63.戦国の石見(続き)
63.6.松山城攻め
63.6.1.松山城
城は、江津市松川町市村の山頂に築かれていた。
<「石見の城館跡」より>
築城年代は定かではないが鎌倉時代末期に川上房隆によって築かれたと云われる。
川上(かわのぼり)氏は弘安の役の後、宇都宮宗綱(中原宗綱)の次男中原宗秀の後裔中原房隆が近江国より地頭として下向し、川上氏を名乗ったことに始まるという。
南北朝時代に川上氏は南朝方となり、度々北朝方の攻撃を受けている。
観応元年・正平5年(1350年)高師泰の攻撃によって落城する。
当主の川上五郎左衛門は同族の都野氏を頼って落ちた。
翌正平6年(1351年)には信濃国西那荘より佐々木兄弟が地頭として入部し、兄佐々木祐直は川上の地頭として松山城に入り河上氏を称し、弟佐々木行連が今井城・佐賀里松城に入り都治氏を称した。
天文年間(1532年〜1555年)に河上氏は本明城主福屋隆兼の攻撃を受けて落城、福屋隆任(隆兼の子)が城主となった。
永禄5年(1562年)、福屋隆任が籠もる松山城を毛利が攻める。
永祿5年の正月前後、福屋隆兼は、幼少の義久を擁して尼子家存続に苦悩していた尼子の老臣らへ、同盟して元就勢力に対抗するよう極力働きかけていた。
しかし、尼子の老臣らは毛利との和談に一縷の望みをかけ、元就を刺激 しないようにつとめていた際なので、隆兼の申入れを承諾しなかった。
それどころか元就に降伏すべきことを勧めた。
尼子・毛利和談の交渉の中に、尼子が福屋を支援しないことがわかった元就にとっては、温泉城(温泉津町湯里)の湯氏・高櫓城(出雲市佐田町)の本庄氏・牛尾城(雲南市大東町)の牛尾氏らだけを警戒すれば、安心して福屋討伐ができるという確信を得て、永祿年春の雪解けとともに軍の行動を起すこととなった。
元就の作戦は本城経光らの支援を切断して、福屋隆兼を孤立させて全滅させるために、まず河上の松山城攻略から手を着けた。
2月2日、元就は三原(邑智郡川本町)に着き、隆元・元春・隆景以下宍戸隆家・熊谷信直らの主力軍を率い、4日、福屋隆任(隆兼に子)・神村長氏らの拠る松山城攻撃の態勢を整え、6日、猛攻を開始した。
松山城の葉城にあたる川上櫃城攻撃に川戸鳴石城主井下新兵衛春信が一番乗りの戦功をたてた、と云われている。
鳴石城:江津市桜江町川戸にあった城。江の川と八戸川に挟まれた川戸の東側の山に築かれていた。
太詔刀命神社
鳴石城跡の麓には太詔刀命(ふとのりとのみこと)神社がある。
この太詔刀命神社は、井下春信の父晴種が天正10年(1582年)(松山城攻めの20年後、また織田信長が明智光秀に討たれた年)に造営した、とある。
この神社が「水難事故防止祈願」のために現在も毎年開催している「水神祭」は約500年続くと云うから、神社が造営された頃から行われていたものと思われる。
しかし今、この水神祭も船体の老朽化と船頭を務める氏子の高齢化が重なり、河原からみこしを乗船させ、大岩まで川をさかのぼる神事は2019年を最後に行っていない。
関係者は「形が変わったとしても水難事故防止を祈る伝統として後世に伝えたい」と話している。
<川戸 太詔刀命神社>
<水神祭>
櫃城を屠ると松山城は間もなく陥落し、城主隆任は戦死する結果となった
毛利は、わずか一日で落城させ、隆任・長氏の首級を獲った。
毛利軍もこの頃から数は少ないが、鉄砲の使用し始めており、その轟音による心理的効果により、有利に戦いを進めている。
毛利元就は松山城を落とすと、福屋隆任の首級を父隆兼に送り元就の強い戦意を示した。
そして、翌2月7日、元就は隆兼の本城乙明攻略に向かうのである。
63.6.2.福屋勢の芸州新庄、日の山城攻め
この松山城合戦の前に、福屋隆兼は元春の主力軍が石見に出動している隙に乗じ、 福屋太郎・福光秀久ら約一千の兵をもって、市木(邑智郡邑南町)側より三坂峠を越えて、吉川元春の本拠地安芸新庄(山県郡北広島町)を襲撃させている。
しかし、日ノ山の留将森脇和泉守等のため大塚(山県郡北広島町)において大敗する。
なをかつ、逃げる福屋勢を追って市木に入り桜尾城を攻略してしまった。
そして、この成果を十津川佐渡守勝正が、松山城を攻撃する毛利の陣へ報告すると元就は大いに喜んだ。
こうして、隆兼の元春軍後方撹乱策は大失敗に終わっている。
63.6.3.隠匿太平記
陰徳太平記 第33巻 石州川上松山城落城事
永禄3年2月2日、河上りの松山の城攻めらるべしとて、元就朝臣父子四人、大江へ陣を易(か)へ給い、熊谷伊豆守信直は、井の下の渡りを越えて、十合に陣を取りけり。
同5日元就朝臣父子四人、松山の尾上、堂床という山へ陣を寄せらる。
これは元就兼ねて隆兼が未来は敵になるべき事を察し、その後に至って松山を攻められば、この山に陣を据えるべしと思いし給い、忍びてこの山を見せ絵図に写させていながら、険難平坦を鑑み給いし故、今度この地に陣を据え給いけるとかや。
同6日城中の様体を伺い見て後、城乗すべき間、先ず鬨を作り候へと下知さられければ、総軍一万余騎鬨を作ること三度なり。
城中すはや敵の駆るはと云うほどこそあれ。
上下色めき渡りけるを見て、元就朝臣指揮を執りて大音揚げ、はや掛かれ下知し給へば、諸卒我先にと攻め上がり、一番に櫃の城と云う、砦へ乗り入りたるを、城中にもここを先度と防ぎけれども、叶うべきようもなかりけり。
この頃降人に出たりつる井下親兵衛諸人に先立って乗り入、敵一人討ち取って、吉川が手の者井下親兵衛、当城一番頸とぞ名乗りける。
熊谷は手の者、末田勘解由直光も押し続いて敵を打って差し上げたり。
これを初めとして吉川、熊谷両手の者、先陣に進んで切り入ける間、櫃の城は落ちにけり。
諸手の者遅れ馳せに来て城に乗りけれども、敵或いは打たれ、又は松山へと逃げ入りければ、宝の山に入りながら手を空しくしたる様にていたる所に、備後国の住人三吉式部少輔廣隆、櫃の城にて手に合わざる事を無念に思い、松山の尾上へ押上、曳や、曳やと声を揚げて一番に攻め近づきけるを見て、総軍、三吉に先なせられそとて、我先にと攻め上がる。
ここに芸州佐東の住人福島三郎左衛門光貞とて、数度の戦功に勇名を顕したる兵あり、日和ノ城攻められし時、赤痢を煩いて死生を分かざりける故、催促に応ぜざりけり。
然るを元就朝臣如何思い給ひけん。
福島殿は煩ひよなと、戲言の様に宣いつるを聞き伝えて、諸人口ずさみに福島殿は煩いよなと云いければ、福島扨は吾虚病を作りて戦の勝負を窺う也とぞ思い給うらん。
二心有るは臆病にも勝りて義人志士の恥づる所なり。
一人の手を以て万人口を掩い難ければ、此群疑晴らすべき様もなし。
所詮病平癒せば、石州へ越え戦死せんと思い究めて在りしが、今朝馳せ来たり。
物具いつもよりも華やかによろいなして、元就朝臣の面前へ出仕せしかば、元就病気は本復しつるやと宣いけるに、福島頓首して涙をはらはらと流して退出したりしを覧給いて福島は今日討死にすべき体に見えたり。
可惜(あたら)兵をと宣いけるが、果然として三吉が備えより六七町先立って、切岸に馳上り、芸州佐東の住人福島三郎左衛門光貞生年四十三、今日の先陣也とぞ名乗りたる。
城中に之を見て、あら不敵なの振舞や。唯一人先陣に進む事、熊谷、平山にも勇は猶優れリ、いかさま仔細の有りて、討ち死にせんと思い設けて来たりなるべし。
情けなく射殺すべきに非ず。
誰かある出でて勝負せよと云いければ、鷺ノ森太郎左衛門勝條(えだ)、同弥三郎勝重、平田権内元一等、打って出たり。
福島之を見ていで冥土の道連れにせんとて、鎗取直し太郎左衛門が草摺の外れしたたかに突く所を弥三郎太刀振りかざし隙間なく切って懸かりける間、福島鎗を捨てて太刀を抜かんとする所を、弥三郎左の高股を寸(ずん)と切たりけれども、福島少しも怯まず、三郎が内冑したたかに切たりけり。
是をみて平田権内鎗を以て思う様に突きたりければ、光貞二箇所の重手に弱る所を、平田引っ組んで頸を掻く隙に、福島手早き者なれば下より二刀こそ刺したりけれ。
去る程に寄せ手已に切岸へ付き、一度に乗り崩さんと空堀を打越打越攻め入りけるを、城中にも宗徒の兵一千五百計り立て籠もりしかば、攻め入れば、切り出し、切り出せば、攻め入り、火水に成って戦いけり。
元春の手より一番に大手の門を押し破って切入森脇采女正春時、一番に頸引っ提げて来たりければ、二番に境孫次郎経貫、当年十六歳、初陣に能き頸打って馳せ帰りけるが、後よりも続いて分捕りして来たりけるを見て頸一つは誰もとる、吾は今一つ取るべしとて、又城中へ走り入れ、究(くっきょう)の兵七八人打ちいづるところへ唯一人丁度行き会いたり。
敵の多勢なるにも少しも引かず渡し会い、散々に戦いけるが、胸板を突きぬかれ、遂にそこにて討たれにけり。
今田中務少輔経忠好き敵討ち取り、同家人山縣新兵衛、足立與一手を負いけり。
山縣四右衛門春方も主従敵と渡り合いて討ち取りぬ。
爰に小河内石見守と云う者あり、少年の時は出家していたりけるが、如何に思いけん、還俗して元春に仕官せり。
伯父小河内因幡守、出家落ちは僧気下しと云い、薬を服せざれば、武士には成りがたきなぞと欺きける間、よに口惜しく思い、今度初めて戦場に赴きけるが、もぎ付けの頸一つ提げ来たり。
先ず、伯父の因幡に尋ね逢うて、如何に因幡守殿是にては僧気下るべきにやと云いければ、因幡守頸一つなどにては、争(いか)でか下るべきと答える。
石見守大きに腹を立て、頸かしこに投げ捨てて、又敵の中へ走り入り、能き敵も哉と思う所に筋鉢の冑に緋縅の鎧着たる武士一人長刀持ちて出で来れり。
哀れ敵やと渡し合わせ太刀を以て散々に戦い、終に切り伏せ頸掻き切って鋒(きっさき)に貫き高く差し上げ因幡守殿是々御覧候へ、僧気下しの妙薬二服迄呑み候へば、元来の武士よりも勝り候ひなんと云いければ、因幡守も莞爾(にっこり)と笑いて、汝も昨日まで、法戦場にて殺活の剣を執りたり、妙手の遺風あり。
されば、陸州は張良軍に入るが如く、石霜は項羽兵を用ふるが如し、と云えり。
汝武勇なるも理かなとぞ戯れける。
小阪越中守経通も、敵と鎗合わせて突き合いけるが、後は互いに兵具投棄て引組、三十丈計り深谷へ顚落(ころび)ちけるを向こうの山上より元就朝臣覧(み)給いて、只今の組打ちこそ著しき働きなれ。
赤熊の冑は正しく小阪越中守と見たるは如何にと宣う所に頓(やが)て頸提げて参りたり。
熊谷兵庫助隆直も太刀にて戦い、敵を斬り伏せ、能き頸打って馳来る。
ここに、搦手の方より、芸州佐東の武士共香川左衛門尉光景、飯田越中守義武、山縣筑後守頼虎、遠藤左京亮景度(かげのり)、入江輿三兵衛、井上次郎左衛門、羽仁右衛太夫晴泰、山田左衛門大夫等、一手二成って門を押し破り敵を追い込み、広縁迄切って入りける所に、奥より敵兵七八十計り咄(どっ)と突いて出でければ、佐東の者共、切り立てられて、門の外迄こそ引きたりけれ。
その中に香川光景は深入りして戦ひしが、縁の上より突き落とされ、起き上がりて引くべき隙(ひま)の無かりしかば佯死(ようし:死んだふりをする)していたりけるを、敵取って押さえける折しも門外より飯田、山縣、入江の者共、面々に名乗りかけ取って返し切入ける間、是に力を得て光景岸破(がば)と起き上がり、当の敵の諸膝薙ぎてその侭(まま)頸をぞ取りたりける。
その外の者共も悉く分捕りせり。
吉田勢にも福原宗右衛門、渡邉甚右衛門、内藤六郎右門、桂善左衛門、三戸小三郎、井上木工助など分捕りす。
味方に福原十郎三郎討たれにけり。
宍戸手には江田木工充、市原四兵衛討ち死にす。
手負いは都(すべ)て員(かず)を知らず、諸口より乱れ入、爰(ここ)に攻め合せ、彼所(かしこ)追い詰め討つ程に、福屋次郎隆任、神村下野守、そのほか雲州よりの加勢共悉く討ち取り、以上頸数一千七十三とぞ聞こえし。
隆兼は枢機と頼みつる松山城を落とされば、只大口呀然(あぜん)と惘(あき)れてこそはいたりけれ。
陰徳太平記 第33巻 福屋勢芸州新庄江働之事
福屋隆兼は吉川元春宗徒の兵をば数を盡くして此表へ引具(一緒につれていく)せられて、彼の居城新庄日の山には台背鶴髪(たいはいかくはつ:背中にしみがあって白髪)の古老、禅門又は何某の法印、その寺の阿闍梨など云う者のみ残し置かれつらん。
これ幸いの隙なりとて、究竟(くっきょう)の突騎、福屋小次郎、福光太郎、中村道哲等、七八十人に一揆数百人相添えて新庄へ遣わしけり。
諸士打ち立って、暁天(明け方の空)に新庄へ馳せ著き、日の山城下へ押し寄せ、放火せんとする所を、城中より之を見て、森脇和泉守経和、境美作守経輝等を先きとして、此れ彼れ打って出で、散々に追いたてけり。
敵も取って返し二三度は戦いけれど、終に打ち負け退きけるを追いかけて、頸百五十計り討ち取り、十津川佐渡守勝正を使いとして、川上りの陣へ送り進(まいら)せければ、大いに感じ給いけり
<続く>