当たり前のことなのですが、「写真は今しか撮れない」のでした。
今日、ふと思って、書いておきたくなりました。
しばしば書いてきましたが、このブログが始まったのは、私のカウンセリングが終わるとき。
カウンセラーを相手に充分に語り尽くして、表現の場を自分で作りたくて。
そして、ブログとともに始まっていたのも写真でした。
今はスマホで撮っていますが、かつてはデジカメ。初めてカメラを買って、撮りまくった。
被写体は花が多かった。
どうしてでしょう?
これもカウンセリングが終わるとき、道端に咲いている花に気づいたのでした。
今でも鮮明に覚えています。
目白のカウンセリングセンターからおとめ山公園の脇を通り抜け、右手にあったマンションの生垣。
鮮烈な赤だったので、おそらく椿だったのでしょう。
その花を撮りたい! と強く感じたのでした。
過去に縛られなくなった。足を引っ張られなくなった。
未来が怖くなくなった。蓋が外れた。
過去と未来に挟まれて身動きできなかった。
そこに風穴を開けることができたのは、薬ではなく、人間を相手に語り尽くすことだった。
語って語って語って、今が広がっていった。
そしてやっと見えた。あの花が。
自分の人生を切り開くには、どうしたって語ることが必要です。
語ることによってしか、自分の人生は紡げないのではないかと思います。
人にはその物語を紡ぐ力が備わっている。
のですが、充分に語る機会に恵まれないと、充分に発達することもできません。
そこで「小説」が役に立つわけですが、そこかしこに「陰謀論」も待ち伏せしています。
「陰謀論」って、遠い世界の話だと思っていましたが、そんなことはありませんでした。
インターネットの広がりによって、とても身近なものになったように感じます。
物語の力は、常に陰謀論と闘っていると言っても過言ではないかもしれません。
何かうまくいかないことが重なったとき、「呪われている!」と思ったことはありませんか?
あるいは教室や社内で、「あいつのせいだ!」と決めつけたり。
それらは「陰謀論」の発端かもしれません。
不特定多数の人たちが共有し始め、ほんの発端だったものが誠にそれらしく膨張し形を整えていくと、さらに大きな力を持つようになる。
「陰謀論」が恐ろしいのは、人々を動かす力をも持ってしまうこと。
それらは「陰謀論セット」のようになってしまい、どっぷり浸かってしまった人を「素に戻す」のは大変な労力を要すると想像します。
内面を鍵で閉められてしまったかのように。その鍵とは、「陰謀論という物語」。
そう、陰謀論にも物語の力は働いています。
優れた小説と違うのは、同じ物語であっても向こうは悪役ということでしょうか。
あるいは、個人の自由を尊重しているかしていないかの違い。
陰謀論は悪の存在が前提であり、悪をあぶりだすために必要とされるとも言えます。
だからそこに処罰や粛清や殺しはつきものだし、人々を分断させずにはいられません。
「正義」の振りをして誹謗中傷、というのも、知らず知らずに陰謀論に絡め取られてしまっています。
その人たちの言説は、もはや「大きな物語」という肥大化した陰謀論の中にしか留まらず、陰謀論自体を拡大させることはできますが、その人の人生を生きることからは益々遠くなってしまいます。自分の人生から遠のけば、自然と不安は強くなる。そしてもっと強い陰謀論に縋ることになってしまいます。
この尊い一回だけの人生を、納得して生き切るために、花と写真が助けてくれています。
多くの花たちは、年に一回しか咲きません。
その一瞬のために、一年間準備しています。
その長い助走期間を思うと、花々の美しさと可愛らしさは何十倍にも増します。
だから私は花々に引きつけられる。
そして撮らずにはいられない。
写真は、私の中に記憶されていきます。
そしていつか物語を支える基礎となってくれる。
目に見えない大切なものを、私の中の目に見えない大切な場所に写すように。
今日も、蓮が見たいがために早起きして走りに出たようなものです。
蓮は、やっぱりありがたく、美しかった。
美しいからこそ、撮りたくなる。
その命を大事にしたいと感じる。
美しさ、可愛さもまた、共存の鍵でもありました。
私は、花々の美しさ、可愛さを通して、私の中に共存できる場所を増やしていったのかもしれません。
そしてその共存できる場所は、物語のための舞台になってくれます。
そのように私は私を作ってきたのかもしれません。
混沌の世界に、一つずつ秩序を生み出して。
綿や繭から糸を紡ぐように。
その貴重な糸を編み込む作業が、私にとっては書くことでした。
紡いでは書き、紡いでは書き。そのように途方もなく繰り返して、編み込んで編み込んで、やっと私は私になっていきます。
小説ができていきます。一枚ずつ。
今日、ふと思って、書いておきたくなりました。
しばしば書いてきましたが、このブログが始まったのは、私のカウンセリングが終わるとき。
カウンセラーを相手に充分に語り尽くして、表現の場を自分で作りたくて。
そして、ブログとともに始まっていたのも写真でした。
今はスマホで撮っていますが、かつてはデジカメ。初めてカメラを買って、撮りまくった。
被写体は花が多かった。
どうしてでしょう?
これもカウンセリングが終わるとき、道端に咲いている花に気づいたのでした。
今でも鮮明に覚えています。
目白のカウンセリングセンターからおとめ山公園の脇を通り抜け、右手にあったマンションの生垣。
鮮烈な赤だったので、おそらく椿だったのでしょう。
その花を撮りたい! と強く感じたのでした。
過去に縛られなくなった。足を引っ張られなくなった。
未来が怖くなくなった。蓋が外れた。
過去と未来に挟まれて身動きできなかった。
そこに風穴を開けることができたのは、薬ではなく、人間を相手に語り尽くすことだった。
語って語って語って、今が広がっていった。
そしてやっと見えた。あの花が。
自分の人生を切り開くには、どうしたって語ることが必要です。
語ることによってしか、自分の人生は紡げないのではないかと思います。
人にはその物語を紡ぐ力が備わっている。
のですが、充分に語る機会に恵まれないと、充分に発達することもできません。
そこで「小説」が役に立つわけですが、そこかしこに「陰謀論」も待ち伏せしています。
「陰謀論」って、遠い世界の話だと思っていましたが、そんなことはありませんでした。
インターネットの広がりによって、とても身近なものになったように感じます。
物語の力は、常に陰謀論と闘っていると言っても過言ではないかもしれません。
何かうまくいかないことが重なったとき、「呪われている!」と思ったことはありませんか?
あるいは教室や社内で、「あいつのせいだ!」と決めつけたり。
それらは「陰謀論」の発端かもしれません。
不特定多数の人たちが共有し始め、ほんの発端だったものが誠にそれらしく膨張し形を整えていくと、さらに大きな力を持つようになる。
「陰謀論」が恐ろしいのは、人々を動かす力をも持ってしまうこと。
それらは「陰謀論セット」のようになってしまい、どっぷり浸かってしまった人を「素に戻す」のは大変な労力を要すると想像します。
内面を鍵で閉められてしまったかのように。その鍵とは、「陰謀論という物語」。
そう、陰謀論にも物語の力は働いています。
優れた小説と違うのは、同じ物語であっても向こうは悪役ということでしょうか。
あるいは、個人の自由を尊重しているかしていないかの違い。
陰謀論は悪の存在が前提であり、悪をあぶりだすために必要とされるとも言えます。
だからそこに処罰や粛清や殺しはつきものだし、人々を分断させずにはいられません。
「正義」の振りをして誹謗中傷、というのも、知らず知らずに陰謀論に絡め取られてしまっています。
その人たちの言説は、もはや「大きな物語」という肥大化した陰謀論の中にしか留まらず、陰謀論自体を拡大させることはできますが、その人の人生を生きることからは益々遠くなってしまいます。自分の人生から遠のけば、自然と不安は強くなる。そしてもっと強い陰謀論に縋ることになってしまいます。
この尊い一回だけの人生を、納得して生き切るために、花と写真が助けてくれています。
多くの花たちは、年に一回しか咲きません。
その一瞬のために、一年間準備しています。
その長い助走期間を思うと、花々の美しさと可愛らしさは何十倍にも増します。
だから私は花々に引きつけられる。
そして撮らずにはいられない。
写真は、私の中に記憶されていきます。
そしていつか物語を支える基礎となってくれる。
目に見えない大切なものを、私の中の目に見えない大切な場所に写すように。
今日も、蓮が見たいがために早起きして走りに出たようなものです。
蓮は、やっぱりありがたく、美しかった。
美しいからこそ、撮りたくなる。
その命を大事にしたいと感じる。
美しさ、可愛さもまた、共存の鍵でもありました。
私は、花々の美しさ、可愛さを通して、私の中に共存できる場所を増やしていったのかもしれません。
そしてその共存できる場所は、物語のための舞台になってくれます。
そのように私は私を作ってきたのかもしれません。
混沌の世界に、一つずつ秩序を生み出して。
綿や繭から糸を紡ぐように。
その貴重な糸を編み込む作業が、私にとっては書くことでした。
紡いでは書き、紡いでは書き。そのように途方もなく繰り返して、編み込んで編み込んで、やっと私は私になっていきます。
小説ができていきます。一枚ずつ。
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