京都国立近代美術館第5回コレクション展「前衛書 」拝見。
4月16日まで。
館のHPから→「明治15年(1882)、小山正太郎が「書ハ美術ナラズ」という文章を発表したことに端を発した岡倉天心との論争が知られているように、明治時代になると書は美術か否かという議論が出てきました。西洋文化が流入し、「美術」という概念が生まれたことで、日本は欧米に倣った美術制度を構築していきました。それまで「書画」と呼ばれていたものが、「書」と「絵画」に分けられ、第3回内国勧業博覧会で絵画は「第二部 美術/第一類 絵画」と最上位に分類され、書は「第二部 美術/第五類 版、写真及書/其三 書」と美術ではあるものの最下位に列せられました。
このような流れが生まれていく時代において、明治13年(1880)に中国から能書家の楊守敬が碑帖を携えて来日し、巌谷一六や日下部鳴鶴などの日本の書家たちはその碑帖から中国の古典書法を学びました。鳴鶴の門下にはのちに「現代書の父」とも称される比田井天来がいました。天来は師の書風を学びつつも古典の臨書に励み、新たな書法の発見へと至りました。古法研究の成果をまとめた臨書集である『学書筌蹄』を発行し、学書院を開いて学書の方法論を広めました。「書は芸術である」とした天来のもとに集まった意欲的な青年たちは書道芸術社を結成し、機関誌『書道芸術』を発刊しました。書道芸術社には書の造形性に注目して前衛書の流れを作った上田桑鳩、漢字とかなを混ぜた親しみやすい近代詩文書を提唱した金子鷗亭、文字の内容にふさわしい形を表現する象書を創始した手島右卿、前衛書の嚆矢として知られている《心線作品第一「電のヴァリエーション」》を制作した比田井南谷らがいました。
第二次世界大戦により一時停滞しましたが、戦後になると上田桑鳩門下の森田子龍、井上有一、江口草玄、関谷義道、中村木子によって京都で墨人会が結成され、彼らの活躍によって前衛書は大きく展開しました。墨人会のメンバーは長谷川三郎や吉原治良などの抽象画家との交流を通して書の造形性を追求し、絵画とも密接な関係を築きました。また、彼らの書は国際的にも評価され、数々の国際展にも出品されました。書は文字であり、実用的な側面を有していることが絵画とは異なる部分でもあり、文字を書いているからこそ生まれる緊張感やダイナミックな筆遣いが前衛書の魅力です。しかし、比田井南谷のように、文字に囚われない自由な書を創作している書家もおり、前衛書といっても一言で語るのは難しいのが実情です。 」
このような流れが生まれていく時代において、明治13年(1880)に中国から能書家の楊守敬が碑帖を携えて来日し、巌谷一六や日下部鳴鶴などの日本の書家たちはその碑帖から中国の古典書法を学びました。鳴鶴の門下にはのちに「現代書の父」とも称される比田井天来がいました。天来は師の書風を学びつつも古典の臨書に励み、新たな書法の発見へと至りました。古法研究の成果をまとめた臨書集である『学書筌蹄』を発行し、学書院を開いて学書の方法論を広めました。「書は芸術である」とした天来のもとに集まった意欲的な青年たちは書道芸術社を結成し、機関誌『書道芸術』を発刊しました。書道芸術社には書の造形性に注目して前衛書の流れを作った上田桑鳩、漢字とかなを混ぜた親しみやすい近代詩文書を提唱した金子鷗亭、文字の内容にふさわしい形を表現する象書を創始した手島右卿、前衛書の嚆矢として知られている《心線作品第一「電のヴァリエーション」》を制作した比田井南谷らがいました。
第二次世界大戦により一時停滞しましたが、戦後になると上田桑鳩門下の森田子龍、井上有一、江口草玄、関谷義道、中村木子によって京都で墨人会が結成され、彼らの活躍によって前衛書は大きく展開しました。墨人会のメンバーは長谷川三郎や吉原治良などの抽象画家との交流を通して書の造形性を追求し、絵画とも密接な関係を築きました。また、彼らの書は国際的にも評価され、数々の国際展にも出品されました。書は文字であり、実用的な側面を有していることが絵画とは異なる部分でもあり、文字を書いているからこそ生まれる緊張感やダイナミックな筆遣いが前衛書の魅力です。しかし、比田井南谷のように、文字に囚われない自由な書を創作している書家もおり、前衛書といっても一言で語るのは難しいのが実情です。 」