古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

上代語「言霊」と言霊信仰の真意について

2023年07月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
はじめに─ひとり歩きをする「言霊ことだま」─

 言霊という言葉は、今日、ひとり歩きしている。上代文学研究事典に、「言語に宿ると信じられた霊力のこと。汎世界的に存在する原始的観念の一つで、万物に霊がこもるとするア二ミズムの思考による。一般には「言語精霊」と説明されている……。……コト(言)がコト(事)であるとするわが国の言語のあり方は、同時にコトバ(言葉)の力によって未来のコトガラ(事柄)を左右することができるという言語に対する信仰の存在をも説明している。ゆえに言霊の信仰は、言語伝承の面だけでなく、古代の民俗生活全般にわたってその行動を律する規範ともなっていたと考えられる。……」(271~272頁、この項、伊藤高雄)とあり、また、万葉ことば事典に、「言葉の神霊。現実に影響を及ぼす言葉の力を認識し、これの霊威を表す語。上代においてコトは「事」と「言」の両者に通じ、言は事を左右し、事は言に表現されると考えられた。この語のコトの表記に、「事」「言」の二者が使用されているところからもそれがうかがえる。」(186ページ、この項、寺田恵子)とある(注1)。言葉に呪術的機能があるから「のろひ」や「とごひ」はあるのだと演繹されそうだが、それが言葉全般に及んでいたら、言葉にはいちいち霊が宿っていることになり、冗談一つ言うのも気が引けることになる。何よりこういった考え方には、コトダマという語のタマの要素が含まれていない。タマというからには玉(珠)の意を比喩的にであれ伝えているはずである。
 大浦2019.は、「言霊」という言葉は、万葉集に三例見出されるばかりで、上代の人に基盤的な論理や信仰であったか定めがたく、「むしろ歌の主題と表現の問題として見るべきであろうと思われる。歌の表現としての「言霊」ということである。」(132頁)と捉え返している(注2)。そして、「歌の言葉を読み解くためには、日常の言葉とは異なる歌の言葉としての論理を探求してゆくことが不可欠なのである」(同頁)としている。今日まで「言霊」という言葉は安易に捉えられ、上のような認識のもとに言霊信仰があったなどと使われてきたが、実例としては三例しか見られないのだから眉唾であるという見立ては正しいであろう。それが歌の言葉であるかについては追い追い考えることにし、また、歌の言葉とはそもそも何かについてはさておくとして、コトダマという言葉についてより精緻に議論されることが求められよう。

万葉集の実例「言霊」

 「言霊」という語が見える万葉集三例は次のとおりである。歌群を構成する場合はその一連をあわせて記す。

  好去好来かうきよかうらいの歌一首 反歌二首
 神代より 言ひらく そらみつ やまとの国は 皇神すめかみの いつくしき国 言霊の〔言霊能〕 さきはふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷みかど かむながら めでの盛りに 天の下 まをしたまひし 家の子と 撰びたまひて 勅旨おほみこと 反して大命おほみことと云ふ。 いただき持ちて もろこしの 遠き境に つかはされ まかりいませ 海原うなはらの にもおきにも 神づまり うしはきいます もろもろの 大御神おほみかみたち 船舳ふなのへ 反して、ふなのへにと云ふ。 導きまをし 天地の 大御神たち 倭の 大国霊おほくにみたま ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔あまかけり 見渡したまひ 事をはり 還らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手みてうち掛けて 墨縄を へたるごとく あちかをし 値嘉ちかさきより 大伴の 御津みつの浜びに ただてに 御船は泊てむ つつみ無く 幸くいまして 早帰りませ(万894)
  反歌
 大伴の 御津の松原 かききて われ立ち待たむ 早帰りませ(万895)
 難波津に 御船泊てぬと 聞こえば 紐解きけて 立ちばしりせむ(万896)
   天平五年三月一日、いへに対面して献ることは三日なり。山上憶良謹みて大唐大使のまへつきみ記室に上る
 言霊の〔事霊〕 八十やそちまたに 夕占ゆふけ問ふ うらまさる 妹は相寄らむ(万2506)
  柿本朝臣人麻呂の歌集の歌に曰はく
 葦原の 瑞穂の国は 神ながら ことげせぬ国 然れども 言挙げぞ吾がする 言幸く 真幸くせと つつみ無く 幸くいまさば 荒磯波ありそなみ ありても見むと 百重波ももへなみ 千重波にしきに 言挙げす吾は 言挙げす吾は(万3253)
  反歌
 磯城島しきしまの 倭の国は 言霊の〔事霊之〕 たすくる国ぞ ま幸くありこそ(万3254)
   右は五首

 万894・3254番歌は、外国への遣使の送別に歌われている。万2506番歌は、占いの際に歌われている。二例対一例で万2506番歌は無勢なため、民間習俗的な趣を持つと見て例外とする向きもある。しかし、コトダマという一つの言葉で表されているのだから、三例ともが包摂される概念に定められなければ理解したことにならない(注3)
 結論を仮説として呈示する。言葉と事柄とは一つのことであるとする考えが根本にある。言葉があるということは誰かが事柄を言葉に言い表している。ただし、言い方によって同じ事でも違って感じられるときがある。知恵を働かせたうまい言い方をしている場合には、誰が聞いてもうまく言い当てていると思われる。まるで言葉に魂が宿っているとでも名づけたいほどに感嘆させられるもの言いとなっている。当を得た言い方が好まれ、その状況が高じてくると、やがてうまい言葉づかいについて崇め奉るようになる。信仰心があるかのようだから言霊信仰と呼んでも遜色ないものとなる。
 今日一般に使われている言霊信仰という言い方はこれとは少し違う。どんな言葉であれ言葉には霊力が内在しており、言葉はパワーを発揮するものとされ、言葉を発すればその言葉どおりの事象がもたらされるから言霊信仰といい、言葉の力を信じてみることをも言霊信仰といっている。誤謬を含んだ定義なのであるが、最大の問題は言→事の作用面ばかり強調していることであろう(注4)。そうではなく、言=事であるという一点のみを指し示す言葉、それがコトダマである。タマ(霊・玉・珠)と断っているのだから玉粒のような言葉であると理解されよう。端的な言葉(音)と関係しなければコトダマではない。的を射た図星の言葉を操れてはじめてコトダマと呼び得る。言葉と事柄の同一性を確保すること、コトのアイデンティティを玉粒のような音で示していることをコトダマと言っている。言は事であり、事は言であって、タマなす状態にある。
 その理解は、その陰において、コト(言)とコト(事)とが必ずしも同一なものではない領野にあることを前提としている。不一致になりかねない両者を、ひたすらに同一になるように志向して、頓智的工夫をこらして言語活動を展開していた。フェイクニュースやうわべばかりのおべっかは、言ではあるが事ではなく、説明のつかない超常現象や言葉に言い表せない突然の緊急事態は、事ではあるが言ではない。言=事となっておらず、コトのアイデンティティは拡散していて、それらはその限りにおいてコトではない。そんな意に沿わない状態を嫌い、言=事であることを目指した時、はからずも言葉(音)的に覚ることのできる端的なうまい洒落が発せられることがあり、それをコトダマと呼んだ。筆者はそう考える。

「言霊の 八十の衢に 夕占問ふ」(万2506)

 この論理基盤仮説が成り立つか実例を検証する。三例すべてに適合的に解釈がすすめば正しいものとし、一つでも不適合であれば棄却すればよいのである。

 言霊の 八十やそちまたに 夕占ゆふけ問ふ うらまさる 妹は相寄らむ(万2506)

 この歌は占いの歌だから仮説の意をよく反映している。占いは予想的に言葉にしたことが結果的に事柄となって現れるものである。いま、占いが外れることは念頭にない。言=事しかないと思っている。だから、「まさに」などと言い張っている。そして、ここでの占いは「夕占ゆふけ」である。夕方、道を歩いている人が口にしたことを耳にして、それが現実のことになるであろうとする占いである。もちろん、占いなのだからそのとおりになるとは限らない。従来の言霊説のように、人間が口に出して言ったことがすべて事実として現れると考えるのは誤りである。あり得ないことであるし、神をも恐れぬ発言をしていたとは考えられない。「言挙げせぬ国」(万3253)とあるとおりである(注5)。この歌でも「言霊の……正に」と思想信条の自由から強気で言っていても、最終的に「……む」と推量している。
 占いは、言葉が事柄になることを期待、予想するものである。この歌では、「八十やそちまたに 夕占ゆふけ問ふ」に「言霊の」という修飾語が冠されている。八十字路で夕方に人が何か言ったことが現実の事となるだろうと占っている(注6)。言っていることが実際のことになるから、ないしは、なることを期待してのものだから、「言霊の」と冠されているとされて正しい。が、そればかりではない。行われている場所は他でもない「八十の衢」である。「八十やそ」という言葉は数の多いことを表し、「しま」、「みなと」、「うぢ」、「」、「くま」などに冠することがある。そのまま eighty islands などの意に取ることもできるが、「ちまた」は、チ(路)+マタ(股)の意だから、ヤソチ(八十路)+マタ(股)と語を分離させたような不思議な働きをしている。せいぜい八衢やちまた(a eight-forked road)程度に盛られて言われるところをさらに大仰に a eighty-forked roadなどと言っている。「夕占」をしたと思しい例に「占部うらべをも」と冠するほか、「椿市つばいちの」(万2951・3101)、「ももらず」(万3811)とする例が見える。百に足りない八十は単純な言葉遊びである。「椿市」は古代に最大級のマーケットであった海石榴市つばいちのことで、そこはとても繁華であった。
 「八十やそ(ソは甲類)」とわざわざ断っているのには、それがヤソという音を持っていて、「衢」ならではの喧騒を強調したいからであろう。未来のいまだ来たらざることであっても、たくさんの声がすればどれか一つぐらい当たることがある。つまり、「夕占ゆふけ」は必ず当たるのであって、言=事なのである。そしてまた、そこは人々が行き交い、荷物も馬に積まれて運ばれてきている場所である。人に呼びかける言葉が「や」であり、馬を追い動かせるための言葉が「そ(甲類)」である。とてもにぎやかな声がしている。火のないところに煙は立たず、声のないところに夕占はできない。「言霊」という言葉に表される言葉は必ず音声言語である。

 ……呵嘖してのたまはく、「、汝、何ぞ此のきたなき地に居る」とのたまひ、……(霊異記・下・七)
 …… まそ鏡〔喚犬追馬鏡〕 ……(万3324)
「そ(?)」(一遍聖絵・巻7写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591579/12をトリミング)
 「や」や「そ」と発声する時、何が起きているか。人間であれ、馬であれ、相手の反射行動を促している。人に向って「や」と言えば、振り向いて自分に関心を寄せてくる。馬に向って「そ」と言えば、その馬は誘導に従って歩を進める。反射ほど確かな将来予想はない。必ず当たる占いである。したがって、「言霊の」は「八十やそ」と二重の意味で密接な関係にある語、あるいは枕詞と考えても差支えない冠辞性を持っている。歌に歌われている言葉どうしが互いに定義し合うようにして、一語一語定位していきながら歌い進められている。
 「言霊の 八十やそ」という言辞は、それ自体において真なる言い方である。しかも、一音一音確かめられる形になっている。コトダマ・・たるゆえんである。言葉(音)が言葉(音)として納得ずくで了解されて広められていくことは、その音声言語の体系をまるごと掌握したうえにしか成立しない。ヤマトコトバの系のなかで、循環的にヤマトコトバを用いていくやり方は、いわゆる歌言葉の用い方として肝要なことではある。周囲の人に聞こえよがしに節までつけて大きな声で言っている。現状では必ずしも理解されるに至っているものではないが、そういった言葉遊びのおもしろ味が歌の性質としてあって、その特徴を発揮するのにかなった言葉こそが歌言葉ということになる。好例が万2506番歌である。逆に言えば、そのようなユーモアを兼ね備えていない歌が歌われていた場合、何がおもしろくて声を張り上げているのかわからないということになる。万葉集の歌を研究するには、歌のなかのどこに言語ゲームのおもしろ味があるのかを見極めようとする姿勢が求められる(注7)
 このことを踏まえれば、われわれはさらにもう一段、深い理解に近づくことができる。上代の人の文化は無文字文化、声の文化であった。声に出すたびにしか「こと」なるものを確認することはできない。言葉がなければ事柄とはならないという哲学的思考がすでにあったようで、そして、今発した言葉について確かかどうかを、論理階梯を混濁させて言い放つことで証明としているのである。八十の衢というところは交差点である。三叉路や十字路どころか八十字路だと誇張している。どの方向へ進むかはまったくわからない。占いでもしてみなければ、どの方向へ進んだらいいかさっぱりわからないということである。その事情を表すことができるのは他ならぬ「言霊」であり、歌の冒頭に用いられている。言葉と事柄との間の関係は、一対一対応にあるにはあるのだが明示的ではなく、一つの言葉に一つの事柄が整理されて対置されてあるわけではない。あみだくじのように、あるいは、お祭りの屋台の景品についている紐を引くかのような対応関係で、それはまったく占いと同じことなのである。その紐を手繰り寄せる際の手掛かりが言葉の音である。コトの複雑さを繙くことを的確に言い表した言葉がコトダマである。巡り巡って言葉の音が言葉を形成し、事柄を表すことになっている様相が的確に表されている(注8)
 すなわち、「言霊」とは、言葉と事柄とが一致することに相違ないと気づくとともに、言葉の音から考えを巡らせてみることで確かにそのとおりだとようやく思い至るという、紆余曲折を含んだ論理思考を全肯定的にみる観察においてのみ見出されるものなのである。大切なのは、言葉は音としてあるヤマトコトバであり、事柄は生じている現象でありつつそれを理解するためには言語化が必要で、その場合にもヤマトの人はヤマトコトバを用いて思考していた、それも瞬時に消えていく音によって即解していたということである。「や」「そ」なる音をもって言=事なのだというアハ体験を示し、言=事なのだという当時の人にとっては当たり前のこと─なぜなら同じ音(言葉)に集約されているから─をコトダマ(言霊)などという尤もらしい言葉を作って叙述している。これはヤマトコトバ─音声言語としての─での思考の産物である。起っていることが物理的現象と捉えられ、万国共通全人類的に数式で表されると考えることなど想像だにされていない。

「言霊の 幸はふ国と」(万894)・「言霊の 助くる国ぞ」(万3254)

 万894・3254番歌は、遣唐使や遣新羅使の派遣に際して歌われた歌である。それら遣使に対して「言霊」という言葉が現れるのは、あるいは理の当然と受け取られるかもしれない。ヤマトコトバの使われていない外国へ派遣されている。外国でヤマトコトバは通じない。ヤマトコトバの常識は通用しないと自覚される。ヤマトコトバにあっては言葉(音)と事柄とが密接に関係しているのに、外国語においては発音される言葉(音)と、了解されるべき事柄とは一致しない。異邦人はカオスを経験する。自国意識、自民族意識を否が応にも経験させられる。ここまでは従来の説で語られていることである。しかしそれは、「偉大な文字文化を持つ大唐帝国と対峙する対外関係の中で、自国の言語活動を自覚したことが、この語を用いる契機となったと考えられている。」(万葉ことば事典186頁)(注9)といったことではない。万3254番歌は遣新羅使であろうから相手を見下している可能性がなきにしもあらずである。もちろん、重要なのは、言葉が音ばかりで、音そのものが言葉であった点による。無文字文化のなかにあった。遣使は訳者をさを同行させつつ、片言ぐらいは勉強して赴いているとしても、そのとき、中国語、朝鮮語の音のなかに、なるほどと思わせる意があると嗅ぎわけられてはいない。ヤマトコトバは一つの体系としてあって、そのなかにあって洒落を言うこと、聞くこと、おもしろいと思うことができるが、母語でない外国語で洒落を聞き取ることはできない。「八十やそ」と聞いて人に呼び掛ける「や」、馬に呼び掛ける「そ」などと直感して「衢」に行き交う喧噪な声にまでも連想することは、ヤマトコトバに通じていなければできるものではない。また、平安時代以降は文字に飼いならされてしまったから気づくことさえできなくなっている。万894・3254番歌にもその気づかない点がある。

 …… そらみつ やまとの国は 皇神すめかみの いつくしき国 言霊の さきはふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり ……(万894)

 万894番歌について、説明のために「言霊の さきはふ国と」部分を取り出して解読する。万2506番歌同様、「言霊の」は逐語的に後接の「さきはふ」という語に掛かっている。サキハフという語は、古典基礎語辞典に、「サク(咲く、カ四)の連用形名詞サキに、アヂハフ(味はふ、食物などの味を感じとる意)やニギハフ(賑はふ)などと同じ接尾語ハフ(あたりに這うように広がる意)が付いた語。用例は上代にのみある。」(540頁、この項、我妻多賀子)と解説されている。語幹のサキ(幸)という語には、類義語サチ(幸)がある。サツヤ(猟矢)、サツヲ(猟人)のサツの音転で、狩猟や漁撈の道具で弓矢や釣り針のこと、また、それによって得られる獲物のこと、幸福のことを広く含めて表していた。海幸・山幸の話はよく知られている。「山さちもおのがさちさち、海さちも己がさちさち。」(記上)という言説が行われ、人々に受け容れられている。つまり、サチ(矢)はサチ(狩猟の獲物)、サチ(鉤、釣り針)はサチ(漁撈の獲物)と等価であると考えられ、そのような言葉づかいが行われていた。機知に富んだヤマトコトバである。
鯛縄(河原田盛美『水産小学 上』錦森閣、明治15年、38頁。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/842629/45をトリミング)
 すると、サキハフという言葉からは、サチ(矢・鉤)=サチ(獲物)がつぎつぎと這うように連なっているさまが思い浮かぶ。遣唐使船で船出をしているのだから、この場合、釣り針のことを暗示していると考えるべきである。すなわち、延縄である。長い釣り糸に間隔を取りながら道糸をつぎつぎにかけていってそれぞれに餌のついた釣り針がついている。そのそれぞれの釣り糸に魚がつぎつぎにかかる。サチ(幸)がハフ(這)ようになっているから、「言霊の」という語がサキハフという言葉に冠していて、「語り継ぎ 言ひ継がひけり」と連続していて確かということがわかる。言=事、鉤=魚でありつつ、それが玉に貫くように数珠つながりを果たしていると示すこと、しかも、言い伝えに伝承されている事象のなかにあって、体系としてヤマトコトバが成り立っていることをよく示している。それをコトダマという言葉で呈示している。コト単独の語ではなく、タマ(霊・玉)という語との複合語である点が明確となる。

 磯城島しきしまの 倭の国は 言霊の たすくる国ぞ ま幸くありこそ(万3254)

 万3254番歌では「言霊の 助くる国ぞ」とある。言霊が助けるとは、言葉の音、発声の仕方によって意の理解が助けられるということを表面的には説明する。タスクという語は、タ(手)+スク(助)という語構成によって成っている。手を差し伸べて何かを手助けすることであるが、言葉を捉え返せば、手を助けるもの、手の補助となるもの、その補助具を用いることで手助けするのに役立つもの、といった意を含意していると考えられる。音声言語における発想として、洒落の世界では今でもそうであろう。ロボットアームという言い方が行われているのは、観念において手の延長線上にあると認められるからである。そのような例を古代に探せば、手袋のこと、とりわけ、弓を扱う際に手を傷めないようにしつつ弓弦を引くために手の力を最大限に発揮させる手袋のことが思い浮かぶ。古語でユガケ(弓懸、弽、韘)という。ユガケは、他にも手助けする役割を果たしたことがひそかに知られている。允恭記や允恭紀四年九月条に載る盟神探湯くかたちは、氏姓を偽って登録したものを裁くために行われた審判である。熱湯のなかに手を入れて偽っていなければ火傷せず、偽っていたら火傷して傷痕として残るというものであった(注10)。すなわち、盟神探湯くかたちとはユガケ(湯掛)である。天皇の信認篤い者にはあらかじめ弽が配布されており、動じることなく手にはめて盟神探湯に臨み、手を保護して火傷することはなかった。熱湯に手を入れ、熱いといって出した手は、ユガケ(弽)の染め模様から爛れたように見られた。それを目にした氏姓を偽っている者は、嘘をついていると自覚があるから尻込みすることになり、盟神探湯の前に騙っていたことを白状してしまう。弽をしていた人のほうは、弽に守られて中の手を火傷せずに済んでいる。氏姓の秩序は保たれたのである。言い伝えに聞く盟神探湯により、ヤマトコトバにタスクルものとはユガケであり、ユガケは弽であって、湯掛に対処できるものということが音をもって理解される構造となっている。言葉の音に宿っているきらりと光る霊なるがゆえと譬えることとなり、コトダマというに値すると思われた。
弽(弓懸)(指懸図、武器袖鏡二編、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200000845/98?ln=jaをトリミング)
 この言葉づかいは上の万894番歌の「言霊の 幸はふ国と」の後を襲うものであったろう。「山さちも己がさちさち、海さちも己がさちさち。」の前半部、弓矢の矢の放つ場面に照応している。弓矢を使うため弽をはめて助けとした。結句の「ま幸くありこそ」のサキはサチと類義、ないしは同義である。サチという語は矢と獲物の概念に一体性があることを表していて、万事うまい具合にすすんでいることを示している。言=事の一体性をいやがうえにも思い出させる作りとなっているヤマトコトバなのである。そして、この歌は「磯城島の 倭の国は」で始まっている。枕詞が使われている。シキシマノと言えばヤマトノクニと続くのが理の当然と思われている。ある言葉が次の言葉を必定のこととして導くことは、言葉に霊が宿っているからであると、一つの歌のなかで戯れに解説を付している。
 この万3254番歌が遣新羅使の際の歌と考えられる点は興味深い。言い伝えに新羅には欺く性格があると評されることが多い。嘘をついて貢納をしなかったり、折にふれ反目する国と見なされていた。派遣される遣使に求められるのは、新羅が嘘をつかないかどうか確かめることである。本邦で行われた有名な審判は盟神探湯であったから、そのときの小道具のことが思い浮かべられているのである。
 ヤマトコトバの言語世界にどっぷりと漬かっていた人が、外国語圏へ遣使に向うことは、カオスへ迷い込むのと同じことと思われる。それがコトダマという語を誘発する事情であったかもしれないが、コトダマの本意を示すわけではない。われらがヤマトコトバの優秀性を誇りこそすれ、他国文化に引けを取っているなど露ほども考えていない。言葉(音)を聞けば、その音を頼りに、バックグラウンドになっている言い伝えを手掛かりとして、豊穣な意味深さをことごとく理解できる。わかることの快感について、たまらなく素晴らしいことだと思っている。粗放な言語文化の唐や新羅では、言葉を聞いても表面的に意味を理解することはあっても、洒落や頓智の効くような頭脳力など微塵も感じられない。外国人だからわからないのではなくて、そもそも彼らが言語には発想としてないものと見ている(注11)。漢籍に典故を踏まえた作品がいかに見られようが、いずれ知識の問題で、知っているか知らないかはどんぐりの背比べの低次元極まりない言語活動である。知恵の入り込む余地がない。言語遊戯に楽しむことのできない地へと遣わされてさぞかしおもしろくなかろうが、大丈夫だ、帰ってくれば、必ずやまた言葉と事柄とが一致しつつ、口のなかでその音をなぞれば、あれよあれよと思うように意味が重なり合い、縦横に張り巡らされた言葉のネットワークが当該の言葉の確かなことを悟らせてくれる、ヤマトコトバのゆたかにして楽しめる世界に戻ることができるのだから、と告げて励ましている。歌という、ヤマトにしかなくてヤマトコトバでしか表し得ない口頭言語の表現形式のうちに、ヤマトコトバでしか表し得ない頓智をもって高らかに歌い上げている。
 ここには論理階梯を混濁させたもの言いがある。歌が歌われていること自体、言葉の機知、頓智、洒落を含んでいて、その状況自体ですでに言霊性を表明している(注12)ところ、その表明に「言霊」という言葉が入り込んでいる。その「言霊」が「幸はふ」「助くる」であると言っているのは、歌を贈っている相手は外国へ赴く遣使だからである。あなたを含めてわれわれはヤマトノクニの人であり、ヤマトコトバ人なのだと歌って、そこに居合わせている人たちが聞いてもなるほどそのとおりだと納得され、皆に認められる歌に仕上がっている。自国意識を直接示す語はクニで、コトダマではない。しかし、われわれを結びつけているのは実はヤマトコトバという音声言語である。われわれは超絶技巧的に込み入った言語遊戯を楽しみ合うことのできる仲間なのである。充実したヤマトコトバの結実を表すために「言霊」という語が用いられている。

おわりに─「言霊信仰」概念の刷新─

 言葉が事柄とイコールになることは、表面的にはありきたりのことである。しかし、それを突き詰めるために、音声言語であるヤマトコトバは複雑な知恵を繰り出して、言葉を発しながら同時に今発した言葉を自己定義していくことをくり返す循環論法を楽しんでいる。そのうちの、短い言葉(音)のうちにずばりと言い当てていることが意識化されて、コトダマ(言霊)という語が使われている。そのようなことは、ヤマトコトバの系にあっては実は日常茶飯なことであった。一つの音で表されながら異なる意味を有する言葉が、どこか裏で意味的にかよいあうようになっている。そんなからくりを持つのがヤマトコトバである。上に実例として見た「言霊」という言葉の意味と同じことである。当時の人にとっては当たり前のことと考えられていたから、当たり前すぎて言説にはなりにくかったのだと筆者は考える(注13)。たまたま夕占や異国への遣使の際に、ふだん使いの言葉が顧みられて「言霊」という一つの言葉に形作られている。言語体系の周辺の端のところから根底を透き通し見て捉えられている。言葉に呪力が内在するのではなく、言い伝えられてきて常識となっていることに塗り重ねるように、論理学的に真であるように言葉を使っている。
 言葉と事柄とが一致するものであるという見方は何ら不思議なことではない。逆に、事柄と一致しないことを言葉にすることは、でたらめを言っていることであり、意図的に悪だくみを抱いているとすれば嘘をついていることになる。ヤマトコトバに生きた人はそれを排斥することに努めた。言葉と事柄は必ず一致しなければならないことを前提に据え、終始貫き通したのである。彼らは文字を持たなかったから、後から証文を見せて違うではないかと異議を唱えることができなかった。そんな状況下で言事不一致が罷り通れば、それは外国へ赴いた遣使の如くカオスのなかに暮らすことになる。社会の安定を保つためには、言葉と事柄とが一致すること、その目的のためにはどのように知恵を働かせてもかまわないこととして、言葉の論理学をこそ重んじたわけである。
 くり返しになるが、筆者のいう「言霊信仰」という言い方は通説とは異なる。言葉に霊力があるとは想定していない。社会学者のデュルケームによれば、近代社会は個人の人格を聖なる存在として崇拝しあうべくして成り立っているという。そして、それを個人主義と呼び、一つの新しい宗教であると捉え返している。この考え方と対比してみると、上代の人たちが言葉と事柄との一致にこだわってヤマトコトバを築き上げ、個々の言葉をを使用しながら頓智や洒落を介在させてたゆまず再構成していく動態を見るならば、そのこと自体を「言霊信仰」と言い表して然りであると考えられる(注14)。玉のような輝きをもった言葉を「言霊」と言っている。ことごとく言=事となるようにしていた事情の発露の名づけにふさわしいものであった。

(注)
(注1)万葉集ハンドブックに、「言霊ことだまとは、古代社会で広く信じられていた言語に潜む霊的な力をいう。あることばを発すると、そのことばどおりのことが実現するという言と事と一体視する観念で[ある]。……言霊の威力は日常言語では作用せず、呪術じゅじゅつや祭式に由来する非日常言語に限って発揮された。さらに、言霊の発現には特定の時と場に加えて、特定の発声も必要とされた。……言霊が自覚的に意識されるようになったのを八世紀で、それは遣唐使の派遣を契機とした対外意識を媒介として自覚されたものであった。」(163~164頁、この項、高野正美)とある。
(注2)大浦2019.は、「言霊」という語が万葉集に三例見られるだけなのに、当時「言霊信仰」が始原的、全般的に遍在していたと考えていくことは、「「言霊」というものに対して現代の側に形作られた信仰─現代における「言霊」信仰─の様相すら呈している」(125頁)と、辛辣にして適切な判断を下している。
 筆者が考えようとしていることも具体的なコトダマ(言霊)に従ったものであって、ゲンレイ(言霊)についてではない。現代の言霊信仰に関する議論は、古代人の思考を、抽象化されたゲンレイ(言霊)という概念のもとにクロマトグラムされると述べている。現代人の尺度を当て嵌めて理解できるほど同じような言語活動をしていたのなら、枕詞の掛かり方がわからないはずはあるまい。
(注3)鎌田2017.に、「「事靈 八十衢」から人麿の「事靈之 所佐國叙」へ、そして山上憶良の「言靈能 佐吉播布國等」へと至るプロセスには、明らかに「言霊」意識ないし言語意識の変化、もしくは相違が見られる。」(84頁)として議論を進めてしまっているが、昨日まで orange の意味であったミカンという日本語が、今日は apple の意に、明日からは strawberry の意に使われるといったことがあったとしたら、日本語はすでに滅んでいるであろう。
(注4)他方、事→言を偏重させる考え(伊藤1990.119頁)も行われている。けれども、契沖・和字正濫鈔に、「  レハ  ラス  リ言、  レハ  ラス  リ事。」(国立国語研究所・日本語史研究資料https://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/show.php?title=wajisyoransyo&issue=1&num=3&size=50&page=2)とあるのがすべてである。事→言、言→事に分離して、前者を現実世界を言語世界に写しとることとしてそれが先行していると考えるのは誤りである。言語化しなければわれわれには現実が浮かび上がらない。
(注5)「言挙げ」は事態に関係なく言葉を発することであるとされ、「言霊」を検討する際に絡めて論じられてきた。滅多やたらに言葉を弄することがなかったのは、言葉に霊力が備わるから呪術儀礼においてしか用いられなかったとの考えである。議論が逸れている。「のろひ」「とごひ」「うけひ」といった言語儀礼は、それぞれの言葉を有していて、言語活動全般に及ぶものではない。「言挙げ」についても同様である。
 稲作農耕儀礼に予祝行事が行われることがあるが、いつごろから始まったか不明である。それにならって予祝の歌が行われたとされているが、予言の自己成就(マートン)といったレベルのこと以外、実際問題として天候を相手に何か発言したら必ず実現することなど起ろうはずはなく、外れてもうたくさんだと思う人も出ただろう。言ったら成るといった信仰が行われていたとは想定できないのである。外れてばかりの天気予報は当てにされないが、昨今のようによく当たると企業のマーケティングにも活用される。人には信用が大事とされる本意である。言葉と事柄とが違わぬように苦心していって、社会の安定がはかられ国の礎は築かれた。ヤマトコトバが知恵の体系としてできあがったからヤマトの国は成り立っている。
(注6)折口1919.に、「ゆふ‐け【夕占】 日暮頃にする占なひ。辻に出て往き来の人の口うらを聴いて、自分の迷うてゐる事、考えてゐる事におし当てゝ判断する方法で、日の入つた薄明りのたそがれに、なるべく人通りのありさうな八衢を選んで、話し話し過ぎる第一番目の人を待つたのである。夕方の薄明りを撰んだのは、精霊の最力を得てゐる時刻だからであらう。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958698/247、漢字の旧字体、繰り返し記号は一部改めた。)、和田1995.に、「言霊は、道と道とが行き合う八十のチマタに、それも夕暮時に、群れ蠢くと観念されていた。古代においては、チマタが、言霊のような精霊の活動する場所と観念されていたからこそ、夕占が行なわれたのである。こうした観念は、近世に至っても、辻占の習俗に微かに残っていた。」(341頁)とある。拾芥抄、二中暦を引いて説明している。ドグマに支配されていたわけではあるまい。
(注7)万葉集の研究では、言葉(万葉語)や表現に焦点を当てる一派がある。語用論的な展開や論理学的な見地も期待される。
(注8)後世、辻占が呪歌をもって始められたのは、歌と占のあいだに親和性があったからである。一方、散文調に文章としたものは、譚であり、縁起である。記紀の説話の多くはこの形をとっており、それぞれの話の終わりに結句を置いて証として明かされている。これを仏教語では「空」と言っている。記紀の説話や初期万葉の歌が諳んじられて伝えられるものであったことは示唆的である。「言霊」信仰は、仏教思想の「縁起」、「空」に等しいと言っても過言ではない。話(咄・噺・譚)は、虚実をともどもに兼ね備えた方便、比喩の形をとっている。歌ではその短い発声時間のなかでコトの顛末が盛り込まれている。歌は譚の端的表現と捉えればよいであろう。大浦2019.が「言霊」という語は歌言葉ではないかとする考えは、高らかに音声をもって歌う点で正しい着想であった。「言霊」は譚の超端的表現である。
(注9)太田1966.の「「言さへく」ばかりでいっこうに通じない、たとえて言えばまさに禽獣が「囀る」のと変わるところがない行為に照らし合わせてみるにつけても、自恃あるいは誇りにも似た感情をともなって意識されたみずからの言語活動の意味の深さ、その恩恵とそれに対する期待というものではなかったろうか。」(216頁)というのは一面では当たるが、西郷1964.の「文字的文化のケンランたる巨大な国にたいし抱いたであろう烈しい憧憬の念の、いわば反対項として、「言霊の幸はふ国」という意識はよびさまされた」(42頁)というのは違うであろう。黙読する「文字」は、文字を使ったアニメーションや音声変換機能が生まれる以前、「こと」であった試しがない。読書百遍義自ずからあらはる、という格言は、音読の重要性を説くものであった。田中2006.参照。
(注10)拙稿「古事記、走水と弟橘比売の物語について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/370e6f59f17140e5fe24d217d8c74230・https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/4e6afb79e31c1c1a78b8e7905cab95c9参照。
(注11)ヤマトコトバの頓智的性格について筆者は探究している。一時代にこれほどまで体系的な様相を呈することが多言語にあったか、勉強不足ゆえ確かなことは言えないものの聞いたことはない。なかったか、知られることはなかったということであろう。
(注12)声を挙げて歌を歌うことは、言=事であることを歌う。大浦2019.が指摘するように、「言」ではあるが「事」にならなかったことは、「言にしありけり」と歌われている。言葉どおりに事柄が運んだらいいなと思う場合、断定の助動詞は用いられず希望の助動詞が用いられる。推量の助動詞や疑問の助詞などにしても同じことである。言=事をいかに歌うか、各自、手腕を競っていた。
(注13)井手2004.に、「言霊とは、ことばに対するアニミズム的思考に基づく用語である。……『記・紀』の中に、言霊の働きの著しい事例の存することは事実である。にもかかわらず、『記・紀』には、言霊という語は見いだされない。これは、おもうに、そのような言霊に対する呪術的信仰──ことばに対する禁忌タブーという抑止力が『記・紀』にはなお力強く働いていたからで、その語を用いること自体が憚られたものかと思われる。『萬葉集』に言霊という語が用いられるようになったのは、『記・紀』時代に比して、それだけ、ことばに対する呪術的信仰の絆が緩んでいたことを示す。しかし、『萬葉集』中には、なお、言霊信仰に関わる歌と見るべきものが多数見いだされる。」(203頁)とある。考えの本が違うと末も違うことになる。
(注14)社会学は社会を裏返してみて的確な捉え方を試みる。デュルケームのいう「個人主義」という言葉が巷間の評価と異なるように、筆者のいう「言霊信仰」も異なっている。近代社会において、人間は人間にとって神となり、人格は聖なるものであるから尊敬の対象であって、人格は尊敬の対象なのだから聖なるものであるという循環論法は、言葉を事柄とイコールにしたから言葉には、ないしは事柄には、言霊的性質が付随することになって言い得て然り、有り得て然りな構造になっているところと相似している。
 ふだん使いのヤマトコトバに如上の言霊的性格が普遍的にあったことは、すべての語をいちいち説明していくほか証明の手段を持たない。例をあげておく。
 ハタという語がある。機、旗、端、将、鰭などが一つの言葉にまとめられている。旗は風にパタパタと靡くもので、機によって織り上げられる。機は(ヒは甲類)を左右の端から端へと渡しながらパタパタと動かして使うものである。機小屋の中で南を向いて、毎日毎日、左の端から右の端、左の端から右端へと(ヒは甲類)(sun)が移動するように梭を移動させることをくり返して織り上がる。はた~や、はた~やとくり返されてパタパタ喋ってみたり、ハタマタなどと用いられるように振れを連想させる言葉である。はたは魚体の左右についたパタパタ揺れ動かす脇ひれをいう。二十をハタと言うのも数えるときに印をつける際、線を10刻んで端とし、それを一段として次の段にまた10刻んでいく。そこに上と同様の意味が見て取れたからであろう。
 このようなヤマトコトバの組成は、言葉がほうぼうに点在しながら意味が芋蔓式に通底して数珠つながりに根粒を示しているようなものであって、コトダマという呼び方は当を得ている。たまたま、たまさかに現れ見える。そして、言葉はみなそうなっているのかと問うたとき、本当にそうなっていると思われるし、今後ともそうでありつづけるように知恵を働かせていけば言=事が保たれて秩序は維持されていくのだからそうしようと暗黙裡に取り決められていたようである。アノミー化したコト(言・事)という想定自体、想定し難いものである。「言霊信仰」には優位性があり、累次性を成して構築されていったと言うのが適当であろう。

(引用・参考文献)
井手2004. 井手至『遊文録 説話民俗篇』和泉書院、2004年。
伊藤1990. 伊藤益『ことばと時間』大和書房、1990年。
大浦2019. 大浦誠士「コトと「言霊」」上野誠・大浦誠士・村田右富実編『万葉をヨム─方法論の今とこれから─』笠間書院、令和元年。
太田1966. 太田義麿『古代日本文学思潮論Ⅳ』桜楓社、昭和41年。
折口1919. 折口信夫『萬葉集辞典』文会堂書店、大正8年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958698
鎌田2017. 鎌田東二『言霊の思想』青土社、2017年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐野2019. 佐野宏「言霊の構造」毛利正守監修『上代学論叢』和泉書院、令和元年。
多田1998. 多田一臣『古代文学表現史論』東京大学出版会、1998年。
田中2006. 田中裕「「読書百遍義自ら見る」は正しいか」『神戸山手短期大学紀要』第49号、2006年。関西国際大学機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1084/00000864/
西郷1994. 西郷信綱『増補 詩の発生─文学における原始・古代の意味─』未来社、1994年。
佐佐木2013. 佐佐木隆『言霊とは何か─古代日本人の信仰を読み解く─』中央公論新社(中公新書)、2013年。
上代文学研究事典 小野寛・桜井満編『上代文学研究事典』おうふう、1996年。
東2005. 東茂美「言霊の幸はふ国─山上憶良「好去好来歌」について─」『比較文化 福岡女学院大学大学院人文科学研究科紀要』第2号、2005年3月。福岡女学院学術機関リポジトリhttp://hdl.handle.net/11470/583
万葉ことば事典 青木生子・橋本達雄監修『万葉ことば事典』大和書房、2001年。
万葉集ハンドブック 多田一臣編『万葉集ハンドブック』三省堂、1999年。
和田1995. 和田萃『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 中』塙書房、1995年。

(English Summary)
“Kötödama” is a word of Yamato kotoba. Today, the word “Kötödama” is used to indicate the spirit of language, but it wasn’t recognized as such in ancient times. “Kötödama”, as the word implies, meant a ball of voice. Since Yamato kotoba didn’t have characters, it developed the logic of the language independently. It created a great linguistic system by interweaving countless jokes so that words would be the same as things. In this paper, we will take a look at one end, just as the word “Kötödama” appeared.

※本稿は、2021年6月稿を2023年7月に改題、改稿しつつルビ化したものである。

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