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旅日記

故郷の風景(42) 石見安国寺

1.安国寺

1.安国寺とは

足利尊氏、直義兄弟は臨済宗の夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇以下の戦没者の菩提を弔うため、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立したことに倣い、国ごとに1寺1塔を建てる計画を立てました。

これが、安国寺と利生塔です。

承和元年(1345年)北朝の光厳上皇の院宣を得て、安国寺、塔の名を利生と称しました。

安国寺と利生塔は新しく造営されたものもありますが、既存の寺院を修理してこれにあてたものもあります。

現在、石見国の安国寺は浜田市上府にあります。

安国寺の門前に「伊甘山・安国寺の沿革」の説明板があります。

安国寺の沿革(要旨)

和銅年間(708〜714年)

創建、当初は伊甘山福園寺といった。

永久年間(1113〜1117年) 

石見国司藤原国兼は荒廃した寺坊を再興して天台宗の道場とした。

正和年間

宗を改め禅宗とし、京都の臨済宗東福寺に属した。

貞和4年(1348年)

足利尊氏は全国に安国寺を創建するに当たり、寺領を寄進して、安国福園寺とした。

後に足利義満は河合南村を寄進し、全国の安国寺の列に加えた。

(以下 略)

 

2.伊甘山・安国寺

利生塔

御神本三代の墓

安国寺境内に御神本三代の墓があると伝わっています。

御神本氏の祖は御神本国兼と称し、前述の藤原国兼がこの地に土着し改姓したと伝わっています。

この境内にある墓は、国兼、兼実(国兼の子)、兼栄(国兼の孫)三代の墓と伝わっています。

なお、四代目の兼高は住居を益田に移し、益田兼高と名乗り、益田氏の祖となります。

       

益田氏

四代兼高は源平の戦いの際、源頼朝方について、治承・寿永の乱の軍功により建仁二年(1202年) 石見守護佐々木定綱に替り守護となっています。

以後だんだん勢力を持ち、 建久三年(1192年)美濃郡益田に移住して御神本を改め益田氏を名乗り翌年七尾山上に七尾城を築きました。

その後益田惣領家として、 三隅・福屋・周布氏の庶子家に分かれていきます。

 

御神本三代の墓は本堂の裏山にあり、石段を登って行きます。

説明板や標識がなかったのでどの墓が相当するのかわかりませんでした。

昭和38年(1963年)発行の「益田市史」に御神本国兼の墓として次のような写真が載っていましたが、この様な墓は見当たりませんでした。

 

付近を探しそれらしき墓が写真を撮りました。

ネットでは次の写真に写っている墓が該当する墓で、中央の墓が初代の御神本国兼の墓という記事がありました。

ただ、前の写真(凡そ60年前)と比べると、土台の部分しか残っていません。

 

近くに3つ並んで墓があったので、念のため撮影しました。

次の2つの写真は左端と中央の墓の写真です。

  

 

2.国民宿舎 千畳苑

前日に宿泊したのが、国民宿舎「千畳苑」です。

1泊2食付きで、16,500円(消費税込み)でした。

夕食のアルコールは別料金です。

千畳苑は海辺の宿舎で部屋から海が見渡せました。

夜景

大浴場は4階にあり海を見渡せます。

夕食

のどぐろ

鮑バター焼き

島根牛ステーキ

伊勢海老他

日本酒 3種

その他、握り寿司と岩牡蠣の塩ポン酢が出て、腹一杯となりました。

朝食はバイキングでした。

 

<完>

 故郷の風景 目次 

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