古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「明日香皇女挽歌」について─特異な表記から歌の本質を探って─

2023年07月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
「明日香皇女挽歌」

 万葉集巻第二の明日香皇女挽歌は、柿本人麻呂の作った長い長歌と反歌二首からなる。本稿では、新大系本萬葉集があげる表記の特徴を検討していくことで、この歌群の性質に迫ろうと考える。最初にテキストを掲げる(注1)

  明日あす香皇女かのひめみこきの(瓦偏に缶、缻の左右反対)の殯宮あらきのみやの時に、柿本かきのもとの朝臣あそみ人麻呂ひとまろの作りし歌一首 短歌をあはせたり〔明日香皇女木〓(瓦偏に缶)殯宮之時柿本人麻呂作歌一首幷短歌
 飛ぶ鳥の 明日香あすかの川の かみに 石橋いしばし渡し 一に云ふ、「石なみ」 しもつ瀬に 打橋うちはし渡す 石橋に 一に云ふ、「石なみに」 ひなびける たまもぞ 絶ゆればふる 打橋に ひををれる 川藻もぞ 枯るればゆる なにしかも 大君おほきみの 立たせば 玉藻のもころ やせば 川藻のごとく なびかひの よろしき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮ゆふみやを そむきたまふや うつそみと 思ひし時に 春へには 花折りかざし 秋立てば 黄葉もみちばかざし しきたへの 袖たづさはり かがみなす 見れども飽かず 望月もちづきの いやめづらしみ 思ほしし 君と時どき 出でまして 遊びたまひし 御食みけかふ きのの宮を 常宮とこみやと 定めたまひて あぢさはふ ことも絶えぬ しかれかも 一に云ふ、「そこをしも」 あやにかなしみ ぬえどりの 片恋づま 一に云ふ、「しつつ」 朝鳥あさとり 一に云ふ、「朝霧あさぎりの」 かよはす君が 夏草なつくさの 思ひしなえて 夕星ゆふつづの か行きかく行き 大船おほぶねの たゆたふ見れば なぐさもる 心もあらず そこゆゑに せむすべ知れや おとのみも 名のみも絶えず 天地あめつちの いや遠長く しのひ行かむ 御名みなにかかせる 明日香あすかがは 万代よろづよまでに はしきやし 大君おほきみの かたにここを〔飛鳥明日香乃河之上瀬石橋渡一云石浪下瀬打橋渡石橋一云石浪生靡留玉藻毛叙絶者生流打橋生乎為礼流川藻毛叙干者波由流何然毛吾王能立者玉藻之母許呂臥者川藻之如久靡相之宜君之朝宮乎忘賜哉夕宮乎背賜哉宇都曾臣跡念之時春部者花折挿頭秋立者黄葉挿頭敷妙之袖携鏡成雖見不猒三五月之益目頰染所念之君与時々幸而遊賜之御食向木〓(瓦偏に缶)之宮乎常宮跡定賜味沢相目辞毛絶奴然有鴨一云所己乎之毛綾尓憐宿兄鳥之片恋嬬一云為乍朝鳥一云朝霧往来為君之夏草乃念之萎而夕星之彼往此去大船猶預不定見者遣悶流情毛不在其故為便知之也音耳母名耳毛不絶天地之弥遠長久思将往御名尓懸世流明日香河及万代早布屋師吾王乃形見何此焉〕(万196)
  短歌二首〔短歌二首〕
 明日香あすかがは しがらみ渡し かませば 流るる水も のどにかあらまし 一に云ふ、「水のよどにかあらまし」〔明日香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼尓賀有万思一云水乃与杼尓加有益〕(万197)
 明日香川 明日あすだに 一に云ふ、「さへ」見むと 思へやも 一に云ふ、「思へかも」 大君おほきみの 御名みな忘れせぬ 一に云ふ、「御名忘らえぬ」〔明日香川明日谷一云左倍将見等念八方一云念香毛吾王御名忘世奴一云御名不所忘〕(万198)

 新大系本萬葉集に次のような指摘がある。

文字表現にも興味深い用法が見える。「望月」の表記「三五月」は、中国文学の知識に拠るもの。梁・王僧孺「月夜詠陳南康新有所納」の「二八人は花の如く、三五月は鏡の如し」(玉台新詠六)、陳の徐陵の楽府「関山月」の「関山三五月、客子秦川を憶ふ」などの例が思い浮かぶ。「慰もる」の表記「遣悶流」の「遣悶」は、二〇七にも所見。正倉院御物の杜家立成に「店に入りて杯を持ち、望むらくはそれ悶(へ うれ)を遣()らむ」。……「たゆたふ」の表記「猶預不定」は、漢訳仏典に頻出する。「今菩提心を発すと雖も猶預不定」(大方等大集経十八)、「凡夫の心軽く猶預不定なり」(同上五十二)。「彼の人心猶預不定」(出曜経十五)。「心の物たる猶預不定」(同上二十八)。……「生ひををれる」の原文「生乎為礼流」。「為」は「また」の意で、上と同じ字が重なることを示すと思われる。「もころ」の原文、諸本「如許呂」。金沢本・広瀬本の「母許呂」に拠る。「もころ」は「如し」の意……→三五二七・四三七五。……「形見にここを」の「に」の原文「何」は、妙法蓮華経釈文・中に引用する玉篇逸文に「何…掲也、負也、今皆荷に作る」とあるように、本来は、担うの意であり、後に「荷」の字が代りに用いられるようになった。詩経・曹風・候人に「彼の候人は、戈と祋とを何()ふ」とある。「何 ニナフ」(名義抄)。……「ここを」の「を」、原文「焉」は強意の助字。助詞「を」の表記ではない。→四六二・一三五六・一八〇九。(142~143頁)。

 この解説は「文字表現」(本来、「文字表記」とあるべきところ)のレベルのことを言っている。漢籍や仏典の書き方に倣って書いてある。文字を持たなかったヤマトコトバが漢字を文字に採用して使い始めているばかりなのだから、教科書的な表記でない表記があったり、教科書的以上の表記があることは、何ら不思議なことではない。ただそれだけのことであって、ねぇねぇ、このヤマトコトバはどう書いたらいいの? という素朴な問いに、こういうふうにも書いていいんじゃないの という答えがあってそう記されている。その工夫(?)をもって漢籍の知識があるということではない。

「三五月」

 漢文学の影響ではなく、自分の表したいことをいかに文字表記(エクリチュール)に落し込めるかという問題である。そこにどのような思惟があるかと言えば、メールの絵文字に似た感触がある。深い考えがあるわけではない。ヤマトコトバの「もちづき」を、「望月」(万167・1807)、「十五月」(万3324)ばかりでなく、「三五月」(万196)とも記してみた、ということである。なにゆえそう記したかったかについて考えることは、推測の域を出ることはないながら可能である。掛け算表記をした理由は、歌の内容において、当該箇所で用いる「もちづき」に、何かと何かが掛かっているからであろう。

 ……  しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず もちづきの いやめづらしみ 思ほしし 君と時どき 出でまして 遊びたまひし ……

 「鏡なす」について、茂野2019.に適切な見解が述べられている。「「鏡なす」が規定する「見」の質は第一にこちらが見、鏡の映像もまたこちらを見返すという対面性・双方向性にこそ求められるだろう。……「鏡なす 見れども飽かず」も、互いに・・・向き合って飽き足らず見続ける、という生前の二人の様子を描写したものと理解され」(10頁)るとしている。そして、「「携はる」には二(以上)を行為主体として、彼らを主体とする別の行動ないし状況の描写を導く」ので、「一九六歌において「携はり」に後続して三連対を構成する「見れども飽かず」「いやめづらしみ」の行為主体が、皇女と夫君との二者として捉えられる」(7頁)と明瞭に解している。
 そのことは、さらに続く「君と時どき 出でまして 遊びたまひし」ことにもつながっている。仲良しカップルにあって個が溶解してしまう状態をうまく示している。すると、「鏡なす」鏡像関係は、皇女と夫君の見合うさまばかりでなく、「鏡」と「もちづき」との対照の意味にも発展しうる。すなわち、「いやめづらしみ 思ほし」ていることは、二人でしている。二人の顔が寄り添ってある。
二人の横顔があわさり満月に見える旧JISマーク
 満月をこのような二人の横顔と見た時、なるほど「もちづき」とは一つのものではなく、二つのものが掛け合わさっているものであると感じ取ることができるであろう。そのアイデアに添った表記が漢土にあると聞けば、ではここではそう表記してみようということになって然りである。この万196番歌の「もちづき」表現をもって「三五月」表記が行われたというわけである。一説にこの「もちづきの」を枕詞とする考えがあるが、「鏡なす 見れども飽かず もちづきの いやめづらしみ」という流れからして、いわゆる枕詞とは言えない。「鏡」も「もちづき」も円形にして輝いていて、ないしは反射していて、それはおそらく太陽光を反射しているに違いないと当時の人たちも知っていたであろうことを予感させるわけであり、ともに二人一緒の行いを表している。

「猶預不定」

 「たゆたふ」については、村田2004.に、「「たゆたふ」という歌ことば自体が、人間関係の上に生起する現象についての表現といえよう。……「たゆたふ」と歌うことは妹や背に逢えないことの嘆きであり、ひとりきりになった心の状態を表すといってよかろう。」(134頁)とある。それを踏まえて茂野2019.は、「その心の状態とは、どこともつかず揺れ動いているのではな」く、「枕詞「大船の」はそうした心のあり様を空間的な動きによって表象し、その船の動きは皇女のもとへと幾度も行き来する夫君の行動に重なる。」(16頁)としている。殯において異変の常態化を理解していく過程でのとまどい、「異変を正面から受け止めつつも、ただちにはそれを認めることはできないという認知的不協和」、「「たゆたふ」心情のあり方」の「心理的矛盾」を「大船の たゆたふ」と形容している(18頁)と理解しているように見受けられる。
 上代語の「たゆたふ」の義について理解されなければならない。

 吾がこころ ゆたにたゆたに 浮蓴うきぬなは にも沖にも 寄りかつましじ(万1352)

 「ゆたにたゆたに」とあって、「たゆたふ」という語が副詞「たゆたに」と同根で、もとは擬態語に由来することを気づかせてくれる。岩波古語辞典に、「《タは接頭語。ユタはゆるやかで定まらないさま》」(829頁)とある。「辺にも沖にも」どちらにも「寄り」つくことがないというのは、「浮蓴」、すなわち、蓴菜じゅんさいが波に揺られながら行きつ戻りつしていることを言っている。万196番歌の「…… 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば ……」は、宵の明星が夕方西の空に見えたかと思えばすぐに沈んでしまうことを毎日くり返しているのと同じように、大きな船がたゆたっていると言っている。大きな船が蓴菜のような寄せては返すことをしているとは、具体的にどのような動きか。矢切の渡しに「大船」は使わない。「大船」は大海の渡航に使われる。出たとこ勝負で遣唐使船は東シナ海を横断している。

 大船の つるとまりの たゆたひに 物ひ痩せぬ 人の子故に(万122)
 大海に 島もあらなくに 海原の たゆたふ波に 立てる白雲(万1089)
 大船の たゆたふ海に 重石いかり下ろし いかにせばかも 吾が恋まむ(万2738)

 波のことや大船のことが表現されている。ここに、船の停泊方法に新時代の到来を予感させる。準構造船を寄港させる標準的な方法としては、ラグーンで座礁させる形式であった(注2)。潮の干満にしたがって安全に停泊することができた。その方法が廃れたわけではないが、別のやり方が行われている。万2738番歌にあるように、航行中は無理せずに碇を下ろして天候の回復や夜の明けるのを待つことがあった。同様に、接岸においても、港を浚渫して水深を確保したところへ「たゆたふ」形式で係留しておく方法を採るようになったと思われる。もやい船として留めておくのである。「もやふ」は、船が波や潮に上下するのに任せつつ、つなぎ留めておくことである。その場所を波止場はとばというのは、一定の大きさ以上の船を鳩に見立てて、鳩が枝などに止まって上下している様になぞらえた言葉である。紀には「天鴿船あまのはとぶね」(神代紀第九段本文)とある。すなわち、「大船の たゆたふ」とは、波止場にロープで係留された大船が、喫水を保ちながらわずかばかりに上下左右前後動をくり返していることを言っている。
 夫君は「木〓きのへ(瓦偏に缶)」に設けられた殯宮へ「か行きかく行き」をくり返している。それは、岸壁の大船の「もやふ」さまと同じようなものだと言うのである。絶対にそうであると言い切れるのは、殯宮とは「喪屋もや」のことだからである。船は、特に大船は、動くのなら大海を渡るように動くはずである。同様に、夫君もどこへでも歩を進めてかまわないのに、きっと他の女性も放っておかないモテ男なのに、ただ自宅←→喪屋を行ったり来たりしている。「〓上きのへ」とは「城上きのへ」(万199)のことだから、単なる地名としてというよりも、古墳の墳丘上に殯宮が設営されていることをいうのであろう(注3)。まことに「舫ふ」様そっくりである。その様子を見るにつけて、「慰もる 心もあらず」と述べている。
 「たゆたふ」の表記が「猶預不定」である点は、指摘されているとおり漢訳仏典によるのであろう(注4)。それが確からしいとわかるのは、「天鴿船あまのはとぶね」に大船の姿を鳩に見て取っている点にある。鳩にもいろいろいるが、身近な鳩はドバトである。語の由来は堂鳩、塔鳩であるとされている。別名をカワラバト(瓦鳩)という。お寺の堂塔の瓦で羽を休めている。そんな鳩のような大きな船によって大陸と交流し、仏教は伝えられた。「たゆたふ」の漢字表記が漢訳仏典に出典とされて然るべしということになる。
 漢語の「猶預(予)不定」とは、モラトリアムのことを言う。この四字熟語をヤマトコトバの「たゆたふ」の表記に当てたのであり、その逆ではない。ヤマトコトバの「たゆたふ」は目に見える具体的な動きを言っていた。それを心の揺れ動きの形容に援用した。心象表現に形容したとき、はじめて「たゆたふ」はモラトリアムの意を獲得したということになる(注5)

「遣悶流」

 「なぐさもる」は、「なぐさむ」の自動詞形である。おのずからなぐさめになることをいう。名詞「なぐさ」は、「《ナグはナギ(凪)やナゴヤカ(和)のナゴと同根。波立ちを静め、おだやかにする意。サは漠然とした方向・場所・場合を示す接尾語》心の波立ちを静めるに役立つかもしれないもの。気休めのもの。」(岩波古語辞典975頁)である。大船の舫いに対応して、波を静めることである。それを「遣悶流」と書いている。煩悶を向こうへることだから義訓として成り立っているとされている。その考え方に誤りはないが、根拠とするには弱い。「大船」とあれば遣唐使船が想定されるから「遣」の字が出てきている。「ぐ」という語は「ながる」と同根の語と考えられており、嫌なことをうっちゃることを今日でも「投げる」、「投げやりになる」などと使っている。すると、投げ去ることをナグサの意ととることができ、「遣」一字にナグサとよむこともできそうな気がし、「悶」字の音はモ(ン)であろうから、「遣悶」でナグサモに当たっていると理解することができる。音と義とにわたって共通するからヤマトコトバの表記に正しいと考えられたものと思われる。
 こういう字並びを発見すると、漢文学からの影響に違いないと考えられて、正倉院御物にある杜家立成の「入店持杯、望其遣悶。」といった字句によると受け取られてしまう。想は得ていたかもしれないが、杜家立成の古訓点に、「店に入りてさかづきを持ち、望むらくは其れ遣悶なぐさもらむ。」とあるのかはなはだ心もとない。万葉集では、ナグサ・ナグサム・ナグサモルといったヤマトコトバに対して、今日、常訓と思われる「慰」字が使われることはなかった。どう書いたらいいの? という素朴な質問に、「遣悶」かな、と答えた異才がいたということかもしれない。筆者は、背景に、殯などに対する応じ方によるところがあったと考える。

 明日くるつひ[舎人王]みまかりぬ。天皇大きに驚きて、乃ち高市皇子・川嶋皇子を遣はす。因りてもがりみそなはしてみねしたまふ。百寮つかさつかさの者、従ひて発哀ねつかふ。(天武紀九年七月)
 癸巳、飛鳥寺の弘聰僧せぬ。大津皇子・高市皇子をつかはしてとぶらはしめたまふ。(天武紀九年七月)
 明日くるつひ、恵妙僧みうせぬ。乃ちみはしらの皇子をつかはしてとぶらはしめたまふ。(天武紀九年十一月)

 天皇は、皇子を代理として弔問させている。その意味は、喪主の心を慰撫するためである。「遣」は、天皇が皇子を、主人が家来を、社長が社員をお使いとして先方へ赴かせることである。本来なら自ら出向かなければ気持ちを十分に伝えられないが、いちいち対応しきれないから習慣上そういうことにしようとしたのではないか。「乙亥に、高麗人十九人、本土もとつくにに返る。是は後岡本天皇のみもに当りて、弔ひたてまつる使の留りて、未だ還らざりし者なり。」(天武紀九年十一月)、「新羅、……幷せて一吉飡金薩儒・韓奈末金池山等をまだして、先皇さきのみかどみもを弔ひたてまつらしむ。一は云はく、調使みつきのつかひといふ。」(天武紀二年閏六月)などとある。
 「弔使」という表記は、允恭紀四十二年十一月条にすでに見えるが、「遣」という字が兼ね使われているのは、欽明紀三十二年八月条の「新羅、弔使とぶらひのつかひ未叱子失消等を遣して、殯に奉哀みねたてまつる。」というのが早い。外国の使節以外では、孝徳紀白雉四年六月条の、「天皇、旻法師、命せぬときこしめして、使をつかはして弔はしめたまふ。……皇祖母尊及び皇太子等、皆使を遺して旻法師の喪を弔はしめたまふ。」が早い例である。
 すなわち、天武九年頃に、名代を立てて弔問する風が常態的に行われるようになったものと考えられる。 天皇の名のもとに弔意を表し、遺族の心を慰めようとはかっている。名代みょうだいという語は後代の言葉であるが、名の代わりであることに違いはない。名代なしろという言葉は、令制以前、王族の名を冠してよすがとなるように、国造を通じての掌握から離れてその私有としたところや隷民をいう。「御名代みなしろ」(仁徳記)などと見える。「しろ」は代わりのことを表すと同時に「しろ」のことも表す。「城」は奥つ、お墓のことだから、名代が弔問することはヤマトコトバの系のなかで正しいと納得される仕掛けになっている。そして、当該「明日香皇女挽歌」に、明日香皇女を明日香川とともに歌うことは、“名代”的に歌うこととなっている。名をネタにして歌を歌っていることは、名種なぐさにしていることである。墓碑銘に名を刻むことは、一人の人が確かに生きた証として、その死が統計ではないことを意味する。ここに、「遣」という字義は、弔問の名代の意味を表して、たとえそれが形式的なものに過ぎないにせよ、心についての用語、「なぐさ」なのだとわかるのである(注6)

「生乎為礼流」「如許呂」「焉」

 新大系本萬葉集に、「「生ひををれる」の原文「生乎為礼流」の「為」は「また」の意で、上と同じ字が重なることを示すと思われる。」とあったが、そういう解釈もできはするものの、また、ヲヲというヤマトコトバ、「唯唯をを」(神武前紀戊午年六月)は「をを」の意で謹んで承諾すること、「為」のことだから、「」を「」ること、よって、「乎為」と書いているのかもしれない。筆者の主張しているのは、ヤマトコトバをいかに漢字を使って表記したかということである。基本的スタンスとしてその逆のことはあまり考えるには及ばない。
 「もころ」は諸本に「如許呂」ともある。「如」を「し」と訓むことに半分由来して、意味的にも「ごとし」のことだから、あるいは「如」だけでも「もころ」と訓めるけれど、親切にも続けて「如許呂」と記したとも考えられる。
 新大系本萬葉集の説明の最後、「「ここを」の「を」、原文「焉」は強意の助字。助詞「を」の表記ではない。」とある点はいただけない。次のような例もある。

 らが家道いへぢ やや遠きを ぬばたまの 渡る月に きほひあへむかも〔兒等之家道差間遠焉野干玉乃夜渡月尓競敢六鴨〕(万302)

 そもそもヤマトコトバの「を」が、どういう言葉なのか決め切れていない。助詞として考えられているが、格助詞、終助詞、間投助詞、また、係助詞との解釈もある。文法が先にあるのではなく、すでに人々に使われてあるのが言葉である。ヤマトコトバの「を」は、感動詞「を」(上述の「ヲヲ(乎為)」のような声)を出発点として起った間投助詞「を」から、他の用法の助詞へと派生したと考えられている。「を」を投入するかしないかは気分次第のようなところもある。「新治にひばり 筑波を過ぎて」(紀25)は、「新治 筑波過ぎて」で通じないかと言えば通じる。語調を整えるとともに、「を」を入れると対象化して確かならしめる作用、つまり、強意の意味が込められることになる。ヤマトコトバにおいて、文末に終助詞として考えられている「を」の例があって、同じような漢文に「焉」と強めて終っている文章を見つければ、ヤマトコトバの「を」に「焉」と書きましょうと思っても何ら不思議なことではない。また、「を」に「矣」を当てた例は50例以上ある。
 くり返しになるが、筆者の強調したいことは、漢字の訓みがあってヤマトコトバを書いたのではなく、先行してヤマトコトバがあって歌が歌われ、それをどう書いたらいいか漢籍をアンチョコにしていたばかりであると考えなければならないという点である。したがって、万葉集の意味内容に漢文学の素地を求めることは、漢文学に由来する言葉が露になっている場合を除き、深掘りしても的外れなことになる場合が多い。

出典論の研究

 この万196~198番歌について、最近はあまりとり上げられていない漢文学との関係について検証しておく。小島1964.に、万196番歌の表現に中国文学の影響があるとの指摘がある。

 
……[文選五八、宋文元皇后]哀策文「南ソムキ国門、北ムカフ山園」の表現は、柿本人麻呂の次の歌にも関係する。
  何しかも、わが大君の、立たせば、玉藻のもころ、こやせば、川藻の如く、なびかひし、宜しき君が、朝宮乎賜哉、夕宮乎賜哉………(一九六)
 これは明日香皇女の殯宮を城上きのへに立てた時の作。この「忘れたまふ」や「そむきたまふ」は、朝夕の御機嫌奉伺をした御殿をはなれる意であり、全体として皇女の薨去を示す句である。この「忘る」「背く」は、表現としてやや変つた感じを与へる。萬葉集新考は「背く」について右の哀策文に出典を求めるが、宋謝荘、黄門侍郎劉琨之誄にも「過建春闕庭、歴承明城輦」(芸文類聚四八、黄門侍郎引用)とみえ、このやうな哀悼に関する常套の類句によつて、ソムクの表現が新しく萬葉語として登場したものと思はれる。「忘る」はここでは「背く」の意と大差がない。「背く」が漢籍の飜訳語(飜読語)とみなせば、「忘る」もこれを更に応用したことばと云へるであらう。同じ人麻呂の、
  草まくら旅のやどりに誰がつまか国忘れ○○たる家待たまくに(四二六)
も、やはりこの種の「忘る」である。なほ哀悼文には、霊柩車の泉門への門出の形容として、車を牽く馬の悲しい声の描写がよくみられる。その一例、
  龍轜儼其星駕兮、飛旐翩以啓路、輪按軌以徐進兮、馬悲鳴○○○而跼顧(文選、潘安仁、寡婦賦)
  喪柩既臻、将魏京、霊輀廻軌、白骥悲鳴○○○○(同、曹子建、王仲宣誅)
  旌徘徊而北係、轜逶遅而不転、挽掩隧而辛嘶○○○○○○驥含愁而鳴俛○○○○○○(宋謝荘、黄門侍郎劉琨之誄)
 これらによつて考へると、巻十三挽歌の一つ、三野王を悼んでいななく厩舎の遺愛の駒をよんだ長歌「………なにしかも大分青馬あしげのうまのいなきたてつる」(三三三七)や、その反歌「ころもであしげの馬のいなく音こころあれかも常ゆけに鳴く」(三三二八)も、たとへ事実の描写であつたにしても、やはりその表現の暗示は漢籍の挽歌的な表現より得たのではなかろうか。」(900~901頁)


 「背く」というヤマトコトバの用法に違和感を覚えたらしく、「漢籍の飜訳語(飜読語)」ではないかと考え、「忘る」にも同様の傾向を見てとっている。さらには歌全体の「挽歌」なるものに、漢籍の影響があったと言及している(注7)。議論の導入にある「背く」や「忘る」について、新しい意味合いを持つようになったと考えることはできない。

「背く」「忘る」

 「背く」には次のような例が見られる。

 …… 頼めりし らにはあれど 世間よのなかを 背きし得ねば …… (万210)
 …… 鳰鳥にほどりの 二人並び 語らひし 心背きて 家さかりいます(万794)
 恐るらくは、天勅すめらみことのみことのりに背きまつらむことを。(継体紀六年十二月)
 何ぞ国神くにつかみに背きて他神あたしかみゐやびむ。(用明紀二年四月)
 わたくしを背きておほやけくは、是やつこらまが道なり。(推古紀十二年四月、十七条憲法)
 あに敢へていきほひを背かむや。(天武紀元年六月)
 日に背きて幸行いでましつる事、いとかしこし。(雄略記)
 甘露の味をそむかしめ、正法の流を失はしめ、(西大寺本金光明最勝王経巻第六)
 Somuqe, uru, eta. ソムケ, クル, ケタ(背け, くる, けた) 背を向けている……Somuqi, qu, uita. ソムキ, ク, イタ(背き, く, いた) 逆らい反する, または, 破り犯す.(日葡辞書572頁)

 古典基礎語辞典の「そむ・く【背く】」の解説に、「ソ(背、セの古形)とムク(向く)の複合語。 相手に対して自分の背中を向けること。また、その姿勢で相手から離れていくこと。相手を無視したり拒否したりする意思表明の動作にもなり、そこから、背反や叛逆の行動をすることをいうようになる。」(690頁、この項、須山名保子)とある。
 万196番歌の例は、「川藻のごとく 靡かひの 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや」という文脈にある。「朝宮」と「夕宮」を対句仕立てにしている。なぜ「宮」が出てきているか。それは、今や「殯宮」にあるからである。この表現が、
 朝宮を 背きたまふや 夕宮を 忘れたまふや 
と逆転することは考えられない。「夕宮」で何をするか。床を共にする。そのとき背を向けることは、仲良しをしないということである。だから、「夕宮を背きたまふ」という言い方は、万葉的な大らかなセクシャリズムの表現として理にかなっている。「朝宮」で何をするか。おはようと挨拶をする。おはようの挨拶がないとは、起きてこないということである。だから、「朝宮を忘れたまふ」という言い方に不思議なところはない。セックスレスや感情的ないさかいから来った離婚の危機ではなく、死別が原因である。いずれの民族であれ、このような日常的な感覚は自ら育まれるものであろう。外国文化に基づく漢籍の飜訳語(飜読語)に依存してはじめて形成されたなどということは、あり得ようはずがない。

「明日香皇女挽歌」は何が言いたいのか

 明日香皇女挽歌の第二反歌について、鉄野2016.は次のように述べている。「「明日香川」は皇女と「名」を共有し、「形見」となる点で、既に「喩」である。それを序詞的にも用いることで、二重に「喩」として機能させる。そのようにして「喩」たる常在の「明日香川」と、「被喩」たる不在の皇女とを緊密な一体として歌うことが、当該歌の企図であったと考えるのである。」(140頁)とある(注8)。この結論はある意味、当を得ている。
 我々はお悔やみの言葉、お悔やみの文章を知っている。「このたびは突然の訃報にふれ、驚いております。ご家族の皆さまのご心痛はいかばかりかと、言葉もありません。〇〇様はとてもお上品な方で、ご夫婦で仲睦まじくお散歩されているお姿を拝見しては心温まるものがございました。どうぞお気を強く持たれて、お心落しになられませんようご自愛くださいませ。心よりご冥福をお祈り申し上げます。」
 これは何を語っているのか。何か伝達すべき内容や果たすべき目的を持っている言葉かと言えばそうではなく、気持ちのようなものをただ述べている。気持ちのようなものというのは気持ちそのものではなく、その形式に当たる。では、浮ついた言葉なのかといえばそうではなく、社交辞令として重要なものである。社会には、このように社交の側面が内包されている。この社交性を突きつめると、いわゆる目的や内容は不在となる(注9)。明日香皇女と夫君は、「敷栲の 袖携はり 鏡なす 見れども飽かず もち月の いやめづらしみ 念ほしし」関係にあった。二人で(大)社会に対して何かを成し遂げようとしていたのではなく、二人の(小)社会に自適していた。すなわち、何か目的や内容を持った言葉が互いの間に発せられる必要がないほどに、ただ社交の満足に浸っていたと言えるのである(注10)。〄の満月は満足の表れであった。
 そんな折の突然の逝去に対する歌としてふさわしいものとは、二人の間の社交のありさまと同じようにして、あたかも入れ籠のように二重構造に歌を構成することである。特に何かを述べようとして言葉を表すのではなく、傍から見ていても二人の仲睦まじさがほほえましいものであったことを歌に交えるばかりである。言葉には何ら内実が込められていないようにしながら、それぞれの言葉の表面は辻褄の合うように帳尻を合わせた歌を歌うことが求められたわけである。目には目を、歯には歯を、喪には「藻」を、「明日香皇女」には「明日香川」を、社交性には社交性を、で対処している。社交性の極致への要請に対して、人麻呂はよくかなえており(注11)、何も言わないためにだらだらべらべら喋っているのであった(注12)

(注)
(注1)訓みは新大系本萬葉集140~143頁による。
(注2)拙稿「熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f0d6d7b1f0d734bc459b39e8358d80fc・https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ad2977689e7f5a2e788516345723ace2参照。
(注3)荷田春満・万葉童蒙抄に、「きがめは大和の地名也。その所にもがりの宮を作りて、もがりし奉りたると見えたり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913096/71)、井上通泰・万葉集新考に、「〓(瓦偏に缶)上殯宮は御墓の外に殯宮を営みしにはあらで〓(瓦偏に缶)上の御墓を新葬の程殯宮といひしなり。されば〓(瓦偏に缶)上殯宮之時は新葬于〓(瓦偏に缶)上之時と心得べし」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1225909/137、漢字の旧字体は改めた)とある。
 「もやふ」ことを言っているから「喪屋」であることは確かであり、もがりをしていたと考えられる。「殯宮」はモガリノミヤであり、ここにアラキノミヤとは訓まない。キノヘは地名というよりも、今日、古墳と呼ばれるところは、上代語につか、また、であり、その、小高いところのことを言っていると思われる。と呼んでふさわしいのは、墳丘の周囲に円筒埴輪が配されて山城にある防衛柵に見え、周濠を設けて防御を固くしているように見えたためであろう。飛鳥の地が開発されつくしてしまい、殯をするにも場所の確保が難しく、ふだんはいわば公園として遊び場になっていた古墳があり、生前二人が遊びに来ていたということではないか。
 〓(瓦偏に缶)という字が「缻」の異体字であるならば、ホトキとも訓む字である。ホトキとは、瓦器の胴が丸くて口のすぼまった容器のことをいう。ホトキの音の甲乙は仮名書きがなく知られないが、仏(ホトケ、ト・ケは乙類)と密接な関係にある語であろう。金銅仏が中空構造であるのは、ホトキと同じである。中に米を入れるところは、仏のなかに舎利を入れることと観念的に一致している。古墳時代、本邦に隆盛をみた墓制は、塚を築いてその中に中空の玄室を設けて棺を安置していた。さらに遡れば甕棺墓になる。中空構造のなかに遺骨を納める点を〓(瓦偏に缶)と記すことで表そうとしていたとわかるのである。
(注4)一切経音義に「猶豫 音由、説文、玃属也、一曰、隴西謂犬子猶、顧野王云、猶豫不定也、礼記云、卜筮所‐以決嫌疑定猶上レ預也、説文、従犬酋声也」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240629/247~248)とあり、玉篇によったものかもしれない。
(注5)したがって、ここでは、認知的不協和や心理的な矛盾を「たゆたふ」と表現してはいない。「大船の」様子を表すことで、同じような心の舫い感、もやもや感を伝えようとしている。
(注6)「なぐさもる」は自動詞で、おのずからなぐさめになる、の意である。この長歌に、主語の転換を解く議論があるが、不明のものが多い。「…… 大船 猶預不定見者 遣悶流 情毛不在 其故 為便知之也 ……」とある「遣悶流」の主語は明日香皇女の夫君であろう。故人のことが思われて仕方がなく、ご自身の気持ちも自然と穏やかになることはない、と言っている。すなわち、「猶預不定見者」を「たゆたふ見れば」と訓むのは誤りで、「たゆたふ見ゆれば」が正しいと考える。堂々巡りをしているご様子なので、おのずとなぐさめになるような心情ではございますまい、と歌っている。
 上代にはミユが活用語を受けて用いられる時、上に付く活用語が終止形になるという現象がある。

 春日野に 時雨る見ゆ 明日よりは 黄葉かざさむ 高円たかまとの山(万1571)
 さ夜中と 夜はけぬらし 雁が音の 聞こゆる空に 月渡る見ゆ(万1701)
 白栲しろたへの 衣の袖を 麻久良我まくらがよ 海人漕ぎ見ゆ 波立つなゆめ(万3449)

 「形状性用言」(石垣1955.217頁)、「助動詞的用法があったかと疑わせるが、未詳。」(古典基礎語辞典1163頁、この項、筒井ゆみ子)といった説明が行われている。李2015.がいう、「「見ユ」は「現ニ目ニ見エル」こと自体を表す」(79頁)ことを大前提として考えれば、「時雨零る」「月渡る」「海人漕ぎ来」のさまが確かなことで、よく見えていると言っているのであろう。その時の「見ゆ」の主語について、視覚的に存在する対象を形式的な主語とし、実質的な主語を一人称の「我」に帰着させて上代人の「自己中心性係数の高さ」(佐竹1975.480頁)という視点からも説明されている。しかし、形式的な主語を想定しているのは、「現ニ(誰ノ)目ニ(モ明ラカニ)見エル」ことを言っているのであって、それを代表して「我」を措いているに過ぎないと考えたほうがふさわしいであろう。
 形式主語の据え方の転換によって万196番歌を見渡せば、全三段構成であると考えられる。茂野2019.に倣って英語表記を加えておく。
 ①明日香皇女ハ、(It was thought that Princess Asuka ……)
 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひなびける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく 靡かひの 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へには 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし しきたへの 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時どき 出でまして 遊びたまひし 御食向かふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ
 ②夫君ハ、(It was thought that Prince X ……)
 しかれかも あやに哀しみ ぬえ鳥の 片恋づま 朝鳥の 通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見ゆれば 慰もる 心もあらず
 ③私ども参列者ハ、(It was thought that we ……)
 そこ故に せむすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ 御名にかかせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が大君の 形見にここを
 ①段落の「うつそみと 思ひし時に」の「思ふ」の主語は「我」ではないかとの指摘もあろうが、話が皇女の亡くなった後のことばかりになってしまっていたので、生前のことを語ろうとして話を転換しようとしている。時制の変更を行うためには、一端、第三者的視点から見直す必要があり、挿入句が持ち込まれているのである。……, by the way, when she was alive, ……の意味であるが、「うつそみ」という上代人ならではの言葉を使っている。〓(瓦偏に缶)が中空の器であったのに対して、その型に象られたもの、蝉の抜け殻に対する成虫の蝉のことである。拙稿「一言主大神について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/002448e0d7c8bfcc79da4d856417ca0e・https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/90ae97e54f068187c27df66734bd09c3参照。こういった修辞的形容のためには、成虫の蝉であることを確認する観察者がいて「思ふ」必要があり、挿入句主語表現が登場している。
 形式主語の転換が起きる箇所に、「然れかも」、「そこ故に」と、それまで述べてきたこと全体を指示する語が用いられて、聞く人にわかるように構成されている。③段落では、何もしてさし上げられないので、お名前をもって追悼いたします、と歌っている。それが短歌二首にも反映されている。
(注7)彼の地では、「轜」は馬車仕立てで馬が牽いたかもしれないが、本邦に馬車の歴史は明治時代までない。牛が牽いていた。拙稿「轜車について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/6bd57f8689ef57db4f0ca8bdc742ae16参照。
(注8)万198番歌に、地名の「明日香川」と人名の「明日香皇女」とがメビウスの輪のように歌い込まれている。万196番歌でも、「殯宮」なのだから、モガリなのだから、喪に服して詠んでいるのだから、「藻」が持ち出されている。拙稿「記紀万葉における「出雲」とは何か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/96226878ad05ea5bab34908c9f8315ea参照。この点、研究者の言及は管見に入らない。人麻呂の歌がけっして不謹慎ではないのは、よすがを偲ぶことに良いも悪いもないからであるとともに、明日香川のなかに生えている「藻」を明日香皇女の姿態を偲ぶ形容にうまく展開していっているからである。
川藻
 なお、この第二反歌は解釈が定まっていない。別稿「明日香皇女挽歌の第二反歌(万198)について」で述べる。
(注9)ジンメル1979.に、「純粋な形態における社交は、具体的な目的も内容も持たず、また、謂わば社交の瞬間そのものの外部にあるような結果を持たないものであるから、社交はただ人間を基礎とし、その瞬間の満足─もっとも、余韻が残ることはあろうが─だけが得られればよいのである。」(74頁)とある。それ以上のことはない。
 ところが、万葉集正義に、「……人麿の美学は、明日香川を明日香皇女の形見としたところにある。明日香皇女なので明日香川と結び付けたのではない。明日香皇女の名によって明日香川が特別な川として現れたのである。そこには明日香川という美しい名の起源を、皇女の悲しい死によって語ろうとする人麿の態度がある。短歌にも繰り返されるのは、明日香川と明日香皇女とが一つの伝説となって記憶に残されることへの願いである。」(484〜485頁)などと転倒した論説が行われている。アスカガハという名は「美しい」のか、人麿は伝説化を希求して説話文学(歌の序文を含む)を展開しているのか、後に明日香川のことを明日香皇女によって語られた史実があるのか、そういった疑問に答えられるとは思われない。人麻呂は社交の歌を作り、その瞬間の満足以上のことを求めていないと考える。
(注10)柿本人麻呂は長歌を得意とした。彼は門付け歌人であった。セレモニーに呼ばれて長歌を歌いに出かけている。場を盛り上げる役割を担っている。マリノウスキー1967.のいう「言語交際 phatic communication」を熟知していた。「多くの人が寄り合って、とりとめもなく雑談を交すとき、何をと考えたらよいか。それはまさにこの社交性の雰囲気の中に存する。これらの人々の親しい交際という事実に存する。しかし、この雰囲気は実際、言語によって醸成される。そして、すべてかような場合の場は、言葉の交換により、陽気な集まりをつくる特定の感情により、または普通の雑談を成す言葉のやりとりによって創造される。全体の場は言語によって作られる。おのおのの言語表出は、何かしらある社会的情操の絆によって聴者を話者に結ぶ直接の目的に役立つ行為である。言語は、……この機能において、反省の道具ではなくして、動作の様式であるように思われる。」(406頁)。明日香皇女挽歌は、「場」の醸成のための動作の様式であった。
(注11)歌のなかに用いられている言葉と、その歌全体の枠組みとは、論理階梯が異なるはずである。しかし、無文字時代のヤマトコトバの達人たちは、いとも簡単にその両方を行き来する言葉遣いを成し遂げている。上代人はクラインの壺のように言葉を操った。なぜそのようなことをしたかは容易に想像できる。文字を持たない者同士が互いに言葉を“正しく”伝えるには、異様な厳密性が求められていたからである。言葉を発した瞬間にその言葉自体をその言葉が定義(再定義)するように仕組まなければ、相手の記憶に納得づくで留められないからである。記紀に伝えられている説話は話(咄・噺・譚)として要を得ている。要約されているのではなく、簡潔にして要を得ている。クラインの壺のように解読された時、はじめてそれらの説話は理解されて今日によみがえったということになろう。その時になってようやく、上代人の心性に近づいたと言える。
(注12)万葉集のこの類の歌を「どう読むか」についてであるが、ヤマトコトバの正確な把握なしに形而上学を巻き起こすことはあってはならないし、それをクリアして「読めた」と完了するものでもない。当然ながら、殯宮挽歌の風が途絶えたのは、何日にもわたる殯が行われなくなったからである。薄葬令や火葬化、古墳の終焉にあずかる事情である。万葉集の研究はその枠組みの自覚がまずは求められる。その先にわれわれが見なければならない射程は、言葉とは何か、という点であろう。なぜなら、記紀万葉の大半は無文字時代の言語活動であり、文字時代のそれとは根底的にはミッシングリンクだからである。はからずもこの「明日香皇女挽歌」は、言葉とは何かについて、視点として持つべきヒントを提供してくれている。われわれは「万葉学」、「上代日本文学」を、“脱構築”(デリダ)しなければならない。

(引用・参考文献)
石垣1955. 石垣謙二『助詞の歴史的研究』岩波書店、1955年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
太田2004. 太田豊明「「明日香皇女挽歌」考─「話者」について─」『国文学研究』第142集、早稲田大学国文学会、2004年3月。早稲田大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2065/43892
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 中─出典論を中心とする比較文学的考察─』塙書房、昭和39年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』 角川学芸出版、2011年。
佐竹1972. 佐竹昭広「「見ゆ」の世界─万葉調を支えるもの─」小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集3 萬葉集二』小学館、昭和47年。
佐竹1975. 佐竹昭広「万葉・古今・新古今」小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集5 萬葉集四』小学館、昭和50年。
茂野2019. 茂野智大「「明日香皇女挽歌」の視点と方法」『文藝言語研究』第76号、筑波大学大学院人文社会科学研究科、2019年10月。つくばリポジトリhttp://hdl.handle.net/2241/00157972
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集一』岩波書店、1999年。
ジンメル1979. ジンメル著、清水幾多郎訳『社会学の根本問題─個人と社会─』岩波書店(岩波文庫)、1979年。
平舘1998. 平舘英子『萬葉歌の主題と意匠』塙書房、1998年。
平舘1999. 平舘英子「明日香皇女挽歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第三巻』和泉書院、1999年。
鉄野2016. 鉄野晶弘「明日香皇女挽歌第二反歌試解」『国語と国文学』第93号第11号(通号1116号)、東京大学国文学会、平成28年11月。
土佐2022. 土佐朋子「「明日」と「万代」─柿本人麻呂「明日香皇女挽歌」第二短歌の解釈─」『京都語文』第30号、2022年11月。佛教大学論文目録リポジトリhttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_KG003000011420
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
マリノウスキー1967. ブロニスロー・マリノウスキー「原始言語における意味の問題」C・K・オクデン、I・A・リチャーズ著、石原幸太郎訳『意味の意味』新泉社、昭和42年。
万葉集正義 万葉集正義編集委員会編『万葉集正義 第1』八木書店、2024年。
村田2004. 村田右富実『柿本人麻呂と和歌史』和泉書院、2004年。
李2015. 李長波「上代語の「見ユ」とその活用の展開─活用形と助動詞との接続を中心に─」『同志社大学日本語・日本文化研究』第13号、2015年3月。同志社大学学術リポジトリ http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013976

※本稿は、2021年5月稿を2023年7月に改稿しつつルビ形式にし、2024年10月に(注9)部分に加筆したものである。

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