確かこの文庫は、僕がこのブログ『泉を聴く』を立ち上げる前に買っていたと思いますが、定かではありません。今まで読んではいなかったわけですが、東山魁夷著『泉に聴く』という本を見つけ、買って大事に持っていただけでも、大きな影響を、示唆を、僕に与えていたはずです。それはどういうことか? 表現の表層に一喜一憂するのでなく、自己の基盤を絶えず見つめ、知ろうとする態度です。自分が心の底から納得したもの、感動したもの、湧き上がったもの、それを何よりの指針とし、従い、行動しようとする。傍目から見れば「がんこ」かもしれない。優柔不断な、頼りない男に見えるかもしれない。でも、自己の泉に触れよう触れようとしてきた蓄積で、僕はこれが僕です、というものを、自信を持って他人に差し出せるようになった。
ちょっと長くなりますが、東山さんの肉声をお聴きください。僕がここに書き写すのは、それを確かに自分のものにしたいからです。
「泉に聴く ―序にかえて―
広原を鳥が渡る。後から後からと、鳥の群れが渡る。
あるいは、五、六羽連れ立っていたり、一列に並んでいる時もある。しかし、なんと、多くの鳥の群れだろう―。
啼き交わし、睦み合い、励まし、また、憎しみ、闘い、傷つけ合う。病み疲れ、老い衰えて、群れから離れ落ちる鳥もある。
広野を、今日も鳥の群れは渡る。
時には陽にきらめいて小川が流れる緑の野が見える。赤い木の実が葉陰から覗く林も過ぎる。以前は、そんな場所が多かった。今では見渡す限り荒野になってしまった。それでも鳥の群れは、昨日も、今日も、明日も、絶え間なく飛び続けねばならない。
どの鳥も自分の意志で飛んでいるとは思えない。なぜ、飛ばなければならないのか、また、何処へ行くのかは、誰にも解らない。群れを指導している鳥にも、それは、解らない。
なぜ、こんなに、早く飛ばなければならないのか、なぜ、もっと、ゆっくり飛べないのか。
あわただしく時が過ぎ去って行くと、鳥は思っている。時は無限であり、不動であり、過ぎ去ってゆくのは鳥自身であることに気がつかない。何かに憑かれているかのように、強く、早く羽ばたこうとあせる。それが、鳥自身がこの地上から、より早く消え去る不幸を招くことに気づかない。
より早く、より強く、羽ばたきの音を轟かせて鳥は渡る。
森の中に、ひそやかな音を立てて、澄んだ水を流し続けている泉がある。そこには、束の間の憩いがある。それが僅かなひとときのやすらいであるとしても、荒野を飛び続ける鳥には救いである。地上に生きる者にとっては一日は一日で終りであり、明日は新しい生であるからだ。
泉のほとりに、羽を休めて、心を静かにして、泉の語る言葉に耳を傾けるがよい。泉は、飛ぶべき方向を教えてくれているのではないだろうか。
深い地の底から湧き出して、絶え間なく水を流し続けている泉は、遠い昔から、この地上に生き、栄え、滅びたものたちの姿を見て来た。だから、鳥たちの飛ぶべき方向を、たしかに知っている。
泉の澄み切った水に、姿を映してみるがよい。そこに疲れ果てた己れの姿を見ることだろう。そして、鳥が地上の全ての生きものの覇者であった時代が、過ぎて行くことを悟るだろう。
その泉を、いつ、どこにでも見出し得るということは困難である。早く飛ぶことだけに気を奪われているからである。
鳥たちの最も大きな不幸は、早く飛ぶことが進歩であり、地上の全ては、自分たちのために在ると思い違えていることである。
さて、このまま飛び続ければ、鳥の群れは滅びてしまうのではないかと、ようやく鳥自身も気がついて来たようである。それが、遅すぎたのでなければ幸いであるが―。
私も、この鳥の中の一羽であり、人はすべて荒廃と不毛の広野の上を飛び続ける鳥である。
誰の心の中にも泉があるが、日常の煩忙の中にその音は消し去られている。もし、夜半、ふと目覚めた時に、深いところから、かすかな音が響いてくれば、それは泉のささやく声にちがいない。
今迄、経て来た道を振り返っても、私は広野に道を見失う時が多かった。そんな時、心の泉に耳を澄ますと、それが道しるべになった場合が少なくない。
泉はいつも、
「おまえは、人にも、おまえ自身にも誠実であったか」と、問いかけてくる。私は答に窮し、心に痛みを感じ、だまって頭を下げる。
私にとって絵を描くということは、誠実に生きたいと願う心の祈りであろう。謙虚であれ、素朴であれ、独善と偏執を捨てよ、と泉はいう。
自己を無にして、はじめて、真実は見えると、私は泉から教わった。
自己を無にすることは困難であり、不可能とさえ私には思われるが、美はそこにのみ在ると、泉は低いが、はっきりした声で私に語る。」 11-14ページ
もう僕に言うことはありません。言いたいことは、十二分に言ってくれている。日々実践しかありません。
一つ気になってくるのは、美とは何か? ということです。これを突き詰めると、哲学になってしまうのですが(事実、美学という哲学の領域があり、東山さんはドイツ留学の際に学んだ)、単純に、個々の生命力が最大限に発揮され、かつ他者や自然と調和している状態、と言えるのではないでしょうか? 僕が絵を観るのが好きであり、交響曲に感銘を受け、詩や小説を書くのも、その実現のため、なのかもしれません。
僕にできることは、ほんとにささやかなことでしかないけれど、だからこそ自分にしかできないことをしっかりと形あるものにしてゆこう。一つひとつの作品、文章を通じて。一期一会の人間関係において。きっとそれらの総体が、僕がこの世に生まれてきて、生かされていることの意味なんだ。
僕も写真は風景が多いのですが、それでいいんだと思いました。それは自分以外の命をも大切にすることであり、共存しようとする心の現われだから。
この一冊、僕にとってはこれからも大事な一冊になりそうです。
東山魁夷著/講談社文芸文庫/1990
ちょっと長くなりますが、東山さんの肉声をお聴きください。僕がここに書き写すのは、それを確かに自分のものにしたいからです。
「泉に聴く ―序にかえて―
広原を鳥が渡る。後から後からと、鳥の群れが渡る。
あるいは、五、六羽連れ立っていたり、一列に並んでいる時もある。しかし、なんと、多くの鳥の群れだろう―。
啼き交わし、睦み合い、励まし、また、憎しみ、闘い、傷つけ合う。病み疲れ、老い衰えて、群れから離れ落ちる鳥もある。
広野を、今日も鳥の群れは渡る。
時には陽にきらめいて小川が流れる緑の野が見える。赤い木の実が葉陰から覗く林も過ぎる。以前は、そんな場所が多かった。今では見渡す限り荒野になってしまった。それでも鳥の群れは、昨日も、今日も、明日も、絶え間なく飛び続けねばならない。
どの鳥も自分の意志で飛んでいるとは思えない。なぜ、飛ばなければならないのか、また、何処へ行くのかは、誰にも解らない。群れを指導している鳥にも、それは、解らない。
なぜ、こんなに、早く飛ばなければならないのか、なぜ、もっと、ゆっくり飛べないのか。
あわただしく時が過ぎ去って行くと、鳥は思っている。時は無限であり、不動であり、過ぎ去ってゆくのは鳥自身であることに気がつかない。何かに憑かれているかのように、強く、早く羽ばたこうとあせる。それが、鳥自身がこの地上から、より早く消え去る不幸を招くことに気づかない。
より早く、より強く、羽ばたきの音を轟かせて鳥は渡る。
森の中に、ひそやかな音を立てて、澄んだ水を流し続けている泉がある。そこには、束の間の憩いがある。それが僅かなひとときのやすらいであるとしても、荒野を飛び続ける鳥には救いである。地上に生きる者にとっては一日は一日で終りであり、明日は新しい生であるからだ。
泉のほとりに、羽を休めて、心を静かにして、泉の語る言葉に耳を傾けるがよい。泉は、飛ぶべき方向を教えてくれているのではないだろうか。
深い地の底から湧き出して、絶え間なく水を流し続けている泉は、遠い昔から、この地上に生き、栄え、滅びたものたちの姿を見て来た。だから、鳥たちの飛ぶべき方向を、たしかに知っている。
泉の澄み切った水に、姿を映してみるがよい。そこに疲れ果てた己れの姿を見ることだろう。そして、鳥が地上の全ての生きものの覇者であった時代が、過ぎて行くことを悟るだろう。
その泉を、いつ、どこにでも見出し得るということは困難である。早く飛ぶことだけに気を奪われているからである。
鳥たちの最も大きな不幸は、早く飛ぶことが進歩であり、地上の全ては、自分たちのために在ると思い違えていることである。
さて、このまま飛び続ければ、鳥の群れは滅びてしまうのではないかと、ようやく鳥自身も気がついて来たようである。それが、遅すぎたのでなければ幸いであるが―。
私も、この鳥の中の一羽であり、人はすべて荒廃と不毛の広野の上を飛び続ける鳥である。
誰の心の中にも泉があるが、日常の煩忙の中にその音は消し去られている。もし、夜半、ふと目覚めた時に、深いところから、かすかな音が響いてくれば、それは泉のささやく声にちがいない。
今迄、経て来た道を振り返っても、私は広野に道を見失う時が多かった。そんな時、心の泉に耳を澄ますと、それが道しるべになった場合が少なくない。
泉はいつも、
「おまえは、人にも、おまえ自身にも誠実であったか」と、問いかけてくる。私は答に窮し、心に痛みを感じ、だまって頭を下げる。
私にとって絵を描くということは、誠実に生きたいと願う心の祈りであろう。謙虚であれ、素朴であれ、独善と偏執を捨てよ、と泉はいう。
自己を無にして、はじめて、真実は見えると、私は泉から教わった。
自己を無にすることは困難であり、不可能とさえ私には思われるが、美はそこにのみ在ると、泉は低いが、はっきりした声で私に語る。」 11-14ページ
もう僕に言うことはありません。言いたいことは、十二分に言ってくれている。日々実践しかありません。
一つ気になってくるのは、美とは何か? ということです。これを突き詰めると、哲学になってしまうのですが(事実、美学という哲学の領域があり、東山さんはドイツ留学の際に学んだ)、単純に、個々の生命力が最大限に発揮され、かつ他者や自然と調和している状態、と言えるのではないでしょうか? 僕が絵を観るのが好きであり、交響曲に感銘を受け、詩や小説を書くのも、その実現のため、なのかもしれません。
僕にできることは、ほんとにささやかなことでしかないけれど、だからこそ自分にしかできないことをしっかりと形あるものにしてゆこう。一つひとつの作品、文章を通じて。一期一会の人間関係において。きっとそれらの総体が、僕がこの世に生まれてきて、生かされていることの意味なんだ。
僕も写真は風景が多いのですが、それでいいんだと思いました。それは自分以外の命をも大切にすることであり、共存しようとする心の現われだから。
この一冊、僕にとってはこれからも大事な一冊になりそうです。
東山魁夷著/講談社文芸文庫/1990
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