泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

国境の南、太陽の西

2008-03-19 21:24:40 | 読書
 とても不思議なことなのですが、この小説(フィクション)を読むと、現実(ノンフィクション)に引き戻されるような感覚がしました。日常のぼやぼやが、ぎゅっと圧縮されたような。
 かつて好きだった女性。12才のとき、毎日のように一緒に帰り、家で音楽を聴いていた二人。拒否されるのが怖くて、中学になってから僕は彼女(島本さん)を訪ねなくなる。そして、37才。僕はバーを経営していて、雑誌に紹介されたことから島本さんに知れ、彼女は雨のしとしと降っている日にやってくる。そのとき僕にはもう妻が、子供がいる。しかし、どうしようもなく引かれていく。渦に巻き込まれるように。僕は妻を、そればかりでなくかつての恋人イズミを、そして自分を深く傷つける。生きているだけで。どうにも避けられなくて。
 何もかも捨てる決心をし、島本さんと一夜を過ごす。確かめるように、時間を取り戻すように、長い年月の夢を叶えていく。そのシーンは、それがほんとの性愛なんだろうなと感じた。互いを労わって、相手のものになり切って、すべてを許して。僕は、彼女と行き直すと誓う。そして翌朝、島本さんは消えてしまった。もう二度と、僕の前には現れない。
 人間は、限られた時間、可能性のなかでしか生きられないんだ、とわかりました。島本さんの12才以後は、たぶん悲惨なものだったのだろう。それは取り返しができるものじゃない。やり直しもできない。僕は僕の欠損を埋めるべく、彼女と一体になろうとするが、彼女にはもう手遅れだった。そんなことわかっていた。でも、会いたかった。会ったらどうしても話しかけたくなった。それはもう、自力ではどうにもできない。
 僕は結局、同じ(ような)生活に戻る。子供を幼稚園に送り迎え、妻のことはやはり愛していて、別れたくない。もう孤独になりたくない。仕事にも戻るが、以前ほどの情熱は感じない。そして、決定的に大事だったものが、土台ごと崩れて消える。それは大切な人を一人亡くしたに等しいことなのだろう。彼女は、もう、いない。僕の記憶の中にさえ。
 変わること。それは何かを失うことなのかもしれない。でも、人はそうやって生き続けている。
 国境の南とは、ここではないどこか、今よりもっと素晴らしい場所、行く環境さえ整っていれば行ける国、たぶん。
 太陽の西とは、砂漠であり、虚無であり、孤独であり、底なしの暗黒であり、死。それは、人間の瞳の中に存在している。
 僕はどうしようもない人間で、嘘つきで、生きているだけで人を傷つける存在。どこかに行ってしまわないように妻を強く抱きながら、自分が空っぽにもなり、混乱を極めもするけど、生きていく。
 村上春樹の作品に共感するのは、作者が僕ら読者を、人間を、共感的に理解しているからなんだろう。そして、実に適切な言葉で、文脈で、比喩で、わかりづらい見えにくい現実を追体験させてくれる。わかりやすく、でもその意味するものはどこまでも深く、真実で。
 作家の仕事とはなんなのか? 読み込むことで少しずつ、上積みされていくようです。

村上春樹著/講談社文庫/1995

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2 コメント

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Unknown (E・T)
2008-03-24 17:23:59
以前にも、きくちゃんに話したような....
この小説を読んだあと、二度と、もう村上春樹は読まなくてもいいと思ったって。
実際に、あれから読んでいない。

1ケ月前、この小説をもう一度10年(?)ぶりに読み返して感じたことは、私の心を表現するのに、私よりも彼の表現の方が近いと思えたこと。

今だにこの後どんな小説を読んでも、これほどまでに私に近い心に会えたことはない気がする。


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僕はまだ読んでる (k・k)
2008-03-24 21:19:28
絶対の孤独、どうしようもない吸引力、圧倒的な喪失感。
なにかを返そうと思うのですが、まだ僕には言葉にできません。
僕は、まだ彼を読んでいます。
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