実篤を「絵」に分類(このブログのカテゴリーで)するのはちょっとはばかられますが、「エッセー」でも収まらず、というかどこにも収まらず、企画が愛蔵の美術品だったので、「絵」も充実させたいので、そうします。
京王線のつつじヶ丘駅から歩いて十分くらいでしょうか、調布市武者小路実篤記念館はありました。新聞の小さな記事で、作家の原田宗典が講演をしているということで紹介されていて知りました。電車を乗り継ぎ、行ったことのない土地はいつもわくわくして、地図を片手に歩きました。住宅街に溶け込んでいるのは熊谷守一美術館と同じで、受付のおばさん、おじさんも気さくで、「生はやっぱりいいですね~」などと談笑しました。
その「生」とは、自宅が公開されていたのです。書き机には白紙の原稿用紙と眼鏡がそのまま。絵筆も、拾い集めた貝殻もあった。彼が座った形にへこんだ座布団、時の流れとともに痛んだ絨毯、様々な客が来たのだろう対面したソファ。南向きの窓、ベランダからは庭が一望できる。庭には水が湧き上がり、池に鯉が泳ぐ。シャガの写真はその庭で撮ったものです。小さな東屋が二軒たたずみ、親子連れが休んでいる。
僕が一番見つめたのが、やっぱり、座り机と座布団と原稿用紙。ぞくぞくした。立ち尽くした。実篤が見えるようだった。
彼を知ったのは、もう12年も前になるのか。大学受験をすべて失敗し、予備校に通っていたころ、古本屋で出会った黄ばんだ新潮文庫。『友情』『死と愛』などなど。
『友情』は、宮崎県の「新しき村」で書かれていた。34歳。結婚し、子供が誕生していた。理想の実現に燃えていたとき。まさに幸福者のとき。
言ったこととやったことが一致すること、それが芸術家だ、と、今日、出かける前、永六輔のラジオ番組「土曜ワイド」で、ゲストの北山修が爆笑しつつ語っていた。実篤はまさに芸術家。生活のレベルで思想を実践していた。今も4人が「新しき村」で生きているという。本でしか知らなかった世界。それが現在まで続いていることを実感した。
そう、「過去」は切れていない。人間、個人もまたつながっている。現地に赴くこと、当事者に会うこと、関与すること、それに勝る経験はない。切っているのはいつも、私という名の、氷山の一角でしかない、塵より小さい自意識だけ。
内面が充実していること。それが美しいという言葉に感銘を受けました。
愛蔵品は、ルオーやピカソやマティスやマネやルドンや・・・。ピカソにも直接会っていた。真実に喜ぶことのできる人だったんだろう。自分に素直な人だったんだろう。「美こそ不思議」 わからないから引かれ、評論も書くけど、美しいものは美しい。理屈じゃない。美しさは内面から。その内面の過程が文学になる。生活として現れる。
君は君 我は我也 されど仲よき
とても単純で、この書とともにある絵には、大きなかぼちゃと小さなかぼちゃが描かれています。なんとも言えない距離。空気。僕は好きです。「されど」がポイントなんだろう。そこに、人間のできる、人間にしかできない積極的な行為があります。想像、創造、優しさ、理解、思考、寛容、努力・・・。
駅からちょっと遠いけど、散歩にはちょうどいい距離です。企画も二ヵ月ごとに変わり、資料もそろい、実篤に挑戦! と題して絵を描くスペースもあります(子供たちが嬉々としてペンを振るっていた)。お土産には絵葉書と実篤チョコ。実篤チョコがまたおいしいのです。甘すぎず、適度で。
久々に読んでみましょうか。特に詩を。
京王線のつつじヶ丘駅から歩いて十分くらいでしょうか、調布市武者小路実篤記念館はありました。新聞の小さな記事で、作家の原田宗典が講演をしているということで紹介されていて知りました。電車を乗り継ぎ、行ったことのない土地はいつもわくわくして、地図を片手に歩きました。住宅街に溶け込んでいるのは熊谷守一美術館と同じで、受付のおばさん、おじさんも気さくで、「生はやっぱりいいですね~」などと談笑しました。
その「生」とは、自宅が公開されていたのです。書き机には白紙の原稿用紙と眼鏡がそのまま。絵筆も、拾い集めた貝殻もあった。彼が座った形にへこんだ座布団、時の流れとともに痛んだ絨毯、様々な客が来たのだろう対面したソファ。南向きの窓、ベランダからは庭が一望できる。庭には水が湧き上がり、池に鯉が泳ぐ。シャガの写真はその庭で撮ったものです。小さな東屋が二軒たたずみ、親子連れが休んでいる。
僕が一番見つめたのが、やっぱり、座り机と座布団と原稿用紙。ぞくぞくした。立ち尽くした。実篤が見えるようだった。
彼を知ったのは、もう12年も前になるのか。大学受験をすべて失敗し、予備校に通っていたころ、古本屋で出会った黄ばんだ新潮文庫。『友情』『死と愛』などなど。
『友情』は、宮崎県の「新しき村」で書かれていた。34歳。結婚し、子供が誕生していた。理想の実現に燃えていたとき。まさに幸福者のとき。
言ったこととやったことが一致すること、それが芸術家だ、と、今日、出かける前、永六輔のラジオ番組「土曜ワイド」で、ゲストの北山修が爆笑しつつ語っていた。実篤はまさに芸術家。生活のレベルで思想を実践していた。今も4人が「新しき村」で生きているという。本でしか知らなかった世界。それが現在まで続いていることを実感した。
そう、「過去」は切れていない。人間、個人もまたつながっている。現地に赴くこと、当事者に会うこと、関与すること、それに勝る経験はない。切っているのはいつも、私という名の、氷山の一角でしかない、塵より小さい自意識だけ。
内面が充実していること。それが美しいという言葉に感銘を受けました。
愛蔵品は、ルオーやピカソやマティスやマネやルドンや・・・。ピカソにも直接会っていた。真実に喜ぶことのできる人だったんだろう。自分に素直な人だったんだろう。「美こそ不思議」 わからないから引かれ、評論も書くけど、美しいものは美しい。理屈じゃない。美しさは内面から。その内面の過程が文学になる。生活として現れる。
君は君 我は我也 されど仲よき
とても単純で、この書とともにある絵には、大きなかぼちゃと小さなかぼちゃが描かれています。なんとも言えない距離。空気。僕は好きです。「されど」がポイントなんだろう。そこに、人間のできる、人間にしかできない積極的な行為があります。想像、創造、優しさ、理解、思考、寛容、努力・・・。
駅からちょっと遠いけど、散歩にはちょうどいい距離です。企画も二ヵ月ごとに変わり、資料もそろい、実篤に挑戦! と題して絵を描くスペースもあります(子供たちが嬉々としてペンを振るっていた)。お土産には絵葉書と実篤チョコ。実篤チョコがまたおいしいのです。甘すぎず、適度で。
久々に読んでみましょうか。特に詩を。
実篤はいいよ~。
短い言葉で、単純な表現で、いつも心に届く詩や小説を書いてくれた。
中学生だった私に、文学の楽しさを教えてくれたのも彼だったナ。
菊田さんのお陰で、ひさしぶりの実篤に会いました(^^♪