62.戦国の石見−5(続き−4)
62.4.毛利銀山を奪還する
石見銀山を手に入れた尼子晴久は、信頼できて、しかも豪勇の本城常光 (高櫓城主)を山吹城の城将に任じて広瀬の富田城へ引き揚げた。
毛利元就は、銀山を失ったことで、財政の大打撃になったばかりでなく、このままでは心を寄せている石見の武将の信頼を失う恐れもあることから、銀山奪還を計画した。
永禄2年(1559年)8月温湯城を陥落させ、城主の小笠原長雄を甘南備時に閉居させると、翌年の永禄3年毛利元就は山吹上の奪還を目指した。
7月6日、安芸、備後、石見の軍勢一万四千余りで銀山に軍を進めた。
この毛利軍に小笠原長雄も参陣している。
これは、吉川元春の進言によるものといわれている。
小笠原長雄は天文11年(1542年)に父長徳の下で銀山を攻略し山吹城に入城している。
吉川元春は、この小笠原長雄の経験を活かそうと元就に進言し、元就は下春の意見を認めたのである。
毛利軍は、山吹城の状況を良く知っている小笠原軍を先鋒として山吹城に迫った。
元就は山吹城の向い城の石銀山城に本陣を置き、吉川元春は山吹城の中央山麓の鍋ヶ城砦、小早川隆景は降露坂と峰続きの鳩坂、小笠原長雄は大国側(仁摩町)の草ヶ城砦の三方面から山吹城を攻撃した。
吉川元春の武将・溝挟春信は鉄砲隊に鉄砲を乱射させ、そのすき間を狙って山県春勝らが城の真下から攻撃をかけると、小早川や小笠原の軍もこれに呼応した。
城内からも弓、鉄砲で応戦し、鉄砲のとどろきと兵たちの叫びは銀山の七谷をゆるがした。
息をつかせず山吹城を猛襲すること三日間、最初の予想通り、城は難攻不落だった。
そのころ、北九州では豊後の大友義鎮が、 尼子晴久と連携を深めており、元就には本拠地を襲われる心配があった。
元就は軍議を開き、元春軍のみここに留置、外の軍は一旦退陣するという作戦にした。
この毛利元就が退陣する時に危うい場面があったと伝わっている。
62.4.1.降露坂の戦い
7月10日寅の刻(午前4時)、ひそかに全軍の撤退を始めた。
降露坂をたどる敵影を見た本城常光の二男・大蔵左衛門は、兵五百人余りとともに矢を射かけ、やりの穂をそろえと追いすがった。
そのころの降露坂は、祖式(大田市)へ通じる矢滝道と西田(温泉津)へ出る大江道の二つがあった。
退却で浮き足立っている毛利軍は、地形に明るい城兵に次々に討たれ、全軍が混乱した。
思惑と違う敗戦に、元就自身の身辺も危うくなった。
この時、側近の渡辺太郎左衛門通は、元就の身代わりとなって敵を大江道に誘い、 元就を矢滝道に追いたてて自分は同しく側近の六人の従者とともに戦死した。
大田市温泉津町小浜と同町福光の間に七騎坂と云う峠があり、ここで七人の武士が戦死したと伝わっている。降露坂から七騎坂まで、およそ16Km余りある。
<説明文>
七騎坂
永禄2年(1559) 出雲の尼子晴久に奪われた石見銀山を取り戻すため、毛利元就は、1万4千騎を率いて銀山と向かいあわせにそびえ立つ山吹城を攻めました。
山吹城を守っていた本城越中守経光の激しい抵抗に遭い、毛利軍の撤退を余儀なくされました。
本城軍の追撃中、降露坂(祖式城に通ずる矢滝道と温泉津町湯里に通ずる大江道との分岐点)で元就の側近にいた渡辺太郎左衛門通は、元就の兜を受け取り、その幟を押し立て、他の同士6人と共に大江道をたどって本城軍を誘導しました。
渡辺太郎左衛門通は、湯里の西田に出て山をさらにひとつ越して、温泉津町小浜の七騎坂で「自分が元就だ」と叫んで同士と共に壮烈な死をとげました。
7人の武士の討死した場所は、現在は七騎坂といい、その下をJR山陰本線が走り、七騎坂トンネルといいます。
九死に一生を得た元就は、祖式城(城主・祖式賢兼)にたどりつき、四、五日滞在して安芸へ帰還した。
祖式氏が自分の祖先の略歴を記述したものが「萩藩閥閲録」に収録されており、その中にこの退陣時のことに触れた部分があるという。
しかし、この降露坂の戦いについては触れていない。
永禄二年七月、本城越中守の楯籠り候石州山吹の城御攻めさせなされ候処、城持ち堪え候故、御巻解きなされ御退陣の節祖式まで御打入り遊ばされ、友兼居城に五六日御逗留遊ばされ候、 その節無二の御馳走仕りし由につき、御書なされたる由に御座候、祖式と申す所は銀山方角につきその押しとして他国御陣に多くは召連れられず、尼子家御手当のうちとして在所に置かせられ候ように申伝え候
62.4.2.山吹城攻略
毛利元就の伝記には、元就を評して、「謀略の限りを尽くし中国の覇王となった」といった言葉が使われている。
銀山山吹城の攻略にも元就はこの奥の手を使った。
山吹城は、まともに攻めてはとても落とせぬ、と思案した元就は、山吹城の城主、本城常光の弟で、周防山口の法泉寺にいる「松かわ」という僧侶を呼び言った。
「常光という武将の戦いぶりは、敵ながら見事なものだった。
たとえ、あの戦いで勝っても殺すには惜しい名将な ので、私は退陣した」
と、口をきわめて褒めたのである。
松かわは、間もなく山吹城を訪ね、 元就のこの言葉を伝えた。
悪い気のしない常光は単純に、
「名将に褒められ、敵とはいえうれしい」
と語ったという。
この反応を見て元就は、元春を使って、「銀山のほか、出雲の原手地方 (大原郡の下神原地区) を与える」という好条件を出し、投降を勧めた。
元就はことの漏れることを用心して、 出雲と石見の国境(現在の出雲市と大田市の境) の番衆、 古志重信にまで手を伸ばして、買収している。
このころ尼子の情勢は、永禄3年(1560年)12月24日、47歳で晴久が急死し、 義久があとを継いで不安定だった。
元就の甘言は、うまいタイミングで常光の心を揺さぶった。
尼子の行方が心もとないと考えた常光は、軽はずみにも元就の言葉にのり、常光の代理人の服部若狭守、井戸二郎左衛門と、元春の部将、粟屋元俊、山県康政が邑智郡川本で会見する。
ついに永禄5年6月山吹城開城の取り決めが成立した。
本城常光の投降に倣い、 波根・旭山城 (大田市)の波根泰次も投降したが、鰐走城 (同)の牛尾久清と、温泉城の湯惟宗は、本国の出雲に引き上げた。
この年の11月5日寅の下刻(午前四時すぎ)、出雲へ進撃の毛利軍の一翼として大原郡加茂町大西で陣を張っていた本城常光に、突然、吉川元春の手勢千人が忍び寄り、本城の一族、家臣千三百余人がことごとく殺された。
毛利家文書は、
久利左馬助が。節切と呼ぶ縦笛を涉調に吹き鳴らすのを合図に、一斉に常光の本陣に殺到した
と、戦国の合戦の哀歓を描いている。
元就には、簡単に甘言にのる人物は、いつまた裏切るか分からな いという心情が働いたというが、恐ろしい武将である。
大原郡では今も、この事件を大西原の戦争を呼んでいる。
元就は、宿願の銀山を手に入れてご機嫌だった。
安芸国の彫刻師に自分の座像を彫らせ、わが分身が銀山を見守っているぞ、と仙の山の方向に向け、山吹城内に木像を据えた。
この木像は立纓冠(りゅうえいのかんむり)に直垂をつけていた。
この姿は、元就の献銀で即位の式典を挙げることができたことを喜ばれた正親町天皇が、非公式に立纓冠の着用を許されたのを彫刻にしたのではないかといわれている。
元就は愛用の短刀で自分の木像の両目を刺す入魂の儀式もしており、元就の銀山に対する思い入れの深さを示している。
なお、この木像は元亀2年(1571年)6月になって、毛利輝元が山吹城のふもとに建立した洞春山・長安寺に祭られたが、天和2年(1682年)、毛利家に取り上げられた。
同寺の再三の願いで元禄4年(1691年)、毛利家は、原像を模した新像を京都に注文し、長安寺に納まった。
明治3年(1870年)5月、 長安寺が新たに豊栄神社として生まれ変わると、元禄の木像はご神体として長安寺から移された。
豊栄(とよさか)神社
石見銀山は大永6年(1527年)仙ノ山の中腹で地下の銀を掘り出してから、銀山の争奪戦が繰り返され、大内氏、尼子氏、小笠原氏、毛利氏などが支配していた。
徳川時代には銀山を幕府の直轄領とした。
徳川氏が引き継ぐ前の石見銀山は毛利氏の所領だった。
この毛利氏の当主であった毛利元就(1497~1571年)は、永禄4年(1561年)に銀山を手中に収めたことを示すために、銀山川近くの傾斜地に質素な寺院(長安寺)を建て、寺院の本堂内に自分自身の木製の像も設置した。
この元就の聖域は、戦争が再び石見銀山を襲うまで、徳川支配の何世紀もの間ほとんど目立たない存在だった。
第2次長州戦争が起こり、長州藩の隊士達が石見に侵入し長安寺に毛利元就の木像が神像として祀られていた事をしり、非情に驚くとともに歓喜したという。
戦争に勝利した長州藩士は、同じ場所に新しい聖域を建設した。
その後明治3年5月の浜田県の誕生から豊栄神社と変わった。
「豊栄神社」の名称は、慶応2年(1866年)2月3日に元就を祀る神社に「豊栄神社」と神号を贈ったことから、その名称となったのである。
この豊栄神社は、昭和18年(1943年)の地滑りに一部が巻き込まれ損傷を受けたが、華麗な門と独特な本殿は今でも残っている。
だが当初の利元就像は残念ながらもう存在しない。
<豊栄神社>
<門の両側に弓を持った兵士がいた>
<最奥の建物 鍵がかかっており内部は見えない>
豊栄神社は、石見銀山が世界遺産に登録された10周年後の平成29年(2017年)に改修されている。
<以前の神社には入り口に鳥居があった>
(google map 2012年)
(島根観光ナビより 2016年)
西本寺の山門
西本の山門はもともと山吹城の追手門だったそうである。
慶長6年(1601年)頃、山吹城が廃城となると、龍昌寺の山門として移設されたとのことである。
しかしその龍昌寺も昭和36年(1961年)に廃寺となり、西本寺の山門として、再び移設されたということである。
<西本寺山門>
<山門説明板>
<西本寺>
<続く>