(承前)
シメには、また鳥の名がある。
鳹 陸詞曰く、鳹〈音黙、又音琴、漢語抄に比米(ひめ)と云ふ。〉は白啄鳥也といふ。(和名抄)
鴲 孫愐曰く、鴲〈音脂、漢語抄に之米(しめ)と云ふ。〉は白青萑也といふ。(和名抄)
鳹・鴲 ヒメ、シメ(名義抄)
右は、日本書紀を検(かむが)ふるに、 讃岐国に幸(いでま)すこと無し。亦、軍王(いくさのおほきみ)も未だ詳らかならず。但し、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、「記に曰く、『天皇十一年己亥の冬十二月己巳の朔の壬午、伊与の温湯(ゆ)の宮に幸す、云々』といへり。 一書に云はく、『是の時に宮の前に二つの樹木(き)あり。此の二つの樹に斑鳩(いかるが)・比米(ひめ)二つの鳥、大(さは)に集まれり。時に勅して多く稲穂を挂けて之れを養ひたまふ。乃ち作れる歌、云々』といへり。若(けだ)し疑ふらくは此れより便(すなは)ち幸ししか。(万6左注)
…… 花橘を ほつ枝に もち引き懸け 中つ枝に 斑鳩懸け 下枝に 比米(ひめ)を懸け ……(万3239)
シメという鳥の名は、また、ヒメ(メは乙類)とも呼ばれたとする説が有力である。万6番歌の左注、万3239番歌にあるとおり、イカルガという名の鳥とセットでとり上げられる。いま、法隆寺火災の後兆として、「申」字は標(しめ)であると考えている。法隆寺は、所在地の地名から斑鳩寺(鵤寺)(いかるがでら)とも呼ばれている。法隆寺火災の記事は、前年にわざわざ呼称を変えてダブっている。
時に、斑鳩寺に災(ひつ)けり。(天智紀八年是冬)
以上から、「申」字をシメとよむことは確かである。ただし、「申」をシメと音読み(?)した物証は見当たらない。名義抄に、「申𦥔 今正、音身、ノブ、ノビス、マウス、カサヌ」、「申 音真、ノブ、カサネテ、サル、マウス、ノヒス」とある。説文に、「申 神也。七月、陰気を成し、体自ら申束す。臼に从ふは、自ら持する也。吏臣は餔時に事を聴き、旦の政を申ぶる也。凡そ申の属皆申に从ふ。」とある。要領を得ない解説であるが、食事中にいろいろな意見を聴いて朝政にのぞむとする説は興味深い。食べ物を噛んで酸いも甘いも噛み分けて、亀の甲の卜に出た兆によって政策を発表する。すべてカメ(メは乙類)という言い回しに理解できる。何かを食べる意味を懐いている。白川1995.の「まうす〔申・奏・曰・白〕」の項には、「「まをす」が古い形で、祝詞に多く用いられる。……「をす」はおそらく「食(を)す」で、貴人の行為をいう。尊貴の人に対して告げるときの謙譲語として用いる。」(687頁)とある。貴人に対する行為と貴人の行為とを同じ括りにまとめられるか疑問であるが、「食す」の原義は食べることであって、説文の説明につながっている。
「申す」は、古典基礎語辞典の解説に、「神・天皇・父・母など、上にあって支配的な力をもつ者に対し、実状を打ち明けて願い頼むのが原義。それはつまり、下位にある者が、上位者にものを言うことなので、「言う」「告ぐ」の謙譲表現として、申し上げる意を表すようになる。」(1136頁、この項、我妻多賀子)とある。上位の者に対してお願いをすることが原義である。用例的には、「三太夫、申してみよ」、「ははーっ、恐れながら申し上げます」が近い。政務を奏上することになる。そして、結果的に「言ふ」、「告ぐ」、さらには「為(す)」、「為(な)す」、「行ふ」の謙譲語になっている。白川1995.に、「申(しん)は電光の象形字。光が幾層にもなって走るので申(かさ)ねる意となり、長上に対して申ねて懇請する意より、長上に対して言上する意となったものであろう。」(687頁)とする。「雷(かみ)震(な)る」の記述に続いている。名義抄では、「言」字にシムという訓を載せる。シムという訓は、シメス(示)に通じる。また、「申す」の謙譲の気持が強まって補助動詞として用いられる際、~し申し上げるの意になり、使役の助動詞シムの用法に同じになることから用いられたと考えられる。助動詞シムは平安時代には漢文訓読に限られるように使用が縮小してしまったが、奈良時代までは使役の用法として行われていた。時代別国語大辞典に、「敬語の助動詞としての用法は、上代には、まだその確例をみない。」(369頁)とするが、なりゆきとして尊敬の意が発現するに至っている。文章語で「しめ給ふ」の形で厚い尊敬を表すことへとつながった。
み吉野(えしの)の 小室(をむろ)が岳(たけ)に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)そ 大前(おほまへ)に申(まを)す ……(記96)
このころの 吾が恋力(こひぢから) 記し集(つ)め 功(くう)に申さば 五位の冠(かがふり)(万3858)
古昔(いにしへ)に 君し三代(みよ)経て 仕へけり 吾が大主(おほぬし)は 七代(ななよ)申さね(万4256)
…… 妹が手を 我に纏(ま)かしめ 我が手をば 妹に纏かしめ ……(紀96)
布施置きて 吾れは乞ひ祷(の)む 欺かず 直に率去(ゐゆ)きて 天路(あまぢ)知らしめ(万906)
古人の 食(たま)へしめたる 吉備の酒 病めばすべ無し 貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ(万554)
時に皇后(きさき)、奏(まを)さしめたまひて言(まを)したまはく、……(時皇后令レ奏言、……)(仁徳紀三十年十一月)
年毎に十一月を限りて、細に本利の用状を録し、太政官に申さしむ。(毎レ年限二十一月一、細録二本利用状一、令レ申二太政官一。(続日本紀・天平十六年四月)
流水(るすい)走り返て王(わう)の御許(みもと)に行きて事の由を令申(まうさし)めて、「願は廿の大象を給はりて、水を運て魚を生けむ」と申す。(三宝絵・上・七)
カクテ三条(さむでう)ノ宮ニ参(まゐり)テ、参レル由(よし)ヲ令申(まうさし)ム。(今昔物語・巻第十九・三条大皇大后宮出家語第十八)
或いは奉行人に付き、或いは庭中に於いて、申さしむべきなり。(或付奉行人、或於庭中、可令申也。)(御成敗式目第三十条)
「申」字をもって、「申す」や「しむ」、さらには、「申さしむ」という意を表していると考える。「申さしむ」のように使役形で用いるのは、謙譲的な意味の強調、また、間に誰かを入らせて取り次がせるような時に用いられる。人を主として考えると、そこにはメッセンジャーが取り次いでいる。言葉のほうを主として間に取り次ぐと考えるとき、そこには文字がある。亀が「申(しむ)」というネームプレートを付けていることは、噛むといけないから代理の者に申さしむこと、そして文字を書いてカンニングペーパーを使って申さしむことをしている。
亀の背中に「字(な)」が書いてある。「書く」は「掻く」と同根の語である。爪を立てて引っ掻くことをする。誰がどうやって書いたか気になるところである。記述は他にないから、他者が書いたのではなく、亀自身が書いたとしか考えられない。そして、「詰(つめ)の遊び」と歌われていた。「爪の遊び」と受け取ることができる。亀自身が亀の背に自分の手で書いた。なぜなら、海辺に棲息するカメノテは、古語に「石花(せ)」という。「背(せ)」と同音である。上手に書いてあるのなら、「甲」と書くべきであった。字の上手な人は、「手師(てし)」と呼ばれ、万葉集に「義之」(万394・664・1324・2064・2066・2578)と記されている。能書家の王義之(303~361年)をもじって戯書として用字が行われている。
かくて、名ある限りは、〈物ノ師ヲ率(ゐ)テ下シ〉、手師(てし)、絵師(ゑし)、作物所(つくもどころ)の人々、ミヤこの鍛冶なルを、所々に多く据ヱて、……(宇津保物語・吹上上)
書道の先生の猿真似したから、「甲」にならずに「申」字になったということである。テ(代)という語は、代わりとなるもの、代償のことも指す(注16)。手(て)の代(て)ほどテなるものはない。くるる鉤ほどのテはない。
是に阿俄能胡(あがのこ)、乃ち己が私(わたくし)の地(ところ)を献りて、死(しぬるつみ)贖(あがな)はむと請(まを)す。故、其の地(ところ)を納めて死罪(しぬるつみ)を赦(ゆる)す。是を以て、其の地を号けて玉代(たまて)と曰ふ。(仁徳紀四十年是歳)
「玉手の家」とあったのは、「玉代の家」という意に通じている。代わりの家はご用意しましたと歌っていることになる。つまり、法隆寺火災後の歌として、焼け跡から出てきてお住まいなさい、と仮設住宅を斡旋しているとも受け取ることができる。「玉手の家の八重子の刀自」を、「玉代の家の八重子の刀自」と読み替えることが可能でしょうと呼び掛けている。命に代えられるものはない。
字を書いている。法隆寺のことだから、上等な紙に書いた。装潢の施された紙のことは染紙(そめがみ・しめがみ)という。「染(しめ、メは乙類)」である。皇太神宮儀式帳に載る忌詞に、「経を志目加弥(しめかみ)と云ひ、」とある。黄色い紙であることも多い。亀も「上黄下玄」と捉えられている。大きさは「六寸(むき)許(ばかり)」とある。「六寸(むき、キは甲類)」は「向き」に同音である。どちらの方へ行ったのか、それがわかるのが「踨血(はかり)」である。手負いの動物が逃げて行ったあとに、血のしたたりが点々と残っているので、それを手掛かりにして追っていく。それを「踨血(はかり)」という。和名抄に、「照射〈踨血附〉 続捜神記に云はく、聶支、少(わか)き時、家貧しく、常に照射をし、一の白鹿を見て之れを射中てつ。明晨に踨血を尋ぬ。〈今案ずるに俗に照射を止毛之(ともし)、踨血を波加利(はかり)と云ふ。〉といふ。」とある。
亀の手で字を書いたとしたが、「亀手(キンシュ)」はひび切れた手のことをいう。
宋人に善く不亀手の薬を為(つく)る者有り。(宋人有下善為二不亀手之薬一者上。)(荘子・逍遥遊)
亀は硬い背に文字を手で掻き書いて、あかぎれができてしまい、歩くたびに血をつけて行った。おそらくは徘徊(たもとほ)るように進んだのであろう。亀は袂で地面を掘るようにしながら歩いていく。血糊までつけているから足取りがばれてしまった。あかぎれのことは、古語に「皹(かかり、かがり)」という。
稲舂けば 皹(かか)る吾(あ)が手を 今夜(こよひ)もか 殿の若子が 取りて嘆かむ(万3459)
皹 漢書注に云はく、皹〈音軍、阿加々利(あかがり)〉は手足の拆裂也といふ。(和名抄)
「足皹(あかがり)」は足のあかぎれで、手のあかぎれは「手皹(てかがり)」、つまり、手掛かりのこととわかる。何の手掛かりかと言えば、第一に亀が川からどこへ行ったかであるが、第二に、水流れ、すなわち、失火原因である。カガリには、同音に「篝(かがり)」がある。手に篝火を持っていたのが燃え移り広がったため、法隆寺は全焼したと言っているようである。回廊を行くのに篝火を灯していたのが、袂に燃え移ったのであろうか。そして、火が回ったのは、ぐるりとめぐり囲む回廊の「八重子」であり、安全対策がかえってまずかったと言っているようである。
どちら方面へ行ったか追跡できることは、道しるべ、道標のことを意味する。つまり、「六寸許」とあったのは、道の標識、標(しめ)のことである。手が皹になっているとは、皮膚が裂けていることで、「裂け(ケは乙類)」は酒と同音である。酒を入れておくのは、「甕(かめ、メは乙類)」である。亀と同音である。登場するヤマトコトバがことごとく循環論に解説されている。
亀(かめ、メは乙類)、ならびに、甕(かめ、メは乙類)の語源は十分には解明されていない(注17)。筆者はいわゆる語源なるものを求める立場に立たない。そうではなく、万葉集の用字などから、上代の人々が感じていたと想定される語感を重視している。言葉とは、それが使われていた当該時代の共通認識を映す鏡である。カメ(メは乙類)という言葉については、動詞「噛む」の已然形カメ(メは乙類)との共音性が重視されて認識されていたと感じられる。言葉の音に忠実にして真面目なのか、洒落を言ってふざけているのかわからない。基本的に無文字文化のなかで暮らしているから、音だけが頼りの言語活動の特徴があらわれている。
酒を入れておく甕(かめ)とは、口噛み酒であった時代、すでに噛んでしまったものを吐き出して入れておき、発酵させてお酒とした容器である。亀(かめ)は亀卜に使われ、漢字のもととなった象形文字がそこに書かれていることが知られていた。流暢にお話しすることができず、すでに噛んでしまった人たちにはカンペが必要である。それを見ながら確認して読み上げたのである。
これら一連のトートロジカルな説明が正しいことは、「背(せ)」と同音に、「諾(せ)」という語があることからも確かめられる。
鹿父(かかそ)の曰く、「諾(せ)」といふ。即ち言へるを知れり。(仁賢紀六年是秋)
「諾(せ)」は語義的には yes よりも all right に近い。確かにすべてそのとおりであると言っている。亀甲の重なり合う情景は、屋根瓦の葺かれた様子に似ていたが、日本に棲息するニホンイシガメ(カハカメ)は、中国の種と違って背甲が黄色っぽくて腹甲が黒い。あべこべが問題というよりも、屋根瓦風にあってほしい背甲が黄色くて、まるで焼けてしまったかのような様子になっていた。法隆寺火災の後兆をいうにふさわしい言葉が選ばれている。
以上、言葉の数珠つながりをたどって本文を読んできた。最後に、この童謡ならびに「申」字亀の記事を据えることで、日本書紀は何を伝えようとしているのか検討しておく。前後の記事から、可能性として、祝詞を「書」く書記法とのかかわりを窺うことができる。仏経ではないメイドインジャパンの経、祝詞が、読み上げられるためにはじめて記された頃のことである。直前の三月などに中臣氏が祝詞をあげた例や、直後に賀正事や神事を述べたことが見えている。
三月の甲戌の朔壬午に、山御井(やまのみゐ)の傍(ほとり)に、諸神(かみたち)の座(みまし)を敷きて、幣帛(みてぐら)を班(あか)つ。中臣金連(なかとみのかねのむらじ)、祝詞(のりと)を宣(の)る。
時に、中臣の遠祖(とほつおや)天児屋命(あまのこやねのみこと)、則ち以て神祝(かむほ)きを祝(ほさ)しき。(神代紀第七段一書第二)
大錦上蘇我赤兄臣と大錦下巨勢人臣と、殿(みあらか)の前に進みて、賀正事(よごと)奏(まを)す。(天智紀十年正月)
大錦上中臣金連、命(みことのり)にして神事(かむごと)を宣(の)る。(天智紀十年正月)
神代紀の例は、「神祝」とあって「祝詞」とはない。文字を読んでいるのではないと推測される。天智紀十年正月の「賀正事」は懐から書いたものを取り出して読むほどのことではなかろう。「命宣二神事一」のほうは、中臣金が天皇に代わって神事(かむごと)を宣言しているから、祝詞同様、台本が作製されていたと推測される(注18)。「背書二申字一」の「亀」の出現とは、それまでなら口頭でしか行えなかったヤマトコトバの伝達が、書いておいてそれを読み上げれば可能なほどに、メモ体を獲得していたということになる。いわゆる宣命体が出来上がった。宣命は、続日本紀にあるとおり、天皇が読み上げるものである。その書記方法は、天皇の代わりに天皇の言葉を申し述べるために台本化されたものであったのであろう。どうやら祝詞が宣命に先んじているようである。その歴史的経緯を示していると考えることはできる。
けれども、法隆寺火災の後兆として、月を跨いで2つの事例が述べられている点からすれば、法隆寺が全焼したことが、当時の人々にとって相当にショッキングな出来事であったことを物語っているのであろう。カオスの扉が開いてしまった。消化するのに時間がかかった。ひと月、ふた月経ながら、どういうことであったのか、思い定める作業が人々の頭のなかで繰り広げられた。つまり、言が事に追いつくのに、2か月を要したということである。結果、ワザを使った歌と、ワザを使った一文が生まれている。飛鳥時代の人たちが、信仰と懐いているとでも呼べるほどに、言葉に対する熱意が感じられる。なまなましい体験の物語化のために、ヤマトコトバはフルに活用されてその役割を余すことなく果たしていた。それが無文字時代の言葉であったといえるのであろう((注19)。
(注1)新撰字鏡に、「謡 三形作、与招反、平、独歌也、徒空也、又徒歌謡と為(す)、是也、和佐宇太(わざうた)也」とある。語義として、「物に託して世情を諷刺する歌謡。」(角川古語大辞典⑤994頁)と解釈されている。この理解は再検討されるべきであろう。ワザ+ウタのワザの説明が不明瞭である。結果的に世情を批判する諷喩歌となり、また、中国の史書の用法にならって挿入されたものではあっても、なぜそれをヤマトコトバにワザウタと称しているのか。岩波古語辞典に、「ワザは隠された意味の意」(1389頁)、時代別国語大辞典に、「神の意が人の口をかりて、時の異変を知らせるもの(一種のワザ)と信じられていた。」(817頁)、白川1995.に、「「わざ」はある隠された意味を持つもの。」(801頁)と同様の解説が行われている。しかし、歌の外に何か呪言すべきことがあってそれを伝えるからワザというのではなく、歌自体が多義的に捉えることが可能でありながら、実は一つの意へ収斂するような技巧があるからワザと呼んでいると考える。
(注2)法隆寺火災と関連づける説に、荷田春満・日本紀歌剳記、壬申の乱に向けて大海人皇子が吉野へ去ることと関係づける説に、賀茂真淵・日本紀和歌略注、河村秀根・益根・書紀集解、わからないとする説に、釈日本紀・和歌六の「凡童謡、意未レ詳。」がある。
(注3)土橋1976.に、「『言別[橘守部・稜威言別]』に法隆寺火災は四月三十日であるのに、五月に童謡が歌われたとするのは、「記し後れたる」もので、「此童謡は、四月壬申日より以前に歌ひしにぞやある」といっているが、これは童謡を事件の前兆ないし予言だと考えるからであって、事件のあとでその兆(後兆)が現われることもあるのであり、「五月」で問題ない。」(371頁)とする。
(注4)皇極紀二年十月条の紀107歌謡は、山背王滅亡の前兆、同三年六月条の紀109~111歌謡は、大化改新の前兆、斉明紀六年是歳条の紀122歌謡は難訓で不明、天智紀十年正月是月条の紀125歌謡は、渡来人に冠位を授与したことを諷喩、天智紀十年十二月の紀126~128歌謡は、天皇崩御につづく皇位継承をめぐる争いを諷喩したものとされている。
(注5)後漢書・五行志・二に、「十三年八月己亥、北宮盛饌閤火。是時和帝幸二鄧貴人一、陰后寵衰怨恨。上有二欲レ廃レ之意一。明年会得下二陰后挟二偽道一事上、遂廃遷二于桐宮一、以憂死、立二鄧貴人一為二皇后一。」といった例がある。
(注6)合田1998.91~106頁参照。
(注7)カドルのドの甲乙不明、また、カトルと清音とする説もある。
(注8)武田1956.355頁参照。
(注9)釈日本紀に、「多麻提能(タマデノ)。〈玉手也。所名也。〉」とある。
(注10)言霊信仰下で事=言であると完全に納得のいく物言いは、「真」意である。それを信仰面から神によってつかさどられていると置き換えて考えるなら「神」意と捉えることになる。とはいえ、神の呪言として現れたと考えるのは、頓智の才に長けた上代の人の考え方とは相容れない。言語能力が劣化した多くの現代人には、上代に繰り広げられている洒落が通じないため、ワザウタは神が与えた歌であるかのように見えてしまう。しかし、町に哲学者あり、という言い回しがあるとおり、実は今日でも知恵に富んだ言語生活を送る人は少なからずいる。巷ではなるほどと思わせる強力な定義づけが行われている。それは学問でも研究でもないから、議論の場に現れることはない。上代のヤマトコトバの場合、すべてが日常語で、その場所は巷間であった。すなわち、人はみな町の哲学者だったから、鋭く優れた巧みなワザを用いた歌が歌われて良しとされた。ワザを使って構成されたウタがワザウタである。
(注11)書紀集解に、「書二申字ヲ一者即壬申ノ之乱兆ナリ」とある。
(注12)書紀集解に、「按ニ周易坤卦曰、玄黄ハ者天地ノ之雑也。天玄而地黄而為二上下ヲ一者天地易レ位也。書二申字ヲ一者即壬申ノ之乱兆ナリ。」とある
(注13)白川1996.の「亀」の項に、「殷虚[ママ]出土の亀版には、その甲橋部分(腹背の連なる所)に貢納・修治者の名と数とをしるしており、各地から献納されたものである。」(244頁)とあるが、そのような知識を上代人が持っていたとは考えにくい。また、「申」は貢納者の名ではない。
(注14)天寿国繍帳の銘文が、亀の背にあしらわれていたことはよく知られる。拙稿「天寿国繍帳の銘文を内部から読む」(http://www17.plala.or.jp/joudaigonews/temujikuni.html)参照。
(注15)雄略紀に、「其の雷(かみ)虺虺(ひかりひろめ)きて」(雄略紀七年七月)と訓んでいる。
(注16)時代別国語大辞典は、タマデ(玉代)を命に代えるもの、魂(たま)+代(で)の意とする。テ(代・価・直)という代金、代わりとなるもの、の意を定めている。他の多くの辞書では、取り立てていない。
(注17)甕(かめ)については、カ(瓫)+ヘ(瓶)の複合語の音転とする説が有力視されている。
(注18)新編全集本に、「神事(かむごと)を命宣(みことの)る。」と訓み、「天皇のお言葉として中臣金が宣る。」(276頁)と注している。
(注19)現代社会の事と言との関係は、飛鳥時代のそれとはまるで違っている。ある言葉がキャッチコピーとして人々に受け入れられた時、社会問題が唐突に浮かび上がってくる。待機児童、孤独死、格差社会、ゲリラ豪雨といった言葉は、時宜を言い当てた言葉として多用されている。目の前のことを近視眼的に捉えてお題目としたがっている。本当にそうなのか、たとえば明治時代と比べてどうなのか、筆者には理解できない。そのように言うから殊更に問題視される傾向もあるようである。はるかに貧しく弱く翻弄されながら暮らしていた(/る)人たちが、不満を懐かずに一生を幸せに過ごす術を得ていたのは、事柄を置き去りにして言葉ばかりを追い求めることがなかったからであろう。上代、そんなことに右往左往しなかったのは、言=事とする言霊信仰が重しとして効いていたからであると言える。「狂言(たはごと)」や「逆言(およづれごと)」は相手にされなかった。
(引用文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見雅雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、1982年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見雅雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第五巻』角川書店、1994年。
合田1998.合田芳正『古代の鍵』ニューサイエンス社、平成10年。
小島1962.小島憲之『上代日本文学と中国文学 上―出典論を中心とする比較文学的考察―』塙書房、昭和37年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1990年。
白川1995.白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白川1996.白川静『字通』平凡社、1996年。
新編全集本 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀③』小学館、1998年。
武田1956.武田祐吉『記紀歌謡集全講』明治書院、昭和31年。
土橋1976.土橋寛『古代歌謡全注釈 日本書紀編』角川書店、昭和51年。
シメには、また鳥の名がある。
鳹 陸詞曰く、鳹〈音黙、又音琴、漢語抄に比米(ひめ)と云ふ。〉は白啄鳥也といふ。(和名抄)
鴲 孫愐曰く、鴲〈音脂、漢語抄に之米(しめ)と云ふ。〉は白青萑也といふ。(和名抄)
鳹・鴲 ヒメ、シメ(名義抄)
右は、日本書紀を検(かむが)ふるに、 讃岐国に幸(いでま)すこと無し。亦、軍王(いくさのおほきみ)も未だ詳らかならず。但し、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、「記に曰く、『天皇十一年己亥の冬十二月己巳の朔の壬午、伊与の温湯(ゆ)の宮に幸す、云々』といへり。 一書に云はく、『是の時に宮の前に二つの樹木(き)あり。此の二つの樹に斑鳩(いかるが)・比米(ひめ)二つの鳥、大(さは)に集まれり。時に勅して多く稲穂を挂けて之れを養ひたまふ。乃ち作れる歌、云々』といへり。若(けだ)し疑ふらくは此れより便(すなは)ち幸ししか。(万6左注)
…… 花橘を ほつ枝に もち引き懸け 中つ枝に 斑鳩懸け 下枝に 比米(ひめ)を懸け ……(万3239)
シメという鳥の名は、また、ヒメ(メは乙類)とも呼ばれたとする説が有力である。万6番歌の左注、万3239番歌にあるとおり、イカルガという名の鳥とセットでとり上げられる。いま、法隆寺火災の後兆として、「申」字は標(しめ)であると考えている。法隆寺は、所在地の地名から斑鳩寺(鵤寺)(いかるがでら)とも呼ばれている。法隆寺火災の記事は、前年にわざわざ呼称を変えてダブっている。
時に、斑鳩寺に災(ひつ)けり。(天智紀八年是冬)
以上から、「申」字をシメとよむことは確かである。ただし、「申」をシメと音読み(?)した物証は見当たらない。名義抄に、「申𦥔 今正、音身、ノブ、ノビス、マウス、カサヌ」、「申 音真、ノブ、カサネテ、サル、マウス、ノヒス」とある。説文に、「申 神也。七月、陰気を成し、体自ら申束す。臼に从ふは、自ら持する也。吏臣は餔時に事を聴き、旦の政を申ぶる也。凡そ申の属皆申に从ふ。」とある。要領を得ない解説であるが、食事中にいろいろな意見を聴いて朝政にのぞむとする説は興味深い。食べ物を噛んで酸いも甘いも噛み分けて、亀の甲の卜に出た兆によって政策を発表する。すべてカメ(メは乙類)という言い回しに理解できる。何かを食べる意味を懐いている。白川1995.の「まうす〔申・奏・曰・白〕」の項には、「「まをす」が古い形で、祝詞に多く用いられる。……「をす」はおそらく「食(を)す」で、貴人の行為をいう。尊貴の人に対して告げるときの謙譲語として用いる。」(687頁)とある。貴人に対する行為と貴人の行為とを同じ括りにまとめられるか疑問であるが、「食す」の原義は食べることであって、説文の説明につながっている。
「申す」は、古典基礎語辞典の解説に、「神・天皇・父・母など、上にあって支配的な力をもつ者に対し、実状を打ち明けて願い頼むのが原義。それはつまり、下位にある者が、上位者にものを言うことなので、「言う」「告ぐ」の謙譲表現として、申し上げる意を表すようになる。」(1136頁、この項、我妻多賀子)とある。上位の者に対してお願いをすることが原義である。用例的には、「三太夫、申してみよ」、「ははーっ、恐れながら申し上げます」が近い。政務を奏上することになる。そして、結果的に「言ふ」、「告ぐ」、さらには「為(す)」、「為(な)す」、「行ふ」の謙譲語になっている。白川1995.に、「申(しん)は電光の象形字。光が幾層にもなって走るので申(かさ)ねる意となり、長上に対して申ねて懇請する意より、長上に対して言上する意となったものであろう。」(687頁)とする。「雷(かみ)震(な)る」の記述に続いている。名義抄では、「言」字にシムという訓を載せる。シムという訓は、シメス(示)に通じる。また、「申す」の謙譲の気持が強まって補助動詞として用いられる際、~し申し上げるの意になり、使役の助動詞シムの用法に同じになることから用いられたと考えられる。助動詞シムは平安時代には漢文訓読に限られるように使用が縮小してしまったが、奈良時代までは使役の用法として行われていた。時代別国語大辞典に、「敬語の助動詞としての用法は、上代には、まだその確例をみない。」(369頁)とするが、なりゆきとして尊敬の意が発現するに至っている。文章語で「しめ給ふ」の形で厚い尊敬を表すことへとつながった。
み吉野(えしの)の 小室(をむろ)が岳(たけ)に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)そ 大前(おほまへ)に申(まを)す ……(記96)
このころの 吾が恋力(こひぢから) 記し集(つ)め 功(くう)に申さば 五位の冠(かがふり)(万3858)
古昔(いにしへ)に 君し三代(みよ)経て 仕へけり 吾が大主(おほぬし)は 七代(ななよ)申さね(万4256)
…… 妹が手を 我に纏(ま)かしめ 我が手をば 妹に纏かしめ ……(紀96)
布施置きて 吾れは乞ひ祷(の)む 欺かず 直に率去(ゐゆ)きて 天路(あまぢ)知らしめ(万906)
古人の 食(たま)へしめたる 吉備の酒 病めばすべ無し 貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ(万554)
時に皇后(きさき)、奏(まを)さしめたまひて言(まを)したまはく、……(時皇后令レ奏言、……)(仁徳紀三十年十一月)
年毎に十一月を限りて、細に本利の用状を録し、太政官に申さしむ。(毎レ年限二十一月一、細録二本利用状一、令レ申二太政官一。(続日本紀・天平十六年四月)
流水(るすい)走り返て王(わう)の御許(みもと)に行きて事の由を令申(まうさし)めて、「願は廿の大象を給はりて、水を運て魚を生けむ」と申す。(三宝絵・上・七)
カクテ三条(さむでう)ノ宮ニ参(まゐり)テ、参レル由(よし)ヲ令申(まうさし)ム。(今昔物語・巻第十九・三条大皇大后宮出家語第十八)
或いは奉行人に付き、或いは庭中に於いて、申さしむべきなり。(或付奉行人、或於庭中、可令申也。)(御成敗式目第三十条)
「申」字をもって、「申す」や「しむ」、さらには、「申さしむ」という意を表していると考える。「申さしむ」のように使役形で用いるのは、謙譲的な意味の強調、また、間に誰かを入らせて取り次がせるような時に用いられる。人を主として考えると、そこにはメッセンジャーが取り次いでいる。言葉のほうを主として間に取り次ぐと考えるとき、そこには文字がある。亀が「申(しむ)」というネームプレートを付けていることは、噛むといけないから代理の者に申さしむこと、そして文字を書いてカンニングペーパーを使って申さしむことをしている。
亀の背中に「字(な)」が書いてある。「書く」は「掻く」と同根の語である。爪を立てて引っ掻くことをする。誰がどうやって書いたか気になるところである。記述は他にないから、他者が書いたのではなく、亀自身が書いたとしか考えられない。そして、「詰(つめ)の遊び」と歌われていた。「爪の遊び」と受け取ることができる。亀自身が亀の背に自分の手で書いた。なぜなら、海辺に棲息するカメノテは、古語に「石花(せ)」という。「背(せ)」と同音である。上手に書いてあるのなら、「甲」と書くべきであった。字の上手な人は、「手師(てし)」と呼ばれ、万葉集に「義之」(万394・664・1324・2064・2066・2578)と記されている。能書家の王義之(303~361年)をもじって戯書として用字が行われている。
かくて、名ある限りは、〈物ノ師ヲ率(ゐ)テ下シ〉、手師(てし)、絵師(ゑし)、作物所(つくもどころ)の人々、ミヤこの鍛冶なルを、所々に多く据ヱて、……(宇津保物語・吹上上)
書道の先生の猿真似したから、「甲」にならずに「申」字になったということである。テ(代)という語は、代わりとなるもの、代償のことも指す(注16)。手(て)の代(て)ほどテなるものはない。くるる鉤ほどのテはない。
是に阿俄能胡(あがのこ)、乃ち己が私(わたくし)の地(ところ)を献りて、死(しぬるつみ)贖(あがな)はむと請(まを)す。故、其の地(ところ)を納めて死罪(しぬるつみ)を赦(ゆる)す。是を以て、其の地を号けて玉代(たまて)と曰ふ。(仁徳紀四十年是歳)
「玉手の家」とあったのは、「玉代の家」という意に通じている。代わりの家はご用意しましたと歌っていることになる。つまり、法隆寺火災後の歌として、焼け跡から出てきてお住まいなさい、と仮設住宅を斡旋しているとも受け取ることができる。「玉手の家の八重子の刀自」を、「玉代の家の八重子の刀自」と読み替えることが可能でしょうと呼び掛けている。命に代えられるものはない。
字を書いている。法隆寺のことだから、上等な紙に書いた。装潢の施された紙のことは染紙(そめがみ・しめがみ)という。「染(しめ、メは乙類)」である。皇太神宮儀式帳に載る忌詞に、「経を志目加弥(しめかみ)と云ひ、」とある。黄色い紙であることも多い。亀も「上黄下玄」と捉えられている。大きさは「六寸(むき)許(ばかり)」とある。「六寸(むき、キは甲類)」は「向き」に同音である。どちらの方へ行ったのか、それがわかるのが「踨血(はかり)」である。手負いの動物が逃げて行ったあとに、血のしたたりが点々と残っているので、それを手掛かりにして追っていく。それを「踨血(はかり)」という。和名抄に、「照射〈踨血附〉 続捜神記に云はく、聶支、少(わか)き時、家貧しく、常に照射をし、一の白鹿を見て之れを射中てつ。明晨に踨血を尋ぬ。〈今案ずるに俗に照射を止毛之(ともし)、踨血を波加利(はかり)と云ふ。〉といふ。」とある。
亀の手で字を書いたとしたが、「亀手(キンシュ)」はひび切れた手のことをいう。
宋人に善く不亀手の薬を為(つく)る者有り。(宋人有下善為二不亀手之薬一者上。)(荘子・逍遥遊)
亀は硬い背に文字を手で掻き書いて、あかぎれができてしまい、歩くたびに血をつけて行った。おそらくは徘徊(たもとほ)るように進んだのであろう。亀は袂で地面を掘るようにしながら歩いていく。血糊までつけているから足取りがばれてしまった。あかぎれのことは、古語に「皹(かかり、かがり)」という。
稲舂けば 皹(かか)る吾(あ)が手を 今夜(こよひ)もか 殿の若子が 取りて嘆かむ(万3459)
皹 漢書注に云はく、皹〈音軍、阿加々利(あかがり)〉は手足の拆裂也といふ。(和名抄)
「足皹(あかがり)」は足のあかぎれで、手のあかぎれは「手皹(てかがり)」、つまり、手掛かりのこととわかる。何の手掛かりかと言えば、第一に亀が川からどこへ行ったかであるが、第二に、水流れ、すなわち、失火原因である。カガリには、同音に「篝(かがり)」がある。手に篝火を持っていたのが燃え移り広がったため、法隆寺は全焼したと言っているようである。回廊を行くのに篝火を灯していたのが、袂に燃え移ったのであろうか。そして、火が回ったのは、ぐるりとめぐり囲む回廊の「八重子」であり、安全対策がかえってまずかったと言っているようである。
どちら方面へ行ったか追跡できることは、道しるべ、道標のことを意味する。つまり、「六寸許」とあったのは、道の標識、標(しめ)のことである。手が皹になっているとは、皮膚が裂けていることで、「裂け(ケは乙類)」は酒と同音である。酒を入れておくのは、「甕(かめ、メは乙類)」である。亀と同音である。登場するヤマトコトバがことごとく循環論に解説されている。
亀(かめ、メは乙類)、ならびに、甕(かめ、メは乙類)の語源は十分には解明されていない(注17)。筆者はいわゆる語源なるものを求める立場に立たない。そうではなく、万葉集の用字などから、上代の人々が感じていたと想定される語感を重視している。言葉とは、それが使われていた当該時代の共通認識を映す鏡である。カメ(メは乙類)という言葉については、動詞「噛む」の已然形カメ(メは乙類)との共音性が重視されて認識されていたと感じられる。言葉の音に忠実にして真面目なのか、洒落を言ってふざけているのかわからない。基本的に無文字文化のなかで暮らしているから、音だけが頼りの言語活動の特徴があらわれている。
酒を入れておく甕(かめ)とは、口噛み酒であった時代、すでに噛んでしまったものを吐き出して入れておき、発酵させてお酒とした容器である。亀(かめ)は亀卜に使われ、漢字のもととなった象形文字がそこに書かれていることが知られていた。流暢にお話しすることができず、すでに噛んでしまった人たちにはカンペが必要である。それを見ながら確認して読み上げたのである。
これら一連のトートロジカルな説明が正しいことは、「背(せ)」と同音に、「諾(せ)」という語があることからも確かめられる。
鹿父(かかそ)の曰く、「諾(せ)」といふ。即ち言へるを知れり。(仁賢紀六年是秋)
「諾(せ)」は語義的には yes よりも all right に近い。確かにすべてそのとおりであると言っている。亀甲の重なり合う情景は、屋根瓦の葺かれた様子に似ていたが、日本に棲息するニホンイシガメ(カハカメ)は、中国の種と違って背甲が黄色っぽくて腹甲が黒い。あべこべが問題というよりも、屋根瓦風にあってほしい背甲が黄色くて、まるで焼けてしまったかのような様子になっていた。法隆寺火災の後兆をいうにふさわしい言葉が選ばれている。
以上、言葉の数珠つながりをたどって本文を読んできた。最後に、この童謡ならびに「申」字亀の記事を据えることで、日本書紀は何を伝えようとしているのか検討しておく。前後の記事から、可能性として、祝詞を「書」く書記法とのかかわりを窺うことができる。仏経ではないメイドインジャパンの経、祝詞が、読み上げられるためにはじめて記された頃のことである。直前の三月などに中臣氏が祝詞をあげた例や、直後に賀正事や神事を述べたことが見えている。
三月の甲戌の朔壬午に、山御井(やまのみゐ)の傍(ほとり)に、諸神(かみたち)の座(みまし)を敷きて、幣帛(みてぐら)を班(あか)つ。中臣金連(なかとみのかねのむらじ)、祝詞(のりと)を宣(の)る。
時に、中臣の遠祖(とほつおや)天児屋命(あまのこやねのみこと)、則ち以て神祝(かむほ)きを祝(ほさ)しき。(神代紀第七段一書第二)
大錦上蘇我赤兄臣と大錦下巨勢人臣と、殿(みあらか)の前に進みて、賀正事(よごと)奏(まを)す。(天智紀十年正月)
大錦上中臣金連、命(みことのり)にして神事(かむごと)を宣(の)る。(天智紀十年正月)
神代紀の例は、「神祝」とあって「祝詞」とはない。文字を読んでいるのではないと推測される。天智紀十年正月の「賀正事」は懐から書いたものを取り出して読むほどのことではなかろう。「命宣二神事一」のほうは、中臣金が天皇に代わって神事(かむごと)を宣言しているから、祝詞同様、台本が作製されていたと推測される(注18)。「背書二申字一」の「亀」の出現とは、それまでなら口頭でしか行えなかったヤマトコトバの伝達が、書いておいてそれを読み上げれば可能なほどに、メモ体を獲得していたということになる。いわゆる宣命体が出来上がった。宣命は、続日本紀にあるとおり、天皇が読み上げるものである。その書記方法は、天皇の代わりに天皇の言葉を申し述べるために台本化されたものであったのであろう。どうやら祝詞が宣命に先んじているようである。その歴史的経緯を示していると考えることはできる。
けれども、法隆寺火災の後兆として、月を跨いで2つの事例が述べられている点からすれば、法隆寺が全焼したことが、当時の人々にとって相当にショッキングな出来事であったことを物語っているのであろう。カオスの扉が開いてしまった。消化するのに時間がかかった。ひと月、ふた月経ながら、どういうことであったのか、思い定める作業が人々の頭のなかで繰り広げられた。つまり、言が事に追いつくのに、2か月を要したということである。結果、ワザを使った歌と、ワザを使った一文が生まれている。飛鳥時代の人たちが、信仰と懐いているとでも呼べるほどに、言葉に対する熱意が感じられる。なまなましい体験の物語化のために、ヤマトコトバはフルに活用されてその役割を余すことなく果たしていた。それが無文字時代の言葉であったといえるのであろう((注19)。
(注1)新撰字鏡に、「謡 三形作、与招反、平、独歌也、徒空也、又徒歌謡と為(す)、是也、和佐宇太(わざうた)也」とある。語義として、「物に託して世情を諷刺する歌謡。」(角川古語大辞典⑤994頁)と解釈されている。この理解は再検討されるべきであろう。ワザ+ウタのワザの説明が不明瞭である。結果的に世情を批判する諷喩歌となり、また、中国の史書の用法にならって挿入されたものではあっても、なぜそれをヤマトコトバにワザウタと称しているのか。岩波古語辞典に、「ワザは隠された意味の意」(1389頁)、時代別国語大辞典に、「神の意が人の口をかりて、時の異変を知らせるもの(一種のワザ)と信じられていた。」(817頁)、白川1995.に、「「わざ」はある隠された意味を持つもの。」(801頁)と同様の解説が行われている。しかし、歌の外に何か呪言すべきことがあってそれを伝えるからワザというのではなく、歌自体が多義的に捉えることが可能でありながら、実は一つの意へ収斂するような技巧があるからワザと呼んでいると考える。
(注2)法隆寺火災と関連づける説に、荷田春満・日本紀歌剳記、壬申の乱に向けて大海人皇子が吉野へ去ることと関係づける説に、賀茂真淵・日本紀和歌略注、河村秀根・益根・書紀集解、わからないとする説に、釈日本紀・和歌六の「凡童謡、意未レ詳。」がある。
(注3)土橋1976.に、「『言別[橘守部・稜威言別]』に法隆寺火災は四月三十日であるのに、五月に童謡が歌われたとするのは、「記し後れたる」もので、「此童謡は、四月壬申日より以前に歌ひしにぞやある」といっているが、これは童謡を事件の前兆ないし予言だと考えるからであって、事件のあとでその兆(後兆)が現われることもあるのであり、「五月」で問題ない。」(371頁)とする。
(注4)皇極紀二年十月条の紀107歌謡は、山背王滅亡の前兆、同三年六月条の紀109~111歌謡は、大化改新の前兆、斉明紀六年是歳条の紀122歌謡は難訓で不明、天智紀十年正月是月条の紀125歌謡は、渡来人に冠位を授与したことを諷喩、天智紀十年十二月の紀126~128歌謡は、天皇崩御につづく皇位継承をめぐる争いを諷喩したものとされている。
(注5)後漢書・五行志・二に、「十三年八月己亥、北宮盛饌閤火。是時和帝幸二鄧貴人一、陰后寵衰怨恨。上有二欲レ廃レ之意一。明年会得下二陰后挟二偽道一事上、遂廃遷二于桐宮一、以憂死、立二鄧貴人一為二皇后一。」といった例がある。
(注6)合田1998.91~106頁参照。
(注7)カドルのドの甲乙不明、また、カトルと清音とする説もある。
(注8)武田1956.355頁参照。
(注9)釈日本紀に、「多麻提能(タマデノ)。〈玉手也。所名也。〉」とある。
(注10)言霊信仰下で事=言であると完全に納得のいく物言いは、「真」意である。それを信仰面から神によってつかさどられていると置き換えて考えるなら「神」意と捉えることになる。とはいえ、神の呪言として現れたと考えるのは、頓智の才に長けた上代の人の考え方とは相容れない。言語能力が劣化した多くの現代人には、上代に繰り広げられている洒落が通じないため、ワザウタは神が与えた歌であるかのように見えてしまう。しかし、町に哲学者あり、という言い回しがあるとおり、実は今日でも知恵に富んだ言語生活を送る人は少なからずいる。巷ではなるほどと思わせる強力な定義づけが行われている。それは学問でも研究でもないから、議論の場に現れることはない。上代のヤマトコトバの場合、すべてが日常語で、その場所は巷間であった。すなわち、人はみな町の哲学者だったから、鋭く優れた巧みなワザを用いた歌が歌われて良しとされた。ワザを使って構成されたウタがワザウタである。
(注11)書紀集解に、「書二申字ヲ一者即壬申ノ之乱兆ナリ」とある。
(注12)書紀集解に、「按ニ周易坤卦曰、玄黄ハ者天地ノ之雑也。天玄而地黄而為二上下ヲ一者天地易レ位也。書二申字ヲ一者即壬申ノ之乱兆ナリ。」とある
(注13)白川1996.の「亀」の項に、「殷虚[ママ]出土の亀版には、その甲橋部分(腹背の連なる所)に貢納・修治者の名と数とをしるしており、各地から献納されたものである。」(244頁)とあるが、そのような知識を上代人が持っていたとは考えにくい。また、「申」は貢納者の名ではない。
(注14)天寿国繍帳の銘文が、亀の背にあしらわれていたことはよく知られる。拙稿「天寿国繍帳の銘文を内部から読む」(http://www17.plala.or.jp/joudaigonews/temujikuni.html)参照。
(注15)雄略紀に、「其の雷(かみ)虺虺(ひかりひろめ)きて」(雄略紀七年七月)と訓んでいる。
(注16)時代別国語大辞典は、タマデ(玉代)を命に代えるもの、魂(たま)+代(で)の意とする。テ(代・価・直)という代金、代わりとなるもの、の意を定めている。他の多くの辞書では、取り立てていない。
(注17)甕(かめ)については、カ(瓫)+ヘ(瓶)の複合語の音転とする説が有力視されている。
(注18)新編全集本に、「神事(かむごと)を命宣(みことの)る。」と訓み、「天皇のお言葉として中臣金が宣る。」(276頁)と注している。
(注19)現代社会の事と言との関係は、飛鳥時代のそれとはまるで違っている。ある言葉がキャッチコピーとして人々に受け入れられた時、社会問題が唐突に浮かび上がってくる。待機児童、孤独死、格差社会、ゲリラ豪雨といった言葉は、時宜を言い当てた言葉として多用されている。目の前のことを近視眼的に捉えてお題目としたがっている。本当にそうなのか、たとえば明治時代と比べてどうなのか、筆者には理解できない。そのように言うから殊更に問題視される傾向もあるようである。はるかに貧しく弱く翻弄されながら暮らしていた(/る)人たちが、不満を懐かずに一生を幸せに過ごす術を得ていたのは、事柄を置き去りにして言葉ばかりを追い求めることがなかったからであろう。上代、そんなことに右往左往しなかったのは、言=事とする言霊信仰が重しとして効いていたからであると言える。「狂言(たはごと)」や「逆言(およづれごと)」は相手にされなかった。
(引用文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見雅雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、1982年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見雅雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第五巻』角川書店、1994年。
合田1998.合田芳正『古代の鍵』ニューサイエンス社、平成10年。
小島1962.小島憲之『上代日本文学と中国文学 上―出典論を中心とする比較文学的考察―』塙書房、昭和37年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1990年。
白川1995.白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
白川1996.白川静『字通』平凡社、1996年。
新編全集本 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀③』小学館、1998年。
武田1956.武田祐吉『記紀歌謡集全講』明治書院、昭和31年。
土橋1976.土橋寛『古代歌謡全注釈 日本書紀編』角川書店、昭和51年。