もう少し梨木さんを読みたくなり、定番に手が伸びました。
今年もですが、毎年夏に展開する「新潮文庫の100冊」の常連。この本が入らなかった年はなかったのではないでしょうか。
この本には思い出もあります。
私が池袋の本屋の人文書にいたとき、もう15年くらい前になりますが、そのとき一緒に働いていた同僚の一人に、この本を激推ししていた人がいました。そのときは「ふーん」くらいで読む気にはならなかった。
15年も経てば、当時の書店のラインナップから消えていく本たちの方が多いかもしれません。でも、この本は生き続けています。
文庫本として発売されたのは平成13年8月と奥付(本の一番最後のページ)に書いてあります。それからなんと100刷。100回増刷されています。
平成13年は2001年のことで、今から22年前。当時、私は24歳で、大学を出たばかりで、書店で働き始めた年でもありました。
そのときからこの本は本屋にあり、同僚の勧めで存在を知っても読まず、それからまた15年も経って自ら手を伸ばすとは。
辿り着くべき本には辿り着ついてきたんだなあ、という感慨がまずあります。読むべき本とは出会ってきていて、それぞれのタイミングで、それぞれの自分で、吸収すべきものを吸収してきたのだと。
この本を読み、当時の同僚の姿が浮かびました。懐かしい。元気にしているかなと思う。そしてこんな物語が好きだったんだなと、ほんの少し、その人に近づけた感じもします。
本は、人に似ているのかもしれません。出会うべき人には出会ってきたこととも似て。
さて、中学校に入ったばかりの「まい」が主人公です。
5月、まいは学校に行けなくなってしまいます。
心配した両親が頼ったのが、母親の母親、まいのおばあちゃんでした。まいとその母親は、その人のことを「西の魔女」と呼んでいました。
まいはおばあちゃんが大好きでした。そのことをよく口に出してもいました。
「おばあちゃん大好き」と。
すると、西の魔女はこう言うのでした。
「アイ、ノウ」と。自信たっぷりに。
まいは、そんなおばあちゃんとの共同生活をすることになります。それは同時に、まいの「魔女修行」をも意味していました。
魔女といっても、ほうきに跨って飛ぶわけではありません。私がタイトルだけで先入観を抱き、この本を長い間遠ざけてしまったのは「魔女」にまつわるそんな陳腐なイメージでした。
手垢にまみれたうわさ、先入観による思い込み、本当に願うことではないことに反応してしまうくせ。言ってみれば、それら私にも心当たりがあることを乗り越えていくことが、西の魔女が言うところの魔女修行なのでした。
そのためにはまず生活のリズムを作ること。一日の行動の予定を立てて実行すること。そして、何より大事なのは、自分が決めること。
自分が、この自分の生活の主体となること。そのことを、おばあちゃんは、まいと生活をともにする中で、まいに染み込ませていく。
まいが自分を取り戻していく中で、「まい・サンクチュアリ」とおばあちゃんが名付ける場所が現れます。そこは、まいがとても気に入った場所のことで、その土地をおばあちゃんは法的にもまいに譲るのですが、その存在が、とても印象に残りました。
まいは、そこにある切り株に座っているだけでしあわせを感じられます。自分が自分であることを丸ごと受け入れられ、受け入れてもらってもいる。自然と、自然でもあった自分とが、深い呼吸を繰り返すことで交流できるような場所。
ああ、それは私にとって、花との出会いだったんだなと思いました。
あるとき、突然、道端の花の存在に気づきました。
その花は、どこから来ていたのか?
土でした。大地でした。
私は、そのとき、コンクリートやアスファルトや、あるいは言葉に隠されていた土を発見した。
土は自然です。生きている地球のかけらである鉱物の破片と、生きていた生物たちの死骸でできています。
そう、死もまた自然でした。
まいが恐れていたのも死でした。
そのことをおばあちゃんに話せた夜、まいは印象的な夢をみます。
その夢の話も聞いたおばあちゃんは「ありがたい夢ですね」と言う。この言葉もまた私に記憶されました。
夢をありがたく思うその気持ちがいいなあ、と。
おばあちゃんとまいの共同生活は2ヶ月ほどで終わり、その後再会できないままおばあちゃんは死んでしまいます。
まいは、再びおばあちゃんと住んだ家に入る。
すると、おばあちゃんと話していた約束が果たされていたことを知ります。
それが何なのかは、読んでご自分で確かめてみてください。
この本にも、私が知らなかった植物や動物が登場します。
その一つ一つを知ることもまた楽しいです。
梨木香歩 著/新潮文庫/2001
今年もですが、毎年夏に展開する「新潮文庫の100冊」の常連。この本が入らなかった年はなかったのではないでしょうか。
この本には思い出もあります。
私が池袋の本屋の人文書にいたとき、もう15年くらい前になりますが、そのとき一緒に働いていた同僚の一人に、この本を激推ししていた人がいました。そのときは「ふーん」くらいで読む気にはならなかった。
15年も経てば、当時の書店のラインナップから消えていく本たちの方が多いかもしれません。でも、この本は生き続けています。
文庫本として発売されたのは平成13年8月と奥付(本の一番最後のページ)に書いてあります。それからなんと100刷。100回増刷されています。
平成13年は2001年のことで、今から22年前。当時、私は24歳で、大学を出たばかりで、書店で働き始めた年でもありました。
そのときからこの本は本屋にあり、同僚の勧めで存在を知っても読まず、それからまた15年も経って自ら手を伸ばすとは。
辿り着くべき本には辿り着ついてきたんだなあ、という感慨がまずあります。読むべき本とは出会ってきていて、それぞれのタイミングで、それぞれの自分で、吸収すべきものを吸収してきたのだと。
この本を読み、当時の同僚の姿が浮かびました。懐かしい。元気にしているかなと思う。そしてこんな物語が好きだったんだなと、ほんの少し、その人に近づけた感じもします。
本は、人に似ているのかもしれません。出会うべき人には出会ってきたこととも似て。
さて、中学校に入ったばかりの「まい」が主人公です。
5月、まいは学校に行けなくなってしまいます。
心配した両親が頼ったのが、母親の母親、まいのおばあちゃんでした。まいとその母親は、その人のことを「西の魔女」と呼んでいました。
まいはおばあちゃんが大好きでした。そのことをよく口に出してもいました。
「おばあちゃん大好き」と。
すると、西の魔女はこう言うのでした。
「アイ、ノウ」と。自信たっぷりに。
まいは、そんなおばあちゃんとの共同生活をすることになります。それは同時に、まいの「魔女修行」をも意味していました。
魔女といっても、ほうきに跨って飛ぶわけではありません。私がタイトルだけで先入観を抱き、この本を長い間遠ざけてしまったのは「魔女」にまつわるそんな陳腐なイメージでした。
手垢にまみれたうわさ、先入観による思い込み、本当に願うことではないことに反応してしまうくせ。言ってみれば、それら私にも心当たりがあることを乗り越えていくことが、西の魔女が言うところの魔女修行なのでした。
そのためにはまず生活のリズムを作ること。一日の行動の予定を立てて実行すること。そして、何より大事なのは、自分が決めること。
自分が、この自分の生活の主体となること。そのことを、おばあちゃんは、まいと生活をともにする中で、まいに染み込ませていく。
まいが自分を取り戻していく中で、「まい・サンクチュアリ」とおばあちゃんが名付ける場所が現れます。そこは、まいがとても気に入った場所のことで、その土地をおばあちゃんは法的にもまいに譲るのですが、その存在が、とても印象に残りました。
まいは、そこにある切り株に座っているだけでしあわせを感じられます。自分が自分であることを丸ごと受け入れられ、受け入れてもらってもいる。自然と、自然でもあった自分とが、深い呼吸を繰り返すことで交流できるような場所。
ああ、それは私にとって、花との出会いだったんだなと思いました。
あるとき、突然、道端の花の存在に気づきました。
その花は、どこから来ていたのか?
土でした。大地でした。
私は、そのとき、コンクリートやアスファルトや、あるいは言葉に隠されていた土を発見した。
土は自然です。生きている地球のかけらである鉱物の破片と、生きていた生物たちの死骸でできています。
そう、死もまた自然でした。
まいが恐れていたのも死でした。
そのことをおばあちゃんに話せた夜、まいは印象的な夢をみます。
その夢の話も聞いたおばあちゃんは「ありがたい夢ですね」と言う。この言葉もまた私に記憶されました。
夢をありがたく思うその気持ちがいいなあ、と。
おばあちゃんとまいの共同生活は2ヶ月ほどで終わり、その後再会できないままおばあちゃんは死んでしまいます。
まいは、再びおばあちゃんと住んだ家に入る。
すると、おばあちゃんと話していた約束が果たされていたことを知ります。
それが何なのかは、読んでご自分で確かめてみてください。
この本にも、私が知らなかった植物や動物が登場します。
その一つ一つを知ることもまた楽しいです。
梨木香歩 著/新潮文庫/2001
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