諫早湾干拓問題の要約
<堤防が生まれるまで>
諫早湾の干拓の歴史は江戸時代に遡る。
堤防で徐々に海を閉め切って約3500ヘクタールの平野ができ、水田が作られた。
しかし、穀倉地帯となったものの、この地方特有の地形から集中豪雨や洪水が頻発し、有明海は遠浅で水がスムーズに排出されないため、町中が浸水して農作物がたびたび損害を受けた。
この対策として、1952年(昭和27年)に西岡竹次郎長崎県知事(当時)が発案したのが約1万1千ヘクタールの諫早湾を閉め切って干拓地をつくる「長崎大干拓構想」ができた。
県は、国との調整を経て規模を3分の1に縮小し、1986年(昭和61年)には干拓農地約870ヘクタールと調整池約2600ヘクタールを整備する「諫早湾干拓事業」に着手した。1997年(平成9年)には全長7キロに及ぶ潮受け堤防が閉め切られ、総事業費2530億円をかけた事業は08年に完了し、営農が始まった。
<干拓事業の問題化>
有明海の養殖ノリが変色したり、二枚貝タイラギが大量に死滅したりするなど甚大な漁業被害が表面化し、佐賀、福岡、熊本3県の漁業者らが潮受け堤防の排水門を開門して調査するよう国に求めた。一方で、事業を推進する長崎県は干拓農地に海水が入って塩害にさらされることを懸念して開門に反対した。
政府は2002年(平成14年)、約1カ月堤防を開門し環境調査を行ったが、有明海の改善は見られず因果関係がないと判断。また2006年には「今後は開門調査を行わない」との方針を示した。
しかし有明海沿岸の漁業者ら約2500人が2002年11月、国を相手取り、工事中止を求めて佐賀地裁に提訴した。
同地裁は2008年、一部の漁業被害を認め、3年以内に堤防を開き、5年間開門調査をして有明海の環境変化を探るよう国に命じた。
この判決を受け、国や被害が認められなかった漁業者の一部が福岡高裁に控訴したが、同高裁は2010年12月、一審判決を支持し国に開門を命じる判決を言い渡した。
当時の菅直人首相(民主党)は上告断念を決めた。これにより福岡高裁判決は確定し、国は2013年12月までに開門する義務を負った。
しかし、2012年衆院選で自民党が政権を奪還すると、国は諫早湾干拓を巡る政策を転換した。判決の履行期限を迎えた2013年12月20日、国は確定判決に従わず、開門しなかった。
<司法判断のねじれ>
2013年11月に長崎地裁は、干拓地の営農者が申し立てていた開門差し止めを国に命じる仮処分を決定した。この決定に基づき、営農者は開門した場合に国に制裁金を払わせる「間接強制」を申し立て同地裁に提訴。同地裁と福岡高裁は2015年、国に1日49万円の制裁金の支払いを命じる決定を出した。
一方漁業者ら開門派は2010年の確定判決の履行期限直後の2013年12月24日、同判決に基づき、国が開門するまで制裁金を支払わせる間接強制を佐賀地裁に申し立てた。2014年の同地裁、福岡高裁ともに国に1日49万円(後に90万円に増額)の支払いを命じた。
これにより国は、開門してもしなくても制裁金の支払い義務が課せられる異例の事態となった。国は異議を申し立てたが、裁判手続き自体に問題がないことを理由に最高裁は正反対の司法判断の両方を支持し、異議を退けた。
<司法の限界>
国は2016年、一つの和解案を示した。開門はしない前提で、有明海の調査や水産資源再生のための100億円の基金を設立する内容だ。開門義務を負った2010年判決に反するが、国は「当時とは有明海の環境などの事情が変わった」と主張した。同判決の執行力をなくすよう求める請求異議訴訟も並行して起こしていた。
この訴訟を巡り、佐賀地裁は2014年に国の請求を退けたが、福岡高裁は2018年、国の案に沿った和解勧告を出した。
しかし漁業者らは高裁が司法判断をしなかったことに対して、猛反発して和解協議は物別れに終わったため、同高裁は国の逆転勝訴を言い渡した。
この高裁判決について最高裁は2019年9月、有明海や諫早湾内の環境変化など漁業権以外の論点についてさらに審理を尽くし、2010年判決に基づく間接強制が現在でも妥当な手続きかどうかを判断するよう高裁に差し戻した。
司法の判断というものが問題解決にならないという例なのかもしれません。
<有明海の現状>
ノリなどが不作になった2000年以降、国はアサリなど2枚貝の稚貝を放流したり、生息場所となる海底を掘り起こしたりして、環境を改善する取り組みを行って来た。
その結果、熊本県や福岡県においてアサリの資源量の増加が確認できたほか、佐賀県では二枚貝のアゲマキ漁が22年ぶりに再開するなど徐々に取り組みの成果が出てくるようなったと、農林水産省では説明している。
次のグラフはノリ類の生産量は増加しているが、貝類の漁獲量は減少していることを示している。
この貝類の漁獲量の減少した主たる原因は諫早干拓事業ではなく、これ以前の工事(熊本新空港工事、筑後大堰の建設工事、三池炭鉱海底陥没埋戻し工事など)の影響が大きい、と長崎県のホームページに掲載している。
<農林水産省九州農政局>
諫早干拓堤防道路
このこじれた諫早湾干拓問題の潮受け堤防の水門のある堤防を見に行きました。
諫早干拓堤防道路は諫早湾干拓事業で構築した潮受堤防上に道路を建設したもので、長さ8,515m、道路幅員7.75mです。
この道路の中程に「雲仙多良シーライン休憩所」があり、そこまで行って干拓地や諫早湾を眺めてみようと思いました。
雨天で干拓地を眺めることができませんでしたが、広大な干拓地であることはわかりました。
あいにくの雨天で遠方は霞んでいました。次の写真で左側が調整池で右側が諫早湾です。
この向こうに排水門があります。
左側が諫早湾で、右側が調整池です。
この調整池の向こうに干拓農地があるのですが薄っすらとしか見えませんでした。
長戸鬼塚古墳
「鬼塚古墳」という名称の古墳は全国各地に18箇所ぐらいあるようです。
今回訪れたのは、長戸鬼塚古墳は長崎県諫早市長井町にある古墳です。
(諫早観光物産コンベンション協会のHPから)県の指定史跡。墳丘は高さ約5m、直径約15mの円墳で、有明海に面した標高約10mの丘陵先端部に造られています。石室は典型的な複室構造(玄室・前室・羨道)を持つ横穴式石室で、巨石を積み上げ、石材の隙間に小さな礫石を詰め込む工法が取られています。石室の全長は9.6mあります。貴重な線刻壁画古墳で、築造年代は、古墳時代後期(6世紀後半)とされています。この古墳には、玄室(棺を安置した部屋)と羨道に鯨・船などの線刻画の他に格子文・鋸歯文などの線刻文が刻まれています。隣接する墓地からは、開墾の際箱式石棺が7~10基発見され、中から人骨・鉄刀等が出土したといわれていますが、現在それらの遺物の所在は不明です。
天井
古墳の後ろは墓地になっていました。
<完>