはつながらない。「言寄す(事寄す)」、「言寄さす(事寄さす)」という語が作られている原理を検討する必要がある。
 ①噂する、の意で解釈される例に次のものがある。

 A さの隈 桧隈川ひのくまがはの 瀬を早み 君が手取らば 言寄せむかも〔将縁言毳〕(万1109)
 B 里人の 言寄せ妻を〔言縁妻乎〕 荒垣の 外にや我が見む 憎くあらなくに(万2562)

 Aでは、水の流れが速いから足を取られないように女性の手を取ったら噂になるだろうと言っている。Bでは、噂されて妻扱いされている女性のことを垣根の外から見ようと思う、憎くなどないからと言っている。これらの解釈は歌の深意を汲んだものではない。なぜAに「さ桧の隈 桧隈川の」とダブらせて饒舌な言い回しが行われているのか、なぜBに「言寄せ妻」というほどの相手を「荒垣の外」からしか見られないのか、諸解説書に特段の説明は与えられていない。これらは歌である。わずか31音で意を伝え切ろうとしている。歌に気持ちを表明し切ることとは、ヤマトコトバで言い表すことである。どうしてそう言い表して通じているのか。問題はおのずと語用論になる。
 ヤマトコトバのコトという語は、よく知られるように、「事」でもあり、「言」でもあった。『万葉語誌』の説明では、「言葉を意味する「こと」と事柄を意味する「こと」とは、元来相通じる概念であった。モノが言葉による認識以前に存在するのに対して、コト(事)は言葉による認識作用・形象作用によってこそ形を与えられるためである。……現代において「さっき話したこと、絶対内緒だよ」などと言った場合の「こと」が言葉であるのか事柄であるのか不明瞭である点にも、それは引き継がれている。」(141頁、この項、大浦誠士)と簡潔である。実際の用例で語釈する際には、「言」の意、「事」の意にそれぞれ傾いている場合が多く、約束、命令、報告、音信、挨拶、言葉、伝承、噂、嘘、任務、行事、儀式、仕事、事件、出来事、事態、事実などと訳されている。とはいえ、コトという語の持つ二面一体性、「言」=「事」であることを暗黙のうちに認めてそのもとに述べられていると考えて読むことが求められる。ヤマトコトバの性質を正しく反映することになるからである(注3)
 Aに、手を取るということはすなわち「事」として二人が寄り添うことであり、それが「言」のレベルで噂立てられることになるのは必定のことだからこのように一つの歌としておさまっている。コトヨスが噂するという意味だからと言って、Aの「言寄せむかも」が、二人は別れたらしいよ、の意を表すことはない。Bに、「里人の言寄せ」が誹謗中傷や陰謀によってくっつけることを表すことはない。「我」は喜んでその「言」を受け入れ、「事」となることを期待している。すなわち、コトヨスとは、「言」と「事」とが一致するべきベクトルをとっていることを「寄す」と言いつつ、男女の二人の関係が近づくことを「寄す」と表現している。二つのレベルでかみ合うところを妙味に感じ、コトヨスという言い方が生まれて重宝されている。結果的にみたとき、特定の男女について仲良しだと人々が噂することを指すことになっている。

「天地の神」

 ②神が配慮する、の意で解釈される例は、「三香の原」の歌(万546)を含めて2首ある。

 C 三香の原 旅の宿りに 玉桙の 道の行き逢ひに 天雲の 外のみ見つつ 言問はむ 縁の無ければ 情のみ 咽せつつあるに 天地の 神言寄せて〔神祇辞因而〕 敷栲の 衣手易へて 自妻と 頼める今夜 秋の夜の 百夜の長さ ありこせぬかも(万546)
 D …… とこしへに かくしもあらめや 天地の 神言寄せて〔可未許等余勢天〕 春花の 盛りもあらむと ……(万4106)

 Cでは、旅先で声をかけるすべもなく、心のうちで泣いているときに、神の取り計らいで一夜仲良くして過ごしていると言っている。Dでは、ずっとつらい状況がつづくはずはなくて、神の取り計らいで春に花が咲き乱れるようなハッピーなこともあるだろうと言っている。好ましくない状況を知った神が配慮して事態を良い方向へ転換させると解されており、それはそれで通じるものである。人間に及ばない神の力が働いたということである。しかし、なぜ「天地の 神言寄せて」と表現するのか、勘所が捉えられていない。 
 C、Dともに、「天地の 神言寄せて」が定型表現となって挿入句として機能している。2例しかないものの、「神言寄せて」には「天地の」と必ず冠している。アメツチは万葉集に67例あり、加えて東国方言の防人歌にアメツシ(万4426)が1例ある。戸谷1989.による分析、整理に、「『万葉集』における天地の用法は多様化しているが、多様の中にも発想や表現の上から、(イ)天地の創成、(ロ)天地の悠久性、(ハ)天地の神、(ニ)天地の広大性という四つに分類することができるであろう。」(76頁)としている(注4)。(ハ)の「天地の神」という形をとるものは上述のC・Dの例を含めて22例ある(注5)

 …… 平らけく ま幸くませと 天地の 神をみ〔天地乃神祇乞祷〕 いかならむ 歳の月日か ……(万443)
 我が背子し かくし聞こさば 天地の 神を乞ひ祷み〔安米都知乃可未乎許比能美〕 長くとそ思ふ(万4499)
 天地の 神も助けよ〔天地之神毛助与〕 草枕 旅行く君が 家に至るまで(万549)
 天地の 神のことわり〔天地之神理〕 なくはこそ 吾が思ふ君に 逢はず死にせめ(万605)
 思はぬを 思ふと言はば 天地の 神も知らさむ〔天地之神祇毛知寒〕 邑礼左変????(万655)
 …… 玉葛たまかづら 絶ゆること無く 万代に かくしもがもと 天地の 神をそ祈る〔天地之神乎曽祷〕 畏くあれども(万920)
 蜻蛉島あきづしま やまとの国は 神からと ことげせぬ国 然れども 吾は言挙げす 天地の 神もはなはだ〔天地之神文甚〕 吾が思ふ 心知らずや ……(万3250)
 …… 斎瓮いはひべを 斎ひ掘り据ゑ 竹珠たかだまを 間なく貫き垂れ 天地の 神をそ吾が祷む〔天地之神祇乎曽吾祈〕 いたもすべ無み(万3284)
 …… 倭文幣しつぬさを 手に取り持ちて 竹珠たかだまを しじに貫き垂れ 天地の 神をそ吾が祷む〔天地之神𠮧曽吾乞〕 いたもすべ無み(万3286)
 天地の 神を祈りて〔乾坤乃神乎祷而〕 吾が恋ふる 君いかならず 逢はざらめやも(万3287)
 天地の 神を祈りて〔阿米都知乃可美乎伊乃里弖〕 征矢さつや貫き 筑紫の島を 指して行く我は(万4374)
 …… 木綿ゆふたすき 肩に取り懸け 斎瓮いはひべを 斎ひ掘り据ゑ 天地の 神にそ吾が祷む〔玄黄之神祇二衣吾祈〕 甚もすべ無み(万3288)
 いかにして 恋ひ止むものぞ 天地の 神を祈れど〔天地乃神乎祷迹〕 まさる(万3306)
 天地の 神をも吾は〔天地之神尾母吾者〕 祈りてき 恋とふものは さね止まずけり(万3308)
 …… ことけば 国にけなむ こと離けば 家に放けなむ 天地の 神し恨めし〔乾坤之神志恨之〕 草枕 この旅のに 妻離くべしや(万3346)
 天地の 神を乞ひつつ〔安米都知能可未乎許比都々〕 あれ待たむ はや来ませ君 待たば苦しも(万3682)
 天地の 神無きものに〔安米都知能可未奈伎毛能尓〕 あらばこそ 吾がふ妹に 逢はず死にせめ(万3740)
 …… 天地の 神相珍あひうづなひ〔天地乃神安比宇豆奈比〕 皇御祖すめろきの 御霊みたま助けて 遠き代に かかりしことを が御世に 顕はしてあれば す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして ……(万4094)
 天地の 神は無かれや〔天地之神者无可礼也〕 うつくしき 吾が妻さかる 光る神 なりはた娘子をとめ 携はり 共にあらむと 思ひしに ……(万4236)
 天地あめつしの 神に幣置き〔阿米都之乃可未尓奴佐於伎〕 斎ひつつ いませ我が背な あれをしはば(万4426)

 ほかに「天地の 大御神おほみかみたち〔天地能大御神等〕」(万894)、「天地あめつしの いづれの神を〔阿米都之乃以都例乃可美乎〕」(万4392)という例も見られるが、「天地の神」という慣用表現に引きずられて使われたものと思われる。また、「天地」ばかりで「天地の神」と同義であると解釈されるものが、万50・3241・4487番歌に見られる(注6)

 …… みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ ……(万50)
 天地を 嘆き乞ひ祷み 幸くあらば またかへり見む 志賀の唐崎(万3241)
 いざ子ども 狂業たはわざなせそ 天地の 堅めし国そ 大和島根は(万4487)

 曽倉2020.は、万50・3241・4487番歌は展開形であり、もともとの「天地」の用法と「天地の神」という表現は文学の問題として重要な違いであるといい、新たな表現として「天地の神」は生まれたものであるとしている。空間と神格とは違うからとする。受けとる側からすればそうなるが、使う側からのことを考えるなら、「天地の」とある場合の戸谷氏が四つに分類する以前にアメツチという言い方をするに至った理由、根拠となる思考の枠組みについてから考えてみなければ本質は見えてこない。
 アメツチという考え方が与えられている(注7)。アメツチは、記紀の冒頭に所与に“はじまり”として唱えられている。紀では若干の前置きがあるものの、天と地とが当たり前にあるものとして話は始まっている。その天と地とはどうして生まれたのかという天地の始原については、話の前提であって話自体には形作られていない。ほとんど語られることのない始原、開闢のことと、所与のものとしてある天と地とのこととを混同してはならない。説話のなかでさまざまに演じられているが、それと演じられる舞台設定は次元が異なる。大道具さんの仕事は幕が開く前に予め整えられるもので、芝居のなかでどうこう言うものではない。天地開闢のことは話の枕であり、話の枕は“話”ではない。
 第一義的にアメツチがあり、アメツチがあるということは世界は始まっているということになっている。そういう考えのもと、アメとツチが分かれて開けて離れて広く大きくなっていて、以来ずっと続いてこれからもそうあり続けるに決まっているものなのである。そのイメージがアメツチにはまとわりついていて万葉集に使われている。「天地の 初めの時ゆ」(万167・2089・4214)、「天地の 分れし時ゆ」(万317・1520)、「天地と 分れし時ゆ」(万2005・2092)、「天地も 依りてあれこそ」(万50)、「天地の 寄り合ひの極み」(万167・1047・2787)、「天地と 共に終へむと」(万176)、「天地 日月と共に」(万220・3234・4254)、「天地と 長く久しく」(万315)、「天地と 久しきまでに」(万4275)、「天地の いや遠長く」(万196)、「天地と いや遠長に」(万478)、「天地の 共に久しく」(万814)、「天地と 共に久しく」(万578)、「天地の 遠きがごとく」(万933)、「天地の 堅めし国そ」(万4487)、「天地の 底ひの裏に」(万3750)などと見える。
 だから、「天地の神」とは、世界を設定してそれがはじまるように進める作用をもたらすもののことを称していて、具体的に神話的要素を帯びるものではないのである。

「天地の 神言寄せて」

 流れとして自然とそうなっていくことを「天地の 神言寄せて」と評している。仮に現状が芳しくなくても時が経てば事態は改善することを神は予言していたのであって、それに事態が追い付いてくることになる。万葉集の多くの例に「天地の神」は最後の祈りの対象であったり、逆説的に述べて事態はうまくは運ばないことを述べるために持ち出されている。言=事になっていないと思われる現象についても、時間が経過して行けば、起こっている事を言葉に代えて言ってみたり、逆に言ったことがじっさいに事になったりする。それは、「天地の神」からすれば、コトを寄せる効果を発揮することに当たる。「天地の 神言寄せて」という言い方をして、自然の摂理としてそうなるように予め用意されていたということを表している。
 Dの例では、ずっと冬が続くわけではなく必ず春が訪れることを、神は言っていたはずだから皆知っていて、「天地の 神言寄せて」と言っている。季節は必ず巡るもので、いかに厳しい冬であってもやがて春は訪れる。そのとき、天の神の日の光が強くなると同時に地の神の水は温まって、花は盛りに咲くようになる。季節の移り変わりは予定されている。前もって「天地の神」が用意しているというのである。記紀の説話に天地を設けておいたようにである。用意しておくことは上代語に、マク(設・儲)という。

 ゆふさらば 屋戸やど開けけて〔屋戸開設而〕 吾待たむ 夢に相見に 来むといふ人を(万744)
 磯の間ゆ たぎつ山河 絶えずあらば またも相見む 秋かたまけて〔秋加多麻氣弖〕(万3619)
 夏まけて〔夏儲而〕 咲きたるはねず ひさかたの 雨うち降らば 移ろひなむか(万1485)
 如此かく設け備へて〔如此設備而〕、其の御子をむだきて、に刺し出しき。(垂仁記)
 世の商人、先ず務めて貨物をけ聚めて〔先務儲聚貨物〕、然して後に思惟して之を分析す。(高山寺蔵大毘盧遮那仏経疏巻第二永保点)

 Cの例では、気に入った娘がいるが声をかけられずにいたが、自然の成り行きで思うように願いが叶っている。結果的にできているのは、女性と枕を共にすることである。上代語にマク(枕・纏・娶)という。「巻く」と同根の語である(注8)

 上つ瀬に かはづ妻呼ぶ ゆふされば 衣手寒み 妻かむとか〔妻将枕跡香〕(万2165)
 …… たらちねの 母が目れて 若草の 妻をもまかず〔都麻乎母麻可受〕 あらたまの 月日よみつつ ……(万4331)
 八千矛の 神のみことは 八島国 妻まきかねて〔都麻麻岐迦泥弖〕 遠々とほとほし 高志こしの国に ……(記2)
 妾は是、天神の、山祇神をまいとりて〔娶山祇神〕、ましめたる児なり。(神代紀第九段本文鴨脚本訓)
 爰に天皇、隼別皇子の密にきたまへることを知りたまひて恨みたまふ〔知隼別皇子密婚而恨之〕。(仁徳紀四十年二月前田本訓)
 人言ひとごとの 繁きこのころ 玉ならば 手に巻き持ちて〔手尓巻持而〕 恋ひずあらましを(万436)
 …… あらたまの 年の五年いつとせ 敷栲の 手枕たまくらまかず〔手枕末可受〕 紐解かず 丸寝をすれば ……(万4113)

 すべてはマクの頓智話なのである。だから、ここで、「天地の 神言寄せて」と形容していて表現に“正解”なのである。望外の願いがかなった訳が、神に願ったからなのかどうか本当のことなどわかりはしない(注9)。笠金村がどういう手段、手管を繰りだしたのかも不明だが、あたかも自然の成り行き、摂理の結果として成ったことだととぼけ、誇っていることだけは確かである(注10)。「心のみ 咽せつつあるに」から「天地の 神言寄せて」をはさんですぐに事の結果である「敷栲の 衣手交へて」へと飛んでいる。途中経過を述べていないのは、洒落が言いたいだけだからである。
 恋の成就自体を喜んでいるのではなく、恋の成就を歌にうまく詠みこむことを喜んでいる。曽倉2009.に、「頼む」は万葉集中に「頼む」時点からみて未来において期待されている例ばかりであると指摘している。そのとおりで、「自妻と頼める」とあるから妻にはまだなっていない。ワンナイトラブに「衣手易へて」情が深まり「妻」に迎えたく思うようになっているが、家庭事情ないし律令制度などからして都へ連れて帰ることはできないか、娘子のほうもそれを望んでいるとは限らないものでもあろう。だから題詞に「得」とあって「娶」とない。そう考えたとき、題詞、「幸三香原離宮之時、得娘子、笠朝臣金村作歌」の「得娘子」の主語は誰かという疑問も生じる。初期万葉の歌の場合ならば、歌の作者、歌い手は、宮廷社会の中心人物を“主語”として歌を歌っている。額田王の歌が時の天皇の代詠と映るようにである。聞く人皆が共感する歌が求められていた。もしこの歌群がそれと同じステージであったとすると、「得娘子」の主語は「幸」の主導者である聖武天皇ということになる。宣命に端を発する「天地の神」という言い方を、従駕官人である笠金村が、歌に初めて使うことにさえ抵抗がないことになる(注11)
 「得娘子」ることはできたが、「娶娘子」ることは諸般の事情から致しかねるということである。「すべをなみ」、どうすることもできないので、せめて今夜が夜の長い秋の日であったらと願っていることだと嘆じている。この行幸、時は春三月であった。
 この歌の妙味は、「天地の 神言寄せて」という表現を生んだ必然的な時間経過を詠むところにある(注12)。必然的に「得娘子」ているが、朝が来れば必然的に別れなければならない。それが「道の行き逢ひに」に枕を共にした「旅の宿り」というものである。言葉を交わすのに「縁の無」いと思われていたのがうまいこといったとしても、その交わりを永続的に保つことはできないと決まっていて、「すべ」なしなのである。道でたまたま出逢っただけで行き先が違うのだから、男女二人は朝を迎えれば別れるのである。そういった条件を、長歌の初めのほうで「旅の宿りに」、「道の行き逢ひに」と助詞「に」で定位している。そして、場所は、三香原離宮である。後に恭仁京となった地であるとされるが、神亀二年段階で立派な離宮が構えられていたとは考えにくい。この時の行幸は続紀にも記されていない。まさしく「旅の宿り」と呼んで正しいものであったろう。すなわち、幔幕を張って野営したのであろう。マクと言っていた。

 幕 唐式に、衛尉寺に六幅幕、八幅幕と云ふ。〈音は莫、万久まく〉(和名抄)
 幔 唐韻に云はく、幔〈莫半反、俗の名は字の如し、本朝式に斑は之を万不[太]良万久まぶ だ らまくと読む〉は帷幔なりといふ。(和名抄)
 衣裳をぎて、所齎もてるものかすうばひて、尽くに帷幕きぬまくを焼く〔尽焼帷幕〕。(継体紀九年四月前田本訓)

 「天地の神」は世界をマク(設)ことをして舞台は整い、記紀の物語のマク(幕)は上がった。笠金村の歌において、すべてはマクの一語にきわまって展開している。言葉の機知が見えるから、人々はおもしろがって受け取ることができた。笠金村の歌は、言語芸術として確かにあったということである。
陣幕(後三年合戦絵巻、南北朝時代、貞和三(1347)年、飛騨守惟久画、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0064503をトリミング)
 「天地の 神言寄せて」のコトとは、天地の神が言葉で指示することでありつつ、実際に事柄で具現することでもあった。言っておきながら成さないことなど、「天地の神」にはなかった。春にならない冬はなく、明けない夜はない。きちんと時間が経過していた。電気をつけっぱなして暗くならない夜があったり、温暖化によって気候が変動せずに冬の来ない秋があるといったことは、上代には起こらなかった。

「言寄さす」

 ③ご委任になる、の意で解釈される例に次の散文のものがある。以下、用例は一括して検討するので英字記号を振らない。

 ……天沼矛を賜ひて、ことせ賜ふ〔言依賜也〕。(記上)
 即ち、其の御頸珠の玉の緖もゆらに取りゆらかして、天照大御神に賜ひて詔りたまはく、「汝が命は高天原を知らせ」とのりたまひて、ことせて賜ひき〔事依而賜也〕。……次に月読命に詔りたまはく、「汝が命は夜之食国を知らせ」とのりたまひて、事依せたまふ〔事依也〕。次に建速須佐之男命に詔りたまはく、「汝が命は海原を知らせ」とのりたまひて、事依せたまふ〔事依也〕。……故、伊耶那岐大御神、速須佐之男命に詔りたまはく、「何の由にか汝が事依さえし国〔所事依之国〕を治めずして哭きいさちる」とのりたまふ。(記上)
 今、葦原中国を平げ訖へぬと白す、故、言依せ賜ひし隨に〔隨言依賜〕、降り坐して知らせ。(記上)
 已にして伊弉諾尊、三の子に勅任ことよさして曰はく〔勅任三子曰〕、……(神代紀第五段一書第六兼方本訓)
 然るに、日本武尊・稚足彦天皇・五百城入彦皇子とをきてほか、七十余の子は、皆国郡くにぐにことよさせて〔皆封国郡〕、各其の国にかしむ。(景行紀四年二月熱田本訓)
 則ち川嶋県を分ちて、長子このかみ稲速別にことよさす(応神紀二十二年九月北野本訓)
 即日そのひに、大山守命にことよさして〔任大山守命〕、山川林野をつかさどらしめたまふ。(応神紀四十年熱田本訓)
 田狭をことよさして任那国司にしたまふ〔拝田狭為任那国司〕。……田狭、既に任所ことよさすところきて〔既之任所〕、……(雄略紀七年是歳前田本訓)
 いましよたりまへつきみを以て、ことよさして大将おほきいくさのきみとす〔拝為大将〕。(雄略紀九年三月前田本訓)
 ……我が皇孫之尊すめみまのみことは豊葦原の水穂の国を安国と平らけく知ろしせと事よさし奉りき。如此かく依し奉りし国中くぬち荒振神達あらぶるかみたちをば神問はしに問はし賜ひ神掃ひに掃ひ賜ひて……(延喜式・祝詞・六月晦大祓)

 神の物語では神のうちでも上位者の神が、人の世では上位者の天皇が下位者を任じるときに用いられている。そのため、敬意を表して、コトヨサスというかたちを取っている。この意で用いられている理由は、すでに②に述べたことと同じである。上代語にマク(任)ともいうからである(注13)

 …… ちはやぶる 人をやはせと 奉仕まつろはぬ 国を治めと〈一に云はく、掃へと〉 皇子ながら けたまへば〔任賜者〕 ……(万199)(注14)
 もののふの 臣の壮士をとこは 大君の まけのまにまに〔任乃随意〕 聞くといふものそ(万369)
 天皇、是に、阿知直を以て、始めて蔵官くらのつかさけ〔始任蔵官〕、亦、粮地たどころを給ひき。(履中記)
 即ち当れる国の幹了をさをさしき者を取りて、其の国郡の首長ひとごのかみけよ〔任其国郡之首長〕。(成務紀四年二月熱田本訓)
 既にして国司くにのみこともちまけどころまかりて〔既而国司之任〕、六人は法を奉り、二人は令に違へり。(孝徳紀大化二年三月北野本訓)
 けたまへるところにまかりて〔宜之厥任〕、爾の治す所を慎め。(皇極紀二年十月岩崎本訓)

 任命して役職を務めさせることは、言葉に命令しておいて事柄に実行させることである。そのとき、言=事となって成果があがる。だから、コトヨサスのコトは言でもあり、事でもあり、その両方であることが期待されている。両者が近寄る状況をそのままに示している。上代の人がコトの一語に言も事も言い含めてしまった事情を的確に表す言い方として、コトヨス、コトヨサスという言い回しは行われていたのである。

まとめ

 「言寄す(事寄す)」とその派生形「言寄さす(事寄さす)」の語義を精査することで、笠金村の三香原離宮行幸時の歌、万546~548番歌の真相は了解を得る段階に達することができた。万葉歌の解釈においては、その歌がヤマトコトバでどのように表現されているかばかりでなく、使用されているヤマトコトバがどのように表現されているか、元をたどることが大切である。その大きな理由は、万葉歌の作者たちにヤマトコトバを確かめようとする機運があったからである。そのことは、万葉時代が言葉の生誕期だったからということではない。当時の人は、歌が歌われることをもってそのなかに生きていたということである。言葉が、いまだ文字に絡めとられることのなかったとき、音でだけあったとき、言葉を言葉として確かならしめる唯一の方法は、音のなかに息づかせることだったからである。
 理の当然として、話として話された言葉は話ではあっても歴史ではなく、歌として歌われた言葉は歌であっても日記ではない。笠金村の三香原離宮行幸時の歌において、題詞に記されている次第以上のことはない。すなわち、仮託されたものという設定ではないから仮託されたものではない。そんななか、マクというキーワードのもとで歌っていて、煙に巻くようなことになっている。いわゆる“事実”をどこまで語っているか探ることはできないし、そのような詮索はおよそナンセンスなものであると悟らされることになっている。現代の感覚からすれば不確かな同定しかできない歌であるが、言語芸術としてみるならば論理哲学を駆使していて高いレベルにあるといえる。現代とは異なる文化にあった人々の“作品”に対して、我々は、向き合う姿勢からして改めなければならないと教えてくれている。相手は象牙の塔の中のラテン語ではなくて、津々浦々家々道々、いたるところで誰もが当たり前に使っていたヤマトコトバである。知識教養の産物ではなく、日常の知恵の塊としてくり広げられていたのであった。上代文学は「脱構築デイコンストラクション」(デリダ)されなければならず、より正確に言えば、新たに築くことなど不要で、気づくことが求められている。

(注)
(注1)「今夜之」は仙覚・萬葉集註釈に、「このよらの」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200006856/viewer/147)と訓んでいる。
(注2)笠金村の三香原離宮での歌についての現代の評価としては、従駕歌としてふさわしくないとする説、相聞的な主題は宮廷歌として意義があるとする説、謡い物として祝婚歌ないし嬥歌会(かがひ)の歌を踏まえたものとする説、享楽的な宴席で共感を誘い座を盛り上げるひとつの芸であるとする説など、諸説あげられている(池田2000.参照)。巷間に通行している考え方としては、「天地の神の言寄せによって、旅先の娘子を正式に我が妻に迎えたという点がみそ。いかにも事実めかしたこの歌は、前歌群[神亀元年甲子冬十月、紀伊国に幸ましし時に、従駕みともの人に贈らむが為に娘子にあとらへらえて作る歌一首并せて短歌 笠朝臣金村(万543~545)]と同様仮構の物語歌で、行幸先で公表した歌と見てよい。結婚は生産の予祝で、たいへんめでたいことであった。行幸の賑わいにとっても縁起のよい内容である。」(伊藤1996.458頁)、「行幸先で行きずりに出逢った女性と思いがけず一夜を共にすることのできた喜びを詠む。行幸従駕の男たちの願望を代弁するような歌。自分の体験のごとく歌いなしているが、それが虚構であることは前歌(五四三~五四五)に同じ。」(阿蘇2006.540頁)といったものである。もちろん、「所娘子」といった注記が万546~548番歌の題詞にないのだから、誂えられた歌と考えるのは誤りである。
(注3)二面一体性を表した物証の一例に次のような遺物がある。
石とイシ(巧)、水とミヅ(瑞)の二面性(石人像レプリカ、飛鳥資料館展示品、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:飛鳥資料館 石人像レプリカ_-_panoramio.jpg#file、z tanuki様撮影)
(注4)つづけて「(イ)(ロ)は記紀その他にもみられたものであるが、(ハ)(ニ)は万葉歌において発達した表現といってよい。特に(ハ)は『万葉集』の神の表現と関連して注目すべきものである。」(76頁)としているが、その点は筆者と考えが異なる。
(注5)万葉集の用字に、カミを「神祇」と書くのは「天地の神」の例の5例に限られていて、「神祇」とは天神地祇の略で律令用語に準拠した書き方であるとする説が梶川1997.45~46頁にある。職員令の古記によると天神は伊勢・山代鴨・住吉・出雲、地祇は大神・大倭・葛木鴨・出雲汝神などを指すのだという。万葉集の用字は当て字や戯書のオンパレードである。「天地」と言ったら「日月」とも言いたくなって歌にあらわれているように、カミを二者に対応させるようにつられて「神祇」と書いたということであろう。「天地の神」の用字に「神祇」と書かずに「神」と書く例は、仮名書きの4例を除いても9例もある。
(注6)曽倉2020.397~399頁参照。
(注7)アメツチは記紀や風土記、祝詞、宣命にも多く見られる。ただ、記紀では本当のところは訓が定まるものではなく、他に候補がないからきっとアメツチ訓むのであろうと確実視している。古事記では、「天地開闢」、「乾坤初分」、「天地初発之時」、「共天地退奉」などとあり、日本書紀では、「天地未剖」、「開闢」、「天地初判」、「天地未生」、「乾坤之道相参而化」、「有預鎔‐造天地之功」、「広大配乎乾坤、光華象乎日月」などとある。戸谷1989.による分析、整理に、記紀、風土記、祝詞、宣命における「天地に関する表現は、その創成と悠久性を語ることに集中していたといえる」(74頁)とある。
 「天地の神」なるものは、記紀に登場する神々、例えば天照大御神アマテラスオホミカミとも高御産巣日神たかみむすひのかみともレベルの違う神であり固有名を持たない。記紀の冒頭付近で述べられているのは、ただ単に世界の“はじまり”について「天地」と言っているだけである。拙稿「古事記本文冒頭「天地初発之時」について─アメツチ、ハッ(💡)ノトキニと訓む説─」参照。神が世界を創ったとするのではなく、世界が生まれてからいろいろな神が生まれてきている。曽根2020.が宣命に初出であると指摘するように、“後発”の神である。記紀に「天地の神」は語られておらず、「天地の神」はいなかったが、話のなかで当たり前に前提としてある「天地」について、それが自然と生まれていることを「天地の神」の仕業として呼ぶようになったものと考えられる。
 記紀において記されているところを抜粋する。

 それ、混元既に凝りて、気象未だあらはれず。名も無くしわざも無ければ、誰か其の形を知らむ。然れども、乾坤初めて分れて、みはしらの神造化むすひはじめれり。陰陽ここに開けて、ふたはしらかみ群品もろもろおやと為れり。所以そゑに、幽顕に出で入りて、日月、目を洗ふにあらはれ、海水うしほに浮き沈みて、神祇、身をすすぐにあらはれたり。かれ太素もと杳冥くらけれども、本教もとつをしへに因りて土を孕み島を産みし時を識れり。(記序)
 天地初発之時、高天原たかまのはらに成りし神の名は、天之御中主神あめのみなかぬしのかみ。次に高御産巣日神たかみむすひのかみ。次に神産巣日神かむむすひのかみ。此の三柱の神は、とも独神ひとりがみと成りして身を隠しましき。(記上)
 いにしへ天地あめつち未だわかれず、陰陽めを分れざりしとき、渾沌まろかれたること鶏子とりのこの如くして、溟涬ほのかにしてきざしふふめり。其れ清陽すみあきらかなる者は、薄靡たなびきて天と為り、重濁おもくにごれる者は、淹滞つつゐてつちと為るに及びて、精妙くはしくたへなるが合へるはむらがり易く、重濁れるが凝りたるはかたまり難し。故、天先づ成りて地後に定まる。然して後に、神聖かみ、其の中にれます。故曰く、開闢あめつちひらくる初めに、洲壌くにつちの浮かれただよへること、譬へば游魚あそぶいを水上みづのうへに浮けるが猶し。時に、天地の中に一物ひとつのものれり。かたち葦牙あしかびの如し。便ち神と化為る。国常立尊くにのとこたちのみことまをす。至りて貴きを尊と曰ひ、自余これよりあまりを命と曰ふ。ならび美挙等みことふ。下みな此にならへ。次に国狭槌尊くにのさつちのみこと、次に豊斟渟尊とよくむぬのみこと、凡てみはしらの神ます。乾道あめのみち独りす。所以このゆゑに、此の純男をとこのかぎりを成せり。(神代紀第一段本文)
 一書に曰く、天地あめつち初めてわかるるときに、一物ひとつのもの虚中そらのなかに在り。状貌かたち言ひ難し。其の中に自づから化生なりいづる神います。(神代紀第一段一書第一)
 一書に曰く、天地まろかれ成る時に、始めて神人かみ有す。可美葦牙彦舅尊うましあしかびひこぢのみことと号す。次に国底立尊くにのそこたちのみこと。(同一書第三)
 一書に曰く、天地初めて判るる時に、始めて倶になりいづる神有す。国常立尊と号す。次に国狭槌尊。……(同一書第四)
 一書に曰く、天地未だ生らざる時に、譬へば海上うなはらのうへに浮べる雲の根かかる所無きが猶し。其の中に一物生れり。葦牙の初めてひぢの中におひいでたるが如し。便ち人と化為る。国常立尊と号す。(同一書第五)
 一書に曰く、天地初めて判るるときに、物有り。葦牙の若くして、空の中に生れり。此に因りて化る神を、天常立尊と号す。次に可美葦牙彦舅尊。又物有り。浮膏うかべるあぶらの若くして、空の中に生れり。此に因りて化る神を、国常立尊と号す。(同一書第六)

 こういった話が何をもとにして成り立っているかについては、早くは日本書紀私記から、漢籍の引用箇所である出典をたどって確かめることが行われている。また、比較神話学から神話のタイプを抽出することも行われている。しかし、思想的に享受したものなのか、ただ字面を飾るために引かれたのか、自らの考えに沿うように書いたのか、編纂の都合上にわか仕込みに書いたのか、軽重を推し量る必要があり、やみくもに推論すると多くの誤りを生む。「天地の神」とは何かについて、天神地祇あまつかみくにつかみのこと、すべての神のこと、神々の汎称、中国の「天地」の概念から成立した神、王権の側が導入した新思想の神、などと諸説唱えられているが、皆誤りであると考える。
 アメツチのはじめのことについて、話として記紀に残されている。話としてそういうことになっている、というところが肝要である。上代の人々が、そんなものであろうと捉えていた。そのアメツチという語をもとに「天地の神」という言葉を宣命に使った時、天皇が詔を下しているのを聞くのは官人である。「天地の神」が万葉集に使われた時、歌を歌ったり周りで聞く人たちはヤマトの人たちである。ヤマトの人たちとは、ヤマトコトバ語族の人たちということで、使われている言葉が理解できている。「天地の神」について誰かがどこかで使い出した新しい言葉であったにせよ、“新定義”について教授を受けて理解したのではなく、初めて聞く人にもそんなものかとすぐに腑に落ちる意味であった。つまり、言い伝えに聞いているこの世の初めについて、始まったということは天と地が分かれて開けて離れて広く大きくなってできていて、それからはずっとその状態が続いていてこれからも続くに決まっていることを言っているのだと思っていた。それだけのことが天地の開闢の意味であり、深意であり、ニュアンスである。そうなった所以について「天地の神」と仮に称しただけにすぎない。だから、「天地の神」はそれまで説話(ないし神話)に語られてきた神々とは別次元の“神”である。ファースト・インパクト、言うなれば必然について語っている。時間が解決してくれる、結果は後からついてくる、というのと同じことである。放っておいても必ずそうなるように作用するものを「天地の神」と言っている。メタ=神として「天地の神」は設けられた。「天地の神」に神話的要素は見られないとされているのは当然のことで、といって「天地の神」がなければ世界は始まっておらず、何もなく、言葉もない。万葉集に現れる「天地の神」は、万4426番歌の例のように“神話”的要素を伴わないと説かれているが、“神話”の前提のために仮構された“神”である。時が経つと必然的にそういうことになるという意味合いを指している。
 このような筆者の捉え方は、今日通行していない。曽倉2020.は、「天地の神」についての論考を多数所載している(「「天地の神」考」(2007年初出)、「笠金村の「天地の神」」(2009年初出)、「旅の平安と「天地の神」」(2010年初出)、「笠郎女の「天地の神」」(2011年初出)、「万葉集作歌年代不明歌の「天地の神」」(2011年初出)、「万葉集「天地の神」の表現と特性(上)」(2012年初出)、「同(下)」(2013年初出)、以上、391~524頁)。そして、「天地の神」という言い方は記紀、風土記には見られず、万葉集と続日本紀の宣命にあるもので、用例を時系列に並べ置くと宣命の例が先行しており、天皇に恵みをもたらすことを指す語であったとしている。例えば第四詔では、天地の神が銅を産出させたのであると言っている。中国の皇帝の支配の正統性を説くために用いられる“天命”思想によりながら「天地の神」と言っているとする。そして、万546番歌は「この解釈に基づいて言えば、作歌主体は天皇ではないから「天地の神」の恩恵を受けられなかったことになる。」(428頁)とし、娘子は得られていないと曲解している。
 「天地の神」の例のある宣命は次のとおりである。

 此の物は、天にす神・くにに坐すかみの相うづなひ奉りさきはへ奉る事に依りて、うつしく出でたる宝に在るらしとなも、神ながらおもほす。是を以て天地の神〔天地之神〕のあらはし奉る瑞宝しるしのたからに依りて、御世の年号改め賜ひ換へ賜はくと詔りたまふおほみこともろもろ聞きたまへと宣る。(続紀・和銅元年正月、第四詔)
 此れ誠に天地の神〔天地神〕のうつくしび賜ひ護り賜ひ、けまくも畏き開闢あめつちひらけてより已来このかた御宇あめのしたしらしめしし天皇すめら大御霊おほみたまたちの、穢きやつこどもをきらひ賜ひ棄て賜ふに依りて、又廬舎那如来、観世音菩薩、護法の梵王・帝釈・四大天王の不可思議威神の力に依りてし、此のさかしまなる悪しき奴等は顕れ出でて、悉く罪に伏しぬらしとなも、神ながらも念し行すと宣りたまふ天皇が大命おほみことを、衆聞きたまへと宣る。(続紀・天平宝字元年七月、第十九詔)
 またにし正月に二七日ふたなぬかの間もろもろの大寺の大法師たちせ奉らへて最勝王経を購読せしめまつり、又吉祥天の悔過を仕へ奉らしむるに諸の大法師等がことわりの如く勤めて坐さひ、又諸の臣等の天下あめのした政事まつりごとを理にかなへて奉仕つかへまつるに依りて三宝も諸天も天地の神〔天地神〕たちも共に示現あらはし賜へるあやしくたふとき大きしるしの雲に在るらしとなも念し行す。(続紀・神護景雲元年八月、第四十二詔)
 然れども、廬舎那如来、最勝王経、観世音菩薩、護法善神の梵天・帝釈・四大天王の不可思議威神の力、挂けまくも畏き開闢けてより已来、御宇しし天皇が御霊、天地の神〔天地神〕たちの護り助け奉りつる力に依りて、其等が穢く謀りて為る厭魅事まじわざ、皆悉く発覚あらはれぬ。(続紀・神護景雲三年五月、第四十三詔)

 アメツチという語に形式ばったところはない。「天地の神」が天皇にだけメリットになるよう作用する、天皇に独占された神様であったと捉えることはできない。神の作用ということでいえば、仏教がその昔は他国の神で「蕃神あたしくにのかみ」(欽明紀十三年十月)とされていたが、信仰が広まるにつれて本邦の人にも作用するようになったように、誰のためのものか特定できるはずがないのと同じことである。笠金村が官人で天皇の言葉の用法を知っていてそれに従っているに違いないと定めることは、言葉を発する側としては可能性がなくはないが、言葉は受けとる側がそのとおりに受けとるからこそ意味を成す。誰彼知らずに聞かれてもきちんと意思が通じるときにのみ言葉である。「天地の神」はテンチノカミと漢語読みしたわけでもないから、世間の常識として「天地の神」が皇統にのみ幸いとなるものだと広まっていたとは考えられないのである。
(注8)時代別国語大辞典に、「……クは、……クの転義であり、……クの原義であるといわれている。……「手枕をまく」が、その連絡をつけるようなもののよう」(668頁)とみている。白川1995.では、「く」は、「「く」「く」と同じ語。」(691頁)とし、「く」はそれと「同源の語。」(同頁)としている。筆者の論として断っておくが、それらマク(枕、纏、娶、巻)とマク(設、儲)との間に語義的なつながりを認めるものではない。笠金村の万546番歌に洒落として生きていることを解説している。
(注9)「わかる」ために言葉はある。より正確に言えば、言葉がないところには「わかる」も「わからない」もない。「天地の 神言寄せて」と言ったときに事として成立していて真である。認識とはそういうものである。
(注10)夫婦関係が神意によって結ばれるものだから、万546番歌に「天地の 神言寄せて」とするのだとする説がある。表面的にみているのならば楽天的にすぎる。世界を作ったと思われているイザナキ・イザナミ両神は、天地開闢から少し経って現れている。夫婦になるにあたって「天地の 神言寄せて」一緒になったかといえば、両者の登場自体が「天地の神」のコトヨセと認知されるべきものであって、コトヨサス結果として沼矛を掻きまわしている。トツギの道についていえば、「天地の神」のコトヨセでできたのではなく鶺鴒に教えられている。万葉集でも夫婦になることを「天地の 神言寄せて」と形容している例を見ない。一般にそうは考えられていなかったとわかる。
(注11)実際に歌に初めて使ったのかはわからない。記録されているものとして初めてというだけであることは、宣命についても同じことで、口頭語に従前から「天地の神」と言っていたのかもしれない。もちろんそのようなことは研究対象にならない。
(注12)犬養2004.に、「[笠]金村にあつては対象を時間的に把握してこれを表現に持ち来すことの極めて著しいのを見る。」(114頁、漢字の旧字体は改めた)と特徴が捉えられている。
(注13)「自動詞マカル(罷)はマクの派生語で、命令を受けた側からの語。」(古典基礎語辞典1103頁、この項、須山名保子)である。
(注14)「よさしたまへば」と訓む説もある。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第2巻(巻第三・巻第四)』笠間書院、2006年。
池田2000. 池田三枝子「娘子を得て作る歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第六巻』和泉書院、2000年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釋注 二』集英社、1996年。
犬養2004. 犬養孝「笠金村」青木周平編『萬葉集歌人研究叢書7 笠金村・高市黒人』クレス出版、2004年。(1944年初出)
梶川1997. 梶川信行「金村の《芸》─「三香原離宮之時得娘子作歌」をめぐって─」森敦司・林田正男編『万葉集相聞の世界 恋ひて死ぬとも』雄山閣出版、平成9年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
曽倉2009. 曽倉岑「笠金村「得娘子作歌」の作意」『高岡市万葉歴史館紀要』第19号、2009年3月。
曽倉2020. 曽倉岑『萬葉記紀精論』花鳥社、2020年。
戸谷1989. 戸谷高明『古代文学の天と日─その思想と表現─』新典社、平成元年。
『万葉語誌』 多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
『万葉ことば事典』 青木生子・橋本達雄監修、青木周平・神田典城・西條勉・佐佐木隆・寺田恵子・壬生幸子編『万葉ことば事典』 大和書房、2001年。

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