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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−36(萬寿の大津波と江の川の洪水−1)

14. 萬寿の大津波と江の川の洪水

島根県石見地方で万寿3年5月23日(西暦1026年6月16日)に大津波が起きた、と古い時代の数々の文献記録に残っている。

この津波は益田沖で発生した地震によるものであるが、その地震の規模は少なくとも明治5年(1872年)2月6日に発生した浜田地震(マグニチュード7.1)よりは大規模でM = 7.5〜7.8程度と推定されている。

この地震、津波によって益田沖の鴨島、鍋島および柏島が沈んだと伝わっている。

文献記録によると、万寿津波の被害は益田平野のみならず西の山口県萩市須佐から東の江津市黒松町付近まで 、あるいは大田市鳥井町あたりまでの百数十kmに及び、さらには江の川を遡った川本町川下までの広範囲に及んだとされている。


14.1. 地震の規模と発生頻度について

地震の大きさをイメージするために、日本で印象の深い大地震のマグニチュードは次の通りである。

①大正13年9月1日  関東地震(大正関東地震、関東大震災) - M7.9

②平成7年1月17日  兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災、阪神大震災) - Mj7.3

③平成23年3月11日  東北地方太平洋沖地震(東日本大震災) -Mj8.4

Mjとは地震発生直後に公表されるマグニチュードで「気象庁マグニチュード(Mj)」と表記される。

 

地震が発生する頻度

1.1年間の平均でみた、世界で起こっている地震の数は表1のとおりである。

 (表1) 世界の地震回数(1年間の平均:USGS(アメリカ地質調査所)による)

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マグニチュード 回数(1年間の平均) 備考
M8.0以上 1 1900年以降のデータによる
M7.0 - 7.9 17 1990年以降のデータによる
M6.0 - 6.9 134 1990年以降のデータによる
M5.0 - 5.9 1,319 1990年以降のデータによる
M4.0 - 4.9 13,000 推定値
M3.0 - 3.9 130,000 推定値
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2.1年間の平均でみた日本及びその周辺で起こっている地震の数は表2のとおりである。

表1と比べてみると、日本及びその周辺では、世界で起こっている地震のほぼ1/10にあたる数の地震が発生していることが分かる。

(表2) 日本及びその周辺の地震回数(1年間の平均)
※2001年~2010年の気象庁の震源データをもとに算出している。

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マグニチュード 回数(1年間の平均)
M8.0以上 0.2(10年に2回)
M7.0 - 7.9 3
M6.0 - 6.9 17
M5.0 - 5.9 140
M4.0 - 4.9 約900
M3.0 - 3.9 約3,800

 

こうしてみると、大地震が頻繁に起こっていることに驚く。

その昔は、大地震などの記録や伝承が少ないのは、頻繁に起こることと、その原因が祟によるものだ、と諦めていたのかもしれない。

 

14.2. 萬寿大地震の記録

「島根県技術士会員」の加藤芳郎氏は、室町時代中頃の1448-1450年頃に書かれた「正徹物語」が、万寿津波に類する事件について記した最初の書物であり、「正徹物語」以外の書物の多くは江戸時代以降の作品である、と述べている。

また江戸時代に数多く編まれた石見国名所集に、万寿津波についての記述がある。
これらの中から次の書物の万寿津波に関係すると思われる記述を見ていくことにする。
安永3年(1774年) 石見名所方角図解  香川・江村著
文化14年(1817年)角彰経石見八重葎  石田春律著
明治5年(1872年) 石見海底能伊久里  金子杜駿著

 

14.2.1. 正徹物語

著者は京都東福寺の書記であった正徹(永徳元年(1381年)〜長禄3年(1459年))である。

この正徹物語の「人麻呂出現」の項に「大雨が降ったときにあたり一面海となって人麻呂像が流された。洪水で流出した人麻呂の木像が流れ着いたところに堂を建立した」などと書かれている。

ここに書かれている人麻呂像とは、鴨島に建てられていた人麿を祀る小社の神体である。

万寿津波によって鴨島は海底に沈み、そのときにこの人麻呂像が流されたものである。

 

   正徹物語抜粋( )内は注釈

人丸(柿本人麻呂)の木像は石見国と大和国(柿本寺)にあり。

 石見の高津といふ所なり。この所は西の方には入海ありて、うしろには高津の山がめぐれる所に、はたけなかに宝形造の堂に安置申したり。 片手には筆を取り、片手には紙をもち給へり。木像にておはすなり。

一年(ひととせ=ある年)大雨の降りし頃は、そのあたりも水出でて、海のうしほもみちて海になりて、この堂もうしほか波かにひかれて、いづちともゆきかたしらずうせ侍りき。

さて水引きたりし後、地下(在地の住民)の者その跡に畠をつくらんとて、鋤鍬などにて掘りたれば、なにやらんあたるやうに聞えしほどに、掘り出だしてみれば、この人丸なり。
 

筆もおとさず持ちて、藻屑の中にましましたり。ただごとにあらずとて、やがて彩色奉りて、もとのやうに堂を立てて安置し奉りけり。 

この事伝はりて二三ヶ国の者ども みなみなこれへ参りたりけるよし、人の語りしを承り侍りし。

この高津は人麿の住み給ひし所なり。 万葉に

石見野や高津の山の木の間より我ふる袖をいも見つらんか

といふ歌は、ここにて詠み給ひしなり。ここにて死去ありけるなり。

自逝(辞世)の歌も上旬は同じ物なり。

石見野や高津の山の木の間よりこの世の月を見はてつるかな

とあるなり。 人丸には子細ある事なり。 和歌の絶えんとする時、必ず人間(じんかん=この世)に再来して、 この道を続ぎ給ふべきなり。 神とあらはれしことも度々の事なり。

 

この「正徹物語」では大雨が降ったときに当たり一面海となって人麻呂像が流された、と書かれているが、流されたのは津波によるものである、とは書いていない。

この災害が起こった年代は書かれていないが、万寿津波が起こったときのことと考えられている。

「正徹物語」が書かれたのは万寿津波が起きてから約四百数十年後のことであり、伝聞を元に書かれたものであると思われるので、止むを得ないことかもしれない。

 

<続く>

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