泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

共感的理解とは

2022-10-30 17:49:45 | 使える知識

 人が人への信頼を作り、人として成長していく上で必要な3つの体験、「無条件の肯定的配慮」「共感的理解」「純粋性」のうち、2つ目。
「共感的理解」を、どうしたら伝えられるのか? ここのところずっと思っていました。
 まず、「共感」は「同情」ではありません。
 共感は、「共」があるように、お互いの違いを認め、そのまま受け入れることが前提です。個別の違いがあるけれども、共に感情を分かち合えること。
 詩人で小説家で画家でもあった武者小路実篤の言葉を借りれば、「君は君、我は我也、されど仲よき」。
 私の好きな言葉です。「されど」が、共感的理解と読めます。
 一方で、「同情」は、情を同じくすることで、私を忘れることが前提。互いの違いを忘れてしまい、一つの感情に没入すること。一体化する快楽を味わえるけれども、どこか危険な香りもします。私にはあまりいいイメージがありません。サッカーでのファンの暴動とか、ハロウィンでのバカ騒ぎとか、大学生の飲み会とか、カルトとか戦争とか。
 で、「共感的理解」を達成するために必要な下準備として、「内的思考の枠組み」を感知して受け取らなければなりません。
「内的思考の枠組み」とは何か?
 それは、まさにその人を成り立たせている主観の総体。その人が周り(自分自身も含めて)を意味付けする方法であり論理。多くは価値観でできている。それは誰かに植え付けられたものかもしれないし、自主的に摂取したものかもしれない。あるいは生まれつきの特徴もあるかもしれない(発達障害など)。
 習慣で身についたものもある。外からの圧力の影響もある。体の病がそうさせているのかもしれない(認知症とか)。あるいは暑さとか飢えとか。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言います。坊主が憎ければ、その坊主の着ている服までも憎たらしくなる。これは「誤った一般化」の一つですが、そう思う人を理解するには、なぜ坊主が憎くなったのか、その歴史や体験を掘り下げていくしかない。
 どんな人にも、その人独自の世界の了解の仕方があります。人の意味づけの癖も。
「ありのまま」に受け止めることがいかに難しいか、は、実際に人の話を聴いてみればわかります。ほとんどの人が批判をしてしまうのではないでしょうか? 私と違うことを受け入れられずに。「私の正しさ」から抜け出せずに。
 ツイッターに溢れている批判とも言えない悪意に満ちた投稿たち。人や出来事を、そもそも人はそのままに受け取れないのかもしれない、とすら思いたくなる。
 でも、あきらめたら、人は人を信頼しないし成長もしない。真実を理解もせずに、自然を食い尽くして自滅するだけ、あるいはその結末にさえ無関心のままで終わることに同意すること。それは、いやだ。
 子供たちが(私も)大好きなアンパンマンのテーマソングに、こんな歌詞があります。
「何のために生まれて/何をして喜ぶ? わからないまま終わる。そんなのはいやだ!」
 おそらく、「感動」は、「共感的理解」が発生したときに起こる。
 この歌が、東日本大震災の後、ラジオから流れてきて、思わず泣いたことがありました。心の底で思っていたことを言ってくれた気がして。期せずして亡くなった方達の思いを代弁しているようにも感じられて。深いところで、共感的に理解していた。理解してくれていた。こんな体験に裏付けられて(言語化できていなくても)、アンパンマンへの信頼は揺るがない。共に生きている感覚があり、それがその人たちを支える。
 プチ共感的理解は、あちこちにあります。
 本屋で接客していても、お客さんの欲するものにできるだけ近づき、提供できたときの喜びというのは全身に駆け巡って「よかった」と納得できる。
 一緒に働いている仲間の抱えている課題を聴けたこともあった。誰にでも言えることではないことを話してくれたとき、自然に感謝の気持ちが湧き、できる限りその人の「内的思考の枠組み」を理解して、そのために渦巻いている感情や体の不調を共にしようと働いていた。
 そんな動きをしてしまうのは、私がたくさん「共感的理解」をしてもらったから。引き出しに様々な「共感的理解」が使用可能となっているから。ストックがある。
 たくさん本を読んできたことも、もちろん「共感的理解」の育成には役に立つ。引かれる本には、何かしら私にとって必要な知識やドラマや言葉や画像が入っているから。読後の気持ちを言葉にしていく習慣を持っていれば、その本に引かれて読んだ自分自身の何か新しい面を定着させることもできる。

 で、「死にたい」と言う人がいたとして、あなたはどう対応しますか?

 マニュアルでは、「死にたいのですね」と、おおむ返しするのがよいとされます。
 が、おおむ返しだったなら、こいつただ上っ面だけで言ってやがるな、とか、こいつビビってんな使えねえ、とか、こいつもこの程度か、絶望がいよいよ濃くなった、などなど、あっという間に「死にたいのですね」と言った言葉の裏にある態度や気持ちや感情が相手に伝わってしまいます。
 言葉よりも気持ち。言葉は氷山の一角。言葉の下には、膨大な言葉以前の「内的思考の枠組み」や感情や欲がうごめいています。
 人が「死にたい」と訴えたとき、その人の気持ちの1%か0.1%か0.01%かもしれないけれど、どこかに絶対「生きたい」が隠れている。あるいは押し潰されている。じゃなかったら、わざわざあなたに向かってその人は「死にたい」とは言わない。言わずにもう死んでしまっている。
「死ぬ気になれば何でもできる」とか、「死にたいと言う奴ほど死なない」とか、まったくの根拠のない言葉の羅列です。むしろ、「死にたいほど苦しんでいる人」を理解できないことの言い訳です。わからないならわからないと伝えればいい。わかったつもりでやり過ごすこともまた「内的思考の枠組み」の一つと言えます。
 そのとき、その場面、その人の表情、声の調子や動作など、言葉だけではないその人を理解できそうな情報は出ている。どれだけありのままに認知して、応答することができるのか。
 私だったら、どう対応しているでしょう? どれだけ何を感じ取っているかによると思いますが。
「苦しいね」なのか、「つらいね」なのか、もう言葉も出ずに「あー」とか「うん、うん」だけかもしれない。でも、そこに気持ちがこもっていれば、「共感的理解」が伝わっていれば、「死にたい」と言った人の「次」が現れる可能性が開ける。出して、受け取ってもらえたからこそ、「死にたい」が少し空いたスペースに「次」は入っていける。
 その「次」は、その人によって違うでしょう。まだまだ「死にたい」かもしれない。「死にたい」気持ちを出してしまったら、急に疲れが出てきて眠ってしまったかもしれない。見えていなかった葛藤が意識されてくるかもしれない。いずれにしても「次」に動いていくことができる。動くことは生きることにつながっていく。

 人は「わかってほしい」ものです。
 私もそうだった。わかってほしくて書いていた。
「わかってほしい」は、私から誰かへ、という方向だけでなく、私から私へ、という方向もあった。今思えば。
 でもいつからだろう。「わかりたい」と思うようになった。
 いや、この二つ、「わかってほしい」と「わかりたい」は、いつだっていつもあったのかもしれない。
 その時の状態によって、シーソーのように「わかってほしい」が上がっては下がり、「わかりたい」が下がっては上がって。
「わかってほしい」が満たされれば満たされるほど、「わかりたい」は上がっていくのかもしれません。
「みんなちがって、みんないい」は、詩人、金子みすずの言葉。
 大切な言葉。気持ちのこもったゆずれない思い。みすずが、命をかけて、守りたかったこと。
 これが、一人ひとりの「内的思考の枠組み」を支える柱の一つとなることを願ってやみません。

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