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旅日記

故郷の風景(43) 幡龍挟鏡ヶ淵の傳説

蟠龍峡鏡ヶ淵の伝説

邑智郡邑南町布施の蟠龍峡には、石見小笠原氏の初代の長親に関する伝説があります。

「邑智郡誌」の第11章伝説の布施村の項に「蟠龍峡鏡ヶ淵の傳説」として載っています。

1.邑智郡誌

「邑智郡誌」より

鳴美の堤から瀑聲をたどって圓筒の様に屹立した岩上に到ると、真新しい小祠が建てられて居る。

即ち龍の明神にして祠所前岩角に立つ松樹を髪かけの松といふ。

此の明神と松、そこに優婉にして悲戀な物語が潜められて居る。

弘安正應のころ四國阿波麻生庄の領主小笠原長親は、邊海防備の功により村之郷を加増移封されて渡海した。

これが後年川本溫湯城、三原丸山城を中心とした十五代凡そ三百年の尼子、 毛利の間に介在して覇を振うた石見小笠原の祖である。 

長親村之郷に移封せらるや南山城を築いて石見制覇の根據地に備へた。 當時重臣に何々太夫宗利といふ武士がゐた。

年未だ若冠ではあったが、すでに大器あり、長親これを軍師して寵用した。 

時に足利の勢威が加はり、口羽阿須那におよび遂に長親の所領にまでおよんだ。

長親勤王の志あつく賊軍を志方ヶ原に導き戰ひ、木床、提灯横手等に轉戰しに殆ん で殲滅させた。

そのとき賊軍の一隊が川を逆流して、魚切り (蟠龍峡)に押寄せるや、味方の軍勢天鹸によつてよくこれを防ぎ、敵は天瞼に阻まれて進み得ず、遂に意を断ち引返したといふことろから、後に魚断り改書された。

この戦争で軍師宗利最も戦功あり、宗利未だ妻なきを見て長親の女を恩賞として與へようとしたが、女に近づかないといふ信條を守 つてゐた宗利は容易にこれを聞うこせず、といつてまた長親の恩賞もだし難く、遂に主命従ひその女を娶つたが、数年の後厄病にかかり、生れもつかぬ醜女と化した。 

當時小間使に美女あり、何時となく宗利これに心動き、本妻を疎んする様 になったので、本妻はこれを恨み、一日宗利を誘ひ小間使を伴れて魚断りの奇勝を探った。 

峡中の絶景、明鏡台の岩頭に至り少憩中 小間使は懐中より小鏡を取出して髪のほつれを何心なく掻上げてゐると、背後から忍びよった本妻は突如小間を岩頭から突落した。 

このとき早く小間使は小鏡に映る本妻の醜面にそれを察したので、瞬間に本妻の袖を確と捕へたため、あなやといふ間に二人の女性は相重なって転落した。

これを見た宗利打驚いて岩頭に駆け寄れば、足下數十丈の岩壁を悲鳴を挙げて落せる女性の恐ろしや頭髪、何れも龍と化して空中相もつれ争ひつ、落下してゐる。

もつれ合った二人の毛髪は途中の松が枝に懸けて抜け留まり、二人の女性はそのま遙か底の深さも知らぬ圓潭に呑まれて姿を没してしまった。
宗利事の意外に痛く驚き恐れ、悲の涙にくれつつ蟇田まで帰り、遂に自刃して果てたといふ。

今その邊一帯を宗利原と稱し、蟇田の片邊りに玄太夫の墓もあり、年々あやめの花が美しく咲くので「あやめ塚」と稱し方形の墓石は幾度建て直しても常に魚断の方向に傾くといはれてゐる。

又二人の女性を呑んだ圓潭を鏡ヶ淵と稱し、以来二人の女性は龍と化して永遠に相対したと傳へられてゐる。 

夜更山腹の道路から遙か瀑聲のまにまに女の悲鳴を聞いたと もいはれてゐるが、古くから三人を神に祀ってあつたのを、昭和九年瀧の明神勧請に際してこれを合祀した。

 

2.幡龍峡公園

ここら一帯は蟠龍峡公園となっており、「​​蟠龍峡伝説」の説明板もあります。

<説明板>

「元和(1350年)の頃、この村之郷には小笠原長親という領主がいた。

その家臣に玄太夫宗利という武士がいた。

年若くして大器の才があり、長親は軍師として重用していた。

足利勢との戦いで、最も功績のあった宗利に長親は、恩賞として側室を与え、宗利はその女性を本妻とした。

ところが数年後、本妻は疫病にかかり、生まれもつかないほどの醜い顔になってしまった。

その頃、宗利の小間使いに美しい女性がいた。宗利はその美しい小間使いに心が動き、次第に本妻を疎んじるようになった。

本妻はこのことを嘆き、哀しみはしだいに恨みと化し、機を見てこの小間使いを亡き者にせんと思うようになった。

ある日、本妻は宗利と小間使いを誘い、蟠龍峡へ散策に出かけた。三人は「明鏡台」の岩頭で一休みすることにした。

小間使いが懐から手鏡を取り出して髪のほつれを掻き上げていると、背後から本妻がしのびより小間使いを岩から突き落とした。

小間使いは、鏡に映る本妻のただならぬ気配を察し、落ちる瞬間に本妻の着物の袖をつかんだので、あっという間に二人は滝壺に呑まれてしまった。

驚いた宗利が駆け寄ると、二人の女性は龍と化し、悲鳴をあげ、もつれあい争いながら落ちてゆく姿が見えた。

二人の姿が消えたあとには、二人の抜け留まった髪の毛だけが松の枝に残されていた。

宗利はこのことを深く嘆き悲しんだ。

蟇田という所まで帰った宗利は、己の罪の深さに堪えきれず、ついに自刃して果てた。

この蟇田には宗利の墓があり、その一帯にあやめの花が多いことから「あやめ塚」と呼ばれ、初夏には美しい花を咲かせている。

不思議なことに、宗利の墓は、いくら立て直しても蟠龍峡の方へ傾くという。

平成二十年五月 比之宮連合自治会」

この岩の上から落ちたと言われています。

ここから落ちたようです。

上から覗いてみました。

岩の上の社祠です。

 

 

3.石見小笠原氏

小笠原長清

小笠原氏は清和天皇の後裔新羅三郎義光より出て一族は甲斐源氏として栄えた。

新羅三郎義光から数えて5代目の長清の時にその所在地(山梨県中巨摩郡櫛形町小笠原)の名前を取って小笠原と称した。

長清は承久の乱(1221年)の功により信濃の他に阿波の守護となった(阿波小笠原氏)。

 

小笠原長親

阿波小笠原氏の一族の長親は海岸防備のため石見の国に渡った。

これが石見小笠原氏の始まりである。

弘安の役(1281年:2回目の元寇)の恩賞として河本(川本町)周辺を領する。

そして邑智郡美郷町村の郷に山城(山南城)を築き拠点とした。

次の写真は山南城の出城と思われる小山と頂の祠

<小山>  

         

<小山の頂の祠>

温湯城

正慶3年・延元元年(1336年)に3代目の小笠原長胤が川本の会下谷に温湯城築城に着手する。

温湯城は14年後の4代目小笠原長氏が代観応元年・正平3年(1350年)に完成させた。

<山頂が温湯城 址>

13代小笠原長徳の領地は石東地方最大のものとなった。

石見銀山の経営に重要な役割を持つなど、この時代は石見小笠原氏の興隆期だった。

しかし14代小笠原長雄(ながかつ)の時、毛利軍の攻撃を受け、善戦の末その軍門に降ることになった。

小笠原長雄は温湯城を出て一時甘南備寺に閉居する。

この後、湯谷彌山土居に入ったが、毛利氏に遠慮して城郭は構えなかった。

丸山城

天正13年(1585年)三原に丸山城が完成が完成。

<丸山城 址>

 

石見小笠原氏の絶家

文禄元年(1592年)豊臣秀吉は山城廃止の令をだした。

この廃止令等の理由などから、毛利輝元により同年小笠原家は出雲神西に移封された。

長旌には嫡子がいなかったため、15代長旌が文禄4年(1595年)に死去して石見小笠原氏は出雲の地で途絶えることになった。

現在、出雲市大島町の大就寺に小笠原長旌の墓碑がある。

 

 

4.都神楽団

この伝説は地元(邑智郡美郷町)の神楽団「都神楽団」のオリジナル演目「髪掛の松」として舞われている。

<「都神楽団」オフィシャルサイトから>

髪掛の松
※神楽団オリジナル

この物語は美郷町村之郷、蟠龍狭に伝わる伝説を、邑智郡誌・大和村誌に基づいて創作、神楽化したものです。

内容・人名等、若干事実とは異なるところがあります。 

時期は鎌倉時代末期(永仁三年頃、西暦千二百九十五年頃)、村之郷に築かれた山南城(南山城)の城主、石見初代小笠原四郎三河の守長親と足利の軍勢との合戦に始まります。

長親はその合戦に於いて功績のあった重臣、玄太夫宗利に恩賞として妻を娶らせますが、かねてより宗利に好意を抱いていた小間使の水無月はある日、宗利の妻、明日香姫が病に冒された事を機に、御薬と偽って毒を盛り、遂に明日香姫は醜女と化し、宗利は次第に妻を疎むようになり、水無月に心惹かれていきます。

明日香姫はそんな水無月の態度に気づき、水無月の美しさを妬み、胸中は次第に恨みへと変わっていきます。

明日香姫はその恨みを晴らすべく、水無月を蟠龍狭へ奇勝散策と偽って誘い出し、そこで水無月を亡き者にしようと企てるも見破られてしまい、お互いは激しく戦いますが、差し違えたまま深淵に呑まれ果てていきます。

二人を追って来た宗利は、自らの振る舞いを悔い、自害します。

その時、深淵に果てた明日香姫の怨霊が現れ、宗利を伴って昇天し、他界へと導いて行きます。

長親・その妻・美夜姫はそれぞれの御魂を滝の明神として合祀するという悲恋の物語です。

 

<完>

 故郷の風景 目次 

 

 

 

 

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