63.戦国の石見−6(続き−6)
63.9.尼子氏滅亡
63.9.1.富田城包囲
月山富田城の包囲持久戦は次第にその効力をあらわし始めて、糧食・武器の補給を但馬・因幡・伯耆方面に求めるようになった。
11月、この情報を入手した元就は、水軍に命じて出雲の美保関から伯耆の弓浜沿岸に至る海上を警戒、福原貞俊らをして陸上を警備させ、富田城の孤立をはかった。
富田も毛利軍の動きを察知し、15日夜、輸送援護の軍勢を城外に進出させ、ここに両軍激戦を展開、尼子軍は敗退して補給品は毛利軍に奪われた。
富田籠城中の山中幸盛(鹿之介)らは敗報に憤激して、伯耆の高尾城(米子市尾高)を攻略して補給路を確保せんとしたが、たまたま行松入道(左衛門尉正盛)没してその妻女と婚して泉山城を守備していた杉原盛重(備後神辺城主)に阻まれて敗退した。
かくて富田包囲戦は一進一退を繰返しているうちに、戦場はいつしか因幡・伯耆の各地に拡がっていったが、永祿7年(1564年)の一ヵ年間に尼子与党の勢力は次第に衰徴の一途を辿り、富田はますます孤立無援の状態に追いつめられていった。
元春が洗合の陣中で太平記の筆写を始めたのは永祿6年閏12月からであったが、翌7年には巻二から巻九までの28冊を書き終っている。
そして巻四十までを完了したのは永祿8年8月であった。
兵馬倥偬(へいばこうそう:戦乱であわただしいさま)の間にこのような筆写をなしとげた元春の心のゆとりと奥ゆかしさは、まさに嘆美すべきものであり、それはまた元就における富田城攻めの性格でもあった。
63.9.2.富田城攻撃開始
永祿8年2月、元服した輝元(幸鶴丸13歳)が、これも初陣である吉川元長(元春嫡子18歳)と同道して洗合に参着、親しく祖元就に挨拶し、陣に加わった。
陰徳太平記巻第三十八の雲州富田麓合戦之事に、吉田(安芸高田市)に居た毛利輝元の長子と吉川元春の嫡子元長が祖父の元就に会いに出雲に旅立つ様が記されている。
4月、元就は主力をもって洗合を出発、星上山(松江市東出雲)に本営を置き、浄安寺山(松江市八幡町)・上田山(安来市広瀬町)に布陣17日総攻撃を決行した。
戦いは御子守口・塩谷口・菅谷口の三方面で激闘が繰返されたが、いずれも毛利軍に有利であったので、諸将兵は本城塁に迫らんとしたが、元就は籠城軍の志気いまだ盛んなのをみてとり、なお包囲を継続してその衰弱を待つのが得策と考え、総退却を命じ、追撃軍の猛攻を排除しつつ28日洗合の本営に帰着した。
元就が富田城総攻撃において優勢であったにもかかわらず総退却を断行した脳裡には、なお伯耆国内の尼子与党の勢力を警戒したからでもあった。
8月5日夜半、元就の命によって尾高城を守る杉原盛重は、伯耆の江美城(鳥取県日野郡)を攻め、6日未明、城主蜂塚はついに壮烈な最後をとげ、城塁は毛利の領有となった。
9月3日、吉田源四郎(12歳)が家臣とともに頑強に毛利軍に抵抗していた八橋城(鳥取県東伯郡)に対して、元就は法勝寺城(鳥取県西伯郡)主三村家親に攻略を命じたので、家親は香川光景とともに進撃、源四郎を富田に追いはらって城塁を奪った。そこで尼子方は秋上庵介らをして奪回をはかったが大敗して退いた。
9月20日、輝元・元春・隆景らは将兵二万五千をもって富田城附近に出動、京羅木山、石原山、滝山の三ヵ所に築城、末次(松江)・美保関・福良(松江市出雲町)・天間(鳥取県西伯郡)諸城砦と連絡しつつ厳戒、富田城に威嚇を加えた。
毛利の大軍の眼に見えない威圧に萎縮する籠城兵の士気を鼓舞し、窮迫する尼子家の運命を打解せんとして山中幸盛(鹿之介)は、再三毛利勢と衝突を繰返していたが、大勢を動かすことはできなかった。幸盛は益田藤兼の家臣品川三郎右衛門と城麓の富田川畔で一騎打の勝負をし、秋上庵介の援助で品川を斬殺した話は有名である。
10月10日頃、吉田源四郎を擁する福山肥後守は三村家親の拠る法勝寺城を襲って敗退、家親はこの勝報を元就への土産として中に帰還、 爾後は宇喜多直家に対する戦備に専念する。
これはおそらく元就の胸中に、尼子征服後の備中進撃が往来していたからであろう。
毛利元就の陰謀
富田城中においては籠城久しきに及んで、食糧の欠乏その極に達し、牛尾豊前守・亀井秀綱・河本隆任・佐世清宗 ・湯惟宗ら尼子譜代の名将らは相踵で投降し、 11月には牛尾幸清・嫡子久清も退城する状況であった。
ひとり義久の老臣宇山久信は、この窮境にも毅然として最後まで努力を続け、食糧の補給・投降者の防止に当たっていた。
この情報を入手した元就は、またも武略をもって、久信が毛利に内応する意志ありと城中に密告させた。
嬖臣大塚与三右衛門の讒訴に驚いた義久は、久信を誅することを決意する。
永祿9年1月元旦の早朝、久信は嫡子弥四郎を伴い、親しく義久に謁見。時に屋葺右兵衛尉がひそかに久信を 背後より抱き、立原幸隆突進して斬殺、弥四郎は大西十兵衛尉・本田家吉に討たれた。
久信恩顧の者数十人久信の妻子を保護して城外に脱れ元就に降服、ついで牛尾大炊助・宇山善四郎もまた相前後して降参したので、富田城中の士気はいよいよ沮喪するばかりであった。
元就病む
たまたま新春、元就は瘧病(おこりやまい)にかかり、衰弱がひどかったので、元春らは京都より名医の下向を求め、同時に厳島・ 杵築などの神社にその快癒を祈願、服薬治療に尽力した。
一方元就の病気によって人心動揺して背反者の出ることを心配し、とくに2月15日益田藤兼・佐波隆秀はじめ諸将に誓書を出させ、元就が病にかかっても毛利家に忠誠を尽すことを誓約させた。
ところが、元就の病気は将軍義輝の派遣した曲直瀬正盛の診療を受け、3月全快して、士気大いにあがった。
織田信長との関係
4月、織田信長は元春に手紙を送って、 出雲陣の労苦を労い、あわせて富田落城の近きを予想してその成功を祝福している。
当時すでに毛利と信長との間に接触があった。
雖無差題目令啓達候、永夕雲州御在陣之由、依之萬端被勵武運之旨共聞候 、寔名塞之儀候、彌可被任御存分事勿論候、自元就切々承候條太 慶 候、恐々議言、
卯月十一日
織田上総介 (信長 判)
吉川駿河守殿 ( 吉川家交書 )
差したる題目無く候と雖も啓達候、永々雲州御在陣の由に候、 これより万端利運に属さるるの旨その聞え候、 誠に名誉の儀に候、 弥々御存分に任せらるること勿論に候、元就より切々承り候条、大慶に候、恐々謹言(永祿九年卯月十一日、信長より、(吉川文書より)
63.9.3.富田城落城
11月21日、尼子義久兄弟は万策尽き、使者を元就の陣中に派遣し、「我衆命に代りて自刃し、 城地を御渡申すべし」と申込んだ。
元就は諸将の殲滅論を排し、「尼子氏は累代山陰に蟠居して其威山陽に及ぶ、今力渇きて 我軍門に降参するも、遂に其門葉を断絶すべきにあらず、義久兄弟の降伏は我之を容るるも、自刃を許さず、願わくは城を退き安芸に赴き、安穏に余生を送られたし」と返事し、 義久兄弟もその厚志に感激してその旨を了承した。
この日起請文を認めて送り、 元就もまた輝元・元春 隆景と連署の誓書を城中に送った。
今度和談之儀、至芸州以可有御下向之旨入眼候、殊更對此方自今以後不可有御悪心之由、慥承知仕候、然上者於御身上一切不可有聯爾候、向後無疎意可申談候、若此旨於相違者可罷蒙梵天帝釋四大天王、惣而日本國中大小神祇殊當國杵築大明神、芸州厳島雨大明神、八幡大菩薩、氏神祇園牛頭天王、天満大自天神御罸者也、仍神文如件
永祿九年十一月廿一日 完
毛利右馬頭 元就(花押血判)
小早川叉四郎 隆景(花押血判)
吉川治部少輔 元春(花押血判)
毛利少輔太郎 輝元 (花押血判)
尼子三郎四郎(義久)殿
同 八郎四郎(秀久)殿
今度和談の儀、芸州に至り以って御下向あるべきの旨、入眠せしめ候、殊更此方に対し、自今以後御悪心あるべからざるの由、 かに承知り候、然る上は御身上に於いて、一切聊爾あるべからず候、 向後疎意なく申談ずべく候、もしこの旨相違に於いては、梵天帝釈・四大天王惣じて日本国中大小神祇、殊に当国杵築大明神・芸州厳島両大明神・八幡大菩薩 氏神祇園牛頭天王・天満大 自在天神の御罸を罹り蒙るべきものなり、仍って神文件の如し。
引き続いて、26日福原貞俊・口羽通良・桂元重等の毛利家重臣も運署誓詞を義久兄弟に納れて他意なきことを誓った。
今度以御和談之儀、至藝州可有御下向之旨致入眼候、殊更義久被對此方不可有御悪心之由候條尤肝要候、然間於御身上者不可有聊爾之儀候、向後無疎略可得御意候、此旨於偽申者、日本國中大小神祇、杵築大明神、别而厳島大明神、天滿大自在天神之御罸可罷蒙者也、仍起請文如件 、
永祿九年十一月廿六日
福原左近允貞俊(花押血判)
口羽刑部大輔通良 (花押血判)
桂孫三郎元重離(花押血判)
尼 子 殿
同 八郎四郎 殿
同 九郎四郎 殿
陰徳太平記によれば
陰徳太平記によると、和平に成った経緯は少し違うようである。
その始まりは、元就の病気からと云う。
永禄9年5月の末ごろから悪寒と発熱の繰り返しが激しく、物も喉を通さず衰弱が激しくなった。
あらゆる治療を試みたが、病は次第に重くなり、色々願を立てた。
或る時、うたた寝していた小早川隆景は夢をみた。
富田の八幡の神霊である、と云う老人が出てきて言った。
境を侵し国を争うは、武家の習いゆえとがめはせぬ。しかしながら、尼子の者ども、身命の危機が眼前に迫る。これは、わがはなはだ憂うるところなり。早く和睦の儀を調えて、わが氏人の命を助けよ。もしわが言葉を信ぜねば、元就の一命、たった今に奪い去るであろう。尼子を害して父の命を断つならば、五刑第一の不孝の罪たるのみならず、福子々孫々にまでたたるであろう。わが望みさえ満つれば、元就の老病、即日に平癒するぞ
目覚めた隆景は吉川元春の陣に行き、その夢のことを話した。
すると、元春は、丁と手を打ち、自分も些かの違い夢を見た、と言った。
やがて兄弟は打ち連れて、元就の前に行き、一部始終を話した。
元就は
ご神託、疑い奉ることはできぬ。和睦の儀については、聖護院の准后が近年そのご意向を述べられたことがある。さらば、准后からこの旨城中へ申し遣わしてくださるよう「お願い申せ」
と言った。
折から准后は、去る六月の未、厳島から帰京していたので、留守役の弟子の道澄を招き、このことを依頼した。
道澄はすぐに米原平内兵衛綱寛を呼んで、「尼子の人々の命、助けようと、元就朝臣の意向です。この旨、城中へお伝えなさい」と言った。
さらに道澄は
先年(足利)義輝卿ご存生のとき、毛利・尼子和睦すべき旨、命をくだされ、そのために准后がご下向なさり、義久殿はお受けなされて誓紙を差し上げられた。
しかし、元就朝臣殿は数か条の異議を出され、お断りなされた。
その後、義輝卿は「さらにいま一度和睦を勧められようと、ご評議なさっているうち、はからずも将軍ご自身が殺されるという大事があって沙汰やみになったのです。それゆえ、義久殿におかれては、すこしもご異議はありますまい。今回はよくよくご仲介あれ。以前のときの誓紙の写しがここにあります
と言って見せた。
それには、次のように書かれてあった。
謹んで申し上げます。そもそも毛利元就とわたくし義久との間に、長年に渡る紛争
がありましたが、このたび聖護院ご門跡様ご裁定の通り、今日以降和睦し、無二の仲として親しく交わります。いささかも策謀を巡らすことはありません。この旨、万一偽りをいうにおいては、日本六十余州大小の神々、殊には杵築大明神・大山権現、加うるに愛宕権現・八幡大菩薩・天満大自在天神のおん罰をこうむるでしょう。
義久、真実決意致し、諸神に普言を立てておりますこと、よろしくご披露ください。
十二月十四日 尼子三郎四郎義久
大館伊予守殿
進士美作守殿
米原は、これを見て急いで富田城に向かった。
義久はすぐに一族、家臣を集め、「このこと、いかがしたものであろう」と、意見を聞いた。
その結果、
食糧も尽き、また兵も減っていることもあり、ここで餓死するより命を永らえ将来に備えるべきである。
また、当方より降参を願い出るのなら、武士としての恥にもなるが、幸に元就から和睦したいと申し出たので、諸人の笑いを受けることもあるまい。
命を全うして、時節を待とう。
元就とても、すでに六十余の歳なので、余命いかほどのことがあろうぞ。
元就さえ果てしたならば、謀りごとを巡らして毛利家を滅ぼすこと、何の造作もいらない。とにもかくにも、道澄の仲裁に任せよう。
ということになった。
なお、「雲陽軍事記」によれば、
「富田城を退去するにあたり、石州銀山の城に先ず五千貫の地を添える添える」との約束をしたが、降参後は無視されたとある。
毛利元就のこれまでのやり方を見ていると、「さもあらん」と思うが、この約束した事を証明するものはない。
尼子兄弟、富田城退下
義久兄弟は譜代の重臣らを伴い、28日、富田城を出で、吉川・小早川両氏の兵士に警護されて、その夕刻杵築に 着き、富田城へは福原貞俊・口羽通良が二千余の兵とともに入り、完全に城地を占領した。
籠城の将兵は各自の希望 に従い自由に退散することを許し、混乱は起こらなかった。
元就は杵築に着いた義久兄弟に酒肴を贈り、籠城中の辛労を慰め、同時に主従訣別の宴を開くことを許した。
時に 立原久綱・河副久盛山中幸盛ら数十人の家臣は義久の一行に随従することを懇請したが許されず、各自志すかたへ 退散した。
12月9日、義久兄弟は立原備前守・宇山右京亮ら十数名を従え、桂元依 ・二宮杢助・宗近右衛門尉 らの兵一千に警護されて杵築を出発、 田儀 ・石見の川合・川本・出羽に各一泊して、13日、安芸に入り横田を経て、14日長田の円明寺に到着した。
内藤元泰は厳重な警戒を続けつつも、誠意をもって懇切な待遇につとめるのであった。
永祿10年(1567年)2月19日、富田城督に天野隆重を任命するなど、戦後処理を完了した元就は、直ちに 吉田に帰り、輝元は隆景以下の将兵を従えて、 杵築に参拝、石見路を経て、同26日吉田に帰着した。
かくて永祿5年12月以来出雲征服の大業は4年3ヵ月の日子を費し、ここにやっと終りを告げたのであった。
<続く>