ゴジ、というニックネームの由来はゴジラですよね、長谷川和彦さん。
ゴジラは、化学兵器或いは他の巨獣から痛めつけられても、必ず復活し、いつの時代も矜持を持って暴れ続けています。
大学の映画研究会に入って、映画館に入り浸りだった時代、貴方は、僕達、映画少年にとっては時代の寵児でした。
クマさん(神代辰巳監督)の助監督として、殆ど貴方が、脚本を含め撮っているのではないかと思わせた「青春の蹉跌」の瑞々しさ。名作である石川達三の原作を時代遅れと思わせてしまう映像表現。原作では、古典的なエリートが自己保身を図る為に犯してしまう挫折を描いているけど、映画の主人公は、はなからエリートという自分に居心地の悪さを感じているフワフワした不確かな存在。それは、シラケ世代と言われた僕達自身の気分と重なりました〜エンヤトット〜、エリートやるのもかったるいなって感じ。
今、僕はゴダイゴの「新創世記」を聞いています。ゴダイゴなんて、元々は全く興味がないバンドです。今も、昔も。でも貴方が、貴方の衝撃的なデビュー作「青春の殺人者」で使った4曲だけは別です。
冒頭に使われる”If you are passing by that away “ 。劇中に効果的に使われる”yellow center line” 、“magic painting” そしてテーマ曲でもあるラスト・シーンの”good to be home again “
一体、この4曲を何度聞いたんだろう。千回以上 ?勿論、好きな曲なんだけど、それ以上に映画のシーンを思い出す為に僕はこの曲を、昔はカセットテーププレーヤーで、そして、現在はiPhoneで聞き続けています。
オープ二ング・シーン。水溜りの道を歩く水谷豊を撮ったロングショット。その横をトラックが通り過ぎて、水溜りの水を派手にはね上げ、ずぶ濡れになる豊。そこに被さる”If you are passing by”。僕にとっては、我が映画人生のベストシーンです。
「青春の殺人者」は、成田で実際に起こった両親殺しという陰惨な事件を描いています。
大島渚組で異能を発揮した田村孟の脚本は完璧で、親殺しという事件に相応しい息詰まる緊迫のドラマが展開されます。「キネマ旬報」に載ったシナリオを三度ほど読みました。でも、ゴジによって映像化された映画は、随分、脚本と印象が違います。多分、手練手管の巨匠が、この田村の脚本で映画化していたら息継ぐことさえ許さない緊迫の映画になってたと思うし、それはそれで間違い無く高い評価を受けたと思う。でも、ゴジの撮った映画は、こんなに悲惨な設定にも関わらず、何故か明るさもある。緊迫感は勿論あるけれど、ガチガチではない抜けの感覚もある。それは、ゴジ、水谷豊、原田美枝子という若い監督、若い役者から発散されるエネルギーと、肉体の力、良い意味での未熟さが、田村の書いた親殺し→エディプス・コンプレックスという完成度の高い観念性を超えてしまったんだと思います。
「青春の殺人者」ダサい題名だけど、この映画に充満した若さと肉体の躍動が「殺人者」の物語を、はからずしも「青春」の物語に変えた。それは、神代ーゴジ版の「青春の蹉跌」が、石川達三の古典を僕達の”今の物語”に変えたのと同じ様に、親殺しという凄惨な事件を僕達の事件、物語に変えた。だから、本質的には明るい話しではなくても何度も観たくなってしまうのだと思います。
ラストシーン、トラックの荷台に乗って何処かへ旅立とうとする水谷豊。そこに被さるgood to be home の美しいメロディ。親殺しの後なのに、彼の顔は何故か穏やかで、爽やかで、やがてトラックは高速道路のライトが点在する闇の中に消えていく。
親殺し=若者の自立という図式ではなく、若い肉体の中に宿る何ともし難いモヤモヤとか、衝動。それを、そのままポンと目の前に荒々しく差し出すことを、成功たらしめたのは、ゴジさんの中にこそ、そういった強い感情と衝動があるからだと思います。
そういうモヤモヤ、衝動をもっと過激に行動に移したのが、二作目の「太陽を盗んだ男」です。何せ、原爆を自分で作って、国を脅す男の話ですから。これは、僕の日本映画ベスト1です。
衝撃的で、尚且つ、エンタテインメント性にも飛んだ「太陽を盗んだ男」の次の作品を僕達ゴジ・ファンは、ずっと待っています。
今は、2019年。「太陽を盗んだ男」が上映されたのが、1979年。実に40年も僕らは、待ち続けています。
長谷川和彦さん、ゴジラは今でも現役で世界中の街をぶち壊し、人々を戦慄に陥れてます。
僕らが待ち続けているゴジラが復活することは、もう無いのでしょうか?
老いても荒ぶるゴジが撮る映画を観たいです。
ゴジラは、化学兵器或いは他の巨獣から痛めつけられても、必ず復活し、いつの時代も矜持を持って暴れ続けています。
大学の映画研究会に入って、映画館に入り浸りだった時代、貴方は、僕達、映画少年にとっては時代の寵児でした。
クマさん(神代辰巳監督)の助監督として、殆ど貴方が、脚本を含め撮っているのではないかと思わせた「青春の蹉跌」の瑞々しさ。名作である石川達三の原作を時代遅れと思わせてしまう映像表現。原作では、古典的なエリートが自己保身を図る為に犯してしまう挫折を描いているけど、映画の主人公は、はなからエリートという自分に居心地の悪さを感じているフワフワした不確かな存在。それは、シラケ世代と言われた僕達自身の気分と重なりました〜エンヤトット〜、エリートやるのもかったるいなって感じ。
今、僕はゴダイゴの「新創世記」を聞いています。ゴダイゴなんて、元々は全く興味がないバンドです。今も、昔も。でも貴方が、貴方の衝撃的なデビュー作「青春の殺人者」で使った4曲だけは別です。
冒頭に使われる”If you are passing by that away “ 。劇中に効果的に使われる”yellow center line” 、“magic painting” そしてテーマ曲でもあるラスト・シーンの”good to be home again “
一体、この4曲を何度聞いたんだろう。千回以上 ?勿論、好きな曲なんだけど、それ以上に映画のシーンを思い出す為に僕はこの曲を、昔はカセットテーププレーヤーで、そして、現在はiPhoneで聞き続けています。
オープ二ング・シーン。水溜りの道を歩く水谷豊を撮ったロングショット。その横をトラックが通り過ぎて、水溜りの水を派手にはね上げ、ずぶ濡れになる豊。そこに被さる”If you are passing by”。僕にとっては、我が映画人生のベストシーンです。
「青春の殺人者」は、成田で実際に起こった両親殺しという陰惨な事件を描いています。
大島渚組で異能を発揮した田村孟の脚本は完璧で、親殺しという事件に相応しい息詰まる緊迫のドラマが展開されます。「キネマ旬報」に載ったシナリオを三度ほど読みました。でも、ゴジによって映像化された映画は、随分、脚本と印象が違います。多分、手練手管の巨匠が、この田村の脚本で映画化していたら息継ぐことさえ許さない緊迫の映画になってたと思うし、それはそれで間違い無く高い評価を受けたと思う。でも、ゴジの撮った映画は、こんなに悲惨な設定にも関わらず、何故か明るさもある。緊迫感は勿論あるけれど、ガチガチではない抜けの感覚もある。それは、ゴジ、水谷豊、原田美枝子という若い監督、若い役者から発散されるエネルギーと、肉体の力、良い意味での未熟さが、田村の書いた親殺し→エディプス・コンプレックスという完成度の高い観念性を超えてしまったんだと思います。
「青春の殺人者」ダサい題名だけど、この映画に充満した若さと肉体の躍動が「殺人者」の物語を、はからずしも「青春」の物語に変えた。それは、神代ーゴジ版の「青春の蹉跌」が、石川達三の古典を僕達の”今の物語”に変えたのと同じ様に、親殺しという凄惨な事件を僕達の事件、物語に変えた。だから、本質的には明るい話しではなくても何度も観たくなってしまうのだと思います。
ラストシーン、トラックの荷台に乗って何処かへ旅立とうとする水谷豊。そこに被さるgood to be home の美しいメロディ。親殺しの後なのに、彼の顔は何故か穏やかで、爽やかで、やがてトラックは高速道路のライトが点在する闇の中に消えていく。
親殺し=若者の自立という図式ではなく、若い肉体の中に宿る何ともし難いモヤモヤとか、衝動。それを、そのままポンと目の前に荒々しく差し出すことを、成功たらしめたのは、ゴジさんの中にこそ、そういった強い感情と衝動があるからだと思います。
そういうモヤモヤ、衝動をもっと過激に行動に移したのが、二作目の「太陽を盗んだ男」です。何せ、原爆を自分で作って、国を脅す男の話ですから。これは、僕の日本映画ベスト1です。
衝撃的で、尚且つ、エンタテインメント性にも飛んだ「太陽を盗んだ男」の次の作品を僕達ゴジ・ファンは、ずっと待っています。
今は、2019年。「太陽を盗んだ男」が上映されたのが、1979年。実に40年も僕らは、待ち続けています。
長谷川和彦さん、ゴジラは今でも現役で世界中の街をぶち壊し、人々を戦慄に陥れてます。
僕らが待ち続けているゴジラが復活することは、もう無いのでしょうか?
老いても荒ぶるゴジが撮る映画を観たいです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます