『怖れ、恋ふる切なさ、逃げ、高まりたい切なさ、十五の私も四十の私も変わりはないのだ。』 坂口 安吾 . . . 本文を読む
今年も今日で終わり。ということで今年を総括。
総括って少し大げさだけれど、当たり障りのないところでトピックは6つ。
まずは、2月。泥酔カード不正使用事件。危うく150万を盗まれるところだった。カード会社との交渉の末、8万弱の被害に抑えることが出来た。これに関しては、自分自身の甘さと無警戒心に反省。酔っちゃうとさー、気がどうしても大きくなってしまう、反省。被害が8万ポッチで良かった。
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ロバート・キンベルさんと佐渡裕さんの対談番組。キンベルさんに指揮者の仕事を説明するのに、建設工事の現場監督に例えて、説明をしていた。詳しくは覚えていないけれど、確かこんな感じ。『楽譜が設計図、各楽器の演奏者がいろいろな工事の職人、職人とコミュニケーションを取り、設計図を基に建物を完成させる。』うん、うまい、例えだなぁと思う。僕は現場監督だから、現場監督の良いところ、悪いところ、面白いところや問題だなぁと感じるところ、当然分かっているつもり(ただし、まだまだ監督として完璧ではない)。監督と指揮者の仕事が相似ということは、クラシック指揮者の思うところと、僕らが思うところは案外似ているのかもしれない。そう思うと、クラッシクの指揮者に親近感を覚える。作り出すものは指揮者は音楽、現場監督は建物とモノは違う。しかし、そこにかける情熱に、優劣もなければ良悪もない。情熱は英語で〝passion〟。情熱という意味と同時に〝受難〟という意味もある。音楽を作り出すときにかける情熱に比例し、良い音楽を生み出すときの苦しみ〝受難〟もきっと大きくなる。これは僕らも同じ。建築途中の苦しみが大きければ大きいほど、出来上がった時の、こみ上げてくる感情も大きくなる。そう、ちょうどこのCMの主人公の最後のセリフと同じなんだと思う。 . . . 本文を読む
Only those who will risk going too far can possibly find out how far one can go. T.S.Elliot 『遠くへ行き過ぎた者だけが、自分がどこまでいけるのか知ることができる』 . . . 本文を読む
表題の言葉は、先日、発売された筑紫哲也の『国家を考える』という書籍のあとがきに記されていた言葉。全文は、『足なみの合わぬ人を咎めてはいけない。彼はあなたが聞いているより、もっと見事なリズムの太鼓に足なみを合わせているのかもしれない。(ヘンリー・デイヴィット・ソロー)』。佐高信は、あとがきの中で、「私は筑紫哲也ほど、その言葉が似合う人を知らない。むしろ、〝足なみの合わぬ人〟をこそ面白がったのではないか。」と記した。 . . . 本文を読む
映画『フォッグ・オブ・ウォー(2004年)』の中で、エロール・モリス監督はマクナマラの言葉を通して〝キューバ危機での核戦争ギリギリの局面、東京大空襲や原爆投下の犠牲の背景、ベトナム戦争の泥沼化への道、ケネディー大統領の苦悩やジョンソン大統領との対立〟を映し出す。映画の最終局面、インタビューの中で、ロバート・マクナマラは、次の詩を引用し、自らの心境を語った。「人は探求をやめない。そして、探求の果てに元の場所に戻り、初めてその地を理解する(T・S・エリオット)」 . . . 本文を読む
1曲目は『I'll Remember April 49年録音』。ピアニストはバド・パウエル。ピアノトリオにおける名盤中の名盤『バド・パウエルの芸術』のA面の1曲目をセレクト。バド・パウエルというピアニストは、それまでのスウィング派のピアノスタイルとは異なりビバップスタイルのピアノを確立したピアニストの代表的な黒人ピアニストです。このビバップと呼ばれる演奏スタイルが、このアルバムから急に現れたわけで . . . 本文を読む
今度の9/15、ビル・エバンスの30周忌。僕の大学3年生(1992年)の時のN.Y.へのひとり旅の目的の一つは〝FAT TUESDAY〟に行くことだった。1981年9月11日、彼はここ〝FAT TUESDAY〟でライブを行っていたが、突如演奏ができない状態に陥る。その後9月15日に帰らぬ人となる。あまり知られていない話と思うけれど、太陽系に付属する小惑星は現在、天体の中で唯一、発見者に命名提案権が与えられている。1990年に発見された小惑星6007番の名は〝ビル・エバンス〟彼もまた星になってしまったわけだけれども...今もなお、ジャズという音楽の世界に、輝き続けている。 . . . 本文を読む
第二次大戦の空軍爆撃手を自ら経験。戦後、ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』を読み、被爆者が語る体験を知って初めて空爆について、爆弾を落とされる地上の人々の側に立って考え始めました。それから、反体制の平和活動家になり、50年にわたり社会正義を求めて闘いました。コロンビア大学を卒業、50年代後半、アトランタの黒人女子大学で教えていたとき、公民権運動にかかわりました。そして学生を支持して大学を解雇されました。(その時の教え子の一人はアリス・ウォーカーです。)学生非暴力調整委員会の運営委員も務めていました。その後、ボストン大学の教授になりました。1867年の『ベトナム撤退の論理』で無条件の即時撤退を初めて唱えました。翌年べりガン神父と共に北ベトナムに赴き、釈放された米人捕虜3人を引き取りました。ペンタゴン文書を暴露したD.エルズバーグが文書を隠していたのもジン夫妻の家です。1980年に「古典的名著『民衆のアメリカ史』を出版。同署は百万部以上が売れ、米国の歴史観を変えました。 . . . 本文を読む
〝人間は自分自身の歴史を作る。だがそれを、自分の好きなように作るわけではない。自ら選択した状況の下で作るのではなく、過去から与えられ伝達された、すでに存在する状況の下で作るのだ〟カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』でこのように述べた。 . . . 本文を読む