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旅日記

蓮華寺(滋賀県米原市)北条仲時、従士四百三十余名の墓

浄土宗本山 八葉山蓮華寺は滋賀県米原市番場511にあります。

 

 

かつて番場は、中山道の62番目の宿場町でした。

現在街道の傍に「宿場跡」の石碑が各所に建っています。

蓮華寺境内に、樹齢700年の巨木「一向杉」と「番場忠太郎地蔵尊」があります。

 

また、この寺は南北朝の古戦場になった寺でもあります。

 

蓮華寺での集団自決

鎌倉時代の末期の元弘3年(1333年)5月7日 足利高氏は幕府を裏切り京に攻め込み、激戦が始まりました。

戦いは次第に幕府軍が押され始めてきました。

劣勢を悟った六波羅探題南方北条時益・六波羅探題北方北条仲時らは、光厳天皇や後伏見上皇、花園上皇を伴い、再起を図って鎌倉へ落ち延びようとします。(六波羅探題南方北条時益は山科手前で死亡します)

しかし、すでに行く先には落人を狙う野伏達が待ち構えていました。

馬場の宿(滋賀県米原市馬場)に着いた時、南朝軍の重囲に陥り、止むなく玉輩を蓮華寺に移して戦います。

しかし、遂に敗れこの蓮華寺の本堂前で北条仲時は一族郎党432名とともに自刃しました。

その際に血が川の様になって流れたと伝わっています。

 

蓮華寺(滋賀県米原市)北条仲時、従士四百三十余名の墓

 

蓮華寺の縁起によると

元弘3年(1333年) 5月7日の京都合戦に敗れた六波羅探題北条仲時公は北朝の天子光厳天皇 後伏見華園二上皇を奉じて中山道を下り番場の宿場に着いた時、南朝軍の重囲に陥り止むなく蓮華寺に玉輩を移し、大いに戦いたるも、再び戦いに敗れ遂に本堂前庭に於て、仲時以下四百三十余名悉く自刃した。 

時の第三代住職同阿上人は深く同情してその姓名と年齢および仮の法名を一巻の過去帳に認め、さらに供養の墓碑を建立してその冥福を弔う。 

その墓は境内にあり、過去帳は重要文化財として当山に所蔵されている。

これらの史実は、太平記・梅松論・増鏡等に詳しく記載されており、殊に吉川英 治先生の私本太平記によって広く衆知されている。

 

北条一族の集団自決の墓について

鎌倉幕府滅亡に際して、北条氏一族の集団自決が、西ではここ蓮華寺で、東では鎌倉の東勝寺で数百人が切腹して果てています。

 

切腹するとは、言うまでもなく自殺することです。

では何故切腹自殺するのかというと、「武士は武勇を誇示することを信条とした。この武士が自ら自分の生命を絶たねばならぬとき、最も気力を要する切腹を選択し、勇名をはせようとした」からです。

自ら腹を切って死ぬという、自分の胆力・勇気を示したということです。

しかし、切腹してもすぐ死ぬわけではない、悶え苦しみ絶命するのです。

そこで本人が醜態を見せることのないよう、背後から首を斬って切腹を手伝う者が必要になってきました。

後に切腹の儀礼化が進むと、介錯は切腹の一部となり、足の運びや刀の構え方などの作法も確立しています。


江戸時代になると、切腹というのは、武士にだけ許されました。

なぜ武士にだけ許されたかというと、武士というのは支配階級としてきちんと道徳が身についており、自分の出所進退を自分で決めることができる、という合意があったからだ、といわれています。

 

 

<完>

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