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この本を読まない、という選択肢はありませんでした。
芥川賞受賞が決まって、やっと入荷した三冊のうち一冊を取り置き、その日買って帰りました。
仙台生まれ仙台育ちで仙台で書店員をしている方が書いたという。
タイトルと表紙を見れば、およそ中身の想像はつくでしょうか。
読んでみて、想像を越えていた。
いや、何を期待していたのだろう?
綴られていたのは、本人がインタビューで言っていたように、「見えて聞こえてくるものをそのまま」。ロードムービーのよう。
主人公の裕治は四十歳で植木職人。母と同居し、男の子を一人で育てている。
その子の母だった人は亡くなっていた。「災厄」の後、体調を崩してインフルエンザに罹って。
同級生の紹介で再婚もした。けど破綻。その壊れ方のきっかけがまた悲惨で、流産というもの。
裕治は、離婚した後も再婚相手に連絡を取ろうとするが、一方的に拒まれ続けている。
どこにも行けないまま、被災した実家の海沿いを彷徨う。仕事で、釣りで、ただ海を見に。
その辺りというのは、仙台から少し南の亘理(わたり)付近。阿武隈川の周辺もよく出てきます。
その辺りというのは、私は東北・みやぎ復興マラソンで走った場所なので、ありありと風景が浮かびました。
その風景の中で、植木仕事だけでなく、駐車場のライン引きなんかもしている裕治の姿が生きていた。
不器用で表現力にも乏しい男なのでしょう。その気持ちは、肉体労働の描写を通じて伝わってくる感じでした。
明夫という裕治の同級生が地元に帰ってくる。子供時代とは違い、太って、髪も少なくなって。
明夫との関わりが、最後まで物語を引っ張っていく力となっていきます。
明夫は、妻と子を、膨張した海に飲まれてしまった。仕事も続かない。「裏」の仕事にも手を出す。運動はせず、暇さえあればパチンコに酒。
裕治は、そんな明夫に、声をかけないわけにはいかない。
明夫は、「報いだ」と言う。「お前に俺の気持ちがわかるもんか!」とも言う。
二人が最後にどうなったのかは書かないことにします。
ただ、小説という作品に終わりはあるけれど、その土地の物語に終わりはない、と思った。
作者は「ここに希望がありますよ」というお節介など一切していない。
出口や昇華やカタルシスを求めて彷徨うかのような主人公の後ろについて、ともに彷徨っている。
あの、流産して、慰めようとした裕治の腕に噛みついた再婚相手の女性の叫び、「私が悪いんでしょ」に「卑怯者!」。
裕治の胸に響いて消えることはない。
手紙を渡したくても渡すことすらできない。
死んだ妻が現れても、それは私が見ている幻にすぎないと意識してしまう。
子供が学校で、鉄棒から落ちて頭を打ち、病院に運ばれた報を受けて駆けつけた裕治の「ばかやろう」。
一つ一つの場面で、裕治が生きている。
その姿に、読む者は自分を重ね、いっとき軽くなれるのかもしれません。
小説は、やっぱり、ありがたいものです。
人を支えることができるものです。
どんなニュースにもならないけど、あの荒地にも家族が生きていることを描いてくれたのですから。
そして、芥川賞は全国ニュースになる。
私にも届きました。
受賞作が決まるのは半年に一回。多いと思ったこともあったけど、大事な営みだ、と今は思います。
佐藤厚志 著/新潮社/2023
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