KEVINサイトウの一日一楽 

人生はタフだけれど、一日に一回ぐらい楽しみはある。

タイ通貨危機10周年記念

2007年08月13日 | Biz
 ベトナムで皆と別れ、タイでの交渉事をまとめあげるため、一人バンコクに来た。

 交渉は、つつがなく終わり、とても重要な覚書に調印した。

 この覚書の内容は、いずれ明らかになると思うが、僕の前向きの決意であるとともに、同時に僕をとてもセンチメントにさせる内容のものだ。(何のことか、分からないと思うけれど)

 覚書を結んだ後、僕はLebua at State Towerに登り、酒を飲んだ。
Lebua ”ルブア”は、バンコクの最もホットなスポットの一つで、50階以上の高さを誇るホテルであるが、その屋上にはオープンのレストランとBARがあり、しかも日本では絶対に認められないほど柵が低く、(本当に飛び降りようとすれば簡単に出来る。)眼下にチャオプラヤ河とバンコクの街が広がる。

 
 僕は、ワイン・グラスを片手にバンコクの街並みを眺望しながら、この国で過ごした日々について思い出していた。それは、地獄と、地獄からの帰還の日々だ。

 1997年7月1日香港が中国に返還された。
 その翌日、7月2日外国為替市場に激震が走った。ヘッジ・ファンドの猛烈な売りを浴びて、タイの通貨であるバーツが大暴落したのである。
 この激震は、広くアジアに広がり、インドネシア、フィリッピン、韓国なども通貨が大幅に切り下がり、経済が破綻寸前まで追い込まれた。所謂、アジアの通貨危機である。
 震源地たるタイで、我々は事業を立ち上げたばかりであった。しかも、過去最大の投資をこのタイに行った。
 96年会社設立、土地取得、必要な各種の許認可を取得し、工場建設着工。建屋が竣工し、さてこれからだという矢先の大変動だった。
 
 為替管理には万全の注意を払っていたが、これは僕の予測の範疇を大きく超えたものだった。
 クライシス勃発後、三回に分け、為替のヘッジを行ったが、USドルを中心にした借金は三週間で倍以上になった。
 タイ金融当局は、通貨防衛のため、金利を引き上げ、金利は一時期25%を超えた。多額の借金が一夜で、倍になり、そして25%の金利がかけられたらどうなるか言うまでもないだろう。

 原材料は、一週間毎に値上がりし、瞬く間に原材料の仕入価格が製品の売値よりも高くなった。

 得意先の稼働率も、例えば日本最強のT社グループでさえ、15-20%という水準に落ちた。

 こんな状況下で、ちょっと考えられないぐらいの大きな赤字が毎月出た。
 それは、放置しておけば、会社本体の屋台骨さえ揺るがしかねない大きな赤字額だった。

 努力、能力を超えた状況であったが、そこで事業構造を大きく転換するための矢を放った。
 放った矢を結実させる交渉には、1年半かかった。

 それでも、何とか事業構造の転換に成功した。
 そして、タイ国経済自身も力強い回復力を示し、タイの会社も黒字化に成功した。

 その過程の中で、僕は責任を取り、当時、代表取締役副社長から代表権の無い専務への降格を自ら申し出た。その代わり、部下には一切責任を取らせなかった。全ての責任を自分で負った。

 僕の降格を面白おかしく書いた新聞社がいくつか有り、僕は酷く傷ついた。そして、内心とても荒れた。

 月次決算で初めて黒字が出て、そのお祝いに工場の近くの汚いタイ料理屋で祝杯を上げていた時に、親父が死んだという電話を貰った。
 親父が死んだ時、僕はタイに居たんだ。

 今年で、タイ通貨暴落10周年。タイの通貨はライバルである中国元や、USドルに対して高くなり過ぎ輸出競争力の低下が懸念されるほど回復した。

 眼下に見下ろすバンコクの街は、10年前は全てのビル建築が途中でストップしてクレーンが寂しそうに天を見上げていたのと様変わりで、完成した立派なビルがひしめきあい、とても明るく、お洒落になった。

 地獄から10年、僕は何とか地獄から帰還したが、この10年を節目に、新たに何かを仕掛けようとしている。

 それは、繰り返しになるが、僕の前向きの決意であるとともに、僕をとてもセンチメントにさせる決断だ。


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2 コメント

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かなり、センチメンタル・・・ (上海色鬼)
2007-08-15 21:40:01
嗚呼 あれからもう10年なんですね。

故会長が亡くなられた時のことは、今も鮮明に記憶しております。訃報を受けたKEVIN様の顔が今も忘れません。
苦節5年目にして単月黒字化した月に何という運命の悪戯・・・

苦しかった時期を共に戦った同郷の仲間、タイ人スタッフの事を思うと、いまも特別な感傷が沸き上がってきます。

しかし過去から学んだことを経験に、未来に向けさらに前進してゆくことが、僕を伸ばし発展させてくれたタイへの恩返しと思って今後も頑張っていきます。

かなり、センチメンタルな上海色鬼でした。
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本当にいろいろな事が (Kevin)
2007-08-17 14:18:46
>上海色鬼さん

 タイといえば、君。君といえばタイ。盤国色鬼とでも名前を変えたら?

 96年に君が来て、その後、Hの病気による帰国、闘病生活の後の死去、タイの通貨危機、変な台湾人のゴルフ場への出現、TAKちゃんの結婚、PENちゃんとの出会い、マハチャイの美人姉妹とのビジネス、枡酒親父とバンコクの居酒屋「蔵太鼓」。この枡酒親父も逝ってしまったし、本当に色んな事がありました。

 でも、前を向いて行こう。
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