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旅日記

石見の伝説と歴史の物語−1 (江の川流域)

民話と伝説について一般的な定義は次の通りである。

①民話は民衆の生活のなかから生まれ、民衆によって口承されてきた説話のこと。

②伝説とは、ある時、特定の場所において起きたと信じられ語り伝えられてきた話。

民話は、その出来事が本当にあったか出来事かどうかは、言っている人も、聞く人も、あまり重要視しない、また登場するものも人間だけではなく、言葉をはなす動物の場合もあり、その話は何らかの教訓を含んでいるときもある。

伝説は、年代や日時も割と明らかである場合が多く、通常起こり得ない事件や、有名人が引き起こした事件が語られることが多い。また伝わっていくうちに尾ひれや背びれがつくケースもある。

この物語は、民話と伝説を参考にして表にでていない出来事を想像するものである。物語は江の川流域を主な舞台とするので、まずは江の川について述べておきたい。

 

1. 江の川

江の川は中国山地の広島県山県郡北広島町阿佐山に源を発し南東に進み、安芸高田から北東に流れを変え、三次に向かう。

三次からは北に進み島根県邑智郡美郷町粕淵付近でUターンするように南西に向きを変えるが、桜江町あたりで、再び北西に流れを変え江津市で日本海に注ぐ。

江の川はこのように、幾度も流れを変えるため、源流から河口までの直線距離では約50Kmであるが、川の流路延長は約190Kmと3倍以上と長い。

この江の川のように山地を横切って流れる川は、地学的には「先行河川」と呼ばれる。

「先行河川」とは”山地の隆起に先行する川”という意味で、山地が隆起する前の大地を流れていた川が、隆起速度を上回って谷を削り、同じ方向に流れ続ける川である。

​​

 

江の川は粕淵付近でUターンするように方向を変えている。

しかし約200万年前頃までは江の川は粕淵で曲流しておらず、大田市方向に流れていた。

江の川の右岸にあたる大田市南西部には、水上層と呼ばれる約300〜200万年前の地層があり、この地層はかつての江の川が運んだとみられる礫が主体であることが、これを証明している。

ところが断層活動が起こり、江の川は粕淵付近でその流れを変えたのである。

このように、山地の隆起速度が川の下刻作用を上回る時は山地の隆起によって流れが変えられるのである。

なお、粕淵から因原までは北東から南西の方向にほぼ直線的な流れになっており、この方向は中国山地の主要な断層の方向と同じで、また海岸線もこれと並行している。

 

1.1. 江の川流域

江の川はその長さは日本で12番目で、流域面積は日本で16番目であるが、大河の割には、三次盆地を除くと平野部が少ない。

平成19年8月10日付けの国土交通省河川局の資料「江の川水系の流域及び河川概要(案)」によると、流域の土地利用は次のとおりである。

①山地等:約92% ②水田や田畑等の農地:約7% ③宅地等の市街地:約1%

江の川は他の川と比べて流れは急ではない。それ故に舟運に適し、山と海や山陰と山陽を結ぶ動脈でもあった。

これは、この江の川沿いの狭隘な鄙びた山村や農村で中央の文化・経済の影響を受け独自の文化や暮らしを形成していった一つの大きな要因だと思われる。

 



1.1.1. 江の川沿岸

 

氾濫原

江の川は前述したように「先行河川」であり、隆起する大地を削りながら曲折して流れる、嵌入蛇行をしており、自由蛇行のような造野作用は出来ない。

これが平野部が少ない原因である。

江の川の平野部は、蛇行帯に細長な氾濫原をあまた形成して、そこに原野と集落が形成されていった。

氾濫原とは洪水などによって河川が氾濫し、運ばれてきた土・砂・小石などが堆積して生じた土地である。氾濫原は蛇曲によって左右両岸に互い違いに振り分けられている。

この氾濫原の対岸は険しい断崖(河食崖)となっており、隣の氾濫原に行くために昔は岩壁の僅かなくぼみに細々とした小径を作り、危険な往来をしていた。

 

遷急点

出羽川、千原川、井原川、八戸川などの江の川支流には、遷急点(川の縦断面で傾斜が急変する所)が数多く存在する。

これは、(岩石の硬軟の影響もあるが)江の川と支流の下刻作用の速さの差によって起こるもので、水量の多い江の川は下刻作用が速やかに行われるが、支流は本流の下刻の速さに遅れる事によるものである。

桜江町千丈渓、邑南町断魚渓、美郷町蟠龍挟などは代表的なもので、小さな支流でも観音滝、赤馬滝、など数多くの遷急点を見ることができる。

<千丈渓>           

<断魚渓>

<蟠龍挟>

<観音滝>

<赤馬滝>

 

1.1.2. 水害防備林

江の川の沿岸は、有史以来洪水に見舞われてきたと言われている。

流域における最古の洪水記録は天福元年(1233年)のことで川本町弓ヶ峯八幡宮の縁起にある。

江戸時代の記録を集計すると、23年に一度洪水に見舞われていたという。

記録によれば、1620年から1945年の325年間で洪水は133回あった。

 

豪雨をさばく直接の機能は河道(河川の流水が流れ下る部分)である。

この河道は常に河谷(川の流れで、両側が侵食されてできた谷)であるが、江の川は峡谷である。

しかも三次から河口までは徹底して峡谷の連続である。

これは、前述したように先行河川の宿命とも言える。

河谷に沿う氾濫原はかつての江の川の旧河道であり、現在流れている河道の河床との比高は極めて小さい。

従って、平常時は河床によってさばかれるが、一朝大雨となると河床を溢れた流水は旧河道の氾濫原に氾濫せざるを得なくなるのである。

江の川沿岸の大部分の住民は、この氾濫原を承知でここを耕し、ここに移住しているが、それでも被害を最小限に抑えようとして、古来水害防備林等を作り防衛している。

 

洪水対策の歴史としては、1200年程前より弘法大師が竹林を植えることを教えたと伝えられており、竹林が出水時の水の勢いを緩和し、堤防の侵食崩壊を防ぐのに役立つことが経験的に知られ広まったものと考えられている。

江の川下流の河岸には、堤防に沿って幅20〜30mの竹林(川本町〜桜江町)が部分的に残っているのを現在でも確認することが出来る。

<現存する水害防備林 桜江町田津>




 

<続く>

<次の話>

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