万1357番歌は、難訓歌と呼ばれるほどではないがよくわかっていない。
足乳根乃母之其業桑尚願者衣尓着常云物乎
先行研究として、比較的近年の注釈書からいくつか訓読文と現代語訳を拾ってみる。
たらちねの 母がその業る 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
母が生業として育てている桑の木でさえ、ひたすらお願いすれば着物として着られるというのに。(伊藤1996.)
たらちねの 母がその業 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
お母さんがその仕事として育てている桑の木でさえも、心から願えば、衣として着られるというのに。(どうして二人が結婚することは許されないのだろうか)(阿蘇2008.)
たらちねの 母がその業る 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
(たらちねの) 母の仕事の 桑でさえ 頼めば衣に 着られるというのに(新編全集)
たらちねの 母がその業る 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
母が自分の生業として育てている桑の木でさえも、心からお願いすれば衣として着られるといいますのに。(古典集成)
たらちねの 母が其の業 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
(たらちねの)母が生業とする桑でさえも、願えば絹の衣として着ることもできるということなのに(どうして二人で逢うことは許されないのだろうか)。(稲岡2002.)
たらちねの 母がその業る 桑すらに 願へば衣に 着すといふものを
(たらちねの)母のもので、母が養蚕をしている桑の木でさえもお願いすると、(その桑で蚕を飼い繭を作らせ)絹の着物に作って着せてくれるというのに。(なぜ二人が逢うことはお願いしても許されないのだろう。)(全注)
たらちねの 母が園なる 桑すらに 願へば衣に 着すといふものを
母親の園にうえてある桑でさえも願えば絹の着物として着せてくれるというのに。(どうしてあなたを自分のものにできないのでしょう。)(古典大系)
たらちねの 母が園なる 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
(たらちねの)母の園にある桑でさえも、頼めば衣として着られるというのに。(新大系)
たらちねの 母がその業る 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
(たらちねの)母がその仕事とする桑でさえも、願えば衣として着られるというのに。(新大系文庫本)
足乳ねの 母がその養ふ 桑すら 願へば衣に 着すといふものを
足乳ねの母が大切に養っている蚕でさえ、願えば衣にして着せてくれるというものを。(中西1980.)
議論は深まらずに今日に至っている。原文にある、「其業」の「其」をソノ(garden)の音借とする説について、ふさわしくないとする考えが提示されている。稲岡2002.に、「母之其業」西にハヽノソノナルと訓まれていたのを略解に、ハヽガソノワザノ、古義にハヽガソノナルとし、古義の訓が広く採用されているが、古義は「園なる」の意と解したのであってその借字説は不自然だし「其の業桑」という表現には無理も感じられる。古典大系に「他の訓みでは字余りとなり、かつその中に母音母節がないので、しばらくこの訓を採る」として「園なる」説によったのは(新大系も同様に解する)問題の困難さを示しているだろう。本書では「其業」(ソノナリ)と文字の通りに訓み、「そのなりわいである」意に解し、後考をまつ。」(546頁)と補注がある。
「其」を「園」の意ととるのは、農業史的に見てふさわしくない。日本民俗大辞典に、次のようにある。
地図記号(国土交通省国土地理院ホームページhttp://www.gsi.go.jp/KIDS/map-sign-tizukigou-h10-01-04kuwabatake.htm)(注1)
桑の園が卑近に見られるようになったのは、明治時代になってからが一般的で、飛鳥~奈良時代にそのような光景に普遍性はなかった。万葉集の他の「園」の用例に見られる、梅、竹、韓藍が面として植えつけられているようには桑の植栽は認識されていなかったと考える。「其」を「園」と解釈することはできそうにない。
次に、「業」字について考える。諸説に、生業の意と捉える傾向がある。万葉集中に、「業」字は、他に3例ある。
吾妹子が 業と造れる 秋の田の 早穂の蘰 見れど飽かぬかも〔吾妹兒之業跡造有秋田早穂乃蘰雖見不飽可聞〕(万1625)
水を多み 上田に種蒔き 稗を多み 択擢えし業そ 吾が独り寝る〔水乎多上尓種蒔比要乎多擇擢之業曽吾獨宿〕(万2999)
荒雄らは 妻子の産業をば 思はずろ 年の八歳を 待てど来まさず〔荒雄良者妻子之産業乎波不念呂年之八歳乎将騰来不座〕(万3865)
「業」字は、万1625番歌ではナリ、万2999番歌ではワザと訓んでいる。万3865番歌では、「産業」でナリと訓んでいる。ナリはナリハヒ(生業)のことである。ワザはテクニックの意である。稲田に稗が混じるので、稗を選んで抜いていっている。その手際のことを「業」と言っている。
万1357番歌の前の、万1354番歌の標題に「寄レ木」とある。木に寄せた詠物詩である。そこに「桑」とあれば、それは桑の木のことに違いなく、中西1980.のいうような桑子(蚕)のことではない。類歌として扱われることのある歌でも、「たらちねの 母が養ふ蚕の 繭隠り」という説明調の慣用句表現が行われている。
たらちねの 母が養ふ蚕の 繭隠り 隠れる妹を 見むよしもがも(万2495)
たらちねの 母が養ふ蚕の 繭隠り いぶせくもあるか 妹に逢はずして(万2991)
…… 霞立つ 長き春日を 天地に 思ひ足らはし たらちねの 母が養ふ蚕の 繭隠り 息衝きわたり 吾が恋ふる 心のうちを 人に言ふ ものにしあらねば ……(万3258)
桑の木が衣として着用されることへと変わるには、桑を蚕が食べて繭を作り、その繭から糸が繰り出されて絹となることが必要である。さらにそれを織ることで布になり、縫い付けて衣に完成する。その転変を言いたいから、「業」と言っているものと考えられる(注2)。母の生業のことを言っていると解釈できないことはないが、蚕の飼育のために桑を栽培することが母ばかりの仕事であったかどうか疑問である。蚕の面倒を見、糸をとり、織物に仕上げることは母が主役の仕事であったとしても、未婚女性や子供が手伝って何の支障もない。桑の木を植えつけたり桑の徒長した枝を採取すること、わけても木に登るようなことは男性に頼む仕事のように思われる。
「桑をとる図」(上垣守国・養蚕秘録、享和3年(1803)刊、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200021660/52?ln=ja)
「母之其業」とは、桑→蚕→糸→布→衣に化けさせる術を指している(注3)。したがって、次のように訓むのが正しい。
足乳根乃母之其業桑尚願者衣尓着常云物乎
たらちねの 母が其の業 桑すらも 願へば衣に 着すといふものを(万1357)
「着」は、ケスと訓んで四段活用の他動詞、「着(蓋)す(ケは甲類)」のことである(注4)。「着る」に上代の尊敬の助動詞スがついて音転した語とされ、お召しになると訳すことができる。お召しになる着物はお召物である。同時に、食事をお食べになることも召し上がるといい、お蚕様が桑を召し上がるから上等のお召物である絹ができあがる。
…… 汝が着せる 襲衣の襴に 月立ちにけり(記27)
…… 我が着せる 襲衣の襴に 月立たなむよ(記28)
吾が背子が 蓋せる衣の 針目落ちず 入りにけらしも 我が情さへ(万514)
筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも(万3350)
桑の葉のようなごわごわしたものでさえも、母の手腕にかかればさらさらの絹製品へと仕立て上げることができる。それはそれはすごい業を持っていていらっしゃることよ、という感嘆の意を示している。三句目にある「尚」の部分については、万葉集中に、スラ、スラニ、スラモ、スラヲ、ニスラ、ヲスラ、ヲスラニとする訓法がある。着衣するのにふさわしくない桑さえも、その業をもってすれば逸品ができるという意味だから、ここの「尚」はスラモと訓むのが良いであろう。歌の眼目は「たらちねの母が其の業」だから歌の冒頭に置かれている。倒置法である。
┌────────────────↴
たらちねの 母が其の業 桑すらも 願へば “衣に着す”といふものを(万1357)
倒置を直すと次のようになる。
桑すらも願へば、(たらちねの)母が其の業[ヲ以テ]衣に[シテ]着すといふものを
桑の葉のようなごわごわのものでさえもどうにかしようと乞い願えば、養蚕、製糸、機織というマジックを心得ている母はそのテクニックを使って上等の絹の衣に変えてお召しになることは決まっているのになあ。
この歌は何を歌っているのか。多くは、恋の歌と考えられてきた(注5)。しかし、そうではないのではないか。ここに「(たらちねの)母」とある「母」は、歌を歌っている人の縁故者たる「母」ではないのではないかということである。
記紀の話に、特別に章立てて養蚕の起源譚が語られているわけではないが、蚕がどこから生まれたかについては記述がある。オホゲツヒメ(大気都比売神、大宜都比売神)、保食神のことである。
又、食物を大気津比売神に乞ひき。爾くして、大気都比売、鼻・口と尻とより、種々の味物を取り出だして、種々に作り具へて進る時に、速須佐之男命、其の態を立ち伺ひ、穢汚して奉進ると為ひて、乃ち其の大宜津比売神を殺しき。故、殺さえし神の身に生りし物は、頭に蚕生り。二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。故、是に、神産巣日御祖命、茲の成れる種を取らしめき。(記上)(注6)
是の後に、天照大神、復天熊人を遣して往きて看しめたまふ。是の時に、保食神、実に已に死れり。唯し其の神の頂に、牛馬化為る有り。顱の上に粟生れり。眉の上に蠒生れり。眼の中に稗生れり。腹の中に稲生れり。陰に麦及び大小豆生れり。天熊人、悉に取り持ち去きて奉進る。……又口の裏に蠒を含みて、便ち糸抽くこと得たり。此より始めて養蠶の道有り。(神代紀第五段一書第十一)
養蚕の神さまが女神であったことは、なんとなくそれらしく信じられている。養蚕の技術の使い手も女性であった。雄略紀には次のようにある。
三月の辛巳の朔丁亥に、天皇、后妃をして親ら桑こかしめて、蚕の事を勧めむと欲す。爰に蜾蠃 蜾蠃は、人の名なり。此には須我屢と曰ふ。に命せて、国内の蚕を聚めしめたまふ。是に、蜾蠃、誤りて嬰児を聚めて天皇に奉献る。天皇、大きに咲ぎたまひて、嬰児を蜾蠃に賜ひて曰はく、「汝、自ら養へ」とのたまふ。蜾蠃、即ち嬰児を宮墻の下に養す。仍りて姓を賜ひて少子部連とす。(雄略紀六年三月)
この話はコ(蚕・児)の意味の取り違えのエピソードであるが、皇后が養蚕をする伝統は古いものである。礼記・月令に、「季春之月、……后妃齊戒、親東郷躬桑、禁二婦女一毋レ観、省二婦使一以勧二蚕事一。」と養蚕を奨励している。実地の記録としては、漢書・文帝紀に、「朕親率二天下農耕一以供二粢盛一、皇后親桑以奉二祭服一、其具二礼儀一。」、漢書・元后伝に「春幸二繭館一、率二皇后列侯夫人一桑。」とある。最後の「桑」字は、桑を扱くこと、枝から葉をむしり取ることである。雄略紀の「親桑」も同じである。
万1357番歌の場合、歌い手が言っている「母」は具体的な存在の母ではなく、保食神たるオホゲツヒメのことを指して歌っているのではないか。つまり、一般論である。一般論と考えた場合、歌全体に及ぼす効果は大きい。「母」に対して歌っているのは、立場上「児」であるはずである。それは、「蚕」と同根の語、語学的に等しい言葉である。桑を絹糸に変化させる術を行っているのは蚕であるが、養蚕の蚕は人間の飼育下で飼われる品種改良されたものである。人間が管理して育てないと生きていくことはできない。「母」の手を借りなければ生きていけない人間の児と同等の存在である。出来上がった絹織物の着物は、「后妃」のような高貴な女性がお召しになるものでありつつ、養蚕の神さまであるオホゲツヒメにお召しになっていただこうと考えるのは成り行きとして当然のことであろう。
オホゲツヒメは保食神である。記では、稲種、粟、小豆、麦、大豆など「味物」が生まれている。オホゲツヒメという名義は、オホ(大)+ゲ(餉)+ツ(助詞)+ヒメ(姫・媛)の意で、たくさん食べる妊婦であることを意味している。鱈腹食べることを一義として含むであろう枕詞「たらちねの」を被って正しい使い方ということができる。紀では、ほかに牛馬、稗も登場している。牛馬は食用ではなく、耕作役のために使われたと考えられる。そんななか、食べ物ではない蚕が保食神から生まれている不思議について、この歌は解いている。一部地方に蚕を蛋白源として食べていた所があるが、そのこととは無関係であろう。蚕は桑の葉を食べて繭を作る。その繭から人は絹糸をひき出して最終的に織物を作る。従来の麻製品と異なり、染色すれば発色も良く、上等のものだから衣という語の本来の意、絹でできていることを指し示している。上流階級の人の高価な着物である。それは世に言うお召物である。召し上がるものは食べ物のことで同じ動詞で表わされるから、穀類と蚕がともに保食神から生まれたことは何一つとして不自然なことはない。そのことを「ものを」、そうと決まっているのに、と歌っている。「召す」は、食う・飲む・着るなど、物を身にとり入れる、着用するの意である。
戯奴がため 吾が手もすまに 春の野に 抜ける茅花そ 御食して肥えませ(万1460)
石麻呂に 吾物申す 夏痩せに よしといふ物そ 鰻捕り喫せ(万3853)
百寮列を成し、乗輿蓋命して、以て未だ出行しますに及らざるに、……。(天武紀七年四月)
上代の「召す」の用例に着物をお召しになるという例が見られないのは、「着す」という語が存してその領域を侵犯していたからとも考えられる。意味としては同じことであると理解されよう。
以上、万1357番歌について考えた。
(注)
(注1)桑の木を横から見た形を記号にしたものという。徒長枝の切り戻しを繰り返していたことと、根が張っていることをよく表している。畦に植えればその補強に役立ったとわかる。
(注2)新編全集に、「くわ科植物はおおむね樹皮が強靭で、その繊維は糸・縄・布の材料となり、麻・こうぞがその代表。桑からも紙が作られ、やや粗いが布を織ることも可能。この歌はそのような桑布でも衣料となるという諺の類を踏まえたものか。」(261頁)とするが、桑で蚕を育てて糸をとるのではなく樹皮を使って桑布を作ることすらできるという語りはあまりにも皮肉な言い回しに思われる。井手2004.参照。
「願ふ」の意は、時代別国語大辞典に、「神の心を安らかにする(ネグ)ことによって自分の希望をかなえてもらうように計らう、ということから、現在のネガフに近い意に分化してきたものであろう。他の人に言語をもって希望を述べる意ではなく、心の中でかくあれかしと念ずる意に用いているのは、原義につながるものといえよう。」(558頁)とある。補足すれば、ネグにはもう一義ある。麻のような植物から主に種をこそぎとることをいう。拙稿「上代語の「ねぐ(労)(ねぎ(泥疑))」と「をぐな(童男)」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/42b91b8f45b343169823f78564c19e54参照。すばらしい絹織物を欲しいと「願ふ」のは十分にわかるが、ごわごわの桑布を「願」って着たいとは思わないし、桑をネグとは桑の葉を扱くことで、それは養蚕のための餌にはなっても直接繊維をとることにはならない。桑の枝の表皮を剥いで晒すことを表す言葉ではない。
(注3)窪田1984.に「「桑」は、養蚕を言ひかへたもの。」(236~237頁、漢字の旧字体は改めた)というのでは、桑→蚕までのことしか言っていない。
(注4)ケスという語には、呉音から発したかと思われる「化す」という言葉も見られる。「魚も化して経とみゆ。」(観智院本三宝絵・中・十六「吉野山寺」、984年)といった例がある。合拗音でクヱと表記されることも多い。記紀万葉に例が見られず、ケの甲乙を定めがたいものの、この「化す」との掛詞の可能性もゼロではない。化身、変化、権化など、仏教に関連した用語に多く見られる。「狐の変化したるか。」(源氏物語・手習)と同様に、「桑の化したる衣」と思われたのではないかと推測する。絹織物は上等で、貴人の衣裳や高僧の袈裟、荘厳具に多く用いられたようである。よって、尊敬の意を含む「着す」と言うのがふさわしいのである。
養蚕と仏教との関連は、古代の渡来系氏族、秦氏によるところが大きい。「化す」は呉音の転によるサ変動詞を意図的に編み出した、いわゆる和訓であったのかもしれない。後考を俟つ。
(注5)伊藤1996.に、「女の心であろう。男女の恋の成就にとって最も大きな権限を持っていた母親の生業を引き合いに出して、どんなに困難なことでも一心に願えば実るというのに、私の恋は実らないと嘆いている。養蚕は女の困難にして重要な生業であった。すぐれた桑を育てないと立派な蚕はできない。幼虫には柔らかい葉を与えねばならず、成虫にはつやつやとして張りのある葉を与えねばならない。油断をしていると、蚕を好物とする蟻が長蛇の列をなして成虫を全滅させてしまうことがよくある。無事育て上げた蚕の食欲は旺盛で、深夜にはその歯音の響きがさざ波のように聞こえる。桑の葉に毒物があると、蚕たちは一朝にして死す。今でも、蚕を育てる人びとは、蚕のことを「お蚕さま」と呼んでいる。「お蚕さま」は成熟の極に達すると、おヒキさまになる。躰が縮小し曲がって透体を呈するのである。これを拾って藁の床に寝かしてやると、かれらは糸を吐いて二、三日の間に繭となる。だが、ヒキ拾いの時期を誤ると、ほれぼれする繭は期待できない。こうした難業の末にできた絹が貴重であることはいうまでもない。桑から繭へ、そして糸から衣ヘ──それは外目にも神秘な過程である。が、当事者にとっては、悲願にも似た祈りが常にこめられている。「桑すらに願へば衣に着る」という表現は、蚕を育てる母親の緊張をよくよく知る者の言葉にちがいない。その難業に我が恋の苦しさを譬えたところが新鮮である。この娘の恋は、当の母親によってさえぎられているのではなかろうか。母の願いはその困難な生業に通じるのに、私の願いはどうして母さんに通じないのか。そのように考えればさらにいっそう生きてくる歌のように思われるが、いかがであろう。」(352~353頁)とある。養蚕は手間がかかり鼠害も心配されるが、「難業」と呼べるような特殊技能ではない。
(注6)「食物」は鼇頭古事記にミケツモノ、訂正古訓古事記にヲシモノと訓んでいる。ここでは新編全集本古事記に従いクラヒモノとしたが、メシ(モノ)とも訓める。「味物」はタメツモノとも訓まれている。
(引用文献)
阿蘇2008. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第4巻(巻第七・巻第八)』笠間書院、2008年。
井手2004. 井手至『遊文録 説話民俗篇』和泉書院、2004年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注四』集英社、1996年。
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
窪田1984. 窪田空穂『萬葉集評釈 第五巻』東京堂出版、昭和59年。
古典集成 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集二』新潮社、昭和53年。
時代別国語大辞典 上代語編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系 佐竹昭広・山田英雄・大谷雅夫・山崎福之・工藤力男校注『新日本古典文学大系2 萬葉集二』岩波書店、2000年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集7 萬葉集②』小学館、1995年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
全注 渡瀬昌忠『萬葉集全注 巻第七』有斐閣、昭和60年。
古典大系 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系5 萬葉集二』岩波書店、昭和34年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
中西1980. 中西進『万葉集全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
日本民俗大辞典 福田アジオ・神田より子・新谷尚紀・中込睦子・湯川洋司・渡邊欣雄編『日本民俗大辞典 上』吉川弘文館、1999年。
※本稿は、2018年9月稿を2023年8月に加筆しルビ化したものである。
足乳根乃母之其業桑尚願者衣尓着常云物乎
先行研究として、比較的近年の注釈書からいくつか訓読文と現代語訳を拾ってみる。
たらちねの 母がその業る 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
母が生業として育てている桑の木でさえ、ひたすらお願いすれば着物として着られるというのに。(伊藤1996.)
たらちねの 母がその業 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
お母さんがその仕事として育てている桑の木でさえも、心から願えば、衣として着られるというのに。(どうして二人が結婚することは許されないのだろうか)(阿蘇2008.)
たらちねの 母がその業る 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
(たらちねの) 母の仕事の 桑でさえ 頼めば衣に 着られるというのに(新編全集)
たらちねの 母がその業る 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
母が自分の生業として育てている桑の木でさえも、心からお願いすれば衣として着られるといいますのに。(古典集成)
たらちねの 母が其の業 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
(たらちねの)母が生業とする桑でさえも、願えば絹の衣として着ることもできるということなのに(どうして二人で逢うことは許されないのだろうか)。(稲岡2002.)
たらちねの 母がその業る 桑すらに 願へば衣に 着すといふものを
(たらちねの)母のもので、母が養蚕をしている桑の木でさえもお願いすると、(その桑で蚕を飼い繭を作らせ)絹の着物に作って着せてくれるというのに。(なぜ二人が逢うことはお願いしても許されないのだろう。)(全注)
たらちねの 母が園なる 桑すらに 願へば衣に 着すといふものを
母親の園にうえてある桑でさえも願えば絹の着物として着せてくれるというのに。(どうしてあなたを自分のものにできないのでしょう。)(古典大系)
たらちねの 母が園なる 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
(たらちねの)母の園にある桑でさえも、頼めば衣として着られるというのに。(新大系)
たらちねの 母がその業る 桑すらに 願へば衣に 着るといふものを
(たらちねの)母がその仕事とする桑でさえも、願えば衣として着られるというのに。(新大系文庫本)
足乳ねの 母がその養ふ 桑すら 願へば衣に 着すといふものを
足乳ねの母が大切に養っている蚕でさえ、願えば衣にして着せてくれるというものを。(中西1980.)
議論は深まらずに今日に至っている。原文にある、「其業」の「其」をソノ(garden)の音借とする説について、ふさわしくないとする考えが提示されている。稲岡2002.に、「母之其業」西にハヽノソノナルと訓まれていたのを略解に、ハヽガソノワザノ、古義にハヽガソノナルとし、古義の訓が広く採用されているが、古義は「園なる」の意と解したのであってその借字説は不自然だし「其の業桑」という表現には無理も感じられる。古典大系に「他の訓みでは字余りとなり、かつその中に母音母節がないので、しばらくこの訓を採る」として「園なる」説によったのは(新大系も同様に解する)問題の困難さを示しているだろう。本書では「其業」(ソノナリ)と文字の通りに訓み、「そのなりわいである」意に解し、後考をまつ。」(546頁)と補注がある。
「其」を「園」の意ととるのは、農業史的に見てふさわしくない。日本民俗大辞典に、次のようにある。
くわ 桑 クワ科に属し、元来、熱帯から温帯地域にかけて生育する喬木性、または灌木性の植物。桑を畑一面に植栽するようになったのは明治時代になってからである。それまでは畑の畦に植えるアゼクワ、屋敷周りに植えるクネクワなどで、桑の収量は少なかった。養蚕業が発達する明治以降、畑が桑園化して収量も増大していった。……(552~553頁、この項、板橋春夫)
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桑の園が卑近に見られるようになったのは、明治時代になってからが一般的で、飛鳥~奈良時代にそのような光景に普遍性はなかった。万葉集の他の「園」の用例に見られる、梅、竹、韓藍が面として植えつけられているようには桑の植栽は認識されていなかったと考える。「其」を「園」と解釈することはできそうにない。
次に、「業」字について考える。諸説に、生業の意と捉える傾向がある。万葉集中に、「業」字は、他に3例ある。
吾妹子が 業と造れる 秋の田の 早穂の蘰 見れど飽かぬかも〔吾妹兒之業跡造有秋田早穂乃蘰雖見不飽可聞〕(万1625)
水を多み 上田に種蒔き 稗を多み 択擢えし業そ 吾が独り寝る〔水乎多上尓種蒔比要乎多擇擢之業曽吾獨宿〕(万2999)
荒雄らは 妻子の産業をば 思はずろ 年の八歳を 待てど来まさず〔荒雄良者妻子之産業乎波不念呂年之八歳乎将騰来不座〕(万3865)
「業」字は、万1625番歌ではナリ、万2999番歌ではワザと訓んでいる。万3865番歌では、「産業」でナリと訓んでいる。ナリはナリハヒ(生業)のことである。ワザはテクニックの意である。稲田に稗が混じるので、稗を選んで抜いていっている。その手際のことを「業」と言っている。
万1357番歌の前の、万1354番歌の標題に「寄レ木」とある。木に寄せた詠物詩である。そこに「桑」とあれば、それは桑の木のことに違いなく、中西1980.のいうような桑子(蚕)のことではない。類歌として扱われることのある歌でも、「たらちねの 母が養ふ蚕の 繭隠り」という説明調の慣用句表現が行われている。
たらちねの 母が養ふ蚕の 繭隠り 隠れる妹を 見むよしもがも(万2495)
たらちねの 母が養ふ蚕の 繭隠り いぶせくもあるか 妹に逢はずして(万2991)
…… 霞立つ 長き春日を 天地に 思ひ足らはし たらちねの 母が養ふ蚕の 繭隠り 息衝きわたり 吾が恋ふる 心のうちを 人に言ふ ものにしあらねば ……(万3258)
桑の木が衣として着用されることへと変わるには、桑を蚕が食べて繭を作り、その繭から糸が繰り出されて絹となることが必要である。さらにそれを織ることで布になり、縫い付けて衣に完成する。その転変を言いたいから、「業」と言っているものと考えられる(注2)。母の生業のことを言っていると解釈できないことはないが、蚕の飼育のために桑を栽培することが母ばかりの仕事であったかどうか疑問である。蚕の面倒を見、糸をとり、織物に仕上げることは母が主役の仕事であったとしても、未婚女性や子供が手伝って何の支障もない。桑の木を植えつけたり桑の徒長した枝を採取すること、わけても木に登るようなことは男性に頼む仕事のように思われる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/03/c1/822831945dcb4d5f8919b9046f3fa840_s.jpg)
「母之其業」とは、桑→蚕→糸→布→衣に化けさせる術を指している(注3)。したがって、次のように訓むのが正しい。
足乳根乃母之其業桑尚願者衣尓着常云物乎
たらちねの 母が其の業 桑すらも 願へば衣に 着すといふものを(万1357)
「着」は、ケスと訓んで四段活用の他動詞、「着(蓋)す(ケは甲類)」のことである(注4)。「着る」に上代の尊敬の助動詞スがついて音転した語とされ、お召しになると訳すことができる。お召しになる着物はお召物である。同時に、食事をお食べになることも召し上がるといい、お蚕様が桑を召し上がるから上等のお召物である絹ができあがる。
…… 汝が着せる 襲衣の襴に 月立ちにけり(記27)
…… 我が着せる 襲衣の襴に 月立たなむよ(記28)
吾が背子が 蓋せる衣の 針目落ちず 入りにけらしも 我が情さへ(万514)
筑波嶺の 新桑繭の 衣はあれど 君が御衣し あやに着欲しも(万3350)
桑の葉のようなごわごわしたものでさえも、母の手腕にかかればさらさらの絹製品へと仕立て上げることができる。それはそれはすごい業を持っていていらっしゃることよ、という感嘆の意を示している。三句目にある「尚」の部分については、万葉集中に、スラ、スラニ、スラモ、スラヲ、ニスラ、ヲスラ、ヲスラニとする訓法がある。着衣するのにふさわしくない桑さえも、その業をもってすれば逸品ができるという意味だから、ここの「尚」はスラモと訓むのが良いであろう。歌の眼目は「たらちねの母が其の業」だから歌の冒頭に置かれている。倒置法である。
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たらちねの 母が其の業 桑すらも 願へば “衣に着す”といふものを(万1357)
倒置を直すと次のようになる。
桑すらも願へば、(たらちねの)母が其の業[ヲ以テ]衣に[シテ]着すといふものを
桑の葉のようなごわごわのものでさえもどうにかしようと乞い願えば、養蚕、製糸、機織というマジックを心得ている母はそのテクニックを使って上等の絹の衣に変えてお召しになることは決まっているのになあ。
この歌は何を歌っているのか。多くは、恋の歌と考えられてきた(注5)。しかし、そうではないのではないか。ここに「(たらちねの)母」とある「母」は、歌を歌っている人の縁故者たる「母」ではないのではないかということである。
記紀の話に、特別に章立てて養蚕の起源譚が語られているわけではないが、蚕がどこから生まれたかについては記述がある。オホゲツヒメ(大気都比売神、大宜都比売神)、保食神のことである。
又、食物を大気津比売神に乞ひき。爾くして、大気都比売、鼻・口と尻とより、種々の味物を取り出だして、種々に作り具へて進る時に、速須佐之男命、其の態を立ち伺ひ、穢汚して奉進ると為ひて、乃ち其の大宜津比売神を殺しき。故、殺さえし神の身に生りし物は、頭に蚕生り。二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。故、是に、神産巣日御祖命、茲の成れる種を取らしめき。(記上)(注6)
是の後に、天照大神、復天熊人を遣して往きて看しめたまふ。是の時に、保食神、実に已に死れり。唯し其の神の頂に、牛馬化為る有り。顱の上に粟生れり。眉の上に蠒生れり。眼の中に稗生れり。腹の中に稲生れり。陰に麦及び大小豆生れり。天熊人、悉に取り持ち去きて奉進る。……又口の裏に蠒を含みて、便ち糸抽くこと得たり。此より始めて養蠶の道有り。(神代紀第五段一書第十一)
養蚕の神さまが女神であったことは、なんとなくそれらしく信じられている。養蚕の技術の使い手も女性であった。雄略紀には次のようにある。
三月の辛巳の朔丁亥に、天皇、后妃をして親ら桑こかしめて、蚕の事を勧めむと欲す。爰に蜾蠃 蜾蠃は、人の名なり。此には須我屢と曰ふ。に命せて、国内の蚕を聚めしめたまふ。是に、蜾蠃、誤りて嬰児を聚めて天皇に奉献る。天皇、大きに咲ぎたまひて、嬰児を蜾蠃に賜ひて曰はく、「汝、自ら養へ」とのたまふ。蜾蠃、即ち嬰児を宮墻の下に養す。仍りて姓を賜ひて少子部連とす。(雄略紀六年三月)
この話はコ(蚕・児)の意味の取り違えのエピソードであるが、皇后が養蚕をする伝統は古いものである。礼記・月令に、「季春之月、……后妃齊戒、親東郷躬桑、禁二婦女一毋レ観、省二婦使一以勧二蚕事一。」と養蚕を奨励している。実地の記録としては、漢書・文帝紀に、「朕親率二天下農耕一以供二粢盛一、皇后親桑以奉二祭服一、其具二礼儀一。」、漢書・元后伝に「春幸二繭館一、率二皇后列侯夫人一桑。」とある。最後の「桑」字は、桑を扱くこと、枝から葉をむしり取ることである。雄略紀の「親桑」も同じである。
万1357番歌の場合、歌い手が言っている「母」は具体的な存在の母ではなく、保食神たるオホゲツヒメのことを指して歌っているのではないか。つまり、一般論である。一般論と考えた場合、歌全体に及ぼす効果は大きい。「母」に対して歌っているのは、立場上「児」であるはずである。それは、「蚕」と同根の語、語学的に等しい言葉である。桑を絹糸に変化させる術を行っているのは蚕であるが、養蚕の蚕は人間の飼育下で飼われる品種改良されたものである。人間が管理して育てないと生きていくことはできない。「母」の手を借りなければ生きていけない人間の児と同等の存在である。出来上がった絹織物の着物は、「后妃」のような高貴な女性がお召しになるものでありつつ、養蚕の神さまであるオホゲツヒメにお召しになっていただこうと考えるのは成り行きとして当然のことであろう。
オホゲツヒメは保食神である。記では、稲種、粟、小豆、麦、大豆など「味物」が生まれている。オホゲツヒメという名義は、オホ(大)+ゲ(餉)+ツ(助詞)+ヒメ(姫・媛)の意で、たくさん食べる妊婦であることを意味している。鱈腹食べることを一義として含むであろう枕詞「たらちねの」を被って正しい使い方ということができる。紀では、ほかに牛馬、稗も登場している。牛馬は食用ではなく、耕作役のために使われたと考えられる。そんななか、食べ物ではない蚕が保食神から生まれている不思議について、この歌は解いている。一部地方に蚕を蛋白源として食べていた所があるが、そのこととは無関係であろう。蚕は桑の葉を食べて繭を作る。その繭から人は絹糸をひき出して最終的に織物を作る。従来の麻製品と異なり、染色すれば発色も良く、上等のものだから衣という語の本来の意、絹でできていることを指し示している。上流階級の人の高価な着物である。それは世に言うお召物である。召し上がるものは食べ物のことで同じ動詞で表わされるから、穀類と蚕がともに保食神から生まれたことは何一つとして不自然なことはない。そのことを「ものを」、そうと決まっているのに、と歌っている。「召す」は、食う・飲む・着るなど、物を身にとり入れる、着用するの意である。
戯奴がため 吾が手もすまに 春の野に 抜ける茅花そ 御食して肥えませ(万1460)
石麻呂に 吾物申す 夏痩せに よしといふ物そ 鰻捕り喫せ(万3853)
百寮列を成し、乗輿蓋命して、以て未だ出行しますに及らざるに、……。(天武紀七年四月)
上代の「召す」の用例に着物をお召しになるという例が見られないのは、「着す」という語が存してその領域を侵犯していたからとも考えられる。意味としては同じことであると理解されよう。
以上、万1357番歌について考えた。
(注)
(注1)桑の木を横から見た形を記号にしたものという。徒長枝の切り戻しを繰り返していたことと、根が張っていることをよく表している。畦に植えればその補強に役立ったとわかる。
(注2)新編全集に、「くわ科植物はおおむね樹皮が強靭で、その繊維は糸・縄・布の材料となり、麻・こうぞがその代表。桑からも紙が作られ、やや粗いが布を織ることも可能。この歌はそのような桑布でも衣料となるという諺の類を踏まえたものか。」(261頁)とするが、桑で蚕を育てて糸をとるのではなく樹皮を使って桑布を作ることすらできるという語りはあまりにも皮肉な言い回しに思われる。井手2004.参照。
「願ふ」の意は、時代別国語大辞典に、「神の心を安らかにする(ネグ)ことによって自分の希望をかなえてもらうように計らう、ということから、現在のネガフに近い意に分化してきたものであろう。他の人に言語をもって希望を述べる意ではなく、心の中でかくあれかしと念ずる意に用いているのは、原義につながるものといえよう。」(558頁)とある。補足すれば、ネグにはもう一義ある。麻のような植物から主に種をこそぎとることをいう。拙稿「上代語の「ねぐ(労)(ねぎ(泥疑))」と「をぐな(童男)」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/42b91b8f45b343169823f78564c19e54参照。すばらしい絹織物を欲しいと「願ふ」のは十分にわかるが、ごわごわの桑布を「願」って着たいとは思わないし、桑をネグとは桑の葉を扱くことで、それは養蚕のための餌にはなっても直接繊維をとることにはならない。桑の枝の表皮を剥いで晒すことを表す言葉ではない。
(注3)窪田1984.に「「桑」は、養蚕を言ひかへたもの。」(236~237頁、漢字の旧字体は改めた)というのでは、桑→蚕までのことしか言っていない。
(注4)ケスという語には、呉音から発したかと思われる「化す」という言葉も見られる。「魚も化して経とみゆ。」(観智院本三宝絵・中・十六「吉野山寺」、984年)といった例がある。合拗音でクヱと表記されることも多い。記紀万葉に例が見られず、ケの甲乙を定めがたいものの、この「化す」との掛詞の可能性もゼロではない。化身、変化、権化など、仏教に関連した用語に多く見られる。「狐の変化したるか。」(源氏物語・手習)と同様に、「桑の化したる衣」と思われたのではないかと推測する。絹織物は上等で、貴人の衣裳や高僧の袈裟、荘厳具に多く用いられたようである。よって、尊敬の意を含む「着す」と言うのがふさわしいのである。
養蚕と仏教との関連は、古代の渡来系氏族、秦氏によるところが大きい。「化す」は呉音の転によるサ変動詞を意図的に編み出した、いわゆる和訓であったのかもしれない。後考を俟つ。
(注5)伊藤1996.に、「女の心であろう。男女の恋の成就にとって最も大きな権限を持っていた母親の生業を引き合いに出して、どんなに困難なことでも一心に願えば実るというのに、私の恋は実らないと嘆いている。養蚕は女の困難にして重要な生業であった。すぐれた桑を育てないと立派な蚕はできない。幼虫には柔らかい葉を与えねばならず、成虫にはつやつやとして張りのある葉を与えねばならない。油断をしていると、蚕を好物とする蟻が長蛇の列をなして成虫を全滅させてしまうことがよくある。無事育て上げた蚕の食欲は旺盛で、深夜にはその歯音の響きがさざ波のように聞こえる。桑の葉に毒物があると、蚕たちは一朝にして死す。今でも、蚕を育てる人びとは、蚕のことを「お蚕さま」と呼んでいる。「お蚕さま」は成熟の極に達すると、おヒキさまになる。躰が縮小し曲がって透体を呈するのである。これを拾って藁の床に寝かしてやると、かれらは糸を吐いて二、三日の間に繭となる。だが、ヒキ拾いの時期を誤ると、ほれぼれする繭は期待できない。こうした難業の末にできた絹が貴重であることはいうまでもない。桑から繭へ、そして糸から衣ヘ──それは外目にも神秘な過程である。が、当事者にとっては、悲願にも似た祈りが常にこめられている。「桑すらに願へば衣に着る」という表現は、蚕を育てる母親の緊張をよくよく知る者の言葉にちがいない。その難業に我が恋の苦しさを譬えたところが新鮮である。この娘の恋は、当の母親によってさえぎられているのではなかろうか。母の願いはその困難な生業に通じるのに、私の願いはどうして母さんに通じないのか。そのように考えればさらにいっそう生きてくる歌のように思われるが、いかがであろう。」(352~353頁)とある。養蚕は手間がかかり鼠害も心配されるが、「難業」と呼べるような特殊技能ではない。
(注6)「食物」は鼇頭古事記にミケツモノ、訂正古訓古事記にヲシモノと訓んでいる。ここでは新編全集本古事記に従いクラヒモノとしたが、メシ(モノ)とも訓める。「味物」はタメツモノとも訓まれている。
(引用文献)
阿蘇2008. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第4巻(巻第七・巻第八)』笠間書院、2008年。
井手2004. 井手至『遊文録 説話民俗篇』和泉書院、2004年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注四』集英社、1996年。
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
窪田1984. 窪田空穂『萬葉集評釈 第五巻』東京堂出版、昭和59年。
古典集成 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 萬葉集二』新潮社、昭和53年。
時代別国語大辞典 上代語編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系 佐竹昭広・山田英雄・大谷雅夫・山崎福之・工藤力男校注『新日本古典文学大系2 萬葉集二』岩波書店、2000年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集7 萬葉集②』小学館、1995年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
全注 渡瀬昌忠『萬葉集全注 巻第七』有斐閣、昭和60年。
古典大系 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系5 萬葉集二』岩波書店、昭和34年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解3』筑摩書房、2009年。
中西1980. 中西進『万葉集全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
日本民俗大辞典 福田アジオ・神田より子・新谷尚紀・中込睦子・湯川洋司・渡邊欣雄編『日本民俗大辞典 上』吉川弘文館、1999年。
※本稿は、2018年9月稿を2023年8月に加筆しルビ化したものである。