泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

ハリール・ジブラーンの詩

2018-10-11 17:14:12 | 読書
 

 八月に読んでいたのですが、すぐ感想を書く気になれず、寝かしたり再読したりしていました。
「生きがいについて」を書いた精神科医の神谷美恵子が翻訳、紹介した詩集。
 著者のハリール・ジブラーンは、レバノン生まれの詩人。私はこの本と出会うまで知りませんでしたが、世界中で読まれているようです。
 で、この詩だけは書き写したくなった。全文引用します。

 花のうた

 わたしは自然が語ることば、
 それを自然はとりもどし
 その胸のうちにかくし
 もう一度語り直す。
 わたしは青空から落ちた星、
 みどりのじゅうたんの上に落ちた星。
 わたしは大気の力の生んだ娘、
 冬には連れ去られ
 春には生まれ
 夏には育てられる。
 そして秋はわたしを休ませてくれる。

 わたしは恋人たちへのおくりもの
 また婚礼の冠でもある。
 生者が死者に贈る最後のささげものもわたし。

 朝がくると
 わたしとそよ風は手をたずさえて
 光来たれり、と宣言する。
 夕には鳥たちとわたしは光に別れを告げる。

 わたしは野の上にゆれ動き
 その飾りとなる。
 わたしの香りを大気にただよわせ、
 眠りを深くし、
 夜のあまたの眼はわたしをじっと見守る。
 わたしは露に酔いしれ
 つぐみの歌に耳を傾ける。
 叫ぶ草たちのリズムにあわせて踊り、
 光を見るために天を仰ぐけれど、
 それは自分の像をそこに見るためではない。
 この知恵を人間はまだ学んでいはしない。

(33頁-36項)

 この詩の肝は最後の三行。
 花は、自分の像を、光には見ない。
 人間は、この知恵を、まだ学んでいない。
 すごく、触発されます。

 私が花々をたくさん撮ってきたのは何だったのか?
 そのとき、私は自分の像をそこに見ていたのではないのか?
 花に気づき、撮るようになったのはカウンセリングが終結してすぐ。
 このブログとともに続いてきた。
 当たり前のことだけど、花は私ではない。
 私の中にある何かが反応するようになった、ということ。
 反応する何か、とは、演技していない、私が私である、木の幹を通う流れのようなもの。
 これを言葉にして伝えるのはとても難しいのですが。
 あらゆる役割や仮面や思考を脱ぎ、生命としての私を取り戻す有力な仲間が花、ということでしょうか。
 自分の像を捨てる助けとなってくれた。

 花は、ただ花として、そこにある。
 人である私は、ただ私として、ここにいる、という状態を保つことが、とても難しい。
 だから花はありがたい。
 まさに「花のうた」。

 ハリール・ジブラーン 著/神谷美恵子 訳/角川文庫/2018
 




 

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