風と光と大地の詩

気まぐれ日記と日々のつぶやき

秋の景色に思わず通勤の車を止め

2019年09月25日 | 日記
秋になって空気が澄んでくると、遠くの山がくっきりと近く見えるようになる。
昨日は思わず通勤途中、車を道路の端に寄せ写真を撮ってしまった。

赤城山の右肩にのぞく山は桐生方面の山(鳴神山など)

赤城山と榛名山の間に見える2つの峰。左は小野子山、右は子持山。
黄色くなっている稲もあるが、まだ稲刈りにはならない。

榛名山。こちらの稲もまだ青い。

赤城山。雲が低い。電線が低い。

赤城の鍋割山のアップ。名前は鍋を伏せた形から?




高崎鼻高でコスモスを見る

2019年09月23日 | 日記
上越・北陸新幹線から見ると高崎駅の西方に観音山という小高い山が見える。実際、昭和の初期に作られた観音様が頂上に立っているのだが、この山の上の方は結構平らになっていて、いろいろな施設がある。昔はフェアリーランドという遊園地やカッパピアという流れるプールもあったが、今は廃れてしまった。その観音山の西北側、だるまで有名な少林山達磨寺の近くに鼻高という地域があって、毎年地域の人たちが遊休農地を利用して季節の花を植え、シーズンには駐車場に車があふれるほど人が集まる。きのうは雨の予報だったが雨の降らぬ間にと、ちょっと出かけてみた。

雲が多く妙義山がぼんやり見える。近い榛名山も霞んでいる。

小高い山の上で見晴らしがいい。まだ花をつけないコスモス畑の向こうは赤城山

コスモスの迷路が今年もできていた。

子供の身長だと本当の迷路になる。


近所に住んでいても普段会わない人にこういう所で会ったりするのが不思議だ。


彼岸になりすっかり秋めいてきた

2019年09月21日 | 日記
彼岸になりすっかり秋めいてきた。雨にならないうちに墓参りと考えて、今日の午後、三か所回る。
どこの墓地でももう墓参りを済ませたうちが多く、きれいな花が差してあり、鮮やかな赤い花が目立った。
うちの墓はお盆の時に差した花がすっかり枯れて汚らしくなっていた。
スーパーで買ったこの時とばかり高くなっている花とパックに入ったお萩、饅頭を供えて線香を手向けた。
近頃は、地震対策でか丈が低く横に長いお墓が増えているようだ。墓石に何々家の墓と書かず、感謝とか紲(きずなと読むらしい)という字が書いてあったりする。
父が死んで31年たち、三十三回忌のことをそろそろ考えなくてはと思う。



太田裕美さんのニュースを聞いて

2019年09月18日 | 日記
高校2年生の時に友人とコンサートに行った。
(今から43年前!のこと。その友人とは音信不通になっている)
田舎の孤独な男子高校生に、あの舌足らず(失礼!)の甘い声で
女の子の心のひだを語りかけるように歌うところが魅力だった。
(実際は松本隆という男が詞を書いていた)
小遣いを貯めてLPレコードを買った。
「心が風邪をひいた日」「手作りの画集」「12ページの詩集」など繰り返し聞いた。
「袋小路」という目立たない歌が好きだった。
(喫茶店であまり話せなかった女の子が好きと言っていたから)
あの頃はまだ人生は可能性に満ちていると思っていた。
還暦を迎える今年、足利で11月にコンサートがあると知ってチケットを買った。
ブログではがんの治療をしながら歌っていくという。頑張ってください。
そして11月にコンサートで歌声を聞くことを楽しみにしています。
今日の夕方、FMラジオで「木綿のハンカチーフ」が流れた時、思わず目頭が熱くなりました。




万葉集覚書3

2019年09月17日 | 万葉集覚書
何故、憶良の目にはこうした庶民の世界が見え、そこに自らの感情を移入して詠むことができたのだろうか。 
太宰府は中央政府の機関で旅人はその長官だが、憶良は地方政府の長官だったという違いは確かにある。しかし二人の歌に現れた違いはそうした立場の違いからのみ生まれたわけではないだろう。 
詳しい出自が分からず渡来人のルーツの可能性も指摘される憶良と、神武東征神話に遡る由来をもつ名門貴族の大伴氏という出身の違いもあるだろう。もしかすると憶良は庶民に近い所で生まれ育ったのかもしれないと想像することは許されるだろうか。 
身分の低い生まれでありながらその学識により遣唐使の随行に抜擢され、中国の科挙による高度な文治主義を目の当たりにした若い憶良が、知が何事かをなしうると信じ、愚直なまでの理想主義を抱いたとしても不思議はない。 
「われをおきて人はあらじと」と、ふと漏らした不遜なまでの矜持(自己戯画化はされているが)はそのことを語っているように思われてならない。 
万葉集の編者とされる大伴家持は、憶良と同じように地方長官である越中国司となり、同じように国情視察もしていたようだ。憶良にシンパシーを持っていたかもしれない家持が編んだからこそ、宮廷貴族から見れば異質の世界、庶民の歌も集められ、結果として後世に残ることができたかもしれないのであって、それは日本の文学史だけでなく世界の文学史にとっても、僥倖あるいは奇跡と言っていいのではないだろうか。(続く)