日本書紀の武烈天皇条に、角鹿の塩の詛い忘れについての記述がある。武烈紀についての研究は、そこに載る歌謡問答と、暴虐の君主像が考察の対象とされたものがほとんどである。「角鹿の塩」については歴史学的なアプローチがあるが、詛い忘れに関する研究は見られない(注1)。けれども、日本書紀の編者はおろそかに書いてはいない。
冬十一月の戊寅の朔にして戊子に、大伴金村連、太子に謂りて曰さく、「[平群]真鳥[大臣]の賊、撃ちたまふべし。請らくは討たむ」とまをす。太子の曰はく、「天下乱れなむとす。世に希れたる雄に非ずは、済すこと能はじ。能く之を安みせむ者は、其れ連に在らむか」とのたまふ。即ち与に謀を定む。是に、大伴大連、兵を率て自ら将として、大臣の宅を囲む。火を縦ちて燔く。撝く所雲のごとくに靡けり。真鳥大臣、事の済らざるを恨みて、身の免れ難きを知りぬ。計窮り望絶えぬ。広く塩を指して詛ふ。遂に殺戮されぬ。其の子弟さへに及る。詛ふ時に唯角鹿海の塩をのみ忘れて詛はず。是に由りて、角鹿の塩は、天皇の所食とし、余海の塩は、天皇の所忌とす。(武烈前紀仁賢十一年十一月)
平群真鳥大臣が滅ぼされる時、塩に呪い(注2)をかけて食べられないようにしたが、その子弟(注3)も角鹿(敦賀)(注4)の塩ばかりは呪詛するのを忘れていたため、角鹿の塩は天皇御用達になったという話(咄・噺・譚)である。その後、天皇御用達の塩のことは聞かれないので、何を示すために記されたのかわからないとされている。よく言われることだが、今考えてわからない、不思議であるからといって当時の人が遅れていたと考えるのは誤りである。時に、技術の発達とからめて捉えられることがある。その言われ方には幾通りかあり、当時の人にあってはとても難しいことだったからという見方、当時の人には大陸からの知識が広まっていなかったからという見方、当時の人には別に難しくはないけれど必要なかったとする見方、当時となってはすでに忘れられてわからなくなっていたという見方などである。しかし、話として書いてある。話として共通理解が得られており、結果として書かれてあると考えるのが素直であろう。技術も、前近代の多くの場合、必要は発明の母という言葉で説明し切れるほどに、必要なときには開発され、必要がないときは利用されず、捨て去られる傾向が強いようである。わからない話をわからないままに書いて事足れりとすることは、学校教育の成せる技かもしれない。日本書紀の編者は、わからない時、「此の古語、未だ詳らかならず。(此古語、未レ詳。)」(雄略紀元年三月)などと割注するほど念を入れて正確を期している。嘘になるような談話をしないのである。司馬遷のように文筆に誠実な人たちであった。
ここで検討しているのは、言葉の言い回しである。当時とは感覚が違ってわからないと思える話である。塩と呪詛の間にどのような関係があるのか、また、角鹿の特殊性についての事柄である。中四国から北陸、東海にかけての製塩技術の発展史を反映する形で、この呪詛塩話が形成されているとする説がある。もちろん、塩作りの技術と呪詛との関係について技術史で解読できるはずはない。心は出土しないから、後付けで講釈している。出土品+今日の人の考えによって、当時の人の心が復元できるとは考えられない。出土品+当時の人の考えでなければならない。当時の人の考え方は記紀万葉に残されている。素直に汲み取ればいい。
塩 陶隠居に曰はく、塩に九種有り、白塩は人の常に食へるなりといふ。崔禹食経に云はく、石塩は一名に白塩、又、黒塩〈余廉反、之保。日本紀私記に堅塩は岐多之と云ふ〉有りといふ。(和名抄)
白塩 陶隠居本草注に云はく、白塩〈爾廉反、和名は阿和之保〉は人の常に食へるなりといふ。(廿巻本和名抄)
黒塩 崔禹錫食経に云はく、石塩は一名に白塩、又、黒塩〈今案ふるに、俗に黒塩と呼びて堅塩と為。日本紀私記に堅塩は木多師と云ふは是なり〉といふ。(廿巻本和名抄)
塩にはいろいろな種類があり、「九種」とあるのは本草和名に載るさまざまな種類の塩のことを表しているとされる。源順が知悉していたかは不明である。おおむねのことで、白い塩、黒い塩、それはまた、堅い塩で堅塩ともいうとしている。白い塩があったことは、日本書紀の記述からわかる。
俗の曰へらく、「……時に二の鹿、傍に臥せり。鶏鳴に及ばずとして、牡鹿、牝鹿に謂りて曰はく、『吾、今夜夢みらく、白霜多に降りて、吾が身を覆ふと。是、何の祥ぞ』といふ。牝鹿答へて曰はく、『汝、出行かむときに、必ず人の為に射られて死なむ。即ち白塩を以て其の身に塗られむこと、霜の素きが如くならむ応なり』といふ。時に宿れる人、心の裏に異ぶ。未及昧爽に、猟人有りて、牡鹿を射て殺しつ。是を以て、時人の諺に曰はく、『鳴く牡鹿なれや、相夢の随に』といふ」といへり。(仁徳紀三十八年七月)
鹿の肉に白塩を塗りたくって塩蔵品を作っていたことから、鹿の夢の中に霜の降り積もるというしるしになって顕れている。逸話として描かれているだけであるが、白い塩の存在が確かめられる。上代人の頭に、鹿と塩との結び付きがあったことがわかる。上の逸話は猟師と鹿との関わりで述べられている。列島において、鹿は狩猟の獲物として熊や猪と並び最大級である。草食動物は、ミネラル分、特に塩を欲しがる。野生のシカやカモシカなども、塩分のとれるスポットを知っていて時折訪れる。人里に鹿が現われる時、便所に近寄って来ることがある。人の小便の塩分を欲しがっている(注5)。鹿が春日大社の使いとされて大事にされるようになった時、家畜の馬や牛同様、今の鉱塩のように堅塩を与えていたのかもしれない。推し測れば、縄文時代から列島に棲息していた獣のうち、鹿狩りをする際に塩を利用していたとも考えられる。五月五日の薬狩りの対象であった。広大な野において当日確実に仕留める手立てとして、あらかじめ塩を使っておびき寄せておけば、巻狩りとはいえ場所を限定することができて効率的であったろう。獲った鹿の最大のお目当ては、薬効があると信じられていた袋角である。成長した牡鹿がターゲットであった。角鹿と塩とは切っても切れない関係になっていたと言える。
十九年の夏五月の五日に、菟田野に薬猟す。(推古紀十九年五月五日)
夏五月の五日に、薬猟して、羽田に集ひて、相連きて朝に参趣く。(推古紀二十年五月五日)
鹿茸〈而庸反。角鹿初生。〉……鹿茸、一名に鹿角。〈雑要訣に出づ。〉和名加乃知[和]加都乃。(本草和名)
塩生産は、海水の塩分濃度を高める「採鹹」、その鹹水を煮詰めて結晶を作る「煎熬」、できた粗塩か結晶化寸前の飽和水溶液を別容器に移して再加熱してにがりを焼き切る「焼塩」の工程に整理される。「焼塩」でできた塩は「堅塩」と呼ばれる。塩を表す代表的な単位、助数詞に、嵩高や重量を表す「石(斛)」、「斗」、「升」、「合」、「勺」、「撮」がある。ほかに、形状のことを指す「顆」、包み方、保存の仕方を指す「籠」がある。「顆」は「堅塩」や「石塩」の一個一個を数えて、~ツ(~チ)と言った。「籠」は、粗塩か「破塩」を梱包ないし貯蔵した数を、~コ(コは甲類)と数えたものであろうという(注6)。粗塩の弱点は、湿度が高いと吸湿してべとべとになることである。なったらなったでそのままにがり分を上手に滴らせればよいと発想を転換するか、べとつかないようにあらかじめ焼き切っておくかの違いで製法が異なっている。湿気の多い地方には竹籠に吊るしておく民具が伝わっている。塩の容器に、塩壺と塩籠があるのは、もともとの発想の違いによる。地場ですぐ使う塩に、燃料を多用して堅塩にする必要はない。堅塩を再び舂き砕いて択りわける必要もなく、粗塩のままの白塩を使って魚の塩蔵品は作られていたのであろう。精製塩はまた別のものである。
塩籠(アチック・ミューゼアム・コレクション、国立民族学博物館https://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/special/200103/qa_q#10)
大別した時の塩の二形態のうちの白塩(粗塩)が、武烈紀に登場する角鹿の塩なのだろう。第一に、「広指レ塩詛」という言い方は、「塩」字にシホとウシホの両義を含めている。ウシホ(潮)は、ウミ(海)+シホ(塩)の意で、①潮汐による潮流、②海水、③塩、の三つの意で使われている。③の salt の意は、もっぱらこの武烈紀の用例に限られる。和名抄に、「潮 四声字苑に云はく、潮〈直遥反、字は亦、淖に作る、和名は宇之保〉は海の水、朝夕に来り去りて波の涌くなりといふ。」とある。朝夕の満ち引きを潮汐と書き表した。月に導かれてのことであり、一日にほぼ二回あるからそう譬えられて然りなのである。真鳥大臣が指差してのろったのは、全国の津々浦々で満ち干している潮に対してであったのだろう。干満の様子がわかるから、指で指し示すことができる(注7)。ところが、角鹿(敦賀)の場合、潮汐表に記されるように潮の干満差はとても小さい。
指で指し示すことを忘れたのは、潮があまりにも目立たず、同じ北陸道の手前にある琵琶湖岸の塩津港と同じかと錯覚し、湖の水はいくら焼いても塩はできないとの謂いなのではないか。「角鹿」は「越の前」にあり、それよりも手前に近江の塩津はある。ツノガをことさらに「角鹿」と書いている。鹿に角があるのは当たり前のことではない。牝鹿や子鹿に角はない。そして、古代にカと呼んでいるその当該牡鹿も、春になると角は落ちる。その後新しく袋角が伸びてきて、夏になると表面が角質化して角は完成する。成長するにつれ、大きく枝分かれしていく。秋にはオス同士の争いの武器となり、勝ったものがメスを独占できる栄冠を得る。つまり、ツノガという地名に、角鹿という字を当てて表すと、その地は鹿の角同様に、あったりなかったりするという特徴を再活性化させることになっているのである。
シカの角(井の頭自然文化園解説パネル)
あったりなかったりする点が、ツノガという場所の特徴を語るうえでわかりやすい。潮の干満があるのかないのかわからないとは、水の中に塩があるのかないのかわからないことである。そんな塩として一番ふさわしいのは、和名抄にアワシホと呼ばれる「白塩」のこと、焼き切っていない粗塩のことと考えるのが妥当である。顆単位の堅塩は、確かに堅く存在し、湿気が多かろうが少し水がかかろうがそう簡単にはなくならない。他方、粗塩の場合、湿気を帯びるとぽたぽたと流れて嵩が減って行く。
話は真鳥大臣を主人公として描かれている。マトリ(トは乙類)と聞いて、マ(真)+トリ(取、トは乙類)の意と捉えるなら、対義語にカタ(片)+トリ(取)という語意が思い浮かぶ。それは、カタドリ(象・型取)のこと、型にはめて取った像のことである。伊勢神宮に伝わる御塩殿祭の塩の焼き固めでは、三角錐のような形の土器に、およそ1.1リットルの粗塩を突き固めて焼いている。堅塩に当たる塩が象られている。象られない塩は粗塩ということになり、真鳥という名は塩の形態をひとつに絞る仕掛けとして働いている。
御塩焼固(日本財団「海と日本PROJECT in 三重県」伊勢市二見町の御塩殿神社の「御塩焼固(みしおやきがため)」https://mie.uminohi.jp/information/伊勢市二見町の御塩殿神社の御塩焼固(みしお/)
この粗塩を籠に入れて都へ運んだことがあるとすれば、到着時に荷をほどいてみたとき、ずいぶん少なくなっていて、本当に塩が籠か袋(俵、叺)にいっぱい入っていたのかどうかわからないと不審がられたことであろう。持ち運んで来た人は、そういうものなのだと一生懸命に説明したに違いない。「荷丁」(持統紀六年三月)が切々と訴えている顔が浮かんでおもしろい。木簡の例に証拠がある。
□□四籠□〔又ヵ〕角□〔鹿ヵ〕塩□□〔卅籠ヵ〕(注8)
筆者は、特段に角鹿の白塩の実体に迫るつもりはない。鹿の角はあったりなくなったりするから、「角鹿の塩」なるものを思考実験で思い浮かべさえすれば、観念の世界において、すなわち話として十分に通じることを述べている。都に暮らす宮廷社会の人においてである。ツノガと聞けば、ツノ(角、ノは甲類)+カ(鹿)のことであると、字がわからなくてもピンとくる。なぞなぞとして、鹿に角は必ずしもいつもあるわけではないから、これはおもしろいということになる。
応神天皇が角鹿の気比大神と名替えを行ったとする仲哀記の話は、そのようなことが想起されていたことを示す証拠になる。
故、建内宿禰命、其の太子を率て、禊せむと為て、淡海と若狭との国を経歴し時に、高志の前の角鹿に仮宮を造りて坐しき。爾くして、其地に坐す伊奢沙和気大神の命、夜の夢に見えて云はく、「吾が名を以て、御子の御名に易へまく欲し」といひき。爾くして、言禱きて白さく、「恐し。命の随に易へ奉らむ」とまをしき。亦、其の神の詔ひしく、「明日の旦に、浜に幸すべし。名を易へし幣を献らむ」とのりたまひき。故、其の旦に浜に幸行しし時、鼻を毀てる入鹿魚、既に一浦に依りき。是に御子、神に白さしめて云はく、「我に御食の魚を給へり」といひき。故、亦、其の御名を称へて、御食津大神と号けき。故、今に気比大神と謂ふ。亦、其の入鹿魚の鼻の血、臰し。故、其の浦を号けて血浦と謂ひき。今に都奴賀と謂ふ。(仲哀記)
夢に現れた伊奢沙和気大神が名を易える幣を献ろうと言ったので、翌朝浜へ行ってみると、浦一面にイルカ(入鹿魚)がミケ(御食)のナ(魚)としてうち上がっていた。名と魚とを易えたのではなく、ナ(中・名・魚・己・無)という概念を総ざらえにするという認知言語学的に高度なレトリックが繰り出されている(注9)。
イルカがうち上がることは稀に見られる。理由はわかっていない。イルカとしても愚かなことである。それを見た人は、潮が引いていくことを忘れていた、あるいは油断していたと考えた(注10)。不注意のうっかりミスである。うかうかしていた。角鹿の海は潮の干満が少ないが、かといって皆無ではない。うかうかしていたからイルカは打ち上げられた。日葡辞書には次のようにある。
Vcavcato. ウカウカト(うかうかと) 副詞.不安定な,ぼんやりしているさま,または,気がふれたように放心しているさま,など.
Vcavcaxij. ウカウカシイ(うかうかしい) 軽率な,または,頭の鈍い.
Vccarito. ウッカリト(うつかりと) 副詞.注意もしないで,ぼんやりしているさま.¶Vocarito xita mono.(うつかりとした者)うつけたようになっている者,または,何事かに心を奪われている者.(注11)
だから、「御食の魚」となっている。「御食」は「御笥」と同等の語である。食べ物を盛る器が「笥」である。そこへ盛るご飯のことをケヒ(笥飯)といい、角鹿に坐す大神の名とされている。また、笥に入れる(注12)食べ物は、食物自体をあらわす神の名、ウカに当たる。
倉稲魂、此には宇介能美拕磨と云ふ。(神代紀第五段一書第七)
次に、宇迦之御魂神(記上)
粮の名をば厳稲魂女稲魂女、此には于伽能迷と云ふ。とす。(神武前紀戊午年九月)
うかうかしていて人の食べ物、ウカとなったもののメッカのようなところが、ツノガ(角鹿)というところにふさわしい。そのように獲れたイルカの類の自然の恵みをどうやって都へ運ぶのか。「贄」として実際に貢納した、あるいは、そう記録されていたというのが先ではない。頓智の世界において、話(咄・噺・譚)として、人々の観念のなかでどのように「想像」されたかをテキストを頼りに検証している。歴史学や神話学とは無縁の、無文字文化のなかの純文学(言葉遊び)として捉え直している。そのとき、上代の人は塩蔵品にしようと必ずや気づいたことであろう。そう思考を進めていくと、角鹿の地は、どうしても塩の大産地であって欲しいことになる。言=事をモットーとする言霊信仰のもとで暮らす人たちは、そのように観念の世界で遊んだ。だから、文献上も出土状況も隣の若狭国が塩の大産地であるのに、角鹿にまつわる塩の話が紀に載っている。科学的合理性ばかりの思考に慣れた現代人には理解できない。角鹿の地に製塩遺跡は皆無ではないものの、大産地を隣に控えている。わざわざ「角鹿の塩」をブランド品と捉える必要性はない。言葉の十分性の観点から、洒落として、小噺の次元で、「角鹿の塩」は有名であったと考えられる。言霊信仰のもとで忠実に言=事を再現しようとした結果、あるいは長屋王のもとへ「角鹿塩」が運ばれたということであろう。単位として「籠」とあることに、民具の塩籠を思い起こさせるものがあり、粗塩が運ばれたのであろうと推測される。
「角鹿之塩為二天皇所食一、余海之塩為二天皇所忌一。」とある点については、言霊信仰の第一人者、推奨者が、天皇という存在であったからであろう。天皇という存在により、列島はほぼ平和的に統合された。「言向け和」(記上)すことが行われた。言葉で和平交渉をしたと考えるのは、誤りとまでは言わないが正鵠を射ているとは言えない。言葉を使うとは、言葉の内容の次元と、言葉の外見の次元がある。その両者が相俟って、全国(出雲国、肥国、高志国、毛野国、……)が戦争をせずに一つとなり、まとまっている。その力とは、言葉としてそういうことだよね、という点に説得力があって、皆が納得して従ったということである。言葉が言葉自体を説明して、くるりんぱと落ちがつけば、喧嘩をしようにも喧嘩にならない。店員が「無いものはございません」という「お洒落横丁」で、客が難しい注文をしてその商品が無いとわかると、無いものはないと言っただろうとクレームをつけたとしても、「『無いもの』は無いのです」と看板を指差しながらニタニタと答えられたら、「何を?!」といきり立っても負けを認めざるを得ない。本邦初の人代の天皇とされる神武紀には、その方法が明示されている。(注3)にサヘニで詳解している文である。古代天皇制は、言語ゲームをよく理解し精通し悦楽としていたことによって成り立っていたのであった(注13)。
初めて、天皇、天基を草創めたまふ日に、大伴氏の遠祖道臣命、大来目部を帥ゐて、密の策を奉承けて、能く諷歌・倒語を以て、妖気を掃ひ蕩かせり。倒語の用ゐらるるは、始めて茲に起れり。(神武紀元年正月)
(注)
(注1)記紀の話に角鹿(敦賀)が登場する個所を論ったものや、呪詛一般ならびにその言葉について、また、角鹿の塩と若狭の塩の関係を論じた先行研究はいくつか見られる。
武烈紀の角鹿の塩の話は、冒頭に記した詛い忘れのこととして記されており、それ以外に何か関連する記述が見られるわけではない。この文辞に対してダイレクトに迫らなければ「読む」ことに値しない。「由レ是」とあり起源譚であるのに、そういう事実はなかったらしいで片付けられている。この記述を理解するのには、このテキストを出発点とし、このテキストを終着点とするほかはない。他の個所で言っていることから勘案すると、あるいは、出土した木簡を整理した位置づけからは、などと、外堀を埋めたから本丸はこうであろうと理屈づけても冬の陣どまりである。歴史叙述の全体構想のなかにあって思いつきで按配して書いてあるとか、歴史叙述の一種のパロディのように記されていると考えるのは誤りである。角鹿(敦賀)が北陸への交通の要衝であるからといって、どうして気比大神との名易えや塩の呪詛忘れの話に化けるのか、その化ける理由を説明しようとするものでなければ、無文字文化下に伝承が存在していること自体を無視、ないし、等閑視していることになる。古代人の心に近づく気がないということであり、生の古代について理解できるはずはない。話(咄・噺・譚)とは何かについて落語家の弟子入りから始める必要があろう。外国語のジョークが通じないのと同等なのが現状である。
一例として、歴史学を導き入れてまとめている堂野前2017.を引用する。
武烈紀の原文は、「計窮望絶。広指レ塩詛。遂被二殺戮一。及二其子弟一。詛時唯忘二角鹿海塩一、不二以為詛一。由レ是、角鹿之塩、為二天皇所食一、余海之塩、為二天皇所忌一。」である。どうして「望絶」えるときのことなのか、どうして「子弟」が出てくるのか、どうして「忘」れたことになっているのか、どうして……、と、話のおもしろさをことごとく消し去って、尤もらしい学術的想像をしてわかった気になりたがっている。長屋王は天皇ではないが、木簡が出土しており、角鹿の塩を味わったらしい。そんなことから、「長屋王、私かに左道を学びて国家を傾けむと欲。」(続紀・聖武天皇・天平元年二月)と讒言されたとでもいうのであろうか。
(注2)呪詛に関するヤマトコトバに、ノロフ、トゴフ、カシルといった語があげられている。それらの語の使い分けについては諸説あるが、筆者の見解については拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/dc584581029e0581b8b3504f48797274を参照されたい。比較的古く訓が付けられている宮内庁書陵部本には、雄略前紀の「詛曰」の「詛」字に「トコヒ」、武烈前紀の「不-以-為-詛」には「乃ロハ爪」とある。雄略前紀の個所は、「詛曰」だから、トゴヒテイハクと読むのが正しいのであろう。武烈前紀では、「曰」、「言」といった発語の動詞を欠いており、ノル(告・宣)に発するノロハズという訓が付されていた理由に了解が得られる。
(注3)「子弟」の訓については、大系本日本書紀補注に、「書紀の古写本では、これの訓を欠くものもあり、また、定本などにはコイロドという訓がある。コイロドという訓は、子弟をそれぞれ一字一字として訓んだにすぎないもので、ここでいう子弟の意は、むしろ、ヤカラにあたると認められる。」((三)378頁)、新編全集本日本書紀に、「ウガラは親族(血縁の一族)、ここの「子弟」も同じ。「軍防令」の「軍司ノ子弟」の『義解』に「子弟トハ、子・孫・弟・姪也」とあるように、血のつながりのある一族をいう。ヤカラはもっと広く、一族郎党を含めていう。」(②275頁)とある。現代の議論では、ヤカラ v.s. ウガラの様相を呈している。しかし、コイロドという比較的新しい古訓も、まんざら捨てたものではない。
書陵部本の傍訓に、「子弟」部分に「サヘニ」と付されている。助詞サヘ+ニを表している。岩波古語辞典に、サヘは、「「添(そ)へ」の転と考えられる。万葉集で「共」「幷」「兼」「副」を「さへ」と読ませているのは、原義を示すものであろう。」(1492頁)とあり、「そへ」は他動詞形で自動詞の「そひ」(添・沿・副)は、「線条的なもの、あるいは線条的に移動するものに、近い距離を保って離れずにいる意」(767頁)としている。そして、他動詞の「そへ」には、「⑤【諷へ】《そばに並べる意から転じて》なぞらえる。」(768頁)という義を載せ、万1642番歌を用例としている。
たな霧らひ 雪も降らぬか 梅の花 咲かぬが代に 諷へてだに見む(万1642)
……能く諷歌・倒語を以て、妖気を掃ひ蕩かせり。(神武紀元年正月)
是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずして、諷へ諫く者多し。童謡亦衆し。(天智紀六年三月)
「子弟」に続けてサヘニと訓むべきとの定めからは、真鳥大臣が詛ったのに対して、「そふ」(添・沿・副・諷)ことができる存在としては「子弟」しかいないに決まっているとわかる。真鳥大臣の「広指レ塩詛」姿になぞらえることができる姿と認められるのは、姿形や所作や言動が自ずと似ている「子弟」ということになる。一族郎党の誰でもいいわけではなく、また、真鳥大臣は男性であるから、色っぽく品を作る女性も除かれる。よく似ているのは、真鳥大臣の子(男の子)や弟である。コイロドという誰でも読める言葉であったから、長い間傍訓が付されないままであったのではないか。
そのように子弟を男子に限っておくことは、この話の底流にふさわしい。ツノガという地名の当て字の「角鹿」という字面は、角のある鹿のことを意味する。シカの大人のオスのみ角を生やす。それを導くために強調されているわけである。
(注4)ツノガについて、「角鹿」と書かれるだけでなく、仮名書きで「都奴賀」(仲哀記・応神記歌謡42)とあり、仲哀記の地名譚に、「血浦」→「都奴賀」、垂仁紀二年是歳条に、「額に角ある人」の故事から「角鹿」と名づけられたとされて、ツノ(角)+ヌカ(額)→ツヌガが正しいと考えられている。結局、後にはツルガ(敦賀)となってしまうほど、音に揺れがあったということなのであろうか。ただし、日本書紀では「奴」をノ甲類と訓んでいる。「角」はツノ(ノは甲類)としか訓まないと思われる起源譚に、本当にツヌガでいいのか、また、古事記で「奴」=ヌに限り、ノ甲類で訓むことは絶対にないのか、全41例に再検証しなければならない。また、どうしていわゆる好字令で「敦賀」と書かれて良しとしたのか、さらにそれをどうやったらツルガと訓めるのかについては、別に論ずることにする。
(注5)早川1979.参照。
(注6)「斛」、「斗」などと訓読みされる場合ばかりでなく、字音で音読されたともされる。
(注7)人を指差すことは、今日、失礼に当たることだからしないようにと躾けられ、そういうこともあってか、指差すこと自体が呪詛する行為であって嫌われるとも説かれている。いま、人ではなく、ウシホ(塩≒潮)を指している。例えば、あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川と指差したとして、安達太良山は噴火すると信じられていたとは知られない。角鹿海以外の潮の干満を指差してのろったというとき、指差喚呼自体に何か呪的な思惑があることはない。 E231joban様「【FHD】東海道新幹線 指差喚呼が素晴らしい真面目な車掌さん JR Shinkansen Conductor(https://www.youtube.com/watch?v=glsdZWjazZc)を参照すると、声を出しながら点検していく性格が強いとわかる。すなわち、発した声(言葉)が指差した対象物の性格に宿るように乗り移ると思われたと考えられる。そのことこそ、言=事であるとする言霊信仰によっている。指差したことだけで呪的行為になるのではなく、言葉がその対象において実現するように発せられて当てはめられるから、呪的な性格を帯びることが派生している。もとより、何かでたらめを言ってその通りになるかといえば、言霊信仰がかなっている際にしか通用しない。当たり前の話であるが、呪術に力があるのは、言葉が通じているヤマトコトバ圏の人間界のことに限られる。言語が違えば何を言われているのかわからないし、呪詛したからといって大自然の潮の満ち干を操ることなどできない。ただし、決してできないわけではないのは、「長老が雨乞いをすれば雨が降る」という文意の正しさから承服せざるを得ない。本邦は火星ではないからいつか必ず雨は降るのである。
(注8)平城京木簡一PL36.204(奈良文化財研究所「木簡庫」https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFITB11000648)参照。舘野2005.は、「記載内容は不詳だが、「籠」が二カ所に見えるから、産地別の塩の分量を列記したものである可能性が大きかろう。そう考えて誤りなければ、「角鹿塩」と呼ばれた塩が確かにあったことになる。一種のブランドである。」(91頁)とし、「長屋王木簡の中には、このほか「周防塩一籠」(『城』二五)と記されたものもある。」(96頁)と注している。舘野氏は、角鹿は、塩の大生産地の若狭国領内ではなく、隣の越の国にあるという矛盾について悩んでおり、なんとか説明をつけようとしている。角鹿の塩の伝承は、何らかの事実を反映して武烈紀の記述につながっているはずであると考えている。この傾向は諸説に通じている。狩野1990.は調と贄との違いであると主張し、鬼頭1993.は「天皇制がなんら律令法に規定されていないように、贄も本来律令法という国家法に規定されるような性質のものではなかったのである。」(125頁)と説明している。
筆者の立脚点は、初めに言葉ありきとするもので基が異なる。ヤマトコトバの謎掛けにしたがって潮解を恐れずに粗塩のままの白塩を籠に入れて運んできてしまったものが、都では珍しい現物の「角鹿の塩」であろうというのが筆者の見解である。大量生産・大量運搬の堅塩とは塩の種類が違う。なお、延喜式には、「淡路塩」、「紀伊塩」、「生道塩」などとあるが、「角鹿(敦賀)塩」は見えない。
(注9)拙稿「古事記の名易え記事について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/484020bdb17fb44c8991eed6b4500207参照。
(注10)田辺2011.に、イルカという語彙の表記について、「「入鹿」については人名にもあてられているので、ここでは除外することにした。」(236頁)とあって、上代の人の知恵に近づくことを拒んでいる。
(注11)日葡辞書683~684頁。上代語に、ウカウカトという言葉は文献に知られない。口語的表現として存在していたとするなら、ウク(浮)という語を反復させて形成されており、その場合、本当に浮いているなら「浮きて」と言えば済むものである。それをわざわざ反復させている。凪いでいる時にブイが留まり浮かんでいることよりも、波に揺られながらの時の方がウカウカトという定まらない語感に合っている。浮いていることを強調する場合のほか、本当は必ずしも浮いていないことを語用論的に示す方便であったことも考えられる。
ありありて 後も逢はむと 言のみを 堅め言いつつ 逢ふとは無しに(万3113)
上の歌は、ずっと健在で今のように仲良しでいてまた逢おうと言っていながら、言葉には裏腹感が漂っている。人間は、「今」を生きている。将来どうなるかわからないことは、まぬがれようのない大前提である。病気になるかもしれないし、他に魅力的な異性が現れれば心はそちらへ向かってしまう。「ありありて」と強調すればするほど、そうはならない無常の存在を認めてしまう。
(注12)延喜式の、「~ケ」系と「~ヲケ系」では、助数詞にそれぞれ「合」、「口」を用いる区別があるとされる(金田1999.)。ここで角鹿に笥飯大神の存在することは、オヒツにご飯を盛って蓋をかぶせたことを表している。拙稿「「有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ccb61498f2623eb03cca60b49d4ee603参照。「御食の魚」として「入鹿魚」を給わったとしたときも、相手は笥飯大神であり、蓋のかぶさる曲物として存在していると想定されている。拙稿「古事記の名易え記事について」に述べたとおり、イルカはナ(中・名・魚・己・汝・無)易えにおいてクラインの壺様を表す格好の具体物とされていた。入れ籠構造として身自ら蓋するものと考えられるのである。カ(鹿)のカたる本質とは、疑問の助詞カに求められよう。あったりなかったりするから疑問がわく。疑問のただなかへ入っていく魚こそ「入鹿魚」である。和名抄に、「䱐𩶉 臨海異物志云はく、䱐𩶉〈浮布の二音、伊流賀〉は大魚の色の黒く、一に浮き、一に没沈むなりといふ。兼名苑に云はく、䱐𩶉は一名に鯆𩺷〈甫畢の二音〉、一名に◆(魚偏に敷)◇(魚偏に常)〈敷常の二音〉といふ。野王案に、一名に江豚とす。」とある。浮くのか沈むのかどっちなのか、あったりなかったり、ウカウカトしている魚と認識していた。源順は頓智の才があったから、哲学的大疑問をそのままに書いている。
(注13)近代天皇制は古代天皇制を範としていたことは明らかであろう。その際、頓智、なぞなぞについてはわからなくなっていた。パッケージだけを移築している。藤田2012.のどこを繙いてもそのようなことは記されていないが、欠如理論と批判する欠如とは、近代における頓智の欠如ではないかとさえ思う。
(引用・参考文献)
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岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
金子1977. 金子武雄『上代の呪的信仰』公論社、1977年。
金田1999. 金田章宏「笥・麻笥、桶・麻績み桶をめぐる一考察」至文堂編『国文学 解釈と鑑賞』第64巻1号(812号)、ぎょうせい、1999年1月。
狩野1990. 狩野久「御食国と膳氏─志摩と若狭─」『日本古代の国家と都城』東京大学出版会、1990年。
鬼頭1993. 鬼頭清明『古代木簡の基礎的研究』塙書房、1993年。
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新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
鈴木2013. 鈴木景二「「角鹿(敦賀)の塩」再考」『美浜町歴史シンポジウム記録集7 若狭国と三方郡のはじまり─若狭の古代社会のあり方から考える─』美浜町教育委員会、2013年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
舘野1996. 舘野和己「若狭の調と贄」小林昌二編『越と古代の北陸』名著出版、1996年。
舘野2005. 舘野和己「若狭・越前の塩と贄」小林昌二編『日本海域歴史体系 第1巻古代篇Ⅰ』清文堂出版、2005年。
田辺2011. 田辺悟『イルカ』法政大学出版局、2011年。
堂野前2017. 堂野前彰子「角鹿の塩」『古代日本神話と水上交流』三弥井書店、2017年。
日葡辞書 土田忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
早川1979. 早川孝太郎『猪・鹿・狸』講談社(講談社学術文庫)、1979年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020557
伴信友・方術源論 伴信友「方術源論〈一名方術考論〉」『伴信友全集 第五』ぺりかん社、1977年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/991316/1/70~83
藤田2012. 藤田省三『天皇制国家の支配原理』みすず書房、2012年。
平城京木簡一 奈良国立文化財研究所編『平城京木簡一』同発行、平成7年。
保坂2014. 保坂達雄「「角鹿」というトポス」『神話の生成と折口学の射程』岩田書院、2014年。
松岡1941. 松岡静雄『日本固有民族信仰』刀江書院、1941年。
三品2016. 三品泰子「胎中天皇神話と「角鹿」の地域性」『古代文学』第55号、2016年。
森2015. 森陽香「御食を得る天皇─角鹿の入鹿魚と応神と─」『藝文研究』第109号、慶應大學藝文學会、2015年。
『若狭大飯』 石部正志編『若狭大飯』大飯町、1966年。
(English Summary)
The story of forgetting to curse the salt of Tsunuga conveys the joy and fun like nihilism. It is a good indication of the decrease in unrefined salt over time. The word ‘shiho’ in Japanese is used to mean both salt and tide, and Tsunuga on the Sea of Japan side, where the tide is slight, forgets about salt also without noticing the tide. 角鹿, writing Tsunuga in kanji, stands for deer horns, which grow every year and may or may not be present. People in the non-literal era tried to convey the matter itself in words alone, using clever pragmatics. We are required to have a Copernican Revolution in how to read many narratives in Kojiki and Nihonsyoki.
※本稿は、2017年7月稿を2020年9月に改稿し、2024年5月にルビ形式にしたものである。
冬十一月の戊寅の朔にして戊子に、大伴金村連、太子に謂りて曰さく、「[平群]真鳥[大臣]の賊、撃ちたまふべし。請らくは討たむ」とまをす。太子の曰はく、「天下乱れなむとす。世に希れたる雄に非ずは、済すこと能はじ。能く之を安みせむ者は、其れ連に在らむか」とのたまふ。即ち与に謀を定む。是に、大伴大連、兵を率て自ら将として、大臣の宅を囲む。火を縦ちて燔く。撝く所雲のごとくに靡けり。真鳥大臣、事の済らざるを恨みて、身の免れ難きを知りぬ。計窮り望絶えぬ。広く塩を指して詛ふ。遂に殺戮されぬ。其の子弟さへに及る。詛ふ時に唯角鹿海の塩をのみ忘れて詛はず。是に由りて、角鹿の塩は、天皇の所食とし、余海の塩は、天皇の所忌とす。(武烈前紀仁賢十一年十一月)
平群真鳥大臣が滅ぼされる時、塩に呪い(注2)をかけて食べられないようにしたが、その子弟(注3)も角鹿(敦賀)(注4)の塩ばかりは呪詛するのを忘れていたため、角鹿の塩は天皇御用達になったという話(咄・噺・譚)である。その後、天皇御用達の塩のことは聞かれないので、何を示すために記されたのかわからないとされている。よく言われることだが、今考えてわからない、不思議であるからといって当時の人が遅れていたと考えるのは誤りである。時に、技術の発達とからめて捉えられることがある。その言われ方には幾通りかあり、当時の人にあってはとても難しいことだったからという見方、当時の人には大陸からの知識が広まっていなかったからという見方、当時の人には別に難しくはないけれど必要なかったとする見方、当時となってはすでに忘れられてわからなくなっていたという見方などである。しかし、話として書いてある。話として共通理解が得られており、結果として書かれてあると考えるのが素直であろう。技術も、前近代の多くの場合、必要は発明の母という言葉で説明し切れるほどに、必要なときには開発され、必要がないときは利用されず、捨て去られる傾向が強いようである。わからない話をわからないままに書いて事足れりとすることは、学校教育の成せる技かもしれない。日本書紀の編者は、わからない時、「此の古語、未だ詳らかならず。(此古語、未レ詳。)」(雄略紀元年三月)などと割注するほど念を入れて正確を期している。嘘になるような談話をしないのである。司馬遷のように文筆に誠実な人たちであった。
ここで検討しているのは、言葉の言い回しである。当時とは感覚が違ってわからないと思える話である。塩と呪詛の間にどのような関係があるのか、また、角鹿の特殊性についての事柄である。中四国から北陸、東海にかけての製塩技術の発展史を反映する形で、この呪詛塩話が形成されているとする説がある。もちろん、塩作りの技術と呪詛との関係について技術史で解読できるはずはない。心は出土しないから、後付けで講釈している。出土品+今日の人の考えによって、当時の人の心が復元できるとは考えられない。出土品+当時の人の考えでなければならない。当時の人の考え方は記紀万葉に残されている。素直に汲み取ればいい。
塩 陶隠居に曰はく、塩に九種有り、白塩は人の常に食へるなりといふ。崔禹食経に云はく、石塩は一名に白塩、又、黒塩〈余廉反、之保。日本紀私記に堅塩は岐多之と云ふ〉有りといふ。(和名抄)
白塩 陶隠居本草注に云はく、白塩〈爾廉反、和名は阿和之保〉は人の常に食へるなりといふ。(廿巻本和名抄)
黒塩 崔禹錫食経に云はく、石塩は一名に白塩、又、黒塩〈今案ふるに、俗に黒塩と呼びて堅塩と為。日本紀私記に堅塩は木多師と云ふは是なり〉といふ。(廿巻本和名抄)
塩にはいろいろな種類があり、「九種」とあるのは本草和名に載るさまざまな種類の塩のことを表しているとされる。源順が知悉していたかは不明である。おおむねのことで、白い塩、黒い塩、それはまた、堅い塩で堅塩ともいうとしている。白い塩があったことは、日本書紀の記述からわかる。
俗の曰へらく、「……時に二の鹿、傍に臥せり。鶏鳴に及ばずとして、牡鹿、牝鹿に謂りて曰はく、『吾、今夜夢みらく、白霜多に降りて、吾が身を覆ふと。是、何の祥ぞ』といふ。牝鹿答へて曰はく、『汝、出行かむときに、必ず人の為に射られて死なむ。即ち白塩を以て其の身に塗られむこと、霜の素きが如くならむ応なり』といふ。時に宿れる人、心の裏に異ぶ。未及昧爽に、猟人有りて、牡鹿を射て殺しつ。是を以て、時人の諺に曰はく、『鳴く牡鹿なれや、相夢の随に』といふ」といへり。(仁徳紀三十八年七月)
鹿の肉に白塩を塗りたくって塩蔵品を作っていたことから、鹿の夢の中に霜の降り積もるというしるしになって顕れている。逸話として描かれているだけであるが、白い塩の存在が確かめられる。上代人の頭に、鹿と塩との結び付きがあったことがわかる。上の逸話は猟師と鹿との関わりで述べられている。列島において、鹿は狩猟の獲物として熊や猪と並び最大級である。草食動物は、ミネラル分、特に塩を欲しがる。野生のシカやカモシカなども、塩分のとれるスポットを知っていて時折訪れる。人里に鹿が現われる時、便所に近寄って来ることがある。人の小便の塩分を欲しがっている(注5)。鹿が春日大社の使いとされて大事にされるようになった時、家畜の馬や牛同様、今の鉱塩のように堅塩を与えていたのかもしれない。推し測れば、縄文時代から列島に棲息していた獣のうち、鹿狩りをする際に塩を利用していたとも考えられる。五月五日の薬狩りの対象であった。広大な野において当日確実に仕留める手立てとして、あらかじめ塩を使っておびき寄せておけば、巻狩りとはいえ場所を限定することができて効率的であったろう。獲った鹿の最大のお目当ては、薬効があると信じられていた袋角である。成長した牡鹿がターゲットであった。角鹿と塩とは切っても切れない関係になっていたと言える。
十九年の夏五月の五日に、菟田野に薬猟す。(推古紀十九年五月五日)
夏五月の五日に、薬猟して、羽田に集ひて、相連きて朝に参趣く。(推古紀二十年五月五日)
鹿茸〈而庸反。角鹿初生。〉……鹿茸、一名に鹿角。〈雑要訣に出づ。〉和名加乃知[和]加都乃。(本草和名)
塩生産は、海水の塩分濃度を高める「採鹹」、その鹹水を煮詰めて結晶を作る「煎熬」、できた粗塩か結晶化寸前の飽和水溶液を別容器に移して再加熱してにがりを焼き切る「焼塩」の工程に整理される。「焼塩」でできた塩は「堅塩」と呼ばれる。塩を表す代表的な単位、助数詞に、嵩高や重量を表す「石(斛)」、「斗」、「升」、「合」、「勺」、「撮」がある。ほかに、形状のことを指す「顆」、包み方、保存の仕方を指す「籠」がある。「顆」は「堅塩」や「石塩」の一個一個を数えて、~ツ(~チ)と言った。「籠」は、粗塩か「破塩」を梱包ないし貯蔵した数を、~コ(コは甲類)と数えたものであろうという(注6)。粗塩の弱点は、湿度が高いと吸湿してべとべとになることである。なったらなったでそのままにがり分を上手に滴らせればよいと発想を転換するか、べとつかないようにあらかじめ焼き切っておくかの違いで製法が異なっている。湿気の多い地方には竹籠に吊るしておく民具が伝わっている。塩の容器に、塩壺と塩籠があるのは、もともとの発想の違いによる。地場ですぐ使う塩に、燃料を多用して堅塩にする必要はない。堅塩を再び舂き砕いて択りわける必要もなく、粗塩のままの白塩を使って魚の塩蔵品は作られていたのであろう。精製塩はまた別のものである。
塩籠(アチック・ミューゼアム・コレクション、国立民族学博物館https://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/special/200103/qa_q#10)
大別した時の塩の二形態のうちの白塩(粗塩)が、武烈紀に登場する角鹿の塩なのだろう。第一に、「広指レ塩詛」という言い方は、「塩」字にシホとウシホの両義を含めている。ウシホ(潮)は、ウミ(海)+シホ(塩)の意で、①潮汐による潮流、②海水、③塩、の三つの意で使われている。③の salt の意は、もっぱらこの武烈紀の用例に限られる。和名抄に、「潮 四声字苑に云はく、潮〈直遥反、字は亦、淖に作る、和名は宇之保〉は海の水、朝夕に来り去りて波の涌くなりといふ。」とある。朝夕の満ち引きを潮汐と書き表した。月に導かれてのことであり、一日にほぼ二回あるからそう譬えられて然りなのである。真鳥大臣が指差してのろったのは、全国の津々浦々で満ち干している潮に対してであったのだろう。干満の様子がわかるから、指で指し示すことができる(注7)。ところが、角鹿(敦賀)の場合、潮汐表に記されるように潮の干満差はとても小さい。
指で指し示すことを忘れたのは、潮があまりにも目立たず、同じ北陸道の手前にある琵琶湖岸の塩津港と同じかと錯覚し、湖の水はいくら焼いても塩はできないとの謂いなのではないか。「角鹿」は「越の前」にあり、それよりも手前に近江の塩津はある。ツノガをことさらに「角鹿」と書いている。鹿に角があるのは当たり前のことではない。牝鹿や子鹿に角はない。そして、古代にカと呼んでいるその当該牡鹿も、春になると角は落ちる。その後新しく袋角が伸びてきて、夏になると表面が角質化して角は完成する。成長するにつれ、大きく枝分かれしていく。秋にはオス同士の争いの武器となり、勝ったものがメスを独占できる栄冠を得る。つまり、ツノガという地名に、角鹿という字を当てて表すと、その地は鹿の角同様に、あったりなかったりするという特徴を再活性化させることになっているのである。
シカの角(井の頭自然文化園解説パネル)
あったりなかったりする点が、ツノガという場所の特徴を語るうえでわかりやすい。潮の干満があるのかないのかわからないとは、水の中に塩があるのかないのかわからないことである。そんな塩として一番ふさわしいのは、和名抄にアワシホと呼ばれる「白塩」のこと、焼き切っていない粗塩のことと考えるのが妥当である。顆単位の堅塩は、確かに堅く存在し、湿気が多かろうが少し水がかかろうがそう簡単にはなくならない。他方、粗塩の場合、湿気を帯びるとぽたぽたと流れて嵩が減って行く。
話は真鳥大臣を主人公として描かれている。マトリ(トは乙類)と聞いて、マ(真)+トリ(取、トは乙類)の意と捉えるなら、対義語にカタ(片)+トリ(取)という語意が思い浮かぶ。それは、カタドリ(象・型取)のこと、型にはめて取った像のことである。伊勢神宮に伝わる御塩殿祭の塩の焼き固めでは、三角錐のような形の土器に、およそ1.1リットルの粗塩を突き固めて焼いている。堅塩に当たる塩が象られている。象られない塩は粗塩ということになり、真鳥という名は塩の形態をひとつに絞る仕掛けとして働いている。
御塩焼固(日本財団「海と日本PROJECT in 三重県」伊勢市二見町の御塩殿神社の「御塩焼固(みしおやきがため)」https://mie.uminohi.jp/information/伊勢市二見町の御塩殿神社の御塩焼固(みしお/)
この粗塩を籠に入れて都へ運んだことがあるとすれば、到着時に荷をほどいてみたとき、ずいぶん少なくなっていて、本当に塩が籠か袋(俵、叺)にいっぱい入っていたのかどうかわからないと不審がられたことであろう。持ち運んで来た人は、そういうものなのだと一生懸命に説明したに違いない。「荷丁」(持統紀六年三月)が切々と訴えている顔が浮かんでおもしろい。木簡の例に証拠がある。
□□四籠□〔又ヵ〕角□〔鹿ヵ〕塩□□〔卅籠ヵ〕(注8)
筆者は、特段に角鹿の白塩の実体に迫るつもりはない。鹿の角はあったりなくなったりするから、「角鹿の塩」なるものを思考実験で思い浮かべさえすれば、観念の世界において、すなわち話として十分に通じることを述べている。都に暮らす宮廷社会の人においてである。ツノガと聞けば、ツノ(角、ノは甲類)+カ(鹿)のことであると、字がわからなくてもピンとくる。なぞなぞとして、鹿に角は必ずしもいつもあるわけではないから、これはおもしろいということになる。
応神天皇が角鹿の気比大神と名替えを行ったとする仲哀記の話は、そのようなことが想起されていたことを示す証拠になる。
故、建内宿禰命、其の太子を率て、禊せむと為て、淡海と若狭との国を経歴し時に、高志の前の角鹿に仮宮を造りて坐しき。爾くして、其地に坐す伊奢沙和気大神の命、夜の夢に見えて云はく、「吾が名を以て、御子の御名に易へまく欲し」といひき。爾くして、言禱きて白さく、「恐し。命の随に易へ奉らむ」とまをしき。亦、其の神の詔ひしく、「明日の旦に、浜に幸すべし。名を易へし幣を献らむ」とのりたまひき。故、其の旦に浜に幸行しし時、鼻を毀てる入鹿魚、既に一浦に依りき。是に御子、神に白さしめて云はく、「我に御食の魚を給へり」といひき。故、亦、其の御名を称へて、御食津大神と号けき。故、今に気比大神と謂ふ。亦、其の入鹿魚の鼻の血、臰し。故、其の浦を号けて血浦と謂ひき。今に都奴賀と謂ふ。(仲哀記)
夢に現れた伊奢沙和気大神が名を易える幣を献ろうと言ったので、翌朝浜へ行ってみると、浦一面にイルカ(入鹿魚)がミケ(御食)のナ(魚)としてうち上がっていた。名と魚とを易えたのではなく、ナ(中・名・魚・己・無)という概念を総ざらえにするという認知言語学的に高度なレトリックが繰り出されている(注9)。
イルカがうち上がることは稀に見られる。理由はわかっていない。イルカとしても愚かなことである。それを見た人は、潮が引いていくことを忘れていた、あるいは油断していたと考えた(注10)。不注意のうっかりミスである。うかうかしていた。角鹿の海は潮の干満が少ないが、かといって皆無ではない。うかうかしていたからイルカは打ち上げられた。日葡辞書には次のようにある。
Vcavcato. ウカウカト(うかうかと) 副詞.不安定な,ぼんやりしているさま,または,気がふれたように放心しているさま,など.
Vcavcaxij. ウカウカシイ(うかうかしい) 軽率な,または,頭の鈍い.
Vccarito. ウッカリト(うつかりと) 副詞.注意もしないで,ぼんやりしているさま.¶Vocarito xita mono.(うつかりとした者)うつけたようになっている者,または,何事かに心を奪われている者.(注11)
だから、「御食の魚」となっている。「御食」は「御笥」と同等の語である。食べ物を盛る器が「笥」である。そこへ盛るご飯のことをケヒ(笥飯)といい、角鹿に坐す大神の名とされている。また、笥に入れる(注12)食べ物は、食物自体をあらわす神の名、ウカに当たる。
倉稲魂、此には宇介能美拕磨と云ふ。(神代紀第五段一書第七)
次に、宇迦之御魂神(記上)
粮の名をば厳稲魂女稲魂女、此には于伽能迷と云ふ。とす。(神武前紀戊午年九月)
うかうかしていて人の食べ物、ウカとなったもののメッカのようなところが、ツノガ(角鹿)というところにふさわしい。そのように獲れたイルカの類の自然の恵みをどうやって都へ運ぶのか。「贄」として実際に貢納した、あるいは、そう記録されていたというのが先ではない。頓智の世界において、話(咄・噺・譚)として、人々の観念のなかでどのように「想像」されたかをテキストを頼りに検証している。歴史学や神話学とは無縁の、無文字文化のなかの純文学(言葉遊び)として捉え直している。そのとき、上代の人は塩蔵品にしようと必ずや気づいたことであろう。そう思考を進めていくと、角鹿の地は、どうしても塩の大産地であって欲しいことになる。言=事をモットーとする言霊信仰のもとで暮らす人たちは、そのように観念の世界で遊んだ。だから、文献上も出土状況も隣の若狭国が塩の大産地であるのに、角鹿にまつわる塩の話が紀に載っている。科学的合理性ばかりの思考に慣れた現代人には理解できない。角鹿の地に製塩遺跡は皆無ではないものの、大産地を隣に控えている。わざわざ「角鹿の塩」をブランド品と捉える必要性はない。言葉の十分性の観点から、洒落として、小噺の次元で、「角鹿の塩」は有名であったと考えられる。言霊信仰のもとで忠実に言=事を再現しようとした結果、あるいは長屋王のもとへ「角鹿塩」が運ばれたということであろう。単位として「籠」とあることに、民具の塩籠を思い起こさせるものがあり、粗塩が運ばれたのであろうと推測される。
「角鹿之塩為二天皇所食一、余海之塩為二天皇所忌一。」とある点については、言霊信仰の第一人者、推奨者が、天皇という存在であったからであろう。天皇という存在により、列島はほぼ平和的に統合された。「言向け和」(記上)すことが行われた。言葉で和平交渉をしたと考えるのは、誤りとまでは言わないが正鵠を射ているとは言えない。言葉を使うとは、言葉の内容の次元と、言葉の外見の次元がある。その両者が相俟って、全国(出雲国、肥国、高志国、毛野国、……)が戦争をせずに一つとなり、まとまっている。その力とは、言葉としてそういうことだよね、という点に説得力があって、皆が納得して従ったということである。言葉が言葉自体を説明して、くるりんぱと落ちがつけば、喧嘩をしようにも喧嘩にならない。店員が「無いものはございません」という「お洒落横丁」で、客が難しい注文をしてその商品が無いとわかると、無いものはないと言っただろうとクレームをつけたとしても、「『無いもの』は無いのです」と看板を指差しながらニタニタと答えられたら、「何を?!」といきり立っても負けを認めざるを得ない。本邦初の人代の天皇とされる神武紀には、その方法が明示されている。(注3)にサヘニで詳解している文である。古代天皇制は、言語ゲームをよく理解し精通し悦楽としていたことによって成り立っていたのであった(注13)。
初めて、天皇、天基を草創めたまふ日に、大伴氏の遠祖道臣命、大来目部を帥ゐて、密の策を奉承けて、能く諷歌・倒語を以て、妖気を掃ひ蕩かせり。倒語の用ゐらるるは、始めて茲に起れり。(神武紀元年正月)
(注)
(注1)記紀の話に角鹿(敦賀)が登場する個所を論ったものや、呪詛一般ならびにその言葉について、また、角鹿の塩と若狭の塩の関係を論じた先行研究はいくつか見られる。
武烈紀の角鹿の塩の話は、冒頭に記した詛い忘れのこととして記されており、それ以外に何か関連する記述が見られるわけではない。この文辞に対してダイレクトに迫らなければ「読む」ことに値しない。「由レ是」とあり起源譚であるのに、そういう事実はなかったらしいで片付けられている。この記述を理解するのには、このテキストを出発点とし、このテキストを終着点とするほかはない。他の個所で言っていることから勘案すると、あるいは、出土した木簡を整理した位置づけからは、などと、外堀を埋めたから本丸はこうであろうと理屈づけても冬の陣どまりである。歴史叙述の全体構想のなかにあって思いつきで按配して書いてあるとか、歴史叙述の一種のパロディのように記されていると考えるのは誤りである。角鹿(敦賀)が北陸への交通の要衝であるからといって、どうして気比大神との名易えや塩の呪詛忘れの話に化けるのか、その化ける理由を説明しようとするものでなければ、無文字文化下に伝承が存在していること自体を無視、ないし、等閑視していることになる。古代人の心に近づく気がないということであり、生の古代について理解できるはずはない。話(咄・噺・譚)とは何かについて落語家の弟子入りから始める必要があろう。外国語のジョークが通じないのと同等なのが現状である。
一例として、歴史学を導き入れてまとめている堂野前2017.を引用する。
天皇が唯一食べられるものであったということは、裏返せば、天皇だけがその塩を口にすることが許されていたということであり、それはすなわち角鹿の塩を天皇が独占したということを意味している。角鹿という土地の背後には蝦夷との交易があったことからすると、角鹿でとれる塩を独占するということは、そのような交易権を入手することでもあっただろう。武烈天皇はその交易権を手に入れて王となったのであり、角鹿の掌握が、天皇になれるかどうかを決定づけていたのかもしれない。鈴木景二[2013.]によれば、古墳時代以来日本海を仕切っていた角鹿海直が祭祀していたのが気比大神であり、その神に捧げられていた塩が貢納されるということは、角鹿海直の服属を意味しているのだという。そもそも塩など食物の貢納には二つのパターンがあって、一つは若狭のように大和政権の直轄経営[状態のミヤケ]によって生産された塩の貢納であり、もう一つは角鹿のように[独立性の強い]豪族が服従する際に[儀礼として]行われた塩の貢納であった。(161頁)
若狭の塩は、志摩、淡路とともに、朝廷に献上されるものであり、それゆえ若狭は朝廷に贄を献上した御食国として大和政権とは密接な関係にあった。一方、角鹿の塩はどちらかというと呪具の要素が強く、角鹿の塩を口にすることは象徴的儀礼の意味があった。塩を口にすることによって天皇は角鹿の背後に控える北陸道を掌握し、その交易圏を獲得したのだと想像する。また、古代においてもっとも遠くまで交換されていったものは実用品ではなく祭具であり、呪的な力を秘めたものこそが交換されていく「貨幣」であった。「塩」は「潮」のことでもあり、塩を支配するものが潮すなわち海流をも支配するのであって、そのような水上交通の掌握が、古代においては何よりも重要であったのである。(164頁)
若狭の塩は、志摩、淡路とともに、朝廷に献上されるものであり、それゆえ若狭は朝廷に贄を献上した御食国として大和政権とは密接な関係にあった。一方、角鹿の塩はどちらかというと呪具の要素が強く、角鹿の塩を口にすることは象徴的儀礼の意味があった。塩を口にすることによって天皇は角鹿の背後に控える北陸道を掌握し、その交易圏を獲得したのだと想像する。また、古代においてもっとも遠くまで交換されていったものは実用品ではなく祭具であり、呪的な力を秘めたものこそが交換されていく「貨幣」であった。「塩」は「潮」のことでもあり、塩を支配するものが潮すなわち海流をも支配するのであって、そのような水上交通の掌握が、古代においては何よりも重要であったのである。(164頁)
武烈紀の原文は、「計窮望絶。広指レ塩詛。遂被二殺戮一。及二其子弟一。詛時唯忘二角鹿海塩一、不二以為詛一。由レ是、角鹿之塩、為二天皇所食一、余海之塩、為二天皇所忌一。」である。どうして「望絶」えるときのことなのか、どうして「子弟」が出てくるのか、どうして「忘」れたことになっているのか、どうして……、と、話のおもしろさをことごとく消し去って、尤もらしい学術的想像をしてわかった気になりたがっている。長屋王は天皇ではないが、木簡が出土しており、角鹿の塩を味わったらしい。そんなことから、「長屋王、私かに左道を学びて国家を傾けむと欲。」(続紀・聖武天皇・天平元年二月)と讒言されたとでもいうのであろうか。
(注2)呪詛に関するヤマトコトバに、ノロフ、トゴフ、カシルといった語があげられている。それらの語の使い分けについては諸説あるが、筆者の見解については拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/dc584581029e0581b8b3504f48797274を参照されたい。比較的古く訓が付けられている宮内庁書陵部本には、雄略前紀の「詛曰」の「詛」字に「トコヒ」、武烈前紀の「不-以-為-詛」には「乃ロハ爪」とある。雄略前紀の個所は、「詛曰」だから、トゴヒテイハクと読むのが正しいのであろう。武烈前紀では、「曰」、「言」といった発語の動詞を欠いており、ノル(告・宣)に発するノロハズという訓が付されていた理由に了解が得られる。
(注3)「子弟」の訓については、大系本日本書紀補注に、「書紀の古写本では、これの訓を欠くものもあり、また、定本などにはコイロドという訓がある。コイロドという訓は、子弟をそれぞれ一字一字として訓んだにすぎないもので、ここでいう子弟の意は、むしろ、ヤカラにあたると認められる。」((三)378頁)、新編全集本日本書紀に、「ウガラは親族(血縁の一族)、ここの「子弟」も同じ。「軍防令」の「軍司ノ子弟」の『義解』に「子弟トハ、子・孫・弟・姪也」とあるように、血のつながりのある一族をいう。ヤカラはもっと広く、一族郎党を含めていう。」(②275頁)とある。現代の議論では、ヤカラ v.s. ウガラの様相を呈している。しかし、コイロドという比較的新しい古訓も、まんざら捨てたものではない。
書陵部本の傍訓に、「子弟」部分に「サヘニ」と付されている。助詞サヘ+ニを表している。岩波古語辞典に、サヘは、「「添(そ)へ」の転と考えられる。万葉集で「共」「幷」「兼」「副」を「さへ」と読ませているのは、原義を示すものであろう。」(1492頁)とあり、「そへ」は他動詞形で自動詞の「そひ」(添・沿・副)は、「線条的なもの、あるいは線条的に移動するものに、近い距離を保って離れずにいる意」(767頁)としている。そして、他動詞の「そへ」には、「⑤【諷へ】《そばに並べる意から転じて》なぞらえる。」(768頁)という義を載せ、万1642番歌を用例としている。
たな霧らひ 雪も降らぬか 梅の花 咲かぬが代に 諷へてだに見む(万1642)
……能く諷歌・倒語を以て、妖気を掃ひ蕩かせり。(神武紀元年正月)
是の時に、天下の百姓、都遷すことを願はずして、諷へ諫く者多し。童謡亦衆し。(天智紀六年三月)
「子弟」に続けてサヘニと訓むべきとの定めからは、真鳥大臣が詛ったのに対して、「そふ」(添・沿・副・諷)ことができる存在としては「子弟」しかいないに決まっているとわかる。真鳥大臣の「広指レ塩詛」姿になぞらえることができる姿と認められるのは、姿形や所作や言動が自ずと似ている「子弟」ということになる。一族郎党の誰でもいいわけではなく、また、真鳥大臣は男性であるから、色っぽく品を作る女性も除かれる。よく似ているのは、真鳥大臣の子(男の子)や弟である。コイロドという誰でも読める言葉であったから、長い間傍訓が付されないままであったのではないか。
そのように子弟を男子に限っておくことは、この話の底流にふさわしい。ツノガという地名の当て字の「角鹿」という字面は、角のある鹿のことを意味する。シカの大人のオスのみ角を生やす。それを導くために強調されているわけである。
(注4)ツノガについて、「角鹿」と書かれるだけでなく、仮名書きで「都奴賀」(仲哀記・応神記歌謡42)とあり、仲哀記の地名譚に、「血浦」→「都奴賀」、垂仁紀二年是歳条に、「額に角ある人」の故事から「角鹿」と名づけられたとされて、ツノ(角)+ヌカ(額)→ツヌガが正しいと考えられている。結局、後にはツルガ(敦賀)となってしまうほど、音に揺れがあったということなのであろうか。ただし、日本書紀では「奴」をノ甲類と訓んでいる。「角」はツノ(ノは甲類)としか訓まないと思われる起源譚に、本当にツヌガでいいのか、また、古事記で「奴」=ヌに限り、ノ甲類で訓むことは絶対にないのか、全41例に再検証しなければならない。また、どうしていわゆる好字令で「敦賀」と書かれて良しとしたのか、さらにそれをどうやったらツルガと訓めるのかについては、別に論ずることにする。
(注5)早川1979.参照。
(注6)「斛」、「斗」などと訓読みされる場合ばかりでなく、字音で音読されたともされる。
(注7)人を指差すことは、今日、失礼に当たることだからしないようにと躾けられ、そういうこともあってか、指差すこと自体が呪詛する行為であって嫌われるとも説かれている。いま、人ではなく、ウシホ(塩≒潮)を指している。例えば、あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川と指差したとして、安達太良山は噴火すると信じられていたとは知られない。角鹿海以外の潮の干満を指差してのろったというとき、指差喚呼自体に何か呪的な思惑があることはない。 E231joban様「【FHD】東海道新幹線 指差喚呼が素晴らしい真面目な車掌さん JR Shinkansen Conductor(https://www.youtube.com/watch?v=glsdZWjazZc)を参照すると、声を出しながら点検していく性格が強いとわかる。すなわち、発した声(言葉)が指差した対象物の性格に宿るように乗り移ると思われたと考えられる。そのことこそ、言=事であるとする言霊信仰によっている。指差したことだけで呪的行為になるのではなく、言葉がその対象において実現するように発せられて当てはめられるから、呪的な性格を帯びることが派生している。もとより、何かでたらめを言ってその通りになるかといえば、言霊信仰がかなっている際にしか通用しない。当たり前の話であるが、呪術に力があるのは、言葉が通じているヤマトコトバ圏の人間界のことに限られる。言語が違えば何を言われているのかわからないし、呪詛したからといって大自然の潮の満ち干を操ることなどできない。ただし、決してできないわけではないのは、「長老が雨乞いをすれば雨が降る」という文意の正しさから承服せざるを得ない。本邦は火星ではないからいつか必ず雨は降るのである。
(注8)平城京木簡一PL36.204(奈良文化財研究所「木簡庫」https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AFITB11000648)参照。舘野2005.は、「記載内容は不詳だが、「籠」が二カ所に見えるから、産地別の塩の分量を列記したものである可能性が大きかろう。そう考えて誤りなければ、「角鹿塩」と呼ばれた塩が確かにあったことになる。一種のブランドである。」(91頁)とし、「長屋王木簡の中には、このほか「周防塩一籠」(『城』二五)と記されたものもある。」(96頁)と注している。舘野氏は、角鹿は、塩の大生産地の若狭国領内ではなく、隣の越の国にあるという矛盾について悩んでおり、なんとか説明をつけようとしている。角鹿の塩の伝承は、何らかの事実を反映して武烈紀の記述につながっているはずであると考えている。この傾向は諸説に通じている。狩野1990.は調と贄との違いであると主張し、鬼頭1993.は「天皇制がなんら律令法に規定されていないように、贄も本来律令法という国家法に規定されるような性質のものではなかったのである。」(125頁)と説明している。
筆者の立脚点は、初めに言葉ありきとするもので基が異なる。ヤマトコトバの謎掛けにしたがって潮解を恐れずに粗塩のままの白塩を籠に入れて運んできてしまったものが、都では珍しい現物の「角鹿の塩」であろうというのが筆者の見解である。大量生産・大量運搬の堅塩とは塩の種類が違う。なお、延喜式には、「淡路塩」、「紀伊塩」、「生道塩」などとあるが、「角鹿(敦賀)塩」は見えない。
(注9)拙稿「古事記の名易え記事について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/484020bdb17fb44c8991eed6b4500207参照。
(注10)田辺2011.に、イルカという語彙の表記について、「「入鹿」については人名にもあてられているので、ここでは除外することにした。」(236頁)とあって、上代の人の知恵に近づくことを拒んでいる。
(注11)日葡辞書683~684頁。上代語に、ウカウカトという言葉は文献に知られない。口語的表現として存在していたとするなら、ウク(浮)という語を反復させて形成されており、その場合、本当に浮いているなら「浮きて」と言えば済むものである。それをわざわざ反復させている。凪いでいる時にブイが留まり浮かんでいることよりも、波に揺られながらの時の方がウカウカトという定まらない語感に合っている。浮いていることを強調する場合のほか、本当は必ずしも浮いていないことを語用論的に示す方便であったことも考えられる。
ありありて 後も逢はむと 言のみを 堅め言いつつ 逢ふとは無しに(万3113)
上の歌は、ずっと健在で今のように仲良しでいてまた逢おうと言っていながら、言葉には裏腹感が漂っている。人間は、「今」を生きている。将来どうなるかわからないことは、まぬがれようのない大前提である。病気になるかもしれないし、他に魅力的な異性が現れれば心はそちらへ向かってしまう。「ありありて」と強調すればするほど、そうはならない無常の存在を認めてしまう。
(注12)延喜式の、「~ケ」系と「~ヲケ系」では、助数詞にそれぞれ「合」、「口」を用いる区別があるとされる(金田1999.)。ここで角鹿に笥飯大神の存在することは、オヒツにご飯を盛って蓋をかぶせたことを表している。拙稿「「有間皇子の、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ccb61498f2623eb03cca60b49d4ee603参照。「御食の魚」として「入鹿魚」を給わったとしたときも、相手は笥飯大神であり、蓋のかぶさる曲物として存在していると想定されている。拙稿「古事記の名易え記事について」に述べたとおり、イルカはナ(中・名・魚・己・汝・無)易えにおいてクラインの壺様を表す格好の具体物とされていた。入れ籠構造として身自ら蓋するものと考えられるのである。カ(鹿)のカたる本質とは、疑問の助詞カに求められよう。あったりなかったりするから疑問がわく。疑問のただなかへ入っていく魚こそ「入鹿魚」である。和名抄に、「䱐𩶉 臨海異物志云はく、䱐𩶉〈浮布の二音、伊流賀〉は大魚の色の黒く、一に浮き、一に没沈むなりといふ。兼名苑に云はく、䱐𩶉は一名に鯆𩺷〈甫畢の二音〉、一名に◆(魚偏に敷)◇(魚偏に常)〈敷常の二音〉といふ。野王案に、一名に江豚とす。」とある。浮くのか沈むのかどっちなのか、あったりなかったり、ウカウカトしている魚と認識していた。源順は頓智の才があったから、哲学的大疑問をそのままに書いている。
(注13)近代天皇制は古代天皇制を範としていたことは明らかであろう。その際、頓智、なぞなぞについてはわからなくなっていた。パッケージだけを移築している。藤田2012.のどこを繙いてもそのようなことは記されていないが、欠如理論と批判する欠如とは、近代における頓智の欠如ではないかとさえ思う。
(引用・参考文献)
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井上2015. 井上隼人「『古事記』における角鹿の性格─応神天皇の誕生─」『古代文学』第54号、2015年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
金子1977. 金子武雄『上代の呪的信仰』公論社、1977年。
金田1999. 金田章宏「笥・麻笥、桶・麻績み桶をめぐる一考察」至文堂編『国文学 解釈と鑑賞』第64巻1号(812号)、ぎょうせい、1999年1月。
狩野1990. 狩野久「御食国と膳氏─志摩と若狭─」『日本古代の国家と都城』東京大学出版会、1990年。
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佐佐木2013. 佐佐木隆『言霊とは何か─古代日本人の信仰を読み解く─』中央公論新社(中公新書)、2013年。
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大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
舘野1996. 舘野和己「若狭の調と贄」小林昌二編『越と古代の北陸』名著出版、1996年。
舘野2005. 舘野和己「若狭・越前の塩と贄」小林昌二編『日本海域歴史体系 第1巻古代篇Ⅰ』清文堂出版、2005年。
田辺2011. 田辺悟『イルカ』法政大学出版局、2011年。
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日葡辞書 土田忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
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伴信友・方術源論 伴信友「方術源論〈一名方術考論〉」『伴信友全集 第五』ぺりかん社、1977年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/991316/1/70~83
藤田2012. 藤田省三『天皇制国家の支配原理』みすず書房、2012年。
平城京木簡一 奈良国立文化財研究所編『平城京木簡一』同発行、平成7年。
保坂2014. 保坂達雄「「角鹿」というトポス」『神話の生成と折口学の射程』岩田書院、2014年。
松岡1941. 松岡静雄『日本固有民族信仰』刀江書院、1941年。
三品2016. 三品泰子「胎中天皇神話と「角鹿」の地域性」『古代文学』第55号、2016年。
森2015. 森陽香「御食を得る天皇─角鹿の入鹿魚と応神と─」『藝文研究』第109号、慶應大學藝文學会、2015年。
『若狭大飯』 石部正志編『若狭大飯』大飯町、1966年。
(English Summary)
The story of forgetting to curse the salt of Tsunuga conveys the joy and fun like nihilism. It is a good indication of the decrease in unrefined salt over time. The word ‘shiho’ in Japanese is used to mean both salt and tide, and Tsunuga on the Sea of Japan side, where the tide is slight, forgets about salt also without noticing the tide. 角鹿, writing Tsunuga in kanji, stands for deer horns, which grow every year and may or may not be present. People in the non-literal era tried to convey the matter itself in words alone, using clever pragmatics. We are required to have a Copernican Revolution in how to read many narratives in Kojiki and Nihonsyoki.
※本稿は、2017年7月稿を2020年9月に改稿し、2024年5月にルビ形式にしたものである。