38. 高師泰の石見討伐隊
観応元年/正平5年(1350年)6月21日に京都を出発した、高師泰率いる石見討伐隊は、道中で兵糧を受け取り、兵力を増しながら西に向かった。
高師泰が石見に侵攻するには、備後または安芸から中国山脈の険を越さなければならない。
討伐隊は、備後福山から、三次に向けて北上した。
当時石見に入る主な道筋は、次の3つであった。
①東部は備後から出雲境の赤名峠を越えて邑智郡に入る。
②中部は安芸から三坂峠を越えて那賀郡に入る。
③西部も安芸から雲月峠を越えて那賀郡に入る。
高師泰は備後の赤名峠に向かい、安芸守護武田氏信率いる軍は三坂峠に向かわせた。
38.1.三坂峠の合戦
高師泰の石見への発向を知った安芸国高田山県両郡の南朝方の毛利親衡、山県為継らは八重の猿喰山を中心に布陣して守護武田氏信の進出に備えた。
だが、6月8日武田氏信の命を受けて出陣した吉川実経の攻撃を受けて苦戦に陥った。
さらに吉川実経は、三坂峠まで進出して、6月11日には市木三坂の要害に陣するなど、市木方面の南朝方を威圧した。
しかし、安芸の南朝軍を支援するため、石見の南朝方の福屋兼景、周布兼宗の兵が7月2日に、その市木三坂の吉川実経の関所を突破して新庄まで進出する。
ところが、吉川の守備軍の反撃を受け、市木まで追い返されてしまい、安芸の南朝軍を支援する軍勢がいなくなってしまった。
その結果、猿喰山の南朝軍は武田氏信の攻撃を受け7月11日に落城することになる。
一方、出雲方面では、伯耆の南朝方と相呼応して旗をあげた、大原郡の土屋・伊藤の諸族、飯石郡の来島・佐々木の諸族も、七月相次いで吉田厳覚の旗下諏訪部貞夫のために落城させられている。
38.2.青杉城の攻防
このような雲州、芸州、石州の情勢の中、師泰は途中兵を募りながら7月27日夕、佐波郷(浜原・吾郷)に到着した。その軍勢は二万三千という。
当時、佐波顕連は矢飼城を中心とする江川の屈曲点の要害青杉・丸屋・鼓が崎に拠って、邑智郡の吾郷から阿須那までの江川峡谷、邇摩・安濃両郡地内の各地、出雲の赤名・来島にかけて広大な範囲を領有していた。
高師泰の侵攻を聞き、佐波顕連は防御策を講じる。
その子菊壽(実連)に青杉城を守らせ、其弟に丸屋城を固めさせ、自らは鼓ヶ崎城を守備した。
青杉城、丸屋城、鼓ヶ崎城はそれぞれ約700m隔てて、鼎の足のように向かい合っていた。
戦いは渡河作戦によって始められた。
「太平記」の巻第二十八に「三角入道謀叛事」として、このことが既述されている。
・・・・(略)・・・・
七月二十七日の暮程に江河へ打臨み、遥敵陣を見渡せば、是ぞ聞ゆる佐和善四郎(顕連)が楯篭たる城よと覚て、青杉・丸屋・鼓崎とて、間四五町を隔たる城三つ、三壷の如峙て麓に大河流たり。
城より下向ふたる敵三百余騎、河より向に扣てこゝを渡せやとぞ招たる。寄手二万余騎、皆河端に打臨で、何くか渡さましと見るに、深山の雲を分て流出たる河なれば、松栢影を浸して、青山も如動、石岩流を徹て、白雪の翻へるに相似たり。
「案内も知ぬ立河を、早りの侭に渡し懸て、水に溺て亡びなば、猛く共何の益かあらん。
日已に晩に及ぬ。夜に入らば水練の者共を数た入て、瀬踏を能々せさせて後、明日可渡。」と評定有て馬を扣へたる処に、森小太郎・高橋九郎左衛門、三百余騎にて一陣に進だりけるが申けるは、「足利又太郎が治承に宇治河を渡し、柴田橘六が承久に供御の瀬を渡したりしも、何れか瀬踏をせさせて候し。
思ふに是が渡りにてあればこそ、渡さん所を防んとて敵は向に扣へたるらめ。此河の案内者我に勝たる人不可有。つゞけや殿原。」とて、只二騎真先に進で渡せば、二人が郎等三百余騎、三吉の一族二百余騎、一度に颯と馬を打入て、弓の本弭末弭取違疋馬に流をせき上て、向の岸へぞ懸襄たる。
・・・・(略)・・・・
八月二十五日の宵の間に、えい声を出して、先立人を待調へさせ筒の火を見せて、さがる勢を進ませて、城の後なる自深山匐々忍寄て、薄・苅萱・篠竹なんどを切て、鎧のさね頭・冑の鉢付の板にひしと差て、探竿影草に身を隠し、鼓が崎の切岸の下、岩尾の陰にぞ臥たりける。
かるも掻たる臥猪、朽木のうつぼなる荒熊共、人影に驚て、城の前なる篠原を、二三十つれてぞ落たりける。城中の兵共始は夜討の入よと心得て、櫓々に兵共弦音して、抛続松屏より外へ投出々々、静返て見けるが、「夜討にては無て後ろの山より熊の落て通りけるぞ、止よ殿原。」と呼はりければ、我先に射て取らんと、弓押張靭掻著々々、三百余騎の兵共、落行熊の迹を追て、遥なる麓へ下ければ、城に残る兵纔に五十余人に成にけり。
夜は既に明ぬ。木戸は皆開たり。なじかは少しも可議擬、二十七人の者共、打物の鞘を迦して打入。城の本人佐和善四郎並郎等三人、腹巻取て肩に投懸、城戸口に下合て、一足も不引戦けるが、善四郎膝口切れて犬居に伏せば、郎等三人前に立塞ぎ暫し支て討死す。
其間に善四郎は己が役所に走入、火を懸て腹掻切て死にけり。其外四十余人有ける者共は、一防も不防青杉の城へ落て行。
熊狩しつる兵共は熊をも不追迹へも不帰、散々に成てぞ落行ける。
憑切たる鼓崎の城を被落のみならず、善四郎忽討れにければ、残二の城も皆一日有て落にけり。兵、伏野飛雁乱行と云、兵書の詞を知ましかば、熊故に城をば落されじと、世の嘲に成にけり。
・・・・(略)・・・・
七月二十七日の暮れ頃に江の川に臨み、遠く敵陣を見渡すと、これが例の佐和の善四郎(佐和顕連)が立て籠もっている城だと思われて、青杉、丸屋、鼓が崎といって四、五百mずつ離れた三つの城が三壺の山のようにそびえ立って麓に大河が流れている。
城から降りて向かって来た敵三百余騎が川の向こうに構えて、ここを渡って来いと招いている。
寄せ手二万余騎が皆川端に向かって、どこを渡ったものかと見ると、深山の雲を分けて流れ出た川なので、大木が影を映して大きな山も動くようで、岩を巡って水が流れ、雪のように白くしぶきを上げている。
「勝手も分からない急流を、はやる気持ちのままに渡して水に溺れて死んだのでは、勇ましくても何の益もない。
夜になったら泳ぎの達者な者を大勢集めて、浅瀬をよくよく調べさせて後、明日渡ろう」と相談して、馬を留めていたところに、森小太郎、高橋九郎左衛門が三百余騎で進んでいたが、それらが、
「足利又太郎が治承の戦いで宇治川を渡り、柴田橘六が承久の戦いで供御の瀬を渡った時も、誰が瀬踏みをさせましたでしょうか。
思うに、ここが浅瀬であるからこそ、渡るところを防ごうと敵は向かいに備えているのでしょう。
この川の案内者として私以上の者はないでしょう。続かれよ、方々」
と言って、ただ二騎で真っ先に進んで渡ったので、二人の郎等三百余騎と三吉の一族二百余騎が一斉にざっと馬を入れて、弓の上下を取り合って馬で流れをせき止めて、向かいの岸へ駈け上がった。
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八月二十五日の夕刻に、掛け声をかけながら先頭に立つ者を待って列を作らせ、篝火を見せて後ろの者を進めて、城の後ろの深い山から這いながら忍び寄って、薄、刈萱、篠竹などを切って鎧の上の辺りや兜の錣にびっしりと差して草で身を隠し、鼓崎の絶壁の下や岩の陰に身を伏せた。
枯れ草に寝ていた猪や朽ち木のうろにいる熊どもが人影に驚き城の前の篠原を二、三十頭連れだって逃げて行った。
城中の兵達は、初めは夜討ちが入ると用心して櫓毎に兵達が弦音を立て、投げ松明を塀から外へ投げ出して息を潜めていたようだったが、
「夜討ちではなく、後ろの山から熊が逃げて通るぞ。仕留めよ、方々」と大声をかけると、我先に射て取ろうと弓の弦を張り、次々にうつぼを背負って三百余騎の兵達が逃げて行く熊の後を追って遠く麓へ下って行ったので、城に残る兵はわずかに五十余人になってしまった。
夜は明けて、城門は開いている。
どうして少しもためらおうか、二十七人(*)の者たちは太刀の鞘を払って討って入る。
城の主佐和善四郎と郎等三人が鎧を取って肩に引っかけ城門に降りて迎え討ち一歩も引かずに戦ったが、善四郎は膝口を斬られて座り込んだので、郎等三人が前に立ち塞がってしばらく防戦して討ち死にした。
その間に善四郎は自分の番所に走りこんで、火を懸け腹を切って死んだのだった。
その他四十余人いた者たちは、一戦も交えないで青杉の城に逃げて行く。熊狩りをしていた兵達は、熊も追わず後ろへも帰らず、ちりぢりになって逃げて行った。
頼り切っていた鼓崎の城を落とされただけでなく、善四郎が早々に戦没したので、残りの二つの城も皆一日の内に落ちてしまった。
「兵が野に伏せっている時は、空を飛ぶ雁が列を乱す」という兵法書の言葉を知っていたなら、熊のために城を落とされはしないものをと、世の笑いものとなったのだった。
(*)二十七人(夜討ちするため、六千余騎の中から特に優れた剛の者として選ばれた、次の者)
足立五郎左衛門、息子又五郎、杉田弾正左衛門尉、後藤左衛門蔵人種則、同じく兵庫允泰則、熊井五郎左衛門尉政成、山口新左衛門、城所藤吾、村上新三郎、同じく弥二郎、神田八郎、奴可源五、小原平四郎、織田小次郎、井上源四郎、瓜生源左衛門、富田孫四郎、大庭孫三郎、山田又次郎、甕次郎左衛門、那珂彦五郎
北朝軍はまず森小太郎・高橋九郎左衛門の三百余騎が先陣を試みたが成功しなかった。
しばらく、守る佐波方が有利な状況が続いた。
このため、佐波の方は徐々に油断が生じていた。
このような時、8月25日の夜、北朝方が選抜した27人が佐波方の虚を衝いて鼓が崎城を襲撃しようとした。
忍び寄る北朝の27人に驚き、枯れ草や木の洞に寝ていた猪や熊が慌てて逃げ出した。
この、猪や熊は、佐波方の陣地を横切るか、周辺を走り回ったのであろう。
走り回る猪や熊を見た佐波方の兵はこれを討ち取ろうと後を追って、山麓に下っていった。
そのため、城内の兵は50人前後になってしまった。
この隙きを狙われて城内は壊滅したという。
「兵、伏野飛雁乱行と云」という兵法書の言葉を知っていたなら、熊のために城を落とされはしないものをと、揶揄されたという。
果たしてこの事が事実かどうか不明だが、似たようなことがあったかもしれない。
佐波顕連は自害し、鼓が崎城が陥落すると、他の二城も続いて落ち、青葉城攻防戦は終った。
佐波顕連は自害したが、嫡男の実連は生き残っている。
佐波一族を降伏させると師泰は軍勢を二分し、一つは江川峡谷を下らせ、もう一つは師泰自身が率いて安濃・邇摩の海岸沿いに西進した。
最終的に目指すのは那賀郡の三隅兼連が拠る三隅城であった。
<続く>