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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−35(甘南備寺第二世住職智賢)

13. 甘南備寺第二世住職智賢

甘南備寺歴代の歴住の記録は次のとおりである。
  開山  行基菩薩    天平21年2月2日寂
  二世  中興智賢   (記載なし)
  三世  第二中興興賢  康永元年( )月十日寂
  四世  賢円      須弥担、秘仏修理 延文四年十二月十一日寂
  五世  行円賢賀    応永二十年九月十二日寂
  六世  勝尊      行円の資(資:弟子の意味 師資相承:師から弟子へ伝えていくこと)
  七世  慶尊      永享七年二月五日寂
  八世  宥賢      権少僧都 文安四年五月四日寂
  九世  乗慶      文明十年八月二十七日寂
  十世  宥海      天文四年四月一日寂
  十一世 宥桓晃意    小笠原十三代長隆三男、天文二十二年七月十六日寂
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現在第四十世である。


第二世智賢の没年はわからないが、寺伝にて次のように伝わっている。

二世智賢によって宗風大いに振い、胎蔵寺、阿闍院、宝積院、実相院、妙楽院、玉生院等の末寺を擁して修禅観法の道場として遠近に聞き、山麓の渡りの市は当山のため、千軒を数えるに至っていた。

この業績によって中興と冠したものと思われる。

しかし、甘南備寺伝では第二世智賢の代で大いに興隆した、と云っているが、具体的に何をしたのかについては何も触れていない。それどころかその年代も不明である。
ただ、この栄えていた渡村は萬寿3年(1026年)の益田沖地震による津波と江川の大洪水によってすっかり洗い流されたとの伝承がある。
この伝承から、第二世智賢は萬寿3年以前の人であることが推察される。

一方、次の第三世の興賢には第二中興と冠されており、興賢の没年は南北朝時代の康永元年(1342年)と記載されている。

つまり、平安時代中期から鎌倉時代を過ぎて南北朝までのおよそ310年間以上住職が不在だったことを示している。

そのことはさておいて、第二世住職智賢の代での興隆と、それを一瞬にして無きものにした万寿大地震・津波について思い巡らすことにする。

 

13.1. 智賢現われる

智賢が渡村(今の坂本)に現れたのは長和3年(1015年)3月の頃であった。

甘南備寺が真言宗に改宗してから195年経っていた。

甘南備寺に在籍する僧侶が数人いたが、彼らは甘南備寺を拠点にして、江の川沿いの村落を回って、布教のかたわら、村人達の生活を助ける社会事業を行っており、寺にいることはめったに無かった。
甘南備寺は麓の村人が定期的に参拝するだけで閑散としていた。

智賢は修行僧であった。京都から各地を巡ってこの地にきた。
智賢は麓から甘南備寺山を見上げた。
山には桜の木が点在して咲いており、春の陽気を盛り上げていた。
山の中腹に見える甘南備寺を暫く眺めていたが、何か決心したようだった。
智賢は登山口を見つけるとのぼっていった。

甘南備寺につくと、本堂に向かって行った。
本堂では村人が数人読経をしていた。
智賢は邪魔をしないように静かに中に入って行ったが、村人は智賢に気がついて読経を止めた。
智賢は申し訳無さそうに「邪魔をして申し訳ない。気にせずに続けて下さい」と言った。
「見かけないお方ですが、どちら様でしょうか?」と村人の一人が尋ねた。
「これは、失礼しました。拙僧は智賢と申すもので、京都の醍醐寺で出家し修行していましたが、2年前全国行脚に旅立ちました。
山陽道から吉備の国の三次を経て、ここ渡に来ました。この寺は、空海上人さまの開かれた真言宗に改宗した後、布教のかたわら地域領民の様々な困難や苦労を一緒になって解決していっているとお聞きしました。
私もここの寺で暫く修行をしながら、皆さんの相談にのったり、私が都で学んだ色々な知識や技術を役立てたいと思っています」
智賢の声は柔らかく風の音のように耳に入ってきた。
智賢の口からは、言葉が音楽のように流れ出てくるのを感じた。

智賢はさらに京都や他国での世情を面白おかしく村人に話して聞かせた。
村人にとって、初めて聞く話ばかりで驚き、感心しながら聞いた。

村人は、この僧侶の知識や経験に感心したが、智賢の言葉の端々に智賢が持っている理想や信念が窺いしれ、こいつは大した奴だと思うようになった。
そして、ぜひともここ甘南備寺に居着いて指導して欲しいと要請した。

13.2. 仏師 定朝

智賢は村人達の懇請を受け甘南備寺に留まることとした。

智賢は甘南備寺の興隆・発展のために色々な方策を考え実行した。
甘南備寺のご本尊は行基作と云われているが、この開山以来のご本尊を変えようとしたのもそのうちの一つである。

その頃、京都で定朝と云う仏師が人気になりかけていた。
定朝の仏像は全てを柔らかな曲線と曲面でまとめ、彫りが浅くそれまでの一木造特有の重みや物質感を廃した柔和で優美な造形が特徴である。
また定朝は寄木造や内刳りという新しい技法を組み合わせて独自の作風を切り開いた仏師である。
治安3年(1023年)仏師として初めて法橋となっている。

智賢はこの仏師に目を着けた。この仏師は将来有名な仏師になるに違いない。
この仏師が彫った仏像は教徒に畏怖の念と尊崇を得るに違いない、と思った。

智賢は甘南備寺のご本尊を変えようと思ったのである。
早速、京の知り合いに書状を送り、虚空蔵菩薩像を彫ってもらうよう定朝に依頼してもらった。

この計画は上手くいった。2年後の治安3年(1023年)に仏像が送られてきた。
噂を聞いて、人々が集まってきた。
信徒は遠くの地域にも及び、その数は増える一方であった。


しかし、この仏像が定朝が自分で彫ったものか、弟子に彫らせたものか判断するものはない。
当時定朝には沢山の弟子がおり、彼らの作品も多々あるからである。
現在、確実に定朝の作品であるとされているものは、平等院本尊の「木造阿弥陀如来坐像」だけである。

 

13.3. 渡千軒

これまで本尊としていた、行基作と云われている虚空蔵菩薩像は、江の川上流の鹿賀に胎蔵寺という末寺を建ててそこの本尊とした。
智賢は他にも、田津に阿闍院、大貫に宝積院、甘南備寺山の西の麓に妙楽院、渡に実相院を建て修禅観法の道場とした。

甘南備寺の麓の渡では、このように人の往来も増え、またそれに伴う物資の移動も盛んになって、市も開かれるようになり人口も膨れ上がった。

当時、渡千軒と言ってその繁栄を評している。

千軒とは沢山という表現で、根拠はないが実際はその三分の一から四分の一程度ではなかったかと思う。
仮に四分の一としても〜250〜軒もあり、その頃の山間の村としては、かなり賑わっていたのは確かであろう。

年に一度、7月12、13日に行われる法会には、ご本尊の虚空蔵菩薩から知恵を授からんとするもの、福徳を得ようとする商人等が各地から参詣に訪れ、渡千軒の一年の生計を支えたと伝えられている。

現在坂本川が江の川と合流する点の山側に甘南備寺山の登り口がある。
この辺の土地を仁王門と呼んでいるが、これは甘南備寺の仁王様を祀った山門がこの辺りにあったからである。
仁王門から山腹の台地に至る通称八丁の間は至るところに大小の堂塔が点在し、中腹の台地には壮大な本堂が建立されていたという。

山頂の甘南備神社にも沢山の参拝者が訪れるようになり、渡村の有力者が麓に立派な鳥居を建立したのもこの頃である。 

余談では有るが
時代が下がって元亀年間(1579年頃)に大火にあって、堂塔、古文書、古什器、財宝棟の殆どが焼失するという事件が起きたと云われている。
しかし、それから200年後の安永3年(1774年)に香川景隆と江村景憲によって著された「石見名所方角図解」のなかの「渡里山」の絵を見ると、山麓から山腹にかけて点在する甘南備寺の堂塔伽藍が美しい彩色で描かれており、復興していることが分かる。
殆ど焼失したものと書いたが、かろうじて残ったものもあり、それは後述する。

 

<続く>

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