保坂和志のデビュー作。書店仲間から借りた。
こんなに眠くなる小説は初めてだった。と言うのは褒め言葉です。
出だしは下のように始まる。
「一緒に住もうと思っていた女の子がいたから、仕事でふらりと出掛けていった西武池袋線の中村橋という駅の前にあった不動産屋で見つけた2LDKの部屋を借りることにしたのだけれど、引っ越しをするより先にふられてしまったので、その部屋に一人で住むことになった。」
ふった女の子は、以後一切出てこない。恨みや後悔は微塵もない。一人で住むには大きい部屋に、アキラという映画好きの若者が転がり込んでくる。無職で写真ばかり撮っている。アキラもまた自分が悪いとはちっとも思っていない。ただ飯を食うのを当たり前のようにしている。アキラがよう子という女の子を連れてくる。彼女もどこから来たのかわからない。よう子は野良猫に餌を与えることを仕事とするようになる。30を過ぎたぼくがアキラとよう子を養う。ぼくはそれを不快にも重荷にも感じていない。むしろ楽しんでいる。そこに島田という小説家志望の男も転がり込んでくる。老人のように痩せていて、会社から帰ってくると上着だけ脱いでシャツにネクタイのまま布団に入って寝てしまう。早口にしゃべり、冒頭に口癖で「や」と言う。ああ島田とはそういう人なんだと伝わってくる。
季節は夏に移っていき、アキラが海に行きたいと言い出す。様々なバージョンの歌を歌いまくってぼくに要求する。海に行くなら車だろうということになり、運転手のゴンタをアキラが連れてくる。ゴンタもまた映画青年。いつの間にかビデオカメラを回している。そのゴンタに作者は自分の考えを語らせているように感じた。
「あの―。ぼくは物語っていうのが覚えられないんですよ。粗筋とか―」(207ページ3行目)
その後ゴンタの語りは続くのですが、要約するとこうなるでしょうか。殺人事件が起点となった物語ばっかりでうんざりしている。殺人なんて滅多に起きるものではい。それは不自然だ。ぼくは本当に自分がいるところをそのまま撮って、ドラマチックとは違う話に生きている、生きているが大げさなら『いる』っていうのがわかる映画を撮りたい。
まさにこの小説がそうです。劇的など一つもない。今は不連続の連続で、文章もまた滑らかに長くつながっていく。なにより会話がおもしろい。ボートを借りて海に出た5人は、約15ページにも渡って(212ページ~)会話を続ける。地の文、説明が一切ない。誰が話しているのかもわからない。伝えたいのは、そう、今ここにいるっていうこと。日常を振り返ってみるとき、たしかにおしゃべりほど楽しいひと時はないですよね。それがそのまま書かれている。退屈だからこそ眠くもなり、おしゃべりにも花が咲くということでしょうか。
ただ、これが時代ということなのでしょうか。この小説は1980年代の東京が舞台となっている(明確に指定されてはいませんが)。バブルの時代。景気のよい時代。絶望が弾けていない。無職でこんなに遊んでいる若者たちに共感ができない。僕はまじめだからということもあるでしょう。ふわふわと何にも手がつけられなかったら、僕は焦り不安を感じる。見えない引きこもりが100万人以上もいて、自殺者も年間3万人以上もいる時代に僕は生きている。時代の違いということを感じないわけにはいかない。給料なんか上がらない。女の子と住もうとして2LDKの部屋を借りることもできない。もっと空気は切実なものだと感じている。
しかし、これは小説だった。ということに、感想を書いている今気づくという不思議。保坂さんはカフカを愛していた。その影響で僕も『城』を読んだのだった。
よく言えば、全世界を肯定する小説。幸せな今の提示。
斬新で独特。だから文庫にもなって読み継がれている。
小説で大事なのは視点なのだ。作者の態度であり考えなのだ。芯がぶれないからこそおもしろい。読むことが楽しい。
保坂和志著/中公文庫/2000
こんなに眠くなる小説は初めてだった。と言うのは褒め言葉です。
出だしは下のように始まる。
「一緒に住もうと思っていた女の子がいたから、仕事でふらりと出掛けていった西武池袋線の中村橋という駅の前にあった不動産屋で見つけた2LDKの部屋を借りることにしたのだけれど、引っ越しをするより先にふられてしまったので、その部屋に一人で住むことになった。」
ふった女の子は、以後一切出てこない。恨みや後悔は微塵もない。一人で住むには大きい部屋に、アキラという映画好きの若者が転がり込んでくる。無職で写真ばかり撮っている。アキラもまた自分が悪いとはちっとも思っていない。ただ飯を食うのを当たり前のようにしている。アキラがよう子という女の子を連れてくる。彼女もどこから来たのかわからない。よう子は野良猫に餌を与えることを仕事とするようになる。30を過ぎたぼくがアキラとよう子を養う。ぼくはそれを不快にも重荷にも感じていない。むしろ楽しんでいる。そこに島田という小説家志望の男も転がり込んでくる。老人のように痩せていて、会社から帰ってくると上着だけ脱いでシャツにネクタイのまま布団に入って寝てしまう。早口にしゃべり、冒頭に口癖で「や」と言う。ああ島田とはそういう人なんだと伝わってくる。
季節は夏に移っていき、アキラが海に行きたいと言い出す。様々なバージョンの歌を歌いまくってぼくに要求する。海に行くなら車だろうということになり、運転手のゴンタをアキラが連れてくる。ゴンタもまた映画青年。いつの間にかビデオカメラを回している。そのゴンタに作者は自分の考えを語らせているように感じた。
「あの―。ぼくは物語っていうのが覚えられないんですよ。粗筋とか―」(207ページ3行目)
その後ゴンタの語りは続くのですが、要約するとこうなるでしょうか。殺人事件が起点となった物語ばっかりでうんざりしている。殺人なんて滅多に起きるものではい。それは不自然だ。ぼくは本当に自分がいるところをそのまま撮って、ドラマチックとは違う話に生きている、生きているが大げさなら『いる』っていうのがわかる映画を撮りたい。
まさにこの小説がそうです。劇的など一つもない。今は不連続の連続で、文章もまた滑らかに長くつながっていく。なにより会話がおもしろい。ボートを借りて海に出た5人は、約15ページにも渡って(212ページ~)会話を続ける。地の文、説明が一切ない。誰が話しているのかもわからない。伝えたいのは、そう、今ここにいるっていうこと。日常を振り返ってみるとき、たしかにおしゃべりほど楽しいひと時はないですよね。それがそのまま書かれている。退屈だからこそ眠くもなり、おしゃべりにも花が咲くということでしょうか。
ただ、これが時代ということなのでしょうか。この小説は1980年代の東京が舞台となっている(明確に指定されてはいませんが)。バブルの時代。景気のよい時代。絶望が弾けていない。無職でこんなに遊んでいる若者たちに共感ができない。僕はまじめだからということもあるでしょう。ふわふわと何にも手がつけられなかったら、僕は焦り不安を感じる。見えない引きこもりが100万人以上もいて、自殺者も年間3万人以上もいる時代に僕は生きている。時代の違いということを感じないわけにはいかない。給料なんか上がらない。女の子と住もうとして2LDKの部屋を借りることもできない。もっと空気は切実なものだと感じている。
しかし、これは小説だった。ということに、感想を書いている今気づくという不思議。保坂さんはカフカを愛していた。その影響で僕も『城』を読んだのだった。
よく言えば、全世界を肯定する小説。幸せな今の提示。
斬新で独特。だから文庫にもなって読み継がれている。
小説で大事なのは視点なのだ。作者の態度であり考えなのだ。芯がぶれないからこそおもしろい。読むことが楽しい。
保坂和志著/中公文庫/2000
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