笠金村の三香原離宮での歌
笠金村の三香原離宮行幸時の歌は、万葉集の巻四の相聞の部立に載る。
二年乙丑の春三月、
三香原離宮に
幸しし時に
娘子を得て作る歌一首
并せて短歌
笠朝臣金村
三香の原 旅の宿りに
玉桙の 道の
行き逢ひに 天雲の
外のみ見つつ
言問はむ
縁の無ければ
情のみ
咽せつつあるに
天地の
神言寄せて
敷栲の
衣手易へて
自妻と 頼める
今夜 秋の夜の
百夜の長さ ありこせぬかも(万546)
反歌
天雲の 外に見しより
吾妹子に 心も身さへ 寄りにしものを(万547)
今夜の 早く明けなば すべを無み 秋の百夜を 願ひつるかも(万548)
(注1)
二年乙丑春三月幸三香原離宮之時得娘子作謌一首
并短歌
笠朝臣金村
三香乃原客之屋取尓珠桙乃道能去相尓天雲之外耳見管言将問縁乃無者情耳咽乍有尓天地神祇辞因而敷細乃衣手易而自妻跡憑有今夜秋夜之百夜乃長有与宿鴨
反歌
天雲之外従見吾妹兒尓心毛身副縁西鬼尾
今夜之早開者為便乎無三秋百夜乎願鶴鴨
神亀二年(七二五)春三月、三香原の離宮に行幸のあった時、娘子を得て作った歌一首と短歌
笠朝臣金村
三香の原の旅宿で、(玉桙の)道でめぐり逢って、(雨雲の)よそながら見るだけで言葉をかけるすべもないので、心ばかり苦しく塞(
さ)がっていたが、天地の神の御はからいによって、(しきたへの)袖をさし交わし、我が妻として頼りきっている今夜は、秋の長夜の百夜分の長さがあってくれないものか。
(雨雲の)遠くに見た時から、あの子に心も身もすべて寄り添ってしまったよ。
今夜が早く明けてしまったら、やりきれないので、秋の百夜分の長さをひたすらに願った。(新大系文庫本361~363頁)
この歌群は、通説に、娘子を得て喜んで作ったものとみられている
(注2)。ただ、それが「妻」として受け入れられたものかについて疑問が呈されている。新大系文庫本では、題詞に「娶」となく「得」とあるので、「いわゆる一夜妻か。」(363頁)とし、古くは橘千蔭・万葉集略解に、「此娘子ハ紀路の遊女ならん」(国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001731/viewer/283)とある。
さらに、曽倉2009.は「娘子を妻としていない」(12頁)と解釈するのが妥当で、「宴席歌」であって、「作歌主体を戯画化し、その恋の失敗、挫折を歌った、一種の笑わせ歌を意図したのであろう。」(13頁)、「娘子を得られると期待したが(長歌)、結局思いを果たさない内に夜明けを迎えそうだ(反歌)という歌であると考えるべきである。」(曽倉2020.428頁)と捉えている。この指摘は見当外れである。長歌のなかで状況を展開させている要の部分、「天地の 神の言寄せ」という表現について正しい理解が求められる。以下に述べていく。
「言寄す」
上代語「言寄す(事寄す)」とその派生形「言寄さす(事寄さす)」は、①人々が噂する、噂に立てる、言い立てる、②「天地の神」を冠して神慮を寄せて助ける、神意によってはからう、③ご委任になる、といった意を表すとされている。語義はそのとおりであるが、意味として分散してまとまりがない。もともとの語の組み立てを理解しないままそれぞれの例に訳を当てはめて理解しても、用例の理解にはなっても語の理解にはつながらない。「言寄す(事寄す)」、「言寄さす(事寄さす)」という語が作られている原理を検討する必要がある。
①噂する、の意で解釈される例に次のものがある。
A さ
桧の隈
桧隈川の 瀬を早み 君が手取らば 言寄せむかも〔将縁言毳〕(万1109)
B 里人の 言寄せ妻を〔言縁妻乎〕 荒垣の 外にや我が見む 憎くあらなくに(万2562)
Aでは、水の流れが速いから足を取られないように女性の手を取ったら噂になるだろうと言っている。Bでは、噂されて妻扱いされている女性のことを垣根の外から見ようと思う、憎くなどないからと言っている。これらの解釈は歌の深意を汲んだものではない。なぜAに「さ桧の隈 桧隈川の」とダブらせて饒舌な言い回しが行われているのか、なぜBに「言寄せ妻」というほどの相手を「荒垣の外」からしか見られないのか、諸解説書に特段の説明は与えられていない。これらは歌である。わずか31音で意を伝え切ろうとしている。歌に気持ちを表明し切ることとは、ヤマトコトバで言い表すことである。どうしてそう言い表して通じているのか。問題はおのずと語用論になる。
ヤマトコトバのコトという語は、よく知られるように、「事」でもあり、「言」でもあった。『万葉語誌』の説明では、「言葉を意味する「
言」と事柄を意味する「
事」とは、元来相通じる概念であった。モノが言葉による認識以前に存在するのに対して、コト(事)は言葉による認識作用・形象作用によってこそ形を与えられるためである。……現代において「さっき話したこと、絶対内緒だよ」などと言った場合の「こと」が言葉であるのか事柄であるのか不明瞭である点にも、それは引き継がれている。」(141頁、この項、大浦誠士)と簡潔である。実際の用例で語釈する際には、「言」の意、「事」の意にそれぞれ傾いている場合が多く、約束、命令、報告、音信、挨拶、言葉、伝承、噂、嘘、任務、行事、儀式、仕事、事件、出来事、事態、事実などと訳されている。とはいえ、コトという語の持つ二面一体性、「言」=「事」であることを暗黙のうちに認めてそのもとに述べられていると考えて読むことが求められる。ヤマトコトバの性質を正しく反映することになるからである
(注3)。
Aに、手を取るということはすなわち「事」として二人が寄り添うことであり、それが「言」のレベルで噂立てられることになるのは必定のことだからこのように一つの歌としておさまっている。コトヨスが噂するという意味だからと言って、Aの「言寄せむかも」が、二人は別れたらしいよ、の意を表すことはない。Bに、「里人の言寄せ」が誹謗中傷や陰謀によってくっつけることを表すことはない。「我」は喜んでその「言」を受け入れ、「事」となることを期待している。すなわち、コトヨスとは、「言」と「事」とが一致するべきベクトルをとっていることを「寄す」と言いつつ、男女の二人の関係が近づくことを「寄す」と表現している。二つのレベルでかみ合うところを妙味に感じ、コトヨスという言い方が生まれて重宝されている。結果的にみたとき、特定の男女について仲良しだと人々が噂することを指すことになっている。
「天地の神」
②神が配慮する、の意で解釈される例は、「三香の原」の歌(万546)を含めて2首ある。
C 三香の原 旅の宿りに 玉桙の 道の行き逢ひに 天雲の 外のみ見つつ 言問はむ 縁の無ければ 情のみ 咽せつつあるに 天地の 神言寄せて〔神祇辞因而〕 敷栲の 衣手易へて 自妻と 頼める今夜 秋の夜の 百夜の長さ ありこせぬかも(万546)
D …… とこしへに かくしもあらめや 天地の 神言寄せて〔可未許等余勢天〕 春花の 盛りもあらむと ……(万4106)
Cでは、旅先で声をかけるすべもなく、心のうちで泣いているときに、神の取り計らいで一夜仲良くして過ごしていると言っている。Dでは、ずっとつらい状況がつづくはずはなくて、神の取り計らいで春に花が咲き乱れるようなハッピーなこともあるだろうと言っている。好ましくない状況を知った神が配慮して事態を良い方向へ転換させると解されており、それはそれで通じるものである。人間に及ばない神の力が働いたということである。しかし、なぜ「天地の 神言寄せて」と表現するのか、勘所が捉えられていない。
C、Dともに、「天地の 神言寄せて」が定型表現となって挿入句として機能している。2例しかないものの、「神言寄せて」には「天地の」と必ず冠している。アメツチは万葉集に67例あり、加えて東国方言の防人歌にアメツシ(万4426)が1例ある。戸谷1989.による分析、整理に、「『万葉集』における天地の用法は多様化しているが、多様の中にも発想や表現の上から、(イ)天地の創成、(ロ)天地の悠久性、(ハ)天地の神、(ニ)天地の広大性という四つに分類することができるであろう。」(76頁)としている
(注4)。(ハ)の「天地の神」という形をとるものは上述のC・Dの例を含めて22例ある
(注5)。
…… 平らけく ま幸くませと 天地の 神を
乞ひ
祷み〔天地乃神祇乞祷〕 いかならむ 歳の月日か ……(万443)
我が背子し かくし聞こさば 天地の 神を乞ひ祷み〔安米都知乃可未乎許比能美〕 長くとそ思ふ(万4499)
天地の 神も助けよ〔天地之神毛助与〕 草枕 旅行く君が 家に至るまで(万549)
天地の 神の
理〔天地之神理〕 なくはこそ 吾が思ふ君に 逢はず死にせめ(万605)
思はぬを 思ふと言はば 天地の 神も知らさむ〔天地之神祇毛知寒〕
邑礼左変(万655)
……
玉葛 絶ゆること無く 万代に かくしもがもと 天地の 神をそ祈る〔天地之神乎曽祷〕 畏くあれども(万920)
蜻蛉島 倭の国は 神からと
言挙げせぬ国 然れども 吾は言挙げす 天地の 神もはなはだ〔天地之神文甚〕 吾が思ふ 心知らずや ……(万3250)
……
斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ
竹珠を 間なく貫き垂れ 天地の 神をそ吾が祷む〔天地之神祇乎曽吾祈〕
甚もすべ無み(万3284)
……
倭文幣を 手に取り持ちて
竹珠を
繁に貫き垂れ 天地の 神をそ吾が祷む〔天地之神𠮧曽吾乞〕
甚もすべ無み(万3286)
天地の 神を祈りて〔乾坤乃神乎祷而〕 吾が恋ふる 君いかならず 逢はざらめやも(万3287)
天地の 神を祈りて〔阿米都知乃可美乎伊乃里弖〕
征矢貫き 筑紫の島を 指して行く我は(万4374)
……
木綿たすき 肩に取り懸け
斎瓮を 斎ひ掘り据ゑ 天地の 神にそ吾が祷む〔玄黄之神祇二衣吾祈〕 甚もすべ無み(万3288)
いかにして 恋ひ止むものぞ 天地の 神を祈れど〔天地乃神乎祷迹〕
吾は
思ひ
益る(万3306)
天地の 神をも吾は〔天地之神尾母吾者〕 祈りてき 恋とふものは さね止まずけり(万3308)
…… こと
離けば 国に
放けなむ こと離けば 家に放けなむ 天地の 神し恨めし〔乾坤之神志恨之〕 草枕 この旅の
日に 妻離くべしや(万3346)
天地の 神を乞ひつつ〔安米都知能可未乎許比都々〕
吾待たむ
早来ませ君 待たば苦しも(万3682)
天地の 神無きものに〔安米都知能可未奈伎毛能尓〕 あらばこそ 吾が
思ふ妹に 逢はず死にせめ(万3740)
…… 天地の 神
相珍なひ〔天地乃神安比宇豆奈比〕
皇御祖の
御霊助けて 遠き代に かかりしことを
朕が御世に 顕はしてあれば
食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして ……(万4094)
天地の 神は無かれや〔天地之神者无可礼也〕
愛しき 吾が妻
離る 光る神
鳴はた
娘子 携はり 共にあらむと 思ひしに ……(万4236)
天地の 神に幣置き〔阿米都之乃可未尓奴佐於伎〕 斎ひつつ いませ我が背な
吾をし
思はば(万4426)
ほかに「天地の
大御神たち〔天地能大御神等〕」(万894)、「
天地の いづれの神を〔阿米都之乃以都例乃可美乎〕」(万4392)という例も見られるが、「天地の神」という慣用表現に引きずられて使われたものと思われる。また、「天地」ばかりで「天地の神」と同義であると解釈されるものが、万50・3241・4487番歌に見られる
(注6)。
……