今までなんでこの映画を観ていなかったのか。そう思ってしまうほど心が揺さぶられました。
市川崑監督作品第三弾(個人的に)は、知らない人はいない(ですよね)漱石の『こころ』です。
僕は、よく人に言うのですが、自主的に本を再読したことは二回しかない。一つは遠藤周作の『深い河』、そしてもう一つがこの『こころ』。いかようにも解釈できる、人間の普遍的な真実が描かれている。だから触れるたびに新鮮な感動を覚える。もう一度読みたいと思う。核心から離れてしまったかと感じれば感じるほど。あるいは試すために。自分が、どれほど「まし」になったかを知るために。それは鏡のようです。作者の思惑や野心などとは無縁だからこそそれができる。
「映画は所詮、光と影だと思う」という言葉を残しているだけあって、市川さんの映像は、明暗がはっきりしていて、細心の注意があり、飽きることがありません。『ビルマの竪琴』も『こころ』も白黒なのですが、だからこそ演技が光るというのでしょうか。まったく不便を感じません。むしろ白黒の方がいいのかもしれない。先生の抱える闇と、奥さんの明るさと若く健康な学生の私の対比が、白黒によって見事に表現されています。先生の友人Kが自殺したとき、なぜふすまを開けていたのか。先生は、Kの部屋から差し込む光によって目覚める。その映像が、ほんとに胸を打ちます。
今回観て思ったのは、自殺者の心のありようです。現在の日本にだって、年間3万人以上の自殺者がいる。逝ってしまった人々の心を知りたい。逝こうとしている人々の心を知りたい。なぜそんなに苦しんでいるのか。なぜ、悲観的なことばかり言うのか。奥さんも、私も、何度も、精一杯関わろうとした。できることなら力になりたいと願い、動いた。でも、力及ばなかった。残された者の悲しみ。漱石は、この映画は、死と生を描ききっています。人間誰しもが通る道。だからこそ、時間を越えて、今でも生きる人々の支えになりえている。
先生の死の意味とはなんでしょう? 友人を死なせてしまったこと。Kが奥さん(結婚前はお嬢さん)を愛していることを知って、奪われまいと結婚を申し出た。その母子に了承されたことを、Kは知り、その夜、自害する。でも、話はそんな簡単じゃない。先生は、自ら誘ってKを、下宿(お嬢さんとその母の家)に住まわせている。自ら向上するために。自分を助けて欲しいと。あまりにストイックで、自分を責めるKを、先生は母子に頼んで温かく世話して欲しいと頼んでもいる。それなのに、お嬢さんがKと関わると、先生はふくれっつらをし、お前の道はどうしたのだ、向上心のないものは馬鹿だ、道のために愛を止める覚悟はあるのか、などとKを責め立てる。Kが果てた後、先生はお嬢さんと結婚しますが、月一回のKの墓参りを続け、働こう、元気になろうともがきもしますが、働けず、引きこもり、おそらく35くらいで、明治が終り、乃木大将が殉死したことに影響もされ、海に消える。かつて無意識に海を沖へと向かっていた先生に、なんらかの危険を感じ、近寄ったのが私。その意味でこの物語は、援助者と病人の関係をも表現しています。
先生は、過去に囚われたものであり、大きな傷を心に抱えて、解決できずにいる。そこに私が現れ、少しずつ先生は私に心を打ち明けていく。死ぬ前に、誰か一人でいい、人間を信頼したい、君はその一人になってくれるか? 先生は私を信じ、長い手紙を書いた。そしてそれが遺書になってしまった。でも、この作品を読者として参加するとき、死、そして再生への物語として、自分の心にしまわれます。読者の中の過去、清算できていないもの、どうしようもないエゴイズム、破壊衝動、それらを先生は、あますことなく抱え、手紙として書き表し、私に向かって最大限の信頼を持って語ってくれた。私は無力で、先生を救うことなんてできなかったけど、私の中で先生が、苦しく長くとも理解され尽くされることで、先生は私の中で生き返る。危うい道を、先生は、文字通り先に生きた。それをそのまま、若い私、読者に伝えた。どう学ぶかは、私次第です。
先生が最期に私を信頼したこと。それこそが救いなのかもしれません。自分自身をも信じられなくなったとき、人は生きてゆけない。その苦しみを、先生は死ぬほどに味わった。
人を信頼すること。信頼に足る自分になること。勇気を持って過去を語ること。
死ぬのは、物語の中だけでいいのです。
想像で死ぬことで、人間は生き返ることができる。その力を、漱石は、市川監督も、伝えたかったのではないでしょうか。
市川崑監督/森雅之・新珠三千代・三橋達也他出演/日活/1955
市川崑監督作品第三弾(個人的に)は、知らない人はいない(ですよね)漱石の『こころ』です。
僕は、よく人に言うのですが、自主的に本を再読したことは二回しかない。一つは遠藤周作の『深い河』、そしてもう一つがこの『こころ』。いかようにも解釈できる、人間の普遍的な真実が描かれている。だから触れるたびに新鮮な感動を覚える。もう一度読みたいと思う。核心から離れてしまったかと感じれば感じるほど。あるいは試すために。自分が、どれほど「まし」になったかを知るために。それは鏡のようです。作者の思惑や野心などとは無縁だからこそそれができる。
「映画は所詮、光と影だと思う」という言葉を残しているだけあって、市川さんの映像は、明暗がはっきりしていて、細心の注意があり、飽きることがありません。『ビルマの竪琴』も『こころ』も白黒なのですが、だからこそ演技が光るというのでしょうか。まったく不便を感じません。むしろ白黒の方がいいのかもしれない。先生の抱える闇と、奥さんの明るさと若く健康な学生の私の対比が、白黒によって見事に表現されています。先生の友人Kが自殺したとき、なぜふすまを開けていたのか。先生は、Kの部屋から差し込む光によって目覚める。その映像が、ほんとに胸を打ちます。
今回観て思ったのは、自殺者の心のありようです。現在の日本にだって、年間3万人以上の自殺者がいる。逝ってしまった人々の心を知りたい。逝こうとしている人々の心を知りたい。なぜそんなに苦しんでいるのか。なぜ、悲観的なことばかり言うのか。奥さんも、私も、何度も、精一杯関わろうとした。できることなら力になりたいと願い、動いた。でも、力及ばなかった。残された者の悲しみ。漱石は、この映画は、死と生を描ききっています。人間誰しもが通る道。だからこそ、時間を越えて、今でも生きる人々の支えになりえている。
先生の死の意味とはなんでしょう? 友人を死なせてしまったこと。Kが奥さん(結婚前はお嬢さん)を愛していることを知って、奪われまいと結婚を申し出た。その母子に了承されたことを、Kは知り、その夜、自害する。でも、話はそんな簡単じゃない。先生は、自ら誘ってKを、下宿(お嬢さんとその母の家)に住まわせている。自ら向上するために。自分を助けて欲しいと。あまりにストイックで、自分を責めるKを、先生は母子に頼んで温かく世話して欲しいと頼んでもいる。それなのに、お嬢さんがKと関わると、先生はふくれっつらをし、お前の道はどうしたのだ、向上心のないものは馬鹿だ、道のために愛を止める覚悟はあるのか、などとKを責め立てる。Kが果てた後、先生はお嬢さんと結婚しますが、月一回のKの墓参りを続け、働こう、元気になろうともがきもしますが、働けず、引きこもり、おそらく35くらいで、明治が終り、乃木大将が殉死したことに影響もされ、海に消える。かつて無意識に海を沖へと向かっていた先生に、なんらかの危険を感じ、近寄ったのが私。その意味でこの物語は、援助者と病人の関係をも表現しています。
先生は、過去に囚われたものであり、大きな傷を心に抱えて、解決できずにいる。そこに私が現れ、少しずつ先生は私に心を打ち明けていく。死ぬ前に、誰か一人でいい、人間を信頼したい、君はその一人になってくれるか? 先生は私を信じ、長い手紙を書いた。そしてそれが遺書になってしまった。でも、この作品を読者として参加するとき、死、そして再生への物語として、自分の心にしまわれます。読者の中の過去、清算できていないもの、どうしようもないエゴイズム、破壊衝動、それらを先生は、あますことなく抱え、手紙として書き表し、私に向かって最大限の信頼を持って語ってくれた。私は無力で、先生を救うことなんてできなかったけど、私の中で先生が、苦しく長くとも理解され尽くされることで、先生は私の中で生き返る。危うい道を、先生は、文字通り先に生きた。それをそのまま、若い私、読者に伝えた。どう学ぶかは、私次第です。
先生が最期に私を信頼したこと。それこそが救いなのかもしれません。自分自身をも信じられなくなったとき、人は生きてゆけない。その苦しみを、先生は死ぬほどに味わった。
人を信頼すること。信頼に足る自分になること。勇気を持って過去を語ること。
死ぬのは、物語の中だけでいいのです。
想像で死ぬことで、人間は生き返ることができる。その力を、漱石は、市川監督も、伝えたかったのではないでしょうか。
市川崑監督/森雅之・新珠三千代・三橋達也他出演/日活/1955
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