名古屋ブルー・ノートで行われたリンダ・ルイス(LINDA LEWIS)のライヴに行った。
リンダ・ルイスといっても、知っているのはよほどの”通”だけだろう。
リンダは、1950年ロンドン産まれの黒人シンガー・ソング・ライターである。国籍は英国だが、祖父はジャマイカ人という血筋だ。
リンダの名前を知ったのは、僕がまだジュニア・ハイスクールの少年だった頃だと思う。
当時、愛読していた「ニュー・ミュージック・マガジン」(現:ミュージック・マガジン)で、尊敬する音楽評論家の中村とうよう氏がリンダの”LARK”というアルバムを絶賛し、その存在を知った。
辛口の評論で知られるとうよう氏が、確かその年のBEST1か、採点100点を与えていて、一体どんなシンガーなのかと僕の興味は爆発した。
しかし、”LARK”は日本で発売されることがなかった。その当時は、今のように簡単に輸入盤を手に入れることが出来なかった。そのため"Heart Strings"という"Lark"からの曲を中心に構成されたベスト盤が日本で初めて発売されるまで数年もリンダの声を聞くのを待たなくてはならなかった。
彼女は、僕にとって幻のシンガーだった。
"Heart Strings"で聞いたリンダの歌は予想通りに素晴らしいものだった。
5オクターブの音域を持つ声は、まさに"LARK"=雲雀のように信じられない高音域を中心に自由自在に踊る。実にキュートで、リズム感も抜群だ。
そして、リンダはシンガーだけではなく、ソング・ライターでもある。
殆どの曲を自分で作詞作曲している。
その曲想は、フォーク、ロック、ソウル、カリプソ、ゴスペルなどの様々な要素を混在しながら、ユニークかつオリジナルで、美しいものだ。
思い出した。中村とうよう氏は確かこう書いていたはずだ。
<女性のシンガー・ソングライターも最近は珍しくないが、ジョニ・ミッチェルとローラ・ニーロとキャロル・キングがタバになってかかっても、リンダ・ルイスにはかなわない・・・>と。
リンダの才能は多くのビッグ・ミュージシャンを魅了した。
全盛時のスティービィー・ワンダーがロンドンに来た時に「ロンドンで一番会いたい人は」と問われて「リンダ・ルイス」と答えた。デビッド・ボウイも、ロッド・スチュワートも、キャット・スティーブンソンもリンダにバックで歌ってもらうことを強く望んだ。
これほどの才能を持ち、そして才能をいかんなく発揮した素晴らしい曲を発表しながらもリンダ・ルイスは商業シーンで爆発することなく、時が過ぎた。
僕は、思い出したようにリンダの曲を時々聞き続けてきたが、いつしか彼女の存在が語られる機会は減っていった。
そして、リンダはブルー・ノートに来た。
小柄で、細くて、キュートな黒人女性だったリンダは、どっしりと太ったおばさんになっていた。
ブルー・ノートも、いつもに比べると空席が目立つ。
天才の末路のドサ廻りを見るような少し悲しい気持ちになってきた。
そんな事を考えながら、リンダの公演が始った。
少し飛ぶ高度は落ちたかもしれないけれど、LARKの歌声は健在だった。
可も無く、不可も無いミュージシャンがバックだが、リンダの歌と曲は相変わらず圧倒的にオリジナルで気持ち良かった。
リンダがデビューした当時、新人の黒人シンガーに求められていたのは、ソウルやディスコ・ミュージックであって、ジョニ・ミッチェルのようにギターを片手にあらゆる音楽の要素をクロス・オーヴァーした曲を作り、歌うリンダを音楽業界はどう扱ってよいか焦点が絞りきれなかった。それが彼女の商業的成功を阻んだ。
その後、"Loving You"でブレイクしたミニー・リパートンなどはリンダのコピーと言ってもよいし、90年代には、ギターの弾き語りで成功する黒人ミュージシャンも多数出てきた。
リンダは天才ゆえに、先を行き過ぎていた。
天才ゆえに、メジャーになれなかった。
彼女が、プライベートで幸せか、どうか分からない。
しかし、空席の目立つスタージを見ながら、天才の不幸を思った。
天才は、その強烈な才能の発揮ゆえに、凡人の一生分を短期間で駆け抜けて、逝ってしまうか、リンダのように不遇をかこつか、必ずしも幸せではない。
僕の目の前に、メジャーになれなかった天才がいた。
リンダ・ルイスといっても、知っているのはよほどの”通”だけだろう。
リンダは、1950年ロンドン産まれの黒人シンガー・ソング・ライターである。国籍は英国だが、祖父はジャマイカ人という血筋だ。
リンダの名前を知ったのは、僕がまだジュニア・ハイスクールの少年だった頃だと思う。
当時、愛読していた「ニュー・ミュージック・マガジン」(現:ミュージック・マガジン)で、尊敬する音楽評論家の中村とうよう氏がリンダの”LARK”というアルバムを絶賛し、その存在を知った。
辛口の評論で知られるとうよう氏が、確かその年のBEST1か、採点100点を与えていて、一体どんなシンガーなのかと僕の興味は爆発した。
しかし、”LARK”は日本で発売されることがなかった。その当時は、今のように簡単に輸入盤を手に入れることが出来なかった。そのため"Heart Strings"という"Lark"からの曲を中心に構成されたベスト盤が日本で初めて発売されるまで数年もリンダの声を聞くのを待たなくてはならなかった。
彼女は、僕にとって幻のシンガーだった。
"Heart Strings"で聞いたリンダの歌は予想通りに素晴らしいものだった。
5オクターブの音域を持つ声は、まさに"LARK"=雲雀のように信じられない高音域を中心に自由自在に踊る。実にキュートで、リズム感も抜群だ。
そして、リンダはシンガーだけではなく、ソング・ライターでもある。
殆どの曲を自分で作詞作曲している。
その曲想は、フォーク、ロック、ソウル、カリプソ、ゴスペルなどの様々な要素を混在しながら、ユニークかつオリジナルで、美しいものだ。
思い出した。中村とうよう氏は確かこう書いていたはずだ。
<女性のシンガー・ソングライターも最近は珍しくないが、ジョニ・ミッチェルとローラ・ニーロとキャロル・キングがタバになってかかっても、リンダ・ルイスにはかなわない・・・>と。
リンダの才能は多くのビッグ・ミュージシャンを魅了した。
全盛時のスティービィー・ワンダーがロンドンに来た時に「ロンドンで一番会いたい人は」と問われて「リンダ・ルイス」と答えた。デビッド・ボウイも、ロッド・スチュワートも、キャット・スティーブンソンもリンダにバックで歌ってもらうことを強く望んだ。
これほどの才能を持ち、そして才能をいかんなく発揮した素晴らしい曲を発表しながらもリンダ・ルイスは商業シーンで爆発することなく、時が過ぎた。
僕は、思い出したようにリンダの曲を時々聞き続けてきたが、いつしか彼女の存在が語られる機会は減っていった。
そして、リンダはブルー・ノートに来た。
小柄で、細くて、キュートな黒人女性だったリンダは、どっしりと太ったおばさんになっていた。
ブルー・ノートも、いつもに比べると空席が目立つ。
天才の末路のドサ廻りを見るような少し悲しい気持ちになってきた。
そんな事を考えながら、リンダの公演が始った。
少し飛ぶ高度は落ちたかもしれないけれど、LARKの歌声は健在だった。
可も無く、不可も無いミュージシャンがバックだが、リンダの歌と曲は相変わらず圧倒的にオリジナルで気持ち良かった。
リンダがデビューした当時、新人の黒人シンガーに求められていたのは、ソウルやディスコ・ミュージックであって、ジョニ・ミッチェルのようにギターを片手にあらゆる音楽の要素をクロス・オーヴァーした曲を作り、歌うリンダを音楽業界はどう扱ってよいか焦点が絞りきれなかった。それが彼女の商業的成功を阻んだ。
その後、"Loving You"でブレイクしたミニー・リパートンなどはリンダのコピーと言ってもよいし、90年代には、ギターの弾き語りで成功する黒人ミュージシャンも多数出てきた。
リンダは天才ゆえに、先を行き過ぎていた。
天才ゆえに、メジャーになれなかった。
彼女が、プライベートで幸せか、どうか分からない。
しかし、空席の目立つスタージを見ながら、天才の不幸を思った。
天才は、その強烈な才能の発揮ゆえに、凡人の一生分を短期間で駆け抜けて、逝ってしまうか、リンダのように不遇をかこつか、必ずしも幸せではない。
僕の目の前に、メジャーになれなかった天才がいた。
あんた評論家かい?何言ってんだよ。
ミニーさんは未聴ですので、ノーコメント。
知名度がある、少ないは関係ないのではないか。