ある友人が坂口安吾を読んでしびれたと聞いたので読んでみたくなった。
『堕落論』は、かなり昔に読んだ記憶がありますが、あまり覚えていません。
中編小説が7つ。タイトルとなった『白痴』がやはり印象に残ります。
その前に、「白痴」という言葉、今は差別用語ともなり使われておりません。
意味は、重度の知的発達障害のこと。
全編を通じて、おめかけさん(正式の妻ではないが、庇護する男のいる女性のこと)や女郎(これも差別用語か。今でいう風俗嬢的な存在)ばかり出てきます。
男と肉体的につながるのは当たり前。そういう前提で話が進む。
戦時中の話。空襲は恐ろしいもの、おぞましいものという想像しかなかった。しかし、安吾は違う。
爆弾の雨あられに美しさを見、さらに懐かしさを覚える。
なぜか。そこに人間を見たからなのではないでしょうか。
「鬼畜米英」とか「非国民」とか「欲しがりません勝つまでは」とか、そんな机上の空論には踊らされない。
「日本が負けた」とも捉えない。人間だから堕ちる。堕ちきったところを見よ。
そこからしか始まらない。
ということを伝えたかったのではないでしょうか。
伝わったからこそ、終戦後、迷える人々の糧となり、読まれ続けてきたのだと思います。
精神を鍛えるための重し。重しなのであって中身はない。
残らない。でも必要。そんな魅力があります。
ちなみに安吾は、漱石に対して、体を生きていないと批判したそうです。
漱石は胃潰瘍で死にました。医者の忠告を守らず、暴飲暴食でした。享年49歳。
安吾は鬱病に苦しめられ睡眠薬を常用。すっきりするためにヒロポン、ゼドリン(いずれも当時は市販されていたけど今は覚醒剤に指定されています)を使うようになり、中毒となり、48歳で脳出血で死去。
なんだかどっちもどっちですね。
安吾は、売られた女性や障害者をありのまま描くことで、生きることそれだけが大事だと背を押したかったのかもしれません。
芥川賞選考委員も5年勤め、松本清張を見出したそうです。
坂口安吾-松本清張という線は、確かになるほどつながっていると感じます。
人間に堕ちきっていないとき、おすすめです。
坂口安吾著/新潮文庫/1948
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