古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

天智紀の法隆寺火災記事について 其の一

2018年11月22日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 夏四月の癸卯の朔壬申に、夜半之後(あかつき)に、法隆寺に災(ひつ)けり。一屋(ひとつのいへ)も余ること無し。大雨(ひさめ)ふり雷(いかづち)震(な)る。
 五月に、童謡(わざうた)して曰く、
 打橋(うちはし)の 詰(つめ)の遊びに 出でませ子 玉手(たまで)の家(いへ)の 八重子の刀自(とじ) 出でましの 悔(くい)はあらじぞ 出でませ子 玉手の家(へ)の 八重子の刀自(紀124)
 六月に、邑中(むらのなか)に亀(かはかめ)を獲たり。背に申(しん)の字(な)を書(しる)せり。上黄に下玄し。長さ六寸(むき)許(ばかり)。(天智紀九年四月~六月)

 天智紀の五月・六月条については、ほとんど論じられていない。五月条の童謡(わざうた)(注1)については、直前の四月条の法隆寺火災に関する童謡とする説と、天智天皇崩御後の壬申の乱に関する童謡であるとする説、わからないとする説がある(注2)。紀の記述に、童謡は事件の記述に近接して書かれているから、壬申の乱のことを示唆するものではなく、法隆寺火災のことを諷喩するものであったとする説が優勢になっている(注3)。漢書・五行志に、時事ネタや天変地異にからめて多くの童謡を載せているのに倣い、皇極・斉明・天智紀に童謡が記されているとされる。

 于時有童謡曰、(皇極紀二年十月)
 于時有謡歌三首 其一曰、……(皇極紀三年六月)
 有童謡、(斉明紀六年十二月)
 童謡曰、(天智紀九年五月)
 童謡云、(天智紀十年正月是月)
 于時童謡曰、(天智紀十年十二月)

 「童謡」、「謡歌」をともにワザウタと訓んでいる。「于時」という表記のある例とない例がある。また、「有」として存在していたことをいう場合とそうでない場合がある。事件がある前から歌の方が先行していたら「有」とし、予兆としてあったことをいうようである。対して、「童謡曰」、「童謡云」とぶっきらぼうに示す場合は、事件が起こってからそれに続く形で「童謡」が歌われているものと考えられる(注4)
 紀124歌謡の場合、四月に法隆寺火災の記述がある。六月に「邑中獲亀」の記述がある。その間の五月に、童謡が記されている。ぶっきらぼうに「童謡曰」と書いてある。「時」という時間の指示による事件の指定がない。また、「有」という市中に渦巻いていたといった状況説明もない。訓み方として、「童謡(わざうた)して曰く、」とされている。誰かが「童謡」として作り上げたということを示唆するようである。予兆としての性格をもつ巷間に流布した歌ではなく、起こったことの説明として童謡が作られたことを意味するものと考える。小島1962.は、後漢書五行志の女人と火災との関係記事をあげている(注5)。漢籍の伝えるところでは、女人の怨念が火災につながったと語る。因果関係に相同性が認められないから、漢籍に学んで作られた童謡とは捉えられない。
 法隆寺は仏教寺院である。仏教では、火事から逃げて外へ出るように誘う有名な話がある。法華経・譬喩品にある三車火宅の話である。火がついて燃えている火宅の中で火事とは知らずに遊んでいる子供に、羊車・鹿車・牛車のおもちゃをあげるからと屋外に出させて助けている。比喩として語られている。紀124歌謡がそれに学んだ童謡かと言えば、内容の一致点が「遊び」にしかなく、五行志同様、こじつけることはできない。
 歌に、「玉手(たまで)の家(いへ)の 八重子の刀自(とじ) 出でませ子」と呼び掛けている。相手の女性は厳重な門のなかにいるらしい。ご深窓の令嬢はなかなか出て来れない。いくつも門があって鍵がかかっているようにイメージされている。現在でも、それ相応のお嬢様には門限がある。門に鍵をかけて大切にする。門の鍵を握っているのはその家の主である。門(かど、ドは甲類)を掌握することが、その家を掌握することで、刀自(とじ)がその鍵を握っている。よって、刀自が家屋の主である。白川1995に、「「門(かど)立てて戸は闔(さ)したれど」〔万三一一八〕のように、門には戸を閉めたものである。」(236頁)と指摘する。新撰字鏡に、「杙 弋字に同じ。餘職反、樴は之れを杙と謂ふ。即ち橛也。久比(くひ)、又加止佐志(かどさし)」、和名抄に、「門〈門舎附〉 四声字苑に云はく、門〈加度(かど)〉は、通りて出入りする所以也といふ。……」とある。
 門の鍵として、海老錠や南京錠の弱点は、扉が木製で錠前部分だけを金属製にするところにある。その金属部分の取り付けごと全部引っ剥がしてしまえば、鍵の役割が失われる。どんなに分厚い扉も、錠前が壊されてしまえば、薄くてもろい扉と同じことになる。法隆寺では、諸堂にも、また、敷地を取り囲む回廊のところにも鍵がかかっている。だから「八重子の刀自」である。その鍵の特徴として、内側からかける場合には閂が厳重で効果的だが、最後に戸締りして外へ出る際には、外側から閉める形式のものが用いられる。そこで少なくとも1か所は、落とし桟にした。したがって、「八重子の刀自」が管理している鍵は、法隆寺に今も使われている落とし桟を引き上げるためのくるる鉤であろう(注6)
法隆寺の落とし桟(左:金堂、右:西金堂)
枢(くるる)戸(復原品、Wikimedia Commons、Fuchu氏「Kururu.lock.jpg」、https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kururu.lock.jpg)
 群玉(むらたま)の 枢(くる)に釘刺し 固めとし 妹が心は 揺(あよ)くなめかも(万4390)

 落とし桟のことは、落とし猿ともいう。どうして猿と言ったかについては、鉤の曲がった手を伸ばすところが、ニホンザルが手を巧みに使っていたずらをすることに譬えたものと思われる。檻に入れてあっても隙間から手を出して鍵を開けて抜け出すようなことをふつうにする。「玉手(たまで)」とあるのは、美しい手を表わすとともに、うまく手を回して使うことを示すものであろう。くるる鉤を使って落とし猿を引っかけあげる技は、上手な手さばきでないとなかなかできない。ワザが必要である。鉤使いの巧みな技を歌うとき、通奏低音のように歌っているから、ワザウタであるともいえる。そして、干支や方位を表わすサルは、「申」の字を使う。話が六月条に続いていっている。
 管理、管轄することは、カドルともいう(注7)

 爾(いまし)、車持君と雖も、縦(ほしきまま)に天子(みかど)の百姓(おほみたから)を検校(かど)れり。(履中紀五年十月)
 長門より東をば朕(われ)制(かど)らむ。筑紫より西をば汝(いまし)制(かど)れ。(継体紀二十一年八月)

 門(かど、ドは甲類)だからカドルである。そんな何重にも囲い廻らされた伽藍の門から出ておいでと誘っている。火事になると言っている。火事になった後で童謡が歌われることを不自然とする考えは、童謡が予兆であるとの考えに立つ。しかし、五月条には、「童謡曰」とあって、予兆を示す際の「童謡」の示し方、「時有童謡曰」とないのだから、予兆でなければならないことはない。事(こと)を言(こと)として表すのに、技を使った歌として歌ったものがこのワザウタであろう。その時にあったものではなくてひと月遅れの歌であるが、事件を言葉に直して技巧的な歌とした。
 「打橋」は、板を架け渡しただけの橋のことである。石橋や舟橋など常設の橋に対して、板や丸太を両岸に打ち渡した仮設橋である。ハシは梯子のことも表わすから、架橋の意を伝えるためにウチハシと呼んでいるともされる(注8)。「詰(つめ)」は橋詰のことを言っていて、橋のたもとのことである。「玉手の家」は、タマデを地名とする説が大勢である(注9)が、きれいな手、うまい具合のアームのことを指しているのであろう。ことさらに手のことを意識させている。橋のたもとのタモトは、タ(手)+モト(本)の意である。袂(たもと)のことが持ち出されている。袂が気になるのは、筒袖の上にゆったりした袖のある着物を上から重ね着しているからであろう。十二単ほどではないが、何重にも着重ねているとするから、それは、「八重子」という表現につながっている。
 歌いかけて誘っているのは男性で、仮設の橋詰まで出ておいで、と呼び掛けている。橋を渡った反対側の岸のところまででいいから出てくるように諭している。

 住吉(すみのえ)の 小集楽(をづめ)に出でて 現(うつつ)にも 己妻(おのづま)すらを 鏡と見つも(万3808)
 竹河の 橋の詰(つめ)なるや 橋の詰なるや 花園に ハレ 花園に 我をば放てや 我をば放てや 少女(めざし)伴(たぐ)へて(催馬楽・竹河)

 橋詰で行われた遊びは、歌垣のことと推測されている。歌垣で歌を歌って求婚の遊びのコンパに誘う歌が童謡(わざうた)であると考えれば、歌のための歌という意味合いからもワザを使っていると感じられて納得がいく。ただし、あくまでも手段として、火災から免れるよう誘っているにすぎない。
 
 背の山に 直(ただ)に向へる 妹の山 事聴(ゆる)せやも 打橋渡す(万1193)

 角川古語大辞典に、打橋は、「架け外しのできる簡単なもので、恋の通路として描かれることが多く、女が男に許して、その訪問を受け入れるしるしの橋という意識があった。」(①418頁)と解している。「打橋」と言って仮設とするのは、持ち運んで別の場所に架け替えることも視野に入れている。今風に言えば、ビケ足場踏板は付け替えが可能であると言っている。つまり、自分1人の袂にずっととどまることを要求するのではなく、他の男の人のところへ橋を架けかえてかまわないという意味になる。袂は、もとは二の腕のことを言ったが、腕全体のことや、衣服の発達に伴って袖が下に袋状に大きくなって膨らんだところを指すようになっている。腕枕の意味で逢瀬を表わしている。

 還るべく 時は成りけり 京師(みやこ)にて 誰(た)が手本(たもと)をか 吾が枕かむ(万439)
 現(うつつ)にも 今も見てしか 夢(いめ)のみに 手本纏(ま)き宿(ぬ)と 見れば苦しも(万2880)
 白たへの 手本寛(ゆた)けく 人の宿(ぬ)る 味宿(うまい)は寐(ね)ずや 恋ひわたりなむ(万2963) 
 風の音(と)の 遠き吾妹(わぎも)が 着せし衣(きぬ) 手本のくだり まよひ来にけり(万3453) 

 袂(たもと)をあたかも動詞化したのではないかと思われる音の言葉に、タモトホルがある。タモトホルはモトホル(廻)に接頭語タのついた形である。周囲をまとうようにめぐる意である。万葉集では「徘徊」の字があてられている。徘徊老人のように思い惑いながら常同行動をとる。枕詞タモトホリにもなっている。焼失前も再建後も、法隆寺にはまとうように回廊や塀がめぐらされている。出入りするには門しかない。

 …… 言はむすべ 為むすべ知らに 徘徊(たもとほ)り 直(ただ)独(ひとり)して 白たへの 衣袖(ころもで)干さず ……(万460)
 …… 手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて 徘徊(たもとほ)り 吾はそ恋ふる 船梶を無み(万937)
 見渡せば 近き里廻(さとみ)を たもとほり 今そ吾が来る 礼巾(ひれ)振りの野に(万1243)
 徊徘(たもとほ)り 往箕(ゆきみ)の里に 妹を置きて 心空なり 土は踏めども(万2541)
 神風(かむかぜ)の 伊勢の海の 大石(おひし)に 這ひ廻(もとほ)ろふ 細螺(しただみ)の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ(記13)
 なづき田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 這ひ廻ろふ 野老蔓(ところづら)(記34)
 否と言へど 語れ語れと 詔(の)らせこそ 志斐(しひ)いは奏(まを)せ 強語(しひかた)りと言ふ(万237)
 𧾍 除連反、転也、信也、移也、毛止保留(もとほる)(新撰字鏡)

 法隆寺のめぐりは再建前も環濠ではなかった。「打橋の」と歌い始めることは、具体的に寺域に暮らす人を火事から逃れさせるように語るものではないとわかる。濠に隔てられて逃げられないのではなく、門塀によって区切られている。それを「打橋の」と言って、水による隔離に見立てている。その理由は、忌詞に火災のことをミヅナガレというからである。火災=水流れ→川→打橋と連想を進めている。

 日日夜夜(ひるよる)、失火(みづながれ)の処多し。(天智紀六年三月)
 橘寺の尼房(あまむろ)に失火(みづながれ)して、十房(とをのむろ)を焚(や)く(天武紀九年四月)

 そして、法隆寺火災の日、川の水が溢れ流れるほど「大雨(ひさめ)」が降った。川の水が溢れ出て邑に達している。だから、「亀(かはかめ)」が「邑中」で見つかっている。五月条の歌謡から、六月条の亀の記事にゆくりなく続いて整合している。
日本に在来のカハカメは、ニホンイシガメと推定される。ふつう川の上・中流部にいて、陸に上がるにしても川から遠ざかることはない。川の中に突き出た岩の上や河原で甲羅干しをする。河原までしか出ないことに着目すれば、カハラという言葉(音)に注意が向く。法隆寺は寺院建築だから屋根は瓦葺きである。瓦葺きとは、火事の延焼に備えた対策である。なのに焼けてしまった。「失火(みづながれ)」とは水流れの意で、他の忌詞同様、反義をもって表わそうとしている。かなり皮肉の利いた忌詞である。川の水が邑まで流れるほど、大火による上昇気流によって生じた雨が豪雨になっている。法隆寺の瓦は、河原としての役割を果たさなかった。河原の方も大雨過ぎて、河川敷としての機能、すなわち、氾濫しないための貯水域たる機能を果たさなかった。洪水になって邑も浸水した。邑にある家々は竪穴式住居だから、すべて床上浸水で生活に支障をきたした。
 そのことは、すでに起きてしまった事件である。事柄が現れている。それを言葉に直した。上代の言霊信仰の下では、言葉と事柄とは相即関係にある。事がすでに起きてしまっていることとは、言もすでに言ってしまっているということである。それを言葉に直す場合、カメをモチーフにすることは目的にかなう。すでに噛んでしまっているから「噛む」の已然形カメ(メは已然形)である。同音の言葉、亀(かめ、メは已然形)が登場している(注10)
草を噛んだガラパゴスゾウガメ(上野動物園展示)
 六月条に、「邑中獲亀。背書申字。上黄下玄。長六寸許。」とある。この記事については、諸説とも「申」は壬申の申の字だから、壬申の乱の予兆を意味すると解釈している(注11)。けれども、五月の童謡は壬申の乱とは関係がないのだから、六月の亀の記事も壬申の乱の兆しと捉えることは出来ない。そのうえ、法隆寺火災の日は、「壬申」の日である。
亀は「邑中」で見つかったが、何邑で見つかったのか地名の固有名はない。瑞祥、異瑞記事は、確かな証拠として地名を特定させるものである。

 二月の庚午の朔戊寅に、穴戸国司(あなとのくにのみこともち)草壁連醜経(くさかべのむらじしこふ)、白雉(しろきぎす)を献りて曰さく、「国造首(くにのみやつこのおびと)が同族(やから)贄(にへ)、正月の九日に、麻山(をのやま)にして獲たり」とまをす。(孝徳紀白雉元年二月)
 夏五月の庚午の朔に、空中(おほぞらのなか)にして龍(たつ)に乗れる者有り。貌(かたち)、唐人(もろこしのひと)に似たり。青き油(あぶらぎぬ)の笠を着て、葛城嶺(かづらぎのたけ)より、馳せて膽駒山(いこまやま)に隠れぬ。午の時に及至(いた)りて、住吉(すみのえ)の松嶺(まつのみね)の上より、西に向ひて馳せ去(い)ぬ。(斉明紀元年五月)

 固有名詞が付されないのは、一般的な概念として、瓦=河原の役立たずの意を形容していよう。法隆寺火災の後兆、ないしは結果を述べている。
ニホンイシガメ(上野動物園展示)
 亀の様子を表すのに「上黄下玄」とある。この点について、千字文冒頭の「天地玄黄」と見比べて、上下が逆転しているとの見方が行われている(注12)。誤解であろう。ニホンイシガメは、外見上、背中の甲羅(背甲)が黄色くて、お腹の甲羅(腹甲)は黒い傾向にある。きちんとそのままを「上黄下玄」と記している。特に言葉が入り組んでいるわけではない。中国で亀卜に使われたカメ(クサガメ、ハナガメ等)は背中が黒く、お腹が黄色い傾向にある。亀の種類が異なることを、天地の反転のような大それたことに結び付けたとは考えにくい。「長六寸許」とあるのも具体的な記述である。体長がおよそ18cmほどであると報告することに奇異な点はない。漢籍との関わり以外で、上代の人が知恵を凝らした跡に気づかなければならない。
 「背書申字」とある。甲骨文字を記すべき腹側にあるはずの黄色い甲羅が、本邦では背側にあって、「申」という「字」が「書」されていたとしている。亀卜のやり方としては、薄い腹板を使って裂け目を見ていく。本邦では、背甲が黄色くなっていて、あるいはそれを使って占おうとしたが、するまでもなく最初から表に出ていた。「申」という「字」がすでに「書」いてあって、その「亀(かはかめ)」は動いていた。生きていて歩いていて「邑中」に登場している。紀の傍訓に従って読めば、「背に申(しん)の字(な)を書(しる)せり。」となる。「字」はナ(名)として、「亀」の「背」に「書」されている(注13)。誰が書いたのか、大いに疑問である。
 亀の背中に字が現われることについては、上代の人に連想があった(注14)

 ……知らぬ国 寄し巨勢道(こせぢ)より 我が国は 常世にならむ 図(ふみ)負へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の河に 持ち越せる ……(万50)
 己卯、左京職、亀を献る。長さ五寸三分、闊(ひろ)さ四寸五分。其の背に文(ふみ)有りて云はく、「天王貴平知百年」といふ。(続紀・天平元年六月)
 ……図(ふみ)負へる亀一頭(ひとつ)献らくと奏し賜ふに、……(続紀・天平元年八月・6詔)

 甲骨文字の伝えにより、文字が亀の背に現れていると考えることは、亀甲の角張りからして漢字に似ていて了解し得る。ここで、亀にナ(名)が記されていて、大きさまで決められている。「長六寸許」の「六寸(むき)」という指定は、何のために行われているのか。亀の「背」は甲羅だから、漢字一字に「甲」である。それがちょっと上に突き抜けると、「申」という「字」になる。「背」字は、説文に、「背 𦟝也。肉に从ひ北声。」とあり、和名抄に、「背 玉篇に云はく、脊〈資昔反、世奈加(せなか)〉は背也といふ。」とある。身の背後のことから、背(そむ)くことをいう。違背、背反、背馳の意味と、「申」の申し上げるの意とは意味が逆である。上申するのは、お上に従っているからすることである。背いていたらしない。本邦では亀の種類が違って、腹甲が背甲とがひっくり返っている。しかも亀卜する前から文字が現れている。その文字自体が言葉を「申」している。これらの事態をひっくるめてトートロジカルに表明している。
 「申」字は、「神」字の初文である。したがって、「大雨(ひさめ)ふり雷震(な)る」の「雷」を北野本にイカヅチと訓むのは誤りで、「雷震」はカミナルと訓むべきであろう(注15)。雷とは神の神意の発現と考えられていた。だから、亀の甲が「甲」ではなく、「申」と突き出た字がネームプレートになっている。筆者は、「申」字をシンと読むことに戸惑いを覚える。撥音便ンは大陸から来た人の名に使われていたと考えられている。しかし、干支の「壬申」をジンシンとは発音していなかった。ミズノエサルと訓んでいた。サルの意が落とし猿に通じることと、法隆寺火災の日が壬申であったことはすでに述べた。
 「申」の字音表記には、仏典や古字書にシンとシムが見られる。撥音のンを訛らせた例に、「伊甚(いじみ)」(安閑紀元年四月)、「丹波(たには)」(崇神紀十年九月)、「難波(なには)」(神武前紀戊午年二月)、「大錦冠(だいきむのかうぶり)」(孝徳前紀)、「多臣品治(おほのおみほむぢ)」(天武紀元年六月)、「沈水(じむ)」(推古紀三年四月)などがある。「申」字の音の可能性として、シミ、シム、シメなどが考えられる。亀卜のこととして字が現れたように記されている。占いのことをいうのであれば、「占(し)む」という語が理知的である。領有権を主張して標識を立てて明示して入ってこないようにすることである。「知る」や「記す」と関係がある語と考えられている。また、その名詞形、「標(しめ)」は、棒や杙を立てたり、縄を張りめぐらせて、他者の侵入、侵害を禁ずるものである。神域をしるすためにも行われている。和名抄に、「競馬〈標附〉 本朝式に云はく、五月五日競馬〈久良閇无麻(くらべむま)〉は標〈標は師米(しめ)と読む〉を立てるといふ。」とある。つまり、法隆寺の寺域をしるすためにも行われていた門塀の区切りや落とし猿の門立てのことを、標(しめ)と言っていると考えられる。

 後れ居て 恋ひつつあらずは 追ひ及(し)かむ 道の阿廻(くまみ)に 標(しめ)結へ吾が背(万115)
 印(しめ)結ひて 我が定めてし 住吉(すみのえ)の 浜の小松(こまつ)は 後も吾が松(万394)

 歌謡に「八重子の刀自」とあり、「亀(かはかめ)」の「邑中」に出てきていた。さかんに境界の存在を意識した物言いが行われている。「申」はシメ(標)と発音するのが適切である。メは乙類、動詞「占む」の連用形名詞である。火災後に大雨が降って鎮火している。中古語に、「湿(しめ)る」という。水分を含んでしっとりすること、火が消えることをいう。

 おほかた雨にもしめりて、艶(えん)なるけしきのめづらしげなき事なれど、いかでか言はではあらむ。(枕草子・190段)
 それにぞ、おきていでてこたへなどして、「火しめりぬめり」とてあかれぬれば、いりてうちふすほどに、……(蜻蛉日記・下)

 また、今日では、戸締りという。「八重」にめぐらされて戸締りされたと歌っているものと推測される。白川1995.の「しまる〔結・締〕」の項に、「他動詞「結(し)む」(下二段)のような語があって、自動詞として派生したものであろうが、その語は上代に用例がみえない。「しばる」と同系の語で、m~bの交替例とみてよい。」(400頁)とする。記の歌謡の例をあげている。

 大君の 御子の柴垣 やふじまり しまり廻(もとほ)し 截(き)れむ柴垣 焼けむ柴垣(記109)

 ヤフジマリは「八節締り」の意と解されている。結び目の数が多いとされるが、すだれに譬えると長さが長いほど締り目は多くなる。紀109歌謡も、ぐるりとめぐるからヤフジマリになる。白川1995.の仮説にあげている他動詞「結(し)む」の連用形名詞を仮定するなら「結(し)め(メは乙類)」となり、「標(しめ)」に同じである。門刺すこととは落とし桟を立てることである。仏域を区切るのに用いられている。戸締りをしっかりして、その内側を確かに占有、占拠している。中国で周代に洛陽を居城とするのに、うらないをもって決めたから「占」字が使われている。亀が登場していたのは卜占つながりでもある。

 ……成王、召公をして居を卜し、……(成王使召公居。)(史記・周本紀・第四)
(つづく)

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