泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」

2007-01-11 01:12:09 | 音楽
 30にして、立つのですが、実際そうなって欲しいのですが、初めて「第九」を全て聴きました。
 あの有名すぎる部分、タンタータンタータンタータンタータンタータンターターンタター・・、は、第四楽章の最終部分に少ししか出てこない事実は、新鮮な発見でした。しかもそこは、シラー作詩の「歓喜に寄す」を引用しているのでした。何も知らないで、メロディーだけ聴いたことのある日本人はたくさんいるでしょう。でも、その真意は、ほとんど省みられていない。以前の私がまさにそうでした。
 そこでは、「神」と「歓喜」が、ほぼ同じ意味で用いられている。ベートーヴェンにとって、神と一体になることが、歓喜であった経験が反映されているのは確かでしょう。それでも、「神」を身近に感じられない私たちにも、この曲、歌は、振るい上がらせるほどの力を持っている。そうさせるのはなんでしょう?
 今、ふと想像してしまったのが、「プロジェクトX」。一つの仕事を、名もなき人々が一致協力し、成し遂げる物語。そこには「歓喜」があるでしょう。個人でも、内に秘めた目的が達せられたとき、その胸には「第九」が流れるでしょう。
 古典が生きているのは、未だに私たちに生きて働く芸術の作用が有効だからです。年末に「第九」が、日本で流行っているのも頷ける。私たちが、無事に一年を過ごせただけでも、十分に喜ばしいことなのですから。
 しかし、正直に言って、私にはまだこの「歓喜」が、十分にはわからない。苦しいことの方が、圧倒的に多い。この曲もまたしかりです。「喜びの歌」らしき部分は、実にほんの少ししかないのですから。でもその「歓喜」は、それまでの苦悩に報いるだけの、まさに歓喜を歌っている。聴くものは、己の物語に涙するのです。
 私も含めた、地球上に生きる人々に、幸多からんことを。そしてそれが、「たなぼた」ではなく、自らの努力で得たものであることを、心から願います。ベートーヴェンも、こんな気持ちで作曲したのでしょうか。

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮/ザールブリュッケン放送交響楽団

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