さて、甘南備寺の話に戻るとする。
7.6. 甘南備寺略縁起
かつての甘南備寺略縁起(現在は簡略化されている)には次の記載があった。
・・・・
元法相宗にしたりしが弘仁十年嵯峨天皇の御代弘法大師は天下の蒼生を度せんが爲に此の地に来遊されし時法輪を転じて密教弘通し眞言に改宗し玉ふなり、弘仁以後は智拳上人に由りて大興隆せられ同寺の末寺胎蔵寺、阿闍、實相、妙薬、玉生の諸院軒を並べて修禅観法の道場として其の名遠近に聞こえたり又智上人の廟塔を聖の権現と崇め詣ずる者多かりしと言ふ。
彼の高德行基菩薩の御作なる虚空蔵菩薩は鹿賀村胎蔵寺御本尊に奉安せしが廃寺となりし後は當寺の秘佛御本尊法橋定朝の彫刻と傳ふ虚空蔵菩薩と共に安置し奉り福徳智恵の本尊として詣ずる者多し。
・・・・
これによると、甘南備寺は弘仁10年(819年)に弘法大師(空海)は天下の人民を救うためにこの地を訪れた時に、教義を変えて密教を広めるために真言に改宗した、となっている。
甘南備濱吉が甘南備寺を立て直してから4年後の事である。
しかし、史実を調べると弘法大師は弘仁8年〜10年にかけて高野山の開創に力を入れており、また弘仁10年7月に嵯峨天皇の勅命によって宮中の中務省に移住した。との記録もあり、とても地方行脚など出来る余裕は無かったと思われる。
各地で弘法大師の伝説があまたあるが、これらの伝説の多くは、すべて弘法大師が行ったものではなく、全国行脚している高野聖或いは、弘法大師から命を受けたものが行ったものと考えるほうが理にかなっている。
甘南備濱吉と空海は同時代の人であり、同じ時期に京都に住んでいた。
空海が唐から帰って来て、京都に入ったのは大同4年(809年)のことであり、その後京都を中心に活躍を始める。
一方、甘南備濱吉は弘仁5年(814年)に日向国守に任命され、その1年後に石見の国守になった、ということは前述した。
ということは、空海が京都に帰って来てから、甘南備濱吉が日向に旅立つ迄の5年間、二人は同じ京都で過ごしていたことは、大いに可能性がある。それどころか、二人は知り合いになっていたことも考えられる。
わざわざ石見の山奥の寺を目指して、誰が真言宗の教義を伝えに来たのかと妄想すると、やはり甘南備濱吉の影が見えた。
7.3. 甘南備浜吉の企て
甘南備濱吉が甘南備寺と寺の名前を変えると、保長の坂元に話した時に、最後に付け加えた話があった。
「儂は空海上人と知己がある。
空海上人とは、唐に渡って仏教を学ばれた仏教指導の第一人者で天皇陛下の信任も厚い方である。
儂は、弘仁3年に京都の高雄山寺で行われた金剛界結縁灌頂に儂も列席した。
この時、初めて空海上人に会い挨拶をした。
空海上人は密教の布教に熱意を持っておられた。
そこで、今度儂が京に帰ったら、この甘南備寺を密教布教の拠点とするようお願いしてみようと思っている。
空海上人はどうお考えになるか、分からぬが、この寺の話をしてみる。
上手く行けば、空海上人はこの寺の落慶法要に誰かを派遣してくれると思うので、楽しみに待っておくが良い」
坂元は濱吉が言っている意味が良くわからなかった。現実のものとは考えられなかったのだ。
空海上人とは一体どんな人なのか?濱吉の口ぶりでは相当偉い人のようであるが、そんな人がこんな山奥に来ることは想像できなかった。
嬉しくは思わなかった。対応が面倒くさいと思った。
この約束を濱吉は忘れず実行した。
濱吉は空海宛に書状を送った。
書状には、
自分は3年前に高雄山寺で行われた金剛界結縁灌頂の時にお会いした甘南備真人濱吉と申すもので熱心な仏教徒であり、空海上人にたってのお願いがあると書かれていた。
濱吉は書状で石見の国邑智郷の江川沿いにある甘南備寺山とその中腹に所在する甘南備寺の経緯を説明し、ここを真言仏教布教の拠点の一つとして頂きたい、
と書いていた。
空海は書状を受け取ったが、差出人の濱吉のことは直ぐには思い出せなかった。
書状を読むと3年前に会ったと書かれている。空海は3年前の記憶を辿った。
空海の記憶力は並外れていると言うよりも天才というしかない。
空海の頭の中に3年前のことが鮮明に浮かび上がってきた。
甘南備真人濱吉という人物を思い出した。
甘南備真人濱吉は功名心の強い性格だと思うが、根は単純でそうである。
熱心な仏教徒というのは本当のことだろうと空海は思った。
石見の山中で密教を布教するのも悪いことではないと思った。というより布教の拠点として聖なる山を探していたのである。(この翌年の弘仁7年に修禅の道場として高野山を下賜する旨の勅許を賜り、弘仁8年に高野山の開創に着手した)
空海は濱吉に返答の書状を書いて送った。
貴方のご意見、確かに承りました。
私も貴方の考えに賛成であります。
ただ、ここ2、3年は高野山に修禅道場を造ることに注力したいと思っています。
しかし高野山での事業が完成した暁には、私の弟子の誰かを派遣して貴方の提言を実現したく考えています。
空海からの返書を受け取った甘南備濱吉は歓喜した。
濱吉は空海の返答を早速、渡村の保長の坂元に手紙で伝えた。
濱吉は空海が睨んだ通り、功名心が強い性格だった。
濱吉は自分の沽券を高めるため、手紙に『4年後には空海上人が自ら坂元を訪れて、仏教の教義を村人に説く』と書いて送ってしまったのである。
<続く>