帯に書いてある通り、この本を読んだら、詩はまったく初めて、あるいは詩なんか小難しくて、自己主張ばかりでごめんだね、という人も、きっと詩が好きになるでしょう。詩というものが、おぼろに見えるのではないでしょうか。
僕が大きく肯いたのは、こんな文章です。
おそらく、詩人とはその時代の言葉が通過する場所であり、装置であろう。
または、こんな単語。
詩とは、言葉の花。
詩は、日常生活を営む中で、ふいに訪れる。どこから来るかと言えば、人間の共同体から。ユングの言う普遍無意識。僕の言葉で言えば、向こうであり、私ではないものであり、大きな命ということになる。
谷川俊太郎でさえ、意識して書けない詩こそ、気に入っている(『公園又は宿命の幻』)と言っている。そしてそんな詩は、人生の危機、転機にこそやってくる。谷川さんの場合、その詩が現れたのは、母の痴呆とその介護、死と向き合っていたとき。僕の実感としても、自分がピンチのときこそ、詩は向こうからやってきます。だから僕は、自著の帯に、詩たちよ、ありがとうと書いた。
ともかく詩は、味わうことだと思います。ということで、この本に載っている詩から、最も気に入った金子光晴の作品を紹介します。
信頼
かつて大きな悲嘆もしらず
眼前がゆき止まりになつたおぼえもなく
また、水のせせらぎ、雨の音の
すぎし日のなげきを語る秘語にも心止めたことがなく、
妻は生涯背かぬもの、
日や月の運行とともに
一生は平穏無事なもの、
けふが昨日と同じだつたやうに
あすも又なんの屈託なしとおもふ、
さういふ人をさわがせてはならぬ。
さういふ人のうしろ影もふまず、
気のつかぬやうにひつそりと、
傍らをすりぬけてゆかねばならぬ。
さういふ人こそ今は貴重である。
さういふ人からにほひこぼれる花、
さういふ人の信頼や夢こそ、
ほんたうに無垢なのだ、荒い息もするな。
金子光晴は、十代の半ばから、遊郭に毎晩通うような、海外に行くと言って、金がないからとりあえず海辺まで行ってしまうような人でした。そんな人が、五十過ぎてから書いたからこそ重い。それに、そんな事情を知らなくとも、この詩は十分に今に生きる。某事務次官を、老舗饅頭屋を、職人の巧みな詐欺を見てください。さういふ人は、ほんとに稀だ。ありえないからこそ、絶望するのでなく、投げやるのではなく、無関心を決め込むのでもなく、荒い息も謹んで、彼を守る。さういふ人がいるという希望を持つ。
ここで、著者の詩を、ひとつ紹介します。これはあまりに有名なので、知っている方も多いと思いますが。
かぜのひきかた
こころぼそい ときは
こころが とおく
うすくたなびいていて
びふうにも
みだれて
きえて
しまいそうになっている
こころぼそい ひとはだから
まどをしめて あたたかく
していて
これはかぜを
ひいているひととおなじだから
ひとは かるく
かぜかい?
とたずねる
それはかぜではないのだが
とにかくかぜではないのだが
こころぼそい ときの
こころぼそい ひとは
ひとにあらがう
げんきもなく
かぜです
と
つぶやいてしまう
すると ごらん
さびしさと
かなしさがいっしゅんに
さようして
こころぼそい
ひとのにくたいは
すでにたかいねつをはっしている
りっぱに きちんと
かぜをひいたのである
『戦後名詩選Ⅱ』思潮社より
この詩を初めて読んだとき、びっくりしたものです。そして、言われてみれば確かにそうだなあと思った。「こころぼそいひと」にあるのは「さびしさ」と「かなしさ」なのです。それを人は、いとも簡単に「かぜ」と言ってしまう。言われ、言うことで納得してしまう。そして実際になってしまう。やさしい言葉しかないのに、なんて深い真実を言っているのでしょう! このからくりさえ知っていれば、たいていのことは切り抜けられるはず。
寒くなってきました。
みなさま、風邪を引きませんように。
辻征夫著/思潮社・詩の森文庫/2005
僕が大きく肯いたのは、こんな文章です。
おそらく、詩人とはその時代の言葉が通過する場所であり、装置であろう。
または、こんな単語。
詩とは、言葉の花。
詩は、日常生活を営む中で、ふいに訪れる。どこから来るかと言えば、人間の共同体から。ユングの言う普遍無意識。僕の言葉で言えば、向こうであり、私ではないものであり、大きな命ということになる。
谷川俊太郎でさえ、意識して書けない詩こそ、気に入っている(『公園又は宿命の幻』)と言っている。そしてそんな詩は、人生の危機、転機にこそやってくる。谷川さんの場合、その詩が現れたのは、母の痴呆とその介護、死と向き合っていたとき。僕の実感としても、自分がピンチのときこそ、詩は向こうからやってきます。だから僕は、自著の帯に、詩たちよ、ありがとうと書いた。
ともかく詩は、味わうことだと思います。ということで、この本に載っている詩から、最も気に入った金子光晴の作品を紹介します。
信頼
かつて大きな悲嘆もしらず
眼前がゆき止まりになつたおぼえもなく
また、水のせせらぎ、雨の音の
すぎし日のなげきを語る秘語にも心止めたことがなく、
妻は生涯背かぬもの、
日や月の運行とともに
一生は平穏無事なもの、
けふが昨日と同じだつたやうに
あすも又なんの屈託なしとおもふ、
さういふ人をさわがせてはならぬ。
さういふ人のうしろ影もふまず、
気のつかぬやうにひつそりと、
傍らをすりぬけてゆかねばならぬ。
さういふ人こそ今は貴重である。
さういふ人からにほひこぼれる花、
さういふ人の信頼や夢こそ、
ほんたうに無垢なのだ、荒い息もするな。
金子光晴は、十代の半ばから、遊郭に毎晩通うような、海外に行くと言って、金がないからとりあえず海辺まで行ってしまうような人でした。そんな人が、五十過ぎてから書いたからこそ重い。それに、そんな事情を知らなくとも、この詩は十分に今に生きる。某事務次官を、老舗饅頭屋を、職人の巧みな詐欺を見てください。さういふ人は、ほんとに稀だ。ありえないからこそ、絶望するのでなく、投げやるのではなく、無関心を決め込むのでもなく、荒い息も謹んで、彼を守る。さういふ人がいるという希望を持つ。
ここで、著者の詩を、ひとつ紹介します。これはあまりに有名なので、知っている方も多いと思いますが。
かぜのひきかた
こころぼそい ときは
こころが とおく
うすくたなびいていて
びふうにも
みだれて
きえて
しまいそうになっている
こころぼそい ひとはだから
まどをしめて あたたかく
していて
これはかぜを
ひいているひととおなじだから
ひとは かるく
かぜかい?
とたずねる
それはかぜではないのだが
とにかくかぜではないのだが
こころぼそい ときの
こころぼそい ひとは
ひとにあらがう
げんきもなく
かぜです
と
つぶやいてしまう
すると ごらん
さびしさと
かなしさがいっしゅんに
さようして
こころぼそい
ひとのにくたいは
すでにたかいねつをはっしている
りっぱに きちんと
かぜをひいたのである
『戦後名詩選Ⅱ』思潮社より
この詩を初めて読んだとき、びっくりしたものです。そして、言われてみれば確かにそうだなあと思った。「こころぼそいひと」にあるのは「さびしさ」と「かなしさ」なのです。それを人は、いとも簡単に「かぜ」と言ってしまう。言われ、言うことで納得してしまう。そして実際になってしまう。やさしい言葉しかないのに、なんて深い真実を言っているのでしょう! このからくりさえ知っていれば、たいていのことは切り抜けられるはず。
寒くなってきました。
みなさま、風邪を引きませんように。
辻征夫著/思潮社・詩の森文庫/2005
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