泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

私の現代詩入門  むずかしくない詩の話

2007-11-16 01:31:47 | 読書
 帯に書いてある通り、この本を読んだら、詩はまったく初めて、あるいは詩なんか小難しくて、自己主張ばかりでごめんだね、という人も、きっと詩が好きになるでしょう。詩というものが、おぼろに見えるのではないでしょうか。
 僕が大きく肯いたのは、こんな文章です。

 おそらく、詩人とはその時代の言葉が通過する場所であり、装置であろう。

 または、こんな単語。

 詩とは、言葉の花。

 詩は、日常生活を営む中で、ふいに訪れる。どこから来るかと言えば、人間の共同体から。ユングの言う普遍無意識。僕の言葉で言えば、向こうであり、私ではないものであり、大きな命ということになる。
 谷川俊太郎でさえ、意識して書けない詩こそ、気に入っている(『公園又は宿命の幻』)と言っている。そしてそんな詩は、人生の危機、転機にこそやってくる。谷川さんの場合、その詩が現れたのは、母の痴呆とその介護、死と向き合っていたとき。僕の実感としても、自分がピンチのときこそ、詩は向こうからやってきます。だから僕は、自著の帯に、詩たちよ、ありがとうと書いた。
 ともかく詩は、味わうことだと思います。ということで、この本に載っている詩から、最も気に入った金子光晴の作品を紹介します。

 信頼

 かつて大きな悲嘆もしらず
眼前がゆき止まりになつたおぼえもなく
また、水のせせらぎ、雨の音の
すぎし日のなげきを語る秘語にも心止めたことがなく、

 妻は生涯背かぬもの、
日や月の運行とともに
一生は平穏無事なもの、
けふが昨日と同じだつたやうに
あすも又なんの屈託なしとおもふ、

さういふ人をさわがせてはならぬ。
さういふ人のうしろ影もふまず、
気のつかぬやうにひつそりと、
傍らをすりぬけてゆかねばならぬ。

さういふ人こそ今は貴重である。
さういふ人からにほひこぼれる花、
さういふ人の信頼や夢こそ、
ほんたうに無垢なのだ、荒い息もするな。

 金子光晴は、十代の半ばから、遊郭に毎晩通うような、海外に行くと言って、金がないからとりあえず海辺まで行ってしまうような人でした。そんな人が、五十過ぎてから書いたからこそ重い。それに、そんな事情を知らなくとも、この詩は十分に今に生きる。某事務次官を、老舗饅頭屋を、職人の巧みな詐欺を見てください。さういふ人は、ほんとに稀だ。ありえないからこそ、絶望するのでなく、投げやるのではなく、無関心を決め込むのでもなく、荒い息も謹んで、彼を守る。さういふ人がいるという希望を持つ。

 ここで、著者の詩を、ひとつ紹介します。これはあまりに有名なので、知っている方も多いと思いますが。

 かぜのひきかた

こころぼそい ときは
こころが とおく
うすくたなびいていて
びふうにも
みだれて
きえて
しまいそうになっている

こころぼそい ひとはだから
まどをしめて あたたかく
していて
これはかぜを
ひいているひととおなじだから
ひとは かるく
かぜかい?
とたずねる

それはかぜではないのだが
とにかくかぜではないのだが
こころぼそい ときの
こころぼそい ひとは
ひとにあらがう
げんきもなく
かぜです

つぶやいてしまう

すると ごらん
さびしさと
かなしさがいっしゅんに
さようして
こころぼそい
ひとのにくたいは
すでにたかいねつをはっしている
りっぱに きちんと
かぜをひいたのである

 『戦後名詩選Ⅱ』思潮社より

 この詩を初めて読んだとき、びっくりしたものです。そして、言われてみれば確かにそうだなあと思った。「こころぼそいひと」にあるのは「さびしさ」と「かなしさ」なのです。それを人は、いとも簡単に「かぜ」と言ってしまう。言われ、言うことで納得してしまう。そして実際になってしまう。やさしい言葉しかないのに、なんて深い真実を言っているのでしょう! このからくりさえ知っていれば、たいていのことは切り抜けられるはず。

 寒くなってきました。
 みなさま、風邪を引きませんように。

辻征夫著/思潮社・詩の森文庫/2005



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