今年から、引きつけられるように、N響アワー(NHK教育テレビ、毎週日曜日、午後9時から放送)を欠かさず観ているのですが、この前の日曜日に放映された2007ベストソリスト特集で第1位に輝いたのが、アンドレ・プレヴィン指揮、ピアノによるこの曲でした。第3楽章だけでしたが、聴き終わったら買おうと即決していました。そして池袋西武の12階へ。ありました。指揮振りはマウリツィオ・ポリーニという人で、ウィーンフィルでしたが。はまりました。何度聴いたか。やはり特に第3楽章。つぼに指圧されるような。
まだ聴き足りてはいないのですが、主題が変奏され、ピアノと木管楽器が対話し、竜巻のように舞い上がって散るラストは、人間の一生のようでもあり、何十億年とつながってきた生命のドラマの音そのもののようでもあります。悲しげでもあり、楽しげでもあり、心打たれるのは、ピアノソロの絶対的な孤独感というのでしょうか、それ以外は考えられない、ありえないという一つの命の存在感、その美しさが伝わってくるからなのでしょうか。バッハのようでもありベートーヴェンのようでもあり、でもその軽やかさ、深さはモーツァルトのもの。彼は30ものピアノ協奏曲を書いたそうですが、初めから20までは、当時の上客である貴族を喜ばせる傾向が強かったようです。実際彼らに受け入れられ、気に入ってもらえなければ音楽家として生活することはできなかった。でも、それで満足はできなかった。20番目以降、特にこの曲からは、彼は芸術家として、自分の書くべき、書きたいものを書いた。その切実な気持ちも曲にこもっているのでしょう。彼の孤独、絶対性、命としての自分。どうしようもなく表現しなくては済まないものが、天才的な技術と絡まって、見事としか言いようのない作品として結晶している。その時は1782年、秋、ウィーン。226年経っているわけです。でも、今もその第3楽章を聴きながら書いているのですが、時間ってなんでしょう? そもそも存在してはいないのではないでしょうか? 現実に今、僕はこうして226年前に作られた曲を聴き、大層感激している。してみれば僕が思い悩む明日なんて、ダニのうんちよりも小さくて、くだらないものなんじゃないか。そんなどうでもいいことを発見しようしようとして、実際はそうではないものをそうだと信じ、誤ってばかりいたのではないか、そんな思いにもなってしまいます。
ところで、春ですね。暖かくなり、今日なんかは日向で読書してモーツァルトを聴いていると、自分が確かに回復していくのが感じられた。モーツァルトは、特に春に似合う作曲家なのかもしれません。命そのものを聴かせてくれるのが彼です。そこには不安もあるし、情念もある。でもそのリズムは、テンポは、決して僕らから外れることがない。命に触れると命は喜ぶものなのでしょう。赤ちゃんや小さな子供がやってきて、にぎやかにならないことはありません。がんばらなきゃと思うし、自分ができるものを意識せずにやっている。そうさせるなにかが、優れた音楽にはあるのですね。
今の僕には、どんどん音楽が入る。言い換えれば、そのスペースを今まで発見できずにいた。使えずにいた。音楽を聴いて、体に入れて、自分が回復することがまず大事ですが、その分だけ人にもやさしく、軽やかに、ときに重苦しさまでを引き受けて、関与し続けられればすてきだと思う。
文章のリズムにしても、生活そのもののリズムにしても、言葉にならない感情の育成にしても、音楽はすばらしい機能を持っていると、聴くたびに確信するこのごろです。
モーツァルト/ピアノ協奏曲12番&24番/ウィーンフィルハーモニー/マウリツィオ・ポリーニ/ユニバーサルミュージック/2007
まだ聴き足りてはいないのですが、主題が変奏され、ピアノと木管楽器が対話し、竜巻のように舞い上がって散るラストは、人間の一生のようでもあり、何十億年とつながってきた生命のドラマの音そのもののようでもあります。悲しげでもあり、楽しげでもあり、心打たれるのは、ピアノソロの絶対的な孤独感というのでしょうか、それ以外は考えられない、ありえないという一つの命の存在感、その美しさが伝わってくるからなのでしょうか。バッハのようでもありベートーヴェンのようでもあり、でもその軽やかさ、深さはモーツァルトのもの。彼は30ものピアノ協奏曲を書いたそうですが、初めから20までは、当時の上客である貴族を喜ばせる傾向が強かったようです。実際彼らに受け入れられ、気に入ってもらえなければ音楽家として生活することはできなかった。でも、それで満足はできなかった。20番目以降、特にこの曲からは、彼は芸術家として、自分の書くべき、書きたいものを書いた。その切実な気持ちも曲にこもっているのでしょう。彼の孤独、絶対性、命としての自分。どうしようもなく表現しなくては済まないものが、天才的な技術と絡まって、見事としか言いようのない作品として結晶している。その時は1782年、秋、ウィーン。226年経っているわけです。でも、今もその第3楽章を聴きながら書いているのですが、時間ってなんでしょう? そもそも存在してはいないのではないでしょうか? 現実に今、僕はこうして226年前に作られた曲を聴き、大層感激している。してみれば僕が思い悩む明日なんて、ダニのうんちよりも小さくて、くだらないものなんじゃないか。そんなどうでもいいことを発見しようしようとして、実際はそうではないものをそうだと信じ、誤ってばかりいたのではないか、そんな思いにもなってしまいます。
ところで、春ですね。暖かくなり、今日なんかは日向で読書してモーツァルトを聴いていると、自分が確かに回復していくのが感じられた。モーツァルトは、特に春に似合う作曲家なのかもしれません。命そのものを聴かせてくれるのが彼です。そこには不安もあるし、情念もある。でもそのリズムは、テンポは、決して僕らから外れることがない。命に触れると命は喜ぶものなのでしょう。赤ちゃんや小さな子供がやってきて、にぎやかにならないことはありません。がんばらなきゃと思うし、自分ができるものを意識せずにやっている。そうさせるなにかが、優れた音楽にはあるのですね。
今の僕には、どんどん音楽が入る。言い換えれば、そのスペースを今まで発見できずにいた。使えずにいた。音楽を聴いて、体に入れて、自分が回復することがまず大事ですが、その分だけ人にもやさしく、軽やかに、ときに重苦しさまでを引き受けて、関与し続けられればすてきだと思う。
文章のリズムにしても、生活そのもののリズムにしても、言葉にならない感情の育成にしても、音楽はすばらしい機能を持っていると、聴くたびに確信するこのごろです。
モーツァルト/ピアノ協奏曲12番&24番/ウィーンフィルハーモニー/マウリツィオ・ポリーニ/ユニバーサルミュージック/2007
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